廚 勝義 6


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廚勝義

クリップ 6

「(メディア露出によって)南三陸というブランドが生まれたのは、得ですよね。言い難いことではありますけど。」

遠藤 一雄さん

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閖上で生まれ育った遠藤一雄さん。定年退職後も、閖上4丁目で暮らしていましたが、津波により家が流されてしまいました。現在では愛島東部仮設住宅の会長を務め、遠藤さん自身も愛島東部仮設で暮らしてます。震災後の仮設住宅での生活を中心に、会長として見てきたこと、感じてきたことなど様々な経験を話してくださいました。


区間わけと行政

Q. 小学校中学校は地域によって分けられていますか?
みんな一緒ですよ、あの、おおまがりっていうところがあるんですけども、ちょうどここから閖上の中間ぐらいに、そこまで閖上の区間なんです、学区みんないっしょです。

Q. どこからが閖上でどこからが閖上じゃないのか、ひとそれぞれ考え方が違うように伺いました。
そうそう、あのね、閖上のね、いまでいう、小学校あるね、ひいらぎの、あの辺までが、閖上区間なんです、名前はね。そしてそこから西側は丘区っていうんです。「おか」ね、普通の「おか」、丘区っていって、だけども学区はみんな一緒で、あの町内の運動会とかある時はみんな一緒ですから。

Q. 小学校はひとつですか?
ひとつ、中学校も一つ、ええ

Q. 丘区の方々も閖上に含まれますか?
そうですよ、うん、ただこうほんとの閖上っていう地名がついてるとこが閖上っていう感じだけども、その丘区ってとこも閖上地区さ入ってますから。だから今市長さんなんかよく現地再建でやってるっちゃね、やってるけども、丘区の方さ みんな住みたいってみんないうの現地再建より、こっちは閖上じゃなくて丘区っていうんだけど、結局みんないっしょなんだよね。結局みんなお互いに学校も小学校も中学校も卒業しておっきくなっても同級生だなんだってやってるんだから、それを市長さんわかったらうまくいくんだけどね本当は。こっちは閖上じゃない、こっちは閖上だってさ、差別したらよくないと思うんだな、そういうことやってるから進まないんだな

Q. 地名だけでみていて、
そそそ、そういうこと。

Q. 人間の関わり方に目を向けていないということなんでしょうか?
そそ、まぁ今閖上のことやってからだけども、こっちの人は差別だよね。普通はさ、名前から言ったら、同じ名前で暮らしてるんだからさ、だからそういうことやってたら復興もなかなかままならないんじゃないかなって、うん、行政の考えと違うから、うん。反発力がすごいんですよ。だから今このままで行かされて、工事に着工したとなっても、行く人がいなければまた見直し、するようになっから、市長さんも大変でないかな。

Q. どういった方が行政に関わっているんですか?
私たちはその名取市閖上地区の住民さんの意向をこっちを住みたい人の意向を、その人らの意見を市やなんなりに提出してやって、署名とかもやってましたよ。

Q. 受け入れてくれる感じではないのでしょうか?
あまりないね。市長がそのこうあんまり…かもしれないけど、普通なら市長さんこう長い時間で対応するでしょ、5分3分くらいでぱっと退出するんだもん、話にならん、うちら今こういうことやっても、宮城県会議員さんとか、俺ら一緒になって担当の西村さんとか今年の6月からな、復興庁にいってきたんです、西村さんと県会議員さんと私と、復興庁の大臣とお話ししてきたんです、でもあっちでも頑張ってくれって…てことで復興中の中でね、普通はすぐ帰るんだけどもね1時間以上もお茶のみしながら、大臣と復興大臣と。

Q. お気持伝えたんですか?
伝えましたよ。それで、それが県の審議員会に挙がったわけさ。ほら、西側さもってくとか、あと今計画どの場所をさ、災害公営住宅っていうのがたつんだってね、その公営住宅お寺の跡地さ建てたりっていう計画なのさ、誰もお寺の跡地にばっとたててもらって住めないですよね。まぁ先祖さんの頭こう踏みつけらってるようでねお前ら何やってんだっていわれそうだっちゃさ。で最初「建てる建てる」ってがんばってて、その私も市議会で代表で喋って、知事さんのいるところでさ。したら知事さん怒ってさ、市長と答弁することになったら、そうしたら建てませんってその場で言うんだよ。住民はその日まで建てるって思ってんだから、それで判断してんだから、そしたら今度建てねーっつんだからさ。じょうだんじゃねーってさ、その時のがれればいいっていう感じで話すんだよね。


ボランティアと自立

んー、やっぱりみんなもね、震災になって、ここにきたはいいは、人からもらうようなことではだめだと。ここから5年ないしね、出てきた場合自立心がなくなるから、まぁ出て行っても自立できるようにみんなでがんばるべって、ことでみんなでやってる。だからうちにほかの仮設みたいにボランティアさんにこれやってくれってさ、絶対うち言わないです。うん、だけども一度ねこの自治会で年に3回大きな祭りあるんです、3月4月になったら花見とかね、夏祭りとか、あと10月になったら芋煮会とか、それでここの自治会でみんないろんなことやって、ここだけだとあれだからって、たとえば上智大学さんに手伝ってもらってるから、その人さ声かけて招待しましょう、招待しながらやってるんです。うん、逆に。まぁお返しっつったらおかしいけど、俺たちにできること、ならやりたい。世話なった人に声かけて、だからNPOやってもらってる人とか文化大学とかね、なにもいらないからとにかく食べに来てくれって、うん。


閖上に戻りたいか

まぁね、俺たちも先祖さんたちからの代でずっと閖上にいるから閖上に戻りたい、でも、さっきもゆったけど丘区も閖上だから、その災害危険区域のちょっと西側っていうのもあるわけだっちゃ。だからそのへんでやっぱりやらねーと。ここからはもう閖上から遠くに行くっていうのは考えられねーかな。なるべく海の近くにはいねーとって思ってるけど。


遺体安置所での経験

そしたらだいぶ人亡くなってるってことで遺体安置所もうけたのさ。そして、二日目から私2か月半ぐらいその遺体安置所さ確認にいたんです、町内の人達もいるからね。で全部、最寄りの人みんな見つかって、連絡して引き取ってもらって、2か月半やってた。

Q. それは自分からやり始めたのですか?
そう、で、もうほれ、知人の弟だのいないだの、で、弟さんがね、ちょうど15日してぐらいあがってさ、俺が最初に見つけて、…あそこの息子さんだけ見つからなかったんだ、やっぱりお父さんより早く見つかってたのね。ところがね遺体がこっから半分しかなかったんです。それで見せられなかったから、DNAで4日ぐらいしてからわかったけども、で、私140体か150体ぐらいみんなに引き渡したんだ。分かってる人…もうあんな時は、ああいう人間見たりすっと思い出すでしょ。夜なんか。1日2日目ぐらいは、「あ、こんな人いたんだ」ってぐらいで、もうあとは日にち経ってくるとみんな一緒の顔してるよ。…だからなんともなくとは言わないけど、見つけても助けてあげれなくて悪かったってぐらいで引き渡ししたけどね。そういうことなんです。だからやっぱりね、だから今こんなことして、会長やって、みんなの協力もらってってことは、俺は生かされたから少しでもみんなのためにやらないとってやってるけど。まぁみんな長沼君とか役員さんたちがいいからね、みんなすぐに声かけると協力してくれるからそれだけがありがたいです。

Q. 震災を経験して人との協力性が本当に大事だなって、実感しました?
あー、思いますね、やっぱり何もない平和な土地は結局声かけたりなんだりしてやってけるけども、やっぱりなくなったら協力がないとやっていけないさ。個人個人ではね。


ボランティアとメディア

やっぱりやってくれてる人は一刻も早く復興してもらいっていう感じもあるんでねーの。やっぱりいろんな形で聞くけど、よく日和山に花植えるとかさ、でも結局花植えてもさ、正直な話、水やりにも来ないでしょ、植えるだけで、だれが水やるか。で、一回植えれば次に来ないでしょ、うん、そういうのまぁボランティアはボランティアなんだけどさ、ふつうやるならああやってSTEPさんみたいに、寒くても毎日3人でも5人でもね、やってるっていう人のほうがほんとにああいうひとをよく感謝しないと。んださ、花植えるのは一時的ださ、であと来ないんだよ。それでまた1年くらいしてから例えば花がなかったから花植えるかとかさ、それで植えっぱなしで誰があそこで水やりなんかするのね、しないでしょ。

Q. 単発なんですね。
そうそう、その単発的なことをやってんだ、ってことよりもさ、もう少しやり方があるさね。単発でなくてさ、やっぱりSTEPさんみたいにね、ああいう風に毎日とはいわねーけどさ、例えば2か月に1っペンとかね。あと植えた花どうなってっぺってじゃぁ水やってって、てくる人もいるっちゃね。

Q. 長期的なボランティアということですか?
そうそう、まぁ水かけなんかは5人や3人ぐらいでいいんだから。うんそんなに団体で花植えにさ来ることはないんだから。とは思う。
んー、メディア、の方でも、それをやっぱりある程度伝えるんだから、伝えるに対して、例えばこの人達がこれをやってくれたからとか、そういうことばっかりでなく、あたりの住民とか、だからおれが今言ったようにさ、ね、一回植えたらそれでいいって問題でないということば取り上げて言ってもらえれば、ある程度その団体でもメディアでぽっと流されれば、これはこれではまずいのかなって考えると思うのね。

Q. 最初から最後までやり切れてない部分があるんですね。
うん、そうなんだよね。まぁ俺だけの考えだかなんだかわかんないけど。それは見てたら、長いこと見てたら分かると思いますよ。

Q. やっぱりメディアも単発的な部分もあるように思います。

そうそう、だから日和山も鳥居いったって今花なんかないでしょ。暖かくなればまた出てくるっかもしれないけど今はないです。っていうことは寒くなったらこう葉牡丹植えるとかね、冬の華ね。やってれば、やってろばってことはねーけども、うん。それくらいの気持ちでね、やるくらいだったら、みんなも「あーまだ綺麗な花、冬になればあがってるな」とか、うん。そうするとねやっぱり度々やってると閖上の人さ、「あ、水もやんないで」ってかけてってくれたりするんだよね、だからこの間神戸から来てくれた人達、やっぱりみずやりしてっいったけろよ。やっぱそんなもんですよ。そうやって他の人気づいてやってるんだから、そういうの度々こうやってけば、住民に分かって、行ったらば、たとえば「ペットボトル2本持ってって水かけるかー」くらいのね、それが集まればそうとうなもんなるでしょ。だからそういうのも考えろば、いいのかなとか。うん、とは思います。うん。


これからの閖上の理想と現実

Q. 遠藤さんは、これが一番理想的な閖上だ、こういう町が将来あればなど、どのような閖上を想像していますか?
うん、結局ね、こ、2年前からやってんだけどもそういうの。みんな私たちの方で、図面だの出して市の方さ提出したりしてるんですよ。でもやっぱ受け入れられねーんだよね、うん、だめです。だから例えば閖上の大橋あるでしょ、あそこから仙台市さいくっちゃね。あそこも私たち最初提出したのが、ここ道路ね、閖上の仙台市の道路から、ここ嵩上げ(かさあげ)ずっとしてもらって閖上きて、今の大橋をちょっと海側にもう一本建てて、そこから嵩上げして飛行場のほうまで嵩上げしてっていうのを提出したのさ、そしたら市役所ではこっち仙台市だから仙台市との調認はむずかしいて、仙台市ではそういうことしないってゆってたのさ、そしたら仙台市でここかさ上げするってさ、あの、閖上の大橋まで6メートル、それを最初っからおれらゆってたやつなの、みろ、仙台市にとられたろって、なんつことなかったのさ。だからそういうことあるからむずかしいんです、我々一般市民がいろいろゆっても文句としかとられられないんです。だから市長さん曰く、進まないのは住民が悪いとかそういうこと平気で言ったりするんだから。で俺たち今、俺たちの会がほとんどでやってから住民のあれで。そしたらちょうど夏祭りの日、市長が来たんです。そしたらおれんとこ来て言うわけさ、「早く復興したいんですけども、遅らせてる人ら足をひっぱってね、いる」ってさ、だから「それは市長違うんでねーか」って、「市長も一応ここは誰も反対してるわけでないと、ここはここでいいから、もっと西さ行きたい人のことも考えたらいいんでねーか」って、言ったら、「いや、遠藤会長ば足引っ張ったりしてる」っていうわけ、「俺の名指しぜってーゆるさねーからな」って。ここでみんなの前でだよ。そしてみんなさ頭きてさ。「みなさん俺たちがやってることは足引っ張ってるって市長が言ったから」って、みんなわかってるんですよ。だから「あのやろー」って、だから市長にみんな挨拶して来いって言ったらみんな無視するんだよ。無視。で、そのあとに小泉しんじろうさん来たわけさ。で、小泉しんじろうさん来て、市長が1回挨拶しようと思ったら、みんな挨拶する前にね、「市長出てけー」だの言うんだよ。そういう言われ方もしてるんだから、だからそういうの聞いたらしんじろうさんも分かるは、「あ、この人はたいしたことないんだな」って。だからそういうの自覚してるよね、同じ街作るんだったら、まぁ良い町つくったらいいさ、そういうこともしねーから、もうなに言ってもだめですあの人は。
っていうのは一番機能してねーってのは住民の意向聞かねーからだよ。うん、これやりますよっていうだけだから、やるに対しての説明会もねーんだから。

Q. もう決定してるんですね。
そうそう、行政で青写真出てきて、「はい、今度こういうのしますよ」って始めて言うだけだから。で、そしたら今度なんやかんやって住民が言うと、また別なの、作って今度こういうなのやりますよって言うだけだから。

Q. 説明会で決められたことを言う前に、住民の考えを伝える場というものはないのでしょうか?
ないです。

Q. 完全に決まっている状態なんですね。
そうそう。決めてから持ってくるんです。

Q. それがやっぱり遠藤さんにとって一番言いたいことですか?
言いたいさ。

Q. 住民の意見を聞いてほしい、と。
最初は住民さの意向、こういう所に行きたいとか、こういう風な作り方してもらいたいとか、言って相談して、じゃぁ100%はいかなくても、じゃぁ80%とか、90%とかしますよって言って納得してやるんだったらはいるよ。でもそういう説明もないから、はい、決まりました、はい、決まりましたよって。今の復興案もそういうもんでしょ、うん。


伝えたいこと

Q. 外部の私たちに何かできることってありますか?
うん、やっぱりねそういう人がぜひとも、その区画行きたくないっていう人達のこと、行きたいって人はもう少ないんだから、行きたくないもう少し西側って人のことも声高々に言って、伝えてもらえれば

Q. 「西の」とはどの辺ですか?
うん、ようするに閖上、たとえばこう、あって今こう、区画整理がいまこの分だとしますね。そうするとここ、仙台空港の閖上大橋の道路だとしますね。そうするとこう、ようするに西側っていうのはこの辺さ。
だからその辺さ、住みたいって人が多いんだから、ここじゃなくね。それでここまでは嵩上げして、3メートルの嵩上げするんだけど、この道路から閖上大橋の道路からこっちはかさ上げしないんだから、そするとこっちさいくよりもこっちだったら金少なくて、たださっとね、ならしただけで住めるんだから、そういうことも考えていかないとね、小学校の周りさ住めるうちいっぱいあったんだから、そういうことこう人がいっぱいおりますよってことで、バンバン伝えてもらえればみんなも分かると思いますよ、そういうことやっぱメディアでも学生さんでも伝えてもらうと、やっぱ役所とかでもみてっからそういうことあのーようするに市役所の職員ってのは部長さんでも課長さんでも市役所がこういことおかしいなってのは思ってるっちゃ、だけども市長がいっから、答弁でも言いたいこといえないっぺさ、へたなこというと市長のとんでもないとこ破線するっから、こわくていえねーわけさ、うん。

Q. 権力ですね。
うん、権力、だからやっぱりメディアのひととかが、こういうとこからこう伝えてもらえれば、いやこっちのが早いと思うよ。

Q. じゃぁ、行政は自分たちが関わったところに住ませたいっていう、自分たちがやったっていう、手柄っていうかみせたいんですね
うんうん、現地再建っていうもの、それだけだから、だからこの震災になってこうこの辺でいうと、現地再建になったのはあんまりないでしょ、この辺だけでしょ。そういうことなんです。

Q. 外部に住んでいる方や、震災を経験していない方々に伝えたいことなどありますか?
うん、まぁあれだな、やっぱりこう復興のことにしてもさ、外部っていうか人たちは聞いたり見たりしなきゃわかんねーわけさ、ちゃんと進んでるんじゃないかって思うさ。ところがこういうこともあって、みんなも苦労してるっていうことを伝えてもらえれば、うん。まぁ忘れないで、見ててください、って。なにかあった時に応援してくださいって。まぁ応援っていうのは物をくださいっていうんではなくてさ。こういうことで何かあった時にそっちからもがんと口をいれてもらって。やっぱり外部の方からもみてもらえればそれはいいことだからさ。


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大貫 満喜子さん

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生まれも育ちも閖上だが、一度そこを離れた大貫満喜子さん。戻ろうと考えていた時に震災が。彼女が閖上に込める思いとは。


閖上の好きところ

なんだろうね。全部ひっくるめてなんじゃない?人も、あの、場所も。くうきも。風も。全部。だ、これがっていうのはないね。全部総合的に好き、うん。嫌いなんだけど好き。わかるかな。あのね田舎町って最初に言ったじゃない。田舎だからこそ人間関係もちょっと複雑なとこもあったりするわけ。


これからの復興について

まあね、元に戻んのは当然無理なんだからさ。やっぱ1から作るわけでしょ。それはみんな楽しみながらやればいいのにね。結局昔だってそれなんでしょ。閖上って昔から本当に古い歴史はあるんだけど、古いものは何にもないのさ。つまり何回も津波の被害にあってるんでしょ、おそらくは。当然のことながらだけど。てことはさ、流される度に作り直してるわけじゃん。だったらもう一回作ればいいんじゃない?それもそんな色んなしがらみなくさ。今一番問題になってるのは、名取市は現地復興とかいって、だから話矛盾すると思って聞いてると思うんだよね、きっと。なんで私が名取市に対して敵意をもってるかっていうところ。現地復興ならそれでいいじゃないかって思うかもしれないんだけど、結局なに、行政側のほうでこうしろみたいにして作られたものの中に戻っていくていう感覚はどうなのかなって思う。もちろんほら、一人ひとりで難しいのはわかってるし、行政はそのためにあるから、まずはレールを敷いてそこに住民の戻るっていう。それはわかるんだけど、なんか強制連行みたいなやり方での現地再建案っていうのはちょっといただけないんでないかなって。みんなが自然に戻りたいとか、戻るっていうふうな、風に作ってくれて、それで初めてみんなで楽しみながらね、いい町作りができると私は思うんだけれども。そうでないじゃない。ここじゃなきゃいけないとか、それも嫌がってる人まで無理強いするような感じで戻そうとするでしょ。そういう意味ではいい町なんか作れないもんね。だから楽しくね、本当は明るく、前向きに、もう一回一からやればいいだよね、別にね。そんなかさ上げ、まあかさ上げは安全性っていう意味では必要なのかもしれないけど、そこまで行儀よくしなくていい。逃げるとこさえ作ってくれればいいと思うし。そんな大きい商店街、なんだか今日も見たけど、なんかね。円形のもの、すごい商店街作りますって。そんなもの最初に張り切って何なのって。そうでないんでないのって。住みたいなって、戻りたいなって思わせるようにしてくれなきゃね。そういう風になんないといけないし。


生きていくうえで一番大切なこと

なんでしょうね。うん。まあつながりとかじゃないかな。うん。ちょっとね色々話しながら、さっきのほらあんまり良い事なかったみたいなね、あったけど、そういえば一つあったなっての思い出したの。それがやっぱつながりかな。それこそ震災がなければ出会わなかった人たちもいっぱいいるわけよ。閖上の人も含めて、ボランティアの人も含めて、支援してくれる人も含めてね、こういうことがなければ絶対一生会わなかっただろうっていう人いっぱいいて、そういう人たちの顔が浮かんだのね。そういえばそうだったと。今でもずっとねいい付き合いをさせてもらってる方もいる。全然目立たないんだけどね、そういう人たちこそでも、だからもっとポッと出てくれればいいのにさ。本当に継続してやってくれる人たちってね、あの、それこそマスコミとかに出てこないのよ。陰でひっそりとやる、地道にやるからこそ継続するんだろうしね。そういう人たちはありがたいし、今も繋がってますね。そんなもんぐらいすか。


閖上の復興が遅れていることについて

閖上は住民が悪いから復興遅れてんだみたいなさ、見聞きするの。見たくはないけどやっぱ気になるから調べるそうなんね。決してそうではない、決してそうでは ないっていうことを知ってほしい。みんながみんが反目しあってるわけじゃない。みんな町が大好きで何とかしたいって思いがあるがゆえに色んな議論してるだ けで、そこの合意形成をするための調整役が本当は行政であるべきなのにそれをしようとしなかったからここまで来ちゃっただけの話で、住民がみんながみんな いがみ合ってるわけじゃない。本当はみんな閖上が好きで良くしたいからやってるだけだってこと知ってほしいかな。ぜひおいでませ閖上、みたいな感じ。


メッセージ

まずはやっぱりぜひ来てほしいと。まずは現地に来てくださいと。どういう町なのか想像してね、車でこう通り過ぎるんじゃなくて、歩いてほしいの、そこにどれ だけの人が住んでどういう町だったんかって想像しながらぜひ足を運んでほしいなと思うし。まあね、みんなが楽しく暮らせるような町づくりになるように見 守ってほしいなと。


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今野 雅彦

今野雅彦は石巻コミュニティ放送のラジオ石巻FM76.4で営業部長、技術部長、レポーターとして活躍されています。阪神淡路大震災の翌年に作られた放送局で、地域情報はもちろん、現在は災害放送局として放送を行っている。災害に強い街にしたいという思いで作られた放送局。いずれ震災は起きると覚悟していたが、地震と津波の大きさは誰もの予想外であった。その時に放送や対応、仕事への責任感、そしてこれからラジオ石巻の復興への役割についてお話していただきました。

ラジオ石巻FM6.4

震災直後のラジオ放送、仕事の責任感、みんなに石巻へ来てほしい

まあ情報源を全部その停電で立たれていたんですが、唯一そのパソコンが、ノートパソコンのバッテリーが、無線のケータイメールなんかを受信するためのネットワークが、だけが生きてたんですよ。で、リスナーからあの、今自分の身の回りはこういう状況だというようなメールがたくさん集まってきたんで、それを原文のまま読み続けるというような放送をしていました。まあ具体的に言いますと自分はいま屋根の上にあがっている状態で、早く助けに来てくれないかとかですね、もう目の前で人がどんどんどんどん流されて言ってるというような状態ですね。で、それが地区ごとにこう、読み上げ続けていきますとラジオではまあ、見えないメディアですから、ただそれをつなぐことによって情報を、見えてくるんですね。まあそういうことで、市民に対しては、こう、被害の状況を伝えることに徹して他わけですね。あの、必ずこういう日が来るっていうことは社員各自は想定はしていたんですよね。で、ただ今回の東日本大震災っていうのは想定の領域をもうかなり上回っていましたので、えー、底までこうなるとは思ってなかったんですね。まあ本当にそのそういう、今後はですね、私たちはそういう教訓を生かして、やっていこうという、最大被災地のラジオ局ですので、まあこれが私たちの取り組みや反省というものが、ほかの地域で今後どういう風に役立っていくのかという部分も、私たちも今後はお手伝いしていこうというようなことに、あのー、なるのかなと、ええ。

やっぱり、根性とか、粘り強さとか、あきらめないとか、まあ今被災地っていうのはこういう劣悪な環境の中でみんな頑張ってやっているので、まあそういった常に恵まれて、やっているんだって思うことはですね、やはり原点に立ち返る意味でも、まあこの、石巻の不自由な状況を確かめに来ていただくことはなにかの参考になるんじゃないかと思います。

復興に向けて、感謝を伝えるラジオ、これからのボランティア

まあ地元の中の人たちに対しては、ええ、1日でも早い復興に役立てる情報っていうのを、ええ、精査して、今本当にみなさん大変なこと、住まいだったり、お仕事だったり、えー、病気のことだったりお金のことだったり、様々な悩みを抱えている方が多いものですから、そういった人たちの悩みが解消されていくような情報をですね、発信していくことはコミュニティとして一番大事なことなのかなって、それと、外のほうにはですね、やはりその被災地の復興の現状というものを時間経過とともにどういう風にその変っていっていくのかという部分にやはりその関心を持っていただきながら観光というジャンルにもですね、石巻を逆に元気にしていただかなければ奈rないというアピールもしていかなければならないのかなあと。まあ電波は届かないんですけど、全国からいろんな主事を受けやすいので、あの、来ないでくださいでは無く、もう本当に来てくださいというような役割はやっていかなければならないかなと思ってます。あの、石巻市民の大半の人たちは困っていましたから、あの、そういう助けをしてあげたいという人とですね、助けてもらった人が歩んだ約1年と3カ月ということで、そこで新たな絆が強まったっていう話は、今うちの放送のゲストの人にはやっぱり感謝を伝えるためにまたラジオに出て来てもらったりっていう放送をずっと続けてきてましたからね。また今度ボランティアの方がその、手を差し伸べる方法につきましてもガレキとかヘドロだしとかもおわりましたので、また被災地での支援の仕方っていうのも変わっておりますので、まあそういったときとともに人の気持ちも、みなさんの動きというのも変わっていっているということがわかりますよね。この仕事をしていて。

平塚 隆一郎

平塚隆一郎は山徳平塚水産の代表であり、石巻元気復興委員会にも所属している。

あのう震災前から、私に関して言うとですね、震災前からやっぱり、このままの状態ではこの業界も立ち行かなくなるのは目に見えるっていうなってのは思ってたんで、まあそれがより。かと言って震災、震災が来てこう機械とかが無くなるのはよりそれが深まったっていう事だけであって。

そういう「元に戻す」ではなくて、違ったもっとこう、儲かる構造っていうか。そう、そういったものに変えていかなくちゃいけないだろうという事で。あの、単に3月10日の段階まで戻す、っていう事はちょっと考えずに、違った形、違った売り先とかそう言ったものを考えながら。後はあのう、色々と同じ用な機械が入ってたりとか震災前はね。で価格で競争して、いやこっちが安いとか、っていうような形だったので、それをこう絶世して、できるだけ。あと、もう、儲かる構造というか。価格競争じゃなくて、あのう石巻のブランド価値を高めてみたいな感じでええ、構造の業界の形を変えていかなくちゃいけないだろうというような事を考えて今。そっちょの分科会っというかあれですけど、ワーキンググループの方か毎、毎週一回集まって、色々検討は続けているんですけど。

今はまあ見ての通り周りも更地になってそういうのはまあ、あるとしても重機でやるからいいよみたいな感じですからあれなんですけど。やっぱりあの、こうやって来てもらって、あるいはこうやってその取材してもらって今現状石巻の、こうなってて、まあなんにも無くなってるみたいな状態なので(笑)あの相当時間もかかるし。ええ、そういった事を。まっさっきも言いましたけど、その見に来てもらっただけでもいい訳ですよ、あの、バスツアーで被災ツアーみたいな感じでもいいので。あの、見に来てもらって、あの、都会でわかんない人達に、いやまだまだあの 長く掛かるこりゃぁ、っていうのを伝えてもらうっていうのが一番良いかなとは思いますけどね。ね、その。あんまりこう気合い入れてガッていくと、あの 長く持たないので。こう細く長くでもいいので、こう、多分ね、あの最低年、最低5年ぐらい掛かるってここ。あの、長く言えばまあ10年は、10年ぐらいはある程度まっ、あの。阪神大震災なんかの例でいっても、まあ10年ぐらいは楽勝で掛かるので。その、皆さんも学生じゃなくなるかもしれないですけども既に、あの、あの気に止めていただいて時々思い返してどうなったかなっていう関心を持ってもらうっていうのが一番大切なのかなっていう風に思いますね。

あのまあ一応ね結構そのメディアの方とか取材には来てもらっていて。うん、で今、今となっては出来るだけ出るようにしている。あのう、結局その、震災直後だと頼まなくても来て取材してきますけど。まっ実際にはね、震災直後メディアもなにも、自分たちが見れないから、どんな内容なのか全然わかんないんですけど、テレビも無いから。ラジオは聞けましたけど、テレ、テレビが無いので。いっ、今は、今は立場としては来てもらったらあのう、やっぱりあのう、どんどんこう忘れさられてってしまうとか、もう1年も経ったんだから復旧してんでしょ、みたいな感じに成りかねないので。できるだけそうでもない、もっと長くかかるんだっていう事をお知らせしたいので。あのう、メ、メディアの取材があったら必ずまっ、出たりとか協力は惜しまない(微笑)形でやってますけど。

結局まああのう、こっち側の現状を見ないで結構、多分そうなんじゃないか、仮説の元に来てるので。まあ話を聞けば あっそういうあの趣旨であの取材したいんだねっていうのは分かるので。その、できるだけその、乗ってあげたいっとは思うんだけど、現実と違う事を折り曲げて(笑)グルっと。あの、嘘は言えないので。できるだけまあ趣旨は分かったけどちょっと難しいんじゃないって。まあ、協力できる範囲ではしますけどみたいな感じなんですけど。た、多分まあ、だい、だいたい、だいたいそうなんだけどそう、そういう、最初からあの、こういうシナリオみたいなのがあって来るんでね、だいたい。それが検討違いだと困っちゃうんですよ。

まっ、遺体の安置所のところに、えっとですね、なんか、家族がね、こう縋りついて。こう、ずっと永遠と泣き崩れてるわけですよ。そういうのって、俺がお坊さんとか牧師さんとかがいればさ、あの、もう、次の段取りっていうか。こ、これがね、周りで見ててこうやって。もうそろそろいいだろって言う事もできないし。で、まあ、なんだ、ドウ、同窓っていうか、棺に入れてこう仮の埋葬、埋葬するんだけど。それが、そこでもずっとこう、ね、泣きつ、泣き続けてる家族がいて。救われないんだ、な、なんか普通にこう、お坊さんとか牧師さんとか誰でもいいんだけど、な、なんか、次は読経をしてくれるとか、そういうのがないと。これってこう、無宗教だとこういう状態になるのかなという(笑)いうので、あの、ホントに見てて辛いし本人たちも救われないし。ほ、本人っていうか亡くなった人はどうなん、(笑)それはわか、わからんけど、周りのカ、家族もどうにもならないし。いや、いやっこれってさとか言ってうちの、ホントにその宗教っつうのがさ、人間にとってい、あの、残された人にとって必要なんだなっていうふうに すごく思ったんで。
あの、あんまり日本人ってなんとか、なんとか、欧米の人と違って私はキリスト教徒ですとかイスラム教徒ですとかっていうふうにしないで、あの、生活の中に染み込んだ、習俗化した宗教だからあれですけど。そういうのもやっぱり、必要なんだなっていうふうな、すごくその、あの。人間にとって必要な物なんだなっていうふうには思いましたね。

20130519 藤井祐二 2

今逆に検査されてるんで、安全だとは思うんですけど。もっと詳しく検査してほしいなと私は思うんですよ。

…だから情報提供がプアだから、みんな不安になるだろう、じゃないですか。