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清野和也さん

インタビューページへ戻る 清野さんは山形県出身、大学生の時に福島に住みはじめました。現在は「NPO法人チーム福島」という団体の中にある「福島ひまわり里親プロジェクト」の事務局を担当されています。 福島の地域説明、風評被害について、影響 面積が全国で第3位。これだけ広いんですよっていうのを頭入れてほしいんですね。 これだけ広いから地域によって被害が全然違う。 大きく浜通と仲通と会津地方って分かれてます。浜通りは今日行かれたところが。いわき市ってのも浜通りで原発被害が一番大きかったのが浜通りっていう地域なんですけど。会津地方ってのが八重の桜の舞台になってるところで、ここはすごく放射線量が低い本当に東京とかと変わらないくらい低くて。なのでよく、福島の被害、放射能被害で風評被害って言葉使うと思うんですけど、ここは本当に風評被害って呼ばれている地域です。 今みなさんがいるのが仲通りって言って、ここは福島市とか郡山市とか新幹線とかで通ると思うんですけど。ここは風評被害の地域と実害被害の地域。というのは本当に放射能によって作物が採れなくなっている地域が地域によってバラバラな地域ですね。ですのでこのあたりも決して放射能が低い地域ではない。今日来る時に放射能測定器とかそこらへんにあったと思うんですけど、他の地域と比べればちょっと高くなってしまうって事でやっぱり子供たちもそういう事の中で生きてしまっているっていう。最後浜通りっていう地域が今日見て頂いたいわき市だったり、あとフラガールっていうのが映画でも、ああいうのの舞台になったのは浜通りっていう地域で。もともとは観光がメインだったので、どうしても震災の影響が観光に行ってしまったので。この地域は実害って言われてる地域です。でこういう風に広いんだなって事を分かってもらうと、福島って一色単に風評被害って言っても、ここも風評被害っていう考え方でもなく、逆に、福島ってひどいんでしょって考え方にもならないかなって思います。北海道みたいなもんなんで、北海道って言い過ぎなんですけど。北海道の端っこで起こった事は関係ないくらいじゃないですか。 3.11後の変化:人口の減少 で、福島、震災があって何が変わったかと言うと、まず人口がぐっと減ってます。これは現在って言っても昨年のデータなんですけど。6万1千人が確実に減っている。これは亡くなったとかだけではなくて、結局県外に避難されたりとか、例えばこの避難地域っていう人たちは福島その地域に住めないので、県外に住まれているっていう人も合わせての数字です。 観光への影響 あとこれデータないんですけど、震災があって何が一番落ち込んだかっていうと、もちろん農業分野とか漁業、ってのが一番なんですけど、次に落ち込んでるのか観光の分野なんですね。やっぱり風評被害ってところ、特に先ほど見た会津ってところは観光がメインなので、あそこは本当に風評被害で、全然東京と変わらないのに、でもキャンプ場の人たちが全然人が来ないって。前までは学校さんたちが子供たちを連れて来ていたのに、今は親の反対で来ない、って状況があって。観光ってのががくって落ちてます。でその観光の中でも教育旅行、みなさんで言うと例えば小学校中学校の頃修学旅行って行かれますよね?あれって福島で言えば会津地方だったり浜通りってのが修学旅行で来るかたってのが多かったんですね。歴史を学ぼうっていうので。なんですけどこれが9割減、なので全然人が来なくなってしまっているって中でどうにかしてこの観光だったり、そいういった面で僕らができること。しかも続けて、継続的にやらないと修学旅行って3年後のを今決める、で決まったら3年間はずっと同じ所になるらしいんですね。なのでその時その時一瞬だけやっても、継続して出来るプロジェクトはないか、っていう所で本題に入るんですけど。 福島ひまわり里親プロジェクト 福島ひまわり里親プロジェクトっていうプロジェクトをさせていただいております。 これはですねNPO法人チーム福島っていう、福島県内の若手経営者、大体20代から一番上でも40代前半の方、計10名でさせて頂いているプロジェクトです。で、どんなプロジェクトかというと、全国の方々に知的障害者の方にパック詰めして頂いたひまわりの種っていうのを販売して、それを全国の学校だたりご家庭で育ててもらう。で咲かせた種を福島に送って頂いて、今度はその種を福島県内で咲かせる。そうする事で自分たちのひまわりの子供が福島で咲いているという事で、観光誘致と、あとは障碍者の方の雇用と、これを通して例えば学校さんですと復興に興味を持つということで風化と教育対策っておいうことでやらせて頂いているプロジェクトです。2011年に始まって何年目、3年目になるんですけれど、全国で10万員以上の方がこのプロジェクトに関わって下さっていて、 福島県内2012年が9千カ所で、今年が1万6千カ所で復興のシンボルとしてひまわりを咲かせて頂いています。 まあ流れとしては今の通りなんですけれども、ひまわりの種を購入して、全国でそだてて、って。最初の年は育てる種がないので2011年は完全に全国たで。全国で育ててくださいってやって、大体ひまわりの種が5トンくらいと、あと一緒に『頑張ってね』っていう応援のメッセージが全国から届いたんですね。それがこのプロジェクトに届きました。 で2012年には福島県内の観光地だったりあとは行政だったり学校だったりっていう所に届けてもらって、ひまわりをさかせる事で観光の名所というか、ひまわりの迷路を作ったりとかで、ひとつの観光地ということで作らせて頂きました。そして2013年は入ってないんですけど、2013年も同様に2012年に送っていただいた種を1万6千カ所で咲かせたという事になっております。 福島ひまわり里親プロジェクト:目的 目的、 ちょっと話したんですけど、最初この雇用対策っていう話をさせて頂きました。 で、二本松市ってところが福島のとなりにあるんですけど、そこの障害者施設が震災によってお仕事全然なくなっちゃったんですね。っていうのはその人たちがやっていたのがおまんじゅうの箱入れのお仕事。と、野菜作りだったんですけど、野菜作りはやっぱり放射能で二本松は作っちゃダメだったので、それでダメになったのと、まんじゅうの箱入れっていうのが、結局震災があって観光がダメになっちゃって、観光がダメになっちゃうとおまんじゅうも売れなくなっちゃうんです。でお土産の箱売りっていうのをやっていたんで、ちょっと障害者さんに出す余裕っていうのがなくなってしまって、障害者さんの仕事がなくなってしまったんです。このかた達は作業所に来るのは良いんだけど、仕事が全然なくなっちゃってるっていう状況で、家の代表とかは、だっから違う地域に移動して仕事されたらどうかっていう事も提案したんですけど、結局霜害を持ってるかたっていうのは、そこに通うのでも2年も3年とかかけてやっと自分でその土地で暮らして行けるようにるっていう状況で、いきなり新しい土地でまたゼロから始めるってなるとまたたくさんの労力だったり時間がかかってしまうっていうのがあるんdねすね。なのでっこで出来る事はなにかないかなっていうところでこのひまわりの種のパック詰め。種は海外産なんですね。なのでその種を買って、その種をスプーンで救って袋に入れて販売しているんですけどそういう作業だったり、ちょっと見づらいんですけどこういう種と一緒にひまわりのラベルをつけて送ってて、こいうラベルの書き方とか。あとは全国で届いた種の仕分け作業とか。そういうのをお仕事としてさせて頂いてます。で、種は1パック500円で販売してるんですけど、そのお金がこういう作業代っていう事で、使わせて頂いております。(だいたい何名くらいいらっしゃるんですか?) ここが今40名くらいでしたかね。その40名の中でプロジェクト担当っていう方もいて、今は震災とかでいろんなプロジェクトも増えてきたので担当でお豆腐を作ったりもされているので、そういう事をされている人もいて。で今は野菜とかも普通に作れるようになったので農業担当って事もされてます。 清野さん自身のプロジェクトによるご自身の変化 先ほどお話頂いた子供たちの将来の夢への影響や価値観の変化の影響がありますが、清野さんご自身で価値観の変化などはありましたか?僕自身がですね、僕自身がか。でもやっぱり、自分の為って視点がなくなったというか。僕がこのプロジェクトに関わって変わったのは、未来の事のためだったりとか、そういう視点って持ったことなかったんですね。そんな、知らんわーって思ってたんですけど、でもこういうプロジェクトでそういう子達と関わったりとかいろんな事想像するわけですよね、このプロジェクトって何の為にやってるのかなって。何のためにってなった時に、やっぱ自分の為だけじゃやってけないなって。これ震災があったからって事にも直結してくんですけど、やっぱこうやって全国の方が福島の事を我がごとのように思ってやってくださってる姿って多分僕が一番ダイレクトに見れてるんで、自分もそうなりたいなだったり、自分がやる事で未来がもっと良くなるといいなって視点に変わりましたね。僕らがどうこうしてるんじゃないので、僕らは種を電話とかネットで注文受けたのを送るだけって、言ってしまえば。もちろんその中で色んな企画とかしますけど、でも僕らは全国で咲かせてくれないことにはなにも進まないプロジェクトで、福島で咲かせてくれなければ。やってくださってる方がすごいです。 今後のどうしていくか、理念について プロジェクトにも共通してるんですけど、うちの理念っていうのがfor you for Japanっていうんですね。つまり目の前の事に、人の為に何かするってのが結局日本の為に繋がってるっていう考え方で。それって僕らでいうと福島の為ってなるんですけど。で僕らって今、世界中から見て福島っていうのは同情の町。ちょっとかわいそうな町って思われてる部分が結構多いと思うんですね。だkら海外とかでもイベントが結構あると思うんですけどそれって結構同情心から来てるんですよ。それを今度は尊敬の目に変えて行きたい。あ、福島ってすごいな、こんな人たちいるんだ。じゃあ福島に学びに行こうって。さっきも話したんですけど、そういう事をプロジェクトを通して発信していきたいなってのもあります。僕個人としてもそういう時に何ができるかなって時に福島の人たちのルーツだったりこの土地っていうのがどういう人たちがいるのかっていうのを知ってそれをまた伝えて行くっていくのも指名なのかなっておもってるので。そういう風に、同情の町から尊敬の町って。これはプロジェクト全体でも共有してるんですけど。それが一番ですかね。 インタビューページへ戻る Advertisements

20130518 梅谷勝義 3

「もうこれはもうとりあえず天災と思ってまず対処していかないといけない、そのあとにじっくりとどういう責任になるかっていうのをやればいいのに、はじめっから責任、政治の責任、何もしてくれないとか、で情報をださない、と、その初動動作が自分は憤慨してましたね。」

20130518 梅谷勝義 2

「学生のころからある意味放射能と一緒に共存していこうかなと思ってて」

20130518 梅谷勝義 1

「道の駅で販売するときに有機の里のなんかワッペンとかあるんですよ。シールを、それを元気シールっていうんですよ。(シールがあるないだとお客さまの見る目は)違うようですよ。」

20130706 坂本和憲 2

“(販売の形態といいますか、農協にだしていらっしゃるのかそれとも直売所という形で ) 長ネギに関してはここ9割か100パーは農協経由で色々な市場にいってますね。(西洋野菜に関しては) 西洋野菜に関しては農協に関係なく自分で市場経由で東京方面いったりあと自分で地元いわきのたいらっていうとこなんですけど、あちらの飲食店、地元のスパリゾートハワイアンさんとかで使ってもらってます。(それは直接売りにいかれるんですか。)そうですね、ハワイアンズさんに関しても自分から売りにいまは、前は市場通してたんですけど( その前というのは311よりも前?)いや、311後も市場通じてやってたんですけど、ちょって伝票関係でちょっともめてしまってしまいまして、それで直接ってことで。( あ、そうなんですか、その市場をとおすのと直接売っているのでは違いはおおきくは) いや、ないです、ただ震災前は野菜のほうは東京のほうでも結構有名なレストランとかに売り込みで営業いったりあと県内でもホテルさんとかと取引はしてましたけど、まあ震災後は色んな諸事情でそういうとことは縁がなくなっちゃったというのはありますし、ありますね。”

20130706 坂本和憲 1

“(その311の前と後でなんか変化っていうのは大きなおのはありました?)変化的には価格の面ではやはり震災直後は1ヶ月間はだいたい出荷停止だったんで そのぶん仕事できずにまああの第一原発のほうもくすぶってて危ないということでうちの姉妹らが避難してきたらということで東京とか埼玉のほうに避難、一時して、4月の頭にはもう帰ってきちゃったですけどまあそれ までそれ以降出荷すんのにしてる時期があったのにできなかったんで30Rほど廃棄処分になっちゃいましたね。でそれで価格も、出荷が始まったら、他産地、例年の半値ででしたがね。でそれ以降もそこ年よりは風評被害もあるせいか、若干安め。(その、風評被害というのは今も続いて)そうですね、価格的には続いて、まあ風評被害があるっていう感じでまあ個人的には本当に風評被害なのかどうなのかってやはりどこかものがあふれれば、そこの産地の色んな野菜でもまあだぶついて 値が高くなんないで まあいっぱいでるときはどうしてもだぶついてるから、安いって言う感じになるけど、そういう面あるとやっぱりかなり差があるような感じはしますね。”

20130706 折笠明憲 6

(これからの福島の農業について) “自分4Hクラブの会長やっていて、今自分が思ってるのは、食育というか、これからの農業を担う人たち、これからの子どもたちに、自分たちは一体何ができるだろうなっていうのをすごく今考えて行動してるんですね。で、一つのことを・・・ただ農業やるっていうのは・・・今「後継者不足後継者不足」って言ってるのが、あの、60代70代のおじいちゃんおばあちゃんが、いきなり20代の人たちに、「やれよ、同じようにやれよ」って言ったってたぶんみんな「無理です」って言うのが多いんですよ。で、それが自分が年齢、今もう30近くになって、30になってから、じゃあ10代の人に伝えるよりは、もう20代って若手でうちらが集まってる中で、じゃあ、今のうちらから自分の下の若いやつらにどうやって伝えて、どうやって下を育てていってあげることができるかっていうのを、一つの方法として考えられればいいかなあって思って今やっていて、えー、子どもたちに、あの、この農業というのを知ってもらってそれの上で「安全なんだよ」っていうのをPRしていきたいなっていうのが一つの今これからの農業として俺が考えてることで、実際あの、保育園のほうに出向いて、野菜のほうを作って、あの、みんなで収穫やろうとか種まいてみようとか言うのもやってますし、あと高校生の受け入れもやってますし。今年は農業短大が、あの、矢吹っていう、白河に近い所にありますので、あそこでスポーツ交流会をして、短大生で、若い農業者、うちら20代30代の農業者が立派に「農業で飯を食ってるんだよ、これは普通の仕事なんだよ」っていうのを伝えることができればなっていうので交流会のほうも企画して、やったりとかして。その・・・上の人たちや消費者っていうのもあるんですけど、消費者にやんなきゃいけないのはもうみんなでやってることなんで、自分たち今20代30代手前、30代頭の人たちと、次の・・・本当にすぐ下の次の人らが繋がることでこれからのこの福島の農業をもっと大きく、もっと、あの、堅実なものにできないかなと思って、それに対しては色々やってみたいなと思って今活動してるというか、はい。農業やってますので、はい。ちょっとそこらは、今頑張ってるところですかね。”

20130706 折笠明憲 5

20130706 折笠明憲 4 の内容の続き “今もう復興だなんだっていうので、ある程度進んできてますだなんだって言ってますけども、そこの姿を見てしまうと、まだまだあれなんだなあ・・・まだ普通の生活ができるところまで戻ってないんだなっていうのがすごくよくわかるというか、目の当りにしてきましたね。だからとっても・・・うーん、なんて言えばいいのかなって。うーん、すごく自分のできることが小さいんだけども何かしてあげたいし、こういうのを人の・・・うーん、そうですね、その四国の人にも言ったんですけど、今まだ、まだ復活というか、復興も終わっていない状況というのを、そんな中でも私たち農業やってるんだよっていうのを、その四国の青年クラブの方々に、伝えてもらえればいいというので、あの映像だったり写真だったりいろいろ撮ってってもらって、はしたんですけども、実際来た人たちも、「テレビで見るのと現実で見るのはやっぱり違う」っていうのはすごく言われましたね。現実にその前にあるのと、テレビの画面で見るのでは全然迫力も違うし、思うところも違うんだなっていうのはありましたね。”

20130706 折笠明憲 4

(今年の5月に四国からの方々を南相馬へ案内された折笠さん。車で飯館村を通過したときに目の当りにしたことをお話してくださいました。) “飯館を通ったときに、なんでしょうか。普通の田舎っていうのは、あの、まあシャッターが閉まってるっていうのはあってもまあしょうがないんですけども、農業者だからわかるかわかんないんですけども、両サイドの作られているべき畑、田んぼが全部草ボロになってるのが一面にずーっともう30分ぐらい進んでもそのぐらい続いてて、それのショックっていうのがすごく大きかったですね。実際気持ち悪いって思うぐらい、うーん・・・いるのが切なくなるぐらい、辛いところでしたあそこは。その、作物が・・・土地があったのに作物が作れない。なんか、あの、上の相馬さん・・・相馬とか大鷹のほうでも、やっぱり今まだ、やっと試験的に始まったっていうのがありますけども、飯館なんかはもう全然そっちには手つけられないって言ってて、田んぼも作っても捨てるような状態。でも作ることはできないから、一面に草原が広がってるっていうような状態だったので、もうそれを見たときのショック・・・その四国からきてる方々も、もう絶句に近いような形で、もう何も喋れないような状態が続いちゃってて、うーん・・・それを見るとまだまだ復興って終わってないんだなあっていうのを、うーん肌で感じた・・・時でしたね。”

20130706 折笠明憲 3

(質問)出荷停止になったものは東京電力の方に賠償・・・ “(賠償)もかけましたけど、そこは多少は出たんだとは思うんですが、えっとすごく、あの、賠償かける上で、かなり大変なんですよね。その、書類を作ったりなんだりで担当の人が来て、本当に補償するべきなのか補償しないべきなのかとか言うのが結構あって、最初の一年は結構頑張ったんですけど、そのあとはもう・・・大変で。うーん、ちょっと勘弁してくれって。で、今は、まあやんないでなんとか生活できるぐらいなものにしようっていうので、色んな作物作って、どれがいいかなみたいのでやっているので。” (質問)賠償を一年でストップさせたっていう方は、あの、多いですか?私が知っている方だとずっと続けて・・・ “あ、いえ、それはもう(草野)城太郎さんとか、工場みたいな感じで作ってる人は断続的にやってるんですけど、うちの場合直売所メインなんで、それを品目別に全部出荷ロットだったりなんだりっていう風に出してくれって言われると、その日売れたり売れなかったりとかって言うのがあって、キロ数どれぐらい出した、何出したっていうのをすごく細かく出すのが大変で、そこを大まかにした状態でも出して、で、またおんなじ年がきて、で、その年によって解除されたり解除されなかったりっていう、山菜なんていうのがあるので、そうすると今年これ解除されたからこの分減らしますとかそういうのっていうのがすごく、それ以上また一から全部作り直しになっちゃうんで、それはしょうがないなっていうので。今はやってないような状態ですね。” (質問)賠償に頼らずにこう作っていく上での心境は・・・ “うーん・・・心境か・・・最初はやっぱり「うわ、悔しいなあ」っていうのがありましたね。でも本当に最初だけですね。あとは・・・「じゃあどうすっかな」っていう軽い気持ちでもう。「じゃあ次これやってみるか」というので。うん。まだ、あの、農家始まって米以外は全然、毎年毎年色んなのにチャレンジしてるような状態なので、そこまで作物に対して思い入れがないって言っちゃ変なんですけども、そういう、どんどん新しいの取り入れてやっていこうっていう気持ちの方が強いので、そこら辺の切り替えはまだ、はい、他の人に比べると、つけやすかったのかなと思います。”

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