佐藤 美千代さん

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雄勝町のてなこ屋商店街(仮設商店街)の少し外れたところに、トレーラーハウスで八百屋さんを構える「八百清」の佐藤美千代さん。家族のお話や将来への希望についてたくさん話して下さいました。


お店の将来

この3月の12日にここに、このトレーラーハウスで商売して、そして、一日も早く高台になって、このトレーラーハウスを高台に持って行ってあのー、震災前のような店番がしたいのさ。というのは、ほらこういう生活慣れないんだ。朝に来て、夕方帰るって。そういう生活は今までしたことないちゃ。だから今までだと、お家とお店が一緒だから、お布団も干せたし、洗濯物もね、外に干せたし、そういうので夕方になっと夕飯作りながらお店番をするって。それがね、何十年も続いてたから、こういう生活、本当にこういてて、あ、今日は何をすっかなってこう考えるのが精一杯で何にも出来ないものね。


生かされた命
だから、私も震災で、叔父、叔母、それから従妹、近所のおばさん、あと義理のお姉さんとかって一杯亡くしたけっど、未だにあの上んない人もあるんだっちゃ。見つからない人も。だからね、自分がその時自分も、一応泳いだけれども、一応助かったから、何とかね、その、助かった命をもう少し、ね、みんなのためにねー。みんなだってさー亡くなった人はさ、もっともっとさーいろんなことをやりたいって思ってたと思うんだよ。で従妹の人は私と同級生だから年金の話なんかしたばっかりなのね。年金もらうか、早くもらうかーとか言ってね。そうしてる内に亡くなってしまって、、、とにかくね、「生かされた命だと思って」。
本当に3.11はさ、亡くなった人と生きた人が本当に紙一重で、本当に何メートルか先に車が走っていた人が亡くなったり、もうちょっと遅れた人が、すぐUターンして山の方に行ったりっていうような感じがあったから。


唯一の楽しみ
で今年はこのひな壇のそこの階段のとこで14人皆でとったの。それを撮って、あのー私が河北新報さ、7月から12月までのカレンダー、それに申し込んだから今写真ないんだ。で、毎年こう、私たち仮設で花見をしたりして、そういう何て言うのかな、みんな家族。自分たち二人っきりだったのがいつのこま14人になって、それが唯一の楽しみでねー。早く高台になって、その14人がみんなでさ座れるようなね、テーブル囲めたらいいなと思うし。今仮設さ行くと、14人なんか入らないからね。孫たちだんだん、だんだん大きくなってきて一回入ったの。ちょって、あと動かないでーとかって感じでとにかくね、狭いんだー


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佐藤 富寿子さん

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雄勝の羽坂に住む佐藤富寿子さんの家では、近所のお母さん方が集まるお茶会にお邪魔するかたちでインタビューをさせて頂きました。佐藤富寿子さんを初め、母の佐藤満子さん、近所に住む永沼千代子さんと佐藤元子さんのお話を通して、雄勝の昔の様子や震災後に雄勝に残る人々の声をきくことができました。


守るべきもの

いろいろだから小さな部落なんだけども、小ちゃな部落だからねやることが多いんだよね、あれもこれもってあるんだてば、都会にはないそういう流されないものがさ。さらって流されないものがあるから、以外とそれを維持しているのが、負担が大きいというか、残された人たちがね、大変なの。守っていくっつことが大変なことだったんだなっていうことは、私はずっとここにいていっつも思うことなの。
守ることは大変だって。お母様方に手伝ってもらって、はりきとうなんかもずっとやってきたけども、もうお正月の元旦からだよ。みんな家に来て泊まるでしょう、家に来て帰ってくるわけでしょう。もうゆっくりするどころか、次の日の準備しなきゃならないから、ここ全部外してだよ、全部外したまんま、さあ起きろ、4時になったら起きろ起きろって。もう前の日舞い上がって、飲んだ食った、わいわいやるでしょう。もう子供たちは起こされるや、うーん本当にね、そう思うと何十年もそういうのね、ここで皆お母様たちに手伝ってもらってね、やれたことだけど。本当にその時、ましてやうちお婿さんだから、全く持ってうちの事はわからないいんだ。だから大変な思いしたと思うんです。だから本当に守るということが大変だなって。


昔の雄勝・地域とのつながり
永沼千代子さん:(他の浜との交流)昔はあまりなかったね。婦人会っていうのが雄勝町にね、公民館であって婦人会のいろいろな行事とか・・・
佐藤富寿子さん:婦人会なんかったら人も多かったみたいよ。
永沼さん:でも戦争当時の婦人会がほら、兵隊さんにね。
佐藤さん:交流会と言えば、運動会ですよ。運動会が一番メインのもので、雄勝町体育大会という・・・それがね、部落根性というのかな、その部落の根性もすごいんだから。
永沼さん:部落が15浜あって、北上町が13浜あったの
佐藤さん:行事はね、イベントっていうのはまず雄勝祭りは最近の事であって、本当の交流というのはね、その会その会って婦人会とか老人会とか、そういう会があるでしょ。そういう時ぐらいであって・・・行事があれば参加するだけだよね。さっきも言ったけど運動会が一番のあれ出すところだな。あれは面白かったよ、最高。


震災後のつながり
でもやっぱり考えてみると、まとめてもあれだよね、昔やってきたことが続いてるということはいいことだよね。守らないといけないということも、もちろん大変なことだろうし、だけど、だからこそやっぱりまた協力性が出てきたっていうかさ、かっこいいこと、いい風に言えばね。カッコつければそういう事で、うーん皆が協力心が出てきたっていうかさ、今はみんな必ず出て協力してくれて、尚更この震災後には、お互い、隣近所気をつけながら、声かけながらやってるということは事実だと思いますよ。
あまり鑑賞しすぎることもあるけど、それで困る時もあるけど、悪く言えばそうなんだけども、良く言えばお互いの家族、家庭を見守るっていうかね。尚更ね、震災後にその気持ちがね、出てきたんだか、なんだか。


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阿部 利昭さん

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雄勝町熊沢会長の阿部さん。大工見習いとして大曲から、熊沢に越してきました。雄勝町に対する尾思いや震災を通して苦労していることについて、大工として、また浜の会長として、今感じていることについて話してくださりました。


https://www.youtube.com/watch?v=ggaWSp-hDg4

雄勝の未来と今
Q. 若い方たちを呼び戻すための活動などは行われていますか。
A. 今のところの、たぶん取り組んではいんだけども、今のところ前向きに取り組んでるとは言えないでねーべか。つーことはね、あの学校ができて初めて若い方を呼び戻すって言う、多分そのあとに計画がたつんでねーべか、と思うけども、ある程度までは、要するに漁師だから。漁業。養殖業。そういう人たちが、今帰ってきてるのね。単身赴任で来てるわけさ。だって奥さんと子供はどっかへ、例えばほら松の方さおいでおいで。おいおいはそういう人たちも帰ってくんだべけっども。あんまり便利よすぎたとこさ、生活慣れてしまうと、帰ってくる人たちが少なくなってしまうわけ。


https://www.youtube.com/watch?v=XL1HaDcKQ70 

行政の計画と現実
Q.雄勝商店街の建物は本当は建てては行けないということですか。
A.そうなの。そいつを許可してしまってやっているから。結局あの、商売をやっていて、許可は出したんだけれども、あれを建ててしまうとまた、撤去するたって金がかかるから。だからそういうことやっているから、行政が後手後手となってるわけ。
Q.雄勝商店街をもともと建てる計画をしたのも行政ですか?
A.建てるのは個人で建てるのね。そうなの。その申請した時は、例えばここは、9.5メートルの嵩上げなるよって、たぶん説明は言っている。だけれどもいつそうなるのかわからないのだから。生活がかかっているでしょ。それでたぶん許可出したと思う。あそこは危険地帯でほんとは建物は(建てては)ダメなんだ。


https://www.youtube.com/watch?v=b2ZZAjyC4rY&feature=youtu.be

大工として感じる時代の流れ
[現代ではハウスメーカーで家を建てる大工さんがほとんど、だがそのため大工さんと、家主の繋がりがなくなった。]
だから建つのも早いんだけど、手放すのも早いわけなんです。愛着が一切ないと、あきてしまって払うことができなくなると、もうすぐ手放す。そういう人たちが多くなっている。そいつを中古住宅として、販売してるしてる人たちもいる。せっかく建てたのに、俺はそんなことはしない、、(家主さんと)一体になって家建てるもんだから、愛着が湧く。


https://www.youtube.com/watch?v=rBOD3CLT-ms&feature=youtu.be

伝えたいこと
いいところだから。雄勝は。本当に風光明媚って、来て分かるっちゃ?住んではね、ほんと良いんだってば。ただ、あの、交通の便が悪いから、ただ今まで通りではないからね。もっともっと便利になる可能性はあっからさ。やっぱりみんなに帰ってきてもらいたいな、とは思います。だってこいつも高台で、今までよりも全部広く??なるからね。2メートルも。でもこっちまで直ってしまうから。今あのここは南三陸自然公園になってるために、行政ができねーくなってるわけさ。あの、解除になんねーと、だから震災だから。そういうのもほんとはなくしてね。できる限り住民の考えもねぇ、行政のほうで考えてくれればいいのにと。


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佐藤 きみ子さん

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雄勝町大須で生まれ育った佐藤さんはご主人と結婚した際に羽坂へ越してきました。避難所での生活について、婦人防火クラブの会長として12年も役を務めてきた思いについて、話してくださりました。


避難所での生活
Q. 避難所で、まとまりができたのはもともと浜で、みなさん力を合わせて生活していたからっていうことは関係ありますか。
A. ん、そんなことはなかった。うん、やっぱり自分のことでみんな…うん、自分は小さくなってね、足も延ばせないのに、なんであの人だけが足伸ばして寝てんだって思ったりね、やっぱり自分の個性が出てきたのよね、みんな。あの人はああいう人でなかったと思ったら、ああいう人だったのかなーって思ったりして、嫌な面、良い面いっぱい見ました。あれが本音なんだろうなーって思ってね。
Q. 何日くらいいらっしゃったんですか。
A. 私はあの、石巻にうちが二か所あったから、だからボランティアの方に、神戸のね、ボランティアの方に入ってやってもらってたから、最後までは、いれなかったのね。(中断)そうですね。うーん…やってきたのね。で私はね、なにもしないでみてるの。そうするとね、なんていうんだかね、あの、調子のいい人いるんだよね、やっぱり、ごはんの時とかそういう時はぱっとどっからか顔見せるんだけど、ほんでなにも自分はしないくせに、あれはこうしたほうがいいんだよ、こうした方がいいんだよ、って言ってるの。(中断)だから、こいつは、おかしいっちゃ。だから人の、私は仕事しないで、誰がどういうことしてるか見てるのね、でこういう目に余るようだから、で、30人態勢で、一回でみんなごはんの、あの、そういう炊き出ししたって、まとまんないから、これを3班に変えようと思ってるんだけども、どうしたらいいかね、って私が言ったのね。そしたら、できるわけねーとかでもなんとかなんの、って色々出たんだけども、やってみなきゃわかんないから、やってみて、だめだったら、また考えっぺ、って。一応この線でやってみたらどうだ、って、やってみましょ、ってそれが上手くいってね。やっぱり分担決めたから。10人なら10人つうとやっぱり1人でも少なくなれば、自分が人に迷惑かけるって意識をもつもんね、そうやってやって、そうすると2日休めるから、中二日休めるっちゃ、3班あれば、そうするとうちも後片付けもできるし、30人体制ってやっていつでも帰られないっちゃね、だからこれはうまくないなーって思って、やったらね、うまくいったんだよねーあれは嬉しかったね。うん。


周りの支え
でも震災したときは、ほんとにみなさん一生懸命ね、協力してくれたんだよね。私の方がかえって落ち込むような、わたし、あの、うちがなくなっても、家族がなくなっても、その方がね、「会長、わたしらが応援するんだからがんばっぺ」って。そういわれると、ああ、自分はしっかりしなくてはいけないんだなぁって。うん、みなさんに励まされてほんとにここまで来ました。だからいっぱいいっぱいこういうことしなければ、やっぱり、こういうこともわからなかったんだろうなーっと思ったりね、うん。これしたんだから、こういう勉強もできたんだなーとやっぱり教えられたこともいっぱいありますよね。


伝えたいこと
うーんそうだね。やっぱりこっちの雄勝の方知らない人もいっぱいいるだろうしね。やっぱりこういうのを通して知るっていうあれが力は大きいんですよね。さっきお話ししたみたいにりんかい、林間学校があるっていうこと知らない人もいっぱいいると思うのね。そういうものかねて広めてもらえれば私は嬉しいなと思って。今まで色んなことをしてきて、やってきたことが報われるかなって。


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加納 竜司さん

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雄勝町にある店子屋(仮設商店街)でお寿司屋さんを経営している加納竜司さん。長い修行を経て開店したお寿司屋さんは津波によって、流されてしまいました。雄勝町でお店続けようと思った理由や雄勝の現状などについてお話していただきました。


伝八寿司を続ける理由
あのね、まずはその、外にあるんだけど、うちの看板すか。伝八寿司って同級生に売ってもらった看板なんで木のね、それが流されてたんだけど、なんか見つかったっていうのがまず一つで、あとうち卵焼きに伝八って焼印をしてんだけど、それがほんと店の、流された店のところに、地面に刺さってたのね。あれ、これって。そういうのもあったし、包丁とかも残ってたし。んで、まぁ一番はあの、食べ物屋さんがね、誰もやらないって言うんすよ。他の。要はあの、みんな歳なんすよ、60過ぎる人たち…俺が飲食店で多分一番若かったんで、でみんななんか、いや俺は仮設店舗になんかはいらねー、今更やったって無駄だべ、とかみんな…でそれでまぁ、まぁ雄勝に残ってる人たちにも、雄勝食い物屋ねぇと大変なんだろうなっていう話もされてたから。もういっぱつ、じゃぁとりあえずで、最初はね、でとりあえずやってみっかって。そんだけ大変だって言うなら。まぁ最初の動機はそうだな、でやってみようって…まぁ俺もほら、家族いるから。食わせていかないといけないからね。無謀なチャレンジはできないっすよ。


雄勝町に残るか残らないか
あの雄勝に残ることに関しては、全然苦じゃないんですよ。まぁ自分が生まれ育った町なんで、全然もう、嫌だとかそういうのはないんです。ただ、うちの、なんていうんすか、家族がなんかまぁ、もう戻りたくねーっていうこともやっぱあるんすよ…うちの親とかは、その、一旦、今うちは俺ら雄勝にはいないんでね、河北町ってとこにいるんすけど、あの…その高台移転ってあるじゃないですか、そん時に、あんたら好きな方選んでいいよ、言ったんですよ、親に。雄勝に戻るのもいいし、こっちの河北町に残るのもいいし…そしたら迷わず河北町選んだから、なんでや、って言ったら、いや、もう今度あんな津波来たら逃げらんね、っていうのと、あともう病院もねーし、なにもねーし、大変、年寄には大変だと思う。


加納さんにとっての雄勝町
ああ、やっぱりねー。一番落ち着、落ち着くっていうのが一番かなぁ。でやっぱあの、やっぱり、昔っからいるし…で残ってる漁師さんとか結構残ってるし、別に雄勝いて、こう退屈するっていうことがそんなないすよね、うん。なんか普通にいる、みたいな。たのしい…楽しいわけじゃないですけど、まぁいて一番楽なところです。雄勝。その河北町とかにいるより、雄勝にいた方が楽だっていうことです。楽っていうか、気持ちが。まぁあんな津波とかもあったんだけど…一番いやすいところです。だから残ってるっていうところは、まぁそういう感じですか。


伝えたいこと
ぜひ、機会があったら雄勝にきてもらって、自分の目で見てもらって、まぁ雄勝のいいところとか、あ、こんなに復興とかがこんなに進んでないんだな、とかを見てもらって、まぁ…こうなんつったらいいんだろうね、言ってもらいたいつーかね。まぁ自分たちも言っていきますけど、外の人にもなんか知ってもらいっていうか、かな。


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阿部 善規さん

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雄勝町熊沢で現在暮らしている阿部善規さん。もともと浜の麓にあった家は流されてしまいました。漁業を通して感じてきたこと、自然と共存することに対して、震災を通して阿部さんが感じてきたことを話してくださりました。


震災に強い漁業
だから災害に、私が思うのは災害に強いって言ったら、もう少しね、この自然を利用したおんなじその手を加えるのも自然に利用、自然を利用したそのやり方をね。それをやればほら、結局は最初は経費かかっても後後はいいと思うんですよ。だからもうちょっと自然に近いやり方でね。最初は手を加えても、自然にその近いやりかた。


震災について
だからその、津波もねー、あの私の、私らはその津波っていうのはおじいさんが昭和8年の津波を経験して、こううるさかった人なんですよ。ものすごいあの津波に対して、あの神経質で、ずいぶんと自分の親が神経質じゃないかと思うくらい神経質でね、地震のあれはとにかく、もう逃げることだったんですよ。もう逃げる、逃げる。地震になったらとにかくみんな起こしてね、もうテレビつけて、自分で起きてきて、テレビつけて、もう玄関もなにもみな開けてね、もうなんていうか早い話、車もなにももう全部エンジンかけなさいで、逃げるそういうね、神経質な親だったんですよ。だから、津波、津波になった時もやっぱり逃げるっていうことはどこか頭にはあったんですけど、ほれで一番うちは下にあったから、とにかく津波に対して神経質だったし、私らはほら、こういう土地であるから、あればこそ、いくら津波来たって、1メーター逃げれば1メーターあがるっていうのは感じたから、それこそ津波そこまで来ても、もうそりゃ命とられるようなことはないんですよね。ただ、結局親の言うことには、結局津波は3回目あたりには、大きいの来るから、っていうから、波が引いていけば、引いて行っただけ大きいのが来るなって思うから。もう引いて行ったとこさは、もう行かないんですよ。だから3回目だから、1回目ここまできたら2回目多分それより多いんだろうって上で見てるわけですよ。そういうなんていうか今まで経験はしていないんだけど、そういう親からなにされたことが自分ではわかってて、結局はほら、思うんですよね。だからまぁあまりこの部落には被害っていうのはないんですよ。船はなんかは流されたけどもね。大抵は流されたけっども、あの、人間が流されたとか、死んでしまったとか、この浜にはないんですよ。みんなそういうことをあれしてるからね。


住めば都
ああ、やっぱりねー。一番落ち着、落ち着くっていうのが一番かなぁ。でやっぱあの、やっぱり、昔っからいるし…で残ってる漁師さんとか結構残ってるし、別に雄勝いて、こう退屈するっていうことがそんなないすよね、うん。なんか普通にいる、みたいな。たのしい…楽しいわけじゃないですけど、まぁいて一番楽なところです。雄勝。その河北町とかにいるより、雄勝にいた方が楽だっていうことです。楽っていうか、気持ちが。まぁあんな津波とかもあったんだけど…一番いやすいところです。だから残ってるっていうところは、まぁそういう感じですか。


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佐藤 一さん

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雄勝町では若い漁師さんで、震災後は仮設住宅から海に通っている佐藤一さん。漁師としての仕事や震災後の復興についてお話していただきました。


雄勝で続ける理由

生徒: もしその外に出て、新しい生活を始めるとしたらどういうことをしてたと思いますか?その新しい生活を、どうなるかなっていう
佐藤氏: そうだね、漁業を再開できるのかできないのか。で雄勝で漁業をするのか、ほかの土地に行って漁業するのか、またはまったく漁業関係ない仕事につくのかで考えて。やっぱ6割7割ぐらいは雄勝に戻って漁業なの。それが駄目なんだったらどうしようなかみたいな。でまあ他の仕事をしてっていうのもあったけど、もうなここまで40過ぎまでやっちゃうとなんかほかのこともね、そういう自分がイメージできないっていうか。感じにもなっちゃってたなぁ。
生徒: そこまで雄勝にもどるってどういった、そこまで雄勝に戻りたいって
佐藤氏: うん、どうだろうなぁ。実際仙台に行って暮らして半月まあ向こうにいたわけじゃない。で、こっちにきて思ったのが、この浜の匂いっていうか、海の匂いっていうか、浜の匂いっていうかやっぱり落ち着くんだよね。でうん。ここで仕事したいなみたいな。それぐらいかな。


震災後の海の仕事
生徒: さとうさん自身はその震災前と後では、海で働くっていう気持ちとしての変化は?
佐藤氏: ないな。変わらず。淡々と仕事をしているというか。どうなんだろうな、津波がきて悔しかったといえば、悔しい。ただ自分の場合は、なんだろう、うん、どうだろうな、まあまあ。そこまでなんかこうまあ一応津波はくるくるって思ってたんで、だってまあ海の仕事をしてて津波でやられちゃうっていうことはある程度考えてたんで、半分しょうがないなって。なんか潔すぎるけどね。だからそういう覚悟があったからあんまり心折れるまではやられなかったのかな、たぶん。


漁と海
生徒: 海ってどういったものなんですかね、佐藤さんのなかで
佐藤氏: 海。どんなもの。難しいな。結局はこの天気が良かったり悪かったり風が吹いたり、なかったり。これは雨だの雪だのまあ自然と仕事を一緒にしてるよな感覚かな。あとはもう本当に結構一人で漁、漁に出てるときは疲れたなあ。やめようかな、もうちょっとがんばろうかな、みたいなぁは自分とのそういう感じで、あとはもうこの天気が悪くなってきた風吹いてきた強くなるなどが、そういうのがもうちょっと頑張ろうとか、もう早めに止めた方がいいなみたいな感じで見てる。海も一緒かな。なんか常にそばにあるというか、そこにあるっていうか。感じですかね特別なわけでもなく、なかったらやだなみたいな。


復興とは

生徒: 佐藤さんにとって復興っていうのはどういう状態で使うのか?復興を終えるということはどういうことなのかとか?
佐藤氏: うん。なんか。うん。微妙だよね、実際は。復興って。だって仕事はこうやって船持って、んで震災前とおなじぐらいのものができて、で当然船も自分のやれる範囲の自分のまわりはなんとか震災前の形に戻しました。でもあの漁港整備とか、宅地だとかっていうものは自分で頑張ってどうにかできるものじゃないじゃん。行政の仕事だから。だからまあ、自分的にはもう復興っていっていいんじゃないの。あとはもうどんどん稼ぐしかないし頑張るしかないし。って思う反面、そういう自分が手が出せない所っていうのはまだまだ復興にはほどとおい。復興できるのかみたいなっていうまだレベルでしょ。だからなんて言っていいんだろうね。自分の中でもまだよく分かっていない復興とは何か。だって完全に震災前に戻すぞと、でもそれは無理な話だから。人そのものが戻ってこないって言ってるし。実際にまあ、自分ら漁業やってるから海の近くに住みたいで海の近くに住みたいで、船の見えるところに住みたい言って戻ってくるけど、実際、サラリーマンとか会社員は実際雄勝に戻ってくる必要がないんだよね。今石巻だとか、町場にいた方が、雄勝にいた時よりも超便利だし、みたいな。まあ郷土愛あって、やっぱ雄勝だよねっていう人が中にはいるかもしれないけど、たぶんあれじゃない。高台移転して帰ってくるのってほとんど高齢の方じゃないかな。なんかこう産まれ育ったところで死にたいみたいな方々は戻ってくるかも知れないけど、ある程度、このなんだろう、40代五十代五十代より下はそうそう戻ってこないと思う。だって便利だもん。まああとはどんだけ雄勝を愛しているかみたいな。どうなのかな。


メッセージ

佐藤氏: まあ気軽に浜に遊びに来てほしいかな。結構ね震災前はさ、この浜に遊びに来る釣り人とかさ、あとは普通の家族づれでもそうだけど、なんかじゃまくさかったのね。で実際来た人たちは飲み食いしたゴミとかもそのままそこらへんに置いてくしそのマナー悪くて。。ですごい煙たがって嫌がってた人とかも結構多かったの、自分だけじゃなく。でもそれは自分の気持ちの受け入れ方ができてなかったっていうのもあったなとかって反省して。震災後も色んな人に手伝ってもらって、色んな人と知り合って、ってやったじゃん。で実際今度漁業っていうものを知らない。自分たちが作っておいしいもの届けようと思ってるのに、そのホタテがどういう風に作られてるのかわからない。ああそうかと、帰ってきてもらったら、来た人に気軽に声かけて話して、で漁業ってこうだよと、こうやって作ってるんだよって見せることによって、その人が興味を持って食べるようになれば。今魚介類離れとか魚離れとか言わるじゃん。そういうのをなんとか取り戻そうと、食育だとか力入れてやってるけども。そんなね、伝わってるのかどうかわからないことをするよりも、遊びに来てくれた人とこうやって話してた方がよっぽど効果あんじゃねえのかなって思って。しかもどんどんおいしいおいしいって食べてくれるとこっちも嬉しいし。これからは心を入れ替えてみなを受け入れようと思ったな。だから気軽に遊びに来てください。



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永沼 信良さん

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震災後から部落の会長として桑浜で暮らしている永沼信良さん。震災後の会長業の苦労や部落のことについて教えていただきました。


震災前からの過疎化

永沼氏: 震災があったから当然まあ余計にそうなったんだか分かんないけども、いくらかは少しずづはみんな都会行ってるのさ。若い人たちは。で高校もないっていうのは自分の娘たちは高校に入って今石巻の高校いって帰るのが大変だっちゃ。そうするとアパートを借りて学校さ通ってるからお母さんもそこさ行って、ご飯とか食べさしているから、してるから。そういうのはあの状況なんだよ。震災前と、震災前と対して変わらないと思うよ。震災になってここから家も流されてねすぐ石巻さ行った人たちもあるけどね。だから子供たち、若い人はもう帰ってこないっていうもう9割がた帰ってこないんじゃね。
生徒: それは必然的に?
永沼氏: うんそう。
生徒: じゃあほかの浜で住んでる方はもうしょうがないと思っている人たちが?
永沼氏: うん、しょうがないっていうより、今の世の中の動きならそうなるほかしかないのかな


部落の特徴
生徒: ほかの浜と比べて桑浜のこういったところがいいっとかってありますか?
永沼氏: うん、どう比べても。うんなんていうのかな。まあここはほれ10軒ぐらいしかないけどもねまとまってるからいいんじゃないですか?
生徒: まとまって?
永沼氏: うん、まあっていうことは何があってもみんな協力しあって一緒になんでもやるっていう。ほかの部落は部落が大きいと色々問題があるけどもここはほれ最初からもう部落が小さいからね。
生徒: 雄勝町の中でも小さい?
永沼氏: 小さい。15がちいさいぐらいだからまあ20軒足らず。震災が遭ってから10軒、5軒が仮設に入って。後4軒石巻の方へいって。


震災後の会長業
永沼氏: 震災、私は本当は震災前は会長は震災前はやってないわけよ。震災があってここにいた会長が石巻の方へ行ったわけさ。急にうちの自分さ会長やってくれって言われたわけさ。俺も頭真っ白になって。こういうむちゃくちゃになってる部落をさ、そこで初めすぐ最初からなんかやってればよかったけど、急に会長やれったってなんの会長やればいいのか最初分からなかったのさ。でも羽坂の会長さんね、よく会長は羽坂の最初は震災の親分羽坂だったからね。あっちは会長、俺副会長で全部うちでやって。でも羽坂と桑浜は会長は会長同士で桑浜は桑浜でやらなきゃいけねえさね。その時にもうがれきをもう道路めちゃくちゃなってるからね。こいつ何するのかなってそれだけ頭がいっぱいだったね。でもういなくなった方がいいかなって。でも会長というのはええ付き合いだから、それこそ一生懸命やりましたね。


完全復興とは
永沼氏: ま、海の人たちだから、当然あの海岸をね、綺麗にしなければ直してもらえれば、みな張り合いがあるんじゃねぇの尚更。うん。そうやろ?
生徒: 海岸が直って、あそこがあれば
永沼氏: 今日ださの船さ乗れぇんだもの波で。波来て
生徒: あぁ、波が高くて?
永沼氏: うん、毎日満潮だったの高潮だったのね。当然、もう海岸越えてくるから。うん、そーいうだ、そういう、まぁ、そういうあれもあるから、とにかく早く海岸を直してもらえれば、いつでも海に行けれるという状況。だから、わし、自分もね、ほんとはあのー、海岸先ね早く直してもらわないと、船もおっきいのつくったわけさ、いつなおっか分かんないから、ダメだなーってあきらめてる、歳も歳だからね。今、一番思ってることは、海岸を早く直してほしいかな、それが一番のあの復興、完全復興だね、そう直ってもらえればっていうことですね。とにかく、マイペースで動くしかないです、あとは。自分たちでどうにもならないから


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永沼 きよ子さん

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運動会では踊りを披露し、町のみんなをいつも楽しませてくれる永沼きよ子さん。生まれたころから雄勝町桑浜に住んでおり、町のことや昔の暮らしのことをたくさん教えていただきました。


「お茶っこ」

生徒: じゃあ普段はいつもいろんな近所の方が来て、
永沼氏: うん、お茶っこのんでだり、お茶っこ飲まいなんて飲んだり、●●誰でもお茶っこ飲みに上がってこさいっていうのね。●●のよ。本当はここはね婦人たちがおばあさんたちの。
生徒: 普段はどんなこと毎日されてるんですか?
永沼氏: 私はほら、●●いったから、お茶っこ飲みに行ったり、ここでテレビを見たりね。夜なんか私腰都度、みんなお茶っこつぎするの。お茶のみに来てって来たもんでね、●●ああおいしいって喜んで食べてから。私一人だから一人で腰も大変なのね。少しぐらいいて多くなるのさ。みなさんね呼んばってお茶みんな来いって呼んだってね、食べてけれ作ったけれども、少しでも量多くやったから食べてくださいってみんなにごちそうするんだよ。


漁師の妻
生徒: なんかその船乗りの奥さんとしての大変なこととかってどんなことがありましたか?
永沼氏: 大変なことはなんだろうね。昔は本当にね、体で畑行ってね、なんかさつまいもとかじゃがいもとか畑でまずさ掘ったのを籠さ入れて、山水しょったの。体だけで、車もないしさ。車もまだないから、体でいわゆるね、ものしょって歩いたから、腰なんかも腰痛くなって。だから体はみんな悪いの。昔の人って腰が悪いの。耕しに行って背負って、体で背負って歩いたから。うん、開墾ってね、ずっと雄勝の方に畑があるんだべさ。昔は山はみんなこうして畑にしてたから。そこさほらさつまいもとかじゃがいもとか大根とかいっぱい蒔いたの。自然のもの全部背負って、体でみんな背負わなければならないんだもの。あとは豆。豆なんかもほれ、みんな取ってくるっていうと自分でみんなはたいてぶって、豆がみんな自分ではたくのさ。豆●●作る時の豆ね。だからみんな体で本当に働いたんだよ。私ら嫁だったとき。それが当たり前だと思ってんのよ。今そんなことしたらみんな出ていくね。帰って嫁さんとも。なんぼ●●、当たり前みたいに思ってね、仕事すんでいけないと思って一回嫁に入ったもんで。みんなそういう風にして、なんでもしたんだよ。朝ほら、朝起きてあとほれ、漁師の人たちは小型船っていうのがあるわけさ。ここらさ一年中ここでほら●●するとか、●●とかってさ、海さ出て行くの、朝早く4時か5時ごろにね、んで夜に帰ってくるのさ。


漁師の息子
生徒: 息子さんがそのあのお父さんと同じ仕事やりたいって言ったときはどう思いましたか?
永沼氏: うん、船さ、船さ乗るのはもとは学校さ誰も入らないで。入らないさ。学校はね。ほんで●●おもってここでは、だんだんだんだん学校学校って入って、誰も船さ乗らないで学校さ入ったけどもね。うちの息子は●●でね学校さ入ってるのは入ったさ、高校さ。あとほれ船さ乗って、船さ乗ったから、海は本当好きだったからね。そこで船さ乗ったのさ。
生徒: 本当に好きだったの、船?
永沼氏: 船好きで、漁が本当にうまくてね、何かうに吊るしてもアワビ吊るしてもうまいんだべさ。息子がさ。だから海が本当に好きでね、小さい時からそっからほれ本家も漁そばであったから常にこうやって●●だからね。だから船は●●でね、海好きなんだもの。学校入ったってね、入ったて、勉強ばっかりするわけねえべって。学校さ入んねーよって入んねーんだから海ですぐ●●言って。
生徒: じゃあ中学校を出た後にすぐお父さんと一緒に?
永沼氏: お父さんは継がさせなくても船さ乗った。


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