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震災前の町

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鈴木芳一さん

インタビュー一覧へ戻る 震災を乗り越えようと新しいことを始めた鈴木芳一さん。パソコン教室に通い、ガラス細工も始めたそうです。そんな中、震災で御家族を亡くされてからの現在の心情、震災当時の話等語ってくださいました。 当時の津波の恐怖 今度あのー、せっかく仏壇を新しくしたから位牌だけでも取りさ行きたいなと思って最後に位牌取りに行ったんですよ。その時に、丁度それが来たとき、あのー海の方、あれが津波だと思わなかったのね。あのー、とにかく土煙?煙がもやもやーってなってたのはわかるんだけど、まさかあれが津波だとは思わなくて、だから三回目の津波、んー、ああ三回目に戻ったとき、丁度私津波に巻き込まれたんですよ。うん。その時は周りの人たちらが、俺が車運転してる時に戻れーって騒いだらしんだけど聞こえるわけじゃなかったし、で、対向車に逆走してくる車が一杯あったんですよ。なーんでこいつら逆走するんだろうなーって思ったんですよその時。そして、真正面みると土煙みたいなもくもくもくーってなってたんですよ、空が。そしてそれがもう津波だと思わなかったから。で、それが丁度水。。なんちゅうんだろ、寄せてくるって言ったらなんともいえない表現だけど、寄せて来たんですよ。それ、私もすっかり飲まれて。ただ私の家はワンボックスだったから、何度か高いかったからまだ良かったんだけど、車ぐるぐる回されて、もう逃げることもなんにも出来なくなったのね。そしてそん時人間の本能なんでしょうね、そん時一瞬にして私窓開けたんだってね。そして窓開けて、で窓半分ぐらい空いて止まったんですよ、もう電気系統ショートしてたから。うん、そんときの正面のガラス、全面フロントガラスありますよね、あんな音ってすごいです。ミリミリミリと音がします。あーものすごかったです。そしてその間に私と車に、車にぶつかってきた車があるんですよ何台か。あのー、軽の車とかいろんな車がぶつかってきて。あのー窓が空いて、そこから私は上手く逃げられたんですよ。ところが自分にぶつかって来た女の子、今でも忘れられないけれど、あの顔は。あの結局その子はもう巻き込まれてもう水たっぷり浸かったんだわ、軽だから小さいでしょ。車体低いから、俺のは高いっちゃ車体が。だから助けてっちゅうんだけどあの顔。窓に顔を貼り付けて。あの顔は一生多分忘れられないなと思っています。あの女の子は。あの女の子の顔と、後おばあちゃんが柱に津波で着いて助けてーって叫んでる顔は。声も顔も。多分それはたまになら、今でも夜暗くて寝れません。怖くて。今もだから明かり付けて寝てます。夜、出るのも怖いし夜。いつのまにかそういう恐怖になってしまったんだね。だから一人でいるときが一番怖いですね、いろんなこと思い出すからね。 無我夢中で逃げた だからあん時っちゅうのは無我夢中なんだよね。うん、実際は。だからあの無我夢中で逃げたことさえ、逃げて、車から逃げるのはほんの何秒もないですよね実際は。だからいや、多分これは経験から言うんだけど。自分はあん時はもう半分死ぬんだなって思ったから。あのー車流されて、巻き込まれて、あのードア開かないとき、あー俺はここで死ぬんだなってあの時本当にそう思いました。でやっぱり、いろんなことを走馬灯に・・・よく言うよね、テレビなんかでもね、あれ経験しました。ほんっとにいろんなことを頭ん中に出てくるんだね。それも経験しました。あーこういうこと言うんだなってよくあん時はあの、よく走馬灯のように蘇るって言うようによくテレビなんかで見ますけど、あーそういう、こういうことなんだなーって。あんときは半分あー俺はここで死ぬんだなあと思いましたからね。 生かされている Q:そういう当時の震災のことって、ずっと覚えて・・・ うんなんでしょうね、なんで覚えてるんでしょうね。記憶の断片にね。他のことは忘れても、そのことだけは忘れられないってこれはなんなんだろうなって思ってます、だから。 Q:忘れてはいけない・・・ うん、そう思ってます自分もだから。そして自分が何のために生かされているのかなって悩んでいますよ。あの当時死んでもおかしくない状況だったのに、なんで自分だけこうやって生かされてるのかな、カミさんは何をどうしろっていってるのかなとふと考える時あります。あの時、ホントに死んでもおかしくなかったですから私は。おめは、だからみんなにおめえは長生きするなって言われるけれど、長生きしたくないなとは思ってます。 Q:生かされた命・・・ そう、だから何のために生かされてるのかがちょっと・・・苦しんでます。 閖上の海 あの、なんとも言えないです、あの朝。朝起きて、窓開けたとき、朝日のきらきらしてるっちゅうのが何とも言えないですよね。うちも古い家で二階から、私二階に住んでたから窓開けると、なんっとも言えないですよ、あの情景が。あの情景私好きだなって思ってるんですよ。あの、起きて朝キラキラして、海がさ、キラキラしてるんですよね。で、そこにある船がポンポンポンとのって煙はいてる姿が何とも言えなくてね。好きな光景だなって思ってました。夜は夜であの灯台の明かり、あのピカピカ光る、あれも何とも言えない。好きでしたからね。うん、なんとなく何かと海見てるだけでも、一人でぽつらーっと海さ行くのも好きだったからね。あのー波の音?あれが好きだったからね。 橋の向こう Q:鈴木さん自身はそういう亡くなられた方を思い出す特定の場所とかっていうのはあるんですか?ここに行ったらあの人たちを思い出すっていう・・・ いや、それはないな。ないけれど、どうゆうわけか行きたがらないんだよね。あのー、橋から向こうに。どうゆうわけか。でも良かったのは、俺だけじゃないんだね。あのやっぱりみんなそうゆう風になってる人はまたいるんだね。だからそれは安心した。あれ、俺病気かなあって思ったもん自分で、行けなくなる、行けないっていうのは。それで、聞くと、そうなんだ私も行けない行けないって言う人いるなあって思ったから、だから安心はしました。あれー俺ってなにか病気になったのかなって思ったもんほんとに。どーも車運転しててもそっから先行こうと思っても、なーんか行きづらいんだよね。だからいつもこう橋から向こうへは行ったことないです。だから日和山からは行ったことないです。どうもあの橋越えられなくているから今。 Q:その震災の経験はトラウマになって・・・ いやーだからそれはトラウマなのか俺はちょっとわかんないけどさ、自分でさ。まずいなとは思ってるんだけど、でも、いや俺だけじゃないんだなって思ったからまぁそれなりに安心はしたのね、いやこれって病気なんじゃないかってほんとに思ったから自分で。 苦労と今 うん、俺も考えてるよ。俺も考えるもん。あのーここ(仮設)へ来た頃。死にたいなーって思ってたもん。なんでこんな苦労するなら死んだ方が楽だなあって思ったもん、実際は。 Q:その考えをなくすきっかけになったのはやっぱり・・・ うん、そのパソコン教室さ行って、そして今自分のやろうとしている仕事が俺自身がやっぱりおもしろいなって思ってるからさ。うんいや、結局苦痛じゃないっちゃ。いや、それはお金になるならない別にしてね。まぁ今は実際お金になってないけど。なんとなく今やってる事自体が今楽しいからさ。面白いなあと思ってるから。ただ、その面白いからっつって、ね、おもしろさイコールお金に結びつかないからさ今とこさ。でもー、今言ったように自殺っていうのはほんとに考えたね。で、そんなことしたら死んだほうがなんぼでも楽だなーっちゅうのは思ったことはあります。こんな苦労することなら死んだ方がいいやーっていうのはね。まぁ今は隠れているのかもしれないけど、どこかに、自分の気持ちの中にね。今は仕事の事とかで今頭が目一杯だからさ。いやー今度いつ展示会すっかなーってことで今手いっぱいです。あと俺以上どういう風に汗かいたらいいんだべなーって目一杯です。売れた商品早く作りたいなとも思ってるし。買ってもらったのにまだ作ってないから。 Q:集中したいことが出来ると気持ちも明るくなりますね。 はは。いやーでもね、みんなそれなりにやっぱりみんな苦労しているんだよみんな。うん、立ち直れんでいるんだよ、今。俺だってほんとにひどかったもん。一年・・・一年間ほんとなんにもしてなかったです。ぼーっとしていました。よくまあみんなこんなそういう風に働いたりさ行けるなあって思ってました。会社なくなったこと自体がショックだったんだからさ。会社ね、30年も同じことやってきたことしか知らないっちゃ、実際。実際世の中っちゅうのはほとんど知らなかったのとおんなじだね。会社とうちの往復だけしか知らないんだから。それ以外のことを知らなくたって別に食っていけるんだから。 インタビュー一覧へ戻る

沼田 幸也、恵さん

インタビュー一覧へ戻る 閖上生まれ閖上育ちの旦那様沼田幸也さん。奥様の恵さんは25年前に閖上へ。被災当日、旦那様は仕事で違う町へ行かれており閖上の状況をわからず、しかし奥様の恵さんは津波を経験。 昔の閖上 Q:昔地震来る前、昔の閖上がどのような町でしたか? 幸也さん:昔の閖上はやっぱ、まあ近所になるとやっぱ一つの家族みたいな感じになっちゃうんだよね。あっこあの、そのなんつうの半々ってあって同じあのなんていうんですかね、町内会でのこう隣組とかっつうのあって、まあそういう所はわげけてなく、えーなんかこう昔聞いてたのはここで醤油の貸し借りとかそういうのも隣近所でよくやってた、長屋みたいな感じだったっていう。私が生まれた頃はやっぱこう世代が変わってるのであのその、あのやっぱ町内会でなんかやるってなったら呼ぶ集まってはなんかかんか運動会にしてもお祭りにしても色々やってたんですけど・・ 恵さん:多いね行事ごとはね。子供とお年寄りが一緒になってやる行事が多いよな。普通ね子供会は子供会だけなんだけど、お祭りは子供の見越し、大人の見越しまでとか。 幸也さん:そんな地区でやるんで、だあ先。。先月か?あの閖上の方で見越し担いでたんですけど、でそん時もあの上智大学の人達何人かが来ててあのインタビューさせてくださいって。あははは。でそん時はほら、うちらの年代結構いるが、下の子紹介してやってあげたらしてやったんすけど、あいう感じだと結局子供見越しあと大人見越しってこうやって一緒に出て行ったんですけど、実際はあの、その地区だが日和山地区とか紙町地区那珂市、あとそういう同じ地区の中でみんな子供見越しが子供会が出して、あと本見越しっておれら担ぐ見越しはもう一日中練り歩くみたいな感じで。 閖上への愛着 幸也さん:最初美田園見に行ったんですよ。海の方ね 恵さん:お父さんはやっぱ海がいいって 幸也さん:海、海がいい 恵さん:海が近いのがいい Q:それは何でですか? 幸也さん:やっぱ海は涼しいっすもん。うん、あとなんか開放感あるっつうか。やっぱどっか閖上に戻りたいっつうのはあるんでしょうね。そっちのほうに。ただ市で計画してるようはかつ上げしたから安全だっていうのはちょっと納得いかないんですけど、だから俺らはもう閖上には戻らないと決めてこっち買ったんすけど。最初その美田園だと高波も来てなかったし、あの高くすれば床下までいかないんじゃないかっつう思いで言ったんだけど、息子に一言「ここ津波来てっぺや」って言われて。で、山しかないけど山でいいのかって「山の方がいいべや」って言われて、結局こっちに買ったんです。うん、俺はやっぱ山より海の方がよかったんですけど。 恵さん:やっぱしね、やっぱり海で育ってる人はどうしても海の近くっていうか、うーんあるのかな。やっぱね。うちも実家はほら海、海だもんね。 幸也さん:うん、海だよ。 恵さん:うん、ちょっと高いけど海の見える所にやっぱし再建してるから、やっぱしみんな、うーん海の近くで育った人は海、やっぱ怖いけどまあやっぱし海がいいのかな。ねえ、やっぱ違うもんね。うーん 近所付き合い Q:何か言い残したとか、これだけは知ってもらいたいということはありますか? 幸也さん:あと、やっぱこう今家族になってるけど、やっぱうちらも今その状態なんだけども、やっぱ近所付き合いは大事にしたほうがいいかもしれない。 恵さん:そうだね。 幸也さん:やっぱ聞くとああ寝たっきりで例えばうちらが仕事いって子供達だけ残して、で隣近所が付き合いがあれば「ああ、誰々仕事行ってから子供達残ってんかもしれないね」ってそれで助かった人達も結構いたて聞いてるので 恵さん:うん、閖上はね。あそこはおばあちゃんだけとか迎えにいってあげたりとか 幸也さん:閖上はそういうの結構あったって。あのしんちゃんもそうだったね。友達で前NHKとかに出てた橋本真一さんとかも結構町内会長やってたから周って非難させたとか、あそこばあちゃんしかいねえからとか 恵さん:閖上結構それが多いの。年寄りが多かったから、結局それで亡くなってる人達、おばあちゃん残ってるから迎えに行かなきゃっつって亡くなってる人達も多いから。うーん、だから隣近所はね、今思うと大事にしなきゃいけないかな。 幸也さん:だってうちもやってたもんな、付き合い。あのほれ町内会の役員やるからって繋がり始まって、まだ3年4年ぐらいだもんな。うーん、隣近所はな。やっぱ、そう長屋、古きよき時代じゃないけど、そういうのがいいんだろうね。そういうのは大事にするべきだろうね。多分都会に行ってしまうとそういうのなくなっちゃいますよね、多分。逆に警戒しちゃってね、隣との付き合いもなくなってしまうし。 インタビュー一覧へ戻る

菅原 則子さん

インタビュー一覧へ戻る 閖上が大好きな菅原 則子さん。ご結婚されてから12年間は仙台で過ごされたのですが、やはり閖上がいいとなって旦那さんを引き連れて閖上に帰ってこられました。 閖上の人間関係 やっぱり隣近所、兄弟達よりもやっぱり隣近所がいいみたいで、よくお茶飲みに行ったりとか、よくそういう風にしてましたね。よく隣のうちでも、うーんと、何年か前に引っ越して来たんだけども、引っ越して間もなく、とけ込んじゃって、行ったり来たりお茶のみしたりとかしてますね。で、今もやっぱり津波になってからも、近所の人たちとおつきあい、ここにいないんだけども、その人達はみなし家庭にいるんですけども、そこにいってあそびに行ったりはしてましたね。 閖上の人たちが集まれば閖上に そうだと思いますよ。やっぱり昔からの人たちだから、なんていうの、その、こう閖上の人たちの集まりって言うね、よそからあまり来ないでしょ結局、引っ越して閖上の方に。なかなね。閖上の人が地元に戻ってくるとか、だったらばあれだけど。あんまり閖上によそから引っ越してくるとか無いんじゃないかしらね。だから閖上の人たちが集まれば本当の閖上の町、になるんでないかしらね。 やっぱりみんな閖上の人でないと閖上の土地って言えないんでないかしら。 インタビュー一覧へ戻る

鈴木 淳子さん

インタビュー一覧へ戻る 閖上生まれ閖上育ちの鈴木淳子さん。震災前の閖上について、そして震災後も前向きに生きていく大切さを語ってくれました。 閖上の人の温かいつながり Q: やっぱり人間関係とか、閖上の人達と そうだねー、うん、けっこう繋がりはあるね。やっぱこう人の子でも怒る、いまだとおこったらなんかいろいろ言われるじゃん、そんなことねーもん、ひとの子でも他人のこでも怒ってさ、なんで怒られんのって思ったけど、やっぱ悪いことしたら悪いっていわねーとね、今の子どもなんつーか、 じゃぁもうなんか家族みたいな感じで 入居場所は市が決める Q:避難所から仮設にうつるのはなんか手続きとか、書類書いたりとか? うん、あったよ。あったあった。入るとやっぱ市で決めんだべね、申請はしてたけどね、ほとんど地区で決めたのかな、ここが3丁目4丁目、私は4丁目だったんだけど、そこが、プレハブの、そうかな、そっちはなんか先に入った人は、仲良かったひとは分かれるさね、さみしかったね。だからそっちにいきたいなーってね。だからそういうのはやっぱりあったね。 避難所生活、「楽しかった!」 Q: その避難所の生活ってのはどうでしたか? やっぱり不便だよ、だけども、なんつーっつたらいいの、楽しかった。知らない人もいるけど、やっぱいざこざはあるよ、でもうん、楽しかった Q: いろんな人と? うん Q: 避難所には元から知り合いの方とか? うーん、そだね、うちの近所の人もいたし、あの、ここで、仮設入った人でも、何人か同じ避難所の人何人かいたからね。 Q: じゃぁけっこう避難所での人間関係とかつながりとか? うん、そうね、こうA班B班C班って、分けられてて、班ごとに、あー、この人閖上だったのって、初めて会う人のほうが多かったかな。だからけっこう、結束もあったね。 インタビュー一覧へ戻る

太田 光朗さん

インタビュー一覧へ戻る 生まれも育ちも閖上の太田さん。長年様々な形で閖上に関わってきた太田さんに、お話を伺いました。 震災による人間関係の変化 でも平成、11年の、11年くらいだったかな、震災受けたの。11年の3月11日が東日本大震災だよね。それがあったために、現在は本当にあの、人間関係がみんなだめになったんだよね。ていうのは今まではこのないかいで運動会だ、地域で仮装大会だの、公民館でいっぱいあったでしょ、みんなで。15地区あったのね、上町だ、中島町だってそれでみんなで集まって運動会やったの。それがやれないのがほんとに悲しい、その時代に戻りたい本当に。戻らないからねえ。人間も楽しくやってね、そういうところですよ、あの震災前はね。 震災後のつながりの変化 変わったね、うん。つながりはもうほとんどなくなったし、今この仮設にいる人はほとんどつながりは何人かいるの、5,6人いるのね、前から役員やってた人もいるけど、あとは同じ町内会の顔見知りだけであとは話したことないからそういうのはつながりはもうずっと大変だろうね、向こうも大変だろうしさ、そういうのが多いんじゃないかな。だから結局今言ったとおりかたまりというのががでてくるわけさ。おんなじ、1号棟から17号棟まであるんだけども、1号棟の人は隣近所で仲いい、今まで話したとない人だけど隣だから仲良くなるんだ、それでここはここで仲良くやってるんだね。あとこっちはこっちでやって、、。だから仮設全体でいうまとまりはあるんでしょうけど、常にあるもの、というのは遠目でやってんだね。それは悪いことじゃないから、だからそういうのはいいんじゃないかと思うね。そういう習慣あったからね。昔は離れててもみんな固まって何かあったら寄ってたけども。 将来の不安 将来の不安はあるね。私は、年寄りは。若い人たちは未来っていうのが、娘とかは未来ってのはあるけど、76になってさ、どういうふうになんのかなっていう不安だね一番最初に。でみんなと会えなくなるってことは今まで、ほんと会わなくなるんだみんなばらばらで。だんだん足も動かんなくなったりしてさ、その不安てのはあるね。この前は、いろんな遊び行くって温泉とか行ったりしてたんだけど、そういうのこのままだと体も動かなくなるでしょ。だから俺なんかちょっと金だけは貯めとかなきゃだめだなあって病院へ行くお金とかいろろあるでしょ、今度できなくなるから日本もね。で我々もできてこなくなるわけさ。これ家賃も取られるようになると今度家賃も払わなきゃなるし医療費も高くなるでしょ?そういうの考えるとねえって思ってるんだ、お金だけ持ってればねえ。だから将来はそういう不安だね。いやとにかく悲しいし悔しいね。最初悔しいし悲しい、言ってるんだけどね。あと今後やってくことはやるしかねないから。だって、くよくよしたって、でもたまたま考えると寝られなくなるんだわ、俺あと何年くらい生きられるのかなあ、生きた後いなくなんのかなあって思うのね。子供らもちゃんとやんのかなあって今の子供はかわいそうだって思うけどね。 インタビュー一覧へ戻る

大友 吉彦さん

インタビュー一覧へ戻る 閖上生まれ閖上育ちの大友吉彦さん。震災により家が流され現在は仮設住宅にお住まいになっていらっしゃいます。閖上に長年住まわれてきた大友さんに震災前の閖上はどのような町だったのかお伺いしました。 震災前の閖上 うん、だから大体顔お合わされば大体わかるような人達。まあそうじゃなくても大体閖上の町の中で、暮らしていると、大体どこに住んでいるってのはお互いこう分かっているようなところだからね、うん。そんなに広いところじゃないから閖上って。 つながりと仮設での生活 Q.その震災前と比べて、人との関わりに変化はありましたか? いやあ特別な変化なんてのはないね。うん。ただほらそこで、あのー、一応仮設の中にはみな電化製品から何からもう用意されている、、で私らも1回家族の方に申し込んで、で入ったのが1か月くらいあとだった。で1か月後ってのはこの仮設ができて、で大体もうそろそろいれようか、その時に仮設に入った。だからその時は品物はなかったよねえ。この仙台、まあ仙台とは言わず東京の方からもあった。うん。東京の方から車で来て古い洗濯機から冷蔵庫から何からね、持ってきたけど、、まあいろいろ汚した方はね、それなりによこしてくれたんだけど、私らのところについた時、あまり、、それなりのものという、見方、悪いけどね、だけどやっぱり、あとで1か月くらいして、まず電話して引っ越したからね、だけどまずその段階の時にはやっぱりここにみんな入ってるから、入ったけど、だからあまりいいものはなかったんじゃないかなあ。うん。 伝えたいこと Q.えーっと最後になってしまうんですけども、あのこれからそのウェブとかにビデオを載せていくんですけど、そのこれから、そのビデオを見る方とかその被災者の実情を知らない方々に何か伝えたいこととか知っておいてほしいことはありますか? うん、あの、まあしいて言えばね、余計なものは持つなって、うん。本当に自分の必要なもの、これだけで十分、うん。下手にあれこれってねそう、見てるとそういうことで亡くなっている人も多いんじゃないかな。私はそう思うよ。うん、だからそうやって見ると、恐らく何も取らずして逃げる、取ろうとして、取れなくて、そのまま、水が来て逃げようと思った時には、もう、逃げ遅れ。だからもう水が見えた時にはもう終わりだよね。まあ、よっぽど2階に逃げて屋上さ行って助かるかわかんないけど、、、まああまりそういう風なもののやっぱりあさり方ってのはなんていうのかな、そういうのは、あまりしない方がいいな。うん、、、まあ若い人、若い人達って言ってもこういう境遇にあったときはとにかくものは持たずして逃げることだ。 インタビュー一覧へ戻る

鈴木 幸恵さん

インタビュー一覧へ戻る 仙台市出身、7年前に閖上に嫁ぎ、震災で災難にあわれた鈴木幸恵さん。震災後は語り部として彼女の経験を語ってくださいました。 震災前の閖上 この閖上っていうのは、昔からの人が多いんですよね、やっぱり。先祖代々っていうんでしょうかね。それでもう本当にこう小さい街並みだから、この人はこの人の従弟で、この人はこの人の兄弟でっていうので、もう本当に周りの人たちも知ってるんだよね。だから、ああ、この人はこの人のね、家族の人だなっていうことで、そういう個人的なねっていうかもしれないんだけれどね。あのプライベートでしょっていう人もいるんだけれども、そういうこう違和感もなくて、ただ生活できるっていう感じだね。こう道路歩いてても、あのどこに行くのとかってね。やっぱり誰となしにこう声をかけてくれるっていうんでしょうかね。温かい町って言ったらおかしいでしょうけども、やっぱりそういう町なんだよね、このへんは。 被災地に建ててあるテントに来る理由 あんね、やっぱり私とおんなじような境遇の人っていっぱいいるでしょ。そうすると、あの反比例するっていうのかしら。自分の家があったところ、行ってみたいような、反対におっかないような、行きたくないような。そういう気持ちがいっぱいありますよね。ここにいることで、おんなじ境遇の人たちがいっぱいここ通るでしょ。そうすると何気なしにこう何してるのってこういってくると、やっぱりああ、うちでもね、こうなんだよとかさ、私もねこうだったんだよっていうことで、こうあの、閖上の人とこう話し合える、お話ができる。だ、同じこう家をなくしたり、身内を亡くしたりっていうのはあるけども、いや、私も頑張ってっから、あんたも頑張って。またね、来週来るからね、とか。またこっちに来たらね、また寄ってねってその声掛けによって、やっぱり毎日毎日、ああ、自分なりの気持ちなんだけど、来週もまた行ってみようとか、あんじゃ、土曜日日曜日あそこに行ったら寄ってみようっていうことで、やっぱりその一言二言、言葉を交わすことによって気持ちっていうのはなんとなく違いますよね。そうすると自然と力が出てくるっていうんでしょうかね。励みになるっていうのかな。 復興案について 早くなんつうのかな、被災してる人の気持ちっていうのをね、汲み取ってほしいんだよね。そういうことによってこう力づけられる。あんじゃあ、あと来年、再来年、や、これから5年後でこうなるんだなって思うと、何となく違うでしょ、気持ち的に。まあ、私ばっかりではないけど、ほかの人たちもそうだけども、でも普通の人、そうでしょ、やっぱり。あ、ね、あと2年たつと学校卒業するんだとか。あ、あと、ね、1年たつと、どっかに仕事するんだ、就職するんだって思うと、なんとなく気持ち的に違うね、何にもなってないことには、メリハリがないし、夢や希望も何にも持ってないよね、けりってね。 語り部を始めるきっかけ やっぱり語り部するとさっきね、涙が流れてくるから、あんまり自分の体験ていうのはあれ、言いたくないし、でもやっぱりこういうふうになんないように、みんあそれぞれね、家族を大切にして、地震、津波にとにかく逃げてください。それだけは私は伝えていきたいなって思いました。だから語り部やってくださいっていったときに、少し戸惑いはありました。私もいやだなってね、なんで今更こういうことを、自分のことをって思うこともあったんだけど。けどそういうことではない。やっぱり将来に向かって、ね。テレビなんかでも地震があって、津波があって、こういう高い津波が東京のほうでもありますよって言ってるんだけども。いやそれはね、みんなにね、体験してほしくないから、命だけは守ってくださいっていうことでそれをみんなに伝えたいなって思って私はそういうのになりました。 インタビュー一覧へ戻る

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