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家族

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三浦秀子・三浦明美 5

エピソード クリップ1 クリップ2 クリップ3 クリップ4 クリップ6 クリップ7 クリップ8 クリップ9 三浦秀子・三浦明美 クリップ 5 「家族で話し合って、自分はここに避難する、っていうことを決めておいた方がいい」

佐藤 和男 5

エピソード クリップ1 クリップ2 クリップ3 クリップ4 佐藤和男 クリップ 5 「(家族が)分散化された」「これから、家を建てて、また家族で生活するのは、ちょっと無理だと思う」

小野寺克彦・龍也 3

エピソード クリップ1 クリップ2 クリップ4 小野寺克彦・龍也 クリップ 3 「三世帯から二世帯へ。別居の理由は人それぞれ。」

阿部 優一郎さん

インタビュー一覧へ戻る 雄勝に産まれ育ち、震災時は福島で高校教師として働いていた阿部優一郎さん。 震災で母親と弟夫婦を亡くしたことを機に、雄勝に戻り、漁師としての家業を継ぎました。新米漁師としての苦労や復興についてのお考え、家族のお話など様々なことを聞かせてくれました。 浜の人は家族 Q: 急に漁師さんをすることになった時に、ノウハウとか前に教えてくれる先輩の漁師さんとかいらっしゃいましたか。 A: はい。まあ逆にそれがないとやれる仕事じゃないので、あのーまあ親父もまあずっとやってきた仕事ですしね。まあ私も無いなり諸なり、小さい頃一緒に観て、まあ、た、多少知ってた分もあるんですけど、自分がいざやるなると、やっぱりあのー生活のリズムがまずほら、180度違うような世界よね。まあ最近、ようやくになってようやく、体の体内時計がリセットされてきて、漁師の仕事にこう変わってきたのかなっていう感じで。で、やっぱ周りの人っていうのは、こう特にこの雄勝というところはあのー昔ながらのね、こう近所とのつながりっていうか、まあ結局浜の人がこう皆家族みたいなところがあるので、であのうちも、うちの家族がね、こういう状況になってしまったのも皆知ってますし、で、まあ帰ってくる、やるってなれば、こう頑張れってな形で、随分こう手を貸すことはなくても貸してもらうっていうことはかなり多くて今日に至ってますけど… 海に対する思い うーーん、まあいろんな思いありますよね。うん、まあやっぱりあのーこの浜で育って、やっぱこう、まあ漁師気質というか、こうなんかこう気持ちがなんていうか、こう荒っぽいような人が多かった気がして、でまあ自分がその中で育って、まあ教師の道になった時に、結構やっぱね教師になった時に、ここで育ったそのなんていうか、こう人とのかかわり方っていうかまあそういう風に案外教師の道こう活かせたりしてね。非常に雄勝に産まれて良かったなーって思うことも多かったですし、後はまあ家族とか、周りにいた人たちの影響とかはもちろんあると思ってるので、海のこう近くで育ってよかったなっていう風な思いもやっぱありますしね。 まあその反面あとは、こう津波でまあこんなことになってしまって…っていう風なことで、残念な思いというか、うーん、まあ家族返してくれよっていう風な思いもありますしね。ちょっと複雑な思いはあるかな。 雄勝の現状と未来 全然満足してないですねー。で、さっき言ったようにこう人がこう住んで、街っていうかこうコミュニティとしてのこう体をなしてないというか。もう今は言える事はもう、先がやっぱりないというか、もう今残ってる人たちの年齢層を考えると、特にここ数年で何かしらこう手を打つところはうっていかないと、もう人口の自然増っていうのは、もう望めなくなっているという現実がありますからね。で、そこで何か、それこそもう、もう少し若い人たちが、まあ秀平くんみたいな世代の人たちが、やっぱなんか住んでみたいなっていうか、やっぱ雄勝に戻ろうとか、まあ出て行った人たちもね。何かこう、そういうもうのを埋めるようなものをこう作ってくって事をしないと、ただやっぱりこう今残ってた、残ったお年寄りの人が亡くなってもう本当にこう限界集落とかって言葉で言われてますけど、まあそういう地域にだけはしたくないなっていう…思いは強いですよね。 インタビュー一覧へ戻る

佐藤 ちず子さん

インタビュー一覧へ戻る 雄勝町で生まれ育った佐藤ちず子さんは結婚後仙台から雄勝に戻り2人のお子さん、旦那さんと震災までずっと雄勝に住んでいましたが、震災後雄勝を離れ旧石巻市の東松島市に移転。 被災前の雄勝 あたし実家雄勝なんですけど、あの、私、父、両親とあとまあ、私3人兄弟なので、兄2人と私で住んでたんですね、前は。で、まあ、本当に家があって道路があって、目の前海だったんですよ。だから本当にもう5月ぐらいからちょっと暖かいと海に行って泳いだりとかして、まあでも今はその海もあのすっかり埋め立てになっちゃって、まあ、とうわさはなくなったので、そういうこともなくなたんですね。そしてのったんですけど、そうですね、あまり、うーん、まあ、不便だなとか不自由だなとかって感じる事は確かに、お店にしても、やっぱり大きいショッピングセンターとかそういう、まっこっちに買い物に来ないといけないし、病院にしても、うーん、やっぱりその病気によっては雄勝で診てもらえないものもあるので、結局こっちに来たり、あるいは仙台に行ったりってあるんで、まあ、不自由だなって感じる部分は確かにはありました。子供も家からちょっと高校に通えなかったりもしたんで、不自由だなって思ったんですけど、でもやっぱり暮らして、多分若いときの考えなのかなって今ね、ここに来て思うんですけど。やっぱりまあ、隣近所の付き合いはあるにしても、うーん、なんて言うのかな。まあ、静かに暮らすっていうんですかね、そういうのであればやぱり、あゆう所の方が、うーん、隣近所とのねお付き合いもちょっと濃密っていうかで。何にしろ、私の親戚も震災の後何人か残って、養殖、友達とかも養殖またしてるんですけども、やっぱりそういうのって頂いて、頂いて食べることも多かったんですね。だからうちの子供達なんかも、もうその味に慣れちゃって、こっちに着てからあの食べたいって言うんで、お店に行って買ってきたんですよ。そしたら「味が無い」って言うんですよ。美味しくないとは言わないんですけど味が無いと。あはは。うーん、うん。なんかいつもの味がしないていう、最もね海から取って数時間の内にはもう口にするんで、うーん。だから本当に最初ここに来た時はあのもうここは津波が来ない所だったので、もう本当にマックスバリューも開いてたし、あともうちょっとの農協さんがあるんですけど、そこも開いてたし。確かにお店に入れられる人数っていうのが限られてたんですね、やっぱり余震とかあった時のために非難のために、並んで買い物とかもしたんですけど。まあ、ある程度お金があれば何でもここは手に入るんですよ、不自由なく。でもやっぱり、そういうのを食べて育ってきた子供達とか私にすると、買ってまではなーここで買ってこれを買ってまではなっていう。うーん、ただ大きく変わったとは思いますよ。やっぱりね、年々人は減っていくし、皆さん便利さを求めるよりも自分が年を取った時の、あのことを考えてやっぱ出て、逆に出て行かれる方もいたと思いますので、まあ一概にはね言えないんですけど、うーん。でもそれでも反面若い人も戻ってきていたのも事実なので、うん、その、うん、まあ、何が変わった変わらないって言うのはちょっとわかんないですけどね、ただ、うーん、私達はずっとあそこで津波さえなければずっとあそこにいたんだろなって思うんで、うーん、と思ってました。 若者減少への想い まず働く場所がないですよね、それが一番ネックですよね。あと、まあ、地形的にもやっぱちょっと複雑な地形なので、だし、あと周りのその受け入れ側の考え方もあると思うんですよね。うん、やっぱり実家に戻って養殖しますとか、実家に戻って家業継ぎますとかって言った時に、やっぱり、あぁ良かったねって私たちは言えますけど、でもその家の当人はやっぱ先々の事を考えると思うんです、本当にこれで一生食べていけるのか、やっていけるのか。そうなった時に、いや、自分の代で終わりにするから戻ってこなくていいよって言う親御さんもいると思うし、うん、じゃあ息子が戻ってきたらもうちょと手広くしたいから戻ってこればって言う人もいると思うんですけど。だからやっぱり先の見通しが立たないから、うーん、戻る戻らないあの、その、ね、若者が増える増えないっていうのもあると思う。でも結構戻ってきてた人達もあったかな。あはは。うーん、とは思ってましたけどね。 雄勝のこれから 誰が行ってもうーん、なんていうんだろう、こう、本当にウェルカムな状態で受け入れてくれる様な所になってくれれば、もしかすると、その雄勝とは全く関係ない人も行って、住むようになるのかなーって。やっぱり昔ながらの田舎なので、やっぱりちょっとそういうところは、こう、集団意識じゃないけど、ちょっとそういうところがあるのかなって。 インタビュー一覧へ戻る

佐藤 美千代さん

インタビュー一覧へ戻る 雄勝町のてなこ屋商店街(仮設商店街)の少し外れたところに、トレーラーハウスで八百屋さんを構える「八百清」の佐藤美千代さん。家族のお話や将来への希望についてたくさん話して下さいました。 お店の将来 この3月の12日にここに、このトレーラーハウスで商売して、そして、一日も早く高台になって、このトレーラーハウスを高台に持って行ってあのー、震災前のような店番がしたいのさ。というのは、ほらこういう生活慣れないんだ。朝に来て、夕方帰るって。そういう生活は今までしたことないちゃ。だから今までだと、お家とお店が一緒だから、お布団も干せたし、洗濯物もね、外に干せたし、そういうので夕方になっと夕飯作りながらお店番をするって。それがね、何十年も続いてたから、こういう生活、本当にこういてて、あ、今日は何をすっかなってこう考えるのが精一杯で何にも出来ないものね。 生かされた命 だから、私も震災で、叔父、叔母、それから従妹、近所のおばさん、あと義理のお姉さんとかって一杯亡くしたけっど、未だにあの上んない人もあるんだっちゃ。見つからない人も。だからね、自分がその時自分も、一応泳いだけれども、一応助かったから、何とかね、その、助かった命をもう少し、ね、みんなのためにねー。みんなだってさー亡くなった人はさ、もっともっとさーいろんなことをやりたいって思ってたと思うんだよ。で従妹の人は私と同級生だから年金の話なんかしたばっかりなのね。年金もらうか、早くもらうかーとか言ってね。そうしてる内に亡くなってしまって、、、とにかくね、「生かされた命だと思って」。 本当に3.11はさ、亡くなった人と生きた人が本当に紙一重で、本当に何メートルか先に車が走っていた人が亡くなったり、もうちょっと遅れた人が、すぐUターンして山の方に行ったりっていうような感じがあったから。 唯一の楽しみ で今年はこのひな壇のそこの階段のとこで14人皆でとったの。それを撮って、あのー私が河北新報さ、7月から12月までのカレンダー、それに申し込んだから今写真ないんだ。で、毎年こう、私たち仮設で花見をしたりして、そういう何て言うのかな、みんな家族。自分たち二人っきりだったのがいつのこま14人になって、それが唯一の楽しみでねー。早く高台になって、その14人がみんなでさ座れるようなね、テーブル囲めたらいいなと思うし。今仮設さ行くと、14人なんか入らないからね。孫たちだんだん、だんだん大きくなってきて一回入ったの。ちょって、あと動かないでーとかって感じでとにかくね、狭いんだー インタビュー一覧へ戻る

加納 竜司さん

インタビュー一覧へ戻る 雄勝町にある店子屋(仮設商店街)でお寿司屋さんを経営している加納竜司さん。長い修行を経て開店したお寿司屋さんは津波によって、流されてしまいました。雄勝町でお店続けようと思った理由や雄勝の現状などについてお話していただきました。 伝八寿司を続ける理由 あのね、まずはその、外にあるんだけど、うちの看板すか。伝八寿司って同級生に売ってもらった看板なんで木のね、それが流されてたんだけど、なんか見つかったっていうのがまず一つで、あとうち卵焼きに伝八って焼印をしてんだけど、それがほんと店の、流された店のところに、地面に刺さってたのね。あれ、これって。そういうのもあったし、包丁とかも残ってたし。んで、まぁ一番はあの、食べ物屋さんがね、誰もやらないって言うんすよ。他の。要はあの、みんな歳なんすよ、60過ぎる人たち…俺が飲食店で多分一番若かったんで、でみんななんか、いや俺は仮設店舗になんかはいらねー、今更やったって無駄だべ、とかみんな…でそれでまぁ、まぁ雄勝に残ってる人たちにも、雄勝食い物屋ねぇと大変なんだろうなっていう話もされてたから。もういっぱつ、じゃぁとりあえずで、最初はね、でとりあえずやってみっかって。そんだけ大変だって言うなら。まぁ最初の動機はそうだな、でやってみようって…まぁ俺もほら、家族いるから。食わせていかないといけないからね。無謀なチャレンジはできないっすよ。 雄勝町に残るか残らないか あの雄勝に残ることに関しては、全然苦じゃないんですよ。まぁ自分が生まれ育った町なんで、全然もう、嫌だとかそういうのはないんです。ただ、うちの、なんていうんすか、家族がなんかまぁ、もう戻りたくねーっていうこともやっぱあるんすよ…うちの親とかは、その、一旦、今うちは俺ら雄勝にはいないんでね、河北町ってとこにいるんすけど、あの…その高台移転ってあるじゃないですか、そん時に、あんたら好きな方選んでいいよ、言ったんですよ、親に。雄勝に戻るのもいいし、こっちの河北町に残るのもいいし…そしたら迷わず河北町選んだから、なんでや、って言ったら、いや、もう今度あんな津波来たら逃げらんね、っていうのと、あともう病院もねーし、なにもねーし、大変、年寄には大変だと思う。 加納さんにとっての雄勝町 ああ、やっぱりねー。一番落ち着、落ち着くっていうのが一番かなぁ。でやっぱあの、やっぱり、昔っからいるし…で残ってる漁師さんとか結構残ってるし、別に雄勝いて、こう退屈するっていうことがそんなないすよね、うん。なんか普通にいる、みたいな。たのしい…楽しいわけじゃないですけど、まぁいて一番楽なところです。雄勝。その河北町とかにいるより、雄勝にいた方が楽だっていうことです。楽っていうか、気持ちが。まぁあんな津波とかもあったんだけど…一番いやすいところです。だから残ってるっていうところは、まぁそういう感じですか。 伝えたいこと ぜひ、機会があったら雄勝にきてもらって、自分の目で見てもらって、まぁ雄勝のいいところとか、あ、こんなに復興とかがこんなに進んでないんだな、とかを見てもらって、まぁ…こうなんつったらいいんだろうね、言ってもらいたいつーかね。まぁ自分たちも言っていきますけど、外の人にもなんか知ってもらいっていうか、かな。 インタビュー一覧へ戻る

太田 ふみ子さん

インタビュー一覧へ戻る 宮城県角田市で生まれ育ち、閖上へ嫁いだ太田ふみ子さん。仮設住宅における人間関係や、今後の予定、今の楽しみについてお話ししていただきました。 避難所での人との関わり Q:こういったお話は、今でも他の方と話したりしますか?昔の、その、震災当日の出来事を…? うん。 Q:そのときどうだったかとか、そんときどうしてたのーとか…? そういう話はね。聞いてたけどね。もう一寸、ひと。あと、ふた足走るの遅かったら、逃れなかった、とか、ねえ。そういう話はいっぱいね、さいさんもう、みんな持ってるだろうにねえ。あそこにこえ、うーん、旦那さん亡くなった人も。少し貯めといたお金、少しづつためといたお金、流されたーとか。あとからになって気づくのね、みんな。あたしらも、なん、財布のなかにいくらも入ってない。バックなんか持ってねえー。うーん、本当に。 Q:それをそのー、震災直後から色んな方と喋ったりできましたか? あー、できたのー。であのー、うーんと、次の日は、閖上の小学校まで歩いて行って。その歩くのも、もう、なんていうの、あの道路だからね。で、お母さんそっち見ないほうが良いよっていわれて。ああー、亡くなった人の姿見えるんだなあっていうの、思って、必死に、走ったけどね。あの道路の中どうやって走ったんだかとか思ってね。で連れて行かれたのが、うーん、バスに乗せられて、避難所、こっちの増田の方っていうと、立腰小学校ってあるんですけど、そこに避難させられて。そこにー、もうー、閖上の人いっぱい。一丁目二丁目の人たちー、かなあ。300人くらいいたのかなあ。そういう中で生活してねえ。 Q:そのたくさんの方と、一緒に生活されてたんですか? うんー。 Q:その中に知ってる方っていらっしゃったんですか? みんな…知ってる人もいれば、あたしも世間知らずだから、あんまり歩かないほうだから、顔は分かるけど、うんー、けっこうねえ、知ってる人はいっぱいいて。それでー、もう日にちが経ってくると、うちは、誰それが亡くなった、流されて亡くなった。あっちでもこっちでもねえー、もう。迎えに行って帰ってこなかったとかね。そういうー、みんなの大変な思い、後から分かってねえ。気の毒だったなーと思って。 Q:お互いこれから頑張ろうねえ、こういうことがあっても生きていこうねえっていうことを話したりは…? それはねえ、お互いねえ、気持ちには余裕なかったからねえ、これからどうなるんだろうっていう思いだけでねえ。でもー、そこの地域の人たちの支援とかーねえ、そういうの、こう、いっぱい、頂いたり、食べさせてもらったりねえ。そういうので、あたしたちは、後々、一番食べ物がよかったんじゃないとかって、うん、そういうことはねえ、うん、自衛隊の方たちにねえ、手伝ってもらったりしてねえ。 閖上に戻りたいか Q:太田さん的に閖上にまた戻りたいっていう気持ちはありますか? いやあたし、海って嫁に来た時から好きでなかったから。いやー、この際、こっちの方に来れたらっていう思いはあるけどね。うんー、戻りたいとは思わなかったね。孫たちもほら、同級生、仲の良かった友達が、上と下に一人ずついたったからね。だから、子供たちも、孫たちも行きたくない。娘たち夫婦だって多分おんなじでね。暮らしてきたけどね。うんー。 Q:その気持ちはやっぱみん、っていうのは変わらない?もう二年半経ってますけど、変わってないですか? 変わらない。今もウチの人、閖上に月に、ね、一回とかっていう、いうー、名取広報なんですけど、それを届けに行くのに、一件一件届けに行くのに、やっぱり一人で行くのは大変だから、乗り降りするだけでもねえ、うん。だから、運転してー、運転しながら付いて行くんだけど。もうすごくてねえ、あのー、んー、なんていうのかなあ、もう雑草でねえ。うんー。で、明るいうちはいいんだけど、夕方なんか行く時ー、あるでしょ?そういうとき、もう、頭痛くなってね、体が震えてきて、早く帰ろうって言って帰ってくるんだけどね、いつもね。うんー。 震災後の家族との交流の深まり Q:震災通して、家族と仲が深まったとか、旦那さんもそうですけど、やっぱそういう感じることってありますか? うーーーーん、そうだねえー。娘がやっと親の気持ち分かってくれ、分かってきたって。親の苦労分かってきたっていう風に言われたときは、やっと分かったのかー!なんて(笑)思うだけでね。なかなかね、感じないものだからね。まあー、夫婦、家族、上手く行けば良いなって思うだけで、ねえ。だから、お父さんには長生きして、ほしい。面倒見は良いし、優しいからね。 仮設住宅での人間関係 あたしってこう、人間関係に、こう弱いのかなあ…。あんまりこういうとこに行事あっても、うんー、仕事してるから尚更なんだけど…慣れないっていうか…。たまに来ると、こっちに来たらーとか、ああ珍しい子だーとかって。優しい声かけられるんなら良いけど、目で見ると分かるからね、そういうのが苦手だから、尻込みするっていうか。うんー。で、ここの集会場の中でもね、編み物だ縫い物だっていっぱいしてる人いるんだけど、私不器用だからなにせ。だから、うちにいたいって言うの、本当で。みんな行くの分かってるんだけど、来れない。 いつまでもごちゃごちゃこちゃこちゃって、こう、なんか、あーでもないーこーでもない、って一人の人を攻撃したりとかね。うんー、そういうこと。でも、その人の性格だから分かんないけど…。…あんまり上手く言えない。 Q:仮設に、で暮らしててそういうこと思うこと多いですか? 多いね、うん。だからこういうとこに来たくないっていうのも一つあるしね。 Q:仮設に、ってことですか? うん。…まあ、その人たちもみんなストレス溜まってるから、ねえ。一人一人性格も違うしねえ。うんー。…もっと大きい輪が欲しい、うん。 今の楽しみ(外の人との関わり) 今一番楽しみなのは、自分で好きなの…運動。頭良くないから、遊ぶのだけ好きだったから。学校にいるときから、運動が好きだったから。遊びに行くのに、うちの人にも、外に出ないとだめだーとかって、まあ、少し自分で言うのはおかしいんだけど、欝に近い精神状態になった時もあるから…色々ね。 今はレクダンスの方に、行ってってね。楽しんできて。昨日も行って、一日踊ってきたんだけど(笑)もう脳みそ固まってるわ、覚え、やっと覚えたなーって思っても、うちに帰ってくるまでに忘れたりとか(笑)でも楽しい。外にいるほうが楽しい。でもそういうおかげで、こう、みんな良い人に恵まれて、ほらー、シルバー人材センターでお世話になってる人にもよくしてもらってねえ、頂いたり、ご馳走になったり、レクダンスで会った人たちにはやっぱり、寄って行きなーって言われて、お昼までご馳走になって、夕方まで遊んでくることもできるから。今太ってきたんだけど(笑) インタビュー一覧へ戻る

須藤 徹 1

エピソード クリップ2 クリップ3 クリップ4 クリップ5 クリップ6 クリップ7 クリップ8 須藤徹 クリップ1 「若い年代が、外に出ました。見切りをつけて。子供が小さいとか、子供の環境ですよね」

千葉 恵子 2

エピソード クリップ1 クリップ3 クリップ4 千葉恵子 クリップ2 「中国に子ども連れて帰る事は簡単。でも家族は一緒に居た方がいい。」

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