小斉 正義さん

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閖上で生まれ育った小斉正義さん。退職直前まで仙台で働いており、震災によって家が流されてしまいました。少し前までは仮設に住んでいましたが、つい最近中古のマンションに引っ越されました。閖上について多くのことを語ってくださいました。


震災後の町のつながり

Q:震災の方で、震災で町がつながった・・・
うーん、つながり・・・つながり、っていいますかね、結局あの、一応あの、町内の、あの町内会体でもってこう、ある程度集められたもんですからね。であの、必ずしもその町内の中にだけお友達とか友人がいるわけじゃないんですよ。別の町内の方もいるわけですよね、バラバラになっていくわけ、どうしてもこう。なので、あの、必然的に連絡が取りにくくなった。とそれにあと、あの、民間のアパートに入る人もいるわけですよ。ですから、特に民間のアパートにはいった方は、今(電話)よこした人なんですけどね、どこにいるのか、っていうのはあの、しばらく分かんなかったんじゃないですかね。んで、だんだんだんだんこうね、あの人はどこにいるっていうふうに分かってきましたけどね。だから、あの、そういう意味でのコミュニケーションがなくなりましたけども、意外とね、ひとつの町だったもんでですね、小さい町だったもんですから、そんなにあの、コミュニケーションが悪いっていうかんじはしなかったですけどね。


仮設でのつながり

Q:今は、だいぶなんか、今は仮設ですよね、仮設でなんか、そういうもともと、まあ一つの町だったっていう感じがしますか?それとも、なんかほかの場所から来た人もいる・・・
うんうん。そうですね、あの、比較的閖上の人たちだっていう気がするもんですから、そんなにあの、違和感って言いますかね、そういうものはなかったですね。仮設に暮らしているってこと自体は、違和感ですけどね。ただあの、個人的には、そんなにあの、違和感は感じなかった。で、それにあの、造りがね、造りがよかったんですよ。言ってみれば、昔、日本でいう、長屋形式なんですよ。ですから、必然的に隣の人ともお話しするわけ。それから、あー、前後ろもですね、あの、平面で顔、必ず開ければいるんですよ。ですから、そういう意味で、あの、まるっきり顔しらないわけではないですし、ですから、こうあまり違和感っていうか、その疎外感っていうか、そういうものはなかったですね、私はね。


人間関係の変化

Q:震災前の、閖上と比べて、今の閖上って、どんなことでも良いんですけど、人間関係とか、変化とかはありましたか?
うーん、まあ、でもね、この通りでね、閖上の人っていっても、もう閖上の人は閖上に住んでるわけでもないですわね、ですからもう、それぞれでもって、ええ、2年8か月ね、暮らしてるわけですから、まあ今の現状には、あった生活を捨てざるを得なくなると思うんですよ。だ、そういう意味では、なんていうんでしょう、もう、別々の、生活を、に、向かって歩み出したっていう感じじゃないですかね。みながみなではないですけどね。 ・・・・ たもんですから、自力で再建できる方は、もうそれに向かって動き始めたんです。で、今だいたいこう、落ち着いて来たようですけどね。ですから、やれる方はこう、どんどん動いたもんですから、そういう意味では、まあそれぞれの道をですね、歩きはじめた人たちと、あと市のこう、閖上の行く末をね、見て、今でもこう、じっと動かない人たちと、になってるんじゃないですかね。


震災後のコミュニケーションについて

Q:小斉さんご自身の経験で、震災前と震災後で閖上人との付き合い方の変化はありますか?
うーん。変化っていってもね、友人知人は亡くなってるしね。ええ。ですから、まあ、変化しようにも相手がいなくなってるわけ、私の場合は。親戚もなくなってるし、えー、うちの近所の、ね、友人知人も亡くなってますから。私そのものとしては、変化というよりももう誰もいなくなったって感じだわね。だ、そのみなさんは、そういうこのコミュニケーションとかね、そういうことによる、こう、調べたいんだと思いますけど、今回の震災に関しては、あまりにも人が亡くなってるのでね、そういう意味で私自身は、あの、コミュニケーションというか、コミュニケーションとる人がいなくなったっていう感じですよね。で、それにあと、ほら、今言った通り、もうバラバラになってますしね、いずれね。バラバラになってますので、あの、ひと、その、閖上の町としては、全然想像つかないわけですよ、もう。みんなバラバラになってるもんですから。ですから、さっきまで話したのも、しばらくぶりなので、私がほら、中古のマンションに移ったものですからね、したいということで、こうやって電話で、ぐらいしか、連絡とりようないわけですよ。今までだったら、ひょーって行って、おーって言うんですけどね。ま、そういう意味では、ね、あの、コミュニケーションがあってないようなもんっていうか。コミュニケーションそのものが、もうね、必要ないっていうか、極端なこと言ったら、もう今それぞれの生活も精一杯ですからね。そこに住んでるとこでやっていくしかないと、ま、仮設だったら仮設の中で、で仮設だって、みんなバラバラの仮設でしょ。閖上は全部一つの、になって仮設はまたべつですけども、結局、こっちにある仮設、あともうこっちにある仮設、ってそういうのがバラバラですから、その中でしか、やっぱりやれないていうことでしょうか。あとは、復興してきて、今度はどういう、あの街づくりしていくか、その中で、どういうコミュニケーションが生まれるか、だけであって、今はもう、閖上の町そのものがないに等しいもんですから、コミュニケーションって言われても、それはちょっとね、いろいろこうやってね、こういう記憶とか、そっちにもあるでしょ、閖上なんとかカフェとかですね、は、あるんですけどね、ま、そこは、それだけのもので、で、全体的なものじゃないよって。でまあ、・・・お祭りもあったんですよ。お祭りもね、あの日和山でもってね。それでも何人くらい来てんのかわかりませんしね。ええ。昔であれば、祭りだって、みんなのうちでね、あの、各の家で、お赤飯を炊いてね、で、あのちょっと料理をつくってね、えー、やったもんですけど。今は別にね、仮設にいれば、閖上のお祭りだったったって、仮設で赤飯炊くかっていったらそんなこともしませんしね。だから、コミュニケーションそのものがありますかって言うこと自体がもう、ね、あの、不自然ていうかね、私から言わせてもらえば、もう。


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