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閑上

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相澤幸孝さん

インタビュー一覧へ戻る 閑上育ちで、1970年代から閑上の写真を撮り始めた相澤さん。震災当時の事や写真のことについて伺いました。 閑上の写真を撮り始めた理由 Q:このような閑上の写真を撮るきっかけというか、どうしてこういうような写真を撮られてたのか、経緯を教えていただけますか? 特にまあ、自分の生まれ育った場所だしね、自分ではいいところだなと思っていたんですよ。海があって、入り江があって、貞山堀があるでしょ。でこっち側には名取川があって、まあそういう景色がやっぱり、自分でほら、地元の者としても好きだったし、それである程度、まあ私写真始めた当時ね、ここに、名取川に橋がなかったんですよね。その当時、渡し船とかだったんですよ。その頃から始めたのかな、写真。1970年代くらいまであったんですけど。それであと、閑上行商の人とかね、行商の人なんかここをずーっと自転車で歩いていったり、そういう人達もいて。なんかそういうのなんとなく絵になってたからね。まあそれで始めたっていうか動機なんてそんなもんですけどね地元の写真は。閑上はやっぱり結構水とか、空とか海とかの景色が割と、朝日とか夕日があると結構きれいじゃないですか。まあそんなところだね、そんな所が良くて写真を撮り始めたというか。それで自分が生まれ育った所だしね。 震災当日の記憶 まさか家まで持っていかれると思っていなかったんで、とりあえず逃げたんですよ。で戻れる、なんていうのかな、戻れるつもりではいたのね、最初。だから最初情報が、出る前に出ちゃったんですよ、家を。だから私は家をすぐ出たから、その時は、車、年寄りがいるもので、車に乗せて、それで出た時はね、車出た時は津波が来ると。3mの津波っていうんですよ最初。それで途中まで行って、あっ一人乗せるの忘れたって、叔母、叔母を乗せて。それで行った頃からもう6mの津波が来るってなったんですよ。3mだったらまだ床下だから大丈夫だななと。6mって言った時にね、これ一階全部すっぽり被るなあと。でも家は残るって頭でいたんだよね。それももう、逃げる途中でね、役所まで逃げたんだけど、その時でもう仙台港に10mの津波が来たとかの話になっちゃったんですよ、ニュースでは。でもその時、地震あってからどのくらいだろうなあ、あそこまでだと、家出てから15分か20分はあったかなあぐらいの話ですよまだ。それでもう10mって。ああ10mだとだめだなあ、家すっぽり被るなあって、でまあそのまま。だからみんな置いて逃げてきちゃったから、戻るつもりでいたんでもちろん。まさかね、無くなるとは思っていなかったんで。それが分かっていたらさ、みんな持って逃げたんだけど。 震災後 Q:震災が起きてから10日後ぐらいじゃないですか、撮り始めたのが。やっぱりまだその時にはみなさん落ち着いた状況にいられない中で、こう相澤さんが写真を撮ろうって決めた理由というか、決心した理由とかってありますか? いやあ写真やってたからやっぱりこれしか、やることはこれしかないよなっていう。それと、その自分の写真を探しに行ったから。毎日、毎日じゃない、ガソリンが当時入れられなかったんでね、まあちょっと間を置いてしまったんだけど。その時間を見ては行って瓦礫の中から自分の物を探す。それも写真には入っているんだけど、自分の置物がそこらへんにあって、自分のまあプリンターとかスキャナーとかは見つけたんですけど、レンジとか。そういうのはこの辺に固まってあったんで、その辺をこう重点的に堀り起こしたりして、探していたんですよ。だからあとは、そっち忙しくてカメラ持っていてもあまり撮らなかったのね、実は。まあある程度ざっとだけ撮って、あとはあんまり撮らなかったんですよ。 写真が果たす役割 Q:先ほど写真を撮るのが生きがいとおっしゃっていましたけど、写真撮っている時はやっぱり気持ち的に楽しいというか、 いや、あのね、いや結局忘れられるから。こう被写体を見てるでしょ。そういう時間が多分いいんだよね。まあ写真やっていると何考えているんだか分からないよね。テレビばっかり見ててもしょうがないしね。 インタビュー一覧へ戻る Advertisements

小野幸三さん

インタビュー一覧へ戻る 小学校の教員として働く中、様々な復興に向けた活動にも参加されている小野さん。現在の子供達の現状や今後の復興への課題などのお話を伺いました。 震災前の防災への意識 Q:先ほど日和山の石碑についてお話していただいたんですけれども、そのような小さな石碑があっても、気づかなくて今回3.11の津波について予測ができなかったってことなんですけれども、それよりも大きな、例えば慰霊碑などが建設された場合、それが今後津波について考えさせられるとか、3.11のことを次の世代に伝えていく一つの手段になるとはお考えでしょうか? 石碑ってのはある程度効果はあると思うんですがどうやら長くは続かないみたい。あのー、こう石碑があるなーって程度でその本当の意味って伝えなきゃ伝わらないですよね。伝わってなかったですね。そうゆう石碑があったってことが伝わっていなかったですね。 Q:なぜ伝わらなかったとおもいますか そうゆうこうシステムというか、よく文化化されてないとかなんとか、群馬大学の片田先生っていう方がいるんですが、文化化されてない。津波の教訓があって例えば地元の祭りとか色んな行事の中でごく当たり前にこうそうゆう文化化されるまでのレベルでその地元に浸透したものがやっぱりないと、文化化されないとやっぱり伝わらないんだっていうそうゆう意見をいう学者もいるんですね。で、そうやってその津波がかつて襲われた、石垣島の人魚の伝説とか、色んな何箇所かやっぱり指摘があって、釜石の奇跡っていうのは片田先生が、こう色々指導したところもあるんですがやっぱりある程度こう地域に根付くようなそうゆうものを作り上げないとやっぱりダメなんだと。で閖上ってのは要するに避難訓練やるったって結局集会場に避難してお茶飲んであのーおにぎりあれして、はい終わりみたいな感じでほとんど意味はなかったという、、。でその釜石の奇跡を起こしたあの地区の地域の住民も実は防災センターってのが街中にあったんですね、で今日実はテレビでやってたのを見てきたんですがえーとー…二階建てなんですね。それで結局避難した大半の人が亡くなってしまった。高台に逃げれば、小中学生のように高台に逃げれば、だったんでしょうけどその震災の前にえー、少し前に避難訓練したときもまぁ高齢者が多いので高台に逃げるって訓練をしないでまぁ簡略化してこう、街中の二階建ての集会場に逃げるっていうそうゆう訓練をしていた直後だったので避難行動をみると結局ね、山に逃げないでその、そっちに集まってしまった。そうゆうのがあったりします。 閑上の現状 本当は戻りたい人がいっぱいいるんですが、こういう風な流れを経て時間が経つとともに、もう残念ながら戻るのを断念した人がいっぱいいる。しかも、もともとローンを抱えてる。もう、家を建てたばかりだとか、ローンがもともとあるとかっていう家もいっぱいありますよね?で、さらにこう新しく立てるっていうのは、2重ローンにはなるわけですよね。で、あと、買い上げる。名取市の方で土地を買ってくれますよと。でも、ローンがあると買えないんですね。いろんなね法的な縛りもあって、結局ね戻るのを断念する人も結構増えてきているような、今、非常に少ないですよね。 本当の意味での復興 若い人が戻らない限り待ちとしての再建というか再興はなかなか厳しいですよね。その後に若い人たちがあー閖上っていいところだってたくさん住むようになれば、とは思うんですが、それはやっぱりね、世代は次の世代かその次の世代か、あるいはさらにその次の世代か、こうやっぱもっと世代が後だと思うんです。でね、あの仙台が実は太平洋戦争で仙台空襲ってのがあって、その仙台空襲があったけれど、仙台市の中心街ってのはことごとく焼け野原になったんですね。その焼け野原の状態ってのは今回の被災した閖上の街のような状態、あるいは神戸のね、あの火事で焼けた神戸の街のような状態、そのようになった仙台市の中心街もやはりね、区画整理をして今あのような繁栄が実はあるんです。だからやっぱ世代がね、本当に復興するってのは復旧、っていう使い分けは復旧と復興は違うよ、と。復旧は元通りになる。復興はさらにその時よりも盛り上がるというかね、って言われますが、本当の復興、本当の意味での復興ってのはやっぱ次の世代、あるいはその次の世代、もっと先の世代だと思う。今じゃない。今のね、私たちの世代は、私とか長沼さんの世代はもうなんとか凌ぐ、しかない。次に繋ぐしかない。そういうところだと思います。だから自分の子供や自分の孫がいるかどうかわからないけど、自分の子孫のために今何をしておけばいいのかっていうそういう視点にもう実は立ってるわけですよね。 学校での防災教育の難しさ まず現状からすると、実はさっきも言った通り、今ある小学校、今ある教室ってのはいろんな子が複雑に入ってるのね。それで、なにか防災教育、なにかする場合に実はうーんとこう配慮して気をつけないとできない。で例えば下手に津波の映像見せたら、穏やかではないというか、ものすごく傷つくというかフラッシュバックする子いますよね、PTSDを実は持ってる子供もいるし、その親も当然そうだろうし、いろんなこう事情がそれぞれあって、そういう中での防災教育は実は難しいんです。で、沿岸部ではないところの学校の防災教育ってのはもう既に始まっていて、いろんな事例が紹介されてますね。でもそれはね、まだ一般的なものであって、まぁ全部津波ってのも極端なものなんですけど、ただ、実は閖上小中学校だってほとんど手付かずですね、防災教育らしい防災教育は今何もしてないですね。できないですね。で、最初なんか藤が丘小学校に間借りしてこう入った年なんかも、プールも工事中ではあったんですが、プールは最初の年は全くなかったんです。水の流れをみたら、もしかするとフラッシュバックするかもしれない、だから最初の年はプールは全く、なかったんだよね。で、うちの息子は震災の時は閖上小学校の屋上とか3階とか、逃げてたんですが、最近あんまりしゃべらない、当時のことはしゃべらない、自分の胸にしまっていて、だから無理にしゃべらせられない。ですけど、最近ちょっと聞いた話はやっぱり津波見てたって言ってました、屋上から、流れるのを。ただ、その閖上でね、閖上保育所というのがあって、畑悦子先生っていう所長さん、今日お話来てもらうんですが、畑先生は子供たちに見せちゃいけないっていうんで、小学校に避難して屋上で見せないように子供たちの周りを職員で囲んで、見せるべきではないということで見せない、で教室に移ってからも通常保育という形でこう怖いものを見せないで楽しい雰囲気を作ってっていうのを意図的にこうそのようにやって、避難させたってのがあったりしてるんで、やっぱり見せてはいけないものも実はこう本当はあるわけで。 防災教育 それで実は今長沼さんと一緒にやってるのは、まぁ防災教育だろうと、で、防災教育でも、当然防災教育って学校が中心になって、やりますよね。文科省、教育委員会、県、市、やはり学校が中心だよね。幼稚園、保育士も多分それなりの防災やると思うんですが、今目指してるのは、市民団体ですね。防災教育を進める市民団体というのがあれば、当然学校ではやるでしょうけど、違った立場からいろんなことができるだろうっていうので、実は今毎週水曜日集まって勉強会をしていて、自分たちも勉強してるし、いろんなことを学びながら何が必要なのかどんなことができるのかっていうのを今実は模索してる。いろんなことがわかってきてます。その辺を今後は力入れて行こうかなと思ってます。 インタビュー一覧へ戻る

久米田泉さん

インタビュー一覧へ戻る 震災後は桜団地仮設の自治会の一員として2年間務められた久米田さん。仮設での出来事や、閑上への思いをお話し頂きました。 仮設における閑上のつながり Q:そうゆうみんなでできれば一緒に移動したいっていうのは、仮設でできたつながりが強いから? そうですね。はい。 Q:そのできたつながりっていうのは震災前からのものなんですか? ものもありますね。閖上特有のそういった近所付き合いっていうのが。アットホーム的に。本当にお醤油かしてとか、これ食べてとか、これ作り切れないからこれ食べてとか。そんな感じでアットホームな関係は保てたんではないかと思います。 Q:じゃあそれは仮設に入ってからも続いていった 続いてますね。まあお醤油貸してっていうのはもう昭和の時代です。私の小さい頃のことですけど、作ったものってかいただいたりとか、あと食べきれない野菜をわけてくださったりとか、そういった関係は今でもこの仮設ではありますね。 自治会役員としての活動 役員を2年間やって、去年の春、2年間やったんですよ役員。役員をやって、いろんなコミュニケーションをとって、誰が具合悪いとか、誰がどんなお薬を飲んでるとか、誰が歩行に困難なのか全部知り尽くして、名前も覚えて対応してきた分だけそれで成長したのかなと思って。 Q:その役員の久米田さんの具体的な役割は? マルチでした。マルチです。会長がいなかったので、会長の一応総務なんですけど、物資担当だったり、週の決め事、一日一日、1か月のスケジュール表とかの組み合わせとか、時間の組み合わせとか、あとは倉庫掃除とか Q:本当にマルチですね。 あとボランティアさんが来たときに、私の目では判断できないなっていうところを、何件もくるんですよ。一日5.6件くるんですよ。こうゆう者なんですけど、何かできることはありませんかとか、こうゆうことしてあげたいんですけど何時からがいいですかとか、それを会長にお伺いしていいものなのかどうなのか、私が即決で決めていいものなのかどうなのか。あとは悪質かどうか。それを判断するのに1日中集会所にいたのが2年間だったんですね。そうゆう役員の仕事でした。 2年間を振り返って Q:そうゆういろいろな経営っていうのはそうゆう災害のトラウマを考えるよけになってるっていうか もう無我夢中でした。2年間は。住宅の方も今住んでる住民の方も2年間は無我夢中だったと思います。あたりを見るっていうよりも、自分の生活をゼロからスタートしなければならないので、それにくわしたボランティア活動だったりとかそういった支援物資の配布をいただいたりとか。 子供達のトラウマ 地震のことは一切しゃべりませんでした。 Q:思い出してほしくないものなんですか? はい。っていうのは、今でも地震がなるとリュックサック背負う子いるんですよ。そうゆうこもいるので地震のことは一切しゃべらないと。今は今、その時はその時。で会話したのが一応配慮したつもりでしたね。 Q:そうですよね。やっぱりここ震災後に生まれてる子のほうが少ないですもんね。子供に震災のことを質問されたときっていうのはどうゆう風に対応されてるんですか? 質問はなかったです。なかったです。テレビ局とかはいっぱいきまして、震災後もどうゆうふうな経路で逃げたのかとか、そんなことは聞かれましたけど私のほうでは、しゃべりはしませんでしたね、子供たちには。 Q:そうゆう子たちがそのさっき例でいったリュックをしょってしまうっていうこがいるって言ってたと思うんですけど、他にもやっぱそうゆうふうに地震の影響が心の傷になってるんだなって感じることはありますか? ありましたね。住民さんのお孫さんが地震がなるとばあちゃんここまで津波くるって毎回聞くっていう話を聞きましたね。だからそれだけまだトラウマ的に。 Q:そうゆう聞かれたときの対応として心掛けてることとか、これは言ってはいけないとか もうしゃべらないのが一番ですね。 Q:聞かれても来ないよって そうですね。大丈夫よって。大丈夫よって。 閑上の慰霊碑について Q:そしたらそれこそ慰霊碑に名前を書いてほしいとかっていう感じですかね。 うんそれは、母親とか、あの亡くなられた方とか、震災で亡くなられた方。また行方不明者の方。の名前は入れてもらえれば最高かなって。うん。名まえっつってもあの相当な数になるでしょうから久米田家とか、何家とか、何家とかって、うん。そんな風な感じで、入れてもらえれば最高かなっとは思ってますけどね。そうするといつ行ってもそこに、みんなと一緒に、みんなの供養もふくめて、母親の、と、久米田家の、あのご先祖の供養になるかなーとは思いますけどね。5 Q:慰霊碑がそういう大きなものになればなるほど、注目度っていうのが上がって、外から来る人も増えるんじゃないかなって思うんですけど、そういうのはもう、歓迎ですか。 歓迎ですね。やっぱりさっきもいったように、風化してほしくないので、うん、ほんに眠ってる方は震災で眠ってる方だったり、あるいは震災前に亡くなった方で、わかる範囲でうんあの書いてあったりっていうのを見て、ああ、こんなにたくさんの方が亡くなったんだ。ああ、こんなに荒れた土地が、あるんだとか。うんそういった面では、うん。 Q:知ってほしい。 知ってほしいですね。はい。 今後の閑上の町への希望と不安 Q:あの今、あの、どのような閖上の町をつくっていうかなんていうかこう、話されてたんですけど、今は本当に海の威嚇の閖上にはなにもないっていう状態だと思うんですけれども。これから、どのような、閖上の町にしていきたいというか。将来どういう風な町になっていけばいいなと思っていますか? 前に戻ってほしいですね。うん。前の、前の通り。ええ。今は災害公営住宅がはい,建ちました。でもスーパーもない。医者もない。ってなると、高齢者が、閖上に帰る確率が高いので、うん。若い人たちはもう家を建てたり。うん。アパート借りたりして、さい、公営、あの、仮設を出てってるんで。だいたいは。予測的には高齢者が多いんで。そこが心配ですよね。 インタビュー一覧へ戻る

長沼翔さん

インタビュー一覧へ戻る 閑上育ちの長沼翔さん。震災当時の状況や、閑上への思いをお話ししてくださいました。 震災当日の記憶 Q:九死に一生ですね。 ほんとだよね。で俺膝ぐらいまで浸かってさ、焦ったよね。怖いよ追われる恐怖。親父はさ、屋根の上にいたって話じゃん。あれはでもさ、流されてどうしようって恐怖じゃん。こっちは追われる恐怖じゃん、また違うんだよね。まじで青くなるよほんとに。俺まじで死ぬと思ったもんね。弟に生き延びたらラッキーだからねって言って。とりあえず逃げるべって言って逃げて、生き延びた。死んでらんないと思ってさ、じいちゃんばあちゃんはいいから逃げろって。まさかね、一緒にいるのにさ、見捨てられないよね。 Q:そういうことって今でも思い出したりするんですか? 結構ね、鮮明に覚えてる、記憶はね。でも不思議なことにさ、匂いとか、音って分からないんだよね。 Q:映像だけ、、 そう。映像だけワーッと残ってて、その音とか、匂いとか、景色とかは覚えてるんだけどね、そういうなんていうんだろう視覚的なものは覚えてるんだけど、他は覚えてないの全然。研ぎ澄まされてるのかな、、ワッ!って。集中してるからは分からないけど。 Q:それは弟さんとかはそういうの、、 弟はどうなんだろうそいういう話あんましたことないけど。でも弟もそうだろうって、多分必死なんだろうね。で、こう安全な場所を探してるから、目は効くんだけど、他はもうどうでもよくなってるんだと思うんだよね。そういえば車とか爆発してたりとかさ、してんのに音分からないんだよ全然。 Q:結構きっと大きな音ですよね。 うん。だろうね。家とかも壊れてるんだから、音はしてるんだと思うんだけど、全然分からない。一切記憶にないの音が。怖かったのはね、側溝ってあるじゃん?そこの蓋がさ、浮くんだよボコボコボコボコって。走ってると。あれがねえ、すごく怖かった。異常に。全部がだよ、全部がこう道路の脇にあるのが全部ボコボコって浮いてきてるんだよ。ボンボン!って浮くの。 Q:走ってる途中に? そう、それがね超怖かったんだよね。 閑上の復興 Q:あとそのやっぱ復興案というのも、今ちょっとあると思うんですけども、長沼さんは将来どちらにできたら住まわれたいと思ってますか? どこに?閖上には戻りたくない。正直、うん。戻りたくないね。 Q:それはやっぱり、津波の影響とか、 うん、もあるしね、やっぱもうさ、遅すぎるよね復興が。気持ち的にさ、やっぱ冷めるよね、そうなると、遅すぎて。 閑上に対する思い Q:そのなんか昔は閖上に住まわれてたと思うんですけど、あのー、なんか閖上に対してちょっと住みたくないと思ってるけど、なんかちょっと寂しいみたいのはありますか? それはあるよ。やっぱねえ、地元だからね。地元がないんだからね、やっぱ寂しいよね。10年ぐらいしか住んでないにしてもさ、小、中って、ずーっと暮らしていたわけだからね。やっぱ小、中って一番遊ぶ時期じゃん?その時は遊んでたからね、やっぱ今行くと悲しいよね。なんにもないんだもん。あれはね、複雑な気持ちだけどね。 Q:同級生の方もやはり、閖上に住まわれてた方とかも、他の場所に、 俺の同級生は殆どね、こっちいないから。仕事で県外とか、にいる方が多いからね。やっぱりね、話聞くと誰も戻るっていう人はいないかな。 今後の希望 Q:やはりその羅夢ちゃんとかも、これから小学生になったりとか、やっぱり将来があるわけなんですけども、なんか今後の一番の希望というかそういうのは今思いつくものとしてはありますか? あっ羅夢に対してとか? Q:とか、はい、そういうのも、、 Kとりあえずね、家だよね。まあ仮設の居心地が悪いとかそういうのでもないけど、やっぱ羅夢も流石に大きくなると狭いからね、もう少し大きいところに住めればいいかなと思うけどね。やっぱりね、ここに建ててもらえればいいんだけどね。やっぱそこだよね、まずは。ここを出て行きたいとかそういう訳じゃないけどさ、すぐここを出ていきたいとかじゃないけど、ちょっと狭くは感じてはきてるかな。 Qまずは家というか、、住む場所、、 そうだね。あととにかく進めてもらいたい。まあ俺もね、すぐに家を建てるのは無理だから、まずは復興住宅に入ることが前提だからさ。だから早く進めてもらいたいとは思うけどね。 インタビュー一覧へ戻る

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