中嶋 幹夫

中嶋さんは釜石で生まれ育ち、その後大槌町の市役所近くに家を建てた。釜石も大槌町のどちらも自分の故郷だと語る中嶋さん。大槌町の好きなところや町の未来について語ってくれました。

地震が起きても津波が来るっつ事は頭で分かってても。今ほら、あの、堤防ね。防潮堤って言うんだけどね。波除けだとか、津波が来たとき除ける。そういうのがあるがらね、人の安心感はあるんだけども。ところがほら、そういうのあって、それに頼り切ってしまう訳ね。堤防あるから大丈夫だろうと、少々波が来ても大丈夫だろうとかね。そういうほら、あの、やっぱりあの、お年寄りが結構いるからね。だからそういう人達はどっちかっていえばね、逃げる、避難するのが大変なのね。
だから今度は車で逃げないで、そういう津波なんかの場合、徒歩で逃げなさいっていうようにはなってんだけども。やっぱりそういう高齢者だとか、なかなか不自由な人が多いとことか、そうなるとね、車で逃げざるを得ないんだよね。堤防っていうかその防潮堤はね、今度はうんと高くなる。14.5ぐらい、そのぐらいの高い防潮堤が、を作るつもりなんだけどもね。まあ、いい面もあるし悪い面もある。今度は海がまったく見えないから。
だから、我々こういう風に津波にあってね、ああ津波ってこういうもんだっつって分かってるから、だからいいんだけども。これから段々ね、一年一年って経ってくるとそれが風化してしまう恐れがあるね。津波の、こういう津波があったよーっていうのはね忘れないようにはしないとね。

避難するっつう事がね、大事だよっていう事が分かってても、逃げなかった人達がいっぱいいるからね。それでももろにも津波で、2階にいれば大丈夫だとかそういうようなほら。避難しても寒かったからね。寒かったから上着も何か、財布とかさ、色々ほら、それぞれの事情がいっぱいあるからだけど。避難から戻った人達はもうもろに。あと、2階で大丈夫だろうなと思って2階にいた人ももうすっかり、ね。

大槌の場合ね、犠牲者が多かったからね。だからこういう点もね、もうすこし防災、避難するという事をまずね。あれだって色々、逃げるためには大変な事もあったと思う、でもやっぱり大きな津波っていうばなんだけど、どんな津波の時でもね、やっぱり避難すると。そういうね、あれが大事なんですよね。これが徹底されてればこのぐらいの犠牲者は出なかった。

六串 穂野香と三浦 早織

六串さんと三浦さんは高校の同級生で、卒業を近くに迎えている親友です。六串さんは家族と家で生活していますが、三浦さんは家族と仮設住宅に移りました。「被災者」という言葉はどういう人に当てはまるのだろうか、町の活動と復興計画は大人だけのものなのだろうか。10代の視点から震災後と町の未来についてお話してくれました。

あの、私は家が残ってて、さおりちゃんは仮設なんですけど。なんか自分、私自身はなんかそういう、家も家族も無事で。大きい被害っていうのはなかったですけど。だから仮設に住んで、今仮設に住んでる人。そういう震災の話を自分がしていいのかなっていう。被災したって言うのかな、っていうのはちょっとありますね。

復興のために子供議会っていう、そういう。今度高校生とか大学生がそのこれからの大槌の復興のためにどうしたらいいかっていうのを話し合って。議長じゃなくて町長。町長に話し合いの内容を提出して、それを実現させるっていうなんか。そういう場があるんですけど。そういうのがあるので、こう、大人達と一緒に高校生とかの子供の意見も取り入れて復興させていけるんじゃないかなって思います。
(その、子供達が思ってる事もこれから反映されるだろうという風に)
はい、多分。

(高台に家を建てて、であとなんか、14.5メートルの堤防を海の所に建てるみたいな話を聞いたんですけど、そういう話って知ってますか)
はい、知ってます。
 知らなかった(笑)
(それはどこから聞いた、)
あの、バイト先で聞いた話です。
その話をしてくれた人も、なんかその大槌の復興のためにみたいな、そういう活動をしてる人。
(そういうのって高校生とかってあまり知らないですかね)
多分知らないです。

震災前の大槌町もすごい良いとこだったので。それ以上にいい町になってくれたらいいなって思います。ボランティアの方の話を聞くと、なんか、来て、被災。あ、大槌町にこう、来ていいのかなって思ってしまうみたいな。そういうなんか、自分は、なんか。そこ、そこの被災した訳じゃないし、多分その人の気持ちも分からないかもしれないのに、こう、軽々しくじゃないけどなんか、来ていいのかなっていう風に思ってたっていう話を聞いた事があるんですけど。でも、なんか。今大槌町に足を運んでくれるだけで多分復興に繋がると思うので、いい、すごくありがたいです。

越田 征男

越田さんは仮設商店街で自動車店舗を構えていると同時に仮設団地のリーダーとしてもご活躍されています。大槌町を出るか出ないか悩みましたが、結局町に戻ってきた方が多かったそうです。仮設住宅で気持ちが落ち込んだままの人たちや大槌が抱えている問題などを教えてくれました。

お年寄りにすると、ね。ウチの息子は元々、今いう千葉の方で働いてるとか、どこで働いてると。もう、流されたし。今から、ね、死ぬまで生活するための貯めた金が銀行の口座にあるけども、これから家を作って暮らすったって。家は建てられたって、暮らすのは何年かで終わりだべと。そうしたっけその残った家は息子や娘たちが帰ってくるかとかわかんねぇもん。黙って、息子や娘たちの方へ、お世話になろうかと。で、(仮設を)出てる人達もある。
早々とそうした人もいるのよ。その人達が逆に戻って来てんだよ今度。やっぱり一緒の生活はできなかったって。それが今、今、今の現状ですわ。

ですから、話が、飛ぶような話に聞こえるかもしんねぇけども、この仮設の中で出入りがあってんだ。ただ若い人達は帰って来ないけどな。じゃあその、そういった状況の町づくりをどうしたらいいかとなると、こりゃえれぇ人が任せるかわかんねぇけど、それ程ええ頭があんだかねぇんだかよく分かんねぇが。どうしたらええんだべがっていうのが本当だと思うよ。

先ほど言ったじゃないですか、その、仮設の隣の人と交流がなかなかなくて、

うん、それは自分のね、その3月11日のその癒しにはなるわ。で、自分が生きてるっていうのんの、寂しさの加点ね、紛らす加点には若干なるでしょう。お互いに傷をなめ合ってるだけな訳よ。先がわからねぇもん。ただ分かっている事は、ある程度のお年の人は、先はあっちへ行くんだろうなと。

鬱なる人ってつうのは、あのね、ちょっとこっちくれが足んないぐらいの人がならねぇんだって。真剣に考える人がなるんだって。だから俺もなるかもしんない(笑)
だからそれがね、そういう状態が今のことろはね、みんなそうだと思ってる。

先輩各にはあたる、ね、こちらの方の近くのね。阪神大震災になるものがあった。北海道でもあったよう、ね。どんな風に解決していったのかなぁ。というとこが今我々が、ね。その、そっちの話は過去かもしれないけど、それ逆に辿っていかないといけないのかなと。そして良かった面、良かった面を精査しながら町づくりをしてかねば。

小向 幹雄

小向さんはNPOまちづくり ぐるっとおおつちの会長を勤めており、町の復興へ様々な活動を行ってきました。もちろん復興の思いは強く、私たちにその活動、町づくり、そして大槌町の未来について語ってくれました。

加賀 寅吉

きらり福幸商店街のファーストフード店を経営している加賀さん。震災後の苦労と乗り越えなければいけない壁、そして町への思いを語ってくれました。

やはり早く、安全な所に、そして元の所に繋がって生きたいなっていう町民もいるだろうし。様々いるだろうしね。大槌を諦めて内陸の方に住所を移して行ってる方も。だから人口はどんどん減ってる訳ね。だから長くなればなるほど、もう人口は減るだけです。だって若い者は就職できないでしょ。向こうで避難をしてて、内陸の方でね。そして就職に入っちゃったら。大槌はいいんだけども、じいちゃんばあちゃんだけで、大槌帰りたいって言ったって帰れねぇ。年寄りは、やっぱ生活は大変だもんね。一緒にいたいもんね。だからそういう人達がもう、お金のある人達、どんどん向こうに行っちゃって。ここはお金のない人達。取り残されてんの。

もう大槌はこんなもんだ、って。こんなもんだってばね。我が故郷を捨てて、もう危険だから、安全が。もう土地に、就職もできたからもう向こうに生活したいっていう人達がやっぱ半分、大槌町の半分ぐらいはいるんでな。
その辺の人が、散らばっておりますのでね。そういった方が全員が戻って来るって事はないんじゃないかなって思います。

こういう津波を起こして。次の日は知らない顔をして。海がしょんぼりしてるな。海って、便利がよくて、命を奪ってく海だから。川にしろ、海にしろ、ね。そういう危険な場所に住んでるっていうのがね。いつかはまた来るんでしょ。東京も危ないって言ってるよ、どうしますか。安全な所に迷わずに、避難してる方がいいよ(笑)まあ私らは、津波の、小さい津波の経験があるんだけどね。こういう大きな津波っていうのはもう、高い所に逃げるっていう事が一番。

もう今は本当にここまで一生懸命世界の、全国で被災があった形の、たくさんの言葉に表せないような援助、ご支援をいただいてるひとりだから。もしね、こういうことがってやはり、日本国民が考えるのも大事だけども、国の方でもね、もっと政策をきちっと、政治をやってもらいたいし。

我々、世界の方々に大変ご支援をいただきましたね。これ以上もっと、もっと求めたってね。限りもということもあるんだろうと思うんだけども。それでもこうして日本全国の方々が、ボランティア、観光客がね… 100円でも地元のために落としてくれんだよ、って指導のものに本当にありがたい。感謝してます。

まあ皆さんもこうして勉強なされる方も助け合いの気持ちをこれから新しいものに変えて行こうと願っていると思うんだけども。まあ時期ね、これからの国民が満足して生活ができる環境を作っていった欲しいです。

岩間 美和

一般社団法人おらが大槌夢広場が運営するおらが大槌復興食堂の店長である岩間さん。この復興食堂を開店した時のことや思い、町の復興とコミュニティー作りについて語ってくれました。

結局、さっき言ったように、目に見えて変化が常に起こるようにやって欲しいよね。うちらはまだね、いいけど、結構高齢の人達とかさ、なんつうんだろう。仮設で死んできたくない、とかさ、できれば新しい自分のね、住居で生きたいっていう気持ちはみんなすごく持ってるだろうし。とにかく早くしていかないと、なんつうんだろう、住む場所もそうなんだけど、働く場所も少ないから若い世代の場所もなくなるし。

だから、計画段階。計画、計画ってんじゃ。こうやってやってきますよっていうのがね、明確に出てないからさ。一応なんとか固定表とかタイムスケジュールは出てんだけど、常にそういってないので。なるべくね、その、計画の固定表通りに進んでって欲しいと思いますね。

なんかよくわかんないけどその、例えば。例えば役場の中の復興計画とかいろんな区画整備とかいろんなの見てると、外の人達が作ってるような感じがしてて。地元の人達主体で動いてるように見えないので。なんか、間違った変な町になんなきゃいいなって思ってるし。

結構あの、立場上じゃないっていうか、いろんな食事営業場に行くことがあって。で行って話すともう、もうそんな復旧に向かってるんでしょ。家が建ってるんでしょ、って思ってる人もいるし。だからみんなにそうじゃないんだよ、って伝えないといけないと思うし。
今はね、今回はあまりにも攻撃がね、被害が大きすぎたんで、さすがに阪神淡路の時みたいにグワッとね、進まないし。それはどんどん伝えていかないといけないと思うし。

仮設に住んでる人達のコミュニティーっていうのはこう、まだ戻っているようには見えないよね。それをね、どうかなんないのかな、っていう。社交的な人は、自分でどんどんどんどん広げていくんだけど。そうじゃない人達にね、仮設のコミュニティーの人達がいるんだから。その人達をね、こう、今後どうしていったらいいのかっていう、課題があるし。

なんとなく元の地域で固まってるのもあるし、まるっきりバラバラなのもあるし。で結局、見てると、女性は結構そのね、お茶飲んだりとか色んななんか、なんとか教室とかってやってそれで出向いてるんだけど。やっぱ男性の人達ってなかなかその、そういう事に出ない人達が覆いんで。なんかそういった人が出るような何か、きっかけも大事なんじゃないかなって思うし。

結構みんな出たがってるんだけど足が出なかったりとか。送迎してるっていうのは強みと。後は、ちょっと仮設の集会所でできないような教室。例えばヨガの教室とかお花の教室とか。こうやると結構人気でみんな来てくれる。

やっぱ目に見えて変化してないし。ここの場所なんて全然、ね。変わったつっても、今からだと雪が降って白くなってさ、春になって溶けて、草木生い茂って緑になって、でそれが枯れての繰り返しなんで。せめてここのね、昔の所在地が目に見えてこないような変化しかしてないし。やっぱ目に見えて変化しないと、なんつうんだろう。安心しないしさ、今後どうなんだろうって。

若い人達がいたいっていう、そういった町に早くならないとみんないなくなっちゃうからね。

芳賀 正彦

震災直後、芳賀さんはNPO吉里吉里国を立ち上げ、今でも活動中です。海の塩水で弱って木を切って薪として再利用する活動に取りかかっており、2度目の出荷を果たしました。津波が去って、どん底に落とされた気持ちから復興に向けての積極的な活動の変化を教えていただきました。

私も、津波の次の日から行方不明者のこう、無惨な遺体、姿を何体も目にしてね。子供から、飲み友達から、喧嘩相手から、おじいちゃんおばあちゃん。眠れない夜が続いたんですよ。行方不明者の捜索、ガソリンスタンドのくみ上げ作業。クタクタになって帰って来てね、さぁおにぎり食べて寝ようとしても横になるとね、すぐその犠牲者の姿が頭に浮かんで来る。
真夜中、何時間も私は焚き火の炎を見つめる事しかできなかった。
その炎はですね、俺に色んな事を教えてくれてる。津波に命を亡くした犠牲者の人達の姿から逃れようとするな、とか。犠牲者の人の苦しみとか悲しみとか、そういった思いを自分、己自身として受け入れろ。なんかそういう風に炎が教えてくれた。

犠牲、命を亡くした人達のそういう悲しみ、苦しみを、俺は自分の事としてしっかり背中に背負い続けながら死ぬで生きていこう、と心に決めた。その日の夜から眠れるようになった。その時から私はもう、怖いものは何もなくなった。だから、その時から、自分の力で助かったんじゃない、津波から助かったんじゃない。犠牲者の人が肩代わりして俺はたす、命を助けられた。思うようになってね。助けられた命をこの地域のために活かそう。残された人生をそういう事のために捧げようと。それは今の変わらない、死ぬまで変わることない。

豊な森を取り戻す。美しい海を、昔の海を復活させる。このふたつはどんな事があっても継続して、子供、孫の代までやっていかなくちゃいけない。

普通、津波時刻の支援物資っていうのは避難所から、被災者から町に申請が入って。その申請が県に来ます、岩手県。岩手県から国に来ます。で、国から、例えば乾電池の、懐中電灯の乾電池がいっぱい欲しいとなると、その申請は国から電池のメーカーに要請がいきます。そしてその電池は国に来ます。また県に来ます。町に来ます。そしてやっと被災者の人達の手に。一ヶ月以上かかります。
米軍から飛んで来たヘリコプターは、ズガズガと降りて来て、何が欲しい、って言ったんですよ、パイロットが。これと、これと、これが必要だ、と言ったら、オッケー。それだけで帰ろうとしたんですよ。で、そのパイロットにね、この事は大槌町とか岩手県を通してから私たちはいただくようになるんかって聞いたら、俺は吉里吉里の手軍だからすぐ吉里吉里の人達が使える、提供できる。で3日後に来たんですよ。

今、外国からも都会、日本の都会、全国からも支援の手が差し伸べられている。大槌町のまちづくりはこうしたらどうですか。金銭的な経済援助はできますよ。俺ら被災者がなんにもしないで立ち上がらないで全てそういうような人に任せて作ってもらった、キラキラ光り輝くような町でも、そこ、ここで暮らしていこうという人達の思いが込められていない限りそら美しい町じゃない。ことなにかあれば守ろうとしないと、ね。中心になるのは被災者であり、これからここで暮らし子供、孫。
だから私はなんにもしないで、被災者だ被災者だ、って言って助けを待つばかりで、世の中の事を不平不満を口にするばかりで、挙げ句の果てはネガティブになってくたばるような人生は選びたくない。毎日毎日、山の中でチェーンソー握りしめて森の上でくたばる。何も怖いものがない。

私は64歳でマイナスから人生のやり直しを始めたんだもの。若いうちはなんでも人生やり直し効くって言うけど、若いうちだけじゃない。64歳からでもやり直し。本当のやり直しだと思ってる。

鈴木 りょう子

鈴木さんは3児の母であり、旦那様は消防士として働いていらっしゃいます。現在、仮設住宅で生活している鈴木さんは、家をなくした人と家が残った人への思いを語ってくれました。「被災した人たちばっかりが大変なんじゃない、助かった人も反面大変だと思います。」始めは家が残った人たちが羨ましいという思いの変化を教えてくれました。

なんていうかな。同じ被災でも、仮設の方の人と、あと借り上げ住宅の人とか、あともうひとつはお家は助かっているんだけど、その人達も結局は被災とおんなじなんですよね。あの時はもう、家の、高見団地って言うんですけど、あそこは孤立してしまって。その中の何人かで動いて、食べる物や、それこそ色んな水とか交通の便とかその小さな箇所で動いたから。なんていうんだろう。被災した人ばっかりが大変なんじゃないいんですよね。助かった人も反面、大変だったと思いますよ。
結局被災、被災をした人達には、周りから大変ですね、っていろんな支援も来ますけど。ありがたいんですけど、助かってる人達も困ってんだけど自分のお家は助かったから、こう素直に助けてくださいっていうか、私達も困っていますって素直に言えないとこもあると思います。
だから、助かったから助かんないから最初の問題ではないかな、気持ち的に。

あたしは最初、ああ家も、家が助かった人達はいいなと思ったんです。自分の寝たいところにね、広い気持ちよく、お風呂にも入れて脚ものばせて良いなと思ったんだけど。段々にこうやって話をしたりしてると、ああ私たちがこうやって思う。確かに被災して苦しんだけど、その他の人達、助かった人達も反面大変なんだっていうのは分かりました。自分たちだけが大変なんだ、大変だって言ってられないと思った。

最初、からかな。不満。どうして仮設と借り上げ住宅と違うんですかって、同じ被災なのにっていうのはありました。そういうのはずっと前に言った事があるかな。いろんな支援の事でもあったから。どう違うんですかね、って、不満はありましたね。今ようやっと。ここ一年経ってからかな、被災してる人達もいるんだって、仮設にばっかりじゃなくて他のお家ね、借りて住んだりしてる人もいるし。そういう人達にもこう支援が行くようになりましたね。

やっぱり、ストレスですけね、子供なりに。最初はまあ家族といればいいっていう気持ちだったんだと思うんだけど、学校に行って今度は、自分の家はあるけどあっちの家は、友達の家はなくなったとか、親が亡くなったとか色んなのがかみ合いがあって。子供ながらにもストレスが溜まってましたね。聞いてると。
あと高校生のいるお友達の方は学校に行っていいのかなっていう悩み、悩んでる。お家もなくなって学校に行っていいですか、とかって言われたの、とかって。

ただどっちにしても逃げるが勝ちです。今回の経験で一番。どんなダイヤの指輪も何もそんなのも、いいです。本当に逃げるのが勝ち。そして、悪いけどやっぱり個人だと思います。自分だと思います。自己責任で行動しなきゃ。あと、もし子供が生まれたら、私は自分の子供にこういう津波とか何かあったら、自分がいる場所から高い所に行きなさいって教えてたんです。家に帰ってこなくていいから、もうすぐ高い所に。あとは、変な話、トイレが一番丈夫だから、もうトイレに入ってたら出なくていいよって。おさまってから出て来なさいっていう事を教えてました。

結局、兄弟達もいるし。変な話、生活基盤がありますよね。昔から守っているお墓とか、そういうのもろもろありますよね。そういうのを考えれば置いて逃げる、なんか出ていくのが、逃げてくような気分になっちゃって。
最初は怖いと思ったんですけど、海が。でも海育ちなもんで、自分が。そばにはいってませんよ、海は。でも、ちょっと用事あって内陸の方にいくとなんか違うんですよね。あっちから帰ってくるときに、潮の、海の匂いがしてその時に安心っていう気持ちになるから、それはやっぱり生まれから、小っちゃい時からのあれなんだと思うから、ここから離れたいと思わないです。

赤﨑 幾哉

赤﨑さんは小鎚中村団地の仮設住宅の会長を勤めています。仮設団地での生活や会長としての仕事と思いを語ってくれました。他の仮設団地とコミュニケーションを取りながら、みんなでイベントを開催する事に取り組んでいました。体を動かし、みんなで話し合い、狭い空間から一歩出る機会を作るために会長としての勤めを果たしています。

北上のジャパンクリエイトっていう会社が大船渡と大槌の支援員を再利用していただいて。まあ大槌から90人ぐらいかな。そして、なんていうの、見回り、各団地の。それで声かけしてもらってるのよ。特に独り住まいのおじいちゃんおばあちゃん、孤立しないようにさ。声かけてもらって、今日どうですかって。これ自治会では手が回んないからそういう所。そのために支援の人達に声かけしてもらってる。それから、こういう配布。いっぱい色んなのが来るから。そういうのを支援の人達にしてもらってるから。だからその人達からいろいろ情報を聞いたりね。であんまり、そうだからってこう、個人の家に土足で上がるわけにいかないから。ある程度の距離をとりながら、様子を伺ってね。そんでまあ、こういう事がありますから出るだけ出て来ないですかってさ。だけど、来る人はだいたい決まってるな。

でまあ、いずれ目的は、孤立しないように、孤独にならないようなね。そういう事でまあ、こういうような事業計画。みんなで出し合ってね、何々が必要なんだべが、って。

あとその、赤い羽共同募金会から10万円の事業費、助成金がするという事で申請して。で何を買ったらいいかっつったら、やっぱり男の人達に出て来てもらう為には、カラオケがいいだろうと。それで、カラオケのこのDVDを、あれを設置したの。電気屋さんから、ね。だからそれで毎週、これ見れば分かるように、金曜日の午後1時半から3時半までここ。ね、昼は。で今度働いてる人達のためにも第一、第三土曜日の7時からここでやると。夜は、コレ。
スナックに変わって。
スナック変わりする。そのうちにミラーボールを付けるかどうか、知らんっちゃ。
クラブにする。(笑)
いずれクリスマス、あ、忘年会は色々この、窓に飾って女の人たちがいろいろ工夫してやるってからさ。そしてやろうと思ってたよ。
ホステスはおばあさん達がそう。
うん、そうそう。

ここの仮設住宅に入居はして、生活何年経つかわからないが、いずれはここを出る訳だ。4年後か5年後か。その時に今よりも少しでも健康な状態で、ね。足腰が弱らない状態で退居しましょうっていうのが目標でさ。

一番ね、避難所で。私の体感で避難したんだけども。困ったのはね、国鉄式のトイレが使えなかったのよ、じいちゃんおばあちゃん、膝が悪くて腰が悪くて。トイレ。水洗じゃないから、今のようなね。だっこれが大変だったよ。つくづく足腰が丈夫じゃないといけないなぁと思ったよ。だっそういう事もあってね。普段からまず運動不足が祟るんだけど。ちょっとした運動でいいのよ。それをね、毎日繰り返してやらないと効き目がないから。

浜の人達が浜で生活、こちらもそうなんだ安渡っていう浜、赤浜とかさ。吉里吉里とか。そういう浜で生活した人達が全く山の中、田んぼの中にいるっちゅう事はさ、まず摩訶不信不信、夢でさえ見ない事が現実になったんだから。言うよ、毎日海を見て生活してた人がここ来たら、とたんに海がねぇが、おかしくなるって精神的に。

あのね、浜の人が、例えばこの奥に新山っていう山があるでしょ、風車があるのね。そこまで行くのにここ通ってくのはいいのよ、まだ海陸。そうじゃなくて毎日こういうとこにいるっていう話だもん、それはゆるくないよ。

(やっぱりここ海辺にすぐ近くに住んでた方々は戻りたいって。同じ場所に戻りたいっていう)

本音でしょ。ただああいう大津波はヤダからね。それはあの、それこそトラウマ、外敵、神経外傷症候群とかって名前があるのが。地震が来ると、こないだみたいにさ。はっ!あの津波だ!って一瞬思うがな。私も、ね。ここにいるってつい忘れてさ。えっ、津波だ、って一瞬思うよ、瞬間的に。あっ、でもここは上流に来てるんだから、家から5キロも離れてる所の上流に来てるんだから大丈夫だ、って思った。でも瞬間的にやっぱりもう、またあれか。

少々悪いでもね、海の見えるとこで生きたいなって思うよ。とりあえずね、潮風があたらなければ.. カモメのね、鳴き声.. ねぇしさ。やっぱり少々流されてもええからちょっと海の見えるとこがいいな、と思うよ。こんなとこに来て初めて分かるんだけどさ。今まではね、それがね、何とも思わねぇでさ、あれだったけども。

一番あの、進歩しないのは大槌だよ。でましてやね、その、山を崩す、畑を崩して土地を作ってってもねえから。その… 所有者が行方不明だとかさ。そういった山畑が多いもん。だから崩してどう…

まあ、顔合わせは、おーいここはいつ家建てる土地になるんだっぺぇな。そんな話だけだ。ところが、草が覆いってっけどもね、嵩団の一本も置いてねぇのさ。道路だけね、キレイな道路出てっけどさ。んだから、一番ね、岩手県でもここ一番遅いでね。ひとつかみもの村も建ってねぇんだもん。だから近所以外の人はさ、おーい大槌が発展してねぇのは金がねえのか、それとも知恵がねえのかって。ほんでどっちもねえと思うよ。
実際今ね、柳田事務局長がお話するようにね、町長以下39人の役員がやられた訳さ。でこういうのがね、まず行政として完全にストップしたのね。3日間ぐらいは、去年の3月ね、3日ぐらい大槌の情報が発信されなかったんだよ全国に。だから千葉にいる娘たちも、亡くなってたと思ってた訳だから。はっきり言ってね、情報がないんだもん。そのぐらいずーっと遅れて。それが今でも尾を引いたち、今おっしゃったように、土地の所有者が。討究されてない所が、いっぱいある。その、前に持ってた人を尋ねたら何十年もかかるのよ。そういう事も復興を遅らせてる原因だと私は思ってる。