20130706 坂本和憲 3

「(さきほど、一度他のところの避難されて、4月ぐらいには戻ってらしたって仰ってたんですけど、戻ってらしたのはなぜでしょうか、そのお仕事の関係でしょうか?)仕事もあれだし、学校も始まるってときだったんで、子ども達が。それで戻ってきたしそれ別にそんな染量的に双葉郡内とか、福島郡山みたいに高いってわけでもなくて、原発でその一週間とかがいわきが高かっただけなんで、 あとはずっとその放射能のヨウ素のぶんがあって急に放射能の濃度があがってでも一週間たったら下がった。であのセシウムとかっていうのはいわきとはずいぶん上空を通り越して関東とかにいったみたいなんで( なるほど、その情報みたいのはってどちらから)それはあとですね。うちらもあっちにいっても何をするってこともないしただ普通だったら田んぼとか畑にいってれば良かったのも何もせず子どもらと公園で遊んでるだなんだって毎日同じこと繰り返してたし、こういうことやってたってて思って、その当時思えばなんですけど、あの当時思えばうちらこっちに帰ってきて仕事できるのか自分ちのうちからあと畑の財産どうなるのかなあっていう気持ちでむこうには避難してたんですけど。自分のふるさとはってもう戻れないのかなってそれを思うとなんつうんですかね、小さいころからずっと生まれ育ってきたじゃないですか、そうするとそっち地元のだった小さい頃からの友達なり近所のひとなりだでなんか寂しくて涙でてくる感じはありましたね(その避難してるときも) そうですね。で帰ってきたらやっぱりこっちのがいいなと」

20130706 坂本和憲 2

“(販売の形態といいますか、農協にだしていらっしゃるのかそれとも直売所という形で ) 長ネギに関してはここ9割か100パーは農協経由で色々な市場にいってますね。(西洋野菜に関しては) 西洋野菜に関しては農協に関係なく自分で市場経由で東京方面いったりあと自分で地元いわきのたいらっていうとこなんですけど、あちらの飲食店、地元のスパリゾートハワイアンさんとかで使ってもらってます。(それは直接売りにいかれるんですか。)そうですね、ハワイアンズさんに関しても自分から売りにいまは、前は市場通してたんですけど( その前というのは311よりも前?)いや、311後も市場通じてやってたんですけど、ちょって伝票関係でちょっともめてしまってしまいまして、それで直接ってことで。( あ、そうなんですか、その市場をとおすのと直接売っているのでは違いはおおきくは) いや、ないです、ただ震災前は野菜のほうは東京のほうでも結構有名なレストランとかに売り込みで営業いったりあと県内でもホテルさんとかと取引はしてましたけど、まあ震災後は色んな諸事情でそういうとことは縁がなくなっちゃったというのはありますし、ありますね。”

20130706 坂本和憲 1

“(その311の前と後でなんか変化っていうのは大きなおのはありました?)変化的には価格の面ではやはり震災直後は1ヶ月間はだいたい出荷停止だったんで そのぶん仕事できずにまああの第一原発のほうもくすぶってて危ないということでうちの姉妹らが避難してきたらということで東京とか埼玉のほうに避難、一時して、4月の頭にはもう帰ってきちゃったですけどまあそれ までそれ以降出荷すんのにしてる時期があったのにできなかったんで30Rほど廃棄処分になっちゃいましたね。でそれで価格も、出荷が始まったら、他産地、例年の半値ででしたがね。でそれ以降もそこ年よりは風評被害もあるせいか、若干安め。(その、風評被害というのは今も続いて)そうですね、価格的には続いて、まあ風評被害があるっていう感じでまあ個人的には本当に風評被害なのかどうなのかってやはりどこかものがあふれれば、そこの産地の色んな野菜でもまあだぶついて 値が高くなんないで まあいっぱいでるときはどうしてもだぶついてるから、安いって言う感じになるけど、そういう面あるとやっぱりかなり差があるような感じはしますね。”

20130706 折笠明憲 6

(これからの福島の農業について)
“自分4Hクラブの会長やっていて、今自分が思ってるのは、食育というか、これからの農業を担う人たち、これからの子どもたちに、自分たちは一体何ができるだろうなっていうのをすごく今考えて行動してるんですね。で、一つのことを・・・ただ農業やるっていうのは・・・今「後継者不足後継者不足」って言ってるのが、あの、60代70代のおじいちゃんおばあちゃんが、いきなり20代の人たちに、「やれよ、同じようにやれよ」って言ったってたぶんみんな「無理です」って言うのが多いんですよ。で、それが自分が年齢、今もう30近くになって、30になってから、じゃあ10代の人に伝えるよりは、もう20代って若手でうちらが集まってる中で、じゃあ、今のうちらから自分の下の若いやつらにどうやって伝えて、どうやって下を育てていってあげることができるかっていうのを、一つの方法として考えられればいいかなあって思って今やっていて、えー、子どもたちに、あの、この農業というのを知ってもらってそれの上で「安全なんだよ」っていうのをPRしていきたいなっていうのが一つの今これからの農業として俺が考えてることで、実際あの、保育園のほうに出向いて、野菜のほうを作って、あの、みんなで収穫やろうとか種まいてみようとか言うのもやってますし、あと高校生の受け入れもやってますし。今年は農業短大が、あの、矢吹っていう、白河に近い所にありますので、あそこでスポーツ交流会をして、短大生で、若い農業者、うちら20代30代の農業者が立派に「農業で飯を食ってるんだよ、これは普通の仕事なんだよ」っていうのを伝えることができればなっていうので交流会のほうも企画して、やったりとかして。その・・・上の人たちや消費者っていうのもあるんですけど、消費者にやんなきゃいけないのはもうみんなでやってることなんで、自分たち今20代30代手前、30代頭の人たちと、次の・・・本当にすぐ下の次の人らが繋がることでこれからのこの福島の農業をもっと大きく、もっと、あの、堅実なものにできないかなと思って、それに対しては色々やってみたいなと思って今活動してるというか、はい。農業やってますので、はい。ちょっとそこらは、今頑張ってるところですかね。”

20130706 折笠明憲 5

20130706 折笠明憲 4 の内容の続き
“今もう復興だなんだっていうので、ある程度進んできてますだなんだって言ってますけども、そこの姿を見てしまうと、まだまだあれなんだなあ・・・まだ普通の生活ができるところまで戻ってないんだなっていうのがすごくよくわかるというか、目の当りにしてきましたね。だからとっても・・・うーん、なんて言えばいいのかなって。うーん、すごく自分のできることが小さいんだけども何かしてあげたいし、こういうのを人の・・・うーん、そうですね、その四国の人にも言ったんですけど、今まだ、まだ復活というか、復興も終わっていない状況というのを、そんな中でも私たち農業やってるんだよっていうのを、その四国の青年クラブの方々に、伝えてもらえればいいというので、あの映像だったり写真だったりいろいろ撮ってってもらって、はしたんですけども、実際来た人たちも、「テレビで見るのと現実で見るのはやっぱり違う」っていうのはすごく言われましたね。現実にその前にあるのと、テレビの画面で見るのでは全然迫力も違うし、思うところも違うんだなっていうのはありましたね。”

20130706 折笠明憲 4

(今年の5月に四国からの方々を南相馬へ案内された折笠さん。車で飯館村を通過したときに目の当りにしたことをお話してくださいました。)
“飯館を通ったときに、なんでしょうか。普通の田舎っていうのは、あの、まあシャッターが閉まってるっていうのはあってもまあしょうがないんですけども、農業者だからわかるかわかんないんですけども、両サイドの作られているべき畑、田んぼが全部草ボロになってるのが一面にずーっともう30分ぐらい進んでもそのぐらい続いてて、それのショックっていうのがすごく大きかったですね。実際気持ち悪いって思うぐらい、うーん・・・いるのが切なくなるぐらい、辛いところでしたあそこは。その、作物が・・・土地があったのに作物が作れない。なんか、あの、上の相馬さん・・・相馬とか大鷹のほうでも、やっぱり今まだ、やっと試験的に始まったっていうのがありますけども、飯館なんかはもう全然そっちには手つけられないって言ってて、田んぼも作っても捨てるような状態。でも作ることはできないから、一面に草原が広がってるっていうような状態だったので、もうそれを見たときのショック・・・その四国からきてる方々も、もう絶句に近いような形で、もう何も喋れないような状態が続いちゃってて、うーん・・・それを見るとまだまだ復興って終わってないんだなあっていうのを、うーん肌で感じた・・・時でしたね。”

20130706 折笠明憲 3

(質問)出荷停止になったものは東京電力の方に賠償・・・
“(賠償)もかけましたけど、そこは多少は出たんだとは思うんですが、えっとすごく、あの、賠償かける上で、かなり大変なんですよね。その、書類を作ったりなんだりで担当の人が来て、本当に補償するべきなのか補償しないべきなのかとか言うのが結構あって、最初の一年は結構頑張ったんですけど、そのあとはもう・・・大変で。うーん、ちょっと勘弁してくれって。で、今は、まあやんないでなんとか生活できるぐらいなものにしようっていうので、色んな作物作って、どれがいいかなみたいのでやっているので。”

(質問)賠償を一年でストップさせたっていう方は、あの、多いですか?私が知っている方だとずっと続けて・・・
“あ、いえ、それはもう(草野)城太郎さんとか、工場みたいな感じで作ってる人は断続的にやってるんですけど、うちの場合直売所メインなんで、それを品目別に全部出荷ロットだったりなんだりっていう風に出してくれって言われると、その日売れたり売れなかったりとかって言うのがあって、キロ数どれぐらい出した、何出したっていうのをすごく細かく出すのが大変で、そこを大まかにした状態でも出して、で、またおんなじ年がきて、で、その年によって解除されたり解除されなかったりっていう、山菜なんていうのがあるので、そうすると今年これ解除されたからこの分減らしますとかそういうのっていうのがすごく、それ以上また一から全部作り直しになっちゃうんで、それはしょうがないなっていうので。今はやってないような状態ですね。”

(質問)賠償に頼らずにこう作っていく上での心境は・・・
“うーん・・・心境か・・・最初はやっぱり「うわ、悔しいなあ」っていうのがありましたね。でも本当に最初だけですね。あとは・・・「じゃあどうすっかな」っていう軽い気持ちでもう。「じゃあ次これやってみるか」というので。うん。まだ、あの、農家始まって米以外は全然、毎年毎年色んなのにチャレンジしてるような状態なので、そこまで作物に対して思い入れがないって言っちゃ変なんですけども、そういう、どんどん新しいの取り入れてやっていこうっていう気持ちの方が強いので、そこら辺の切り替えはまだ、はい、他の人に比べると、つけやすかったのかなと思います。”

20130706 折笠明憲 2

(質問)ご自身の健康に関してはどのように感じていらっしゃいますか?
“うーん・・・すごく笑い話かもしれないんですけど、なんか死ぬときは死ぬんだからそれまで精一杯生きりゃいいんじゃないのかなっていうのが・・・うーん、うちらの中ではそれが大きかったですね。で、少しはじめ・・・あの、放射能の話が始まって、まあ最初は作るのが不安だったりなんだりっていうのがあったんですけども、その、あと世界・・・ちょうどその、地震のある年の1月に、ニュージーランド行ってきたんですよ。海外派遣で。で、世界の方も見てきて、自分の中でこう日本だけじゃなくて世界でもこういう風にやってるんだっていうのをちょうど見た時期だったので、その時に日本に帰ってきて、原発が起きて。で、今日本で0.1ベクレルだなんだって騒いでるじゃないですか。その状況下で世界はどういう風なんだろうなって見たときに、世界ではそれより高いところで農業やってる人もいますし、はい、もともとの線量が高かったりするところで生活してる人もいるので、じゃあそれに怯えて健康がどうこうだって言って部屋から出ない方が、うん、死ぬ確率は高いだろうし、それにあの、自暴自棄になってタバコ吸っただ、ヤケ酒しただってなって体壊すんだったらば、それはそれだっていうので。もう自分は仕事して、汗水かきながら仕事して、で、それで具合悪くなったらそれのせいじゃなくてもう、うん、自分でやって全うしたんだからいいんじゃないのかなっていうので、あまり気にしない方向では、はい、やってきてます。

20130706 折笠明憲 1

“特に、今でもよくわからない放射能とかそういうのに、他の人が全然知らない中、大きな・・・ぽっと本当に政府の方で「これだけのことが起きました、なになにしてください」っていうのが全国に流れると、やっぱりもうそれを信じるしかないんですよね。その時って。それを信じ・・・もう被災地の状態でそれを信じるかどうか・・・信じるしか、方法がないんです。あの、他のところに行って調べるとか、何かを情報を得るっていう、もう通信機器はほとんど麻痺してますし、うん、連絡を取りたくてもやっぱり取れない、電話をしても繋がりにくい状況の中で、うん、信じられるのはそれしか信じられなかったな。で、その後はもう放射能の話はもう二転三転するっていうのが結構酷くて、うーん・・・そこはもう今でも続いているようなもんなんだろうなあっていうのがあります。どうしても放射能っていう・・・すごく・・・なんて説明したらいいんだろう・・・目に見えないもの、と、今度はまた戦わなきゃいけないんだなあっていうのが、自分たち農業者の中ではやっぱり大きくありましたね。今までは、農薬や虫とかっていうのは目に見えるもの、ある程度目に見えるもので、それだけ自分で軽減すればなんとかなるものだったのが、今度は、どこにあって、どういう風に流れてくるのかわかんないものと戦わなきゃいけなくなる。で、それで「もうダメだ」って言ってやっぱ、あの、諦めてしまった人っていうのも、まあ何人もいますし、その、まあいわき市の中でも、あの、新規で入って三年ぐらいでやってたのが、ダメになっちゃって、京都とかあっちの方に行ってしまったっていう人もやっぱいますので。うーん、それに対しては、責めるつもりもありませんし、そこは自分の出した判断なんだから、それはどうこうっていうことはないんですけども、できるんであればいわき・・・まあ福島で農業をやって欲しかったなあっていうのは、うん、あります。”