松本 俊彦

松本俊彦さんは(株)松弘堂 印刷会社の代表取締役、石巻元気復興委員会の会長としてご活躍されています。会社は倒され、事務所と工場は浸水。その後、同じく会社が被災してしまった経営者、次期経営者の方々を集めて元気復興委員会を作りあげた。以前はライバルだったとしても、今は一緒に力を合わせて頑張る時なのです。石巻の復興への思いや復興委員会で誕生したコラボレーション商品についてお話していただきました。

大変な事もあるけど今が楽しい、復興委員会について

さっき石巻は大変な状況だっていう話しましたけど、それとは反面で石巻にはすんごい事が起きてる事もいっぱいあって。まっ、当然、国がこう、石巻に対していろんな、あの、なんて言うんでしょう。国のお金を投入するわけじゃないですか。例えば新しい町を作るっていう事に対して何十億、何百億もお金を投入したり、専門家をいれてきたり、っていう事を石巻は今あるし。日本中の大きなトップクラスの企業が、その企業の価値をどうしようかって。この東日本大震災を通して自分のこの会社の企業価値をどう高めていくかっていう事で、日本中の大手企業が今集結してるんで。で、なにができるか一生懸命さがしている訳ですよ。そんな事が石巻で起きてるし。もう単純な事から言えば、芸能人がわんさと来るわけじゃないですか。
震災前に全く想像しなかった事が、今ここで起きてんです。それってすごい素晴らしい事だし、前は絶対あり得ないことだったんで。たまたま不幸も事がいっぱいあるけど、良い事を探しだす事がどんどん起きてるんで。自分はやっぱそういう事を使って、一緒にその中に飛び込んでいって、非常にこう、自分の人生としてすごい良いんじゃないかなぁ。だからここを離れるつもりもないし、ここにいる事が楽しいですよね。
ボランティアさんも全国から来て。お手伝いいただいて、お手伝いしていたかと思うとここに住みたいって言い出したりとか。そういう若い人達もいますし。だから面白いっすよね。休んでる暇ないですよ。休んでる暇ないって言ったらおかしいですけど。楽しい事もいっぱいあるから、楽しみ続ければいいですよね。

この我々のメンバーもなんかそんな感じだと思いますよ。私と同じように全部、会社がなくなって。まっ全社じゃないですけど。設備を失ったり。まっ中には社員を失ったりっていう方々もいっぱいいますし。でも、根本的にはある程度若めの経営者の人たち、ぜんぶ経営者なんですけど。もしくは時期経営者の方々なんですけど。こういった方々も、やっぱり私と同じようにこう、なだれて、どうしようかって思ってたと思うんですよ。で自分が、この指止まれ、と。同じような人たち、この指止まれ、と。でみんなで力合わせてやろうよ、と。一社でやろうと思うなよ、と。一社でなんかできる訳ないんだ、と。この機会にみんなで力合わせてやろうよ、という事を言ったらみんな、うーん 何になるかわかんないけど一人で悩んでるよりいいな、と。で集まり始めて。でそこに、こんな事できるんじゃないの、あんな事できるんじゃないの、って。大阪行こうよ、大阪行って自分の商品PRしてこようよ、と。いや、大阪行っても通用しないっすよ、って行ってみなきゃわかんないだろ、と。で行けばやっぱ、美味しい、とか言われる訳ですね。是非商品を取引したいと、いう話になってくる訳ですよ。今そういう事をどんどんやって外に向かってどんどん我々はやっていこうよ。震災前は全くやってなかった事だけど、今やれば、目立つ。目立つし、みんな聞いてくれる。だから今がチャンスなんで今一生懸命そんな事をみんなでやりましょうよ、と。

商品を広める、コラボ商品の開発、わかめ専用ドレッシング

今この商品をとにかくどんどん世の中に出していくっていうのが一つ。でそれは詰め合わせセットでもそうですし、そうじゃなくて企業で、例えばどこどこのなんて言う商品を記念品で使いたいとか、そういうニーズがいっぱいあるんでそういうのをどんどんPRしていく事と。後はみんなで力を合わせて色んな商品を開発していこうと、いう事を今一生懸命やっています。
この機会にどんどんどんどん外に自分の会社の商品が出て行って。で最初は、例えばそれが支援というきっかけかもしんないですけど、やっぱり最後は美味しいから買うっていうところまで持っていかなきゃないので。それをみんなと協力しながら自分の会社の商品だけじゃなくて、隣の人の会社の商品も。例えばお宅はこういう技術があるんだから、こういう事をやれば良い商品ができるよね、とか。ウチのこういう技術を使ってお宅のと合わせればこういう物ができるよね、とか。そういうのを今一生懸命みんなで、飲みながら、楽しくみんなでやっています。それをどんどんやっていきたい。
(これからも)
うん、商品を良くする事と、広めていく事と、2つとにかく一生懸命やろうと。

ひとつ出来た商品があって。ワカメの、塩蔵ワカメを売っている会社があって、ワカメですね。ワカメを売っている会社があって、それをこう、展示会にみんなで行った時にワカメを試食してもらうのにタレが必要になる訳ですよ。でそれを、タレ必要だったんですが山形屋さんっていうつゆを、まあ醤油味噌を、つゆを作っている会社がありますね。それから東北で結構いろんなそば屋さんにおろしている丸平鰹節っていうダシ屋さんがいた訳ですね。でそれを、んじゃ2社で、この二つの商品をこう上手くくっつけて美味しいタレだきんじゃねぇの、ってこう遊びながらやってたんですよ。でそしたらエライ美味しいつゆが出来て。おっこれ良い、って、これ商品かしようっていう話になって山形屋さんと丸平さんとコラボしたワカメ、ワカメ専用ドレッシングという名前で、ワカメ用のドレッシングを今回作って、今ワカメと一緒に殆ど売っているとう。だから3社コラボですよね、要は。でそれがワカメだけじゃなくて肉にも合ったり。牛タンつくねそこで売ってんすけど、牛タンつくねにも合うし色んな物に合うので。今すごいウケてます。そういった物をどんどんどんどん作っていけば、楽しいですよね。

中村 精一郎

中村精一郎は中村サイクルセンターの自転車屋さんを奥様と運営されています。震災当時はお店の中に津波とヘドロが押し込み、とても営業できる状況ではありませんでした。1年経った2013年春にはお店を再開する場所を借りることができ、ホームサイトでおすすめのサイクルルートなどを紹介しています。復興まちづくり協議会に参加している中村さんが石巻の復興への思いを語っていただきました。

「復興、元の状態になるっつうのは、ううん。ちょっと考えないかもしれないですね。もう既にあのう、人口が減ってるし、職場も変わってる人もいますので。まあ石巻から離れて別の職場を求めて行ってる人もいるので。ただやっぱ新たなあの、雇用っていうか。凝視をもってかないとダメなのかもしれないですね、それはね。

ただね、去年、去年はですねやっぱあの、うぢのお客さんもそうなんですが。自転車の格好、ヘルメットかぶってジャージを来て、こう歩ぐって、自転車踏んでいくっていう気持ちにはね多分なれなかったんですね。気分的に。精神的にあの、全国のボランティアさんが日曜日朝とか、あの炎天下の中で汗を流して泥掃除をしてたりとか。そういう中をね、自分だけがサイクリングして歩くっていうそういう気持ちにはなれなかったんです。まっ、今年からようやくね、段々こう、整備されてきたんで気持ちの整理も大体ついてきたんで、少しは踏める環境にはなってきたんじゃないかなと思いますが。精神的にもそうだと思う、やっぱ。

(他になんかあの、自転車以外とかでありますかなんか、改めて考えられたような事は)

ううん。まっ、私の場合はまあ人にあの、助けられたっていうのが一番じゃないっすか、仏さんに助けられたなっていうのは。うん。

まあだから、自分だけがあのう、なんていうんだ。こっから逃げ出しても、やっぱあのう、..全体が。自分のお家ないとかっていう、将来的に、経済もそうなんですが、そういう気持ちも安定してこないと我々の商売にもついてこないと思うんですねやっぱ。自分1人だけ先走ってもダメだなっていう気持ちはあります(笑)はい。全体が、もっとねこう、元の生活に戻るまで。ちょっと時間はかかるかもしれないけどもそこまで私も頑張りたいと思います。」

「以前はまあ割とううん。まあでも少子高齢化が増えてましたからね。その辺は商売は厳しかったですよねやっぱ。うん。だっ、それでこの震災だから。うん。ちょっとマーケットが小さくなるのは大変だな。そこで、どうしたらいままで以上に頑張れるかっていうのが。自分の主案にも関わってくるし。年齢も年齢だし。ちょっと考えますね

それはね、道路が復旧してからでないとなかなか難しいんじゃないかな、気がしますね。いっあのでも、震災以前にもあの、レンタルサイクルなんて駅前の方で貸し出しなんかあったんですよね。ただやっぱり石巻は生活には車が必需品なので。多分車だと思いますね。あの、自転車を見直されたっていうのはあの、震災直後ですよね。歩って用足しをしていたのが自転車に変わって。で自転車あのう、車使えないからただ単に移動手段として自転車使ってたんですが。ま、車が手に入ってくるともう自転車がいらなくなってしまってると。そういうふうに変わってきたので。

ううんそうですね。あとは 、あのその下駄代わりに使れた自転車じゃなくて、あの、趣味で使ってる自転車、主にはサイクリング車とかスポーツ車といわれる部分。それをやっぱ残していかなければ私たちは生き残れないなぁというのは、考えは持ってますけどね.だからそこを伸ばす方法を今から考えないとダメだと思いますね。」

菅原 聖

菅原聖さんはオカダプラニングの代表であります。

自分自身は、まあ、流れてるからね。その、津波にのまれてる人間だから。まあ、死んだつもりでって言ってもまあ言えば済むんだけど。まあ、生かされた部分もあるから。でもやっぱりこういうエンターテイナー的な仕事をしてるからやっぱ俺はは人を喜ばせないとっと。まあその後はそういう被災地でなんかやってあげなきゃ、っていうかまあ自分被災-人だけど、被災地の、被災した人間が被災地に行ってやるっていうとこに意味があるなっていうのはあったのね。

だから阪神の時も、阪神大震災ってあったんだけれど、あん時ってのも、あの辺で歌謡ショーうち本当はやるはずだったんですよ。で、それ、まっちょっと、もうちょっともう南側なんだけど、ただ一カ所はあのう、会場が物資の置き場になってて使えなくてそこだけ中止になったんだけど。そん時も俺、震災1ヶ月後くらいにそのやっぱり歌謡ショーをやるからその、打ち合わせかなんかに行ったんだけど、結構すごかったから。もうそん時でも、だから逆にこういう時だからこそやんなきゃないっていうような、歌謡ショーはそういうやっぱりこういう時に、こういうこそやっぱり人を喜ばさなきゃっていう部分はあったから。そん時も商売にならなかったけどね。ひどい目にあったけどね。結構赤字越えて、まあやったからいいだろうみたいな。だからそこで止めても赤字、損ねっ、ね、続けても赤字。っては、どうせだったらやった方が良いじゃんっていう。だから今回もそんな感じだったんだけど。

ううんなんだろうな。まっ、ええ、ポジティブになってね。結局その、なんだろう。もう失くしたものないし、こう遠慮が無くなったっていうか。だからなんとなくこうねっ、歌謡ショーとかやる時もこう、タレントさんにもこう、何日かかん日か、みたいな。ったらあのう、まっ原発で避難している人達のその南、その、南相馬の方の波江っていう町があるんだけども、親戚関係がいて、こうみんなで避難してる街があるんでそこでちょっとできないかって言われた時にも、もうタレントにもうガツガツ行って、遠慮がなくなったっていうか。今だったらこう、ね、いやぁお金ないんだけど、ってこう行くのも、うち帰ると、もうないんだけど来て!って感じの。なんかこう、あんまりこう、ん、何にもなくなってるから、結構こうなんか言いやすくなってるし。

目標、いやあ。なにもないね。継続するっていうのが目標なんだね。要は、ある程度歴史があるんで、その、それをとりあえずまあ俺が生きてるだけは続けていきたいだけであって。まっ続ける事が一番、ねっ、あのう、会社ってのは大切なもんだから。まっ別に発展する必要は全くないけど。続けていければいいなっと思う。

うん、そうだから。よくその、うちの業界ってのは結局東京とかそっちにいた方が全然楽な訳じゃない、仕事もしやすいし。んだけど、だから結局で言うともう仙台の人からも、仙台に来たらって言うんだけど。仙台の方がやっぱ動きやすいし。いやあ俺石巻にいるっていうんだ、要はその、酒飲みに行く友達もこっちにいるし。で、今後の石巻どうなるか見てみたいし。だからやっぱり、ねっ。石巻にはやっぱりいなきゃないだろうなっていう、いたいなっていう。この土地ってね、仕事が、仕事上がすごくこう、良いとしても、うん。だから仕事がメインじゃなくなっちゃってるから、もう。楽しく生きようっていう世界になってるから。

井上 大輔

井上大輔は井上海産物店の運営をされています。

そうですね、まあ。早く石巻が元気になって欲しいっていうのが一番だと思います。あのう、なかなかやはりスピードというか。スピードが遅れてるというか。もちろん瓦礫の処理もまだまだですし、ええもちろんあと町の中もですね。あとまあもちろんまだ堤防も建っていないような状況で。まあやっと始まったような状況で。また何年もかかりますし。あと、まあ、石巻だと魚町っていうあの、えー、そうですね。そう加工するような場所があるんですけども、まあそういうところかさ上げも、ええ、何年もかかると。まだ2、3年かかるというような状況で。あともちろん町中のほうもですね、あのうやはりまあ、震災の爪痕が大きすぎてなかなかあのう、まっ商店とかも戻ってこれないし。あともちろん個人、あのまあ、家も全然あの。もちろんやはり堤防も建てないので、やはり建てたくないという想いもあると思うんですけどもなかなか人も戻ってこないということで、ちょっと時間はかかるんだと思うんですけども、まあなんとかそうですね、少しずつでもまあ、石巻が元の形に戻っていけたらと思います。はい。

人口が減ったことも雇用問題などの影響で?

そうですね、まあ人口の流出はえー、やはり。まあそうですね、まあいろいろ。まあやはり家がなくなったっていうのが一番大きいと思うんですけれども。それで、かといって石巻で他に住めるところがあるかというとなかなかまたあの、住宅とかも建ってないので。あと土地とかもあまり、まあないんだと思うんですけれども。もちろんあの、被災した場所ももう新地で、もういくらでも土地はあるんですけれども、やはりそこにはね、建てたくないということでやはり内陸のほうへとか、まあ山のほうにですとか。あのう、高い所に建てたいっていうまあ気持ちがあるんだと思うんですけども。なかなか、ええ、土地が少ないというのもありますし。で、そうですね。そういうのもあるんで、どうしても他のところに。あのう、また生活もなかなかするのも大変だというのもありまして。他のところにどうしても行ってしまうかたちだと思うんですけれども。まあでもいつかはまあ戻ってきていただければ、ええ、ちょっと時間はかかりますが、まあ少しずつおそらくまあ、堤防も建ってきて。えー、住宅とかも商店とかもいろいろできてくると思うんで、まあなんとか戻って来ていただければと思います、はい。

その問題に対してどうしたらいいかとかありますか。

はい、まずはやっぱり安全ということが一つかなと思いますし。えー、またそうですね。やっぱり石巻も前以上に元気にというかあのう、そうですね。前よりさらに、あの、盛り上がっていけるような町にしなければやはり戻って来てはくれないと思いますんで。うんそうですね。まあいろいろまあ、話し合いとかは進んでるんですけど、はい。まだなかなか決まらないっていうのも現実もありまして、はい。まあなんとか盛り上げていければとは思います、はい。

そうですね、今回やっぱりあの、いろいろやっぱ「絆」とかね、ということで。あのかなり繋がり、人の繋がり、あのまあ、あったので。まあ、いろんな人に助けてもらいながら。もうちょっと自分達だけではここまであの、なんでしょう、普通の商売が出来るまでに、まあなんとか回復できなかったと思うんですけど、なんとか。あの、いろんな人に助けてもらって。もうもちろんあと、そうですね。まあ国の方からそういう支援金が出たりとか。まあそういうのもありますし。あと、まあお客様からいろいろ助けてもらったりですとか。うんそうですね。やっぱり災害後はあの物資が非常に無くて。あの、食べる物もなくて。あと着るものもないといったような状況で。やっぱり津波で全て流されてしまったんで。何も無い状況で、でスーパーもあんまり、まあ。ここ近所にもないですし、まあやってたとしても限定で、何個、何個かっていうぐらいだったもんで。まあお客様からあの、服とか送っていただいたりですとか。あと食べ物もそうですね、はい。送ってもらったりですとか。ええ、本当に、本当になんとか。うん、そうですね。色々助けてもらって。商売のほうでも色々まあ、仕入れ先のほうも結構やられてしまったんですけども。まあ、なんとか、奇跡的に助かったところが結構ありまして、でまあそちらのほうからもいろいろ融通聞かせてもらって商品色々買わせていただいて、なんとか、ええ、営業する事ができました、はい。

5年まではとにかくかかるかなと。5年。やはりまあ最初は私もあの5年とか10年とか言われて、信じられなかったんですけど、もう10年間まで、なんでしょう、この状況で、この被災した状況でやってくっていうのがまあ信じられなかったんですけど、まあやっぱ現実見ると本当に全然、なんでしょう。まだ未だに解体とかやってますし。うーん、やはりすごい時間かかるんだなというのは最近になって実感してはきてますね。はい。

本当にヘドロかきの毎日で。まっ10トンぐらいですかね、うちの商品、あのう廃棄という形で。一日で10トン運んだんでもう本当にもうすごい肉体労働だったんですけども。なんとかやって。でやっぱりなんかああいう肉体労働っていうのは、不思議なもんで。なんか、あのう、充実感も欠片もなくて。もう、なんでしょうねもう。なんか怒りに任せてやってるような感じでしたねもうホントに津波に対する怒りというか、震災に対する怒りでもなんとかやり遂げたって感じがしたけど。まあ、なんのなんでしょうその。うん、なんかこう、なんか充実感っていうかまあ、何にもなくて。やり遂げたっいうのも何にもなくて、もう虚しさだけが残るみたいな、感じだったんですけど。で多分やっぱり地元の方達も、なかなかそういう感じだったと思うんで。やはりヘドロかきとかも、あんまりしなかったっていうのはありまして。でそういう時やっぱりボランティアの方々が、夏場すんごい暑い中に来ていただいて。本当に町きれいにしてもらったんで、それが本当にありがたくて。やはりやっぱりショックとか、もあって、なかなか地元の人達動けなかったんで。まあそういう時にすごい町きれいにしてくれたおかげで、なんとかその後やっぱり地元の方達も、あのう何か活動しようっていう気になってきてくれたと思うんで。それは本当にもうボランティアの方々には本当にありがたいと、本当に思いました、はい。

阿部 利基

震災前はガス会社に勤めていた阿部利基さん。門脇町に位置していた会社は津波にのまれてしまい、会社は休養の状態。現在は石巻市議会議員として活躍されている。インタビューでは復興やボランティアへの思いを話してくれました。


それ視点にもよるんですけど、まず一つは石巻の企業はほとんどダメージを受けちゃ­ってるんで、自己再生が出来ない部分が大きいですね。で、前は、結構石巻市の方って私­の主観ですけど、小金持ちさんが結構多いんですよ。あの、やっぱこう、ご自身で成功な­さって、こう、おっきかなくても自分で一軒家持って土地もって立派にやっていらっしゃ­る方が多かったんですけど、あの、震災はそういう人たちの持ち家と会社もダメになって­るんで、で、底に外地の方のチェーン店とかが参入して来ちゃってるんで、ドジョウの、­石巻に元あった企業のほうがだめに成って、チェーン店に浸食されてる状況って言うのが­今かなって私は思ってますけどね。なので、石巻人がビジネスやるには難しい状況加奈と­は思いますね。

なんだろう。僕が一番よく、あちこち震災を飛び回って思うのは、いま日本中で起き­てる、まあ正確には世界中で起きてると思うんだけど、年の平均化的なものが起きてると­思うんだよね。つまり仙台に行っても、北海道に行っても同じもの買えちゃうじゃん今、­ぶっちゃけ言うとネット、楽天でも買えちゃうじゃん。そうすると、都市間の重みって言­うのが無くなってて、そうすると何が強いって言うと観光名所があるほうが強い。でもそ­れもだんだんこう、ネット上のビックイヤとか一回行ったこっきりで終わっちゃうんで、­まして神戸で言われた話は、観光産業って言うのは非常にその雇用創出力が低いんだそう­です。だから地場なものを産業として、そこからどう復興していくかっていう話にならざ­るをえないんだけど、それで結局年の平均化が起こっちゃうと、石巻市に美味しいかまぼ­こやサンがありました。でも大手の美味しいカマボコ屋さんが入ってきちゃうと潰れちゃ­うんだよね。これが全国津々浦々に持ってってちゃうと、石巻での美味しいかまぼこ屋さ­んって言うのが無くなって、美味しい全国のかまぼこやサンって言うのが入ってきちゃう­。それをね、あの、おそらくこれ、構造改革の問題もあったと思うんだけど、少しね、都­市ごとに個性を出せるような街並みとか商店街を作ってあげないと、あの、商店街の過疎­化って言うのは収まんないと思いますね。

うん。ちょっと難しいと思うんだけど、一番僕が良いと思うのは、たとえば、あの皆­さんキルフェモンっていうケーキ屋知ってる?
(あ、知ってます。)
美味しいよねあれ。あれ仙台にあるのよ。で石巻人からすると、仙台でしか買えない­ものなわけ。で、俺は仙台とか行くと底の近くに行くと必ず買って帰るわけです。て言う­風に美味しいもので通販を限定するとか、なるべくしない。そういう形にしてあげる店を­持ってないと、あの、商店街潰れると思う。関空もそうじゃん。おれここ最近何回か行っ­たけど、あれ何でも売ってるもんね。たとえばジマでしか売ってないお酒とか、やっぱり­そういうものを武器にしていかないとね、これからの平均化が起こってる仲では勝てない­し。


復興ってことですよね。これあの僕もボランティア組織やってるので、よく復興って­言葉が先走ってるって言うのもあると思うんですけど、あの、なんだろう、復興っていっ­た場合どの段階におくかって言うのが人によって違うと思うんですよ。で、石巻市として­考えなきゃならないのは、やっぱり長期的な、ある意味で20年30年の復興って言うの­を考えなきゃいけないなって思うんですけど、企業人としてやっぱり、ここ1、2年が勝­負だろうと。

ていうのもやっぱり今だと復興って名前付くだけでもお客さんいっぱい買ってくれる­じゃないですかものをある程度。でももうちょっと最近は売れ行きもうちょっと芳しくな­いようですけど。で、そこのそういう、いわゆるダーティな言葉だけど、復興特需的なも­のが確かにあると。でも一方でそれをこう生かさないまま1年過ぎて、もう一年こうまん­じりとして過ぎていくと、結局その復興期って言うのは終わっちゃうと思うんですよ。ね­、うん。

で、もう一個僕には立場があって、石巻人として、ボランティア組織をやっているも­のとして考えると、やっぱり最終的な復興は自分たちでやらないといけないんで、たとえ­ばやっぱり経済圏としてみたら自立した経済圏をもう一度、取り戻すような流れに持って­かなきゃいけないと思うんですよ。で、その期間は5年とか10年とか考えなきゃなんな­いし。

神戸なんかでは今17年目ですけど、ちょうど私この前お誘いを受けて神戸の復興の­状況を見てきたんですけど、やっぱり地域地域によって成功と失敗っていうのが如実に出­ていますし、そこで我々がもっと学ぶことがあるなって改めて思いましたね。
その期間て言うのは人によってもやっぱり違うと思います。それを統一して、やっぱ­りあの、前に進まないと結局ばらばらなまま、時間だけ過ぎちゃう。この1年みたいにな­っちゃうかな、っていうのは凄い肌でかんじますかね。

やっぱり復興って言うキーワードの中に、なんだろう。絆って今流行ってますよね。­絆って糸偏に牛って書くじゃないですか。あれ、糸で牛をひっぱてるんですね。それって­この、絆って凄くこう、きれいで良いんですけど、一個だけその、自分で歩く意志って言­うのが、その、が出てこないと僕は思うんですよ。だからその、ありがたいものなんです­けども、なんて言うかその、復興って言うものの中に絆って入れちゃうと、なんて言うか­引っ張られるだけになっちゃう。て、そのボランティアとかとの兼ね合いもあって、すご­いその複雑に事柄が絡んでるんですけど、自分の意志で立つって言うのがやっぱり復興だ­と思うし、世界中の人が、たとえば台湾が200何億って額を送ってくれる、アメリカで­も応援してくれる、オーストラリアでも応援してくれる、ヨーロッパでも応援してくれる­って言うのになったときに、何を彼らが求めてるんだろうなって石巻人に考えたときに、­やっぱり元の生活のように自立した、尊厳ある生活を取り戻してほしいって言うので応援­してるっていう風に僕は思うんですよね。ただ一方で今の絆って言うのは外地だのみの経­済であったり、あとは、ボランティア頼みの運営だったり、あの、回ってない行政だった­りとすごいこう、問題が複雑化して、住民の主体意識って言うのが、そう、喪失してる。­それが神戸での失敗の、成功と失敗を分けた大きな要因だなと、うん、感じました。


うーん。なんつーんだろうな。覚悟ない奴は言ってこないほうがいいね。あと、自分­の善意だけの人も入ってこないほうがいい。あの、自分の善意を押しつけて帰っていく人­って僕はもう最悪うだと思うし。うん、だからそういう人たちってね、自分の善意を肯定­するために対象を捜すんだよね。だから僕らみたいな被災者とか、たとえば可哀相な人、­その、差別受けてる人って言うのを探して歩くのよ。でそうすると、自分でその善意っていうのを肯定するためにずっと僕らを被災者にしておかな­くては彼らにとってはならないわけ。だから僕らが立ち上がろうとするとそれをふさぐわ­け一生懸命。だからそういう人たちはね本当に復興の妨げになってる。間違いなく。だか­ら本当に、本質的に最初に入ったボランティアの方みたいに、あの、僕ら道だけ作って帰­るんだみたいな人たちこそが僕は感謝されるべきだし評価されるべきだと思うけどね。