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自立

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遠藤 一雄さん

インタビュー一覧へ戻る 閖上で生まれ育った遠藤一雄さん。定年退職後も、閖上4丁目で暮らしていましたが、津波により家が流されてしまいました。現在では愛島東部仮設住宅の会長を務め、遠藤さん自身も愛島東部仮設で暮らしてます。震災後の仮設住宅での生活を中心に、会長として見てきたこと、感じてきたことなど様々な経験を話してくださいました。 区間わけと行政 Q. 小学校中学校は地域によって分けられていますか? みんな一緒ですよ、あの、おおまがりっていうところがあるんですけども、ちょうどここから閖上の中間ぐらいに、そこまで閖上の区間なんです、学区みんないっしょです。 Q. どこからが閖上でどこからが閖上じゃないのか、ひとそれぞれ考え方が違うように伺いました。 そうそう、あのね、閖上のね、いまでいう、小学校あるね、ひいらぎの、あの辺までが、閖上区間なんです、名前はね。そしてそこから西側は丘区っていうんです。「おか」ね、普通の「おか」、丘区っていって、だけども学区はみんな一緒で、あの町内の運動会とかある時はみんな一緒ですから。 Q. 小学校はひとつですか? ひとつ、中学校も一つ、ええ Q. 丘区の方々も閖上に含まれますか? そうですよ、うん、ただこうほんとの閖上っていう地名がついてるとこが閖上っていう感じだけども、その丘区ってとこも閖上地区さ入ってますから。だから今市長さんなんかよく現地再建でやってるっちゃね、やってるけども、丘区の方さ みんな住みたいってみんないうの現地再建より、こっちは閖上じゃなくて丘区っていうんだけど、結局みんないっしょなんだよね。結局みんなお互いに学校も小学校も中学校も卒業しておっきくなっても同級生だなんだってやってるんだから、それを市長さんわかったらうまくいくんだけどね本当は。こっちは閖上じゃない、こっちは閖上だってさ、差別したらよくないと思うんだな、そういうことやってるから進まないんだな Q. 地名だけでみていて、 そそそ、そういうこと。 Q. 人間の関わり方に目を向けていないということなんでしょうか? そそ、まぁ今閖上のことやってからだけども、こっちの人は差別だよね。普通はさ、名前から言ったら、同じ名前で暮らしてるんだからさ、だからそういうことやってたら復興もなかなかままならないんじゃないかなって、うん、行政の考えと違うから、うん。反発力がすごいんですよ。だから今このままで行かされて、工事に着工したとなっても、行く人がいなければまた見直し、するようになっから、市長さんも大変でないかな。 Q. どういった方が行政に関わっているんですか? 私たちはその名取市閖上地区の住民さんの意向をこっちを住みたい人の意向を、その人らの意見を市やなんなりに提出してやって、署名とかもやってましたよ。 Q. 受け入れてくれる感じではないのでしょうか? あまりないね。市長がそのこうあんまり…かもしれないけど、普通なら市長さんこう長い時間で対応するでしょ、5分3分くらいでぱっと退出するんだもん、話にならん、うちら今こういうことやっても、宮城県会議員さんとか、俺ら一緒になって担当の西村さんとか今年の6月からな、復興庁にいってきたんです、西村さんと県会議員さんと私と、復興庁の大臣とお話ししてきたんです、でもあっちでも頑張ってくれって…てことで復興中の中でね、普通はすぐ帰るんだけどもね1時間以上もお茶のみしながら、大臣と復興大臣と。 Q. お気持伝えたんですか? 伝えましたよ。それで、それが県の審議員会に挙がったわけさ。ほら、西側さもってくとか、あと今計画どの場所をさ、災害公営住宅っていうのがたつんだってね、その公営住宅お寺の跡地さ建てたりっていう計画なのさ、誰もお寺の跡地にばっとたててもらって住めないですよね。まぁ先祖さんの頭こう踏みつけらってるようでねお前ら何やってんだっていわれそうだっちゃさ。で最初「建てる建てる」ってがんばってて、その私も市議会で代表で喋って、知事さんのいるところでさ。したら知事さん怒ってさ、市長と答弁することになったら、そうしたら建てませんってその場で言うんだよ。住民はその日まで建てるって思ってんだから、それで判断してんだから、そしたら今度建てねーっつんだからさ。じょうだんじゃねーってさ、その時のがれればいいっていう感じで話すんだよね。 ボランティアと自立 んー、やっぱりみんなもね、震災になって、ここにきたはいいは、人からもらうようなことではだめだと。ここから5年ないしね、出てきた場合自立心がなくなるから、まぁ出て行っても自立できるようにみんなでがんばるべって、ことでみんなでやってる。だからうちにほかの仮設みたいにボランティアさんにこれやってくれってさ、絶対うち言わないです。うん、だけども一度ねこの自治会で年に3回大きな祭りあるんです、3月4月になったら花見とかね、夏祭りとか、あと10月になったら芋煮会とか、それでここの自治会でみんないろんなことやって、ここだけだとあれだからって、たとえば上智大学さんに手伝ってもらってるから、その人さ声かけて招待しましょう、招待しながらやってるんです。うん、逆に。まぁお返しっつったらおかしいけど、俺たちにできること、ならやりたい。世話なった人に声かけて、だからNPOやってもらってる人とか文化大学とかね、なにもいらないからとにかく食べに来てくれって、うん。 閖上に戻りたいか まぁね、俺たちも先祖さんたちからの代でずっと閖上にいるから閖上に戻りたい、でも、さっきもゆったけど丘区も閖上だから、その災害危険区域のちょっと西側っていうのもあるわけだっちゃ。だからそのへんでやっぱりやらねーと。ここからはもう閖上から遠くに行くっていうのは考えられねーかな。なるべく海の近くにはいねーとって思ってるけど。 遺体安置所での経験 そしたらだいぶ人亡くなってるってことで遺体安置所もうけたのさ。そして、二日目から私2か月半ぐらいその遺体安置所さ確認にいたんです、町内の人達もいるからね。で全部、最寄りの人みんな見つかって、連絡して引き取ってもらって、2か月半やってた。 Q. それは自分からやり始めたのですか? そう、で、もうほれ、知人の弟だのいないだの、で、弟さんがね、ちょうど15日してぐらいあがってさ、俺が最初に見つけて、…あそこの息子さんだけ見つからなかったんだ、やっぱりお父さんより早く見つかってたのね。ところがね遺体がこっから半分しかなかったんです。それで見せられなかったから、DNAで4日ぐらいしてからわかったけども、で、私140体か150体ぐらいみんなに引き渡したんだ。分かってる人…もうあんな時は、ああいう人間見たりすっと思い出すでしょ。夜なんか。1日2日目ぐらいは、「あ、こんな人いたんだ」ってぐらいで、もうあとは日にち経ってくるとみんな一緒の顔してるよ。…だからなんともなくとは言わないけど、見つけても助けてあげれなくて悪かったってぐらいで引き渡ししたけどね。そういうことなんです。だからやっぱりね、だから今こんなことして、会長やって、みんなの協力もらってってことは、俺は生かされたから少しでもみんなのためにやらないとってやってるけど。まぁみんな長沼君とか役員さんたちがいいからね、みんなすぐに声かけると協力してくれるからそれだけがありがたいです。 Q. 震災を経験して人との協力性が本当に大事だなって、実感しました? あー、思いますね、やっぱり何もない平和な土地は結局声かけたりなんだりしてやってけるけども、やっぱりなくなったら協力がないとやっていけないさ。個人個人ではね。 ボランティアとメディア やっぱりやってくれてる人は一刻も早く復興してもらいっていう感じもあるんでねーの。やっぱりいろんな形で聞くけど、よく日和山に花植えるとかさ、でも結局花植えてもさ、正直な話、水やりにも来ないでしょ、植えるだけで、だれが水やるか。で、一回植えれば次に来ないでしょ、うん、そういうのまぁボランティアはボランティアなんだけどさ、ふつうやるならああやってSTEPさんみたいに、寒くても毎日3人でも5人でもね、やってるっていう人のほうがほんとにああいうひとをよく感謝しないと。んださ、花植えるのは一時的ださ、であと来ないんだよ。それでまた1年くらいしてから例えば花がなかったから花植えるかとかさ、それで植えっぱなしで誰があそこで水やりなんかするのね、しないでしょ。 Q. 単発なんですね。 そうそう、その単発的なことをやってんだ、ってことよりもさ、もう少しやり方があるさね。単発でなくてさ、やっぱりSTEPさんみたいにね、ああいう風に毎日とはいわねーけどさ、例えば2か月に1っペンとかね。あと植えた花どうなってっぺってじゃぁ水やってって、てくる人もいるっちゃね。 Q. 長期的なボランティアということですか? そうそう、まぁ水かけなんかは5人や3人ぐらいでいいんだから。うんそんなに団体で花植えにさ来ることはないんだから。とは思う。 んー、メディア、の方でも、それをやっぱりある程度伝えるんだから、伝えるに対して、例えばこの人達がこれをやってくれたからとか、そういうことばっかりでなく、あたりの住民とか、だからおれが今言ったようにさ、ね、一回植えたらそれでいいって問題でないということば取り上げて言ってもらえれば、ある程度その団体でもメディアでぽっと流されれば、これはこれではまずいのかなって考えると思うのね。 Q. 最初から最後までやり切れてない部分があるんですね。 うん、そうなんだよね。まぁ俺だけの考えだかなんだかわかんないけど。それは見てたら、長いこと見てたら分かると思いますよ。 Q. … Continue reading

渡辺 カツさん

インタビュー一覧へ戻る 仮設住宅に入りたての頃は周りに家族以外の知り合いがおらず苦労したという渡辺カツさん。その苦境をどう切り抜けたのか、語っていただきました。また、今後の予定や閖上の未来についても、お話を伺いました。 仮設住宅での生活&人間関係について 私だれも知らないから、この人どっから来たの〜?って顔で見られたのね。その時は、うーんと傷付いたんですよ。 いやあ〜こんな風に疎外されてるような感じでね、ここで暮らしていけるかしらぁ〜って思ったんです。んでも、まず自分から進んでね、あの、みんなと打ち解けなければ、やってけないなあ〜と思ってさ、それから色々な、んだ、イベントがあったでしょ?そういう時に積極的に来るようになったのね、ここに。それで、ひと、一人、二人、顔見知りになって、そいで、今は凄く楽しいです。うん。そいで、色々なイベントに私は参加して、そして、何でもやろうと思うんですよ、貪欲に。できなくてもいい、参加してー、うん、そいで、みんなと親しくなんなきゃっていう感じで、今はほとんど顔見知りになって、友達になって。 だから、とにかく私は前向きにね何にでも参加しようっていうことから始まったんです。ここへ来てから。 何やるにしても、積極的に。やろうよーやろうよーっていうような感じで。自分がそう思いしたから、そう思ってる人がいると思うのね、やっぱ。ああー一緒にこういうことやれないかなーっていうひと、中にはいると思うのね。中には、ほら、集会場に出てこない人もいるから、そういう人はなるべく声かけてー。あのー、集会場にもおいでよーっていう感じで。みんな一緒でしょここは、自分のうちみたいなもんだから。声かけながらね、みんな一緒にお茶飲もうよとかなんとかってなるべく声かけるようにしてるのよ。だから、けっこー今仲良しでね。 Q:そういうイベントに参加するのは大体女の人と聞きました。 そうそう、ほとんど女の人、男の人は二人くらいかな。 Q:男の人は…? 男の人は何してるんだろね、うちのにいるんだろね。あとほらここに、電気マッサージ機だのあるでしょ。だから、それをしにくる人は何人かいるのね。でもイベントに参加するっていうことは、ないね。ほら、イベントって言ったって、お花とか、食べることとかさ。手先のことをやろうっていうことだから、男向きではないんだろうね、やっぱりね、うん。お花をいけたり、お針をしたり、んーまあお話を聞くのは男でもできるけど、なんつーの、やっぱり、年も年なんだよね。おじいちゃんが多いのよ。だから、おらは何しなくたってていいわあーっていう人が多いのね。うーんここは、学校へ行ってる、若い人を集中して集めたところだから、子供たちはけっこういるのよ。で若いお母さんもいるのね。でもそういう人はここへ来ないでしょ。で残った人は80過ぎてる人たちとかが多いのよ。だから60代、70代っていうのは限られた人しかいないんだよね。 Q:若い世代の人は若い世代の人で…? 若い人達は忙しいんじゃない?働いてるから。 Q:そうすると、、なんていうんだろ、あまりこう、カツさん達のお年代の方たち、集会場に集まっている方たちと、その若い方々とのコミュニケーションとかっていうのは… コミュニケーションは、若い人達は朝会えば、おはようこんにちはぐらいは言うよみんな。んで、ちっちゃい子いると、ちっちゃい子通してお母さんと話をしたり。コミュニケーションはいいと思うんだけどね、うん。 何も気取ってることないなと思ったら、気が楽になったのね。うん、だから、だっちゃねーとか言われれば、ん、だっちゃー!とかいう、返して。そういう風に自分も変えていかなくちゃ、しっ、団体生活って難しいと思うんだよねー、自分の主張ばっかり通してたってさ、うまいわけにいかないと思うのね。 自分もそう前向きになてかなきゃこれから生きていけないでしょ。後ろばっか見てらんないし。だから、もう、これから残された人生どう楽しくやってこうかなーっていう風なことしか考えてないね。うーん。ワンちゃんといる、遊んでるのもいいし、自分で好きなことやってるのもいいし、好きなもん食べるのもいいし、うーん。そうかなあ、だと思う。 閖上の今までと今後について 独特なんだよね、閖上っていう、こう、町は。親戚も多いしね。あの町っていうのは、ほら、島みたいなもんだから。うーん。そこに何千軒って建って。そこで行ったり来たり嫁に行ったり、嫁にもらったり。ほんだから、周りはみんな親戚みたいなもんなのよ、ここは。だから、下手なこと喋っと筒抜けだし、うーん、そういうとこはあるんだよね。 Q:それは、震災後、あのー、変わりましたか? うーん、震災、震災後はー、いや、変わった人もいるだろうしー、うーん、変わった人が多いんじゃないかと思うのね、話聞いてみると。ここ、昔とは違うんだよっていう人が多いからね。昔、浜にいたときに付き合っていた人と付き合わなくなった人もいるし、なんだ、昔と違うんだからね、ここは、今は今なんだよ、っていう人も多いね。 Q:これからの閖上の町っていうのは、どんなようになっていくと思いますか?それか、なってほしいと思いますかー? あー、うーん。今からの町はちょっと考えられないけどもー、若い人がいなくなるんじゃないかって思うのね、閖上の町は。結局、若い人はみんなここらへんにウチ建ててる人が多いし、今いる現在の人たちも閖上には帰りたくないっていう人がいっぱいなのね。うーん。だけども、帰んなくちゃなんないっていう人は、ウチも建てられない、お金もない、結局、市の世話になんないと、ウチも入れないっていう人が多いから、そういう人ばっかになるわけよ、わけでしょ。そうすっと、年寄りの町になっちゃうんだよね。 ウチはもう、孫が閖上には絶対帰りませんって言うのよ。んで、うちのママもそうなのね。あの、閖上の人じゃないから、閖上の独特の雰囲気っていうのに慣れないんだよね。わたしら年寄りだから、いい加減になれてきたけども。若い人はなれないんだよね、閖上の町のその独特の雰囲気っていうのあるから。だからもう、閖上には行かないっていうのあるのね。 Q:もし、そのー、娘さんたち、の考えとか、関係なしだったら、カツさん自身でしたら。 私だったら、別に悪くないかなって感じなのね。今はね、慣れてきちゃったから。この雰囲気にも慣れてきたし。私一人だったら、まあ、閖上に行ってもいいかなっていう気持ちもあるけども、やっぱりもう歳だしねえ、やっぱり、娘たちの世話になんなくちゃいけなくなるから、やっぱりそれはできないなって。 支援について Q:なんか、ここの、この仮設に、年を取った人のためになんとか足りないこととか、それが、ありますか? なんとか足りないって言ったって、やっぱりー、自分たちが助け合っていかなくちゃなんないことだからねえ。人の手借りて、どうのこうのっていうにも、まず、近所となり仲良くして、何かあった時にはー、みんなで助け合わなくちゃなんないなーって気は、っていうのはあるんだけどねえ。私は割合、年寄りの人たちに手貸してるの方かなってーいう気はするけども。頼られてるっていうこともあるのね。この人に言えばなんとかしてもらえるっていうので、私に相談する人も多いのね。あの人にああ言われたんだけど、こう言われたんだーっていう話を持ってくるわけよ。んでえ、この間もなんだかねえ、物資どっかからもらったみたいなんだなあ、年寄りの人たち、二人で、この仮設にいる人たちが。 たまたま会ったんだかなんなんだか知らないけど、んで、仙台からきた人なんだあって言うけど、なん、物資いりませんかあって言って、ああ、ありがとうございますって、置いてかれたみたいなんだけど、処分に困っているわけよね、結局は、その年寄りの人達は。んで、どんなのが来たのおって私のとこに来たから見たのね、そしたら、今時着れるようなものでないのよ。十袋ぐらい置いてったのこういうの。個人的にもらったってどうしようもないから、こういうことは自治会長さんに言って、自治会長さんから、あの、引き受けてもらえばいいのかなあーって、思ったんだけど。そう言ったんじゃ傷付くだろうなー、って思ったから。えーどうしようねえこれねえ、これ、広げてみて、着れるー?って言ったら、着れないーっていうのね、こんなの誰も貰わないっていうのね、近所の人、若い人も来たんだけども。それが、ほら、カーテンのボロだったり、こういう、なんつーの、コタツ掛けのボロボロっていうようなやつなの。なーんか、あげるゴミを置いてったみたいな感じなのね、見たら。言っちゃ悪いけどねえ。おいてってくれた人はどんな気持ちで置いてったかわかんねえよ。んで見るとね。ちっちゃい人が着る服なのか、おっきい人が着る服なのか、サイズ見ても、サイズ全部切ってあるのよ。だからあのー、サイズ見てね、100-100、120-120のサイズなら子供だしー。こう広げて見ても、ちっちゃいんだけれども、こどもが着るような服ではないのよ。ここに、こう、リボンがついてるようなやつとかさ。えっ、これはー大人が着る服なんだっちゃねーって見ても、見てもねえ、ちっちゃいのよ。Sサイズみたいなのね。Sサイズ着る人いっかしらーって感じなのね。 ありゃーだめだわなーこれなあー誰も着る人いねえーっちゃなーって言ったの。そしたら、とにかくねーそのー、シ、シミだらけだったのよね。シミだらけだったり、この襟のあたり見っと、襟が小汚いやつだったりさあ。ほんーとに一枚も着れるやつないのよ。どうするーって、貰ったのはいいけど、これー、集会場行って広げるー?って言ったっけ。だめだわなーって言うんだっけ。だから、家にじゃあ貰わないことにして、私みんなー、自分の名取市の袋に入れ替えて、ゴミに出すからねーつってさ、この間、土曜日か、5袋ばっかりとりあえず一回に出せないから、全部入れ替えて5袋ばっかり出してきたのよ、ゴミに。ゴミ見たら持ってってくれたから、よかったなーっと思ったけれど。まだ残ってるのよ、5袋ぐらい。ほんでも見ても、着れるもんでねーのよ。いやあなんか考えてみたら、いやー、悪質な人がいるなーっていう感じなのね、自分のゴミをここ置いてったんじゃねえかって思うような感じなのよ。だから下手にもらっちゃダメだなーって思って。後で、ほら、やんわりと、こういうときはこうしなくちゃだめだよーって教えよっかなーと思ったのよ。だけどそのおばあちゃんも85ぐれえのおばちゃんなのね。だから、貰えば良いと思って貰ったもんなんだけどさ(笑)そういうこともあるの、うん。 支援への感謝と、これからについて(4:22~) 今までほら、全世界の人たち、日本人ばっかりじゃなく世界の人たちに2年8ヶ月ぐらいになるのかな、色々な支援してもらってるわけですよね。だから、支援してもらって本当助かったこともあるし、自分たちがこのまんま支援ばっか受けてては前向きになれないなーっていうとこもあるのね。だから、やれることは自分たちでやってこうよーっていう、そういう気持ちだね、今はね。うーん。だから、そのー、支援物資来ねえとか、支援物なんで今になってなんで来ねえんだって言う人には言うのね。もう支援物資もらう月日じゃないよって。今、自分たちが何でもやれることやって恩返しやんなくちゃならない時期だよって言うのよ。だからあ、本当に今まで色んな人にお世話になってありがったからね、うん。 インタビュー一覧へ戻る

荒木 保子さん

インタビュー一覧へ戻る 震災を乗り越えて、現在、息子さんと仮設住宅で暮らしている荒木保子さん。複雑な胸の内を語ってくださいました。 震災を経験した今… うん、人に迷惑かけないで、やっぱり、自分で自立して一生懸命生きていかなくてはないかと思ってます。みんなに迷惑はかけたくないから。これから、そうやって生きていかなくてダメなの、自分のことはじぶんでしないといけないし、独立しなくちゃないので。それは、息子に対しても、家族に対しても、そう思ってます。自分がちゃんとできるようになれば、みんなに迷惑かけないし、それ一番思ってますね、私のね。やっぱり、津波、こう、体験した人でないと、分かんないですね、これはね。だから、テレビ見てるとさあ、涙ボロボロ流れてくるんだよ、私。東日本大震災って言われると涙こぼれてきます。だってうちも流される、そのまんま、車も流されるそのまんま。いや、そのまんま流れたんですよ。でもかろうじて言えば、壁が抜けなかったので、ものは残ったのもありますけど。だから次の日から、あの、水引いてから、毎日子供たちに、4人して、2番目と3番目と夫婦して、行って持ってきてもらったの、いっぱいあるんですけど。で、選択して持ってきてくれました。それも、入れない区域ですけど、遠くからあるいて持ってきたよって言って、震災の時は、津波…2回しか行ってないんですよ、閖上。見るの嫌だから、行かないから、行かなかったんです。でも、避難所、仮設は不自由ですよね。なにからなにから不自由です。だ、これからみんなに、やっぱり手を借りて、生きていかなくてはないでしょうから。年取ってくるとね、だ、みんな助け合って、行かなくてはならないんだなーって思ってるんですけどね。一人で生きて…人間は一人で生きてられないからね。生きれないから。人の手借りなくてはならないんです。だ、いじわるしたくもないし、私何言われても黙ってるから。 仮設での大変さ こういう仮設っていうのは大変だなっていうことを知ってもらいたいほんとはね。こういう災難にあって、こういう仮設に入って、不自由な生活だってことは、知ってもらいたいです。めったに入れない仮設だからね。こういうのはね。まさかこういうのに入れるとは思ってなかったからね。ミシミシ言って、ものすごいんですよ、夜寝れないんです。風吹くとものすごいんです、音が。床はべこべこべこべこって。トイレは寒い。寒くて、あの、夜、朝にはいる時は、トイレ開けとくんです、エアコンつけて。ずいぶん、二年三年だからは、こう隙間だらけになってるのかなあ。寒いは寒いです。だからやっぱり仮設に入った人でないとわからないです、これはねえ。早く復興決まってもどりたいですよね。 閖上の良さ やっぱり閖上は良いですよ。海風は入るし、こういうあれでないから、海の方だから涼しいし、…いいとこですよ閖上は。でみんな戻るからって、友達も行ってくれるから、で、一緒に行こうねとは言ってたんですけど。ま、病院も何も建ってないんだら、行ったってしょうがないなとは考えたんですけど、今からの話だからもうどうなるか分からないんだよね。何年かかるか分からないですからね。 インタビュー一覧へ戻る

菅原 秀子

菅原秀子はオカダプラニングの従業員、そして代表の菅原聖の奥さんでもあります。 常にっていうかやっぱり色んな人に震災を機にじゃないけど色んな人から支えられて­るっていう部分と、支えられてるって言っても結局自分の考え一つなので、あのー、やっ­ぱり信じられるものは自分だし、自分だけで決断しないといけないし、やっぱり頼るとこ­ろは頼りますけど、でもやっぱり自分で歩かないといけないですよね、結局は。なので、­やっぱり、うーんどうだろう。自分、最後に信じるのはあ自分しかいないだろうな。うん­。うん。なんかもう、助けてもらう分、結局判断するのは自分じゃないですか。でそれで­正しいって思えて行動するのがやっぱり後悔しないっていうことだと思うんで、なんか震­災を機にあれやっとけばよかったとか、そういうことはやめようって思った。うん。やっ­ぱアレしとけばよかったって、震災の直後は特に。あれやっとけばよかったとか、色んな­ものはあるんですけど、やっぱり、徐々になんというかやっぱり生活していく中に、まあ­、人の付き合い、全国の人たちと色んな付き合いがある中で、大変だったわねとかなんか­言われますけど、結局仕事上の付き合いがあってそういうことなので、なんだろう、ちょ­っと難しい、よく言えないんですけど、あの、なんだろう、後は人に迷惑をかけないとい­うこと。後悔しないようにすること、ぐらいかな―。うん。 まあ、仕事は何でも、仕事じゃなくても全部そうだと思うんですけど、人とのつなが­りがあって初めて全部が潤うって感じだと思うんで、気持ち的にも仕事的にも、やっぱり­底が枯れちゃうと、やっぱり何においても、ダメなんじゃないかな、ては思います。うん­うん。まあそこがすべて、その根本があって初めて繋がっていくとは思うんですけど。 (ボランティアの方とか来て、勇気づけられたりとか?) そうだね。うん。なんか、そうだね。内へ内へ縮こまっちゃうとね気持ちがね。そう­いう新鮮な空気があると、やっぱり気持ち的に変化ってあるのかな、違うよね、やっぱり­、あ、がんばろうって。うん。思うけどね。うん。

山本 寿則

山本寿則さんは山本歯科医院で歯科医として働いています。 理想ねー。やっぱりちょっとあまりにもね、あのう。私、小学校中学校 門脇小学校 門脇中学校で、南浜町とか大街道どか、いわゆるごっそりなくなってしまった地域出身者なんで。あのう。復興が全く新しいものを作っていくのか、それとも前の状態に戻すのかっていう言葉に定義からも大分違ってくると思うんだけども、この先ね。ただやっぱり一番は人口を、は確保、ってか人口はね。あのう、増やしていける町に、増えていく町にしていきたいって思うのがやっぱり石巻に住んでる人間、離れなかった人間がみんな思ってる事だと思うし。ん、あのう住んでいく離れていかなっていうかね、そういうような形を目指して、ん。た町にしてい、いきたいなと、うん、思いますね。うん。 (そういうような町を作る為には、次のステップは… とういうのはどんなものですか) んー、やっぱりなんだろうね自分だけで考えないでもうちょっとねっ、あのう集まって。んん、あのう話、まあよく言われてくるところだけれどもやっぱりどうしても聞こえてくんのは、あのあんまり行政には頼ってたりは何も進まないがら自分達で動かなきゃダメだろうと、いう風なのはあのう。やっぱり最初は何かあったらば行政に頼みに行って、あの回されて回されて、なんだ自分達でやった方が早がったやっていう話はよく聞くんで。でもね、自分ひとりでやるよりかやっぱりいろんな知恵持ち寄って少しね。まっ勉強会つったらおかしいけれどもね、うん、そういうようなのやりながらあのう、ある程度まとまって。うん、動いていった方が。多分それぞれみんな考えてる事って違うと思うし、うん。批判ばっかりじゃなくてね出し合ってなんかワイワイと楽しく、ん、あのうテーマ、テーマってかね、うん。あのう作って、まだその段階じゃないかなとは、ん。地域地域年代によってもこうあって欲しい、こうあって欲しいってのは全員違うと思うから、ん。そこをなんか少しちょっと少人数だけでもまとめるような勉強会みたいなのがね、沢山出来て、話し合えるような場とか作っていけばいいんじゃないかなとか、うん思ってます。まだ明確にこういう形でっていうは、ちょっと難しいんじゃないかなとは、うん、思ってますね、うん。 (その自分達の経験を他の地域に発信していきたいってのは、山本さんの思いでの。それを例えばどいう形で発信していきたいってのは) なかなかやっぱり仕事しながらそういう形取るってのは難しいけれども。まあ、なんだろう。ネット上に書き込む、ぐらいがまず自分が今出来てる事。あとそれと、今度あのう、6月に去年もでき、去年やりたかったんだけれどもtやっぱり6月の段階ではできなく、年に一回あのう、ひとつ学会では発表毎年しようかっていう風に。まあ殆どは歯科の症例のほうだけども。今年は歯医者としてあのう、震災で経験した事として、あのう、そういうような震災が起きた時に、まっ雇用をどうしたらいいかっていうような問題とか、ウチら治療すんのに建物ダメで、他の所をあてにした時に収入どう、収入とかまあ患者さんとかのあのう、ね、やり取り。どうしたらいいのか、どういう風な形を取ったかっていうような情報をまあ、学会で発表してこようかなとか、ね、少しでも歯医者の、他の地域の歯医者の人達に、まっ院内でね、防災でなんなりあった時のプログラムって言ったらおかしいけども。あのう、院内マニュアルっていうのかな?うん、そういうのをなんか起きた時のマニュアルを作るのに役立ててもらえたらいいなと思って、うん。来月再来、来月か。学会の方で一応発表してくると。それぐらいはし、うん、今 今年やっと出来るかなと、うん、は思って動いてます、ん。 まあ、年代関係なく先ほど言ったようにやっぱりちょっとでもね、あのうみんなが住んでる地域地域のあのなんか起こった際のかつ、う、動きの仕方、うん。あのう、地震起きた時でもいいし台風来た時でもいいし、自分が住んでる土地で起きる自然災害に、を想定して。あのう、いわゆるその際のマニュアル、をその場所その場所で戻って作ってもらいたいなとか、あのそういう事を考えてあのう、もらえたら一番多分、あのう被災地にとっては嬉しいと思ってます、うん。で、まあ、学生っていう風に言ったけどもそれは多分そんなに被災と関係ないんじゃないかな。あっ被災地、あのうてっ、地震とか天災とかはあのう、から、学生20代どう思って欲しいとかいうのは、うん。今回の天災があったから若者にはどうして欲しいって一律に来ますからね。うん、天災はね、その場所に、うん。今回の天災からそういう風に年代に分けてどうの、まあね、若いのに体力あんだからおばあちゃんきちんと助けなさいよって言ったってね。やっぱ助けに行って失敗したケースも亡くなったケースも沢山訳だし。年代関係なくなんかあったらば自分で策定、あのう自分ででもそこの職場ででも学校ででも作った防災、あのう震災起こった際の後によくマニュアルを作ってそれに沿ってあのう、動いて、なんかあったならば、もらいたいと、うん、いう風に思いますかね、うん。

山形 政大

山形屋商店は明治41年に創業、山形政大さんは代表取締役を努めており、お味噌と醤油を製造と販売をされている。事務所と工場が津波の被害をうけてしまい、当時は販売のみを行っていた。がんばっぺ石巻を通して支援を受けたり、元気復興委員会にも所属されている。中小企業としての立場や見方、そして仲間の大切さについてお話してくれました。 山形屋商店 ホームページ がんばっぺ石巻 山形さんプロフィール 石巻復興企画商品ネット 復興に向けて。まあとりあえず政治に対する意見はすごくたくさんありますけど。まずはやっぱり。やっぱり一番、自立するっていう心が一番大切だと思いますね、みんな、それぞれの経営者に。でそう思ってる人達が、今のもう一年経った時点でなんにかしらアクションを起こしている人達なんですよ、そういう人達は。そういう人達をもうちょっと救って欲しいなっていう。特に中小企業っていうの、こちらの地場にいればおおよそ99%がね、中小企業だからね。で変な言い方だけど中小企業人達の方が、やっぱり意識が高いので。この、こういう田舎の方では。でやっぱそういう人達を救ってかないと地域が救ってくれないんだよね。で雇用っていう問題にしても今は民主党世間だからなんたらよくわがんないけど。失業者目線でしかものを見てないような政策しか我々からすると見えてないので。かい、企業の人救って会社を救ってこないど、雇用に繋がんないっていう風な目線の政策があまりにも薄いような気がして。結果的に失業者って言われる人達に実はしわり…来てんですよね、多分。 でっ、あのう神戸の関係の震災で苦労した人もいるし、こう聞いていけばやっぱり政治に頼るのは一番最後で。自立をまず考えなさい、そして次がやっぱり、仲間で立ち上がるって事を考えろって。そういう事をやっぱりやってかないと… なのでそういう面から見ても復興センターの、復興。まっ復興センターとしては物販の方を中心にやってるんですけど、復興委員会あの、ね、荒川さんなんかも入ってるこういろんな業者入ってる。仲間で立ち上がるっていう事をやってきたっていうのはやっぱり一年経って大きかったなと思います。 あともし、企業サイドで友達がいたらって思えばやはっぱり休まないで一刻も早く立ち直る事を考えた方がいいんだろうなぁっておも、思う。前向きにやっていく人の方にいろんな情報だったり、いろんな物はそっちに流れていくっていうすごく肌で感じた、やっぱり人間は前向き、そして友達は沢山(笑)仲間を大切に。 出来れば、だっこういう活動もなんで協力するかって言うと。例えば暇だったらお金があります、ハワイに遊びに行きます、海外に行きます、それはそれでいいんだけど。あんまり、多分ハワイ行っても来年行っても十年後行ってもあんまり変わんないと思うんだよね。だけどここの被災地ってものすごおく復興に対して激変していくので。このありさまを出来るだけ頻繁に通うって言うのも変だけど。自分の目で見て、関わり方は人それぞれでいいと思いますけど。関わって頂く事が、我々にとっても力になるますし。皆様にとってもすごい良い経験になっていくのかな。多分日本の中で、今回は特別大きかったっていうのもあるんだけど、小さい災害なんて今、去年だって台風ってね、あの和歌山だかあっちの方とかはすごい被害受けてるし。あれだってこっち側の震災が無かったら本当にトップニュースになって、逆に今日本全国がね、あっちの和歌山、あっちの方に、頑張ってねって多分みんな言ってる可能性の方が高いかもしれないし。でその辺をある程度平ったく平等で見たときには。うん、あの、そういう人に目を向けるっていう気持ちを持っていただきたいし。 多分ねぇ、あの、一番激変してってとこに携わるのは一番楽しいと思うので。そういう風なところに、関わっていただけるのはすごくありがたいし。皆様の人間形成のなかでも良いのかなと、いう思いがあるからまあ、今日ね、お話さしていただいたというところです。

荒川 元一

ガス販売をはじめとした荒川七衛商店は昭和6年に創業、現在で荒川元一さんは三代目となります。会社は津波にのまれてしまい、荒川さん自身も波に巻き込まれてしまいました。その後、石巻被災企業復興支援がんばっぺ石巻に加わり、石巻の現状を世界へ発信するマガジン「Rolling Press(ローリングプレス)」を創刊。国内と海外へ発信していきたい強い思い、復興への思い、そして震災で気づかされた人との繋がりについて話してくれました。 がんばっぺ石巻 荒川さんプロフィール Rolling Press ローリングプレス Facebook Rolling Press ローリングプレス ブログ 地震が起きて、ええ、その後自分も事業所の中を確認して、でまあ大津波警報だとラジオ聞かせて、大津波警報が来てるってんで、事業所からその撤去させた後になんで私が一人残ったかと、やはりあの、人の命は尊いものだってのをやっぱり身にしみて学んでいた事だったので。まあ最後は自分の命が亡くなっててもやっぱり守らなきゃいけない。仮に、た、例えばあの、従業員が亡くなってしまって私が逃げて助かってたらやっぱりあの、社会が周りがどう批判しようと自分が一番いや、嫌だろうなと。だからそれで残って確認しようと思ったのが結局自分はまあ助かりましたけど、危ない思いをした訳ですよ。でもそれは今になって見ると、やっぱりそういう運命でその後に、の活動てか生き方に私があの、生かして生きてかないといけないんだろうなと思ったんです。 でそん時は今まで日本の国としてはそういう災害が、自然災害があった場合に個々の事業所に支援をするっていうスキーマは何もありません。ただ今回は甚大な災害なんで何か国にね、あの訴えて、何か考える、考えたいと思いますっていう話を受けて私たちもそれ是非、その、雇用をこれからあの、喪失守るためにもそういうかた、何か支援をいただきたいっていうような事を陳情したんですね。でその一ヶ月後に4月の半ばぐらいに声がまた掛かって。で、実際にはどうだったのって聞いたら、いやあ現状では新しいスキーマない。ただその、あるとしたらその、国からのあの、緊急的な融資で、近隣が安いものだったら借りるできるよっていうスキーマしかないと。でその、えーそのやったのは古藤野っていう方と松本さんっていうのがあのう、声かけて、いやそうじゃなくて自分たちでやっぱ立たなきゃダメだから、と言っても個々じゃ無理だから集まろうってことで、確か、5月だったと思うんですけども。そこで、元気、石巻元気、被災企業元気復興委員会っていうのを作ろうって事で。 私、青年会議所ってのは40までで、私は37で初めて3年間しか所属してなかったんだけど。あのまぁ社会に奉仕して、仲間をつくっ、大事にして明るい未来を作りましょうみたいな信条を、3信条ってのをあげてて活動してるんですけど。まぁボランティア的な団体ですよね。でそういうのでまぁ、なんとか町おこしをしようとか社会を良くしようっていう志を持つようにこう集められ。持って集まるんじゃなくて持つようにこう勉強してから入らないみたいな誘われて。僕も最初は断ってたけど、たまたまあの、私のあのう同級生があのうその代表になるからってんで強く引っ張られて、じゃ3年間だけだけどやってみっかっていうような感じでね。そん中でその松本さんなり、ええ今朝会った山形くんなり知り合って。ええまぁいろんな、腹を割って話せる、いろんな事を。まぁ政治の事とか、あの宗教の事とか仕事の事とか業界の事とか。もう業界違くてもこういう、こうなんだ、とんでもねぇなぁとか困ったもんだなぁとかっていう、実はこうなんだよみたいな話を腹割ってさぁ、あのう話せる仲間が何人かいて。まぁそういうのしてから声が掛かってあの、陳情に行くよってのがあの声掛かったんで。多分その団体とかそういう仲間がいなかったら私も孤立してて途方に暮れてていたと思うんです。

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