菅原 秀子

菅原秀子はオカダプラニングの従業員、そして代表の菅原聖の奥さんでもあります。

常にっていうかやっぱり色んな人に震災を機にじゃないけど色んな人から支えられて­るっていう部分と、支えられてるって言っても結局自分の考え一つなので、あのー、やっ­ぱり信じられるものは自分だし、自分だけで決断しないといけないし、やっぱり頼るとこ­ろは頼りますけど、でもやっぱり自分で歩かないといけないですよね、結局は。なので、­やっぱり、うーんどうだろう。自分、最後に信じるのはあ自分しかいないだろうな。うん­。うん。なんかもう、助けてもらう分、結局判断するのは自分じゃないですか。でそれで­正しいって思えて行動するのがやっぱり後悔しないっていうことだと思うんで、なんか震­災を機にあれやっとけばよかったとか、そういうことはやめようって思った。うん。やっ­ぱアレしとけばよかったって、震災の直後は特に。あれやっとけばよかったとか、色んな­ものはあるんですけど、やっぱり、徐々になんというかやっぱり生活していく中に、まあ­、人の付き合い、全国の人たちと色んな付き合いがある中で、大変だったわねとかなんか­言われますけど、結局仕事上の付き合いがあってそういうことなので、なんだろう、ちょ­っと難しい、よく言えないんですけど、あの、なんだろう、後は人に迷惑をかけないとい­うこと。後悔しないようにすること、ぐらいかな―。うん。

まあ、仕事は何でも、仕事じゃなくても全部そうだと思うんですけど、人とのつなが­りがあって初めて全部が潤うって感じだと思うんで、気持ち的にも仕事的にも、やっぱり­底が枯れちゃうと、やっぱり何においても、ダメなんじゃないかな、ては思います。うん­うん。まあそこがすべて、その根本があって初めて繋がっていくとは思うんですけど。
(ボランティアの方とか来て、勇気づけられたりとか?)
そうだね。うん。なんか、そうだね。内へ内へ縮こまっちゃうとね気持ちがね。そう­いう新鮮な空気があると、やっぱり気持ち的に変化ってあるのかな、違うよね、やっぱり­、あ、がんばろうって。うん。思うけどね。うん。

山本 寿則

山本寿則さんは山本歯科医院で歯科医として働いています。

理想ねー。やっぱりちょっとあまりにもね、あのう。私、小学校中学校 門脇小学校 門脇中学校で、南浜町とか大街道どか、いわゆるごっそりなくなってしまった地域出身者なんで。あのう。復興が全く新しいものを作っていくのか、それとも前の状態に戻すのかっていう言葉に定義からも大分違ってくると思うんだけども、この先ね。ただやっぱり一番は人口を、は確保、ってか人口はね。あのう、増やしていける町に、増えていく町にしていきたいって思うのがやっぱり石巻に住んでる人間、離れなかった人間がみんな思ってる事だと思うし。ん、あのう住んでいく離れていかなっていうかね、そういうような形を目指して、ん。た町にしてい、いきたいなと、うん、思いますね。うん。

(そういうような町を作る為には、次のステップは… とういうのはどんなものですか)

んー、やっぱりなんだろうね自分だけで考えないでもうちょっとねっ、あのう集まって。んん、あのう話、まあよく言われてくるところだけれどもやっぱりどうしても聞こえてくんのは、あのあんまり行政には頼ってたりは何も進まないがら自分達で動かなきゃダメだろうと、いう風なのはあのう。やっぱり最初は何かあったらば行政に頼みに行って、あの回されて回されて、なんだ自分達でやった方が早がったやっていう話はよく聞くんで。でもね、自分ひとりでやるよりかやっぱりいろんな知恵持ち寄って少しね。まっ勉強会つったらおかしいけれどもね、うん、そういうようなのやりながらあのう、ある程度まとまって。うん、動いていった方が。多分それぞれみんな考えてる事って違うと思うし、うん。批判ばっかりじゃなくてね出し合ってなんかワイワイと楽しく、ん、あのうテーマ、テーマってかね、うん。あのう作って、まだその段階じゃないかなとは、ん。地域地域年代によってもこうあって欲しい、こうあって欲しいってのは全員違うと思うから、ん。そこをなんか少しちょっと少人数だけでもまとめるような勉強会みたいなのがね、沢山出来て、話し合えるような場とか作っていけばいいんじゃないかなとか、うん思ってます。まだ明確にこういう形でっていうは、ちょっと難しいんじゃないかなとは、うん、思ってますね、うん。

(その自分達の経験を他の地域に発信していきたいってのは、山本さんの思いでの。それを例えばどいう形で発信していきたいってのは)

なかなかやっぱり仕事しながらそういう形取るってのは難しいけれども。まあ、なんだろう。ネット上に書き込む、ぐらいがまず自分が今出来てる事。あとそれと、今度あのう、6月に去年もでき、去年やりたかったんだけれどもtやっぱり6月の段階ではできなく、年に一回あのう、ひとつ学会では発表毎年しようかっていう風に。まあ殆どは歯科の症例のほうだけども。今年は歯医者としてあのう、震災で経験した事として、あのう、そういうような震災が起きた時に、まっ雇用をどうしたらいいかっていうような問題とか、ウチら治療すんのに建物ダメで、他の所をあてにした時に収入どう、収入とかまあ患者さんとかのあのう、ね、やり取り。どうしたらいいのか、どういう風な形を取ったかっていうような情報をまあ、学会で発表してこようかなとか、ね、少しでも歯医者の、他の地域の歯医者の人達に、まっ院内でね、防災でなんなりあった時のプログラムって言ったらおかしいけども。あのう、院内マニュアルっていうのかな?うん、そういうのをなんか起きた時のマニュアルを作るのに役立ててもらえたらいいなと思って、うん。来月再来、来月か。学会の方で一応発表してくると。それぐらいはし、うん、今 今年やっと出来るかなと、うん、は思って動いてます、ん。

まあ、年代関係なく先ほど言ったようにやっぱりちょっとでもね、あのうみんなが住んでる地域地域のあのなんか起こった際のかつ、う、動きの仕方、うん。あのう、地震起きた時でもいいし台風来た時でもいいし、自分が住んでる土地で起きる自然災害に、を想定して。あのう、いわゆるその際のマニュアル、をその場所その場所で戻って作ってもらいたいなとか、あのそういう事を考えてあのう、もらえたら一番多分、あのう被災地にとっては嬉しいと思ってます、うん。で、まあ、学生っていう風に言ったけどもそれは多分そんなに被災と関係ないんじゃないかな。あっ被災地、あのうてっ、地震とか天災とかはあのう、から、学生20代どう思って欲しいとかいうのは、うん。今回の天災があったから若者にはどうして欲しいって一律に来ますからね。うん、天災はね、その場所に、うん。今回の天災からそういう風に年代に分けてどうの、まあね、若いのに体力あんだからおばあちゃんきちんと助けなさいよって言ったってね。やっぱ助けに行って失敗したケースも亡くなったケースも沢山訳だし。年代関係なくなんかあったらば自分で策定、あのう自分ででもそこの職場ででも学校ででも作った防災、あのう震災起こった際の後によくマニュアルを作ってそれに沿ってあのう、動いて、なんかあったならば、もらいたいと、うん、いう風に思いますかね、うん。

山形 政大

山形屋商店は明治41年に創業、山形政大さんは代表取締役を努めており、お味噌と醤油を製造と販売をされている。事務所と工場が津波の被害をうけてしまい、当時は販売のみを行っていた。がんばっぺ石巻を通して支援を受けたり、元気復興委員会にも所属されている。中小企業としての立場や見方、そして仲間の大切さについてお話してくれました。

山形屋商店 ホームページ

がんばっぺ石巻 山形さんプロフィール

石巻復興企画商品ネット

復興に向けて。まあとりあえず政治に対する意見はすごくたくさんありますけど。まずはやっぱり。やっぱり一番、自立するっていう心が一番大切だと思いますね、みんな、それぞれの経営者に。でそう思ってる人達が、今のもう一年経った時点でなんにかしらアクションを起こしている人達なんですよ、そういう人達は。そういう人達をもうちょっと救って欲しいなっていう。特に中小企業っていうの、こちらの地場にいればおおよそ99%がね、中小企業だからね。で変な言い方だけど中小企業人達の方が、やっぱり意識が高いので。この、こういう田舎の方では。でやっぱそういう人達を救ってかないと地域が救ってくれないんだよね。で雇用っていう問題にしても今は民主党世間だからなんたらよくわがんないけど。失業者目線でしかものを見てないような政策しか我々からすると見えてないので。かい、企業の人救って会社を救ってこないど、雇用に繋がんないっていう風な目線の政策があまりにも薄いような気がして。結果的に失業者って言われる人達に実はしわり…来てんですよね、多分。

でっ、あのう神戸の関係の震災で苦労した人もいるし、こう聞いていけばやっぱり政治に頼るのは一番最後で。自立をまず考えなさい、そして次がやっぱり、仲間で立ち上がるって事を考えろって。そういう事をやっぱりやってかないと… なのでそういう面から見ても復興センターの、復興。まっ復興センターとしては物販の方を中心にやってるんですけど、復興委員会あの、ね、荒川さんなんかも入ってるこういろんな業者入ってる。仲間で立ち上がるっていう事をやってきたっていうのはやっぱり一年経って大きかったなと思います。

あともし、企業サイドで友達がいたらって思えばやはっぱり休まないで一刻も早く立ち直る事を考えた方がいいんだろうなぁっておも、思う。前向きにやっていく人の方にいろんな情報だったり、いろんな物はそっちに流れていくっていうすごく肌で感じた、やっぱり人間は前向き、そして友達は沢山(笑)仲間を大切に。

出来れば、だっこういう活動もなんで協力するかって言うと。例えば暇だったらお金があります、ハワイに遊びに行きます、海外に行きます、それはそれでいいんだけど。あんまり、多分ハワイ行っても来年行っても十年後行ってもあんまり変わんないと思うんだよね。だけどここの被災地ってものすごおく復興に対して激変していくので。このありさまを出来るだけ頻繁に通うって言うのも変だけど。自分の目で見て、関わり方は人それぞれでいいと思いますけど。関わって頂く事が、我々にとっても力になるますし。皆様にとってもすごい良い経験になっていくのかな。多分日本の中で、今回は特別大きかったっていうのもあるんだけど、小さい災害なんて今、去年だって台風ってね、あの和歌山だかあっちの方とかはすごい被害受けてるし。あれだってこっち側の震災が無かったら本当にトップニュースになって、逆に今日本全国がね、あっちの和歌山、あっちの方に、頑張ってねって多分みんな言ってる可能性の方が高いかもしれないし。でその辺をある程度平ったく平等で見たときには。うん、あの、そういう人に目を向けるっていう気持ちを持っていただきたいし。

多分ねぇ、あの、一番激変してってとこに携わるのは一番楽しいと思うので。そういう風なところに、関わっていただけるのはすごくありがたいし。皆様の人間形成のなかでも良いのかなと、いう思いがあるからまあ、今日ね、お話さしていただいたというところです。

荒川 元一

ガス販売をはじめとした荒川七衛商店は昭和6年に創業、現在で荒川元一さんは三代目となります。会社は津波にのまれてしまい、荒川さん自身も波に巻き込まれてしまいました。その後、石巻被災企業復興支援がんばっぺ石巻に加わり、石巻の現状を世界へ発信するマガジン「Rolling Press(ローリングプレス)」を創刊。国内と海外へ発信していきたい強い思い、復興への思い、そして震災で気づかされた人との繋がりについて話してくれました。

がんばっぺ石巻 荒川さんプロフィール

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Rolling Press ローリングプレス ブログ

地震が起きて、ええ、その後自分も事業所の中を確認して、でまあ大津波警報だとラジオ聞かせて、大津波警報が来てるってんで、事業所からその撤去させた後になんで私が一人残ったかと、やはりあの、人の命は尊いものだってのをやっぱり身にしみて学んでいた事だったので。まあ最後は自分の命が亡くなっててもやっぱり守らなきゃいけない。仮に、た、例えばあの、従業員が亡くなってしまって私が逃げて助かってたらやっぱりあの、社会が周りがどう批判しようと自分が一番いや、嫌だろうなと。だからそれで残って確認しようと思ったのが結局自分はまあ助かりましたけど、危ない思いをした訳ですよ。でもそれは今になって見ると、やっぱりそういう運命でその後に、の活動てか生き方に私があの、生かして生きてかないといけないんだろうなと思ったんです。

でそん時は今まで日本の国としてはそういう災害が、自然災害があった場合に個々の事業所に支援をするっていうスキーマは何もありません。ただ今回は甚大な災害なんで何か国にね、あの訴えて、何か考える、考えたいと思いますっていう話を受けて私たちもそれ是非、その、雇用をこれからあの、喪失守るためにもそういうかた、何か支援をいただきたいっていうような事を陳情したんですね。でその一ヶ月後に4月の半ばぐらいに声がまた掛かって。で、実際にはどうだったのって聞いたら、いやあ現状では新しいスキーマない。ただその、あるとしたらその、国からのあの、緊急的な融資で、近隣が安いものだったら借りるできるよっていうスキーマしかないと。でその、えーそのやったのは古藤野っていう方と松本さんっていうのがあのう、声かけて、いやそうじゃなくて自分たちでやっぱ立たなきゃダメだから、と言っても個々じゃ無理だから集まろうってことで、確か、5月だったと思うんですけども。そこで、元気、石巻元気、被災企業元気復興委員会っていうのを作ろうって事で。

私、青年会議所ってのは40までで、私は37で初めて3年間しか所属してなかったんだけど。あのまぁ社会に奉仕して、仲間をつくっ、大事にして明るい未来を作りましょうみたいな信条を、3信条ってのをあげてて活動してるんですけど。まぁボランティア的な団体ですよね。でそういうのでまぁ、なんとか町おこしをしようとか社会を良くしようっていう志を持つようにこう集められ。持って集まるんじゃなくて持つようにこう勉強してから入らないみたいな誘われて。僕も最初は断ってたけど、たまたまあの、私のあのう同級生があのうその代表になるからってんで強く引っ張られて、じゃ3年間だけだけどやってみっかっていうような感じでね。そん中でその松本さんなり、ええ今朝会った山形くんなり知り合って。ええまぁいろんな、腹を割って話せる、いろんな事を。まぁ政治の事とか、あの宗教の事とか仕事の事とか業界の事とか。もう業界違くてもこういう、こうなんだ、とんでもねぇなぁとか困ったもんだなぁとかっていう、実はこうなんだよみたいな話を腹割ってさぁ、あのう話せる仲間が何人かいて。まぁそういうのしてから声が掛かってあの、陳情に行くよってのがあの声掛かったんで。多分その団体とかそういう仲間がいなかったら私も孤立してて途方に暮れてていたと思うんです。