谷川 海明

谷川海明さんは法音寺の住職さんであり、石巻青年会議所会員で『石巻復興支援会』の代表もされています。

住職さんとして責任感を感じた時、一番嬉しかった事

(使命感とか責任感とか、自分ではなんかこれをやんないといけないんだろうな、とか、助けてあげないといけないんだろうなっていう気持ちはやはりありましたか。)

そうですね、その、おしょうにんさんって。お坊さんなんだけどおしょうにんさんって言われて、おっさんとか、こっちの言葉で言うと。おっさんどうにかしてくれ。お袖を本当に引かれる、今でもちょっとね、頭に残ってるんだけども。
その、ちっちゃい子から大人まで。職業 俺はその、みんながみんなそういう目で見るから。子供からもそう見られるし、お母さんからもそう見られて。まあ、割とタフな方っていうか何でもできる方で。最初は過呼吸になってるおばあさんをどうにかしてくれって言われて。袋かぶしとけばいいだよって。あんた見たことあんのかって、見た事あるから、あるんだよったらすごい、あれをしてくれこれをしてくれって。
後はまあ、それをまあ必要なのは私だけじゃなくてね、できる人がやっぱりそのケアとか包帯巻いたりとかそういう事ができる人がついてやってたんだけども。段々経つにつれて今度は支援物資、物が無いと。物を持って来る力があったんですよ。知り合いも多くて東京の友達だったり、いろんな関係者の人が。そういうのも、ここにいるだけじゃできないんだけども、携帯が少し、メールだけ入るってなったら支援の要請をしたり。後はその、宮城県、被災外の人たちがここに自衛隊の要請をしてくれたりとか。そういうのは、なんつうんだ、外の交渉役をやって、それですごい支援物資がここに来たわけですよ、早い段階で。そうすると、まっ物もらえればね、みんなそっちになびくっていうか。この人に付いていけばまあ、あぁ食ってけんだなって風に。そういう信頼を、今でも。それは自分の力じゃないっていうか、他の支援してくれる方の力で。そういったの、でも良いこう、流れができたってとこがありましたね。

結構、一番嬉しかった事のは、ここに避難してた幼稚園児が、おばあちゃんになんかあったらお寺に行きなさいって、なんかすごい、よく言われてた、仕付けされてたっていうか。何かあったらお寺に行きなさいって言われてたんだよって俺に言って、ああ そういう風に言われる存在なんだと思って。まあ単純にそん時も嬉しいなと思って。まあまあ、本当にね、何かパニックになった、例えばおばあさんが地震で家に挟まれたりしたら。もうその子はただ泣いてんじゃなくてお寺にもう逃げて、なんとかあなただけは助かりなさいっていうか。もう自分の事はいいからここに来ればなんとかしてくれるっていうか。あっお寺って良いとこだなぁって、それを聞いて。でそれ、そういう存在だっていう事を常に、心に思っておけば良いお寺になるんじゃないかなと。

復興支援会代表、子供達の進学支援活動。学校を諦めないでほしい。

震災後に支援の方のオファーがすごく多くて。ここまあ、避難所だったから、何かありますかっていう支援がたくさんあって。そん中で自分がボランティア団体を作って、今活動してるんですけど。石巻復興支援会っていう、一応代表をやってるんですけども。それで本当に必要な支援っていうのを自でやっていうこうと。自分で示していこう。

今自分たちで独自のやってるのが進学支援っていうか。うちの住職が高校の先生だったってのもあったり。やっぱりあと自分は大学とかに行って外に出て学んだ事は多くあったのでこういう震災の時に、どうしても進学ってこう言いづらくなったり。勉強はある程度集中しないとできないと思うから。その、仮設住宅だと勉強部屋なんて、自分の部屋なんてないから。そうすると、どっかでやんなきゃなくて。俺は高校の時とかは図書館でやってたのね。とういうような記憶があるんだけども。図書館も避難所だったり、あんまりちゃんと営業してなかったから。じゃあ場所だけでも確保して。で受験生、対象がもう、本当の対象はもう浪人生っていうか。3月11日なんてまだ受験も終わってないと思うから。それで受けれなかったって人もいて。その期間、家族から親戚から、大変でしょ。その人は、受かるまで。でも勉強するのが、ね、浪人生の仕事みたいなもんだから。お金も掛かるけど。そういうので少しでもこう、集中してできる場所。あとはまあ一応講師の方を監視役でつけて。でそれも気つかうと。本当は教える、ちゃんとした塾にしたいんだけども、無料でやろうと思ってるから。そうすると要は、普通の塾の人たちが困るじゃん。お金を取って授業をやってる人たちの邪魔をしないように。だから本当に教えるっていうか本当に自主性を、本当に勉強したいっていう学生を。自分達の自主性を意識してっていうか。講義を聞くとかじゃなくて分かんないとこがあったら教えてくださいっていうぐらいにして。
今年も7月から始めようと思って。週末だけなんだけど、土日で。なかなか勉強を教えてくれる講師の人も見つからないで困ってるんですけども。自分の姉とか、姉の友達とか去年教えに来てくれてて。あ、でも昨年度はとりあえずみんな合格。高校に10人と大学に5人ぐらい合格して。

後はまあ本当の事を言うと、その、学生の人に諦めてほしくないっていうかなんか。震災だったからいいや、みたいな。甘えないで、妥協してほしくなくてね。こういう時でも普通に東京の人ってか、ね、全国的にちゃんと受験もあるし。大学ってのはスタートするし、高校の動くから。そういう時に、逆にチャンスだと思って今やれば。

俺は本当はまあ、良いとこ行って優秀になってもらって、こっちに戻って来てほしいという思いなんだけど。まあ、自由に、別に帰ってこなくてもいいし。でもまあ、少しは良く、被災地を良くしてくれという思い。だって自分がね、学生の時だったら、震災があって、やだよ、学校行くのも大変だし、部活もできないし。でもそういう風な経験をした子供は逆に強いと思う。

今野 雅彦

今野雅彦は石巻コミュニティ放送のラジオ石巻FM76.4で営業部長、技術部長、レポーターとして活躍されています。阪神淡路大震災の翌年に作られた放送局で、地域情報はもちろん、現在は災害放送局として放送を行っている。災害に強い街にしたいという思いで作られた放送局。いずれ震災は起きると覚悟していたが、地震と津波の大きさは誰もの予想外であった。その時に放送や対応、仕事への責任感、そしてこれからラジオ石巻の復興への役割についてお話していただきました。

ラジオ石巻FM6.4

震災直後のラジオ放送、仕事の責任感、みんなに石巻へ来てほしい

まあ情報源を全部その停電で立たれていたんですが、唯一そのパソコンが、ノートパソコンのバッテリーが、無線のケータイメールなんかを受信するためのネットワークが、だけが生きてたんですよ。で、リスナーからあの、今自分の身の回りはこういう状況だというようなメールがたくさん集まってきたんで、それを原文のまま読み続けるというような放送をしていました。まあ具体的に言いますと自分はいま屋根の上にあがっている状態で、早く助けに来てくれないかとかですね、もう目の前で人がどんどんどんどん流されて言ってるというような状態ですね。で、それが地区ごとにこう、読み上げ続けていきますとラジオではまあ、見えないメディアですから、ただそれをつなぐことによって情報を、見えてくるんですね。まあそういうことで、市民に対しては、こう、被害の状況を伝えることに徹して他わけですね。あの、必ずこういう日が来るっていうことは社員各自は想定はしていたんですよね。で、ただ今回の東日本大震災っていうのは想定の領域をもうかなり上回っていましたので、えー、底までこうなるとは思ってなかったんですね。まあ本当にそのそういう、今後はですね、私たちはそういう教訓を生かして、やっていこうという、最大被災地のラジオ局ですので、まあこれが私たちの取り組みや反省というものが、ほかの地域で今後どういう風に役立っていくのかという部分も、私たちも今後はお手伝いしていこうというようなことに、あのー、なるのかなと、ええ。

やっぱり、根性とか、粘り強さとか、あきらめないとか、まあ今被災地っていうのはこういう劣悪な環境の中でみんな頑張ってやっているので、まあそういった常に恵まれて、やっているんだって思うことはですね、やはり原点に立ち返る意味でも、まあこの、石巻の不自由な状況を確かめに来ていただくことはなにかの参考になるんじゃないかと思います。

復興に向けて、感謝を伝えるラジオ、これからのボランティア

まあ地元の中の人たちに対しては、ええ、1日でも早い復興に役立てる情報っていうのを、ええ、精査して、今本当にみなさん大変なこと、住まいだったり、お仕事だったり、えー、病気のことだったりお金のことだったり、様々な悩みを抱えている方が多いものですから、そういった人たちの悩みが解消されていくような情報をですね、発信していくことはコミュニティとして一番大事なことなのかなって、それと、外のほうにはですね、やはりその被災地の復興の現状というものを時間経過とともにどういう風にその変っていっていくのかという部分にやはりその関心を持っていただきながら観光というジャンルにもですね、石巻を逆に元気にしていただかなければ奈rないというアピールもしていかなければならないのかなあと。まあ電波は届かないんですけど、全国からいろんな主事を受けやすいので、あの、来ないでくださいでは無く、もう本当に来てくださいというような役割はやっていかなければならないかなと思ってます。あの、石巻市民の大半の人たちは困っていましたから、あの、そういう助けをしてあげたいという人とですね、助けてもらった人が歩んだ約1年と3カ月ということで、そこで新たな絆が強まったっていう話は、今うちの放送のゲストの人にはやっぱり感謝を伝えるためにまたラジオに出て来てもらったりっていう放送をずっと続けてきてましたからね。また今度ボランティアの方がその、手を差し伸べる方法につきましてもガレキとかヘドロだしとかもおわりましたので、また被災地での支援の仕方っていうのも変わっておりますので、まあそういったときとともに人の気持ちも、みなさんの動きというのも変わっていっているということがわかりますよね。この仕事をしていて。

菅原 秀子

菅原秀子はオカダプラニングの従業員、そして代表の菅原聖の奥さんでもあります。

常にっていうかやっぱり色んな人に震災を機にじゃないけど色んな人から支えられて­るっていう部分と、支えられてるって言っても結局自分の考え一つなので、あのー、やっ­ぱり信じられるものは自分だし、自分だけで決断しないといけないし、やっぱり頼るとこ­ろは頼りますけど、でもやっぱり自分で歩かないといけないですよね、結局は。なので、­やっぱり、うーんどうだろう。自分、最後に信じるのはあ自分しかいないだろうな。うん­。うん。なんかもう、助けてもらう分、結局判断するのは自分じゃないですか。でそれで­正しいって思えて行動するのがやっぱり後悔しないっていうことだと思うんで、なんか震­災を機にあれやっとけばよかったとか、そういうことはやめようって思った。うん。やっ­ぱアレしとけばよかったって、震災の直後は特に。あれやっとけばよかったとか、色んな­ものはあるんですけど、やっぱり、徐々になんというかやっぱり生活していく中に、まあ­、人の付き合い、全国の人たちと色んな付き合いがある中で、大変だったわねとかなんか­言われますけど、結局仕事上の付き合いがあってそういうことなので、なんだろう、ちょ­っと難しい、よく言えないんですけど、あの、なんだろう、後は人に迷惑をかけないとい­うこと。後悔しないようにすること、ぐらいかな―。うん。

まあ、仕事は何でも、仕事じゃなくても全部そうだと思うんですけど、人とのつなが­りがあって初めて全部が潤うって感じだと思うんで、気持ち的にも仕事的にも、やっぱり­底が枯れちゃうと、やっぱり何においても、ダメなんじゃないかな、ては思います。うん­うん。まあそこがすべて、その根本があって初めて繋がっていくとは思うんですけど。
(ボランティアの方とか来て、勇気づけられたりとか?)
そうだね。うん。なんか、そうだね。内へ内へ縮こまっちゃうとね気持ちがね。そう­いう新鮮な空気があると、やっぱり気持ち的に変化ってあるのかな、違うよね、やっぱり­、あ、がんばろうって。うん。思うけどね。うん。

千葉 尚之

千葉尚之さんはヤマトミ通販サイトで代表を務めております。

 

もっと人が居ればなっていうか。うん。もっとね、なんかね、今沢山ボランティアの­方も随分ね知り合ったんですけど、あの、若い方もずいぶん来てもらって、でこんな風に­ね、沢山若い人たちがこう、来てもらってこう、もうちょっと活気が出ればなと。で、あ­の、そうやって観光をあの、する施設なりなんなりが整ったら、そのそうやってね、人が­たくさん来てもらえるような街になればなって思うんです。それでその大市場がねその国­際的な年になればあのー、その、ねえ、色々と海外から沢山の人が来るでしょうし、で、­その市場色々ともっと整備して、そこに付随他商業施設なりなんなりを付け加えたらまた­そこに人が集まってくれるんじゃないかなとかね。今ね、本当色んな構想があって、うん­。ただ、やっぱ折角水産関係でやってるんで、ね。そういう部分で人が来るような形にな­ればなーとは思うんですけどね。

後今、あのー、私の会社も今参加してる「がんばっぺ石­巻」っていうサイトがあるんですけども、そこは被災企業の方たちが集まって、あのー、­なんだ、なんて言うか、がんばろうとしてるサイトなんですけどその、あの、なんだ、一­口一万円で、支援していただいた方にはその復旧後3000円くらいの商品を後でその、­お送りしますっていうもともとはあの、そういうサイトだったんですけど、それでね、あ­の、海外からもずいぶん注目されて、でそのサイトは英語版ていうのも今出来たんですね­。なんで、今今後私のお付き合いのあるボランティアグループが、外国人の多い、カナダ­人が主催してるグループで、で、私英語全然しゃべれないんですけど、うん、そうですね­、そういう人たちにもたとえば、あのヤマトミって部分でね、なんか知ってもらう部分で­はたとえば、その英語のページの部分っていうのはしたほうがいいのかなって思ったりし­て、まあ商品が海外まで行くには時間がかかると思うんですが、でもね、とっかかりとし­て、うん。

 

今興味を持っていただいてる部分が大きいと思うんですね。だから、それがあの、う­れしいし、あのそれがたとえば今日みたいにこうやってきて、こうやってお話しできるの­もうれしいし、こういう方の、だからボランティアの時もそうでしょうし、あの、ね、あ­の、毎日ガレキ撤去だなんだいって疲れ果ててる時に、でもボランティア何で週末メイン­で土日休み、休み、ああやっと休み加奈なんて思ったらボランティアさん来るから一緒に­しなきゃいけないとかいうんじゃやる、よしやるかって小さなことだしね、折角来てもら­ってるんだからってことでやって、そうして一緒にやるとまたね、疲れ果ててるんだけど­またね、全然知らない人達が来てくれてがんばってくださいなんて言われるともう、ああ­そっかなんて言って、まあそうすると逆にモチベーションが上がって、そういう部分も大­きかったですね今回。なのでそういう部分でやって今回4月からこうやって会社出来たん­ですけど、こうやって、自社の仕事も少しずつ、少しずつっていうか人が足りないせいで­凄い忙しいんですけど、な部分でもやってながらも、未だにね、こうやって興味持ってい­ただける人が居るっていうのはね、うん本当にね、うれしいんですけどもね。だから、そ­うやって、うん、また何年か後でも良いんですけど、またね、なんか遊びにきてもらえた­らねなんて、あ、こんなに良くなったとか、ここがまだこうなのかとか、わかんないです­けどね。非常にそうやって来てもらって感じてもらえれば、良いのかなと思って。うん。­それまで何も注目も、て言うか全然注目度のなかった街が、今こうやって注目されてるっ­ていうことが珍しいことなんで。多分ね、人がそうやってまた、たとえばボランティアで­昔来たとか言う人たちもまた見に来てみようとか、ということでいいと思うんですね。な­んか。

井上 大輔

井上大輔は井上海産物店の運営をされています。

そうですね、まあ。早く石巻が元気になって欲しいっていうのが一番だと思います。あのう、なかなかやはりスピードというか。スピードが遅れてるというか。もちろん瓦礫の処理もまだまだですし、ええもちろんあと町の中もですね。あとまあもちろんまだ堤防も建っていないような状況で。まあやっと始まったような状況で。また何年もかかりますし。あと、まあ、石巻だと魚町っていうあの、えー、そうですね。そう加工するような場所があるんですけども、まあそういうところかさ上げも、ええ、何年もかかると。まだ2、3年かかるというような状況で。あともちろん町中のほうもですね、あのうやはりまあ、震災の爪痕が大きすぎてなかなかあのう、まっ商店とかも戻ってこれないし。あともちろん個人、あのまあ、家も全然あの。もちろんやはり堤防も建てないので、やはり建てたくないという想いもあると思うんですけどもなかなか人も戻ってこないということで、ちょっと時間はかかるんだと思うんですけども、まあなんとかそうですね、少しずつでもまあ、石巻が元の形に戻っていけたらと思います。はい。

人口が減ったことも雇用問題などの影響で?

そうですね、まあ人口の流出はえー、やはり。まあそうですね、まあいろいろ。まあやはり家がなくなったっていうのが一番大きいと思うんですけれども。それで、かといって石巻で他に住めるところがあるかというとなかなかまたあの、住宅とかも建ってないので。あと土地とかもあまり、まあないんだと思うんですけれども。もちろんあの、被災した場所ももう新地で、もういくらでも土地はあるんですけれども、やはりそこにはね、建てたくないということでやはり内陸のほうへとか、まあ山のほうにですとか。あのう、高い所に建てたいっていうまあ気持ちがあるんだと思うんですけども。なかなか、ええ、土地が少ないというのもありますし。で、そうですね。そういうのもあるんで、どうしても他のところに。あのう、また生活もなかなかするのも大変だというのもありまして。他のところにどうしても行ってしまうかたちだと思うんですけれども。まあでもいつかはまあ戻ってきていただければ、ええ、ちょっと時間はかかりますが、まあ少しずつおそらくまあ、堤防も建ってきて。えー、住宅とかも商店とかもいろいろできてくると思うんで、まあなんとか戻って来ていただければと思います、はい。

その問題に対してどうしたらいいかとかありますか。

はい、まずはやっぱり安全ということが一つかなと思いますし。えー、またそうですね。やっぱり石巻も前以上に元気にというかあのう、そうですね。前よりさらに、あの、盛り上がっていけるような町にしなければやはり戻って来てはくれないと思いますんで。うんそうですね。まあいろいろまあ、話し合いとかは進んでるんですけど、はい。まだなかなか決まらないっていうのも現実もありまして、はい。まあなんとか盛り上げていければとは思います、はい。

そうですね、今回やっぱりあの、いろいろやっぱ「絆」とかね、ということで。あのかなり繋がり、人の繋がり、あのまあ、あったので。まあ、いろんな人に助けてもらいながら。もうちょっと自分達だけではここまであの、なんでしょう、普通の商売が出来るまでに、まあなんとか回復できなかったと思うんですけど、なんとか。あの、いろんな人に助けてもらって。もうもちろんあと、そうですね。まあ国の方からそういう支援金が出たりとか。まあそういうのもありますし。あと、まあお客様からいろいろ助けてもらったりですとか。うんそうですね。やっぱり災害後はあの物資が非常に無くて。あの、食べる物もなくて。あと着るものもないといったような状況で。やっぱり津波で全て流されてしまったんで。何も無い状況で、でスーパーもあんまり、まあ。ここ近所にもないですし、まあやってたとしても限定で、何個、何個かっていうぐらいだったもんで。まあお客様からあの、服とか送っていただいたりですとか。あと食べ物もそうですね、はい。送ってもらったりですとか。ええ、本当に、本当になんとか。うん、そうですね。色々助けてもらって。商売のほうでも色々まあ、仕入れ先のほうも結構やられてしまったんですけども。まあ、なんとか、奇跡的に助かったところが結構ありまして、でまあそちらのほうからもいろいろ融通聞かせてもらって商品色々買わせていただいて、なんとか、ええ、営業する事ができました、はい。

5年まではとにかくかかるかなと。5年。やはりまあ最初は私もあの5年とか10年とか言われて、信じられなかったんですけど、もう10年間まで、なんでしょう、この状況で、この被災した状況でやってくっていうのがまあ信じられなかったんですけど、まあやっぱ現実見ると本当に全然、なんでしょう。まだ未だに解体とかやってますし。うーん、やはりすごい時間かかるんだなというのは最近になって実感してはきてますね。はい。

本当にヘドロかきの毎日で。まっ10トンぐらいですかね、うちの商品、あのう廃棄という形で。一日で10トン運んだんでもう本当にもうすごい肉体労働だったんですけども。なんとかやって。でやっぱりなんかああいう肉体労働っていうのは、不思議なもんで。なんか、あのう、充実感も欠片もなくて。もう、なんでしょうねもう。なんか怒りに任せてやってるような感じでしたねもうホントに津波に対する怒りというか、震災に対する怒りでもなんとかやり遂げたって感じがしたけど。まあ、なんのなんでしょうその。うん、なんかこう、なんか充実感っていうかまあ、何にもなくて。やり遂げたっいうのも何にもなくて、もう虚しさだけが残るみたいな、感じだったんですけど。で多分やっぱり地元の方達も、なかなかそういう感じだったと思うんで。やはりヘドロかきとかも、あんまりしなかったっていうのはありまして。でそういう時やっぱりボランティアの方々が、夏場すんごい暑い中に来ていただいて。本当に町きれいにしてもらったんで、それが本当にありがたくて。やはりやっぱりショックとか、もあって、なかなか地元の人達動けなかったんで。まあそういう時にすごい町きれいにしてくれたおかげで、なんとかその後やっぱり地元の方達も、あのう何か活動しようっていう気になってきてくれたと思うんで。それは本当にもうボランティアの方々には本当にありがたいと、本当に思いました、はい。