中澤 芳文さん

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生まれも育ちも閖上の中澤芳文さん。3.11の震災でご家族を亡くされました。震災から月日が経った今、胸中をありのままに語ってくださいました。


「被災者」と「遺族」

あの、結局そのひどさが分かっていない、自分達は、んーなんて言うんでしょうね、被災地ですけど、被災者じゃないんですよ。

Q: 周りの人達がですか?
そうなんですよ。みんなが沿岸部じゃないんですよね。ですけど、みんな被災者なんですよ。家がちょっと傾いたとか、皿が割れたとか、皿一つ割れても被災者ですから、保険会社側から言えば、保険おりますんでね、被災者なんですよ。ですけど、私らはようは本当に被災者って言ったらおかしいですけど、うん、やっぱ遺族なんですよね。


震災の記憶

その半年くらいは、その日の2時46分、その日の2時46分、なんですよ。なるたんびに、3月11日の2時46分以降を思い出そうとする自分がいるんですよ。ですけど、その時は思い出せなかったんですよ、その後どうしたとか、どうやって娘を迎えに行ったとか、すごい思い出せなくて、ずっとその記憶を思い出すのにやっぱり半年くらいかかって、、、ただ思い出せるんですけど、すぐ、忘れようっていうもうひとつ蓋をしちゃうんですね、精神的にやっぱりあの持たなくて、そういう気持ちが落ちた時に薬を服用してもう少し落ち着かせてたんですけど、そうすると、仕事中なんですけど、やっぱり眠気が来るので、まあほとんど睡眠薬導入剤と一緒なので、仕事先に行っても行く先々でどうだったの?家族はどうだったのって聞かれるんですね。まあそれに笑い、笑えるっていうか普通に答えられるようになるまで本当に半年、まあ1年くらいかかりましたね。


被災への共感

あの支えられてるなっていう感覚が起きるのが、実はわたしはあんまりないんですよね、、。ただ支えはないんですけど、共感していただいてるのは多いです。あの、なんていうんですかね、こうやってみなさんとお話をして、うなずいていただく、理解してもらう、でこういろいろな、facebookだったりネットとかで被災地のこととか、被災地にみなさん関東から足を運んでいただいたりとかそういう情報をみると、あっ共感していただいてるな、ていうのが、思えるんですね、で、ただこう冷やかしじゃないですけど被災地見たさみたいなのはこうあったと思うんですよ。それがどんどん日を追うごとによってほんとの現状をみなさん見に来ていただいてる、てのが分かったんですね。


閖上の良さ

ほんとにねーとんでもない街ですよ。楽しすぎますもん。だから、なんていうですかね、閖上の当たり前が通じないっていうのもびっくりしましたけど。あの、ですからみなさんね、食べたことあります閖上のたこ焼き、あるじゃないですか、あれが普通だと思ってるんですから。ずっとあの、あれいくつまでだろ、高校卒業するくらいまで、あれは普通だったんですよ。で、私仙台市内の学校だったんですけど、仙台市内の学生がたこ焼き食べると、パックでぱっと出されてびっくりした、っていう記憶があるんですね。で、そのたこ焼き屋さんも、わたしも高校入る頃かなあ、もう毎日やらなくなったっていう、ですから前に食べれなくなったていう記憶があるんですね。で、年に一回神社のお祭りがあるときに食べれるくらいで。で、あとはおばあちゃん(閖上のたこ焼きを作る方)の気分だったんで。ほんとにびっくりしましたよ。たこ焼きは棒に刺さってないたこ焼きをたこ焼きと思わなくて、おかしいなーって思って。ほんとに閖上の街ん中ひとつで全部用が足りてしまう、買い物もちょっとはできますけど、一番最初にお話した通りに行くのは不便かもしれないですいろんな所に。ただ、生活するうえではなんにも困んない街だったので。ほんとね、海がそばでまあ、何年か前に海水浴場もやっともう一度できるようになった街ですから。んー私が子供の頃、小学校、中学校の頃はもう海水浴場がなかったので、うん、それでもやっぱり子供、ね、同級生とみんなで夏休みになれば閖上の海に行くんですよ。そうすると、大体同級生の一人くらいは溺れて、すんごい引き潮に会うんで、私も2、3回溺れましたけど。面白い所いっぱい、まあ、山が無いだけでほんとにいい街ですよ。ほんとに、子供の頃までは釣りをやったりとかは。あとはまあひっきりなしにいろーんな方が来て頂く街ですからね。


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荒木 保子さん

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震災を乗り越えて、現在、息子さんと仮設住宅で暮らしている荒木保子さん。複雑な胸の内を語ってくださいました。


震災を経験した今…

うん、人に迷惑かけないで、やっぱり、自分で自立して一生懸命生きていかなくてはないかと思ってます。みんなに迷惑はかけたくないから。これから、そうやって生きていかなくてダメなの、自分のことはじぶんでしないといけないし、独立しなくちゃないので。それは、息子に対しても、家族に対しても、そう思ってます。自分がちゃんとできるようになれば、みんなに迷惑かけないし、それ一番思ってますね、私のね。やっぱり、津波、こう、体験した人でないと、分かんないですね、これはね。だから、テレビ見てるとさあ、涙ボロボロ流れてくるんだよ、私。東日本大震災って言われると涙こぼれてきます。だってうちも流される、そのまんま、車も流されるそのまんま。いや、そのまんま流れたんですよ。でもかろうじて言えば、壁が抜けなかったので、ものは残ったのもありますけど。だから次の日から、あの、水引いてから、毎日子供たちに、4人して、2番目と3番目と夫婦して、行って持ってきてもらったの、いっぱいあるんですけど。で、選択して持ってきてくれました。それも、入れない区域ですけど、遠くからあるいて持ってきたよって言って、震災の時は、津波…2回しか行ってないんですよ、閖上。見るの嫌だから、行かないから、行かなかったんです。でも、避難所、仮設は不自由ですよね。なにからなにから不自由です。だ、これからみんなに、やっぱり手を借りて、生きていかなくてはないでしょうから。年取ってくるとね、だ、みんな助け合って、行かなくてはならないんだなーって思ってるんですけどね。一人で生きて…人間は一人で生きてられないからね。生きれないから。人の手借りなくてはならないんです。だ、いじわるしたくもないし、私何言われても黙ってるから。


仮設での大変さ

こういう仮設っていうのは大変だなっていうことを知ってもらいたいほんとはね。こういう災難にあって、こういう仮設に入って、不自由な生活だってことは、知ってもらいたいです。めったに入れない仮設だからね。こういうのはね。まさかこういうのに入れるとは思ってなかったからね。ミシミシ言って、ものすごいんですよ、夜寝れないんです。風吹くとものすごいんです、音が。床はべこべこべこべこって。トイレは寒い。寒くて、あの、夜、朝にはいる時は、トイレ開けとくんです、エアコンつけて。ずいぶん、二年三年だからは、こう隙間だらけになってるのかなあ。寒いは寒いです。だからやっぱり仮設に入った人でないとわからないです、これはねえ。早く復興決まってもどりたいですよね。


閖上の良さ

やっぱり閖上は良いですよ。海風は入るし、こういうあれでないから、海の方だから涼しいし、…いいとこですよ閖上は。でみんな戻るからって、友達も行ってくれるから、で、一緒に行こうねとは言ってたんですけど。ま、病院も何も建ってないんだら、行ったってしょうがないなとは考えたんですけど、今からの話だからもうどうなるか分からないんだよね。何年かかるか分からないですからね。


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佐藤 英介さん

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佐藤さんは社会福祉法人楽寿荘の統括事務長です。震災直後、屋内退避地域との境界地域で物資のない中、高齢者施設の運営を継続しました。施設建物直前まで津波が押し寄せた時には、入所者を避難させました。


福島県と宮城県岩手県との違いについて
放射能の被害と津波の被害について

「まーね考えてみたら放射能の問題さえなければ…だから宮城県とか岩手県の方の災害も大変だと思うけど…一点ねそれだけの問題に対して福島県は放射能のかかってるんでね。2重にこう、避難を被害を受けた人と放射能だけの人と2通り分かれているんですね、福島県の人はね。放射能だけで逃げた人と津波の人とそれから津波と両方やられた人。で津波と両方やられた人は逃げた人と同じ、その帰れない地区は同じ扱いになるとは思うんだけども、でもやっぱり皆温度差があるから大変だと思いますね」

放射能、援助、除染

「これ広げてみてください。
ちょうど37キロなんですここ。で30キロ圏までは色々恩恵があるんですけどもその隣は全く、全くないんです、わたしらの所。直線で37キロなんです。今でもその窓際に出すと0.6−0.7マイクロシーベルトくらいあるかな。でそこの桜の木の下の根っこあたりはしたにおろすと1.3マイクロシーベルトくらい。今でも。で、除染をする予定ではあるらしいんですけど、建物関係は全部除染しちゃったんで、自分らで。高圧除染で、もう最初の頃に。その頃はね、屋上の雨水の先の落ちくずね、あのあたりで10.0越えるくらいの濃度はあったんですよね。ですからこの辺の松林はたぶんあると思うんですよ。逃げるところがないんで、多分放射性物質が付着して。松の葉っぱでもなんでも落ちちゃうでしょ?その辺が残ってるんでね、まだね、だから37キロ、こういう感じでとんだみたいですね。」

コミュニティー、避難所、仮設

「で現実にいわき市の行政区域からみた時はみなさん全部一緒になって、こうグループグループになって各町にね。ですから同じ仮設になって、ここは(一つの仮設は)大隈町、ここは、、、町、そしてここはいわき市の津波で家なくなった人たちって、同じグループの中でこうやって分かれてるんですね。ようはみんなバラバラに入ってるでしょ?だからそれぞれの付き合いが出てもそれぞれも直接、点と点の繋がりしかないから。」

施設職員

「これどこの施設も困ったんだけども、職員いなくなっちゃって。残って一生懸命やっている人と、どうしよっかって事になったんですよね。かたっぽペナルティーでかたっぽご褒美やんなきゃなんないのかって。そういう風にこう人を区別しちゃうと来づらくなるんじゃないかとか、そのあと職員同士で感情的におかしくなるんじゃないかっていう。なった施設が結構あったんですよ。わたしんとこ結果的に何もなかったんですけど。最終的に500万使ったんですけど、ようするに2週間毎日いた人には25万あげましょうと。で、今度ペナルティーの方はどうしようかって考えた時に、給料を下げるとかいろんな事やった施設もあると思うんですけれども、給料を下げたままだと一生ついてくと相当なマイナスになるじゃないですか。なんで、一回でいいだろうと。じゃあ賞与をカットしようと。で賞与をカットするのもいっぺんにカットすると大変だから、2回に分けてカットしようと。できるだけ負担がかからないように。だって本来はみんないなきゃなんないのに、家族の関係でみんな逃げたっていう人が多いんですよね。家族がいるからお前も一緒に来いっていう事で一緒に行ったんだけども家族を置いて戻ってきたっていう、そういうケースが多かったんですね。まあ、そういう事で一応ペナルティーとご褒美あげたけれどもそういうトラブルは私の施設ではなんもなかったですね。いさかいも何にも。他の施設では結構あったみたいです。でいずらくなって辞めた人もいるって。」

政治、風化、福島県と他の都道府県

「だったら当たり前だって。忘れられたって当たりまえじゃないのって。私もそう思うんだよね。本当にそうだったらそういう意思表示をしなきゃなんないからね。東京だってもう放射能そんなに響かないでしょ? 私は日常茶飯事だから。原発だって誰も信用してないですから。わたしらは。あのいちいち発表しててもみんなうそだろうって。後から後から。 まえから話聞いてたのが後から出てくるから。ひどいはなし。」

原発事故後のいわき市

「40年、60年くらいかかるなんて言われてるから。いま ものすごいですよ、いわき市。他県ナンバーがものすごくて。それから飲み屋もゴチャゴチャしてるし。朝になるとワーって双葉郡に行って、夕方になるとワーって戻ってくる。これが何十年も続いてるって言うんで、みんあうーんなんて思ってるけど。でそういう人と避難して来てる人とみんなごちゃ混ぜになってるんで。ここがね。そんなの東京の人分かんないでしょそんな。多分、私はここ、こういう恩恵がなくなったときあなたら注目して見てた方が良いと思うよ。なくなった時避難してた人たちがどういう動きするかって事だと思います。

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金井直子さん

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金井さんは楢葉町からいわき市に避難された主婦で、「完全賠償原告団事務局」で原発被害を裁判を通して訴えている方です。

被災者間のギャップ

例えば、義援金、支援金、仮設住宅。いろんな減免措置を頂いて、ハード面はね、ある程度生活する上では賄えてますよ。
だけど、そのなかでもさっき言ったように、家族みんなで失業しちゃったとかね。本当にもう過酷に困窮している人もいるわけです。でもね、みなさんにお話したように、少なくとも、うちの、私だけが失業して、あとの家族が、まあ失業せずに済んだので生活が成り立っているから、こういう時間もとれるし、私もじゃあ原告団の事務局長としての活動に力を入れようっていうこともできるけど、中にはそうしたくてもできない人もたくさんいるし、やっぱり人前でお話するとか、裁判所で何かをするとか、いろんな活動をみんなさんがこう伝えていくってことは、みんながみんなできないと思うんです。

安全神話

その放射能っていう意識がなかったんだよね。あまりにも当たり前すぎちゃってて。危険っていう意味が最初よくわかんなかったんだよね。だから、それこそ、ほら安全神話ってよく言われるけれど、絶対に原発事故は起きないって、そういう風にもう刷り込まれていたから。原発は安全なものだから、絶対事故は起こさないって。絶対トラブルは起きないって。でも何年か前にトラブル隠しがあって、一回問題になっているんだけど、でもほら、やっぱりその、何年も前のことなんか、みんな忘れちゃっているから。

原告団事務局の事務局長になったきっかけ1

(質問)金井さんがこのように、こんなこととか運動を始められたきっかけとかは、だいたいいつ頃だったんですか。
きっかけはですね、さっきのプロフィールにもちょっとかいたんですけど、一応、まあ避難をして家を借りて、まあまあ生活は成り立っていました。ところにこれ(賠償請求書)が、23年、平成23年のだから、2011年の9月にきたわけですよ。
これを見た時に、さっきも言ったように、何が何だかわからなくて。これは、はたして出すべきなのか、どうするんだろう、みんなはどうするんだろうって。すごく疑問が湧いちゃったのね。こんなの、こんなのっていうか、送られてきてさ、自分じゃ判断できないじゃない、って。で、そのときに、今一緒に戦ってくれている、福島原発被害弁護団に、後々に発足するんですけど、全国の、日本弁護士連盟だったか、なんかその日弁連といわれる弁護士の方々の中の、それも有志の先生たち、弁護士っていってもいろんな方がいるからね。その有志の方々が立ち上がってくれたわけですよ。で、これがまず送られてきた。で、世間でいわゆる、難解、不可解な請求書が送られてきたよ、と。で、それを受けて、まず弁護士たちが、あるときにね、この新聞の見開きにね、新聞広告を出してくれたんだよね。原発事故被害者の皆様へ、って。東京電力から賠償請求用紙が送られていると思いますが、それに関する無料のね、法律相談を行います。ご希望の方は、どうぞおいでくださいみたいな、そういう趣旨の新聞広告を出してくれたの。

原告団事務局の事務局長になったきっかけ2

とにかく、これ考えてもしょうがないから、弁護士に相談しようって。で、それが、無料法律相談会に行った時に、初めてお会いした先生が、後々今のこの福島原発被害弁護団の代表になった、いわき市の広田先生っていう先生なんですけど。そういうことがきっかけで、何回か先生とご相談を重ねて、そのうち、今のちのち一生懸命活動を重ねてやっている、今活動家の、元教員が多いんですよね、組合の活動とかやっていた方が多いから。学校の先生ね、高校の教員とか、県議会議員の方とかいるんだけど。そういう人たちと、やっぱりだんだんつながるようになってきて。で、このままじゃいけないってということで、避難者は避難者原告団、いわきはいわき市民訴訟ってことで。やっぱりその、出会いがあって、広田先生からの助言があったりして、いわきで支援してくださっているいろんな方からの、やっぱり情報だよね。だから、私もただこれが来て、ずっと自分で家の中に閉じこもっていたら、そういう人たちと、皆さん方ともそうなんだけど、めぐり合わないじゃないですか。

向き合わなければいけない恐怖

目に見えないことが一つと、あと、今現在進行形で、あの収束していないんですよ。全然。トラブルも毎日のように起こっているしね。で、増え続ける汚染水の行き場もないし、いまだから、中間貯蔵施設の問題が浮上していますけれども、それをどこに建設するかっていうこともまだ決定していないんですよ。で、ボーリング調査っていって、地質調査を双葉郡の楢葉町と、あと第一原発がある大熊町と双葉町。この三つの町に、調査はしたんですよね。いずれ、これはまだ確定ではないんですけれども、いずれこの三町に間違いなく中間貯蔵施設ができます。ほかにもっていき場がないんだから。これを県外に、っていったてね、福島の核のゴミをどこの県が、どこの都道府県が引き受けるんですか。じゃあ海外だったらいいんですかって、そうじゃないでしょ。やっぱり、もう自分のところで起きてしまったものは、もう自分のところで引き受けるしかないって、私は思っています。ただ、感情的には、その土地で代々ね、生まれて育って、その土地を守ってきた人たちは、自分たちの土地がそんな風になるのはいやだっていう感情はありますよ。それは聞きます。だけど、じゃあ別なところにどこに持っていくのって、行き場がないから、やっぱり、なってしまった以上は自分たちで引き受けるのかなっていうのが、まあ実情だとは思います。

福島原発被害弁護団

弱い人っていうか、困っている人を助けたい。とにかく、弁護士ってそういう仕事なんだけど。特にね、お金をとるためのじゃなくて、その困っている、何とか救済をのぞんでいるんだけど、っていうひとたちを、とにかく救いたいっていう、人権派の先生なんだよね。今活動している、福島原発被害弁護団に加入されている先生方っていうのは、全国のいろんな弁護士事務所なり個人事務所で、それぞれが弁護士活動をしていた人たちなの。そのなかでも、自分はこの福島の原発事故の被害の救済のために力を貸したいと。そういう有志の先生たちが、じぶんから進んで弁護団に加わっているんだよね。そういう動きってなかなか報道されないけれども。だから、福島県内でも、こういう話をしても、実際そこまで言って初めて、ああそうだったのかって言う人もいるし。

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針生 敏夫さん

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現在、農業のお仕事をされている針生敏夫さん。震災直後、多くの人を高台に避難させ人命を救いました。夜中に震災の悪夢を見て眠れない夜が続いたと言います。


人とのかかわりや仮設での生活

んーそういったのでストレスは溜まってないとおもうんだけどね。あー、みんなおんなじなんだもん。みんな被災してんだもん。

Q: 結構、前の方々と話しされたりとか、心強い環境ではあったんですか。
うん、そう。やっぱりほら、みんなと仲良くしなきゃいけないなあっていうそういう思いを持って接すれば、やっぱり揉め事って起きないもんですよ。

Q: その二ヶ月後に仮設に移られて、仮設住宅での生活ってどうですか。
んーと、まあ、外に出てるわけじゃないですからね。風も当たんないように。まあある程度は、ほら、話し声とかテレビの隣の音とか、しますけどね。まあ、くしゃみとか話し声は聞きますけどね、うん。それはお互い様だから、うん、仕方ないと思う。橋の下に寝てるんじゃないからね。暖房ひいてね。また、こういったとこに、住めるだけでも、ありがたいなーっとおもうですけどね。


震災から年月が経った今…未来への不安

ストレス溜まってるかはわかんないけども、んー…多少はやっぱり…あるかもしんない。仮設に暮らしてっからじゃなくて、やっぱり、先を見たときにやっぱり。先を途中..見なければいいんだけど、先を見てしまうと不安があるじゃない。うん…その日を大切に生きれば、そう感じないんだけども。どうしても..その人その人の事情があるからね。そういった時にやっぱり、不安とか感じるとやっぱりストレスも溜まるかなあ…うん。


3.11のこの震災を、絶対に忘れてはいけない

んーちょっと辛い時もありますね。辛い時も..あるんですよ。でも、風化させてはね、ダメなんですけどね。やっぱり伝えていかないと。


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荒川 裕一さん

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生まれも育ちも名取市閖上の荒川裕一さん。閖上への思い、震災を通しての経験や現在の心境を語ってくださいました。


閖上の魅力

楽しかったね、閖上っていうのは。まあ、自分んちの前バス停だったから賑やかだったんだよね、ずっと。朝から、だからそういうのでもね、今何時ですかーって聞きに来たりね。ははは。

Q: 荒川さんの所のドアって開けっ放しとかだったりするんですか?
だいたいはね、開けっ放し。余計バス通りだからね、開けっ放しで。鍵けるのは夜だけ。寝る前にかけて、そんな感じだったね。

Q:いろいろおすそわけとかもあったり・・・
うん、だね。小さい頃から魚とかはね、いろんな人からもらえてね。そういうのはあったよね。まあ、あの人しばらく見ないんだけど、どうしたんだろうねって、話になるね、表にでるとね。うん。


震災直後の様子、避難所での生活とは…

ほんでその夜だよね。閖上に行こうとしたんだけれども、もう息子から電話きて、閖上ないよって言われて、でも自分は信じられないから向かったんだよね。ほんでやっぱり行けなくて。そしてしばらく1時間くらいねどうしたらいいかわからなかったの。うん。どうしようかなって。避難所っていう(考えが)の頭になかったの。そしたら、あれって避難所ってあるよなって思って、で名取に来たんだけれども、そしたら文化会館っていうとこだけが非常灯ついてたのちょうど。そこに立ち寄ったら人いっぱいいるのね。そんで一人だしねまあ、俺よりもねやっぱり年配の人たちもいるし、その人たちも立っているし、ここにいてもダメかなあって思って、市役所に戻りに行って、ええ。でそこは電気もついてたしテレビもずーっと見ててね。幸いにそこに暖かいコーヒーがあったんだよね。自販機があって。だからそういうのでね少し助けられたんだなって思って。避難所にもうねえ3日か4日くらいしかいなかったんだよね。

Q: 寝る場所って布団ひくだけとかですか、それともなんか段ボールの上とか…?
そうそう、段ボール、毛布ね渡されたんだけれどもやっぱかけないでみんな敷くんだよね。だからそれをみんな敷いて、まああと知り合いの人からね、毛布とか布団よこされる人はそれをかけていたけれど。ほとんどはみんな敷いてたね毛布。俺行ったときはもうなかったのかなあ。毛布。確かなかった。

Q: そしたらもうじゃあ地べたに直で?
うん。俺はね、その震災の夜と次の日の夜はねずっと寝てないの。結局閖上もどうなっているかもわからないし、そしてそのころまだ母親の消息っていうのはわからなかったからだから気にはなるし、なんか寝付けなかったね、ずーっと。


閖上への熱い思い

で閖上に戻ってきたくもなったよね。一人になれば。他に行く気にはなれなかったね。閖上に行ってまたみんなと会えるんだあって思って。閖上好きだしね。

Q: 閖上の何が好きですか?
何がってねえ。まずね、海が近くにあるっていうのがいいよね。そして車があれば便利だしね、閖上は。友達とも会えるし。近所の人たちともなんもトラブルなくやっていたしね。知らないとこに行くよりはやっぱりいい閖上の方がね。


仮設での生活

まずここ来てね一番はまずほっとしたね。自分が落ち着いて寝れる場所があるって。気を遣わずにねただやっぱねこういう作りだから物音とかそういうのを気にしながらなんだろうなって思いながらだったけれども、でもほっとしたね。だって好きな時に横になれるし、風呂にも入れるし。だからそんでもねまだ閖上の多くはまだ仮設に入れない人がいっぱいいたから先に入って申し訳ないなあっていうのもあったしね。


これからの閖上

今?今ね、わからない。たぶん戻らないかも。戻ってもそんな知っている人いないんじゃないかなって。俺もともと現地再建っていうのも嫌だったからね。本当に安全な現地再建だったら戻るけれども、今のあれではね。また津波が来たら浸水しってなったら嫌だよね。 将来ねえ。だから閖上がどうなるかだよね。なにも見えないから不安だらけ。未来に関しては。

Q: 荒川さん自身はどんな町にしたいとか、閖上を思いますか?
だからね、本当だったらね、前くらいの震災前の人口に戻らなくてもせめてね、5000人くらいは戻ってまたね、わいわいやりたかったっていうのはありますね。


震災を通しての人間関係の変化

あのね、特にあれだよね、親戚関係。今までだったらね閖上にいたころっていうのはもう何かあるたびにちょくちょく行ってたけど、今全く行かなくなったしね。よっぽどなにかないかぎりね、不幸あったとか、祝い事があったとか、っていう以外は会わなくなってるね 。前は普通に合えば挨拶とかもしてたけど。親戚すらね、どこに住んでいるかわからない人もいるし。まあ遠い親戚だけどね。

Q: 連絡とかあんまり…?
だよね。本当に連絡先とかもわからないし。今って本当に血の濃い親戚だけしかわからないよね。

Q: それは震災でバラバラに
バラバラになって、ええ。


震災を通して、今後、人々に伝えていきたいこととは…

まずね、伝えたいことっていうのは本当に風化させないってことだね、このことをね。自分だってそうだったのかもわかんないってあるんだよね。いろんなこと、いろんな自然災害、事件事故もだけど。それを自分たちがどう頑張ったら本当に忘れずにいくのかなっていうのはね、もっと考えないといけないのかなって思うんだね。そして今から閖上の町がどうなるかはわからないけども、閖上の町っていうのはこういう楽しい町があったんだっていうのを、それもずっと伝えていかなきゃいけないのかなって思うよね。まあ、あと今からだと思うんだよね、いろいろわかってくるのが、もっともっと。ええ。今はまず、あれだよね、落ち着いてはきたけどやっぱりまだ何をしたらいいかっていうのがわからないよね。うん。ただ本当こういうことがあった、そしてこういう町があったっていうのは、覚えてるだけじゃなくてもっと伝えていきたいね。今はそう思うね。


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鈴木 幸恵さん

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仙台市出身、7年前に閖上に嫁ぎ、震災で災難にあわれた鈴木幸恵さん。震災後は語り部として彼女の経験を語ってくださいました。


震災前の閖上

この閖上っていうのは、昔からの人が多いんですよね、やっぱり。先祖代々っていうんでしょうかね。それでもう本当にこう小さい街並みだから、この人はこの人の従弟で、この人はこの人の兄弟でっていうので、もう本当に周りの人たちも知ってるんだよね。だから、ああ、この人はこの人のね、家族の人だなっていうことで、そういう個人的なねっていうかもしれないんだけれどね。あのプライベートでしょっていう人もいるんだけれども、そういうこう違和感もなくて、ただ生活できるっていう感じだね。こう道路歩いてても、あのどこに行くのとかってね。やっぱり誰となしにこう声をかけてくれるっていうんでしょうかね。温かい町って言ったらおかしいでしょうけども、やっぱりそういう町なんだよね、このへんは。


被災地に建ててあるテントに来る理由

あんね、やっぱり私とおんなじような境遇の人っていっぱいいるでしょ。そうすると、あの反比例するっていうのかしら。自分の家があったところ、行ってみたいような、反対におっかないような、行きたくないような。そういう気持ちがいっぱいありますよね。ここにいることで、おんなじ境遇の人たちがいっぱいここ通るでしょ。そうすると何気なしにこう何してるのってこういってくると、やっぱりああ、うちでもね、こうなんだよとかさ、私もねこうだったんだよっていうことで、こうあの、閖上の人とこう話し合える、お話ができる。だ、同じこう家をなくしたり、身内を亡くしたりっていうのはあるけども、いや、私も頑張ってっから、あんたも頑張って。またね、来週来るからね、とか。またこっちに来たらね、また寄ってねってその声掛けによって、やっぱり毎日毎日、ああ、自分なりの気持ちなんだけど、来週もまた行ってみようとか、あんじゃ、土曜日日曜日あそこに行ったら寄ってみようっていうことで、やっぱりその一言二言、言葉を交わすことによって気持ちっていうのはなんとなく違いますよね。そうすると自然と力が出てくるっていうんでしょうかね。励みになるっていうのかな。


復興案について

早くなんつうのかな、被災してる人の気持ちっていうのをね、汲み取ってほしいんだよね。そういうことによってこう力づけられる。あんじゃあ、あと来年、再来年、や、これから5年後でこうなるんだなって思うと、何となく違うでしょ、気持ち的に。まあ、私ばっかりではないけど、ほかの人たちもそうだけども、でも普通の人、そうでしょ、やっぱり。あ、ね、あと2年たつと学校卒業するんだとか。あ、あと、ね、1年たつと、どっかに仕事するんだ、就職するんだって思うと、なんとなく気持ち的に違うね、何にもなってないことには、メリハリがないし、夢や希望も何にも持ってないよね、けりってね。


語り部を始めるきっかけ

やっぱり語り部するとさっきね、涙が流れてくるから、あんまり自分の体験ていうのはあれ、言いたくないし、でもやっぱりこういうふうになんないように、みんあそれぞれね、家族を大切にして、地震、津波にとにかく逃げてください。それだけは私は伝えていきたいなって思いました。だから語り部やってくださいっていったときに、少し戸惑いはありました。私もいやだなってね、なんで今更こういうことを、自分のことをって思うこともあったんだけど。けどそういうことではない。やっぱり将来に向かって、ね。テレビなんかでも地震があって、津波があって、こういう高い津波が東京のほうでもありますよって言ってるんだけども。いやそれはね、みんなにね、体験してほしくないから、命だけは守ってくださいっていうことでそれをみんなに伝えたいなって思って私はそういうのになりました。


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大貫 満喜子さん

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生まれも育ちも閖上だが、一度そこを離れた大貫満喜子さん。戻ろうと考えていた時に震災が。彼女が閖上に込める思いとは。


閖上の好きところ

なんだろうね。全部ひっくるめてなんじゃない?人も、あの、場所も。くうきも。風も。全部。だ、これがっていうのはないね。全部総合的に好き、うん。嫌いなんだけど好き。わかるかな。あのね田舎町って最初に言ったじゃない。田舎だからこそ人間関係もちょっと複雑なとこもあったりするわけ。


これからの復興について

まあね、元に戻んのは当然無理なんだからさ。やっぱ1から作るわけでしょ。それはみんな楽しみながらやればいいのにね。結局昔だってそれなんでしょ。閖上って昔から本当に古い歴史はあるんだけど、古いものは何にもないのさ。つまり何回も津波の被害にあってるんでしょ、おそらくは。当然のことながらだけど。てことはさ、流される度に作り直してるわけじゃん。だったらもう一回作ればいいんじゃない?それもそんな色んなしがらみなくさ。今一番問題になってるのは、名取市は現地復興とかいって、だから話矛盾すると思って聞いてると思うんだよね、きっと。なんで私が名取市に対して敵意をもってるかっていうところ。現地復興ならそれでいいじゃないかって思うかもしれないんだけど、結局なに、行政側のほうでこうしろみたいにして作られたものの中に戻っていくていう感覚はどうなのかなって思う。もちろんほら、一人ひとりで難しいのはわかってるし、行政はそのためにあるから、まずはレールを敷いてそこに住民の戻るっていう。それはわかるんだけど、なんか強制連行みたいなやり方での現地再建案っていうのはちょっといただけないんでないかなって。みんなが自然に戻りたいとか、戻るっていうふうな、風に作ってくれて、それで初めてみんなで楽しみながらね、いい町作りができると私は思うんだけれども。そうでないじゃない。ここじゃなきゃいけないとか、それも嫌がってる人まで無理強いするような感じで戻そうとするでしょ。そういう意味ではいい町なんか作れないもんね。だから楽しくね、本当は明るく、前向きに、もう一回一からやればいいだよね、別にね。そんなかさ上げ、まあかさ上げは安全性っていう意味では必要なのかもしれないけど、そこまで行儀よくしなくていい。逃げるとこさえ作ってくれればいいと思うし。そんな大きい商店街、なんだか今日も見たけど、なんかね。円形のもの、すごい商店街作りますって。そんなもの最初に張り切って何なのって。そうでないんでないのって。住みたいなって、戻りたいなって思わせるようにしてくれなきゃね。そういう風になんないといけないし。


生きていくうえで一番大切なこと

なんでしょうね。うん。まあつながりとかじゃないかな。うん。ちょっとね色々話しながら、さっきのほらあんまり良い事なかったみたいなね、あったけど、そういえば一つあったなっての思い出したの。それがやっぱつながりかな。それこそ震災がなければ出会わなかった人たちもいっぱいいるわけよ。閖上の人も含めて、ボランティアの人も含めて、支援してくれる人も含めてね、こういうことがなければ絶対一生会わなかっただろうっていう人いっぱいいて、そういう人たちの顔が浮かんだのね。そういえばそうだったと。今でもずっとねいい付き合いをさせてもらってる方もいる。全然目立たないんだけどね、そういう人たちこそでも、だからもっとポッと出てくれればいいのにさ。本当に継続してやってくれる人たちってね、あの、それこそマスコミとかに出てこないのよ。陰でひっそりとやる、地道にやるからこそ継続するんだろうしね。そういう人たちはありがたいし、今も繋がってますね。そんなもんぐらいすか。


閖上の復興が遅れていることについて

閖上は住民が悪いから復興遅れてんだみたいなさ、見聞きするの。見たくはないけどやっぱ気になるから調べるそうなんね。決してそうではない、決してそうでは ないっていうことを知ってほしい。みんながみんが反目しあってるわけじゃない。みんな町が大好きで何とかしたいって思いがあるがゆえに色んな議論してるだ けで、そこの合意形成をするための調整役が本当は行政であるべきなのにそれをしようとしなかったからここまで来ちゃっただけの話で、住民がみんながみんな いがみ合ってるわけじゃない。本当はみんな閖上が好きで良くしたいからやってるだけだってこと知ってほしいかな。ぜひおいでませ閖上、みたいな感じ。


メッセージ

まずはやっぱりぜひ来てほしいと。まずは現地に来てくださいと。どういう町なのか想像してね、車でこう通り過ぎるんじゃなくて、歩いてほしいの、そこにどれ だけの人が住んでどういう町だったんかって想像しながらぜひ足を運んでほしいなと思うし。まあね、みんなが楽しく暮らせるような町づくりになるように見 守ってほしいなと。


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三浦 克美さん

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生まれも育ちも閖上の三浦克美さん。彼女が見る震災前、震災後、これからの閖上とは。


これからの閖上の復興

そうね、もともと、今閖上が現地再建っていうことで決まってしまいましたけれども、私としては現地再建ではなく、集団移転。集団移転とかもうちょっと内陸のほうに新たな町を作ってもらえればなって思ってたんですけども、そうではなくなってしまったので、実はうちはあの別のところに家を建ててるところで、名取市内のところに家を建ててるところなんですね。ちょっと今色々な噂を聞いてると本当に閖上にどのくらいの人が戻って、どういう町になるのかっていうのはちょっとまだ想像はできないんですけれども。でも実際に私の両親とかは閖上に戻りたいっていうことで。っていうので現地に戻るというよりもやっぱりそのみんなと一緒にいたいっていうのが気持ちが強いみたいで、みんなと一緒だと別に閖上でなくてもどこでも。


被災後の心境

被災者ではあるんだけれども引きずったり思いつめたりしないように早く普段の生活というか前向きに生きてってほしいなって思って。自分が落ち込んだり暗くなっちゃいけないっていう気持ちをもって、そういう気持ちをずっと持って生活してきましたねとか、そういうことをしてたんですけど、いつまでも被災者っていう形で甘えてちゃいけないと思ったし、そういう目で見られるのが嫌だったので、なるべく本当に自分のなかでは、聞かれれば話はしますけども、自分はこうだったて。自分から人に弱みというか同情というかなんかそういうのあんまり受けたくないなって思っていたので、なるべくこう普通に、普通に生活できるようにっていうことで生活してきましたね。


メッセージ

やっぱりね被災者本人はずっと忘れないとしても、それに関係なかった方っていういのは本当にどんどん忘れていくと思うんですよね。ですから、こういうことがあったということをずっと忘れないでいてほしいなと。やっぱり今とかってね、色々防災意識がすごい高まって、首都圏の直下型地震とかいいますもんね、話になってますけど、やっぱりそういうこととかも大事だと思うので、一部のことと考えて準備するなり、家族で話し合ったり、そういったこととかも将来的にも本当に自分のことのように考えていてほしいなと思います。


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