阿部 信也

阿部信也さんは丸平かつおぶしの代表であり、石巻元気復興委員会にも所属しています。


阿部さんにとって会社を続けるための「かすかな希望」とは。

実際水産会社はこっち加工関連の水産なんかは200社位あって、そのほとんどがまあ壊滅してるとそれで、みなさん当然施設も設備も、うーん、あと原料も5万トンくらい被害を受けてるわけ、全体で。金額にすると350から400位になるのかね。400億くらいなのか。その中で原料もない、設備もない中で、もう解雇せざる終えなかった。ただ打ちはたまたまこの建物が残った、んで上野3階部分は水が来ていないていう、うーん、ところだったんで、やっぱりかすかな希望って言うか可能性があれば、それはできるかもしれないと、まだ。でも内部も被害状況もわかんないわけだから、まだ。出来るかもしれないと、で、従業員もやると言っている。うーん。もう、だったら、やってみようかと。そんな責任感とか、まあ、うーん。その当時はあんまりそういう所よりも、とりあえずさっき言った従業員解雇せずにやるといった、ずーっと前にそう決めた、だからそういう風に忙殺されてたって言うのが現状だった。


他企業との話し合い、コラボ商品、情報交換などについて。

(話し合いとかってされたりしますか?)
ん、ほかの会社と?
それはえっとやってまして、復興センターとかで、最初はみんなで集まって業種は違うんだけど、こうやって銀行は貸し渋るねとか、どうなのとか、そっちはどうなのとかこんな制度があるんだけど使えないかとかそういう情報を共有する場として始まったんだよね。そこでそのだんだん水産商品も出来るようになって、じゃあちょっとセットにして売ってみる、じゃあって。一緒に大阪のシーフード展持って上がったんですけど、そこに、一緒にそこに行って、展示して売ってみようかとか。でそれがじゃあこんどはお店が出来るっていうんでじゃあちょっとやってみるかってだんだんなってきて。

だけどこう200社もいっぺんにやられたもんだからそういう動きで、一緒に売ろうか一緒にものを作ってみようと、うちも(1:17・・・・)といっしょにふりかけを作って2社で作ってひとつって名前で、味噌鰹節と合わせてごまもいれて、そういう動きとかもやってるし、そういうのがどんどん発展すればいいなと思って。

最初はやっぱり2,3人の(1:44・・・・)で共有しました。そういうのも、あの、がんばっぺ石巻っていうホームページにのってるから。一同みんな集まって、今、現在の情報、たとえば、こういう本部も、まあ社団法人化してるんで、こういう販促をして、大手の企業さんが販促として使いたいとか、支援する、とか支援するために使いたいんだとかって言う情報が入ってくる。それにもっと対応して、ものももっと売れると思う。そういうメリットがありますよね。一緒にやるって言うことには。

石巻のコミュニティーについて。

これは絶対必要さ。間違いなく、この町内でも避難所に、この町内の方々集まって、まあ俺は2カ月だけど、(0:17・・・・)あと、やっぱり反対した人もいるし、でもやっぱりばらばらじゃあなかったから、みんな助け合って最初、みんな水、飲む水もないんで、4時間ぐらい並んで、水をもらって、あとトイレの水も水が詰まっちゃうから、近くの小学校のプールからバケツひっくり返して、そのまままずトイレを清掃するとか、そういうはなしも、あとは、うーん、そうね。そういうのをやって、みんなでやっぱ一緒に、一緒で中央公民館みたいなフロアで、知り合いがやっぱいるわけですよ。そうするとね、あんまりうちはこうプライバシーとか言って(1:07・・・)もしなかったし、で、また、そうね、そういうコミュニティがたとえば阪神淡路のときにも、みたいに、復興、公営住宅を造っても、ばらばらになっちゃうわけです。公営住宅っていうと公平にしなくちゃなんないから、抽選で入る人を決めるとか。この地区の人だけ住まわしてくださいっていう、これはダメなんですね。いまはこここういった地区に建てる、ここに戻ってきた人は、まあアンケート取ったら7割くらいの人がこっちで出来るならそういう所に住んでもいいて言う人もいるし。そのほうがさ、だって、年寄り、70、80にもなって、ローンで家なんてまた建てられないでしょ。家は建てられないんだったら公営住宅でいいわって、家賃払うからって言ったって隣近所わかんないとかって、それで阪神淡路の時は孤独死とかさ、孤立死とか増えてくるわけさ。ここで誰がね、なんだあの人最近みてないなってなったら、ちょっと聞いてみるかってなるしね。

伊藤 秀伸

伊藤秀伸さんはギフトショップの運営をされています。


震災前の石巻には戻さないで、新しい石巻が見たい。

震災前に戻すとかって言う考えはそこはもう思ってないですね。震災前に戻しても結局この石巻っていうのは、震災前に戻したからといって景気が良いわけじゃないんですよ。なんで、震災前に戻しても景気が悪いんじゃどうしよう加奈なんてなってしまうだけなんで、もう震災前は震災前ってもう考えを捨てて、であらたに出発していくような気もちでやらないと、震災前震災前って言う風にいつまでも引っ張っているようじゃ、もう伸びることはないですよね。

(石巻全体の復興って言うのは前の石巻に戻るんではなくって、もう、)

もう新しくしたほうが私は良いと思います。やっぱりこの辺子供歩いているような、お母さんが歩いているような、なんかそういう感じの、感じが良いかなって、安心して暮らせるような町がね、良いかなっていうね。でもなんか、私が幼い頃は結構子供たちでバーっと遊んでたんですよ。車もそんなに走ってなかったし、道路も舗装されてなかったんです。砂利のとこも多かったんです。車とかもそうですね。なので、まあ走り回って遊んでたんですけど。今そういうのは全然見れないんですよ、そういう光景をね。だからそういう子供たちがその辺で遊んでられるような街が良いなって、うん。あー、まずは石巻をよく見てもらって、ここおかしいんじゃないの、こここうしたらいいんじゃないのとかっていうところがいっぱい見えてくるんじゃないかねって思うんですよ。よその人の目から見れば、ここに住んでる人は、もうここに何があって当たり前ってなってるんで、特にちょっと年配の人たちとかは。うん。で、よそから来た人に何でこの道路こうなってるんだろう、ここが一通なの、大きい道路にひとつにしたらもっとべんりじゃないのとか。このテーブルあっちじゃなくてこっちにやったほうが良いんじゃないのとか。そういうのよその人から見れば、よく見えると思うんだけどね。だからよそから見てほしいですけどね。うん。今回被災でこんな風にぐちゃぐちゃになりましただけじゃなくてね。うん。石巻市っていうのはまずこういう形で、合併して大きくなっちゃったんですよ。石巻市って。なんで、今回全然被災にあってない地域もあるんで、そっちはそっちでみてもらったほうがいいところもあるんで、広く見てもらったほうが、うん、いいかなと、うん。


仮設住宅でコミュニティーがばらばらに、石巻で頑張ろうと思う瞬間。

むずかしいよね、それ、仮設に行った時にも、色んな風に仮設って出来てたんだけど、そんで、たとえばこの地区の人たちが入るってなった時に、てんでバラバラにこう入った地域と、私たちはこう、底お仮説に入るのを待ってますっていう地域と、やっぱりこう、まとまって入ってるところは昔からの知り合いでね、隣近所もうまくいくかもしれないけど、ポツリポツリと入ってきてしまうと、どうしても、うん、考え方は違くなってきてしまうんで、で、石巻っていうところは、その、海のほうの人と、ちょっと中に入ったほうの人とt、後町の中の人とちょっとその人たちもろもろ考え方が違うんで、その考え方の違う人たちが同じところに入っちゃうと、やっぱりちょっとしたことでそうじゃないとかああじゃないとか。うん。こちは喧嘩口調で言ってなくてもね、相手はなんだこの人ってびっくりする時もあるから、んで上手くいかないっていうのはありますね。うん。震災後、だけども合わない時、だけども合わない時は、この店こうきれいに片づけてきれいにして、辞めてどっかで働いたら、良いかもって、うん。でも、やっぱり片づけてる時にお客さんがきたり、友達が来て、ねえ、励ましの言葉をいただくと、やっぱりここでやってないとこの人たちに迷惑をかけちゃうよなって、うん。せっかくね、ずっとやってきてて、いなくなってっていうのは申し訳ないよねっていうのがあってやっぱりここで頑張らないといけないよねっていう、うん。

井上 大輔

井上大輔は井上海産物店の運営をされています。

そうですね、まあ。早く石巻が元気になって欲しいっていうのが一番だと思います。あのう、なかなかやはりスピードというか。スピードが遅れてるというか。もちろん瓦礫の処理もまだまだですし、ええもちろんあと町の中もですね。あとまあもちろんまだ堤防も建っていないような状況で。まあやっと始まったような状況で。また何年もかかりますし。あと、まあ、石巻だと魚町っていうあの、えー、そうですね。そう加工するような場所があるんですけども、まあそういうところかさ上げも、ええ、何年もかかると。まだ2、3年かかるというような状況で。あともちろん町中のほうもですね、あのうやはりまあ、震災の爪痕が大きすぎてなかなかあのう、まっ商店とかも戻ってこれないし。あともちろん個人、あのまあ、家も全然あの。もちろんやはり堤防も建てないので、やはり建てたくないという想いもあると思うんですけどもなかなか人も戻ってこないということで、ちょっと時間はかかるんだと思うんですけども、まあなんとかそうですね、少しずつでもまあ、石巻が元の形に戻っていけたらと思います。はい。

人口が減ったことも雇用問題などの影響で?

そうですね、まあ人口の流出はえー、やはり。まあそうですね、まあいろいろ。まあやはり家がなくなったっていうのが一番大きいと思うんですけれども。それで、かといって石巻で他に住めるところがあるかというとなかなかまたあの、住宅とかも建ってないので。あと土地とかもあまり、まあないんだと思うんですけれども。もちろんあの、被災した場所ももう新地で、もういくらでも土地はあるんですけれども、やはりそこにはね、建てたくないということでやはり内陸のほうへとか、まあ山のほうにですとか。あのう、高い所に建てたいっていうまあ気持ちがあるんだと思うんですけども。なかなか、ええ、土地が少ないというのもありますし。で、そうですね。そういうのもあるんで、どうしても他のところに。あのう、また生活もなかなかするのも大変だというのもありまして。他のところにどうしても行ってしまうかたちだと思うんですけれども。まあでもいつかはまあ戻ってきていただければ、ええ、ちょっと時間はかかりますが、まあ少しずつおそらくまあ、堤防も建ってきて。えー、住宅とかも商店とかもいろいろできてくると思うんで、まあなんとか戻って来ていただければと思います、はい。

その問題に対してどうしたらいいかとかありますか。

はい、まずはやっぱり安全ということが一つかなと思いますし。えー、またそうですね。やっぱり石巻も前以上に元気にというかあのう、そうですね。前よりさらに、あの、盛り上がっていけるような町にしなければやはり戻って来てはくれないと思いますんで。うんそうですね。まあいろいろまあ、話し合いとかは進んでるんですけど、はい。まだなかなか決まらないっていうのも現実もありまして、はい。まあなんとか盛り上げていければとは思います、はい。

そうですね、今回やっぱりあの、いろいろやっぱ「絆」とかね、ということで。あのかなり繋がり、人の繋がり、あのまあ、あったので。まあ、いろんな人に助けてもらいながら。もうちょっと自分達だけではここまであの、なんでしょう、普通の商売が出来るまでに、まあなんとか回復できなかったと思うんですけど、なんとか。あの、いろんな人に助けてもらって。もうもちろんあと、そうですね。まあ国の方からそういう支援金が出たりとか。まあそういうのもありますし。あと、まあお客様からいろいろ助けてもらったりですとか。うんそうですね。やっぱり災害後はあの物資が非常に無くて。あの、食べる物もなくて。あと着るものもないといったような状況で。やっぱり津波で全て流されてしまったんで。何も無い状況で、でスーパーもあんまり、まあ。ここ近所にもないですし、まあやってたとしても限定で、何個、何個かっていうぐらいだったもんで。まあお客様からあの、服とか送っていただいたりですとか。あと食べ物もそうですね、はい。送ってもらったりですとか。ええ、本当に、本当になんとか。うん、そうですね。色々助けてもらって。商売のほうでも色々まあ、仕入れ先のほうも結構やられてしまったんですけども。まあ、なんとか、奇跡的に助かったところが結構ありまして、でまあそちらのほうからもいろいろ融通聞かせてもらって商品色々買わせていただいて、なんとか、ええ、営業する事ができました、はい。

5年まではとにかくかかるかなと。5年。やはりまあ最初は私もあの5年とか10年とか言われて、信じられなかったんですけど、もう10年間まで、なんでしょう、この状況で、この被災した状況でやってくっていうのがまあ信じられなかったんですけど、まあやっぱ現実見ると本当に全然、なんでしょう。まだ未だに解体とかやってますし。うーん、やはりすごい時間かかるんだなというのは最近になって実感してはきてますね。はい。

本当にヘドロかきの毎日で。まっ10トンぐらいですかね、うちの商品、あのう廃棄という形で。一日で10トン運んだんでもう本当にもうすごい肉体労働だったんですけども。なんとかやって。でやっぱりなんかああいう肉体労働っていうのは、不思議なもんで。なんか、あのう、充実感も欠片もなくて。もう、なんでしょうねもう。なんか怒りに任せてやってるような感じでしたねもうホントに津波に対する怒りというか、震災に対する怒りでもなんとかやり遂げたって感じがしたけど。まあ、なんのなんでしょうその。うん、なんかこう、なんか充実感っていうかまあ、何にもなくて。やり遂げたっいうのも何にもなくて、もう虚しさだけが残るみたいな、感じだったんですけど。で多分やっぱり地元の方達も、なかなかそういう感じだったと思うんで。やはりヘドロかきとかも、あんまりしなかったっていうのはありまして。でそういう時やっぱりボランティアの方々が、夏場すんごい暑い中に来ていただいて。本当に町きれいにしてもらったんで、それが本当にありがたくて。やはりやっぱりショックとか、もあって、なかなか地元の人達動けなかったんで。まあそういう時にすごい町きれいにしてくれたおかげで、なんとかその後やっぱり地元の方達も、あのう何か活動しようっていう気になってきてくれたと思うんで。それは本当にもうボランティアの方々には本当にありがたいと、本当に思いました、はい。

平塚 隆一郎

平塚隆一郎は山徳平塚水産の代表であり、石巻元気復興委員会にも所属している。

あのう震災前から、私に関して言うとですね、震災前からやっぱり、このままの状態ではこの業界も立ち行かなくなるのは目に見えるっていうなってのは思ってたんで、まあそれがより。かと言って震災、震災が来てこう機械とかが無くなるのはよりそれが深まったっていう事だけであって。

そういう「元に戻す」ではなくて、違ったもっとこう、儲かる構造っていうか。そう、そういったものに変えていかなくちゃいけないだろうという事で。あの、単に3月10日の段階まで戻す、っていう事はちょっと考えずに、違った形、違った売り先とかそう言ったものを考えながら。後はあのう、色々と同じ用な機械が入ってたりとか震災前はね。で価格で競争して、いやこっちが安いとか、っていうような形だったので、それをこう絶世して、できるだけ。あと、もう、儲かる構造というか。価格競争じゃなくて、あのう石巻のブランド価値を高めてみたいな感じでええ、構造の業界の形を変えていかなくちゃいけないだろうというような事を考えて今。そっちょの分科会っというかあれですけど、ワーキンググループの方か毎、毎週一回集まって、色々検討は続けているんですけど。

今はまあ見ての通り周りも更地になってそういうのはまあ、あるとしても重機でやるからいいよみたいな感じですからあれなんですけど。やっぱりあの、こうやって来てもらって、あるいはこうやってその取材してもらって今現状石巻の、こうなってて、まあなんにも無くなってるみたいな状態なので(笑)あの相当時間もかかるし。ええ、そういった事を。まっさっきも言いましたけど、その見に来てもらっただけでもいい訳ですよ、あの、バスツアーで被災ツアーみたいな感じでもいいので。あの、見に来てもらって、あの、都会でわかんない人達に、いやまだまだあの 長く掛かるこりゃぁ、っていうのを伝えてもらうっていうのが一番良いかなとは思いますけどね。ね、その。あんまりこう気合い入れてガッていくと、あの 長く持たないので。こう細く長くでもいいので、こう、多分ね、あの最低年、最低5年ぐらい掛かるってここ。あの、長く言えばまあ10年は、10年ぐらいはある程度まっ、あの。阪神大震災なんかの例でいっても、まあ10年ぐらいは楽勝で掛かるので。その、皆さんも学生じゃなくなるかもしれないですけども既に、あの、あの気に止めていただいて時々思い返してどうなったかなっていう関心を持ってもらうっていうのが一番大切なのかなっていう風に思いますね。

あのまあ一応ね結構そのメディアの方とか取材には来てもらっていて。うん、で今、今となっては出来るだけ出るようにしている。あのう、結局その、震災直後だと頼まなくても来て取材してきますけど。まっ実際にはね、震災直後メディアもなにも、自分たちが見れないから、どんな内容なのか全然わかんないんですけど、テレビも無いから。ラジオは聞けましたけど、テレ、テレビが無いので。いっ、今は、今は立場としては来てもらったらあのう、やっぱりあのう、どんどんこう忘れさられてってしまうとか、もう1年も経ったんだから復旧してんでしょ、みたいな感じに成りかねないので。できるだけそうでもない、もっと長くかかるんだっていう事をお知らせしたいので。あのう、メ、メディアの取材があったら必ずまっ、出たりとか協力は惜しまない(微笑)形でやってますけど。

結局まああのう、こっち側の現状を見ないで結構、多分そうなんじゃないか、仮説の元に来てるので。まあ話を聞けば あっそういうあの趣旨であの取材したいんだねっていうのは分かるので。その、できるだけその、乗ってあげたいっとは思うんだけど、現実と違う事を折り曲げて(笑)グルっと。あの、嘘は言えないので。できるだけまあ趣旨は分かったけどちょっと難しいんじゃないって。まあ、協力できる範囲ではしますけどみたいな感じなんですけど。た、多分まあ、だい、だいたい、だいたいそうなんだけどそう、そういう、最初からあの、こういうシナリオみたいなのがあって来るんでね、だいたい。それが検討違いだと困っちゃうんですよ。

まっ、遺体の安置所のところに、えっとですね、なんか、家族がね、こう縋りついて。こう、ずっと永遠と泣き崩れてるわけですよ。そういうのって、俺がお坊さんとか牧師さんとかがいればさ、あの、もう、次の段取りっていうか。こ、これがね、周りで見ててこうやって。もうそろそろいいだろって言う事もできないし。で、まあ、なんだ、ドウ、同窓っていうか、棺に入れてこう仮の埋葬、埋葬するんだけど。それが、そこでもずっとこう、ね、泣きつ、泣き続けてる家族がいて。救われないんだ、な、なんか普通にこう、お坊さんとか牧師さんとか誰でもいいんだけど、な、なんか、次は読経をしてくれるとか、そういうのがないと。これってこう、無宗教だとこういう状態になるのかなという(笑)いうので、あの、ホントに見てて辛いし本人たちも救われないし。ほ、本人っていうか亡くなった人はどうなん、(笑)それはわか、わからんけど、周りのカ、家族もどうにもならないし。いや、いやっこれってさとか言ってうちの、ホントにその宗教っつうのがさ、人間にとってい、あの、残された人にとって必要なんだなっていうふうに すごく思ったんで。
あの、あんまり日本人ってなんとか、なんとか、欧米の人と違って私はキリスト教徒ですとかイスラム教徒ですとかっていうふうにしないで、あの、生活の中に染み込んだ、習俗化した宗教だからあれですけど。そういうのもやっぱり、必要なんだなっていうふうな、すごくその、あの。人間にとって必要な物なんだなっていうふうには思いましたね。

山本 寿則

山本寿則さんは山本歯科医院で歯科医として働いています。

理想ねー。やっぱりちょっとあまりにもね、あのう。私、小学校中学校 門脇小学校 門脇中学校で、南浜町とか大街道どか、いわゆるごっそりなくなってしまった地域出身者なんで。あのう。復興が全く新しいものを作っていくのか、それとも前の状態に戻すのかっていう言葉に定義からも大分違ってくると思うんだけども、この先ね。ただやっぱり一番は人口を、は確保、ってか人口はね。あのう、増やしていける町に、増えていく町にしていきたいって思うのがやっぱり石巻に住んでる人間、離れなかった人間がみんな思ってる事だと思うし。ん、あのう住んでいく離れていかなっていうかね、そういうような形を目指して、ん。た町にしてい、いきたいなと、うん、思いますね。うん。

(そういうような町を作る為には、次のステップは… とういうのはどんなものですか)

んー、やっぱりなんだろうね自分だけで考えないでもうちょっとねっ、あのう集まって。んん、あのう話、まあよく言われてくるところだけれどもやっぱりどうしても聞こえてくんのは、あのあんまり行政には頼ってたりは何も進まないがら自分達で動かなきゃダメだろうと、いう風なのはあのう。やっぱり最初は何かあったらば行政に頼みに行って、あの回されて回されて、なんだ自分達でやった方が早がったやっていう話はよく聞くんで。でもね、自分ひとりでやるよりかやっぱりいろんな知恵持ち寄って少しね。まっ勉強会つったらおかしいけれどもね、うん、そういうようなのやりながらあのう、ある程度まとまって。うん、動いていった方が。多分それぞれみんな考えてる事って違うと思うし、うん。批判ばっかりじゃなくてね出し合ってなんかワイワイと楽しく、ん、あのうテーマ、テーマってかね、うん。あのう作って、まだその段階じゃないかなとは、ん。地域地域年代によってもこうあって欲しい、こうあって欲しいってのは全員違うと思うから、ん。そこをなんか少しちょっと少人数だけでもまとめるような勉強会みたいなのがね、沢山出来て、話し合えるような場とか作っていけばいいんじゃないかなとか、うん思ってます。まだ明確にこういう形でっていうは、ちょっと難しいんじゃないかなとは、うん、思ってますね、うん。

(その自分達の経験を他の地域に発信していきたいってのは、山本さんの思いでの。それを例えばどいう形で発信していきたいってのは)

なかなかやっぱり仕事しながらそういう形取るってのは難しいけれども。まあ、なんだろう。ネット上に書き込む、ぐらいがまず自分が今出来てる事。あとそれと、今度あのう、6月に去年もでき、去年やりたかったんだけれどもtやっぱり6月の段階ではできなく、年に一回あのう、ひとつ学会では発表毎年しようかっていう風に。まあ殆どは歯科の症例のほうだけども。今年は歯医者としてあのう、震災で経験した事として、あのう、そういうような震災が起きた時に、まっ雇用をどうしたらいいかっていうような問題とか、ウチら治療すんのに建物ダメで、他の所をあてにした時に収入どう、収入とかまあ患者さんとかのあのう、ね、やり取り。どうしたらいいのか、どういう風な形を取ったかっていうような情報をまあ、学会で発表してこようかなとか、ね、少しでも歯医者の、他の地域の歯医者の人達に、まっ院内でね、防災でなんなりあった時のプログラムって言ったらおかしいけども。あのう、院内マニュアルっていうのかな?うん、そういうのをなんか起きた時のマニュアルを作るのに役立ててもらえたらいいなと思って、うん。来月再来、来月か。学会の方で一応発表してくると。それぐらいはし、うん、今 今年やっと出来るかなと、うん、は思って動いてます、ん。

まあ、年代関係なく先ほど言ったようにやっぱりちょっとでもね、あのうみんなが住んでる地域地域のあのなんか起こった際のかつ、う、動きの仕方、うん。あのう、地震起きた時でもいいし台風来た時でもいいし、自分が住んでる土地で起きる自然災害に、を想定して。あのう、いわゆるその際のマニュアル、をその場所その場所で戻って作ってもらいたいなとか、あのそういう事を考えてあのう、もらえたら一番多分、あのう被災地にとっては嬉しいと思ってます、うん。で、まあ、学生っていう風に言ったけどもそれは多分そんなに被災と関係ないんじゃないかな。あっ被災地、あのうてっ、地震とか天災とかはあのう、から、学生20代どう思って欲しいとかいうのは、うん。今回の天災があったから若者にはどうして欲しいって一律に来ますからね。うん、天災はね、その場所に、うん。今回の天災からそういう風に年代に分けてどうの、まあね、若いのに体力あんだからおばあちゃんきちんと助けなさいよって言ったってね。やっぱ助けに行って失敗したケースも亡くなったケースも沢山訳だし。年代関係なくなんかあったらば自分で策定、あのう自分ででもそこの職場ででも学校ででも作った防災、あのう震災起こった際の後によくマニュアルを作ってそれに沿ってあのう、動いて、なんかあったならば、もらいたいと、うん、いう風に思いますかね、うん。

山形 政大

山形屋商店は明治41年に創業、山形政大さんは代表取締役を努めており、お味噌と醤油を製造と販売をされている。事務所と工場が津波の被害をうけてしまい、当時は販売のみを行っていた。がんばっぺ石巻を通して支援を受けたり、元気復興委員会にも所属されている。中小企業としての立場や見方、そして仲間の大切さについてお話してくれました。

山形屋商店 ホームページ

がんばっぺ石巻 山形さんプロフィール

石巻復興企画商品ネット

復興に向けて。まあとりあえず政治に対する意見はすごくたくさんありますけど。まずはやっぱり。やっぱり一番、自立するっていう心が一番大切だと思いますね、みんな、それぞれの経営者に。でそう思ってる人達が、今のもう一年経った時点でなんにかしらアクションを起こしている人達なんですよ、そういう人達は。そういう人達をもうちょっと救って欲しいなっていう。特に中小企業っていうの、こちらの地場にいればおおよそ99%がね、中小企業だからね。で変な言い方だけど中小企業人達の方が、やっぱり意識が高いので。この、こういう田舎の方では。でやっぱそういう人達を救ってかないと地域が救ってくれないんだよね。で雇用っていう問題にしても今は民主党世間だからなんたらよくわがんないけど。失業者目線でしかものを見てないような政策しか我々からすると見えてないので。かい、企業の人救って会社を救ってこないど、雇用に繋がんないっていう風な目線の政策があまりにも薄いような気がして。結果的に失業者って言われる人達に実はしわり…来てんですよね、多分。

でっ、あのう神戸の関係の震災で苦労した人もいるし、こう聞いていけばやっぱり政治に頼るのは一番最後で。自立をまず考えなさい、そして次がやっぱり、仲間で立ち上がるって事を考えろって。そういう事をやっぱりやってかないと… なのでそういう面から見ても復興センターの、復興。まっ復興センターとしては物販の方を中心にやってるんですけど、復興委員会あの、ね、荒川さんなんかも入ってるこういろんな業者入ってる。仲間で立ち上がるっていう事をやってきたっていうのはやっぱり一年経って大きかったなと思います。

あともし、企業サイドで友達がいたらって思えばやはっぱり休まないで一刻も早く立ち直る事を考えた方がいいんだろうなぁっておも、思う。前向きにやっていく人の方にいろんな情報だったり、いろんな物はそっちに流れていくっていうすごく肌で感じた、やっぱり人間は前向き、そして友達は沢山(笑)仲間を大切に。

出来れば、だっこういう活動もなんで協力するかって言うと。例えば暇だったらお金があります、ハワイに遊びに行きます、海外に行きます、それはそれでいいんだけど。あんまり、多分ハワイ行っても来年行っても十年後行ってもあんまり変わんないと思うんだよね。だけどここの被災地ってものすごおく復興に対して激変していくので。このありさまを出来るだけ頻繁に通うって言うのも変だけど。自分の目で見て、関わり方は人それぞれでいいと思いますけど。関わって頂く事が、我々にとっても力になるますし。皆様にとってもすごい良い経験になっていくのかな。多分日本の中で、今回は特別大きかったっていうのもあるんだけど、小さい災害なんて今、去年だって台風ってね、あの和歌山だかあっちの方とかはすごい被害受けてるし。あれだってこっち側の震災が無かったら本当にトップニュースになって、逆に今日本全国がね、あっちの和歌山、あっちの方に、頑張ってねって多分みんな言ってる可能性の方が高いかもしれないし。でその辺をある程度平ったく平等で見たときには。うん、あの、そういう人に目を向けるっていう気持ちを持っていただきたいし。

多分ねぇ、あの、一番激変してってとこに携わるのは一番楽しいと思うので。そういう風なところに、関わっていただけるのはすごくありがたいし。皆様の人間形成のなかでも良いのかなと、いう思いがあるからまあ、今日ね、お話さしていただいたというところです。

阿部 利基

震災前はガス会社に勤めていた阿部利基さん。門脇町に位置していた会社は津波にのまれてしまい、会社は休養の状態。現在は石巻市議会議員として活躍されている。インタビューでは復興やボランティアへの思いを話してくれました。


それ視点にもよるんですけど、まず一つは石巻の企業はほとんどダメージを受けちゃ­ってるんで、自己再生が出来ない部分が大きいですね。で、前は、結構石巻市の方って私­の主観ですけど、小金持ちさんが結構多いんですよ。あの、やっぱこう、ご自身で成功な­さって、こう、おっきかなくても自分で一軒家持って土地もって立派にやっていらっしゃ­る方が多かったんですけど、あの、震災はそういう人たちの持ち家と会社もダメになって­るんで、で、底に外地の方のチェーン店とかが参入して来ちゃってるんで、ドジョウの、­石巻に元あった企業のほうがだめに成って、チェーン店に浸食されてる状況って言うのが­今かなって私は思ってますけどね。なので、石巻人がビジネスやるには難しい状況加奈と­は思いますね。

なんだろう。僕が一番よく、あちこち震災を飛び回って思うのは、いま日本中で起き­てる、まあ正確には世界中で起きてると思うんだけど、年の平均化的なものが起きてると­思うんだよね。つまり仙台に行っても、北海道に行っても同じもの買えちゃうじゃん今、­ぶっちゃけ言うとネット、楽天でも買えちゃうじゃん。そうすると、都市間の重みって言­うのが無くなってて、そうすると何が強いって言うと観光名所があるほうが強い。でもそ­れもだんだんこう、ネット上のビックイヤとか一回行ったこっきりで終わっちゃうんで、­まして神戸で言われた話は、観光産業って言うのは非常にその雇用創出力が低いんだそう­です。だから地場なものを産業として、そこからどう復興していくかっていう話にならざ­るをえないんだけど、それで結局年の平均化が起こっちゃうと、石巻市に美味しいかまぼ­こやサンがありました。でも大手の美味しいカマボコ屋さんが入ってきちゃうと潰れちゃ­うんだよね。これが全国津々浦々に持ってってちゃうと、石巻での美味しいかまぼこ屋さ­んって言うのが無くなって、美味しい全国のかまぼこやサンって言うのが入ってきちゃう­。それをね、あの、おそらくこれ、構造改革の問題もあったと思うんだけど、少しね、都­市ごとに個性を出せるような街並みとか商店街を作ってあげないと、あの、商店街の過疎­化って言うのは収まんないと思いますね。

うん。ちょっと難しいと思うんだけど、一番僕が良いと思うのは、たとえば、あの皆­さんキルフェモンっていうケーキ屋知ってる?
(あ、知ってます。)
美味しいよねあれ。あれ仙台にあるのよ。で石巻人からすると、仙台でしか買えない­ものなわけ。で、俺は仙台とか行くと底の近くに行くと必ず買って帰るわけです。て言う­風に美味しいもので通販を限定するとか、なるべくしない。そういう形にしてあげる店を­持ってないと、あの、商店街潰れると思う。関空もそうじゃん。おれここ最近何回か行っ­たけど、あれ何でも売ってるもんね。たとえばジマでしか売ってないお酒とか、やっぱり­そういうものを武器にしていかないとね、これからの平均化が起こってる仲では勝てない­し。


復興ってことですよね。これあの僕もボランティア組織やってるので、よく復興って­言葉が先走ってるって言うのもあると思うんですけど、あの、なんだろう、復興っていっ­た場合どの段階におくかって言うのが人によって違うと思うんですよ。で、石巻市として­考えなきゃならないのは、やっぱり長期的な、ある意味で20年30年の復興って言うの­を考えなきゃいけないなって思うんですけど、企業人としてやっぱり、ここ1、2年が勝­負だろうと。

ていうのもやっぱり今だと復興って名前付くだけでもお客さんいっぱい買ってくれる­じゃないですかものをある程度。でももうちょっと最近は売れ行きもうちょっと芳しくな­いようですけど。で、そこのそういう、いわゆるダーティな言葉だけど、復興特需的なも­のが確かにあると。でも一方でそれをこう生かさないまま1年過ぎて、もう一年こうまん­じりとして過ぎていくと、結局その復興期って言うのは終わっちゃうと思うんですよ。ね­、うん。

で、もう一個僕には立場があって、石巻人として、ボランティア組織をやっているも­のとして考えると、やっぱり最終的な復興は自分たちでやらないといけないんで、たとえ­ばやっぱり経済圏としてみたら自立した経済圏をもう一度、取り戻すような流れに持って­かなきゃいけないと思うんですよ。で、その期間は5年とか10年とか考えなきゃなんな­いし。

神戸なんかでは今17年目ですけど、ちょうど私この前お誘いを受けて神戸の復興の­状況を見てきたんですけど、やっぱり地域地域によって成功と失敗っていうのが如実に出­ていますし、そこで我々がもっと学ぶことがあるなって改めて思いましたね。
その期間て言うのは人によってもやっぱり違うと思います。それを統一して、やっぱ­りあの、前に進まないと結局ばらばらなまま、時間だけ過ぎちゃう。この1年みたいにな­っちゃうかな、っていうのは凄い肌でかんじますかね。

やっぱり復興って言うキーワードの中に、なんだろう。絆って今流行ってますよね。­絆って糸偏に牛って書くじゃないですか。あれ、糸で牛をひっぱてるんですね。それって­この、絆って凄くこう、きれいで良いんですけど、一個だけその、自分で歩く意志って言­うのが、その、が出てこないと僕は思うんですよ。だからその、ありがたいものなんです­けども、なんて言うかその、復興って言うものの中に絆って入れちゃうと、なんて言うか­引っ張られるだけになっちゃう。て、そのボランティアとかとの兼ね合いもあって、すご­いその複雑に事柄が絡んでるんですけど、自分の意志で立つって言うのがやっぱり復興だ­と思うし、世界中の人が、たとえば台湾が200何億って額を送ってくれる、アメリカで­も応援してくれる、オーストラリアでも応援してくれる、ヨーロッパでも応援してくれる­って言うのになったときに、何を彼らが求めてるんだろうなって石巻人に考えたときに、­やっぱり元の生活のように自立した、尊厳ある生活を取り戻してほしいって言うので応援­してるっていう風に僕は思うんですよね。ただ一方で今の絆って言うのは外地だのみの経­済であったり、あとは、ボランティア頼みの運営だったり、あの、回ってない行政だった­りとすごいこう、問題が複雑化して、住民の主体意識って言うのが、そう、喪失してる。­それが神戸での失敗の、成功と失敗を分けた大きな要因だなと、うん、感じました。


うーん。なんつーんだろうな。覚悟ない奴は言ってこないほうがいいね。あと、自分­の善意だけの人も入ってこないほうがいい。あの、自分の善意を押しつけて帰っていく人­って僕はもう最悪うだと思うし。うん、だからそういう人たちってね、自分の善意を肯定­するために対象を捜すんだよね。だから僕らみたいな被災者とか、たとえば可哀相な人、­その、差別受けてる人って言うのを探して歩くのよ。でそうすると、自分でその善意っていうのを肯定するためにずっと僕らを被災者にしておかな­くては彼らにとってはならないわけ。だから僕らが立ち上がろうとするとそれをふさぐわ­け一生懸命。だからそういう人たちはね本当に復興の妨げになってる。間違いなく。だか­ら本当に、本質的に最初に入ったボランティアの方みたいに、あの、僕ら道だけ作って帰­るんだみたいな人たちこそが僕は感謝されるべきだし評価されるべきだと思うけどね。

荒川 元一

ガス販売をはじめとした荒川七衛商店は昭和6年に創業、現在で荒川元一さんは三代目となります。会社は津波にのまれてしまい、荒川さん自身も波に巻き込まれてしまいました。その後、石巻被災企業復興支援がんばっぺ石巻に加わり、石巻の現状を世界へ発信するマガジン「Rolling Press(ローリングプレス)」を創刊。国内と海外へ発信していきたい強い思い、復興への思い、そして震災で気づかされた人との繋がりについて話してくれました。

がんばっぺ石巻 荒川さんプロフィール

Rolling Press ローリングプレス Facebook

Rolling Press ローリングプレス ブログ

地震が起きて、ええ、その後自分も事業所の中を確認して、でまあ大津波警報だとラジオ聞かせて、大津波警報が来てるってんで、事業所からその撤去させた後になんで私が一人残ったかと、やはりあの、人の命は尊いものだってのをやっぱり身にしみて学んでいた事だったので。まあ最後は自分の命が亡くなっててもやっぱり守らなきゃいけない。仮に、た、例えばあの、従業員が亡くなってしまって私が逃げて助かってたらやっぱりあの、社会が周りがどう批判しようと自分が一番いや、嫌だろうなと。だからそれで残って確認しようと思ったのが結局自分はまあ助かりましたけど、危ない思いをした訳ですよ。でもそれは今になって見ると、やっぱりそういう運命でその後に、の活動てか生き方に私があの、生かして生きてかないといけないんだろうなと思ったんです。

でそん時は今まで日本の国としてはそういう災害が、自然災害があった場合に個々の事業所に支援をするっていうスキーマは何もありません。ただ今回は甚大な災害なんで何か国にね、あの訴えて、何か考える、考えたいと思いますっていう話を受けて私たちもそれ是非、その、雇用をこれからあの、喪失守るためにもそういうかた、何か支援をいただきたいっていうような事を陳情したんですね。でその一ヶ月後に4月の半ばぐらいに声がまた掛かって。で、実際にはどうだったのって聞いたら、いやあ現状では新しいスキーマない。ただその、あるとしたらその、国からのあの、緊急的な融資で、近隣が安いものだったら借りるできるよっていうスキーマしかないと。でその、えーそのやったのは古藤野っていう方と松本さんっていうのがあのう、声かけて、いやそうじゃなくて自分たちでやっぱ立たなきゃダメだから、と言っても個々じゃ無理だから集まろうってことで、確か、5月だったと思うんですけども。そこで、元気、石巻元気、被災企業元気復興委員会っていうのを作ろうって事で。

私、青年会議所ってのは40までで、私は37で初めて3年間しか所属してなかったんだけど。あのまぁ社会に奉仕して、仲間をつくっ、大事にして明るい未来を作りましょうみたいな信条を、3信条ってのをあげてて活動してるんですけど。まぁボランティア的な団体ですよね。でそういうのでまぁ、なんとか町おこしをしようとか社会を良くしようっていう志を持つようにこう集められ。持って集まるんじゃなくて持つようにこう勉強してから入らないみたいな誘われて。僕も最初は断ってたけど、たまたまあの、私のあのう同級生があのうその代表になるからってんで強く引っ張られて、じゃ3年間だけだけどやってみっかっていうような感じでね。そん中でその松本さんなり、ええ今朝会った山形くんなり知り合って。ええまぁいろんな、腹を割って話せる、いろんな事を。まぁ政治の事とか、あの宗教の事とか仕事の事とか業界の事とか。もう業界違くてもこういう、こうなんだ、とんでもねぇなぁとか困ったもんだなぁとかっていう、実はこうなんだよみたいな話を腹割ってさぁ、あのう話せる仲間が何人かいて。まぁそういうのしてから声が掛かってあの、陳情に行くよってのがあの声掛かったんで。多分その団体とかそういう仲間がいなかったら私も孤立してて途方に暮れてていたと思うんです。