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閖上

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野口一子さん

インタビュー一覧へ戻る 宮城県仙台に住む野口一子さん。閖上に知人がいらっしゃるそうで、閖上にもまた行きたいと言います。旦那さんを震災前に亡くされ、震災当時一人で、とても恐怖を抱えていたと語ります。 震災時の恐怖 ほんとに怖かった。その揺れるのが大体あれほど大きくなくても大体ずっと続いてたんですよ。そして雪が降ってきたでしょ。で、まあ日中まだ会社がやってる時間には寄ってきたりしたけども、夕方になったら誰もいなくなったの、この辺に。それで怖くてもう家にいられなかったんです。それで、明るい時傘さして、鍵かけて。でも、鍵もみんなかかったし、トイレも壊れて、今もまだ壊れてますけど、壊れても普通に使えるんです。それで怖くて一人で家にいられなかったから傘さして町内ずっと歩いてたけど、誰もいなかった。で、小学校がずっとあるんですけど、行ったとこにね国道のとこ。で、そこがそういう時に集まるとこだったの。私そのことなんかちっとも頭になかった、もう怖くて怖くて一人でしたから。それでここ歩いてて、でも家に入るのは嫌だなあと思って。。 震災直後 そして市役所こう見たら明かりがこうこう付いてたんです。だからあぁユミにも子供にも連絡しなきゃと思って、どうせダメだと思うんだけど、ここ通じないんです電話は。それで市役所行ったの。そしたらロビーが一杯人がいて、そして公衆電話がダーッとあるからそこをみんな列になって待ってて、やるけども、どなたも通じないの。三回ぐらい回しては交代して。私もダメでしたけども。 こんな目に遭うとは そして怖いなーと思って、また外でなきゃなと思ってたら、ミゾグチさんの奥さん迎えに来てくれて、家に行こうって言われてまた。そして泊めてもらって。一人はもう心細いわ、怖くて。ほんとに・・・こんな目に逢うとは思わなかったってみんな思ってるでしょうけど。 怖い思い あのーこういう怖い思いすると、地震というものが怖いと思うようになるのね。そんなに地震なんて大きいのにあったことなかったから、そんな怖いと思ったことなかったけど、ほんとにもうちょっと揺れてもあの頃はもう・・・ドキドキドキドキしましたよ、うん。 Q:今はその怖い気持ちって少しずつ薄くなりつつあって。。 ええ、ありますね。。。雨漏りだけが怖い。 仙台の復興 Q:現状とかっていうのはニュースからわかりますか?復興してるとことか・・・ そうですね。大体わかりますね。まあまあですけどもね、うん。だけどあのー、国だってそんなにお金無いし、市だって県だってねあれですから、そう思うようにトントントンとは行かないですよね、これはね、完全にね、復興ってね・・・だから・・・まあ、これはしょうがないですよね、徐々にだね。 Q:仙台の復興はもう早かった。。。 仙台はね、やっぱりね。で、私あの、高校の同級生とかがもう仙台が津波でなんとかなんて言ってみんな心配してくれたけど、この、私達の所は海に近くないから大丈夫でしたよみんなね。 心の復興 まあ仮設は可哀想だもんね。さっき言った(テレビで放映されていた)おじさんに、ほんとに狭いとこ、台所があってここでご飯食べて、こうやって小さな部屋があるぐらいなんですよね。おじさんは多分ここに休むんでしょうね。そしてその男の子まだ高校生だっていう人が・・・お兄さんと一緒なのかな、まあ二つぐらいしかない部屋でしたね。だから・・・ほんとに狭いもんね。だからカビるでしょうね。あの、人が大勢集まったとこも温度上がるでしょ。それとおんなじだもんね、狭いところにねいれば。でもあの男の人も卒業して、中学校だったのかな、そして高校三年終わって、今年あたり就職したかもしれない、その弟さんの方。お兄さんは勤めてたんだっけね。何回もやったわ、その人たちのこと。かわいそうに。だからあまり笑顔とかなかったね、その男の人。可愛がられてたでしょうにね、まだ中学生ぐらいだったらね。そういう人一杯いるんだろうね。 Q:そういう仮設に住んでる人は、やっぱり家がないってことで、なんか心の復興っていうか、すぐに同じような生活に戻れないっていう・・・ そうかもしれないね。 Q:仙台の人たちはそことはやっぱりちょっと違くて、家があったていうところが違う点ですか。 家があったからね。 Q:そこでこう、やっぱり仙台の人の心の復興は他の人と比べて早いっていうのはありますか? そうですよね。それはそうですよ。それであのー、立派なうちがあってもそこは一ヶ月に一回、一週間に一回とか二回とか行けないとか言って、そして入るともうねずみとかなんか動物とか入ってもうどうしようもないとかああいう風になったら、どうするんだよと思ってね、それこそもう立て直せば一番いいですけど、立て直したらそんな大きな家も建てられないでしょうし。私だったらどうするだろうなって思ってました・・・気の毒だね、それはね。 Q:仙台の人はどっちかって言うと、普通の生活に戻るのは早かったですか。 うん、早かったですね。まだまだ電気もつかないのかなって思ったら、ある程度。でもその通りから向こうがもっと早かったんですよ、やっぱりそういうなんかの具合でね。でもね、みんな言ってるけど、私も思いますけど、大体三歳から五歳くらいあのショックで年を取りましたね。頭も悪くなったし。失敗ばっかしするし。大体一日に三つくらい間違いするんだから。ほんとにあの・・・大体みんな・・・おかしくなった。そして実際ほんとに年も取りますからね。 インタビュー一覧へ戻る

佐藤幸弘さん

インタビュー一覧へ戻る 名取市出身の佐藤幸弘さん。閖上の人と関わるうちに、閖上の人の温かさを感じ、恩返しをするために閖上たこ焼きを販売しているそうです。 閖上たこ焼きの将来 Q: やっぱりこれからもこの閖上たこやきをみなさんに伝えていく、おいしく食べていただくって形で続けていきたなって感じてますか? そうですね。できる限りは続けていって、僕が仙台とかいってたこやきをやることによって、閖上っていう名前がついてるんで、閖上っていうのを知ってもらえるいいきっかけかなと思います。 Q: 仙台とかでも売られたりするんですか? そうですね。仙台行ったり千葉、福島、東京も行ったね。 Q: ほんとですか? 2回ほど行きましたね。 やっぱりそういうこともどんどん発信していけると、やっぱり知るっていうことが一番大事じゃないなっていう 閖上っていう字も読めないっすよね最初。 すごい面白い字かくなっ思って。 それでね、閖上たこやき売って、閖上っていうのを知ってもらって、少しでも被災したところに目を向けてもらえるきっかけになれば。やっていく意味あるのかなって思いますね。 将来のビジョンとしてはそうやってどんどん全国に浸透していけばいいかなって ですね。できれば全国。秘密の県民showとかに出られれば なるほど。 一気に知名度が広がりますね。 はい 防災教育 Q: これからやっぱりあの小さいお子さんとかいらしゃってて。被災した地域としてお子さんにどういうふうに3、11のことを伝えていこう。また伝えないでそこはっていう子供に対する対応は? 被災したっていうことよりは僕は防災。海は楽しいものだけど、こういう一面もあるっとか、こうなった時はこういう風にしないといけないっていうのをまあ今回いろんな形で学んだのでそれをやっぱ子供たちに伝えたいっすね。 Q: やっぱりこう地震がきたら次は津波が来るから高台に逃げろとかそういう取組というかそういう子供に防災を教える取組っていうのは名取市では行われているんですか? どうなんですかね。名取市でしているかは分からないんですけど、自分も防災について勉強しているとこなので、それをやっぱ閖上の人と触れ合うことによってやっぱなくなった、家族とかなくなったっていう人もいるじゃないですか。そういう涙を見てるのでそういう思いをする人が一人でも少なくなるように子供たちに防災っていうのを教えて、そういう被害がもう二度とないようにしてもらいたいですね。 行政に求めること Q: やっぱり行政の土地改革の問題だったりとか意見が対立するものが多いと思うんですけれども、今佐藤さんがこう行政に求めることというか、どういうことしてほしいとかってありますか? 求めることはやっぱり住民の声を聞いて、少しでもそのできるかできないかじゃなくて心のケアというか、みんなが望んでることを少しでも耳を傾けるような政のありかたであって欲しいなって思いますね。 Q: 今あの状態だと閖上の方々からしてみればあまりこう名取市のこう政策にちょっと意見を合わせることが出来ない人がおおいのかって思うんですけれども、そういうことに対してはこれから変えていかなきゃ、変われるってお考えですか? 変われるっていうか変わってほしい。やっぱり住民あっての町じゃないですか。ただね、町を作る基本って行政にあると思うんですけど、行政のやり方はやり方であっていいと思うんですけど、そこに住民の希望とか意見を少し反映できるような町になってほしい。内陸に、現地に戻る人もいるじゃないですか。そういう人たちはね。そういう人たちの自分たちの町を作るにあたって精いっぱいサポートしてもらいたいと思うし、内陸に戻る人は内陸に戻る人のサポートを一生懸命にしてもらいたいし、他にもともと内陸に住んでいる人たちもいるわけですからね。閖上だけっていうわけにはいかないと思うんですけど、そんななかで、住民あっての名取市であってほしいかなと、希望は。それはね僕だちがなにかできるもんじゃないので、議員さんとか、そういう代表の方たちが一生懸命やってくれてるので、僕たちがあまり言うことではないけど希望はそうであってほしいと思いますね。 閖上の人 Q: 先ほど閖上の人は困ったときに助けてもらえるっておっしゃってたんですけど、やはりその名取市に住まれてて閖上に住んでない、外からみても閖上の人は地域の人と比べて違うと感じますか? 僕の場合たこやき閖上のたこやきをやるにし、やっぱりお金の面でも、何かの面でもやっぱり大変な時があるじゃないですか。その時に味だったりとか、味も結局閖上の人が食べてくれないとわからない。そういう時にこう事細かにアドバイスくれる人が出てきたりとか、場所がないって言ったときに、じゃあうちの場所使ったらって言ってくれたりとか、今までずっと車を借りてやってるんですけど、車が借りれなくなるっていうときに、金かしてやっから車買えよって言ってくれるのも閖上の人だったし。困ったときにそっと手を差し伸べてくれる人が閖上の人だった。だからそういう感謝っていうかそういうのが自分にとってはプラスになっているので、そういうめんで違う形で恩返しをしたいっていうのがありますね。 コミュニティー Q: やっぱり閖上の方々は、一緒にこういう仮設で住んででコミュニティーを築かれてて、バラバラになるのがやっぱり嫌だっていう方がいらっしゃると思うんですけど、そういう気持ちを持った方との、やっぱり、その場で移転されて、一緒になればまたそこで新しいコミュニティーを築けるっていうふうに考えられますか? まあその時点で新しいコミュニティーはできると思いますけど、時間かかりますよね。それまでがやっぱり、自分もこう知らない土地に行ったときに、やっぱり最初からコミュニティーって作れないじゃないですか。 やっぱり、そうですよね。先ほど玉田さんとお話をしてたんですけど、やっぱり3年間ここに、ここのコミュニティーに住んで、やっとこうこの仮設に住んでみんなと仲良くなれたっておっしゃってたんで、移転した先でもそれが一番変わっちゃうのかなっていうふうに思うんですけれども。そこはやっぱりこう助け合いで解決できたりとか。 そうですね。僕去年の4月かな。初めてここにきて、たこ焼きを無料で配布しますっていって来たんですよ。その時にまあ、その時と、この間ここにきて、まあ1年ちょっとたって。まあみなさんの表情も違うし、コミュニケーションの強さっていうか大切さっていうのを、改めてこないだ、見て感じたので。それまでは、仮設自体が少なくなっているのは復興の1つとしていいことなのかなって思ってたんですよ。でもこないだ来て、おばちゃんとかの顔をみて、コミュニティーがあるからこそ、みんなで強く生きられるっていうのを感じたので。そのコミュニティーがね、やっぱバラバラになったり、最初から築くっていうのは難しいことだと思うので、ぜひこのままいい形で続けられたらいいんじゃないかなって思うけど。 インタビュー一覧へ戻る

遠藤伸宏さん

インタビュー一覧へ戻る 閖上生まれ閖上育ちの遠藤伸宏さん。閖上への想いや、復興の現状を熱く語ってくれました。 借り上げ住宅 Q: その以前はどちらに住まわれていたんですか? 仙台の白丸ってとこの借り上げ住宅。仮設じゃなくて借り上げ住宅。 Q: 借り上げ住宅ってすいませんよくわからないんですけれども。 用は長沼さんとかここは仮設住宅で市の土地やいろんな土地にポンポンポンって建ててもらってる。でもうちの被災した住民たちは全部まかなえきれないくらい住んでるわけ。住みきれないのよ仮設住宅に。全員が。うちの住民たち被災した人たちが。そうすると空いてるアパートとか市の住宅に入っていいよって。この震災ってあまりにも被災したから空いてるアパートに入ったら、補助金上限いくらだったら出しますよって。契約して1年とか2年とかで契約して、だから仮住まい。そこは仮設とか違うシステムかもしれないけど他では出せなくて生活費は出すけどお金は出さなくていいですよ、家賃は払わなくてもいいよってとこに我慢して2年かな、2年半ぐらい住んだのか。2年半ぐらい狭い3畳の部屋とかに。 Q: 住み心地はどうでしたか? 家に帰んない、帰りたくないからね、だって自分うちの町の人ってほとんど半分以上は多分半分以上って6割7割は持家だったのね。自分ちの家なのね。アパートとかじゃなくていくら古くたろうとちっちゃくても自分の家。だからそうゆうところにこうゆう共同生活したことなければ、俺もうちもそうゆう共同生活したことないから慣れないんだよんね。しかも全然顔見知りじゃ、うちはここ名取市だけど、俺行ったの仙台市だから空いてないから仙台市行ったわけ。そうするともちろん近所に知ってる人いなければ、そうするとうちの家族だけ。不安になるよねやっぱり。みんなバラバラだし。あの人あっちにいるこっちにいるあっちにいるとか。 Q: じゃあ近所付き合いとかは全然なかった? ない。ないまま2年半過ごしてきたからね。そこはストレスになるよね多分。逆にあとうちはそうでもないかもしれないけど言えないってのもあったらしいよ。被災して借りてるんですってって言えないって。あの人被災したんだって周りから言われるし、全然知らない人となりのアパートの人があの人被災してるからあの町から来たんだよって言われるからいやだって人もいる。支援物資とか寄付金とかももらってるんだってってそうゆう変なうわさたつと嫌がらせもあったって、中にはあった人も中には聞いたことある。だからあんまり自分のね、私はどっかから引っ越してきたんですってあんまり言いたくなかったって人もいた。うちはそこまでいわなかったけど。仮設とはまた違うんだよね借り上げ住宅っていうシステムは。 行政に求めること Q: 遠藤さんはどのようなことを市に求めて。。。 市に求めるのは住民と市の話し合いをもっとしろっていうだけで、全然しないようにイメージなのねしてないっていうかもっとこまめにするべきであって。お互い言い分あるからどんどんいいだして、だからこっちいいよこっちだめだよやっぱ中間とりましょとかそうゆういくら話し合いしてもいいのに、話し合いの場がなかったからこうなっちゃうと思うんだよね。だから住民のこっち側の意見は法律的にはもう全然クリアできないんだよね、だからうちのほうのんでください、いやいや頑張ってじゃあ半分とってくれとか、じゃあ頑張ってアピールしてきますとかそうゆう話し合いしてかないと、ある日突然これしかねえこれしかねえこれしかねえって毎回押し付けられて、それだったらあんたらあなたたち誰もすまないよねって行政の人たち結局。俺らの町だよねってもともと。俺らのこうしてくれって望んでるのになんで上からこうゆう市にしかしねえってそれおかしくないってなるよね。だってあの日復興ってたぶん俺あの日自分その町に住んでる人たちがどうゆうその町のなかのどこで住みたいかだと思うんだよね。自分は怖いから自分の町出て山のほうに引っ越したいって言えば引っ越す人たちにはこうゆう補助あっからこれで終わりですよってそれで終わりだと思うんだよ。それ単純なんだけど、それがないんだよね初期のやつが。だからこうなっちゃうんだと思うんだよね。たしかに人数多いかもしれないけど、被災した市町村の1地区にすれば多分うちの町1番多いはずね宮城県の中で。その復興の1地域の対象があまりにも多すぎるから言い分なんて100人いて100人違うかもしれないから、それはまとめるの大変かもしんないけど、でも少しずつやってけばすむわけで。やってる気配が見当たらなかったのがこうゆう結果だと思うよねまだ。 閖上 うちの閖上の人ってほんとちっちゃい町だよ多分ね。7200人ぐらいなのかなあの日まで。でも俺は特にだけど東京行ってもどっから来たの言われたら閖上から来ましたって言っちゃうんだよね。それってどこにあるのって言われっと仙台の、仙台空港の隣町なんですとかって説明しちゃうんだよね。仙台の人宮城県だったら多分宮城県で仕事しててあんたどっから来たのーとかって言われっと俺閖上ですっちゅうとだいたいみんな分かるわね、あー閖上ねーなんちゅって。だからそのぐらい自分の町、名取から来ましたて閖上の人絶対言わないからね閖上の人は。宮城県の人も東京行っても宮城県から来ましたって言わないんだよね仙台から来ましたって言うんだよね。それと一緒なんだよね。閖上はもう飛び越しちゃってるんだよね。仙台も飛び越して自分の町だけアピールしてるみたいだけど。そっからちょっと説明するのがうちの町の人の習性なのかな。だから自分の町いかに好きだったか誇りに思ってたかちゅうあらわれなのかなって思うよね。一つの本当の立派な町だったからさ昔はさ。市に合併される前は。だからそこの中でそうやって育ってきてっから俺はずっとそうやって教えらってきってからは、ましてこの漢字1個しかないからね。閖上ちゅう漢字中国の字でもないから、この字世界に1個しかない漢字だからさ。閖上としか読めない漢字だからそこにも誇りあるんだろうね多分ね。 慰霊碑 Q: 今度慰霊碑が日和山のほうに建てられる計画があるって、たぶん知ってると思うんですけれども。 見てきた。まだまだ途中途中。 Q: それはどうして見にいかれたんですか? 見に行かれたっちゅうか毎日閖上に足はこんでっから今日こうゆう状況なんだって見るからね俺は毎日ほぼ毎日のように行くから朝から晩。 Q: 慰霊碑についてはどう思われますか? 慰霊碑はうちの町に関してはあれ多分市でやるんだよねね。ちょっと遅いかなと。遅いよね多分3年半3年過ぎてるんだからもう。別にたしかに復興の事業に関係ないかもしれなけど慰霊碑なんてっていう人もいっけど別に大きさとか形の問題じゃないから本当にちっちゃくてもこの町でなくなった人たちの為の慰霊碑だからちっちゃくてもいいからやるんだったらすぐできることだったと思うのね。今他の市町村終わってるから何もかも遅いのかなってうちの町。だってうちの町いくとお寺もお墓さんも全部ないのよ見てれば分かると思うけど。でも今仮のあるのねお寺さんとかは。でもやっぱ地元に帰って手合わせたいよねお盆とかお彼岸とかそうゆう時ね 防災教育の必要性 Q:震災も過去のことだと思うんですけれども最近風化が進んでいるというふうにメディアなどを通しても感じるんですけれども、今後震災などで起きたことを伝えていくべきだとは思いますか、それとも過去のことは過去だと割り切って。 いや、日本だから災害は絶対ね水害もあるし津波もあるし火山の国だからね、噴火とかもあっからどこで何が起きるか分からないから本当だったらうちはちっちゃいうちから小学校とかからなんちゅうの防災教育みたいなのを小学校とか中学校で取り入れるべきな国だと思う最低でもね国として火山はここに火山があるよとか本当に小学校の授業とかで教えて。それも津波もこうやってこうゆうことがありましたよとか水害こうゆうとこのダムが撤回するとこうゆうことがありますよとかちっちゃいころから教えてトラウマになる前から教えてもいいよね国としてね。地域も市とか県とかじゃなくて国がやるべき。授業の国語、英語教えてるなら防災教えたほうがいいと思うね日本のほんとに。徳川家康がどうだこうだっていう前に明日起きるか分からない災害に備えて子供たちに知識を植え付けてないといざ何かあったとき何にもできない人になっちゃうよね、そういえば学校で習ってたからこうゆう時はこうゆうとこに避難したほうがいいとかって。まあそれはね、ないほうにはこしたことないんだけど。そうゆうふうに落ち着いて行動できると思うんだよねちっちゃいときから教えていれば。それを教えてる学校なんで多分どこもないないはずだから教えてくっていうか、そうやって教えていくべきだし、津波来ました、ね、でどっかで火山噴火しまいした、もう終わったことで次また違うとこでだから風化もそのことに対して風化してるかもしれないけど違うことはもう始まってるわけで別のことが逆に言うと震災前なんだよねまた新しいことゆうと次の何が起きっか分かんねえ俺らは前にいるんだよね。この起きたことに対してまだ同じいことを起きるにしたってこれもう終わっちゃっただから次俺らはここに生きてっけど、ここにあるか分かんない震災前を近づいてってるどっかの違う何かの現象に。だからやっぱもっと学校の風化させるとかしないとかどうか分かんないけどもっと国として阪神だったりこうゆう地震の多い国だったり水害多い国だから小学校なったら少しずづ教えてってもいいのかなって思う。今すぐこのへんの地域で教えろちゅうとトラウマの子供とかいっから言葉でも敏感に過敏に反応する子供たちもいっからやっぱりちょっとずらして後3年5年後ぐらいから教育に取り入れてくとか小学校だったら5年生から教えていくよとか俺はしてもいいと思うねほんとにね。だって英語よりは教えるべきだよね最初にって思う。だって日本なのに英語ペラペラしゃべるより自分の国のことの何か分かんないといけないし、大人になったら旅行とかいって海外に旅行とか行ったら海外とかでも地震起きたり噴火起きたりして巻き込まれる事故あるわけでしょ日本人が。その時対処できなくなるでしょ自分の町でその地域だけでその防災教えてたって地域にしか役に立たないんだったら国としておっきい防災の授業が週に何時間あってもいいのかな子供のころからって思う。だから国でどうにか取り入れないと、この名取市教育委員会だけの問題じゃなくて宮城県とかじゃなくて国から率先してやってもらえる国になってもらわないと多分何回やっても同じこと繰り返すんだよねと思ってこんな大きいこととかちっちゃいことのたんびに。ある程度知識、まあそこのなかでの授業全国のなかでの共通の知識あってあとは地域の特性でその市とかが教えるべきで、うちは山に囲まってからとか、うちは海に面してる学校だからとかそうやって少し違ったなかで教えていけば俺は多分ね、最低でもみんな命だけは守れると思うんだよね。だって命なくすと何も面白いことね、周りの人だってつまんないからねやっぱり。形なくなっても命さえ守れれば、そこだけは最低でも自分の命は自分で守れるような授業を、風化させないとかそうゆう関連していくとそこまでたどり着くのかなって思うね。 インタビュー一覧へ戻る

木皿俊克さん

インタビュー一覧へ戻る 閖上生まれ閖上育ちの木皿俊克さん。現在は東部愛島仮設の自治会で会計士をやっているそうです。 震災前の閖上について 二階だったんですが、流される家が二階だったんですけどほんとに海が見えてほんとにこう波の音が聞こえて、夏にはもう潮風が入ってきてクーラーが要らないくらい寒いくらい夏でも、そんな時もありました。 暮らしやすそうな、、 そうですね。暮らしやすかったですねー。今はある程度愛島にも慣れてこの生活にも慣れたんですけれど、でもやっぱり時たま閖上のことを思い出してあーもう朝になると散歩にでかけたり、こんな時だったら日曜日の朝頃からたぶん松林の所をぐるぐるぐるっと一時間くらいかけて散歩してたりしますね。 Q: 今思い返しても閖上という町は暮らしやすかった、、 木皿:暮らしやすかったですねー!はい。やっぱりこう愛島の東部仮設という形でこうだいたい地元の人というか、前四丁目っていうですけども、海の近く低山彫りっていう所があって低山彫りも東にあの四丁目、三丁目とひる山に五丁目、六丁目があってっていう形なんですけれども、そこの人たちの暮らしぶりっていうのは良かったっていう。遠藤会長と愛島東部仮設の遠藤会長とも町内会で一緒でしたもんですからそうゆう関係で結局地元のつながりがすごいこう深いっていうかそうゆう感じは思っていましたね。やっぱりこう暮らしやすかった。結構でかけても”おお”みたいな感じで。 Q: 出かけると顔見知りの方と、、 そうですね。挨拶とかするんで、はい、私はでも若い頃はそんなにこう町内会と仲良く付き合ったわけじゃないんで、逆に50代の頃から町内会の役員を始めていろんな人と仲良くなって、そういった面で暮らしやすい、私だけじゃなくってみんな言うんですが、コミュニティーというか、隣近所の仲が良いというそういった場所柄でしたね。 仮設での暮らし Q: 最初こちらにいらした時は仮設住宅の印象はどうでしたか? ああ!まぁえっと、良いのか分からないですけれど暮らしやすかったですね。最初に思っていた時は隣の人の声が聞こえるとか、冬寒くて夏暑いって言われてて、でもそんなことなくてすごく快適で、はい。愛島東部仮設は私としては暮らしやすいですね。一人で暮らしているんですが、暮らしやすいです。 Q: こちらにいらした時は昔からの閖上の知り合いの方はいましたか? いましたね。遠藤会長をはじめ。こちらが知らないと向こうが知っていて、向こうから声をかけられてもこっちが分からないという、そういう恥ずかしいこともありますね。 Q: そういう方がやっぱりいらっしゃると、、 気持もやっぱり違ってきますね。大河原にいた時はすごい便利というか楽だったんですがなにも自分ですることもないし、でもやっぱりちょっと寂しいっていう感じはあって、やっぱりこちらにきて俺もしょっちゅう出かけてる方だからあんまりこう付き合いとかがある方ではないんですが、心強いですね。知っている人たちがいるってことは。やっぱり昔の閖上をちょっと思い出させてくれる。すごい大事な所かなと。 Q: そうすると以前と比べてご近所さんとのつながりと言いますか、というのはあんまりこちらでも変わっていないという、、 そうですね。ちょっとこう場所が変わっただけで、コミュニティー自体は変わってないという。 Q: 現在は仮設住宅にお住いになっていて何か特に困ったこととかありますか? いや、ないですね。もうちょっと細かく言えばあるんでしょうが、まぁ暮らす分には本当にすごい暮らしやすいですね。会社も私は仙台の方にあるものですから近いんで、生活するにはもう、会社も近いんで、はい。通勤もしやすいですね。 神戸での経験 Q: 自治会に参加するにあたってその役員をするにあたって生活の変化というかありましたか? 変化というかただ楽しいですよね。自分でまぁあの去年たまたま、今年か。たまたま神戸に行く機会がありまして、冗談半分にちょっと去年の夏か秋ころに神戸に行かないかって言われて、行く行くって手を挙げて、だいたいそういう話って近くになってそういう話あったっけってなるんだけれども、具体的な話になってそろそろ神戸に行かなきゃ行けないんだけどってみたく言われてあー本当なんだって。そういう形で行かせてもらってすごい自分の今でもこう宝物みたくなっていて、それはすごい自分でも良かったなって思ってます。で、そういった声かけてくれた会長を始めみなさまに本当に感謝しているというか、それはありますね。 Q: 神戸に行かれたことでなにが一番大きかったですか? あーまず一番はあのやっぱり神戸の人たちも同じ痛みっていったらなんですが抱えているっていうのが分かりまして、私自身も阪神淡路大震災の時はこうやっぱり人ごとだったですね。で自分たちがなってこうそんなにこう聞いたりなんだりしないけども、こう1.17の阪神淡路大震災のイベントを通じて、こういろんな人から聞こえたりしてみると、未だにやっぱり揺れたりなんだりすると心配なんだよね、って歩いていてもきこえるわけですよね。あーちょっとやっぱり同じこうやっぱり痛みを抱えてるし、やっぱり忘れてはいけないし、みたいな形でやっぱり、うーん、忘れるってことがやっぱり一番悲しい。まあ、忘れていいってこともあるけども、やっぱり忘れないでいてもらいたいっていのもあるし。そういったものを、すごい感じたし。いろんな人の、人との交流っていうのもやっぱりあったし。そういっためんでは、すごいこう、まあ、うん、阪神淡路大震災の教訓もあるし、今回の東日本大震災のやつもあるし。あとやっぱ人とのつながりっていうか、そういったものをすごい感じさせてもらった従う集いだったと自分では思っています。繰り返しになりますけど、そういったのに参加できたのがやっぱり自分自身のやっぱり幸せだなって感じてるんで、そういっためんではやっぱりすごいこう、自治会に入って良かったなって感じてます。 将来やりたいこと Q: 今木皿さんご自身で、なんか希望っていうか、こうなって欲しいなっていう得に強い思いってありますか? あー。やっぱりこう。上手くは言えないんですけども、やっぱりこう前向きなかたちっていうか、そういったやっぱりいろんなかたちで。私なんかもうテニスとかやってるんで、まあ先ほど、テニスをやってきたんですけども。友達とかとまーいろいろテニスの旅行に出かけたりとか、あと、そういった生活だけじゃなくて趣味とかの部分でもやっぱりこういろんな可能性あるじゃないですか。はい。そういう例えばカラオケが好きな人はカラオケやったりとか。そういった形でこう趣味とか、サークルみたいなの作って、やっていけたらなーって思ってるんですけども。 慰霊碑 Q: 先ほど、震災に関しての記憶というか、今後に伝えていくべきだど、ということをお話されたと思うんですけども、何かそういうものを形として何か残しておきたいってそういう思いっ慰霊碑でしたりとか、、 そうですね。できれば、まあいろんな考え方があって、具体的なものを残しておいたほうがいいって人もいるし、でもなんらかの形で残してもらいたいみたいな。それが、直接、間接かは分からないですけども、そういった形で、まあどっか忘れないような形で残しておいてもらいちなっていうのはありますね。まあ、いろいろ若者にしても、建造物にしても、残したほうがいいってなんかこう、賛否両論あるんですけどねー。でもやっぱりどういう形であれ、忘れないでほしいっていうのはありますねー。 Q: 賛否両論あるっておっしゃったんですけど、こう賛成の方と賛成ではない方の、どういう意見の違いがあるんですか? やっぱりこう、あまりにも、残しておくことによって昔のことをトラウマにとらえちゃうと、それは結局マイナスのイメージになるみたいな形、で、やっぱり賛成の方にすれば、そういったやつのことでそういった大きなことがあったんだよって知らしめたいって2つありますよねー。だからねー。ある意味でそういった教訓にしたいって形のと、あとその、呼び起こすことによってトラウマの形ってそういう人たちのことを考えると、やってはいけないんだっていう2つの意見に分かれちゃいますよね。それは私はどうこう言うつもりはないですけど。 Q: 木皿さんてきには、どうお考えですか? 私的には何らかの形で残してもらいたいなーっていうのはありますね。それが直接じゃなくても、あるいはこうなんらかの形ではやっぱり残しておいてもらいたいっていうのはありますねー。 インタビュー一覧へ戻る

高橋 よし子さん

インタビュー一覧へ戻る 閖上生まれ閖上育ちの高橋よし子さん。旦那様の吉也さんと共に車で被災当日は逃げたそうです。 今の気持ち Q:今底上げとか復興案をする予定の上、危険区域が増えたりとかする部分で感じられることはありますか? やっぱりねあの今家残ってる人いるでしょ、そういう人達の気持ち私は分からない。やっぱり港のそばにいてる人達ら完全に新地、新地状態で流された訳でしょ、そんな人の気持ちもわかって、わかってもらわなくては閖上の人間としてはわかってもらわなくては駄目なことかなと私は思う。みんな一心同体だと思うね、そういうなったのは。残ってる人だって、あとそこから復興が遅れるんじゃないの。ポツポツと家があったんだよね。みんな同じように全額でお金貰ってるんだから。そういうことは考えるね見てるとね。あとやっぱり海の側にいた人が可哀想だったな、全部本当にきれいさっぱりないんだもん。ある人は感謝しなくちゃいけないんだよね。うん。。大変だから。うちの実家も橋渡ってこっちなんだけど、うち仙台市なんだけども、本当みんなきれいさっぱり流されたからやっぱり津波なんか来ると思ってなかったでしょ?だから2階にほらやっぱり残っててなくなったって感じなんだよね。まさか家がさっぱりねくなる思ってなかったからさ。きれいに、きれいになくなったのね。ただ一軒だけが一つポツーンとあったけど、なんか不思議とね、不思議と一軒だけがのこったのね。だけどあとは全部壊したけども。だからそういうの見てる、あっちの荒浜とかもみてるとやっぱ海の側全部きれい、きれいさっぱり流さってると、あぁやっぱり海の側って一番ぎせいが多かったよね。 今閖上の思い出 Q:今閖上の思い出、その他になにかそういうことありますか? 私は閖上の思い出っつうたって、なんもないね、別に。ちょっと物足りないかもしれないけど。ただほらあたしの場合はね、もう家から持ってくる物一つもなかったから、何も持ってくる物ないから、そこで思い出が終わったのよ。何も写真もなんにもないんだから。ね、子供達らの写真とかも全部。娘さ、アルバムとかの持って行き、小学校とか幼稚園のねあと高校そういうのアルバムとか持っていけばよかったなって思ってね。嫁さ行ったからわね。そしたらいいなんていうけどさ、なんにもないんだもんね。本当にそういうのがそこでは振り返った思い出の写真が見れないっていうのは寂しい、感じはするね。あとは私らのあの家からも全部、全部きれに流されたから、やっぱ写真、思い出の写真ゆうたって、全部なかったからね。だからそういうのはそこで終わったっていう、今からのスタートラインなんだわ。 Q:その新しいスタートみたいなのっていうんですか? うん、そうだね私は。だって振り返ったってしょうがないもんね。 住みたい場所 Q:もしもすべてが自分の思うようになるとしたらどういう所に住みたいですか? 私らはここの上だって言ってるだわ。あの市営住宅、元々あったところの、そこに建てたらいいんじゃないかなって思って。買わないって県だったかな。高いところ建てればこんなね、あとここに建てればなって言ってさ。やっぱりほらもう農家とかさ、知ってる人がここ買ってらいいのになって言う人もいるんだけどね。だからさ、待ってますただ。待ってるだけです、私達は。ただそれだけですね。 変わって欲しいこと Q:何に一番変わって欲しいですか?そういう自分が住みたいという所に住めないというのもありますし、自分がこうなにかしたいけどやはり待ってる部分で何に変わって欲しいですか? やっぱ市長が変わって欲しいと思うね。市長の市長のやっぱり自分って、なんていうの曲げらないんだよね。あの住民の意見を聞いてくれるような本当に市長であればいいのになって思うね、聞いてても。閖上の町っていうのをなくしたくないんだよね、多分ね。それはわかるんだけど、だけどだいたい家買ってる人はいっぱい十分の一でもだよ、十分の一だって戻りたくないのに建ててるっちゃ。ね。全体戻るとしたら100%の人だよね。でも十分の一だってさ、やっぱりあのそれだけの人が思ってるってことはさ、閖上を諦めてるってことだっちゃさ。諦めるってことは戻ってきたないってことだわ。だから、その閖上の町作りで作ったってどうしようもないんじゃない。名を残しとけばいいじゃないね。昔はこの、こういう町がありましたよって何百年先に灯を建てるとかさ。 復興案 Q:高橋さんにとって復興とはどういうものですか? 復興。。難しいな 復興 Q:市長の復興っていうのは勝つ上げしてみんなを閖上に戻したっていうことだと思うんですけども、高橋さん自信の何か復興っていうものはありますか? やっぱりこういう仮設に住んでるよりはね、ちゃんとした落ち着いたところは住みたいね。それが目的だけど、ただ場所がわかんないだけの話。私らはもう何もできないからそういう所しか縋りようないから、そういうとこさ住むほかないからさ。それだけだよ 伝えたいこと Q:然震災の状況も知らない方になにか震災を通して伝えたいことはなにかありますか? そういうことになったら逃げる事だわね。地震来たらわ。そして安全な場所っていうけど、自分で周り確かめてみてさ、ここだったら安心だとかっていうの確認しておくのも大切なんじゃないの。まあ一つのあれとして、参考として。もうやっぱり自分で地震で安全な場所っていうのはね、それを確かめる、ここさ避難しなさいとかあるけども、もっと別な場所があるんじゃないかとか覚えといたほうがいいんじゃないかな。 インタビュー一覧へ戻る

沼田 幸也、恵さん

インタビュー一覧へ戻る 閖上生まれ閖上育ちの旦那様沼田幸也さん。奥様の恵さんは25年前に閖上へ。被災当日、旦那様は仕事で違う町へ行かれており閖上の状況をわからず、しかし奥様の恵さんは津波を経験。 昔の閖上 Q:昔地震来る前、昔の閖上がどのような町でしたか? 幸也さん:昔の閖上はやっぱ、まあ近所になるとやっぱ一つの家族みたいな感じになっちゃうんだよね。あっこあの、そのなんつうの半々ってあって同じあのなんていうんですかね、町内会でのこう隣組とかっつうのあって、まあそういう所はわげけてなく、えーなんかこう昔聞いてたのはここで醤油の貸し借りとかそういうのも隣近所でよくやってた、長屋みたいな感じだったっていう。私が生まれた頃はやっぱこう世代が変わってるのであのその、あのやっぱ町内会でなんかやるってなったら呼ぶ集まってはなんかかんか運動会にしてもお祭りにしても色々やってたんですけど・・ 恵さん:多いね行事ごとはね。子供とお年寄りが一緒になってやる行事が多いよな。普通ね子供会は子供会だけなんだけど、お祭りは子供の見越し、大人の見越しまでとか。 幸也さん:そんな地区でやるんで、だあ先。。先月か?あの閖上の方で見越し担いでたんですけど、でそん時もあの上智大学の人達何人かが来ててあのインタビューさせてくださいって。あははは。でそん時はほら、うちらの年代結構いるが、下の子紹介してやってあげたらしてやったんすけど、あいう感じだと結局子供見越しあと大人見越しってこうやって一緒に出て行ったんですけど、実際はあの、その地区だが日和山地区とか紙町地区那珂市、あとそういう同じ地区の中でみんな子供見越しが子供会が出して、あと本見越しっておれら担ぐ見越しはもう一日中練り歩くみたいな感じで。 閖上への愛着 幸也さん:最初美田園見に行ったんですよ。海の方ね 恵さん:お父さんはやっぱ海がいいって 幸也さん:海、海がいい 恵さん:海が近いのがいい Q:それは何でですか? 幸也さん:やっぱ海は涼しいっすもん。うん、あとなんか開放感あるっつうか。やっぱどっか閖上に戻りたいっつうのはあるんでしょうね。そっちのほうに。ただ市で計画してるようはかつ上げしたから安全だっていうのはちょっと納得いかないんですけど、だから俺らはもう閖上には戻らないと決めてこっち買ったんすけど。最初その美田園だと高波も来てなかったし、あの高くすれば床下までいかないんじゃないかっつう思いで言ったんだけど、息子に一言「ここ津波来てっぺや」って言われて。で、山しかないけど山でいいのかって「山の方がいいべや」って言われて、結局こっちに買ったんです。うん、俺はやっぱ山より海の方がよかったんですけど。 恵さん:やっぱしね、やっぱり海で育ってる人はどうしても海の近くっていうか、うーんあるのかな。やっぱね。うちも実家はほら海、海だもんね。 幸也さん:うん、海だよ。 恵さん:うん、ちょっと高いけど海の見える所にやっぱし再建してるから、やっぱしみんな、うーん海の近くで育った人は海、やっぱ怖いけどまあやっぱし海がいいのかな。ねえ、やっぱ違うもんね。うーん 近所付き合い Q:何か言い残したとか、これだけは知ってもらいたいということはありますか? 幸也さん:あと、やっぱこう今家族になってるけど、やっぱうちらも今その状態なんだけども、やっぱ近所付き合いは大事にしたほうがいいかもしれない。 恵さん:そうだね。 幸也さん:やっぱ聞くとああ寝たっきりで例えばうちらが仕事いって子供達だけ残して、で隣近所が付き合いがあれば「ああ、誰々仕事行ってから子供達残ってんかもしれないね」ってそれで助かった人達も結構いたて聞いてるので 恵さん:うん、閖上はね。あそこはおばあちゃんだけとか迎えにいってあげたりとか 幸也さん:閖上はそういうの結構あったって。あのしんちゃんもそうだったね。友達で前NHKとかに出てた橋本真一さんとかも結構町内会長やってたから周って非難させたとか、あそこばあちゃんしかいねえからとか 恵さん:閖上結構それが多いの。年寄りが多かったから、結局それで亡くなってる人達、おばあちゃん残ってるから迎えに行かなきゃっつって亡くなってる人達も多いから。うーん、だから隣近所はね、今思うと大事にしなきゃいけないかな。 幸也さん:だってうちもやってたもんな、付き合い。あのほれ町内会の役員やるからって繋がり始まって、まだ3年4年ぐらいだもんな。うーん、隣近所はな。やっぱ、そう長屋、古きよき時代じゃないけど、そういうのがいいんだろうね。そういうのは大事にするべきだろうね。多分都会に行ってしまうとそういうのなくなっちゃいますよね、多分。逆に警戒しちゃってね、隣との付き合いもなくなってしまうし。 インタビュー一覧へ戻る

菅原 忠男さん

インタビュー一覧へ戻る 仙台市出身の菅原忠男さん。閖上出身の奥様とご結婚されてから震災まで30年間程住まわれていました。震災があった時も閖上でお仕事をされていたそうです。 閖上に戻りたいのか Q: もしも閖上に戻れるのなら戻りたいですか? うーん、三割くらい。みんながさ、私も戻る私も戻るっていうなら戻ってやる。あの、孫おいてね。まごは絶対行かないって言ってるから。孫はひとり部屋ほしいだべがらまえそいなだったからね、なおさら。もどるったてね三割くらいだな。だってわたしだけ戻るったってね、戻んない人、隣近所にいないっちゃな。もどっても。津波あるんでないかなって。人がいて一番だと思うけど。 昔はね漁師町だからね、やっぱり良かったよ。あの、友達付き合いだの、家のばあちゃんだちも、女房も魚売りしったからね。あの魚かごに背負って仙台の町の方に。あの頃だのやっぱり閖上が最高だったんじゃないですか。私ちゃっこい時いなかったからさ。でも聞くと、閖上の町って言うの、なんて言うの、して漁師の町だからね。お金は、金持ちっていうか、金持ちの人結構いたんだよ。 あーもう、閖上っていうと一丁目から七丁目まであったのね。それで仮設っちゅうのきめらったっちゃ。この辺のこの仮設は三丁目と四丁目の人が集まったのね。あとたまにどっからか入って。だとやっぱりすぐ仲良くなったね。して別の仮設なのいろんなところからきてるから、全然合わないっていうかね。 町のつながりっていってもそうでもないんでね?私だも閖上朝市あるんだよね。毎週日曜。あと日曜祭日。毎週行ってたんだよね。だってうちから歩いて5分くらいで行けたから。やっぱり顔ぶれ見るとあんまり地元の人来ないのね。だから今なんてなおさらなんでないですか。あっちなったからね。だけど今また閖上に戻ったから。やっぱりそういうのあるとね集まるんですよ。朝市、閖上の朝市有名だったんだよ。80件くらい出たんだから。朝6時ころから。今はね遅くなったんだ。9時じから1時ころまで。前は10時から1時ころまで。今はね7時ころから1時までだからなんていうのお昼だのも食べさせてお金いくらかね。だから延ばしたんだよ。で結構そいなの食べれば金になっからね。町おこしっていうかねそういうの。 いまでも行かれますか? たまに。ちょこちょこ。だから今度まえの市場んとこになったから、いってやっかなと思って。先週あたりからね、戻ったのね。 私たちもグランドオープンなった時たまたま行って。たまたま。 ああそうなの?なんちゅうか豚汁かせたりね。あとさんまだのね。さんまの季節の時はさんまかせらっだり。自分で焼きながら。 変わったっていうか亡くなった人たちが多いからなおさらでないの?だれだれさんなくなったってあっちこっちでいうから尚更あいなったんでねかなって思うのね。だってもうね、起きてしまったことなんだけどね。やっぱり今からがねあれなんだっちゃ。元気ださねとね。年寄なんてなおさらね。しょぼーんとしったってね、ますますあれなっから。私たちあれしたって、年寄のひと元気ならないもんね。年寄の人は一人でいるから具合悪くなって救急車で二回くらい助けてやったのね、救急車よんで。うちの棟の人まだ40くらいの人。風呂入って具合悪くなって。しておらいさ走ってきて救急車呼んでけろって。して頭の方手術して。でにかいぐらい手術して助かったけどね。やっぱり家さ閉じこもった人だね。やっぱりどうしても、そいな人なるんだね、やっぱり。そいな人ももっと、そいなのふえっと、もっとああなんでかのかなって思うよ。人の関係もね、もっと。 インタビュー一覧へ戻る

菅野 勝子さん、菅野 貞二さん

インタビュー一覧へ戻る 夫、貞二さんはもともと閖上出身で、妻、勝子さんはもともと閖上出身ではなく、お嫁に来てから30年以上住むうちに閖上が彼女のとってのふるさとになったと語っています。 集団移設 昔からの生活習慣とか、お祭りだったりとか、イベントあるじゃないですか、地域地域のお正月、お盆ってこれからもやっていこうと思うし、どこに行ってもね。だからあそこの現地復興じゃなくて、せめてみんなが言ってるように、東部道路よりも西側にいっぱい田んぼがあるんだから、そこに閖上の町を本当、そんなね、そんな学識経験者や市役所の人が言うように、商店街だとか、医療施設だとかそんな学校なんかつくったって、学校にいく子供達のいる親はだれも帰りませんから。家の息子からはじめ、子供達、あんな思いして小学校の屋上ににげたじゃないですか、あんな恐ろしい事経験してるのに、また閖上に立派な学校作りますからなんて言ったって、誰も帰りませんよ、小学生いる子供達は。 震災前の閖上は人情味とかいっぱいあって、私は嫁に来て三十年経つんですけど、実家で生活した歳月よりも、嫁にきてからの方が長くて、本当にいま自分ふるさとって言ったら実家よりも閖上なんですよね。 そうですね、私たちはありました。親戚もすぐ近くにいっぱい住んでいましたから、あの昔のようにね醤油とかなかったらちょっと貸てとか磯切れたからかしてとか米きれたから貸してとか、ちょっと頂戴ぐらいなかんじで気軽に言える感じはありました。銀行なんかも閉まったら今はコンビニなんかでお金おろせるけども、今お金ないかなちょっと貸してとかそういうなんて言うのかな、昔の長屋みたいなね、繋がりはありました。今もハーモニカ長屋なんですよ。ドレミファソラシド、八世帯が一つになって、ハーモニカ長屋なんですよね今、でもうち息子と息子達の夫婦と私と三世帯借りて入ってますから、その中で一号棟だからあんまり気を使わないんですけど、大きい声だしたりどんどんって響くからね、気使いますよね、私たちは端っこだからいいですけど、孫とかまだ小さいから迷惑かけてないかなとか、気使いますけど人との繋がりはみんないいね、おばあちゃんとか、隣の奥さんとか、人間関係ではあんまり。 食べ物はね、家の避難所に行くと名取市内の避難所で自炊してた避難所なんですよ。他のは自衛隊の人のが作ってたのを食べてたんです。 私たちは、班を、とにかく、震災後一週間まで班を作ったんです。一班から何班まであったんだろう。班を作って、三班までは食事当番、四班からはお掃除たくの、トイレ掃除、あとはカーテンあけとか、交代でやってたんですよ。だから朝もう五時半に起きて、はんから一人ずつでて保健室に行って、ご飯で多いときに一日いっとさんじょう、一升の十三倍こんな釜で三つ炊くの、こんなでっかい釜で。みそ汁もおんなじおっきい鍋で三つ作って、あとおかず何したらいいか、支援物資が最初はなかったんだけど、野菜とか飲み物とか缶詰とか来て、自分で頑張って考えて、マヨネーズなんかもあったからね、素麺ゆでて、色んなもの入れて、鍋作ったりとか、そしてそれを男の人呼んで作ったり、体育館に分けてテーブル並べて、五時ですから皆さん並んでください。子供さんから、子供さん、お年寄りって感じで並んでもらって配るんですよ。そうすると大人でも子供でもお年寄りでもお皿を持ってくるんですよ。洗えないからラップを引いて、おかずと漬け物とみそ汁とあと自分でちゃんともってきてそれもってきて自分でちゃんと分けてもらう。もうね、いっぱいとにかく分けてあげる。普通だったらこんな一膳ちゃわんに一杯くらいしか食べないでしょ?それがね、二膳以上のご飯をよそって、それを持って帰る訳じゃないですか。で、それを私たちがみんなに分け与えるの。まだ残ってますからどうぞってマイクで言うんですよ。おかずも残っています、ご飯も残ってますおかわりしたい人どうぞっていうと、わーっと来るの。自分たちのこんな大量のご飯をわーって食べちゃっておかわりを待ってるの。おかわりっていうと一斉にもらいに行ってまた食べるの。 インタビュー一覧へ戻る

菅原 則子さん

インタビュー一覧へ戻る 閖上が大好きな菅原 則子さん。ご結婚されてから12年間は仙台で過ごされたのですが、やはり閖上がいいとなって旦那さんを引き連れて閖上に帰ってこられました。 閖上の人間関係 やっぱり隣近所、兄弟達よりもやっぱり隣近所がいいみたいで、よくお茶飲みに行ったりとか、よくそういう風にしてましたね。よく隣のうちでも、うーんと、何年か前に引っ越して来たんだけども、引っ越して間もなく、とけ込んじゃって、行ったり来たりお茶のみしたりとかしてますね。で、今もやっぱり津波になってからも、近所の人たちとおつきあい、ここにいないんだけども、その人達はみなし家庭にいるんですけども、そこにいってあそびに行ったりはしてましたね。 閖上の人たちが集まれば閖上に そうだと思いますよ。やっぱり昔からの人たちだから、なんていうの、その、こう閖上の人たちの集まりって言うね、よそからあまり来ないでしょ結局、引っ越して閖上の方に。なかなね。閖上の人が地元に戻ってくるとか、だったらばあれだけど。あんまり閖上によそから引っ越してくるとか無いんじゃないかしらね。だから閖上の人たちが集まれば本当の閖上の町、になるんでないかしらね。 やっぱりみんな閖上の人でないと閖上の土地って言えないんでないかしら。 インタビュー一覧へ戻る

太田 ふみ子さん

インタビュー一覧へ戻る 宮城県角田市で生まれ育ち、閖上へ嫁いだ太田ふみ子さん。仮設住宅における人間関係や、今後の予定、今の楽しみについてお話ししていただきました。 避難所での人との関わり Q:こういったお話は、今でも他の方と話したりしますか?昔の、その、震災当日の出来事を…? うん。 Q:そのときどうだったかとか、そんときどうしてたのーとか…? そういう話はね。聞いてたけどね。もう一寸、ひと。あと、ふた足走るの遅かったら、逃れなかった、とか、ねえ。そういう話はいっぱいね、さいさんもう、みんな持ってるだろうにねえ。あそこにこえ、うーん、旦那さん亡くなった人も。少し貯めといたお金、少しづつためといたお金、流されたーとか。あとからになって気づくのね、みんな。あたしらも、なん、財布のなかにいくらも入ってない。バックなんか持ってねえー。うーん、本当に。 Q:それをそのー、震災直後から色んな方と喋ったりできましたか? あー、できたのー。であのー、うーんと、次の日は、閖上の小学校まで歩いて行って。その歩くのも、もう、なんていうの、あの道路だからね。で、お母さんそっち見ないほうが良いよっていわれて。ああー、亡くなった人の姿見えるんだなあっていうの、思って、必死に、走ったけどね。あの道路の中どうやって走ったんだかとか思ってね。で連れて行かれたのが、うーん、バスに乗せられて、避難所、こっちの増田の方っていうと、立腰小学校ってあるんですけど、そこに避難させられて。そこにー、もうー、閖上の人いっぱい。一丁目二丁目の人たちー、かなあ。300人くらいいたのかなあ。そういう中で生活してねえ。 Q:そのたくさんの方と、一緒に生活されてたんですか? うんー。 Q:その中に知ってる方っていらっしゃったんですか? みんな…知ってる人もいれば、あたしも世間知らずだから、あんまり歩かないほうだから、顔は分かるけど、うんー、けっこうねえ、知ってる人はいっぱいいて。それでー、もう日にちが経ってくると、うちは、誰それが亡くなった、流されて亡くなった。あっちでもこっちでもねえー、もう。迎えに行って帰ってこなかったとかね。そういうー、みんなの大変な思い、後から分かってねえ。気の毒だったなーと思って。 Q:お互いこれから頑張ろうねえ、こういうことがあっても生きていこうねえっていうことを話したりは…? それはねえ、お互いねえ、気持ちには余裕なかったからねえ、これからどうなるんだろうっていう思いだけでねえ。でもー、そこの地域の人たちの支援とかーねえ、そういうの、こう、いっぱい、頂いたり、食べさせてもらったりねえ。そういうので、あたしたちは、後々、一番食べ物がよかったんじゃないとかって、うん、そういうことはねえ、うん、自衛隊の方たちにねえ、手伝ってもらったりしてねえ。 閖上に戻りたいか Q:太田さん的に閖上にまた戻りたいっていう気持ちはありますか? いやあたし、海って嫁に来た時から好きでなかったから。いやー、この際、こっちの方に来れたらっていう思いはあるけどね。うんー、戻りたいとは思わなかったね。孫たちもほら、同級生、仲の良かった友達が、上と下に一人ずついたったからね。だから、子供たちも、孫たちも行きたくない。娘たち夫婦だって多分おんなじでね。暮らしてきたけどね。うんー。 Q:その気持ちはやっぱみん、っていうのは変わらない?もう二年半経ってますけど、変わってないですか? 変わらない。今もウチの人、閖上に月に、ね、一回とかっていう、いうー、名取広報なんですけど、それを届けに行くのに、一件一件届けに行くのに、やっぱり一人で行くのは大変だから、乗り降りするだけでもねえ、うん。だから、運転してー、運転しながら付いて行くんだけど。もうすごくてねえ、あのー、んー、なんていうのかなあ、もう雑草でねえ。うんー。で、明るいうちはいいんだけど、夕方なんか行く時ー、あるでしょ?そういうとき、もう、頭痛くなってね、体が震えてきて、早く帰ろうって言って帰ってくるんだけどね、いつもね。うんー。 震災後の家族との交流の深まり Q:震災通して、家族と仲が深まったとか、旦那さんもそうですけど、やっぱそういう感じることってありますか? うーーーーん、そうだねえー。娘がやっと親の気持ち分かってくれ、分かってきたって。親の苦労分かってきたっていう風に言われたときは、やっと分かったのかー!なんて(笑)思うだけでね。なかなかね、感じないものだからね。まあー、夫婦、家族、上手く行けば良いなって思うだけで、ねえ。だから、お父さんには長生きして、ほしい。面倒見は良いし、優しいからね。 仮設住宅での人間関係 あたしってこう、人間関係に、こう弱いのかなあ…。あんまりこういうとこに行事あっても、うんー、仕事してるから尚更なんだけど…慣れないっていうか…。たまに来ると、こっちに来たらーとか、ああ珍しい子だーとかって。優しい声かけられるんなら良いけど、目で見ると分かるからね、そういうのが苦手だから、尻込みするっていうか。うんー。で、ここの集会場の中でもね、編み物だ縫い物だっていっぱいしてる人いるんだけど、私不器用だからなにせ。だから、うちにいたいって言うの、本当で。みんな行くの分かってるんだけど、来れない。 いつまでもごちゃごちゃこちゃこちゃって、こう、なんか、あーでもないーこーでもない、って一人の人を攻撃したりとかね。うんー、そういうこと。でも、その人の性格だから分かんないけど…。…あんまり上手く言えない。 Q:仮設に、で暮らしててそういうこと思うこと多いですか? 多いね、うん。だからこういうとこに来たくないっていうのも一つあるしね。 Q:仮設に、ってことですか? うん。…まあ、その人たちもみんなストレス溜まってるから、ねえ。一人一人性格も違うしねえ。うんー。…もっと大きい輪が欲しい、うん。 今の楽しみ(外の人との関わり) 今一番楽しみなのは、自分で好きなの…運動。頭良くないから、遊ぶのだけ好きだったから。学校にいるときから、運動が好きだったから。遊びに行くのに、うちの人にも、外に出ないとだめだーとかって、まあ、少し自分で言うのはおかしいんだけど、欝に近い精神状態になった時もあるから…色々ね。 今はレクダンスの方に、行ってってね。楽しんできて。昨日も行って、一日踊ってきたんだけど(笑)もう脳みそ固まってるわ、覚え、やっと覚えたなーって思っても、うちに帰ってくるまでに忘れたりとか(笑)でも楽しい。外にいるほうが楽しい。でもそういうおかげで、こう、みんな良い人に恵まれて、ほらー、シルバー人材センターでお世話になってる人にもよくしてもらってねえ、頂いたり、ご馳走になったり、レクダンスで会った人たちにはやっぱり、寄って行きなーって言われて、お昼までご馳走になって、夕方まで遊んでくることもできるから。今太ってきたんだけど(笑) インタビュー一覧へ戻る

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