石川 裕子さん 【条件付き】

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閖上生まれ閖上育ちの石川裕子さん。今後閖上がどのような町になってほしいか震災前の閖上の様子も交えてお話しいただきました。


つながりの変化

Q.小学校に来ているのは閖上の方ですか?
町の人達、閖上の本当に幼稚園小学校中学校まではほとんどおんなじ顔見知りっていうか、おんなじ人達がそのまま行く感じですね。だからたまに転校生が来たり、あと中学生から仙台の方に行ったりっていうのはあるけどほとんど、同じです。中学までは。

Q.じゃあほとんどみんな顔は知ってるっていう感じですか?
そうですね、顔は知ってるって感じですね。

Q.今でもその方たちと交流とかされているんですか?
今はないですねバラバラになっちゃたし、、閖上に住んでれば顔を合わせれば挨拶するのはあるけど、、今はほとんどどこにいるか分からない状態ですね。

Q.みんな仮設に、、、?
そうですね。仮設にいるし、あとアパートとかね、そっちのほうに新しい家に住んでる人もいれば、うん。


震災前とこれからの閖上

Q.石川さん自身で閖上をどういう町にしたいっていうのはありますか?
石川さん:やっぱり住みやすい町にしてほしいですよね、あとコミュニティー、人と人とのつながりが昔みたいにあってほしいし、あと安全な町?あの津波がもし来たら逃げて。ちゃんと避難できるようにしてほしいし、

Q.安全な町だったり人ととのつながりだったり昔の人のつながりなど、、昔はどうでしたか?
石川さん:昔は濃かったのかな、濃いっていうの、うん。本当にすぐ顔を見ればわかるし多分あそこのどこそこの誰っていうのも昔の人だったらわかると思うんですよね。でいろんな顔のなじみも多かったし、うん。


“閖上の人”とは

Q.気になったことがあるんですけど、よその人っていうのはどこからがよそでどこからが閖上の人っていうのが気になっているんですが、石川さんはどのようにお考えですか?
石川さん:閖上に住んでない人のことかな?うん閖上に住んでない人のこと、、自然とそうなりますね。

Q.その閖上に住んでる方でもよそと言いますか?
石川さん:お嫁に来た人のこと?そういうのもあるんじゃないかな、閖上の外から来た人も外の人って言いますね。

Q.自分が閖上の人と思うのか閖上の人じゃないって思うのかそれぞれ人によって違うと感じましたが、こう昔は違うところで生まれたんですけども閖上に来られた方も自分は閖上人って思うのかもやっぱり人それぞれ考え方が違うみたいで、石川さんははどのようにお考えですか?
石川さん:うーんどうなんだろう、閖上になじんでいくのかなあ。


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大友 吉彦さん

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閖上生まれ閖上育ちの大友吉彦さん。震災により家が流され現在は仮設住宅にお住まいになっていらっしゃいます。閖上に長年住まわれてきた大友さんに震災前の閖上はどのような町だったのかお伺いしました。


震災前の閖上

うん、だから大体顔お合わされば大体わかるような人達。まあそうじゃなくても大体閖上の町の中で、暮らしていると、大体どこに住んでいるってのはお互いこう分かっているようなところだからね、うん。そんなに広いところじゃないから閖上って。


つながりと仮設での生活

Q.その震災前と比べて、人との関わりに変化はありましたか?
いやあ特別な変化なんてのはないね。うん。ただほらそこで、あのー、一応仮設の中にはみな電化製品から何からもう用意されている、、で私らも1回家族の方に申し込んで、で入ったのが1か月くらいあとだった。で1か月後ってのはこの仮設ができて、で大体もうそろそろいれようか、その時に仮設に入った。だからその時は品物はなかったよねえ。この仙台、まあ仙台とは言わず東京の方からもあった。うん。東京の方から車で来て古い洗濯機から冷蔵庫から何からね、持ってきたけど、、まあいろいろ汚した方はね、それなりによこしてくれたんだけど、私らのところについた時、あまり、、それなりのものという、見方、悪いけどね、だけどやっぱり、あとで1か月くらいして、まず電話して引っ越したからね、だけどまずその段階の時にはやっぱりここにみんな入ってるから、入ったけど、だからあまりいいものはなかったんじゃないかなあ。うん。


伝えたいこと

Q.えーっと最後になってしまうんですけども、あのこれからそのウェブとかにビデオを載せていくんですけど、そのこれから、そのビデオを見る方とかその被災者の実情を知らない方々に何か伝えたいこととか知っておいてほしいことはありますか?
うん、あの、まあしいて言えばね、余計なものは持つなって、うん。本当に自分の必要なもの、これだけで十分、うん。下手にあれこれってねそう、見てるとそういうことで亡くなっている人も多いんじゃないかな。私はそう思うよ。うん、だからそうやって見ると、恐らく何も取らずして逃げる、取ろうとして、取れなくて、そのまま、水が来て逃げようと思った時には、もう、逃げ遅れ。だからもう水が見えた時にはもう終わりだよね。まあ、よっぽど2階に逃げて屋上さ行って助かるかわかんないけど、、、まああまりそういう風なもののやっぱりあさり方ってのはなんていうのかな、そういうのは、あまりしない方がいいな。うん、、、まあ若い人、若い人達って言ってもこういう境遇にあったときはとにかくものは持たずして逃げることだ。


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伊藤 文江さん 【非公開】

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宮城県亘理郡亘理町で生まれ育った伊藤文江さん。結婚を機に閖上に越してきました。震災により家が流されてしまい、現在仮設住宅に暮らしています。4人の子供を持つ母親として避難所、仮設住宅での苦労を話してくれました。


震災当日

わぁーっていう家が壊れての…なんていうんですか…廃材とかの流れ、あの、けむり?とかたってるとこ私は見てないんですね。ただあの、排水溝のふたからこう水がこうわぁーって噴水のように溢れてて、でそこで逃げてる時も、やっぱり出産4人…あ、その時一緒ですね、4人出産してて、病院で何番目に、今年は何番目です、何番目です、ってお母さんと子どもにこう数字の書いてあるプレートとか臍の緒とか、あるんですけど、それを一回、「あれを取りにいこう!」ってわたし思ったんですね。でもこの子達いるし、入ったところで崩れても困るしと思って、泣く泣くそれは諦めて、逃げはしたけどね…でその時に友達に「何歩いてんの!」って言われて、「大丈夫大丈夫逃げっからー」って言ってー、「また会おうねー」って言ってー言葉交わして、やっぱしばらくしてからやっと会えた時に、「逃げられたんだねー」って言って、うん、「助かったよ、大丈夫ー」って言って。だからうん。声かけてもらったり、声かけたりして、うん、なんか、有難いっていうかね、うん、ほっとしたところですかね、うん。


避難所での生活

別の小学校でやっぱり避難してる時に、赤ちゃんがいるから、泣くから、あっちに移ってくれないか、とかやっぱりそういう風には言われましたよね…うん。うーん…聞くとやっぱ結構あるみたいですねー…泣くの、やっぱり、分かるんですよ。こう泣かせるなーみたいな、うるさい。って結局すぐ泣き止まないじゃないですか、でうちのもやっぱりギャーギャー言ってたので、だから、なんか、「泣かせんな!」ってやっぱりね、言われたり…お母さん、その、ひと、一晩だけそっちの別なところにいってください、って言われたのかと思ったらもうずっとそっちに行っててください、みたいな感じだったり…うん。 ショックですよねー、うん。確かにこう、眠いのに、赤ちゃんの泣き声で起こされたとか、でこっちもそういうところで、結局、私母乳なんですね、だからそれで授乳とかしてて、もう疲れてこっちもへろへろになってる時…なんか、ずっと見られてたりとか…なーんか、やっぱり…みんな同じなんですけど、そんなにこうじろじろ見なくても、とかー…そんなにうるさいって言わなくても、とかー、はありましたねー…


未来

うーん…このままいれたら、楽しいことは楽しいのかなって思いますけど、でもやっぱり、ずっとここにいるわけにもいかないのかなーってことと、ある程度ちゃんとこう、まぁ子供たちも安心できるところに、移った方がいいのかなぁ、とかは、思いますね。転校するとなるとやっぱり子供たちも嫌がったりするのかなぁ、とかー…そうでなくても、ね、移られる方も移り始めてたりはするので、うん。

Q. 以前小塚原の方に移る方もいらっしゃると聞いたので、だから移るっていっても県外か、大きく移動するのではなく、近くの町に移る、移りたいっていう気持ちがあるっていうのはお聞きしたんですけど、そういうところって伊藤さん自身はどうお考えですか。

まだわからないんですよねー…実家の近い所に行くのもいいのかなぁ、とか、うん。ほんとに新たにもうこの辺の近くの方がいいのか…かといって、その閖上のほうに行く、気分がのらないっていうか…まぁ来ないところだったらいいのかなとは思うんだけど、やっぱり、余震とか地震がちょこちょこあるのは、んーなんかあったら怖いな、っていうのはありますねー…うん。


子供たち

息子の方なんか、もう「行くと、じいじんとこに行くと津波来るから行かない」とかって最初の頃は言ったりは、してたんですね。ちょうど帰って、あーちょっと、もうちょっとしたら落ち着けるねーなんて、ゆっくりしようねーなんて言いながら、車を降りた時に、「津波が来てますからー」って消防の人に言われて、車から降りたと思ったらまたそっちの山の方に走って行って、というか泥の方、奥、に走って行って。でそういう思いをしてるので多分息子たちは、「じいじのところに行きたくない」って最初の方は言ってたんですね…うん。


閖上に戻りたいか

正直…もう、戻り…戻るっていうあれはないですねー…いろんな思い出はあるんですけど、だけど、やっぱりこう、埋め立てとか、するっていうのを聞くと、あーなんか、見つかってない人がいたっていうのもちょこちょこ聞いたりするので…だからそういう、ところ、つったらあれなんだけど…戻るのは怖いですねー…うん。


未来への不安

前みたいな津波ー…は、もう来ないだろうってどっかにはあるんですけど、来ない来ないっていってどかってまた来るのも怖いしー…うん…ちょっとまだ、なんか考えられないっていうかね…決断できないでいます。うん。でまして、ある程度うちのちびも、周りのおじいちゃん、おばあちゃんとかに、色々接してもらって、だいぶ人見知りもなく、いてくれるので…うーん…なんか、離れるってなったらやっぱりどうなるのかなーってやっぱり、思いますねー…うーん…で近所の、前から知ってる方なんですけど、やっぱり、家建てられないしー、なんて話聞きながらこう、うちの子も、ワンちゃん飼ってるので、わんちゃんと遊んだりして、でこれがもし引っ越しとなって、別のところに行くとなったらまたみんなばらばらなって、こういう風にできないんだなぁーってそういう風に思ったりすると、そういうのもまたそれで寂しいねーっては感じますけどね…うん。結局その町を、結局移動したら、そこの閖上って言う地区じゃなくなるっていうのが、どっかにあるのかな。だから、一応集団移転っていうのも、周りのね。いろんな所、被災した方が、集団移転決まりました、って、アパート建ててます、とかそういうニュースとかよく聞くんですけど、うんうん。でもその、こっちに移ってしまったら、閖上じゃないよね、ってなりません?って感じですよね。こう話を聞いてるとね。やっぱ知らないところに行って、知らない、新しい友達を築くっていうのも大事っていうか、必要なのかな、とも思うんだけど、でも結局子供もそうなったら引っ越しして新しい友達、学校、ってなるじゃないですか。で子供だからすぐ慣れるよー、なんていう風には思うんですけど、結局こう親がなれるかどうか、っていうのも、出てくるんじゃないかなぁーって。時々思ったりしますねーうん。だから、うん。仲良い、だけじゃだめなのかなぁーとか…だけどやっぱり、それはそれで寂しいですよね、うん。まぁ矛盾してるといえば矛盾してるんですけどね。


震災を経験して

周りのこういう、震災があって、やっぱり気づいたのは、周りの人は暖かいなってことですかねぇ…うん…他県からのやっぱり色んな支援だったり、近くの人のからのなんか、支援だったり。なんにもほんとに知らない人たち、まぁこっちに来てくれたりして、お話し聞いてくれたり、うん…そういうのはなんか、本当にありがとうございます、っていう感じ、感謝の気持ちでいっぱいっていう感じですかね…その、あれに対してお礼ができてるか、って言ったらできてないんですけど…なにかあったら力になれればなぁっていうのはどっかにはあるんですけど、それがなかなかできない感じがありますけどね…うん。んー…どうなんだろう、あっという間に、こう、ね、日にち、年も過ぎましたけど、一気にこうなんか、一瞬にして一気に色んなことがありすぎて、なんかまだ追いつけてないのかな、自分の中でっていうのとかは、ありますね…うん。伝えたいこと…ほんとありがとうございます、っていうのと、んーと…ああ、なんですかね、なんか…こう聞かれるとあれなんですけど…がんばります!って感じですかねー(笑)うーん…この話でー色々感じ取る人も色々いるだろうからー何の役にも立たないような話なんですけど、うーん…ほんと地震がきたら、うん…すぐ出て行かない、とかそういう感じ…基本、な、ことなんですかねー…うん…慌て、慌てないって言っても慌てると思いますけどね、うーん…うん。実際にね、小さいのがいたから、自分はなんとか、がんばれた!がんばっていられたのかなぁーって思いますけど…


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遠藤 佐恵子さん

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福岡出身の遠藤佐恵子さん。結婚を機に閖上へ。2011年3月11日、閖上の町と共に津波で家が流されてしまい、現在では仮設で夫と2人で暮らしてます。インタビューでは、福岡出身ならではの視点から閖上に対する思い、また、現在の生活についての思いを話してくれました。


震災前の閖上


震災前…閖上はね、ほんとに小さな町だけど、みんなこう、なんていうのかな…面倒見がいいっていうのかな。ちょっと面倒見が良すぎて干渉がちょっと度が過ぎるとこもあるのね。うん、うん。出かけるとどこいくの?ね、ほっといてほしい時もあるんだけど。それはそれでまたね。だから、これからも、なんか、まとまったとこに住みたいの。どこでもいいから。必ずその土地に帰らなくてもいいんだけど、この、閖上の人たちと一緒の暮らしたいってみんなそう思ってるのね。


震災当日


あのー、その閖上の町の中で働いてたんだけども、その地震…ちょっと普通じゃない揺れだったし、隣…2件くらい隣の人が、6メートルくらいの津波がくるから逃げた方がいいよって言われて、一緒に働いている人の車に乗せられて、ま、まぁ小学校、中学校に逃げようとは思わなかったね。まず、閖上から離れよう、た方がいいってことで、ここらへん、うーんと、増田の方に逃げたんだけど。文化会館とかは…見てないね。市役所近く!市役所の近くに文化会館ってあるのね。最初はそこじゃないところに逃げたんだけど、みんなほら、ガソリンもない、余計に動かれないってことで、でそこに逃げて、で最初から最後までそこの避難所にずっといたの。2か月、とちょっとね。うん。最初、なんていうの?ああいうホール、んーと、いろんな歌とか劇とかやるホールから、こういう板、なんていうの、あそこにじかにこう…だから背中痛くて寝れなかった最初は。うん。普通はみんなが歩いてるところだからね。うん。でもやっぱ長くいると、ちゃんと寝るようになるのね。うん。あの頃まだ寒かったしね。うーん。
まだ布団とかしかないで、ぷちぷちってあるじゃない。あ、これこれ。これ敷いた上に毛布敷いたりして、もう支援のも。布団とかないよ。そうだね、震災から5月の末までだからね。3,4,5、うん。それでここにきたから。そうだね、うん。だって最初は食べ物もなかったし、電気もないし、テレビ、テレビとかの情報も全然、最初はわかんないからね…


避難所での生活


1日1日なにをして過ごしたか、なにして過ごしたらいいかわからない。なにもすること…うん…まだ、知り合いが周りにいたからね、まだしゃべって…うん。まず、いろんな物資、支援は頂いたからね。来たときは着の身着のままだったんだけども、出るときなんか家、自分の周り、荷物がいっぱい増えてんだね、まぁ服もそうだけどね…一部が知り合いだけど、だいたいもう閖上の人は大体わかる…うん、あの人はここの人、ここら辺のひとだ、ってわかるから。そう、そういう心強さはあったよね。全然知らない町の人と一緒にいるわけじゃないから、うん。ほするとやっぱり普段しゃべってなくてもやっぱり、しゃべれるようになったっていうか…やっぱこう自然に話しかけるっていうのかな?うん。だからそこで知り合って仲良、まぁ仲良くっていうかねぇ。そういうのもあるんだよね。絶対閖上にいたらしゃべれなかっただろう、って人としゃべったりね。で、出かけるときに自然に今日どこにいってくるから、とか聞いてもいないのにみんな答えたり、言ったりして。まず、うーん…避難所いって、まぁ楽しいっていったらまた言葉としてよくないんだろうけど、うん…


未来への不安


やっぱこれから、どうなんのかなぁとか…まだほら、行く先もちゃんと決まってないでここほら遅いからね。き、名取市は。と、そういうのもあるしぃ、仕事もないからやっぱり、なんていうか、経済的な面の心配もあるし…まぁ結局まぁ年齢も年齢だから、仕事もぱっと見つからないから、パート的なものしかないじゃない?うん…だから、こういう風になるのわかって、もうちょっとわかってれば、もうちょっとちゃんと蓄えをしといたら良かったかなって…後の祭りでしょ?


忘れないでほしい


知ってもらいた…それはある。今でもそれ以上にあっちこっちでいろんな災害があるから、それこそ、忘れられるんじゃないかっていうのはあるよね。今どこに住んでても安全な場所って、ないんだもんね。オリンピック決まったからオリンピックの方にみんなお金いって、こっち回ってこないんじゃないかな、とか、まぁそれはないっていうんだけども、やっぱり…その心配もね…


未来


ほんとに、うん…閖上の人たち集まって元に戻れ、まぁもとはちょっと危険区域だからあれだけども、ちょっと少しでも近くに住めればいいかなと、だから結構みんなここらへんに家買ったり、うん、もうしてるんだよね。うん、家建てて、うん。若い人はやっぱりそういう風にできるけど、もう、ねぇ、年代的に無理だから。娘たちはもう閖上は嫌だっていうからね。若い人はなかなかね。うん。だから、市で現地再建ってそこに戻るみたいなこと言ってんだけど、やっぱり、地震にあった人のことを考えればやっぱりそこには戻れ、ないよね。で、こんなに頻繁に地震あるじゃないですか?と、ますます、旦那はもともと閖上育ちだから帰りたいっていうのね。と私も、最初は、で一人で帰んなさいって言って、うん。なんか私は、だんだんと嫌になっ、うん、最初はまぁいいかと思ったけど、こんな地震が多いからだんだんちょっと、怖くなってきたこともあるのね。できればこう、なるべくこっちより?今住んでる寄りに、建ててくれない、でそう。閖上じゃなくても閖上の人たち集めればそれが閖上だからね。必ずしもその…そこじゃなくてもいいかなと思うんだけど。最初は、閖上閖上って言ってたんだけど、もうあまりに決まらないからもう、旦那さえももうどうでもいいって今…うん。勤めに行く関係でここの方がどっちかっていえば近くなったから、うん、うん。このままでもう、ここに慣れちゃうと、ここに住んでもいいかなと思う。みんなそう思ってんのね。だからここ壊してたんとアパート建ててくれるといいの。買い物近いじゃないですか、ここね。お店がそこにあるから。そういう人もいるけどまぁここは無理な話なんだけどね。ね、家建てられるような余裕があれば一番いいんだけどね。でも、ここにはやっぱちょっと住まないかな…うん…どこに住むかっていうとなかなかねぇ…うん、あまりにもね、こう進み方が遅いし、決まらないから、何年後にもう帰れるっていうがあればいくらかはねぇ、こう目標じゃないけどあるけど、まぁそれが決まらないからね…だから震災で、震災後になにかいいことあったかなーとおもって考えるけど、ないんだよね…なにもないね…


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遠藤 一雄さん

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閖上で生まれ育った遠藤一雄さん。定年退職後も、閖上4丁目で暮らしていましたが、津波により家が流されてしまいました。現在では愛島東部仮設住宅の会長を務め、遠藤さん自身も愛島東部仮設で暮らしてます。震災後の仮設住宅での生活を中心に、会長として見てきたこと、感じてきたことなど様々な経験を話してくださいました。


区間わけと行政

Q. 小学校中学校は地域によって分けられていますか?
みんな一緒ですよ、あの、おおまがりっていうところがあるんですけども、ちょうどここから閖上の中間ぐらいに、そこまで閖上の区間なんです、学区みんないっしょです。

Q. どこからが閖上でどこからが閖上じゃないのか、ひとそれぞれ考え方が違うように伺いました。
そうそう、あのね、閖上のね、いまでいう、小学校あるね、ひいらぎの、あの辺までが、閖上区間なんです、名前はね。そしてそこから西側は丘区っていうんです。「おか」ね、普通の「おか」、丘区っていって、だけども学区はみんな一緒で、あの町内の運動会とかある時はみんな一緒ですから。

Q. 小学校はひとつですか?
ひとつ、中学校も一つ、ええ

Q. 丘区の方々も閖上に含まれますか?
そうですよ、うん、ただこうほんとの閖上っていう地名がついてるとこが閖上っていう感じだけども、その丘区ってとこも閖上地区さ入ってますから。だから今市長さんなんかよく現地再建でやってるっちゃね、やってるけども、丘区の方さ みんな住みたいってみんないうの現地再建より、こっちは閖上じゃなくて丘区っていうんだけど、結局みんないっしょなんだよね。結局みんなお互いに学校も小学校も中学校も卒業しておっきくなっても同級生だなんだってやってるんだから、それを市長さんわかったらうまくいくんだけどね本当は。こっちは閖上じゃない、こっちは閖上だってさ、差別したらよくないと思うんだな、そういうことやってるから進まないんだな

Q. 地名だけでみていて、
そそそ、そういうこと。

Q. 人間の関わり方に目を向けていないということなんでしょうか?
そそ、まぁ今閖上のことやってからだけども、こっちの人は差別だよね。普通はさ、名前から言ったら、同じ名前で暮らしてるんだからさ、だからそういうことやってたら復興もなかなかままならないんじゃないかなって、うん、行政の考えと違うから、うん。反発力がすごいんですよ。だから今このままで行かされて、工事に着工したとなっても、行く人がいなければまた見直し、するようになっから、市長さんも大変でないかな。

Q. どういった方が行政に関わっているんですか?
私たちはその名取市閖上地区の住民さんの意向をこっちを住みたい人の意向を、その人らの意見を市やなんなりに提出してやって、署名とかもやってましたよ。

Q. 受け入れてくれる感じではないのでしょうか?
あまりないね。市長がそのこうあんまり…かもしれないけど、普通なら市長さんこう長い時間で対応するでしょ、5分3分くらいでぱっと退出するんだもん、話にならん、うちら今こういうことやっても、宮城県会議員さんとか、俺ら一緒になって担当の西村さんとか今年の6月からな、復興庁にいってきたんです、西村さんと県会議員さんと私と、復興庁の大臣とお話ししてきたんです、でもあっちでも頑張ってくれって…てことで復興中の中でね、普通はすぐ帰るんだけどもね1時間以上もお茶のみしながら、大臣と復興大臣と。

Q. お気持伝えたんですか?
伝えましたよ。それで、それが県の審議員会に挙がったわけさ。ほら、西側さもってくとか、あと今計画どの場所をさ、災害公営住宅っていうのがたつんだってね、その公営住宅お寺の跡地さ建てたりっていう計画なのさ、誰もお寺の跡地にばっとたててもらって住めないですよね。まぁ先祖さんの頭こう踏みつけらってるようでねお前ら何やってんだっていわれそうだっちゃさ。で最初「建てる建てる」ってがんばってて、その私も市議会で代表で喋って、知事さんのいるところでさ。したら知事さん怒ってさ、市長と答弁することになったら、そうしたら建てませんってその場で言うんだよ。住民はその日まで建てるって思ってんだから、それで判断してんだから、そしたら今度建てねーっつんだからさ。じょうだんじゃねーってさ、その時のがれればいいっていう感じで話すんだよね。


ボランティアと自立

んー、やっぱりみんなもね、震災になって、ここにきたはいいは、人からもらうようなことではだめだと。ここから5年ないしね、出てきた場合自立心がなくなるから、まぁ出て行っても自立できるようにみんなでがんばるべって、ことでみんなでやってる。だからうちにほかの仮設みたいにボランティアさんにこれやってくれってさ、絶対うち言わないです。うん、だけども一度ねこの自治会で年に3回大きな祭りあるんです、3月4月になったら花見とかね、夏祭りとか、あと10月になったら芋煮会とか、それでここの自治会でみんないろんなことやって、ここだけだとあれだからって、たとえば上智大学さんに手伝ってもらってるから、その人さ声かけて招待しましょう、招待しながらやってるんです。うん、逆に。まぁお返しっつったらおかしいけど、俺たちにできること、ならやりたい。世話なった人に声かけて、だからNPOやってもらってる人とか文化大学とかね、なにもいらないからとにかく食べに来てくれって、うん。


閖上に戻りたいか

まぁね、俺たちも先祖さんたちからの代でずっと閖上にいるから閖上に戻りたい、でも、さっきもゆったけど丘区も閖上だから、その災害危険区域のちょっと西側っていうのもあるわけだっちゃ。だからそのへんでやっぱりやらねーと。ここからはもう閖上から遠くに行くっていうのは考えられねーかな。なるべく海の近くにはいねーとって思ってるけど。


遺体安置所での経験

そしたらだいぶ人亡くなってるってことで遺体安置所もうけたのさ。そして、二日目から私2か月半ぐらいその遺体安置所さ確認にいたんです、町内の人達もいるからね。で全部、最寄りの人みんな見つかって、連絡して引き取ってもらって、2か月半やってた。

Q. それは自分からやり始めたのですか?
そう、で、もうほれ、知人の弟だのいないだの、で、弟さんがね、ちょうど15日してぐらいあがってさ、俺が最初に見つけて、…あそこの息子さんだけ見つからなかったんだ、やっぱりお父さんより早く見つかってたのね。ところがね遺体がこっから半分しかなかったんです。それで見せられなかったから、DNAで4日ぐらいしてからわかったけども、で、私140体か150体ぐらいみんなに引き渡したんだ。分かってる人…もうあんな時は、ああいう人間見たりすっと思い出すでしょ。夜なんか。1日2日目ぐらいは、「あ、こんな人いたんだ」ってぐらいで、もうあとは日にち経ってくるとみんな一緒の顔してるよ。…だからなんともなくとは言わないけど、見つけても助けてあげれなくて悪かったってぐらいで引き渡ししたけどね。そういうことなんです。だからやっぱりね、だから今こんなことして、会長やって、みんなの協力もらってってことは、俺は生かされたから少しでもみんなのためにやらないとってやってるけど。まぁみんな長沼君とか役員さんたちがいいからね、みんなすぐに声かけると協力してくれるからそれだけがありがたいです。

Q. 震災を経験して人との協力性が本当に大事だなって、実感しました?
あー、思いますね、やっぱり何もない平和な土地は結局声かけたりなんだりしてやってけるけども、やっぱりなくなったら協力がないとやっていけないさ。個人個人ではね。


ボランティアとメディア

やっぱりやってくれてる人は一刻も早く復興してもらいっていう感じもあるんでねーの。やっぱりいろんな形で聞くけど、よく日和山に花植えるとかさ、でも結局花植えてもさ、正直な話、水やりにも来ないでしょ、植えるだけで、だれが水やるか。で、一回植えれば次に来ないでしょ、うん、そういうのまぁボランティアはボランティアなんだけどさ、ふつうやるならああやってSTEPさんみたいに、寒くても毎日3人でも5人でもね、やってるっていう人のほうがほんとにああいうひとをよく感謝しないと。んださ、花植えるのは一時的ださ、であと来ないんだよ。それでまた1年くらいしてから例えば花がなかったから花植えるかとかさ、それで植えっぱなしで誰があそこで水やりなんかするのね、しないでしょ。

Q. 単発なんですね。
そうそう、その単発的なことをやってんだ、ってことよりもさ、もう少しやり方があるさね。単発でなくてさ、やっぱりSTEPさんみたいにね、ああいう風に毎日とはいわねーけどさ、例えば2か月に1っペンとかね。あと植えた花どうなってっぺってじゃぁ水やってって、てくる人もいるっちゃね。

Q. 長期的なボランティアということですか?
そうそう、まぁ水かけなんかは5人や3人ぐらいでいいんだから。うんそんなに団体で花植えにさ来ることはないんだから。とは思う。
んー、メディア、の方でも、それをやっぱりある程度伝えるんだから、伝えるに対して、例えばこの人達がこれをやってくれたからとか、そういうことばっかりでなく、あたりの住民とか、だからおれが今言ったようにさ、ね、一回植えたらそれでいいって問題でないということば取り上げて言ってもらえれば、ある程度その団体でもメディアでぽっと流されれば、これはこれではまずいのかなって考えると思うのね。

Q. 最初から最後までやり切れてない部分があるんですね。
うん、そうなんだよね。まぁ俺だけの考えだかなんだかわかんないけど。それは見てたら、長いこと見てたら分かると思いますよ。

Q. やっぱりメディアも単発的な部分もあるように思います。

そうそう、だから日和山も鳥居いったって今花なんかないでしょ。暖かくなればまた出てくるっかもしれないけど今はないです。っていうことは寒くなったらこう葉牡丹植えるとかね、冬の華ね。やってれば、やってろばってことはねーけども、うん。それくらいの気持ちでね、やるくらいだったら、みんなも「あーまだ綺麗な花、冬になればあがってるな」とか、うん。そうするとねやっぱり度々やってると閖上の人さ、「あ、水もやんないで」ってかけてってくれたりするんだよね、だからこの間神戸から来てくれた人達、やっぱりみずやりしてっいったけろよ。やっぱそんなもんですよ。そうやって他の人気づいてやってるんだから、そういうの度々こうやってけば、住民に分かって、行ったらば、たとえば「ペットボトル2本持ってって水かけるかー」くらいのね、それが集まればそうとうなもんなるでしょ。だからそういうのも考えろば、いいのかなとか。うん、とは思います。うん。


これからの閖上の理想と現実

Q. 遠藤さんは、これが一番理想的な閖上だ、こういう町が将来あればなど、どのような閖上を想像していますか?
うん、結局ね、こ、2年前からやってんだけどもそういうの。みんな私たちの方で、図面だの出して市の方さ提出したりしてるんですよ。でもやっぱ受け入れられねーんだよね、うん、だめです。だから例えば閖上の大橋あるでしょ、あそこから仙台市さいくっちゃね。あそこも私たち最初提出したのが、ここ道路ね、閖上の仙台市の道路から、ここ嵩上げ(かさあげ)ずっとしてもらって閖上きて、今の大橋をちょっと海側にもう一本建てて、そこから嵩上げして飛行場のほうまで嵩上げしてっていうのを提出したのさ、そしたら市役所ではこっち仙台市だから仙台市との調認はむずかしいて、仙台市ではそういうことしないってゆってたのさ、そしたら仙台市でここかさ上げするってさ、あの、閖上の大橋まで6メートル、それを最初っからおれらゆってたやつなの、みろ、仙台市にとられたろって、なんつことなかったのさ。だからそういうことあるからむずかしいんです、我々一般市民がいろいろゆっても文句としかとられられないんです。だから市長さん曰く、進まないのは住民が悪いとかそういうこと平気で言ったりするんだから。で俺たち今、俺たちの会がほとんどでやってから住民のあれで。そしたらちょうど夏祭りの日、市長が来たんです。そしたらおれんとこ来て言うわけさ、「早く復興したいんですけども、遅らせてる人ら足をひっぱってね、いる」ってさ、だから「それは市長違うんでねーか」って、「市長も一応ここは誰も反対してるわけでないと、ここはここでいいから、もっと西さ行きたい人のことも考えたらいいんでねーか」って、言ったら、「いや、遠藤会長ば足引っ張ったりしてる」っていうわけ、「俺の名指しぜってーゆるさねーからな」って。ここでみんなの前でだよ。そしてみんなさ頭きてさ。「みなさん俺たちがやってることは足引っ張ってるって市長が言ったから」って、みんなわかってるんですよ。だから「あのやろー」って、だから市長にみんな挨拶して来いって言ったらみんな無視するんだよ。無視。で、そのあとに小泉しんじろうさん来たわけさ。で、小泉しんじろうさん来て、市長が1回挨拶しようと思ったら、みんな挨拶する前にね、「市長出てけー」だの言うんだよ。そういう言われ方もしてるんだから、だからそういうの聞いたらしんじろうさんも分かるは、「あ、この人はたいしたことないんだな」って。だからそういうの自覚してるよね、同じ街作るんだったら、まぁ良い町つくったらいいさ、そういうこともしねーから、もうなに言ってもだめですあの人は。
っていうのは一番機能してねーってのは住民の意向聞かねーからだよ。うん、これやりますよっていうだけだから、やるに対しての説明会もねーんだから。

Q. もう決定してるんですね。
そうそう、行政で青写真出てきて、「はい、今度こういうのしますよ」って始めて言うだけだから。で、そしたら今度なんやかんやって住民が言うと、また別なの、作って今度こういうなのやりますよって言うだけだから。

Q. 説明会で決められたことを言う前に、住民の考えを伝える場というものはないのでしょうか?
ないです。

Q. 完全に決まっている状態なんですね。
そうそう。決めてから持ってくるんです。

Q. それがやっぱり遠藤さんにとって一番言いたいことですか?
言いたいさ。

Q. 住民の意見を聞いてほしい、と。
最初は住民さの意向、こういう所に行きたいとか、こういう風な作り方してもらいたいとか、言って相談して、じゃぁ100%はいかなくても、じゃぁ80%とか、90%とかしますよって言って納得してやるんだったらはいるよ。でもそういう説明もないから、はい、決まりました、はい、決まりましたよって。今の復興案もそういうもんでしょ、うん。


伝えたいこと

Q. 外部の私たちに何かできることってありますか?
うん、やっぱりねそういう人がぜひとも、その区画行きたくないっていう人達のこと、行きたいって人はもう少ないんだから、行きたくないもう少し西側って人のことも声高々に言って、伝えてもらえれば

Q. 「西の」とはどの辺ですか?
うん、ようするに閖上、たとえばこう、あって今こう、区画整理がいまこの分だとしますね。そうするとここ、仙台空港の閖上大橋の道路だとしますね。そうするとこう、ようするに西側っていうのはこの辺さ。
だからその辺さ、住みたいって人が多いんだから、ここじゃなくね。それでここまでは嵩上げして、3メートルの嵩上げするんだけど、この道路から閖上大橋の道路からこっちはかさ上げしないんだから、そするとこっちさいくよりもこっちだったら金少なくて、たださっとね、ならしただけで住めるんだから、そういうことも考えていかないとね、小学校の周りさ住めるうちいっぱいあったんだから、そういうことこう人がいっぱいおりますよってことで、バンバン伝えてもらえればみんなも分かると思いますよ、そういうことやっぱメディアでも学生さんでも伝えてもらうと、やっぱ役所とかでもみてっからそういうことあのーようするに市役所の職員ってのは部長さんでも課長さんでも市役所がこういことおかしいなってのは思ってるっちゃ、だけども市長がいっから、答弁でも言いたいこといえないっぺさ、へたなこというと市長のとんでもないとこ破線するっから、こわくていえねーわけさ、うん。

Q. 権力ですね。
うん、権力、だからやっぱりメディアのひととかが、こういうとこからこう伝えてもらえれば、いやこっちのが早いと思うよ。

Q. じゃぁ、行政は自分たちが関わったところに住ませたいっていう、自分たちがやったっていう、手柄っていうかみせたいんですね
うんうん、現地再建っていうもの、それだけだから、だからこの震災になってこうこの辺でいうと、現地再建になったのはあんまりないでしょ、この辺だけでしょ。そういうことなんです。

Q. 外部に住んでいる方や、震災を経験していない方々に伝えたいことなどありますか?
うん、まぁあれだな、やっぱりこう復興のことにしてもさ、外部っていうか人たちは聞いたり見たりしなきゃわかんねーわけさ、ちゃんと進んでるんじゃないかって思うさ。ところがこういうこともあって、みんなも苦労してるっていうことを伝えてもらえれば、うん。まぁ忘れないで、見ててください、って。なにかあった時に応援してくださいって。まぁ応援っていうのは物をくださいっていうんではなくてさ。こういうことで何かあった時にそっちからもがんと口をいれてもらって。やっぱり外部の方からもみてもらえればそれはいいことだからさ。


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渡辺 カツさん

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仮設住宅に入りたての頃は周りに家族以外の知り合いがおらず苦労したという渡辺カツさん。その苦境をどう切り抜けたのか、語っていただきました。また、今後の予定や閖上の未来についても、お話を伺いました。


仮設住宅での生活&人間関係について

私だれも知らないから、この人どっから来たの〜?って顔で見られたのね。その時は、うーんと傷付いたんですよ。
いやあ〜こんな風に疎外されてるような感じでね、ここで暮らしていけるかしらぁ〜って思ったんです。んでも、まず自分から進んでね、あの、みんなと打ち解けなければ、やってけないなあ〜と思ってさ、それから色々な、んだ、イベントがあったでしょ?そういう時に積極的に来るようになったのね、ここに。それで、ひと、一人、二人、顔見知りになって、そいで、今は凄く楽しいです。うん。そいで、色々なイベントに私は参加して、そして、何でもやろうと思うんですよ、貪欲に。できなくてもいい、参加してー、うん、そいで、みんなと親しくなんなきゃっていう感じで、今はほとんど顔見知りになって、友達になって。
だから、とにかく私は前向きにね何にでも参加しようっていうことから始まったんです。ここへ来てから。
何やるにしても、積極的に。やろうよーやろうよーっていうような感じで。自分がそう思いしたから、そう思ってる人がいると思うのね、やっぱ。ああー一緒にこういうことやれないかなーっていうひと、中にはいると思うのね。中には、ほら、集会場に出てこない人もいるから、そういう人はなるべく声かけてー。あのー、集会場にもおいでよーっていう感じで。みんな一緒でしょここは、自分のうちみたいなもんだから。声かけながらね、みんな一緒にお茶飲もうよとかなんとかってなるべく声かけるようにしてるのよ。だから、けっこー今仲良しでね。

Q:そういうイベントに参加するのは大体女の人と聞きました。
そうそう、ほとんど女の人、男の人は二人くらいかな。

Q:男の人は…?
男の人は何してるんだろね、うちのにいるんだろね。あとほらここに、電気マッサージ機だのあるでしょ。だから、それをしにくる人は何人かいるのね。でもイベントに参加するっていうことは、ないね。ほら、イベントって言ったって、お花とか、食べることとかさ。手先のことをやろうっていうことだから、男向きではないんだろうね、やっぱりね、うん。お花をいけたり、お針をしたり、んーまあお話を聞くのは男でもできるけど、なんつーの、やっぱり、年も年なんだよね。おじいちゃんが多いのよ。だから、おらは何しなくたってていいわあーっていう人が多いのね。うーんここは、学校へ行ってる、若い人を集中して集めたところだから、子供たちはけっこういるのよ。で若いお母さんもいるのね。でもそういう人はここへ来ないでしょ。で残った人は80過ぎてる人たちとかが多いのよ。だから60代、70代っていうのは限られた人しかいないんだよね。

Q:若い世代の人は若い世代の人で…?
若い人達は忙しいんじゃない?働いてるから。

Q:そうすると、、なんていうんだろ、あまりこう、カツさん達のお年代の方たち、集会場に集まっている方たちと、その若い方々とのコミュニケーションとかっていうのは…
コミュニケーションは、若い人達は朝会えば、おはようこんにちはぐらいは言うよみんな。んで、ちっちゃい子いると、ちっちゃい子通してお母さんと話をしたり。コミュニケーションはいいと思うんだけどね、うん。
何も気取ってることないなと思ったら、気が楽になったのね。うん、だから、だっちゃねーとか言われれば、ん、だっちゃー!とかいう、返して。そういう風に自分も変えていかなくちゃ、しっ、団体生活って難しいと思うんだよねー、自分の主張ばっかり通してたってさ、うまいわけにいかないと思うのね。
自分もそう前向きになてかなきゃこれから生きていけないでしょ。後ろばっか見てらんないし。だから、もう、これから残された人生どう楽しくやってこうかなーっていう風なことしか考えてないね。うーん。ワンちゃんといる、遊んでるのもいいし、自分で好きなことやってるのもいいし、好きなもん食べるのもいいし、うーん。そうかなあ、だと思う。


閖上の今までと今後について

独特なんだよね、閖上っていう、こう、町は。親戚も多いしね。あの町っていうのは、ほら、島みたいなもんだから。うーん。そこに何千軒って建って。そこで行ったり来たり嫁に行ったり、嫁にもらったり。ほんだから、周りはみんな親戚みたいなもんなのよ、ここは。だから、下手なこと喋っと筒抜けだし、うーん、そういうとこはあるんだよね。

Q:それは、震災後、あのー、変わりましたか?
うーん、震災、震災後はー、いや、変わった人もいるだろうしー、うーん、変わった人が多いんじゃないかと思うのね、話聞いてみると。ここ、昔とは違うんだよっていう人が多いからね。昔、浜にいたときに付き合っていた人と付き合わなくなった人もいるし、なんだ、昔と違うんだからね、ここは、今は今なんだよ、っていう人も多いね。

Q:これからの閖上の町っていうのは、どんなようになっていくと思いますか?それか、なってほしいと思いますかー?
あー、うーん。今からの町はちょっと考えられないけどもー、若い人がいなくなるんじゃないかって思うのね、閖上の町は。結局、若い人はみんなここらへんにウチ建ててる人が多いし、今いる現在の人たちも閖上には帰りたくないっていう人がいっぱいなのね。うーん。だけども、帰んなくちゃなんないっていう人は、ウチも建てられない、お金もない、結局、市の世話になんないと、ウチも入れないっていう人が多いから、そういう人ばっかになるわけよ、わけでしょ。そうすっと、年寄りの町になっちゃうんだよね。
ウチはもう、孫が閖上には絶対帰りませんって言うのよ。んで、うちのママもそうなのね。あの、閖上の人じゃないから、閖上の独特の雰囲気っていうのに慣れないんだよね。わたしら年寄りだから、いい加減になれてきたけども。若い人はなれないんだよね、閖上の町のその独特の雰囲気っていうのあるから。だからもう、閖上には行かないっていうのあるのね。

Q:もし、そのー、娘さんたち、の考えとか、関係なしだったら、カツさん自身でしたら。
私だったら、別に悪くないかなって感じなのね。今はね、慣れてきちゃったから。この雰囲気にも慣れてきたし。私一人だったら、まあ、閖上に行ってもいいかなっていう気持ちもあるけども、やっぱりもう歳だしねえ、やっぱり、娘たちの世話になんなくちゃいけなくなるから、やっぱりそれはできないなって。


支援について

Q:なんか、ここの、この仮設に、年を取った人のためになんとか足りないこととか、それが、ありますか?
なんとか足りないって言ったって、やっぱりー、自分たちが助け合っていかなくちゃなんないことだからねえ。人の手借りて、どうのこうのっていうにも、まず、近所となり仲良くして、何かあった時にはー、みんなで助け合わなくちゃなんないなーって気は、っていうのはあるんだけどねえ。私は割合、年寄りの人たちに手貸してるの方かなってーいう気はするけども。頼られてるっていうこともあるのね。この人に言えばなんとかしてもらえるっていうので、私に相談する人も多いのね。あの人にああ言われたんだけど、こう言われたんだーっていう話を持ってくるわけよ。んでえ、この間もなんだかねえ、物資どっかからもらったみたいなんだなあ、年寄りの人たち、二人で、この仮設にいる人たちが。
たまたま会ったんだかなんなんだか知らないけど、んで、仙台からきた人なんだあって言うけど、なん、物資いりませんかあって言って、ああ、ありがとうございますって、置いてかれたみたいなんだけど、処分に困っているわけよね、結局は、その年寄りの人達は。んで、どんなのが来たのおって私のとこに来たから見たのね、そしたら、今時着れるようなものでないのよ。十袋ぐらい置いてったのこういうの。個人的にもらったってどうしようもないから、こういうことは自治会長さんに言って、自治会長さんから、あの、引き受けてもらえばいいのかなあーって、思ったんだけど。そう言ったんじゃ傷付くだろうなー、って思ったから。えーどうしようねえこれねえ、これ、広げてみて、着れるー?って言ったら、着れないーっていうのね、こんなの誰も貰わないっていうのね、近所の人、若い人も来たんだけども。それが、ほら、カーテンのボロだったり、こういう、なんつーの、コタツ掛けのボロボロっていうようなやつなの。なーんか、あげるゴミを置いてったみたいな感じなのね、見たら。言っちゃ悪いけどねえ。おいてってくれた人はどんな気持ちで置いてったかわかんねえよ。んで見るとね。ちっちゃい人が着る服なのか、おっきい人が着る服なのか、サイズ見ても、サイズ全部切ってあるのよ。だからあのー、サイズ見てね、100-100、120-120のサイズなら子供だしー。こう広げて見ても、ちっちゃいんだけれども、こどもが着るような服ではないのよ。ここに、こう、リボンがついてるようなやつとかさ。えっ、これはー大人が着る服なんだっちゃねーって見ても、見てもねえ、ちっちゃいのよ。Sサイズみたいなのね。Sサイズ着る人いっかしらーって感じなのね。
ありゃーだめだわなーこれなあー誰も着る人いねえーっちゃなーって言ったの。そしたら、とにかくねーそのー、シ、シミだらけだったのよね。シミだらけだったり、この襟のあたり見っと、襟が小汚いやつだったりさあ。ほんーとに一枚も着れるやつないのよ。どうするーって、貰ったのはいいけど、これー、集会場行って広げるー?って言ったっけ。だめだわなーって言うんだっけ。だから、家にじゃあ貰わないことにして、私みんなー、自分の名取市の袋に入れ替えて、ゴミに出すからねーつってさ、この間、土曜日か、5袋ばっかりとりあえず一回に出せないから、全部入れ替えて5袋ばっかり出してきたのよ、ゴミに。ゴミ見たら持ってってくれたから、よかったなーっと思ったけれど。まだ残ってるのよ、5袋ぐらい。ほんでも見ても、着れるもんでねーのよ。いやあなんか考えてみたら、いやー、悪質な人がいるなーっていう感じなのね、自分のゴミをここ置いてったんじゃねえかって思うような感じなのよ。だから下手にもらっちゃダメだなーって思って。後で、ほら、やんわりと、こういうときはこうしなくちゃだめだよーって教えよっかなーと思ったのよ。だけどそのおばあちゃんも85ぐれえのおばちゃんなのね。だから、貰えば良いと思って貰ったもんなんだけどさ(笑)そういうこともあるの、うん。

支援への感謝と、これからについて(4:22~)
今までほら、全世界の人たち、日本人ばっかりじゃなく世界の人たちに2年8ヶ月ぐらいになるのかな、色々な支援してもらってるわけですよね。だから、支援してもらって本当助かったこともあるし、自分たちがこのまんま支援ばっか受けてては前向きになれないなーっていうとこもあるのね。だから、やれることは自分たちでやってこうよーっていう、そういう気持ちだね、今はね。うーん。だから、そのー、支援物資来ねえとか、支援物なんで今になってなんで来ねえんだって言う人には言うのね。もう支援物資もらう月日じゃないよって。今、自分たちが何でもやれることやって恩返しやんなくちゃならない時期だよって言うのよ。だからあ、本当に今まで色んな人にお世話になってありがったからね、うん。


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高橋 久子さん

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閖上1丁目のまちカフェでインタビューを行いました。自作の歌と前向きな姿勢が印象的でした。


仮設住宅での生活について

Q:今住まれている仮設に、震災前からの知り合いの方はいらっしゃいましたか?
A:知ってる人は1人か2人くらいいたけどね。たまにかまぼこ屋さんで働いてて、あーとかいう人いたけど、ほとんど顔見知りじゃないよ。でもほら毎日、出てくる人は誰それさんってわかるけど、集会所に来ない人。2、30人は来るけど、後の人は行きたくないって。男の人なんかとくに、お年寄りの方とかとくに。やっぱ、1人2人しか来ないもんね。男の人って来ないんでないかな。だから知らない人も、8割ぐらい知らないんじゃない、未だに。わかんないよ。顔見知りの、ほらお茶のみって20人ぐらいいるけど、後は分からないよね。

Q:仮設住宅に住んでいて大変なことはありますか?
A:大変だって言ったってしょうがないです。大変だって言ったら何でも大変です。やっぱり隣の家に音が聞こえるんじゃないかとか。やっぱりうちの団地、セキスイハイム、ガラスも二枚になってるから音もきちっとしてるね。隣の音もおっきな音だと聞こえるけど、戸あけてない限り聞こえてこないよね。テレビの音とかも。家の面積は小さいけど、防音はしっかりできてるよね。普通の住宅と同じ作りなんだって。仮設仕様じゃなくて、あの一般住宅、セキスイハイムの住宅を仮設として使っている状態なんだって。だからうちのもしっかりしててね。だからお風呂でも”ピコピコピ間もなくお風呂が沸きます。ピコピコピお風呂が沸きました。”っていう普通の家庭の…ユニットバスって言うのかな。四角の狭くて入れないとかって言うのでなくて。普通の新築住宅みたいなこういう形の。


エンジョイ仮設

エンジョイ仮設住宅
津波の大震災で仮設住宅に入った
8件の住宅が連なっている
昔はハーモニカ長屋といったそうだ  
ハーモニカなら私の部屋は1号室だから ドレミのドだ   
ドレミの歌のドは ドはドーナッツのドだけど
どんなときにもともある そうだ、どんなときにも明るく楽しく 振り返って暗くならず この状態を受け入れて前進あるのみ  
海辺の家から山手のセカンドハウスに来たと思えば楽しいじゃないか 
こたつから五、六歩で 台所風呂トイレ 花の水やり 洗濯干し  
なんでもコンパクトで楽だ主人と二人 なんでもオープンで 秘密基地もない 
知らない人ともあいさつを交わし  多く作ったおかずや野菜を交換 
たまに違う通路を通って 鉢植えの花や野菜を眺めたりしている  ただうっかりすると  自分の家を通り過ぎたりしてしまう  
だから西側の雨樋に 目印にピンクの小さいリボンをつけた 一人でくすっと笑った  
みんなでドレミの順にならんで ドはドーナッツのド レはレモンのレ  などと、歌ったら楽しいだろうなぁなんて バカげたことを空想している ははは

狭くてどうのこうの言うんじゃなくてやっぱり現実を受け入れなきゃいけないのよね。本当に文句ばかり言ったって天災なんだからね。ドーはドーナツのド、レーはレモンのレーって、ミの人はミーはみんなのミとかって八人並んでやったら楽しいでしょ。まだやったことないけどさ。そういうのを考えてエンジョイ仮設住宅って言うのを書いたんですよ。


震災後の人との関わり、助け合い

震災後、しばらくして同級生のみんなから電話貰って。支援物資を送ってくれたり本当にうれしかった。あの時は本当に寒かったからね。調剤薬局に行ったら、どうぞ、御自由にと書いてあったので、主人は毛糸の股引きを見つけて、あーこいつあったかいからもらおうなんて言ってもらったんだよ。着のみ着のままで逃げたからね。普通なら洗濯してからはくんだけどそのままはいて喜んだんだよ。震災後すぐには支援物資はこないんですよ。道路も壊れてるし信号もなかったしね。多分調剤薬局には近所の人が持ってきてくれたと思いますよ。ズボン、ジャンバー等サイズが合うものをもらってありがたかったですよ。私は仙台の息子宅にお世話になったので暖かい食事、布団で過ごすことができたので避難所で生活するよりは幸せだったですよ。近くのところでラーメン炊き出しをやっているという事で行ったんですよそしたら店の外でテント張って、お金も払わないのにいらっしゃいませーと暖かく向かいいれてくれて、ラーメンとごはん息子家族の分と六人分頂きました。京都の餃子の王将というラーメン屋さんだったね。責任者の方に「みんな流されたんだよ」と言ったら「ちょっと待っててね」と言われて、待ってたら卵を30個位と果物をもらってね、うれしくて握手して涙がこぼれました。


今後について

閖上…2年7か月経ってもなにも変わってないですよ。だから今後どうなるのかねえ。でも私は家を建てるつもりはないので、市役所にお世話になるしかないですよ。一戸建てに入れるようにって要望をだしているんですけど、まだ、今から町を作って、戻れるのは、まあ戻るって言ってももっと西の方に一戸建てを希望しているんですけど、ここの地区じゃなくて。
世界中のみなさんに色々支援していただいて、こんなに元気になりましたので、ありがとうございますっていうのをお伝えしたいと思いますね。これからも私たちを見離さずに見守っていただきたいと思いますので、よろしくお願いします。今日はありがとうございました。


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深田和秀さん

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深田さんは、現在特にどの団体にも属さず、個人で放射能量の計量を行ってらっしゃいます。

深田さんの「敗因」

要するに廃炉後の世界をどうするしたら良いのだろうかっていうことで、廃炉アクションっていう、イベントを、考えて、えー、そういうことを、ちょうど、その日に合わせて、要するに3月の26日に、いわき市で、もう場所も借りて、そいで、いろんなことを、お話しする、コメンテーターの方も呼んで、シンポジウムも予定して、そういうとこまできてたんです。でもうあと開催する、ところが11日に、事故が起きて、みなさんご存知のように、もういっぺんに。もとより、その、そういうことに、アンテナをたてて用意をしてたお母さんの人たちは、すぐさま、福島から離れたんです。もう何も後ろ見ないで、とにかく離れた。ところが私は、まず1つは、親父が、要するにその、介護施設に入ってましたので、移動できなかった。で、私は、あの…あぶくま高地を、福島市は、約70kmから80km圏、です。超えて、福島に影響を及ぼすとは、実は考えていなかたんです。で、それが私の、まあ言って見れば、敗因なんですよ。まあだから背負った、まあだから失敗の、重みなんですね。だから一緒に、当然何日かの停電と、断水がありました。

周囲の問題についての認識格差

それはいや、感じますというか、認識格差っていう言葉が適当かどうか分かりませんけど、もとより人間の体はここに寄って感受性は違いますから、例えばなんで花粉症にあなたがなって私がならないの、とか、ていうのはなかなか、まあ科学的な説明もちゃんとできるはずなんだけど、なかなか難しい問題ですよね。だからあんたなんで、そのことわかんないのって、放射能の怖さ分かんないのと、突き詰めても、なかなか、相手の方は、理解できないんです。理解できないっていうか、どういうことなのかっていうのを、あのー、実は、分からないんですね。で、えー、逆に、私のように、ある程度そういうことを頭のなかで分かっていても、実際は高をくくってしまうような場面ってのはあるわけですよ。さっきも言いましたように、阿武隈山地を超えてくるなんて言うようなことは、要するに80kmも、放射性物質が、プルームが、通って、そこで微量な物が落とされて、なんか影響あるのって、要するにイメージが、されてなかったわけですよ。ね、そのために、本来は警告をしてみなさんに、少なくとも、危ないよ、ということを言わなきゃならないような、立場にあった者が、何も言えないで、一緒に、水汲みにならんでたって、そういうなんかものすごいブラックジョークみたいな話になっちゃうんですよね。ですから、そういう認識の違いっていうのはあることを前提に、やっぱり、あの、全体的な、相対的な、放射策をやってかなきゃなんない。

除染の限界

まあいわゆる植木とかがあって、そういうところにもう放射性物資がついているんですね。でちょうどそれが、境の生け垣になってるわけですよ。ね。ところがあたしたちが、隣のお家にいってそれいっぱいついてるから、すいません丸裸にしてくださいって言えますか?ないしはこの隣に、大きな木があって、それが常緑樹で、ずっと蓄えてるんです。それが自分ちの、子供の部屋ってだいたい二階につくります。子供部屋にちょうど、上手く、放射性物質からでる放射線の影響を受けるようなシステムになってるんです。で、それを気づいても、じゃあすいませんそれを枝打ちしてください、それをきってくださいと、言えますか?言えないですよね。そうすると、当然限界があるわけですよ。だから、除染に限界があるってのはもうハナからきまってることなんですよ。だからどう、それを避けるためにどうしたらいいのかと。いうふうになれば、やっぱり安全対策、ってか社会的な除染みたいなものも用意しとかなきゃだめなんです。つまり、希望者には子供だけでも先にどっか一時、避難させる。何年なるかわかりません。それは行政がどれだけしっかりやるかにかかってきます。ないしは疎開させる。それで、もう最悪の場合は、除染をしてる間だけ、どっか、移動して。あと、この中閉め切って、畑かけるんですよ。そんなことしますかお母さん。自分がお母さんなって、今やってることってのは、部屋の中を、閉じて、部屋を閉じて、じゃあ綺麗にするからね、ちょっと待っててねってこう畑かけてるのと一緒ですよ。普通、自分がお母さんになられたら、ちょっとあんたら出てよっていって、掃除、しませんか。僕はちょっと、普通はそうするもんだと思いますけど、違いますかね、うん。今の、やってるときは、逆なんです。ちょっと逃げないでよ逃げないでよ、と、うん。ちょっと綺麗にするから逃げないでよって中に閉じ込めてるんですよ。違いますかね。

福島市内での反原発運動について

全体的にはあの、この、福島市での、運動ってのは、非常に、下火です。うん。ええ。これは、もう、残念なことですけど。なかなか人も、まあ後でのぞいてみればわかると思うんですけど、なかなか人も集まっていません。ええ。そうですね、うん。あの中途半端な、いわゆる、その言って見ればその、国が指定された、その認定された、汚染地域ではないんですよね、でもうここは、まあ、除染が終わったとされる、田村市とかああいうとこよりも、まだ高いんです。平均なあれで言うとね。で、濃淡がかなりあって、ご存知のように渡りであるとか、大极であるとかっていうとこは、まだ、高い線量のとこもあります。私のとこも、先月くらいに、やっと除染が終わったんですけど、実は、住宅除染だけってのは、自分ちの敷地内でしかやってない。だから前も、道路であるとか、道路の中の脇のそこが、その、何も手つかずになって、つまってるというような状況は改善されてないんです。自分ちだけは。


政府の

要するに、被害を受けた人は被害を淡々と言うしかないんですよ。ところが被害を隠そうとしている人も実際いる訳ですよ。で、その人らはあの、いかにも優しいことを言っていかにも解決できるようなことをおっしゃる訳ですけど。それを、いやちょっとちがうんじゃないですか、と言うことを皆さんの感覚で暴いて行くの方がま、面白いんじゃないかと思います。皆さんたぶん被害者だけを回ってると思うんですね。ところが、被害者はやっぱりなかなか狭いんです、視野が。自分が受けた波乱の中でしか見てない。それが相対的にその老い隠そうとしているとこの位置関係とかがみきれてないケースが多いんです。ところが、行政であるとか頭のいい人たちいわゆる原子力村とかいろいろ言われてる推進してる者は、結構澄観で見てるんですね。で、次ぎにどうゆう政策をすれば風評被害ははっと盛り上がって、どこにどういうお金を入れれば少し緩和するであろうとかどこがこの運動のキーポイントであるとかどこをちょっと撫でてあげれば人々がこっち側によるとか。そういうことを良く研究しているんです。我々よりも。だからこうずっと成功してきて押さえ込まれている訳でしょ。本来なら暴動が起こっていますよ、人殺しが起こっていますよ。それをうまく押さえている人たちのやっぱり技術とか本音とか何を目指しているかを探った方が面白いんじゃないかと。そこではまあ、余談です。だから被害者の仲の話を集めるのは以外と容易だけど、深みがあまり無くなっちゃうんで、やっぱり少し、それと対応できるような、それを老い隠そうとしている勢力がいてそうなってるという関係性を見ながらやらないと、ちょっと面白み欠けるんじゃないかなという気はしますね。

東京電力について

で、あのー私は福島ですから、福島住んでる者っていうのはいわゆる自主避難区域の人たちというのは、もう何も顧みられないと。要するに、えー12万というお金をま、あの、一部の地域で支払った訳です。でこれは内実では4万円だけが精神的な慰謝料で他は生活の援助みたいな形で東電が払った。それで終わりですよっていう形になっていうわけですよ。でそれも皆さん受け取り方もまちまちですよ。ウワァー12万も貰った嬉しいなという人もいれば、えー12万ではどうにもならないと。これで東京電力許すわけにはいかない、という人もいるだろうし。それらを考えてくると、そう、まだこれから紛失する問題も甲状腺の問題であるとかいろんなことでいってくれば、福島はまだ終わっていなくてこれから、ま、変な意味、架橋に入ってくるのではないかと。実際的に現実的な路線のもう今後見つけざるを得なくなる、提示しなくちゃならなくなる、全部避難って全寸期間って言ってた者も一部避難もしょうがねーや、って言うとこまで煮詰ってきてるんです。でこれは、なぜ煮詰ってきてるかというと皆さんご存知のようにオリンピック前になんとかもう解決しちゃいたいなということなんです。だからこれからが逆に言うと正念場なんです、あらゆる意味で。要するに、向こうがはめる型にはまってそのまま捨て置かれるのか、それとも別な解決方法を見つめて色々向かいあれするのか。だからそういう、ことを頭に置いておいていてビデオとか作ってやっぱり問題のあれをはかっていただけたらと思います。

避けられない原発事故の風化

いやあの、これは風化するのは当然ですよね。どんなことでも風化は必ず進むんであって、だからあの、風化してもしなくてもやっぱりやらなきゃなんないこととのは生活レベルであるんですよ。生活レベルで皆さんが要するに、その問題と直面しなくなったらもう風化の始まりなんですよ。例えば、食う食べ物にあまり留意しなくなった、マスクもしなくなった。ね、あまり放射線がいくつだかも興味示さなくなった。これは個人で止められるもんではありません。いくら呼びかけてもそのものは風化するんです。だから、風化していいとは言いませんけど風化は避けられませんよ。ところが、いつも崖っぷちにいるってことを皆さん忘れちゃうんですよね。

活動を続けるモチベーションとは?

真基本的にはあの、なかなか何も言わないで館箱の中に入る、要するに葬儀箱に入る、足をこう入れてるけど、なんか、一言言わないとなかなか死に絶えて行かないような世代なもんですから、そういう意味では。だから、なんらかその、昔取った杵柄的な社会運動に関わる、ま東京なんかでもやってらっしゃる中で、同じような世代の方が男女とも思いますよ。でむしろ40代とかね、そういう方が少ないというような、要するに、自分らが全協働世代の息子さんらに対しては、DNAを渡していないんです私に言わせると。ちゃんと伝えていないんです、渡していないと言うか。自分らがやったことの正当性をちゃんと理論立てて自分の生き様を説明しきれていないんです。実は。そういう問題もあるんです。じゃ私はあいにくというか、そういう子供もいないしあれもいなかったんで、あの、そういうことはなかったんですけど。だから、逆に言えば悪魔の全協働世代と言われてるがお前らがぼかしたんだみたいな論議を子供達から指摘されるんですね。そういうことって無いですか。うん。ま、皆さんはまだそれのお子さんになる訳です。だからちょっと違うあれなんですけど、ま、おじいちゃんの見方を冷静に見れる人とお父さんの、皆さんのお父さんの世代はあまり冷静じゃなくて生活の1面で付き合わなきゃならなかったから、なんでそんなことやってたのと。それで、いまなにやってるの?ということになる。じゃなんか思想的にはるかというとあまり良い参考になるようなことなにも無いねと言うような。そういう目で見られる場合もあるんですね。多分僕はそういうの嫌なもんで、ま自分がやってきたそういう学生時代とかそれがなかかったことをま逆の意味で言えば引きずっていると。それが言ってみればモチベーションになってるの。

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test sample

長沼俊幸

職業:建設業(水道)
撮影日:2013/10/19
場所:愛島東部仮設
Interview 2
齋藤祐季
職業:
撮影日:
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高橋久子
職業:
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赤間直哉
職業:
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小齋正義
職業:
撮影日:場所:
遠藤茂美・遠藤利也

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鈴木淳子

職業:

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菅原則子

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中澤芳文

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沼田幸也・恵(夫婦)

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渡辺カツ

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鈴木幸恵

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遠藤佐恵子

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小野直光

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大貫満貴子

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相原弘

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高橋吉也

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大友吉彦

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伊藤文江

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遠藤一雄

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菅野貞二・勝子(夫婦)

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菅野貞二・勝子(夫婦)

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石川裕子

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高橋よし子

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太田ふみ子

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三浦克美

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菅原忠男

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千葉真里

職業:

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針生敏夫

職業:

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太田光朗

職業:

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場所:

荒川裕一

職業:

撮影日:

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