関 洋次

関洋次さんは大槌町の安渡公民館分館長であり、今は仮設住宅に住んでいる。震災当時はいろんな方から支援をいただき、それは国だけにとどまえらず世界各国、宗教問わず助けてくれたという。

「だからねぇ、あの、今一番俺が言いたいってのは日本全国じゃなく、世界各国ど、どこでこういう自然災害が起きても不思議じゃねえ。うん。だっ、こういう笑い話あるんだよ。あのう、日本全国 世界各国から支援際でみんなこれ、認識した。でね、中国で地震あったでしょ、四川省で。そしたらね、俺、俺がもし赤十字だとかそういうとこであの、基金を求めれば、出すか?その、その日の内に千円、二千円持って来た人がいる。まだ俺取り組みしてねぇがら返したけど。震災を受けてあの、みんなに助けられたっていう思いみんな持ってる。だっどっかで何があったらば助けなきゃならない、そういう思いを持ってるっていうのも事実。この、小さな仮設でも。だっあの大槌町内が、あの、岩手県全体、沿岸全体で見たら、こんなの.. ちょっとわかんないけど。おそらくみんなそう思っていないがらっていう。今まではあの.. 考えもしてなかった。震災前に例えば.. 交戦があったとか、アメリカで竜巻があったとか、ってあっても震災前はそんなに感じなかった。大震災でみんなに支援された。ホントここでね、キリスト教とユダヤ教とイスラム教と一緒に炊き出ししたんだから。わら、笑い話だけど。ほんどあの、その団体がそれぞれ交流しながらやってっていうのも日本全国で初めてだべって。だけど、本当、宗派問わず人種問わず、本当ここではそんな支援をされたっていう。だから自分でこう心の中には何かがういつかされたっていう。それを私自身が感じたり、うん。」

黒澤 豊勝

大槌漁協ではトップにいた黒沢さん。新しく出来た新おおつち漁協の一員でもあるそうです。
震災によって起きた漁業の変化についてお話して下さいました。


Q:あの頑張ろうは何年続く予定とかありますか?

黒沢さん:いや大体5年から、国の方ではある程度頑張ろうで、俺は俺が自立できるよう­になった所で切るよっていうことで話はしてるけども。だからその自立が10年になろう­が何年になろうが、本当は5年くらいが目途ではないかなぁということは言われてるけど­。まだそれが「いつ切るか」ってのははっきりしてないけど自立できるようになったらこ­の人はもう生活できるなぁってなった時には切るって言ってるけども、俺の方は別に国の­支援がなくってもやれたけど、それくらいのあれがあったけど。今言う通り、一番のネッ­クが大きい方の貝を買うのにお金がかかった。それは自分が自分で出してだめだべ。あと­は資材なんかの大きななども国が出してり引いたり、何パーセントの割合で引いてて。そ­の何百万あっても国の支援だからつって国の方で調整しながらやってるからどんなように­なってるかはね、国の方でいつごろ自立できて人を切り離そうといつ出るかわからない。­国だとすればで、今自立できる能力はついたなって言う時に切るっていうからいつ切られ­るかわからない。そんだから、いつまでも貰ってれば貰ってるだけ、まずなんつーか、儲­けてないというか。

岡本 三男

岡本さんは安堵で酒屋さんを営んでいます。お店に入ると岡本さんが描かれた大槌の風景画や書が壁に貼ってあり、とても暖かい空間でした。震災後2年が経ち、物資的なケアがから「心のケア」にニーズがシフトしているということ。そしてまず「心のケアとは?」というような事をじっくりお話して下さいました。

「これからは自分で心のケアをしなければと思って、と思ったのね最初は。でも、どうやったらいいんだろうなー、自分で心のケアってそしてこう一人で店に居るときは、何をしようかなー。もちろん仕事はしてますよ。自分でできる事はやってる訳。だけどそれだけじゃ、ダメな訳ね。うん。手持ち無沙汰になって飽きちゃうと外に行って草むしりをしたり。花が好きでしたから、花の種を植えたり、そういう風にして散らかすようにした訳、自分の気持ちをね。そしてまた自分で俳句をやって、ちょうど前に俳句をやってたもんで、俳句をやったり、盛岡の先生、このときは入ってなかったんだけど、ずっと休んじゃったから、そういうカセキにはいってなかったからそういう先生に勧められて、やりなさいってことで、俳句をやった訳、そして後は何かをもの足りなく感じて、お酒も全然動きが悪いから、この辺でうちのオリジナルでもやろうかなって言う感じで、頭に浮かんできて、色んな事初めて、心のケアに結びついたなって、そして、お酒もね、前はワインくらいだったらのめたのね、うちで、二人で、すこしぐらいだったら、おかずが悪いんで、食事がおいしくいただけるワインでものもうかってことで。ワインを飲んで、食事をおいしくいただけるワインでも飲もうかってことで食事をした事ずーっとあったので。でもお酒は量が多くなったのね。小さいのが。だって、隣に私と同じ年配のいる、もう震災になってからずーっと友達になった訳。前はすぐそばだったけど、二人で一緒に飲みにいくような仲じゃなかった訳。奥さんとは家の店の奥さんと仲良かったから結構よく話してたけど。今はもう色んな事を学び取りにいったり、もう、山菜採りに行ったり、今年はかなり山菜いただきましたよ、その方に。それで、そんな悪友が居るもんだから、同じ歳だからね。その方とは、家に居なかったら、うちにきて焼酎を掛け飲みしたり、そういう感じでぐっと近くなったんで、その方と。でもその方は私に、面白くないって言う訳。なんぼ飲んでも顔にもでないし酔っぱらわないし面白くないって言う訳。うん。だからそういって、よしこれから飲み屋さんに行こうか、タクシーに乗って飲み屋さんに行く訳。で、そこで、それで、そこのママ達も知ってる人だったんで。私も前は行った事無いんですね。でも、知ってる人だったんで、元々ね。世信者ってことで、カラオケ歌ったり、由相手は、カラオケしないんで、一人で踊る訳。こっちは歌って、うんで相棒は踊り踊る訳。そんな雰囲気でずーっと。だからね、しぜーんに自分の心のケアになっていった訳だよ。自分でやっぱりケアをしないとダメだね。もう人を頼ってても、やっぱり私の心の気持ちを分かる人は居ないんだもの。やっぱりみんな同じだと思うんだけども、自分自分で心のケアをしないとなーって私は自分で感じる訳ね。でも大変な思いしたよ。」

佐々木 正志

佐々木さんは安堵で養殖業を営んでいる漁師さん。私たちがお話を聞きに伺った時は大きな牡蠣をたくさん収穫していました。作業場や船が流されて自分のお金で一から再会した事をはじめ、津波が漁業に及ぼしたとてつもなく大きな影響について教えて頂きました。

佐々木さんの職場の映像

大萱生 良寛

震災で江岩寺が被害を受けたため今は同じ場所に仮設のお寺を建てていて、そこでお話をお伺いしました。大槌の方々とお寺との間にはとても強い繋がりがあること、そして災害時や災害後のお寺の役割についてお話していただけました。

「私は忘れない」「あの日を忘れない」という私たちが毎日のように目にするメッセージの与える思わぬ影響について

上野 ヒデ

上野さんは婦人会を引っぱっていて、とてもアクティブに復興という課題に向き合っている女性でした。ここまでアクティブに町やコミュニティーと関われるようになったのも実は最近なのだそう。
「本当あの当時はね、自分の名前も書けなかったし。人の話も聞けなかったしね。」

上野さんの提案で実行にうつされた、新しい献花台についてお聞きしました。

「みんなの善意でできたもんだから。そういう事であの、仏具なんかも仏具屋さんが、いいよ、って提供してもらってね。ね、そういうみんなの善意を無にしたくないからね。ここにあの「献花台を見守る会」を結成して、そしていつでも花がね、周りに咲いてるようにしよっていうね今その準備をしてるの。
であの今あの、植えてあるあのひまわりはね、これよその献花台からひまわりの種を植えて。ちょうどお盆の頃に咲くようにね、やってます。でそれが終わったら次はこの花を植える。ゆ、あの、冬はじゃ何をって、じゃハボタンがいいよ、って。だ花をきらさないようにあれはいつでも、冬でもね咲いてる花を植えようって今ね、やってんだけどね。みんながね、あの、段々この。まあ町がこうなってるからみんな防災のあれは分かってんだろうけども、町が出来上がった時みんな忘れます。忘れますよ。私はあの、チリ地震も知ってるの、津波も。もうね、3年経ったらみんな忘れてたからね。うん。だ忘れないようにあそこの役場の庁舎を残して、あの、お勉強の場にして欲しいって私が」

高橋 英悟

高橋英悟さんは大槌町吉里吉里地区にある吉祥寺の住職さん。吉祥寺は指定されていた避難所ではありませんでしたが、震災当時は急遽お寺の一角を避難所として開放されました。

「保護司っていう仕事。ボランティアなんだけども、法務大臣の委嘱を受けて間違ってその罪を犯してしまった人達の更正の手助けをするっていう仕事があるんですよ。保護司会っていうのがあってそこの中ではお付き合いはあったんですけども。震災を契機に仏教会が出来て。今会長は釜石の仙寿院さん(せんじゅいん)。和尚さん方が力を合わせて、今やれる事なにかっていうと、一生懸命もうとにかく拝む事しかできないんですよ。だから、みんなそれぞれ和尚さん方が安置所を回ったり。安置所でお経をあげたり。あとは火葬場でずっとあの無償のボランティアをしたりっていう、そういう事を通して、みんなで力を合わせてこうっていう思いが本当強くなった。仏教会の主催っていう事で各種いろいろな法要、お勤めもするようになった事はあります。一周忌。ちょうど一周忌のときにはコラボレーションで法要をやりました。」

「最初のお盆の時もいろんな支援がきたんですけれども、とにかくお寺を解放してできることは何でもやろうって思って、避難所をやっててとにかくみんな頑張ってるんですよ。みんなの前でしくしくめそめそ泣いてる人は誰もいなかったの。これは本当びっくりするくらい。でみんな心の中では大変なんだけれども、自分よりももっと大変な人がいると。家族の中で3人4人なくした人、子供までなくした人もいるからね。そういう人がいる中で泣けないって思って頑張ってる人がほとんどだったんだけれども、4月のはじめ音楽の慰問っていうのが来てくれたんですよ。その時に初めてみんなで泣いたの。もう誰の事も気にしないで声あげてわんわん泣いたの。これはと、自分でも音楽、芸術の大切さというのはすごく感じて、今に至ってるんです。」

芳賀 衛

消防団員として、また地域のリーダーとしても活躍した経験から、遺体の身元確認の役割を任されていた。
「俺しかいなかったからって自分で言い聞かせて。知ってる顔だし、特徴も知ってるしな。」
震災直後の、壊滅的な状況の中で現場の責任者として動いていた芳賀さんから、当時の避難所のことなどを伺いました。

「メインになってたのはまあ、吉里吉里小学校の講堂とお寺の吉祥寺。あとはいとこ親戚の方に分散して家族の方に、我々みたいに分散して、とこう3つに分かれたんだな。」

佐野安信  八重子

震災後中型イカ釣り漁船第81明神丸を新しく造り、遠洋漁業を行っている佐野さん。佐野さんが遠洋に出ている間、奥さんは家と家族をしっかり守り、お互い支え合っている様子が伝わってきました。
だから私は言いたいのは、船の船頭と丘の船頭とそんなように思ってましたね。
と奥さんがおっしゃっていたのが印象的でした。

佐野さんは海に出ている分、近年の自然の変化を肌で感じているようです。

「まあ、なんだかんだいって自然には逆らえないからね。竜巻だって、今テレビではすごいやるようだけど。いろんなとこぶつかってったり。」
「今は何て言うんだか、何年か前の津波があって突発的なのが来るよね。昔竜巻ってのもこんなに出なかったのに、今じゃ低気圧が来るたびに出る。』