アーカイブ

残る理由

This tag is associated with 11 posts

中村 一成さん

インタビュー一覧へ戻る 奥様と仮設暮らしをしながら布団屋を経営されています。雄勝生まれ、雄勝育ち…60年住んだ雄勝は決して嫌いになることのできないふるさと。そんなふるさとが今置かれている現状、進まない復興への歯がゆさ、将来への不安を語っていただきました。 雄勝の現状 まぁ、この雄勝も今どうにか形の中でいろんな構想出てるんですけども、まぁ私の持論なんですけども、まぁ私も役職がらまちづくり委員会の委員だったりなんかしてまちづくりにいろいろ話し合いの中にはいってたんですけども、正直歯がゆかったですね、ものがすすんでいかない、そしてまちづくり委員会でみなさんの意見聞いてやってくんですけどのその中でこれがいいんじゃないかなってやってもらうのは本署にいってペケにされるのいっぱいあったんですよね。で、一転二転三転していくなかでこうやってくんですけど、まぁおたくたち見るように雄勝の町ってほんとにすすんでないでしょ、あの、いっぱいこう形はできてるんですよ構想は、でもなかなかすすまない。まぁ何が原因なのか私らもよくわかんないんですけど、まぁ一年ましに、わたしらもそうなんですけど、地元に残ってこう頑張ろうっていう人が1年2年経っていくとなんだ住めないんじゃないかとか全然動きがないから離れてく人が多くなった。一番怖いですね。 雄勝に残る理由 生徒:その、中村さんが雄勝に残る一番の理由ってなんですか 中村氏:私はね、今は形をどうにか戻してやりたいなって気はあんのね、ただ私は今ここにねこれからずっと雄勝にいるのかっていわれるとちょっとかんがえるのね、っていうのは私は今船越で生まれて60何年ここで住んでふるさとを嫌いな人は誰もいないのね。ただ自分がこれから年取っていくといろんな面での心配がある。だから今は自分がやれるうちはやりましょうって自分の力でできること微々たるもんですけど、だからそれを今はとにかくやりたいなって、自分なりにはね。で、あんまりかっこいいこというとあれなんですけど、かっこいい話じゃないですけどそういう質問されると、中村さんはこの雄勝の町をなんとかしようと一生懸命がんばってんだべなっていうとそんなことない何にもやってない、そうでなく自分が出来ることは何かそこなんですわたしは。 コミュニティーの崩壊 生徒:その周りの人とのつながりっていうのは震災前と後で変わったようなことってありますか 中村氏:いや、変わってないでしょ、うん、ただ遠くなったのは遠くなったよね。船越の場合は、今でも住んでる人は10人くらい、10人いないと思う。3世帯10人くらいだね。それで、まず私はもう、部落のこのコミュニティーが崩れるのが一番おっかなかったのね、っていうのは今質問あったように雄勝の船越に生活している、普段いろんなものを分け合ったり話し合ったりお茶飲んでたりしてたような、ポンと離れてしまったのね。したらそれが崩れてしまうのがおっかなかったもんですから、月に1回ずつ集会開いたんですよ、で、集会を開いて2年ぐらいそういうことやって、それでみんなのコミュニケーションを深めていったんですよ、でも、時が経ってしまうとなかなかそれもままならなくなってきたのもじじつです。船越を好きなんだけれども現実すれば足が遠のいてしまう。やっぱり海があって海にいろんなものとりにいってるうちはいいんだけど、石巻の都会に住んでね、ここに何もようないのにくるかっていうとこないよね、それが現実。だから昔のコミュニティーそのものっていうのは崩れてしまったね。 インタビュー一覧へ戻る

高橋 頼雄さん

インタビュー一覧へ戻る 雄勝町の仮設商店街の横にある雄勝硯生産販売共同組合で職員として働いている高橋頼雄さん。元々震災前は自分の所で硯を作る会社を経営しておりました。津波で家は流され、現在お母様と森林公園の仮設で暮らしています。 残る理由 私は最初っから雄勝に残るつもりで、仮設住宅も早い時期だったら石巻中心部も早かったんだね、そこにも入れたんですけど、私は最初からもう雄勝の仮設に住みますと。その後も継続して住むつもりでいたので、仕事はもちろんここなのでね、もうそういう意味では私は逆にまあ幸せだというか、やりたいこと、好きなことをやらしてもらってるんで、まだ恵まれてる方かなと思いますよね。みんなよく言われるのが、いやよくこんな不便な所でって、何も、それこそコンビニもない、何もないって、いや最初っからそんな求めてないので、車で30分走りゃ何でもあるし、ていう感覚で暮らしているので。 一番梱包はここでの仕事が一番ここに材料があって環境があるわけなんで、一番やりやすいのはまあ第一と。あとはやっぱりあの生活自体が豊かなんですよ。季節季節に海産物いっぱいあって、買おうと思えば安く帰るし、別に買わなくてもいっぱい貰えるしとか。そういった人もいっぱいいたりして。まあ近所付き合いもずっと、あのいっぱいあって。今でも仮設に移ってもみんな雄勝の人ばっかりいる、みんな顔なじみなんで。なんか作ってる人いれば持って来るし、まああの山菜時期だったから、今なんか本当山菜食べまくり状態。毎日民宿みたいな暮らしてますね。で、まあそういうのが季節感もたっぷり味わえるし、仕事もここでできるし。私にとって、こんな良い所はないので、やっぱ住みやすいね。 若者の受け入れ 一応、あの募集かけてやりたい人いませんかっていうので入ってもらったり。あとはあの今度は若い子1人入るのは、地元の出身の人で、大学でちょっとその物作りも学んで、元々やりたいって言ったんで、震災のちょっとお手伝いというかインターンというわけじゃないけど、夏休み使ってずっと手伝い、ボランティアでやってもらってたりしてたんで、であのその素材を使ってこういうのをやってるっていうのを理解してもらって、それで大学を卒業するにあたり、まあその勤めたいんですって言ったらそりゃもう受けるというので入ってきてもらってるんですよね。そういった形であの受けていけば、ただ何人もっていうのはまだね、そんなに水産体制とまあ売り上げも上げないといけないので、そのためにはまだしっかり売り上げをあの今よりもきちんと上げて、ちゃんとして自営をもってやればすぐ来たい人も受け入れられるんじゃないかなって。とにかく売り上げがそのまあ良い物作って、ちゃんとした物を売っていけば、必ずあの人は来ますと思っております。 伝えたいこと 震災から3年以上経て、えーまあただあの、ハード的な状況は変わってはないです、ま瓦礫片付いて、まあ少しずつは進むとは思うのですが、私らはあの仕事は切らさないつもりでずっと、まあ特に私らの硯の仕事ってもう600年以上続いているので、それはもうどうしてもここで終わらせるわけにはいかないというので元々始まって、あの色々本当に報道等で取り上げていただいてるので、注目度は前よりよく見てもらってますので、その中でちゃんとした物をこれからもここで作っていこうと思ってます。そのためには、是非あのいらない、無駄な物は作らずに、あのもうシンプルに生きたいんですよね。でここにあのぜひ来てもらって、まあ別にそんな災害がまあ頻繁にあるわけでなくて、来てもらって、安心して、何かあってもきちっと誘導等もありますので、何より私らの硯もそうですし、あのここ海産物、ホタテが特に有名であったり、まあ夏場だったらホヤだったり、魚とかとっても美味しいところなので、でそういうお店ももうちゃんと、仮設ではありますが、営業してるので、何かしらお手伝いにとか、何もしてねから申し訳ねえとかじゃなくて、行っちゃいけねえのは全然ないので、あの遊びにとにとにかく来てください。あの良いもんと美味しいもんはしっかり、それは雄勝だけじゃなくてね、あの東部沿岸部みんなそれでもう一回立て直すので、一生懸命頑張ってるので。普通にとにかく遊びに来て、まあ正直お金ちょっと使ってもらうのが一番早いので、お願いします。 インタビュー一覧へ戻る

佐藤 秀平さん

インタビュー一覧へ戻る 雄勝に残る数少ない20代の佐藤秀平さん。トラックの運転手として日々働き、明るい性格で雄勝の運動会を盛り上げる姿が印象的でした。雄勝に残る理由や、現状、雄勝に対する想いを話して下さりました。 雄勝に残る理由 おれ、会社の所在地が雄勝町なんだよ。こういう小さい乗用車じゃないんで乗ってる車も、大型トラックだし、いろんな所にまさかあちこちに停めるわけにはいかないし、まあなんとなく街に出る気は最初からなかったので、だからいいや、人がいないなら、いっその事何かおれのものだ。何したって怒られねーぞ。みたいな感じで思っちゃったんだけどもね、んー何が良くて残ったって分からないおれも。 でも、おれは仕事で石巻に通ったり帰ってたりする道のりが好きだったりする。その山の景色をみて、桜芽吹いてきたなとか、ああ紅葉きれいだなとかさ。ああ、今日風強いなーとか海荒れてるなーってそういういろんな所みていくのが好きだから、たぶん残ったのかもしれない。うん。まず静かだし、そしてこう今からどういう風にこう再生されていくのかなっていう楽しみもあるし、果たして本当に元通りに戻るのか、それとも近未来化のモデル漁港みたいになるかよく分からないけども、まあそういう楽しみもあるし。そして人手も足りないから、若いような人でもだからそのアルバイトとかもしやすいし。お願いします使って下さいって言われなくても来てけろって言われれば、それで終わりなんで。だんだん、元々人もいなくて狭い所さね、さらに少なくなったから人間関係は濃くなったし。 震災後の友達 周りの友達っていう友達ね、みんな街に出て行ってしまったから。今つるんでる友達というのは、震災後にできた友達がほとんどだから。高校だって街の高校ですし、俺らの学校は進学校ではなくて、就職が80%ぐらいしめてる学校だったからみんな船のったりとか、卒業して一度も会ってない友達もいるし、どうなってっか、生きてるか死んでるかも分からない人だっている。 (震災後にできた友達)あのー、いつもの友達と遊んでて、友達の友達、の友達の友達とか、だんだん枝分かれしていって、類は友を呼ぶって似たような人たちが、こう集まって、たんかなー 石巻の人ではあるけど、雄勝の人ではない 雄勝の未来 周りの人たちはさ、人が住みやすい場所とかさ、若者が帰ってきてとか、そういうのは望んでも叶わない夢だから。若者とかそういう人たちは、あっちの方に土地を買って家たててる人もいるし、あっちの方に復興住宅申し込んでる人、中には戻ってくる人もいるけども、おれの理想はこじんまりとした、本当に震災前にただ戻ってもらいたい。渋滞とかもなく、あまり人混みも起きず、たまに1年に1回のね、ウニ祭りとかさイベントがある時ぐらいで、本当に1年中人が来られたっておもしろくないから、シーズン的に来てほしい。海開きとか、ウニ祭り、ホタテ祭りとか。後は、もうちょっとライフラインを。ライフラインというか、雄勝から一歩も出なくても生活できますよ、というレベルまで戻ってもらいたい。 インタビュー一覧へ戻る

加納 竜司さん

インタビュー一覧へ戻る 雄勝町にある店子屋(仮設商店街)でお寿司屋さんを経営している加納竜司さん。長い修行を経て開店したお寿司屋さんは津波によって、流されてしまいました。雄勝町でお店続けようと思った理由や雄勝の現状などについてお話していただきました。 伝八寿司を続ける理由 あのね、まずはその、外にあるんだけど、うちの看板すか。伝八寿司って同級生に売ってもらった看板なんで木のね、それが流されてたんだけど、なんか見つかったっていうのがまず一つで、あとうち卵焼きに伝八って焼印をしてんだけど、それがほんと店の、流された店のところに、地面に刺さってたのね。あれ、これって。そういうのもあったし、包丁とかも残ってたし。んで、まぁ一番はあの、食べ物屋さんがね、誰もやらないって言うんすよ。他の。要はあの、みんな歳なんすよ、60過ぎる人たち…俺が飲食店で多分一番若かったんで、でみんななんか、いや俺は仮設店舗になんかはいらねー、今更やったって無駄だべ、とかみんな…でそれでまぁ、まぁ雄勝に残ってる人たちにも、雄勝食い物屋ねぇと大変なんだろうなっていう話もされてたから。もういっぱつ、じゃぁとりあえずで、最初はね、でとりあえずやってみっかって。そんだけ大変だって言うなら。まぁ最初の動機はそうだな、でやってみようって…まぁ俺もほら、家族いるから。食わせていかないといけないからね。無謀なチャレンジはできないっすよ。 雄勝町に残るか残らないか あの雄勝に残ることに関しては、全然苦じゃないんですよ。まぁ自分が生まれ育った町なんで、全然もう、嫌だとかそういうのはないんです。ただ、うちの、なんていうんすか、家族がなんかまぁ、もう戻りたくねーっていうこともやっぱあるんすよ…うちの親とかは、その、一旦、今うちは俺ら雄勝にはいないんでね、河北町ってとこにいるんすけど、あの…その高台移転ってあるじゃないですか、そん時に、あんたら好きな方選んでいいよ、言ったんですよ、親に。雄勝に戻るのもいいし、こっちの河北町に残るのもいいし…そしたら迷わず河北町選んだから、なんでや、って言ったら、いや、もう今度あんな津波来たら逃げらんね、っていうのと、あともう病院もねーし、なにもねーし、大変、年寄には大変だと思う。 加納さんにとっての雄勝町 ああ、やっぱりねー。一番落ち着、落ち着くっていうのが一番かなぁ。でやっぱあの、やっぱり、昔っからいるし…で残ってる漁師さんとか結構残ってるし、別に雄勝いて、こう退屈するっていうことがそんなないすよね、うん。なんか普通にいる、みたいな。たのしい…楽しいわけじゃないですけど、まぁいて一番楽なところです。雄勝。その河北町とかにいるより、雄勝にいた方が楽だっていうことです。楽っていうか、気持ちが。まぁあんな津波とかもあったんだけど…一番いやすいところです。だから残ってるっていうところは、まぁそういう感じですか。 伝えたいこと ぜひ、機会があったら雄勝にきてもらって、自分の目で見てもらって、まぁ雄勝のいいところとか、あ、こんなに復興とかがこんなに進んでないんだな、とかを見てもらって、まぁ…こうなんつったらいいんだろうね、言ってもらいたいつーかね。まぁ自分たちも言っていきますけど、外の人にもなんか知ってもらいっていうか、かな。 インタビュー一覧へ戻る

阿部 善規さん

インタビュー一覧へ戻る 雄勝町熊沢で現在暮らしている阿部善規さん。もともと浜の麓にあった家は流されてしまいました。漁業を通して感じてきたこと、自然と共存することに対して、震災を通して阿部さんが感じてきたことを話してくださりました。 震災に強い漁業 だから災害に、私が思うのは災害に強いって言ったら、もう少しね、この自然を利用したおんなじその手を加えるのも自然に利用、自然を利用したそのやり方をね。それをやればほら、結局は最初は経費かかっても後後はいいと思うんですよ。だからもうちょっと自然に近いやり方でね。最初は手を加えても、自然にその近いやりかた。 震災について だからその、津波もねー、あの私の、私らはその津波っていうのはおじいさんが昭和8年の津波を経験して、こううるさかった人なんですよ。ものすごいあの津波に対して、あの神経質で、ずいぶんと自分の親が神経質じゃないかと思うくらい神経質でね、地震のあれはとにかく、もう逃げることだったんですよ。もう逃げる、逃げる。地震になったらとにかくみんな起こしてね、もうテレビつけて、自分で起きてきて、テレビつけて、もう玄関もなにもみな開けてね、もうなんていうか早い話、車もなにももう全部エンジンかけなさいで、逃げるそういうね、神経質な親だったんですよ。だから、津波、津波になった時もやっぱり逃げるっていうことはどこか頭にはあったんですけど、ほれで一番うちは下にあったから、とにかく津波に対して神経質だったし、私らはほら、こういう土地であるから、あればこそ、いくら津波来たって、1メーター逃げれば1メーターあがるっていうのは感じたから、それこそ津波そこまで来ても、もうそりゃ命とられるようなことはないんですよね。ただ、結局親の言うことには、結局津波は3回目あたりには、大きいの来るから、っていうから、波が引いていけば、引いて行っただけ大きいのが来るなって思うから。もう引いて行ったとこさは、もう行かないんですよ。だから3回目だから、1回目ここまできたら2回目多分それより多いんだろうって上で見てるわけですよ。そういうなんていうか今まで経験はしていないんだけど、そういう親からなにされたことが自分ではわかってて、結局はほら、思うんですよね。だからまぁあまりこの部落には被害っていうのはないんですよ。船はなんかは流されたけどもね。大抵は流されたけっども、あの、人間が流されたとか、死んでしまったとか、この浜にはないんですよ。みんなそういうことをあれしてるからね。 住めば都 ああ、やっぱりねー。一番落ち着、落ち着くっていうのが一番かなぁ。でやっぱあの、やっぱり、昔っからいるし…で残ってる漁師さんとか結構残ってるし、別に雄勝いて、こう退屈するっていうことがそんなないすよね、うん。なんか普通にいる、みたいな。たのしい…楽しいわけじゃないですけど、まぁいて一番楽なところです。雄勝。その河北町とかにいるより、雄勝にいた方が楽だっていうことです。楽っていうか、気持ちが。まぁあんな津波とかもあったんだけど…一番いやすいところです。だから残ってるっていうところは、まぁそういう感じですか。 インタビュー一覧へ戻る

今野 瑠理さん

インタビュー一覧へ戻る これから養殖業を始めたいと考えている今野瑠理さん。雄勝町の豊かな自然が好きで、震災後も雄勝町に住み続けたいとおっしゃていました。 雄勝に残る理由 生徒: 雄勝町にずっと住み続けようと思った理由は何ですか? 今野氏: 一番はやっぱりこうおばあさんのそばにいたいっていうのもあるし。この桑浜っていうこの場所が好きなんですよ、一番は。自然が好きなんで、そうですね。もうあっちっていうか石巻の方には住む気がないっていうか、おばあちゃんになるまではずっとここにいたいですね。 生徒: 石巻市内の方へ買い物に行くとおっしゃてましたが、石巻はこの町とは違いますか? 今野氏: そうですね、確かに石巻のあっちの方に行けば、買い物も普通にできるし、豊富なものはいっぱいありますけどやっぱその空気はあっちはちょっとあれなんですよ、自分は合わないというか。やっぱここにいて少し散歩するだけでもすごいリフレッシュできるっていうか、その安心感もわくし。あと何より人の良さがすごいここいいので、あっちに出ると知らない人ばっかりっていうのもあるんですけど、人のふれあいが欲しいというか。このはい、人の良さが一番いいので、やっぱここにいたいと思うんですよね。 町から引っ越す人 生徒: この町から引っ越す人と引っ越さない人の違いは何ですか? 今野氏: 養殖業が全部一旦だめになったんで、もう一回するのにはすごい多額のお金もかかるし、それでやっぱ出稼ぎっていうかあっちで仕事して暮らした方がお金もかからないし。あとはここはあの、おんちゃんっていうか年結構いった人っていったらおかしいんですけど、結構あの老人とかしかいないんで、あっちの方が住みやすいというか、あっちの方にその娘息子がいるから引っ越すっていうのが多くて、なんででも一番は漁業ですかね。できなくなったんで引っ越そうっていう 生徒: これからるりさんはどのようにこの町で暮らしていきたいですか? 今野氏: そうですね、うん。私も養殖したいと思ってるんですよ。少しの養殖でもなんていうんですか、お金にならないのはわかってるんですけど、少し人残ってほしいので、自分が若いほうなので若者が養殖とかなんかしたら少しぐらいこうなんていうんですか、こういう若者もいるんだっていうことで、桑浜じゃなく雄勝町にこう戻ってきてほしいっていうのが望みというか、少しその気持ちはあるんですよね。 復興の様子 今野氏: 実際本当に復興ていうのが進まってるか分かんないんですよ。道の桑浜漁港もまだこう整備もされてないんで、なんで違う地域は整備されているところは整備されてるし、今してるとこもあるんですけど、桑浜っていうとこはなかなか進まないんですよ。だから確かに漁業の養殖は始まってるっていう復興はできてるんですけど、漁港はまだこう石だらけってのもあるし。そうですね。 ボランティア 生徒: ボランティアとしてはこれからどのような形で携われると思いますか? 今野氏: そうですね、本当来てくれるっていうその気持ちだけでうれしいんですけど、やっぱボランティアの人たちも話しかけてくれるんですよ。それはすごく自分にとってうれしいし。もちろんここもきれいにすごいしてくれたし、こう個人で来てくれる人もいるし、団体で来てくれる人もいるんで本当感謝してるというか、ここもなにかできるみたいですけど、できた後もどんどんボランティアさんに来てほしいですね。何も仕事がなくても遊びに来てほしいというか、それだけでも人口増えるというのもあるし、一瞬だけでも。なんで本当来るたび、毎回楽しいですね。 インタビュー一覧へ戻る

大貫 満喜子さん

インタビュー一覧へ戻る 生まれも育ちも閖上だが、一度そこを離れた大貫満喜子さん。戻ろうと考えていた時に震災が。彼女が閖上に込める思いとは。 閖上の好きところ なんだろうね。全部ひっくるめてなんじゃない?人も、あの、場所も。くうきも。風も。全部。だ、これがっていうのはないね。全部総合的に好き、うん。嫌いなんだけど好き。わかるかな。あのね田舎町って最初に言ったじゃない。田舎だからこそ人間関係もちょっと複雑なとこもあったりするわけ。 これからの復興について まあね、元に戻んのは当然無理なんだからさ。やっぱ1から作るわけでしょ。それはみんな楽しみながらやればいいのにね。結局昔だってそれなんでしょ。閖上って昔から本当に古い歴史はあるんだけど、古いものは何にもないのさ。つまり何回も津波の被害にあってるんでしょ、おそらくは。当然のことながらだけど。てことはさ、流される度に作り直してるわけじゃん。だったらもう一回作ればいいんじゃない?それもそんな色んなしがらみなくさ。今一番問題になってるのは、名取市は現地復興とかいって、だから話矛盾すると思って聞いてると思うんだよね、きっと。なんで私が名取市に対して敵意をもってるかっていうところ。現地復興ならそれでいいじゃないかって思うかもしれないんだけど、結局なに、行政側のほうでこうしろみたいにして作られたものの中に戻っていくていう感覚はどうなのかなって思う。もちろんほら、一人ひとりで難しいのはわかってるし、行政はそのためにあるから、まずはレールを敷いてそこに住民の戻るっていう。それはわかるんだけど、なんか強制連行みたいなやり方での現地再建案っていうのはちょっといただけないんでないかなって。みんなが自然に戻りたいとか、戻るっていうふうな、風に作ってくれて、それで初めてみんなで楽しみながらね、いい町作りができると私は思うんだけれども。そうでないじゃない。ここじゃなきゃいけないとか、それも嫌がってる人まで無理強いするような感じで戻そうとするでしょ。そういう意味ではいい町なんか作れないもんね。だから楽しくね、本当は明るく、前向きに、もう一回一からやればいいだよね、別にね。そんなかさ上げ、まあかさ上げは安全性っていう意味では必要なのかもしれないけど、そこまで行儀よくしなくていい。逃げるとこさえ作ってくれればいいと思うし。そんな大きい商店街、なんだか今日も見たけど、なんかね。円形のもの、すごい商店街作りますって。そんなもの最初に張り切って何なのって。そうでないんでないのって。住みたいなって、戻りたいなって思わせるようにしてくれなきゃね。そういう風になんないといけないし。 生きていくうえで一番大切なこと なんでしょうね。うん。まあつながりとかじゃないかな。うん。ちょっとね色々話しながら、さっきのほらあんまり良い事なかったみたいなね、あったけど、そういえば一つあったなっての思い出したの。それがやっぱつながりかな。それこそ震災がなければ出会わなかった人たちもいっぱいいるわけよ。閖上の人も含めて、ボランティアの人も含めて、支援してくれる人も含めてね、こういうことがなければ絶対一生会わなかっただろうっていう人いっぱいいて、そういう人たちの顔が浮かんだのね。そういえばそうだったと。今でもずっとねいい付き合いをさせてもらってる方もいる。全然目立たないんだけどね、そういう人たちこそでも、だからもっとポッと出てくれればいいのにさ。本当に継続してやってくれる人たちってね、あの、それこそマスコミとかに出てこないのよ。陰でひっそりとやる、地道にやるからこそ継続するんだろうしね。そういう人たちはありがたいし、今も繋がってますね。そんなもんぐらいすか。 閖上の復興が遅れていることについて 閖上は住民が悪いから復興遅れてんだみたいなさ、見聞きするの。見たくはないけどやっぱ気になるから調べるそうなんね。決してそうではない、決してそうでは ないっていうことを知ってほしい。みんながみんが反目しあってるわけじゃない。みんな町が大好きで何とかしたいって思いがあるがゆえに色んな議論してるだ けで、そこの合意形成をするための調整役が本当は行政であるべきなのにそれをしようとしなかったからここまで来ちゃっただけの話で、住民がみんながみんな いがみ合ってるわけじゃない。本当はみんな閖上が好きで良くしたいからやってるだけだってこと知ってほしいかな。ぜひおいでませ閖上、みたいな感じ。 メッセージ まずはやっぱりぜひ来てほしいと。まずは現地に来てくださいと。どういう町なのか想像してね、車でこう通り過ぎるんじゃなくて、歩いてほしいの、そこにどれ だけの人が住んでどういう町だったんかって想像しながらぜひ足を運んでほしいなと思うし。まあね、みんなが楽しく暮らせるような町づくりになるように見 守ってほしいなと。 インタビュー一覧へ戻る

松本 俊彦

松本俊彦さんは(株)松弘堂 印刷会社の代表取締役、石巻元気復興委員会の会長としてご活躍されています。会社は倒され、事務所と工場は浸水。その後、同じく会社が被災してしまった経営者、次期経営者の方々を集めて元気復興委員会を作りあげた。以前はライバルだったとしても、今は一緒に力を合わせて頑張る時なのです。石巻の復興への思いや復興委員会で誕生したコラボレーション商品についてお話していただきました。 大変な事もあるけど今が楽しい、復興委員会について さっき石巻は大変な状況だっていう話しましたけど、それとは反面で石巻にはすんごい事が起きてる事もいっぱいあって。まっ、当然、国がこう、石巻に対していろんな、あの、なんて言うんでしょう。国のお金を投入するわけじゃないですか。例えば新しい町を作るっていう事に対して何十億、何百億もお金を投入したり、専門家をいれてきたり、っていう事を石巻は今あるし。日本中の大きなトップクラスの企業が、その企業の価値をどうしようかって。この東日本大震災を通して自分のこの会社の企業価値をどう高めていくかっていう事で、日本中の大手企業が今集結してるんで。で、なにができるか一生懸命さがしている訳ですよ。そんな事が石巻で起きてるし。もう単純な事から言えば、芸能人がわんさと来るわけじゃないですか。 震災前に全く想像しなかった事が、今ここで起きてんです。それってすごい素晴らしい事だし、前は絶対あり得ないことだったんで。たまたま不幸も事がいっぱいあるけど、良い事を探しだす事がどんどん起きてるんで。自分はやっぱそういう事を使って、一緒にその中に飛び込んでいって、非常にこう、自分の人生としてすごい良いんじゃないかなぁ。だからここを離れるつもりもないし、ここにいる事が楽しいですよね。 ボランティアさんも全国から来て。お手伝いいただいて、お手伝いしていたかと思うとここに住みたいって言い出したりとか。そういう若い人達もいますし。だから面白いっすよね。休んでる暇ないですよ。休んでる暇ないって言ったらおかしいですけど。楽しい事もいっぱいあるから、楽しみ続ければいいですよね。 この我々のメンバーもなんかそんな感じだと思いますよ。私と同じように全部、会社がなくなって。まっ全社じゃないですけど。設備を失ったり。まっ中には社員を失ったりっていう方々もいっぱいいますし。でも、根本的にはある程度若めの経営者の人たち、ぜんぶ経営者なんですけど。もしくは時期経営者の方々なんですけど。こういった方々も、やっぱり私と同じようにこう、なだれて、どうしようかって思ってたと思うんですよ。で自分が、この指止まれ、と。同じような人たち、この指止まれ、と。でみんなで力合わせてやろうよ、と。一社でやろうと思うなよ、と。一社でなんかできる訳ないんだ、と。この機会にみんなで力合わせてやろうよ、という事を言ったらみんな、うーん 何になるかわかんないけど一人で悩んでるよりいいな、と。で集まり始めて。でそこに、こんな事できるんじゃないの、あんな事できるんじゃないの、って。大阪行こうよ、大阪行って自分の商品PRしてこようよ、と。いや、大阪行っても通用しないっすよ、って行ってみなきゃわかんないだろ、と。で行けばやっぱ、美味しい、とか言われる訳ですね。是非商品を取引したいと、いう話になってくる訳ですよ。今そういう事をどんどんやって外に向かってどんどん我々はやっていこうよ。震災前は全くやってなかった事だけど、今やれば、目立つ。目立つし、みんな聞いてくれる。だから今がチャンスなんで今一生懸命そんな事をみんなでやりましょうよ、と。 商品を広める、コラボ商品の開発、わかめ専用ドレッシング 今この商品をとにかくどんどん世の中に出していくっていうのが一つ。でそれは詰め合わせセットでもそうですし、そうじゃなくて企業で、例えばどこどこのなんて言う商品を記念品で使いたいとか、そういうニーズがいっぱいあるんでそういうのをどんどんPRしていく事と。後はみんなで力を合わせて色んな商品を開発していこうと、いう事を今一生懸命やっています。 この機会にどんどんどんどん外に自分の会社の商品が出て行って。で最初は、例えばそれが支援というきっかけかもしんないですけど、やっぱり最後は美味しいから買うっていうところまで持っていかなきゃないので。それをみんなと協力しながら自分の会社の商品だけじゃなくて、隣の人の会社の商品も。例えばお宅はこういう技術があるんだから、こういう事をやれば良い商品ができるよね、とか。ウチのこういう技術を使ってお宅のと合わせればこういう物ができるよね、とか。そういうのを今一生懸命みんなで、飲みながら、楽しくみんなでやっています。それをどんどんやっていきたい。 (これからも) うん、商品を良くする事と、広めていく事と、2つとにかく一生懸命やろうと。 ひとつ出来た商品があって。ワカメの、塩蔵ワカメを売っている会社があって、ワカメですね。ワカメを売っている会社があって、それをこう、展示会にみんなで行った時にワカメを試食してもらうのにタレが必要になる訳ですよ。でそれを、タレ必要だったんですが山形屋さんっていうつゆを、まあ醤油味噌を、つゆを作っている会社がありますね。それから東北で結構いろんなそば屋さんにおろしている丸平鰹節っていうダシ屋さんがいた訳ですね。でそれを、んじゃ2社で、この二つの商品をこう上手くくっつけて美味しいタレだきんじゃねぇの、ってこう遊びながらやってたんですよ。でそしたらエライ美味しいつゆが出来て。おっこれ良い、って、これ商品かしようっていう話になって山形屋さんと丸平さんとコラボしたワカメ、ワカメ専用ドレッシングという名前で、ワカメ用のドレッシングを今回作って、今ワカメと一緒に殆ど売っているとう。だから3社コラボですよね、要は。でそれがワカメだけじゃなくて肉にも合ったり。牛タンつくねそこで売ってんすけど、牛タンつくねにも合うし色んな物に合うので。今すごいウケてます。そういった物をどんどんどんどん作っていけば、楽しいですよね。

菅原 聖

菅原聖さんはオカダプラニングの代表であります。 自分自身は、まあ、流れてるからね。その、津波にのまれてる人間だから。まあ、死んだつもりでって言ってもまあ言えば済むんだけど。まあ、生かされた部分もあるから。でもやっぱりこういうエンターテイナー的な仕事をしてるからやっぱ俺はは人を喜ばせないとっと。まあその後はそういう被災地でなんかやってあげなきゃ、っていうかまあ自分被災-人だけど、被災地の、被災した人間が被災地に行ってやるっていうとこに意味があるなっていうのはあったのね。 だから阪神の時も、阪神大震災ってあったんだけれど、あん時ってのも、あの辺で歌謡ショーうち本当はやるはずだったんですよ。で、それ、まっちょっと、もうちょっともう南側なんだけど、ただ一カ所はあのう、会場が物資の置き場になってて使えなくてそこだけ中止になったんだけど。そん時も俺、震災1ヶ月後くらいにそのやっぱり歌謡ショーをやるからその、打ち合わせかなんかに行ったんだけど、結構すごかったから。もうそん時でも、だから逆にこういう時だからこそやんなきゃないっていうような、歌謡ショーはそういうやっぱりこういう時に、こういうこそやっぱり人を喜ばさなきゃっていう部分はあったから。そん時も商売にならなかったけどね。ひどい目にあったけどね。結構赤字越えて、まあやったからいいだろうみたいな。だからそこで止めても赤字、損ねっ、ね、続けても赤字。っては、どうせだったらやった方が良いじゃんっていう。だから今回もそんな感じだったんだけど。 ううんなんだろうな。まっ、ええ、ポジティブになってね。結局その、なんだろう。もう失くしたものないし、こう遠慮が無くなったっていうか。だからなんとなくこうねっ、歌謡ショーとかやる時もこう、タレントさんにもこう、何日かかん日か、みたいな。ったらあのう、まっ原発で避難している人達のその南、その、南相馬の方の波江っていう町があるんだけども、親戚関係がいて、こうみんなで避難してる街があるんでそこでちょっとできないかって言われた時にも、もうタレントにもうガツガツ行って、遠慮がなくなったっていうか。今だったらこう、ね、いやぁお金ないんだけど、ってこう行くのも、うち帰ると、もうないんだけど来て!って感じの。なんかこう、あんまりこう、ん、何にもなくなってるから、結構こうなんか言いやすくなってるし。 目標、いやあ。なにもないね。継続するっていうのが目標なんだね。要は、ある程度歴史があるんで、その、それをとりあえずまあ俺が生きてるだけは続けていきたいだけであって。まっ続ける事が一番、ねっ、あのう、会社ってのは大切なもんだから。まっ別に発展する必要は全くないけど。続けていければいいなっと思う。 うん、そうだから。よくその、うちの業界ってのは結局東京とかそっちにいた方が全然楽な訳じゃない、仕事もしやすいし。んだけど、だから結局で言うともう仙台の人からも、仙台に来たらって言うんだけど。仙台の方がやっぱ動きやすいし。いやあ俺石巻にいるっていうんだ、要はその、酒飲みに行く友達もこっちにいるし。で、今後の石巻どうなるか見てみたいし。だからやっぱり、ねっ。石巻にはやっぱりいなきゃないだろうなっていう、いたいなっていう。この土地ってね、仕事が、仕事上がすごくこう、良いとしても、うん。だから仕事がメインじゃなくなっちゃってるから、もう。楽しく生きようっていう世界になってるから。

阿部 信也

阿部信也さんは丸平かつおぶしの代表であり、石巻元気復興委員会にも所属しています。 阿部さんにとって会社を続けるための「かすかな希望」とは。 実際水産会社はこっち加工関連の水産なんかは200社位あって、そのほとんどがまあ壊滅してるとそれで、みなさん当然施設も設備も、うーん、あと原料も5万トンくらい被害を受けてるわけ、全体で。金額にすると350から400位になるのかね。400億くらいなのか。その中で原料もない、設備もない中で、もう解雇せざる終えなかった。ただ打ちはたまたまこの建物が残った、んで上野3階部分は水が来ていないていう、うーん、ところだったんで、やっぱりかすかな希望って言うか可能性があれば、それはできるかもしれないと、まだ。でも内部も被害状況もわかんないわけだから、まだ。出来るかもしれないと、で、従業員もやると言っている。うーん。もう、だったら、やってみようかと。そんな責任感とか、まあ、うーん。その当時はあんまりそういう所よりも、とりあえずさっき言った従業員解雇せずにやるといった、ずーっと前にそう決めた、だからそういう風に忙殺されてたって言うのが現状だった。 他企業との話し合い、コラボ商品、情報交換などについて。 (話し合いとかってされたりしますか?) ん、ほかの会社と? それはえっとやってまして、復興センターとかで、最初はみんなで集まって業種は違うんだけど、こうやって銀行は貸し渋るねとか、どうなのとか、そっちはどうなのとかこんな制度があるんだけど使えないかとかそういう情報を共有する場として始まったんだよね。そこでそのだんだん水産商品も出来るようになって、じゃあちょっとセットにして売ってみる、じゃあって。一緒に大阪のシーフード展持って上がったんですけど、そこに、一緒にそこに行って、展示して売ってみようかとか。でそれがじゃあこんどはお店が出来るっていうんでじゃあちょっとやってみるかってだんだんなってきて。 だけどこう200社もいっぺんにやられたもんだからそういう動きで、一緒に売ろうか一緒にものを作ってみようと、うちも(1:17・・・・)といっしょにふりかけを作って2社で作ってひとつって名前で、味噌鰹節と合わせてごまもいれて、そういう動きとかもやってるし、そういうのがどんどん発展すればいいなと思って。 最初はやっぱり2,3人の(1:44・・・・)で共有しました。そういうのも、あの、がんばっぺ石巻っていうホームページにのってるから。一同みんな集まって、今、現在の情報、たとえば、こういう本部も、まあ社団法人化してるんで、こういう販促をして、大手の企業さんが販促として使いたいとか、支援する、とか支援するために使いたいんだとかって言う情報が入ってくる。それにもっと対応して、ものももっと売れると思う。そういうメリットがありますよね。一緒にやるって言うことには。 石巻のコミュニティーについて。 これは絶対必要さ。間違いなく、この町内でも避難所に、この町内の方々集まって、まあ俺は2カ月だけど、(0:17・・・・)あと、やっぱり反対した人もいるし、でもやっぱりばらばらじゃあなかったから、みんな助け合って最初、みんな水、飲む水もないんで、4時間ぐらい並んで、水をもらって、あとトイレの水も水が詰まっちゃうから、近くの小学校のプールからバケツひっくり返して、そのまままずトイレを清掃するとか、そういうはなしも、あとは、うーん、そうね。そういうのをやって、みんなでやっぱ一緒に、一緒で中央公民館みたいなフロアで、知り合いがやっぱいるわけですよ。そうするとね、あんまりうちはこうプライバシーとか言って(1:07・・・)もしなかったし、で、また、そうね、そういうコミュニティがたとえば阪神淡路のときにも、みたいに、復興、公営住宅を造っても、ばらばらになっちゃうわけです。公営住宅っていうと公平にしなくちゃなんないから、抽選で入る人を決めるとか。この地区の人だけ住まわしてくださいっていう、これはダメなんですね。いまはこここういった地区に建てる、ここに戻ってきた人は、まあアンケート取ったら7割くらいの人がこっちで出来るならそういう所に住んでもいいて言う人もいるし。そのほうがさ、だって、年寄り、70、80にもなって、ローンで家なんてまた建てられないでしょ。家は建てられないんだったら公営住宅でいいわって、家賃払うからって言ったって隣近所わかんないとかって、それで阪神淡路の時は孤独死とかさ、孤立死とか増えてくるわけさ。ここで誰がね、なんだあの人最近みてないなってなったら、ちょっと聞いてみるかってなるしね。

カテゴリー(地域別)

Access Counter

  • 79,727 hits