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「町でツイッターがあるけど、たいした事は書いてない、俺が得る物はない。」
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「町でツイッターがあるけど、たいした事は書いてない、俺が得る物はない。」
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「子供もいるし、仮設ではうるさいかと思って(町を)出た。」
阿部司さんは割烹滝川の代表取締役と料理人としてご活躍されており、石巻元気復興委員会にも所属しています。地元の食材を使った日本料理を提供してきました。また、創業からつづく釜飯とうなぎ料理が自慢。「いまだから出来る事」に集中し、より良いお店づくりをしている。「戦時中に建て替えをした先代の思いを考えると、震災の被害に負けずに建物を残していきたいと思っています。来年の丑の日には本店でうなぎを焼きたい」先代への思いや石巻への思い、震災で気づかされた事についてお話していただきました。
自分の指名、役目を震災後改めて確認できた
改めて食の力っていうか、みんな涙ぐんで喜ぶんですよね。やっぱりその、美味しいのは美味しいし、あったかいものは美味しい、あったかいものはあったかいままそのまま食べるのがおいしいんだとかですね。なんかそういう、はい、あの、(0:21・・)とか仮設にいる方が買いに来てくれたり、色んな機会あって寄ってくれたときにね、本当にね、そういった中で、ああ、おれの指名っていうのはそうなんだなって、食を通してみんなに元気になってもらう、あとは法要ですか、仏前にその、特に石巻っていうのはその、8000円も1万円もかけたご霊前っていうのがですね、法要の(0:53・・・)を作るんですけど、それをこう、あげて、仏さんにあげて、こうく酔おうするんですけど、震災後何もそういう店もなくて、コンビニから弁当買ってきて、その、それじゃあ情けなくて、仏さんに申し訳ないっていう家族の方の話をいただいたりして、そういった要望にも応えたいと思って、本当に、お米借りれなくて、魚屋さんやる前にも自宅で作って、もう材料もないんで本当になんかちょっとした野菜の煮物とか、適当に寄せ集めて作ったのを何とか友人だったりとかのご霊前に届けたりしたんです。そういった流れでやっぱり自分はあの、なんとかしたい、してあげたい、家族のその色々応えたいし、やっぱり地元の(1:52~1:53・・・・)魚に色々手を加えたり、手料理にしてお渡しするとかですね。やっぱりその、自分の使命というか役割みたいのを本当にその、明確になったと思いますね、うん本当に。(2:07~2:08・・・)ところ絵の変化ですかね、やっぱり震災前震災後で、やっぱりその、そういった思いで人生またやっていこうというか、はい。
震災で気づかされた事。人との繋がりや絆を実感した時、ああいう雰囲気はどうやってまた作れるのか。
そういった自分の、財産て言うかなんですか、気付かせてもらったんですよね、人だったり、ああいう古い店だったり、自分のそのやる割だったり、まあその、石巻はそういったものは、あって素晴らしかったんだなっていうのを全部こう、教えてもらったっていうかそういった意味では凄く、これ以上ない場所を教えてもらったっていうか。自分でもそれは本当に忘れないでいてそういうのは続けてこれからも生きていこうかなってそういう感じですかね。ダメだったんだな、元に戻したいな、ここもなくなったそこもなくなった、ダメなことばっかりじゃなくてやっぱりそういう風にやっていこうと思います。
(1:16)
お金も意味がなくなった。結局は店もなければ流通も。お金あったってしょうがないって震災の後は思ったりして、そうすると近所の方とかも今までは話したことない人もちょっと打ちで作った梅干し食べてとかそういうやりとりがあったり。みんなでも一緒なんですねみんな一緒の思いをして、みんな食べれないし、凄かったし、暗かったし。なんかあの時、みんあ一体感あってよかったですけどね、凄く。ものは無かったけどそういう、楽しいっていうか充実して、外で焚火して子供たちと交流を作って。
(2:21)
今後どうしていきたいかって言ったら、そっちのほうが、そういった人とのね、繋がり(2:28・・・・)また打ちに来てもらえるんだったらまた会えるなとか、とっても良いなとか思ったり、それはありますよね。
阿部信也さんは丸平かつおぶしの代表であり、石巻元気復興委員会にも所属しています。
実際水産会社はこっち加工関連の水産なんかは200社位あって、そのほとんどがまあ壊滅してるとそれで、みなさん当然施設も設備も、うーん、あと原料も5万トンくらい被害を受けてるわけ、全体で。金額にすると350から400位になるのかね。400億くらいなのか。その中で原料もない、設備もない中で、もう解雇せざる終えなかった。ただ打ちはたまたまこの建物が残った、んで上野3階部分は水が来ていないていう、うーん、ところだったんで、やっぱりかすかな希望って言うか可能性があれば、それはできるかもしれないと、まだ。でも内部も被害状況もわかんないわけだから、まだ。出来るかもしれないと、で、従業員もやると言っている。うーん。もう、だったら、やってみようかと。そんな責任感とか、まあ、うーん。その当時はあんまりそういう所よりも、とりあえずさっき言った従業員解雇せずにやるといった、ずーっと前にそう決めた、だからそういう風に忙殺されてたって言うのが現状だった。
(話し合いとかってされたりしますか?)
ん、ほかの会社と?
それはえっとやってまして、復興センターとかで、最初はみんなで集まって業種は違うんだけど、こうやって銀行は貸し渋るねとか、どうなのとか、そっちはどうなのとかこんな制度があるんだけど使えないかとかそういう情報を共有する場として始まったんだよね。そこでそのだんだん水産商品も出来るようになって、じゃあちょっとセットにして売ってみる、じゃあって。一緒に大阪のシーフード展持って上がったんですけど、そこに、一緒にそこに行って、展示して売ってみようかとか。でそれがじゃあこんどはお店が出来るっていうんでじゃあちょっとやってみるかってだんだんなってきて。
だけどこう200社もいっぺんにやられたもんだからそういう動きで、一緒に売ろうか一緒にものを作ってみようと、うちも(1:17・・・・)といっしょにふりかけを作って2社で作ってひとつって名前で、味噌鰹節と合わせてごまもいれて、そういう動きとかもやってるし、そういうのがどんどん発展すればいいなと思って。
最初はやっぱり2,3人の(1:44・・・・)で共有しました。そういうのも、あの、がんばっぺ石巻っていうホームページにのってるから。一同みんな集まって、今、現在の情報、たとえば、こういう本部も、まあ社団法人化してるんで、こういう販促をして、大手の企業さんが販促として使いたいとか、支援する、とか支援するために使いたいんだとかって言う情報が入ってくる。それにもっと対応して、ものももっと売れると思う。そういうメリットがありますよね。一緒にやるって言うことには。
石巻のコミュニティーについて。
これは絶対必要さ。間違いなく、この町内でも避難所に、この町内の方々集まって、まあ俺は2カ月だけど、(0:17・・・・)あと、やっぱり反対した人もいるし、でもやっぱりばらばらじゃあなかったから、みんな助け合って最初、みんな水、飲む水もないんで、4時間ぐらい並んで、水をもらって、あとトイレの水も水が詰まっちゃうから、近くの小学校のプールからバケツひっくり返して、そのまままずトイレを清掃するとか、そういうはなしも、あとは、うーん、そうね。そういうのをやって、みんなでやっぱ一緒に、一緒で中央公民館みたいなフロアで、知り合いがやっぱいるわけですよ。そうするとね、あんまりうちはこうプライバシーとか言って(1:07・・・)もしなかったし、で、また、そうね、そういうコミュニティがたとえば阪神淡路のときにも、みたいに、復興、公営住宅を造っても、ばらばらになっちゃうわけです。公営住宅っていうと公平にしなくちゃなんないから、抽選で入る人を決めるとか。この地区の人だけ住まわしてくださいっていう、これはダメなんですね。いまはこここういった地区に建てる、ここに戻ってきた人は、まあアンケート取ったら7割くらいの人がこっちで出来るならそういう所に住んでもいいて言う人もいるし。そのほうがさ、だって、年寄り、70、80にもなって、ローンで家なんてまた建てられないでしょ。家は建てられないんだったら公営住宅でいいわって、家賃払うからって言ったって隣近所わかんないとかって、それで阪神淡路の時は孤独死とかさ、孤立死とか増えてくるわけさ。ここで誰がね、なんだあの人最近みてないなってなったら、ちょっと聞いてみるかってなるしね。
佐々木孝寿さんはヤマサコウショウの代表と、元気復興委員会の一員としてご活躍されています。
3.11以降は震災前より以上ですね、地域の、えー、活動て言うのにですね、積極的に、えー、協力していこうということで、震災前までは、どちらかというとですね、単独で行動することが多かったんですが、震災後はですね、同じ、同僚の皆さんと歩調を合わせてですね、協力できることはしていく、それから、石巻の、そのー、異業種の人たちなんかもお付き合いも積極的にするようにしています。
(震災前と震災後でいろいろ変わりましたか?)
あ、変わりました。私が一番変わりました。
(はあ、どういう感じで。)
ですから、先ほど言ったように、独立独歩であの、進むっていうだけじゃなくて、お仲間の人たちに、それから石巻で働いている、仕事をしている会社さんの人たちとかね、コミュニケーションをよくとって当社の事をよく知ってもらうのも大事。無効、先方様のこともよく知る、で、出来ることは手を取り合いながら、一緒にやろうよという風に。
石巻の良いところ、お客様から励ましの声
石巻の一番いい例、石巻の一番いいところはね、まずなんていうのかね、食べ物がうまいですね。魚は最高に上手いです。魚は美味しい。それから、お米も良いお米がいっぱい取れます。お水もいいです。野菜も美味しい、お肉も良い、食べ物が良い、良い食材がいっぱいあります。高くないです。東京と比べたら全然安いです。そういうね、石巻は食べ物の、食材の宝庫ですよ。景色も海を、太平洋を前にして非常にね、素晴らしいロケーションがあります。そういった良い点をね、今はみんな放射能とかで怖がってますけど、それが済めば、また石巻に来てもらえれば必ず満足してもらえるから。あります。それだけ美味しいですから。
(元に戻るには結構な時間がかかると思うんですけど。)
懸ります。しょうがないですね。あー、3年じゃ厳しいかな5年、もしくは10年かもわからないですね。
(必ず元には戻せると。)
はい、もとにっていうか、もっと仲良しになってよくなると思います。そうですね。地元、私はここで生まれて、ここで育ったから、責任ていうよりもここが好きなんです。責任じゃないです。好きなんです。それでいいんです。お客さんも待っていてくれてるんです。いっぱい励まされましたよ。頑張れ、待ってるから、いっぱい励まされました。そのお客さんたちが待ってくださっているから、頑張ろうっていう気持になれるんです。
(やはりそれは人が、)
人です。そうです。人です。
伊藤秀伸さんはギフトショップの運営をされています。
震災前に戻すとかって言う考えはそこはもう思ってないですね。震災前に戻しても結局この石巻っていうのは、震災前に戻したからといって景気が良いわけじゃないんですよ。なんで、震災前に戻しても景気が悪いんじゃどうしよう加奈なんてなってしまうだけなんで、もう震災前は震災前ってもう考えを捨てて、であらたに出発していくような気もちでやらないと、震災前震災前って言う風にいつまでも引っ張っているようじゃ、もう伸びることはないですよね。
(石巻全体の復興って言うのは前の石巻に戻るんではなくって、もう、)
もう新しくしたほうが私は良いと思います。やっぱりこの辺子供歩いているような、お母さんが歩いているような、なんかそういう感じの、感じが良いかなって、安心して暮らせるような町がね、良いかなっていうね。でもなんか、私が幼い頃は結構子供たちでバーっと遊んでたんですよ。車もそんなに走ってなかったし、道路も舗装されてなかったんです。砂利のとこも多かったんです。車とかもそうですね。なので、まあ走り回って遊んでたんですけど。今そういうのは全然見れないんですよ、そういう光景をね。だからそういう子供たちがその辺で遊んでられるような街が良いなって、うん。あー、まずは石巻をよく見てもらって、ここおかしいんじゃないの、こここうしたらいいんじゃないのとかっていうところがいっぱい見えてくるんじゃないかねって思うんですよ。よその人の目から見れば、ここに住んでる人は、もうここに何があって当たり前ってなってるんで、特にちょっと年配の人たちとかは。うん。で、よそから来た人に何でこの道路こうなってるんだろう、ここが一通なの、大きい道路にひとつにしたらもっとべんりじゃないのとか。このテーブルあっちじゃなくてこっちにやったほうが良いんじゃないのとか。そういうのよその人から見れば、よく見えると思うんだけどね。だからよそから見てほしいですけどね。うん。今回被災でこんな風にぐちゃぐちゃになりましただけじゃなくてね。うん。石巻市っていうのはまずこういう形で、合併して大きくなっちゃったんですよ。石巻市って。なんで、今回全然被災にあってない地域もあるんで、そっちはそっちでみてもらったほうがいいところもあるんで、広く見てもらったほうが、うん、いいかなと、うん。
むずかしいよね、それ、仮設に行った時にも、色んな風に仮設って出来てたんだけど、そんで、たとえばこの地区の人たちが入るってなった時に、てんでバラバラにこう入った地域と、私たちはこう、底お仮説に入るのを待ってますっていう地域と、やっぱりこう、まとまって入ってるところは昔からの知り合いでね、隣近所もうまくいくかもしれないけど、ポツリポツリと入ってきてしまうと、どうしても、うん、考え方は違くなってきてしまうんで、で、石巻っていうところは、その、海のほうの人と、ちょっと中に入ったほうの人とt、後町の中の人とちょっとその人たちもろもろ考え方が違うんで、その考え方の違う人たちが同じところに入っちゃうと、やっぱりちょっとしたことでそうじゃないとかああじゃないとか。うん。こちは喧嘩口調で言ってなくてもね、相手はなんだこの人ってびっくりする時もあるから、んで上手くいかないっていうのはありますね。うん。震災後、だけども合わない時、だけども合わない時は、この店こうきれいに片づけてきれいにして、辞めてどっかで働いたら、良いかもって、うん。でも、やっぱり片づけてる時にお客さんがきたり、友達が来て、ねえ、励ましの言葉をいただくと、やっぱりここでやってないとこの人たちに迷惑をかけちゃうよなって、うん。せっかくね、ずっとやってきてて、いなくなってっていうのは申し訳ないよねっていうのがあってやっぱりここで頑張らないといけないよねっていう、うん。
高橋英悟さんは大槌町吉里吉里地区にある吉祥寺の住職さん。吉祥寺は指定されていた避難所ではありませんでしたが、震災当時は急遽お寺の一角を避難所として開放されました。
「保護司っていう仕事。ボランティアなんだけども、法務大臣の委嘱を受けて間違ってその罪を犯してしまった人達の更正の手助けをするっていう仕事があるんですよ。保護司会っていうのがあってそこの中ではお付き合いはあったんですけども。震災を契機に仏教会が出来て。今会長は釜石の仙寿院さん(せんじゅいん)。和尚さん方が力を合わせて、今やれる事なにかっていうと、一生懸命もうとにかく拝む事しかできないんですよ。だから、みんなそれぞれ和尚さん方が安置所を回ったり。安置所でお経をあげたり。あとは火葬場でずっとあの無償のボランティアをしたりっていう、そういう事を通して、みんなで力を合わせてこうっていう思いが本当強くなった。仏教会の主催っていう事で各種いろいろな法要、お勤めもするようになった事はあります。一周忌。ちょうど一周忌のときにはコラボレーションで法要をやりました。」
http://youtu.be/MsNR2fJvcFc
「最初のお盆の時もいろんな支援がきたんですけれども、とにかくお寺を解放してできることは何でもやろうって思って、避難所をやっててとにかくみんな頑張ってるんですよ。みんなの前でしくしくめそめそ泣いてる人は誰もいなかったの。これは本当びっくりするくらい。でみんな心の中では大変なんだけれども、自分よりももっと大変な人がいると。家族の中で3人4人なくした人、子供までなくした人もいるからね。そういう人がいる中で泣けないって思って頑張ってる人がほとんどだったんだけれども、4月のはじめ音楽の慰問っていうのが来てくれたんですよ。その時に初めてみんなで泣いたの。もう誰の事も気にしないで声あげてわんわん泣いたの。これはと、自分でも音楽、芸術の大切さというのはすごく感じて、今に至ってるんです。」
消防団員として、また地域のリーダーとしても活躍した経験から、遺体の身元確認の役割を任されていた。
「俺しかいなかったからって自分で言い聞かせて。知ってる顔だし、特徴も知ってるしな。」
震災直後の、壊滅的な状況の中で現場の責任者として動いていた芳賀さんから、当時の避難所のことなどを伺いました。
「メインになってたのはまあ、吉里吉里小学校の講堂とお寺の吉祥寺。あとはいとこ親戚の方に分散して家族の方に、我々みたいに分散して、とこう3つに分かれたんだな。」
松岡由香利 |
クリップ4 ミシン工房のはじまり |
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