アーカイブ

土地

This tag is associated with 8 posts

高橋 よし子さん

インタビュー一覧へ戻る 閖上生まれ閖上育ちの高橋よし子さん。旦那様の吉也さんと共に車で被災当日は逃げたそうです。 今の気持ち Q:今底上げとか復興案をする予定の上、危険区域が増えたりとかする部分で感じられることはありますか? やっぱりねあの今家残ってる人いるでしょ、そういう人達の気持ち私は分からない。やっぱり港のそばにいてる人達ら完全に新地、新地状態で流された訳でしょ、そんな人の気持ちもわかって、わかってもらわなくては閖上の人間としてはわかってもらわなくては駄目なことかなと私は思う。みんな一心同体だと思うね、そういうなったのは。残ってる人だって、あとそこから復興が遅れるんじゃないの。ポツポツと家があったんだよね。みんな同じように全額でお金貰ってるんだから。そういうことは考えるね見てるとね。あとやっぱり海の側にいた人が可哀想だったな、全部本当にきれいさっぱりないんだもん。ある人は感謝しなくちゃいけないんだよね。うん。。大変だから。うちの実家も橋渡ってこっちなんだけど、うち仙台市なんだけども、本当みんなきれいさっぱり流されたからやっぱり津波なんか来ると思ってなかったでしょ?だから2階にほらやっぱり残っててなくなったって感じなんだよね。まさか家がさっぱりねくなる思ってなかったからさ。きれいに、きれいになくなったのね。ただ一軒だけが一つポツーンとあったけど、なんか不思議とね、不思議と一軒だけがのこったのね。だけどあとは全部壊したけども。だからそういうの見てる、あっちの荒浜とかもみてるとやっぱ海の側全部きれい、きれいさっぱり流さってると、あぁやっぱり海の側って一番ぎせいが多かったよね。 今閖上の思い出 Q:今閖上の思い出、その他になにかそういうことありますか? 私は閖上の思い出っつうたって、なんもないね、別に。ちょっと物足りないかもしれないけど。ただほらあたしの場合はね、もう家から持ってくる物一つもなかったから、何も持ってくる物ないから、そこで思い出が終わったのよ。何も写真もなんにもないんだから。ね、子供達らの写真とかも全部。娘さ、アルバムとかの持って行き、小学校とか幼稚園のねあと高校そういうのアルバムとか持っていけばよかったなって思ってね。嫁さ行ったからわね。そしたらいいなんていうけどさ、なんにもないんだもんね。本当にそういうのがそこでは振り返った思い出の写真が見れないっていうのは寂しい、感じはするね。あとは私らのあの家からも全部、全部きれに流されたから、やっぱ写真、思い出の写真ゆうたって、全部なかったからね。だからそういうのはそこで終わったっていう、今からのスタートラインなんだわ。 Q:その新しいスタートみたいなのっていうんですか? うん、そうだね私は。だって振り返ったってしょうがないもんね。 住みたい場所 Q:もしもすべてが自分の思うようになるとしたらどういう所に住みたいですか? 私らはここの上だって言ってるだわ。あの市営住宅、元々あったところの、そこに建てたらいいんじゃないかなって思って。買わないって県だったかな。高いところ建てればこんなね、あとここに建てればなって言ってさ。やっぱりほらもう農家とかさ、知ってる人がここ買ってらいいのになって言う人もいるんだけどね。だからさ、待ってますただ。待ってるだけです、私達は。ただそれだけですね。 変わって欲しいこと Q:何に一番変わって欲しいですか?そういう自分が住みたいという所に住めないというのもありますし、自分がこうなにかしたいけどやはり待ってる部分で何に変わって欲しいですか? やっぱ市長が変わって欲しいと思うね。市長の市長のやっぱり自分って、なんていうの曲げらないんだよね。あの住民の意見を聞いてくれるような本当に市長であればいいのになって思うね、聞いてても。閖上の町っていうのをなくしたくないんだよね、多分ね。それはわかるんだけど、だけどだいたい家買ってる人はいっぱい十分の一でもだよ、十分の一だって戻りたくないのに建ててるっちゃ。ね。全体戻るとしたら100%の人だよね。でも十分の一だってさ、やっぱりあのそれだけの人が思ってるってことはさ、閖上を諦めてるってことだっちゃさ。諦めるってことは戻ってきたないってことだわ。だから、その閖上の町作りで作ったってどうしようもないんじゃない。名を残しとけばいいじゃないね。昔はこの、こういう町がありましたよって何百年先に灯を建てるとかさ。 復興案 Q:高橋さんにとって復興とはどういうものですか? 復興。。難しいな 復興 Q:市長の復興っていうのは勝つ上げしてみんなを閖上に戻したっていうことだと思うんですけども、高橋さん自信の何か復興っていうものはありますか? やっぱりこういう仮設に住んでるよりはね、ちゃんとした落ち着いたところは住みたいね。それが目的だけど、ただ場所がわかんないだけの話。私らはもう何もできないからそういう所しか縋りようないから、そういうとこさ住むほかないからさ。それだけだよ 伝えたいこと Q:然震災の状況も知らない方になにか震災を通して伝えたいことはなにかありますか? そういうことになったら逃げる事だわね。地震来たらわ。そして安全な場所っていうけど、自分で周り確かめてみてさ、ここだったら安心だとかっていうの確認しておくのも大切なんじゃないの。まあ一つのあれとして、参考として。もうやっぱり自分で地震で安全な場所っていうのはね、それを確かめる、ここさ避難しなさいとかあるけども、もっと別な場所があるんじゃないかとか覚えといたほうがいいんじゃないかな。 インタビュー一覧へ戻る

菅原 忠男さん

インタビュー一覧へ戻る 仙台市出身の菅原忠男さん。閖上出身の奥様とご結婚されてから震災まで30年間程住まわれていました。震災があった時も閖上でお仕事をされていたそうです。 閖上に戻りたいのか Q: もしも閖上に戻れるのなら戻りたいですか? うーん、三割くらい。みんながさ、私も戻る私も戻るっていうなら戻ってやる。あの、孫おいてね。まごは絶対行かないって言ってるから。孫はひとり部屋ほしいだべがらまえそいなだったからね、なおさら。もどるったてね三割くらいだな。だってわたしだけ戻るったってね、戻んない人、隣近所にいないっちゃな。もどっても。津波あるんでないかなって。人がいて一番だと思うけど。 昔はね漁師町だからね、やっぱり良かったよ。あの、友達付き合いだの、家のばあちゃんだちも、女房も魚売りしったからね。あの魚かごに背負って仙台の町の方に。あの頃だのやっぱり閖上が最高だったんじゃないですか。私ちゃっこい時いなかったからさ。でも聞くと、閖上の町って言うの、なんて言うの、して漁師の町だからね。お金は、金持ちっていうか、金持ちの人結構いたんだよ。 あーもう、閖上っていうと一丁目から七丁目まであったのね。それで仮設っちゅうのきめらったっちゃ。この辺のこの仮設は三丁目と四丁目の人が集まったのね。あとたまにどっからか入って。だとやっぱりすぐ仲良くなったね。して別の仮設なのいろんなところからきてるから、全然合わないっていうかね。 町のつながりっていってもそうでもないんでね?私だも閖上朝市あるんだよね。毎週日曜。あと日曜祭日。毎週行ってたんだよね。だってうちから歩いて5分くらいで行けたから。やっぱり顔ぶれ見るとあんまり地元の人来ないのね。だから今なんてなおさらなんでないですか。あっちなったからね。だけど今また閖上に戻ったから。やっぱりそういうのあるとね集まるんですよ。朝市、閖上の朝市有名だったんだよ。80件くらい出たんだから。朝6時ころから。今はね遅くなったんだ。9時じから1時ころまで。前は10時から1時ころまで。今はね7時ころから1時までだからなんていうのお昼だのも食べさせてお金いくらかね。だから延ばしたんだよ。で結構そいなの食べれば金になっからね。町おこしっていうかねそういうの。 いまでも行かれますか? たまに。ちょこちょこ。だから今度まえの市場んとこになったから、いってやっかなと思って。先週あたりからね、戻ったのね。 私たちもグランドオープンなった時たまたま行って。たまたま。 ああそうなの?なんちゅうか豚汁かせたりね。あとさんまだのね。さんまの季節の時はさんまかせらっだり。自分で焼きながら。 変わったっていうか亡くなった人たちが多いからなおさらでないの?だれだれさんなくなったってあっちこっちでいうから尚更あいなったんでねかなって思うのね。だってもうね、起きてしまったことなんだけどね。やっぱり今からがねあれなんだっちゃ。元気ださねとね。年寄なんてなおさらね。しょぼーんとしったってね、ますますあれなっから。私たちあれしたって、年寄のひと元気ならないもんね。年寄の人は一人でいるから具合悪くなって救急車で二回くらい助けてやったのね、救急車よんで。うちの棟の人まだ40くらいの人。風呂入って具合悪くなって。しておらいさ走ってきて救急車呼んでけろって。して頭の方手術して。でにかいぐらい手術して助かったけどね。やっぱり家さ閉じこもった人だね。やっぱりどうしても、そいな人なるんだね、やっぱり。そいな人ももっと、そいなのふえっと、もっとああなんでかのかなって思うよ。人の関係もね、もっと。 インタビュー一覧へ戻る

菅野 勝子さん、菅野 貞二さん

インタビュー一覧へ戻る 夫、貞二さんはもともと閖上出身で、妻、勝子さんはもともと閖上出身ではなく、お嫁に来てから30年以上住むうちに閖上が彼女のとってのふるさとになったと語っています。 集団移設 昔からの生活習慣とか、お祭りだったりとか、イベントあるじゃないですか、地域地域のお正月、お盆ってこれからもやっていこうと思うし、どこに行ってもね。だからあそこの現地復興じゃなくて、せめてみんなが言ってるように、東部道路よりも西側にいっぱい田んぼがあるんだから、そこに閖上の町を本当、そんなね、そんな学識経験者や市役所の人が言うように、商店街だとか、医療施設だとかそんな学校なんかつくったって、学校にいく子供達のいる親はだれも帰りませんから。家の息子からはじめ、子供達、あんな思いして小学校の屋上ににげたじゃないですか、あんな恐ろしい事経験してるのに、また閖上に立派な学校作りますからなんて言ったって、誰も帰りませんよ、小学生いる子供達は。 震災前の閖上は人情味とかいっぱいあって、私は嫁に来て三十年経つんですけど、実家で生活した歳月よりも、嫁にきてからの方が長くて、本当にいま自分ふるさとって言ったら実家よりも閖上なんですよね。 そうですね、私たちはありました。親戚もすぐ近くにいっぱい住んでいましたから、あの昔のようにね醤油とかなかったらちょっと貸てとか磯切れたからかしてとか米きれたから貸してとか、ちょっと頂戴ぐらいなかんじで気軽に言える感じはありました。銀行なんかも閉まったら今はコンビニなんかでお金おろせるけども、今お金ないかなちょっと貸してとかそういうなんて言うのかな、昔の長屋みたいなね、繋がりはありました。今もハーモニカ長屋なんですよ。ドレミファソラシド、八世帯が一つになって、ハーモニカ長屋なんですよね今、でもうち息子と息子達の夫婦と私と三世帯借りて入ってますから、その中で一号棟だからあんまり気を使わないんですけど、大きい声だしたりどんどんって響くからね、気使いますよね、私たちは端っこだからいいですけど、孫とかまだ小さいから迷惑かけてないかなとか、気使いますけど人との繋がりはみんないいね、おばあちゃんとか、隣の奥さんとか、人間関係ではあんまり。 食べ物はね、家の避難所に行くと名取市内の避難所で自炊してた避難所なんですよ。他のは自衛隊の人のが作ってたのを食べてたんです。 私たちは、班を、とにかく、震災後一週間まで班を作ったんです。一班から何班まであったんだろう。班を作って、三班までは食事当番、四班からはお掃除たくの、トイレ掃除、あとはカーテンあけとか、交代でやってたんですよ。だから朝もう五時半に起きて、はんから一人ずつでて保健室に行って、ご飯で多いときに一日いっとさんじょう、一升の十三倍こんな釜で三つ炊くの、こんなでっかい釜で。みそ汁もおんなじおっきい鍋で三つ作って、あとおかず何したらいいか、支援物資が最初はなかったんだけど、野菜とか飲み物とか缶詰とか来て、自分で頑張って考えて、マヨネーズなんかもあったからね、素麺ゆでて、色んなもの入れて、鍋作ったりとか、そしてそれを男の人呼んで作ったり、体育館に分けてテーブル並べて、五時ですから皆さん並んでください。子供さんから、子供さん、お年寄りって感じで並んでもらって配るんですよ。そうすると大人でも子供でもお年寄りでもお皿を持ってくるんですよ。洗えないからラップを引いて、おかずと漬け物とみそ汁とあと自分でちゃんともってきてそれもってきて自分でちゃんと分けてもらう。もうね、いっぱいとにかく分けてあげる。普通だったらこんな一膳ちゃわんに一杯くらいしか食べないでしょ?それがね、二膳以上のご飯をよそって、それを持って帰る訳じゃないですか。で、それを私たちがみんなに分け与えるの。まだ残ってますからどうぞってマイクで言うんですよ。おかずも残っています、ご飯も残ってますおかわりしたい人どうぞっていうと、わーっと来るの。自分たちのこんな大量のご飯をわーって食べちゃっておかわりを待ってるの。おかわりっていうと一斉にもらいに行ってまた食べるの。 インタビュー一覧へ戻る

菅原 則子さん

インタビュー一覧へ戻る 閖上が大好きな菅原 則子さん。ご結婚されてから12年間は仙台で過ごされたのですが、やはり閖上がいいとなって旦那さんを引き連れて閖上に帰ってこられました。 閖上の人間関係 やっぱり隣近所、兄弟達よりもやっぱり隣近所がいいみたいで、よくお茶飲みに行ったりとか、よくそういう風にしてましたね。よく隣のうちでも、うーんと、何年か前に引っ越して来たんだけども、引っ越して間もなく、とけ込んじゃって、行ったり来たりお茶のみしたりとかしてますね。で、今もやっぱり津波になってからも、近所の人たちとおつきあい、ここにいないんだけども、その人達はみなし家庭にいるんですけども、そこにいってあそびに行ったりはしてましたね。 閖上の人たちが集まれば閖上に そうだと思いますよ。やっぱり昔からの人たちだから、なんていうの、その、こう閖上の人たちの集まりって言うね、よそからあまり来ないでしょ結局、引っ越して閖上の方に。なかなね。閖上の人が地元に戻ってくるとか、だったらばあれだけど。あんまり閖上によそから引っ越してくるとか無いんじゃないかしらね。だから閖上の人たちが集まれば本当の閖上の町、になるんでないかしらね。 やっぱりみんな閖上の人でないと閖上の土地って言えないんでないかしら。 インタビュー一覧へ戻る

荒川 裕一さん

インタビュー一覧へ戻る 生まれも育ちも名取市閖上の荒川裕一さん。閖上への思い、震災を通しての経験や現在の心境を語ってくださいました。 閖上の魅力 楽しかったね、閖上っていうのは。まあ、自分んちの前バス停だったから賑やかだったんだよね、ずっと。朝から、だからそういうのでもね、今何時ですかーって聞きに来たりね。ははは。 Q: 荒川さんの所のドアって開けっ放しとかだったりするんですか? だいたいはね、開けっ放し。余計バス通りだからね、開けっ放しで。鍵けるのは夜だけ。寝る前にかけて、そんな感じだったね。 Q:いろいろおすそわけとかもあったり・・・ うん、だね。小さい頃から魚とかはね、いろんな人からもらえてね。そういうのはあったよね。まあ、あの人しばらく見ないんだけど、どうしたんだろうねって、話になるね、表にでるとね。うん。 震災直後の様子、避難所での生活とは… ほんでその夜だよね。閖上に行こうとしたんだけれども、もう息子から電話きて、閖上ないよって言われて、でも自分は信じられないから向かったんだよね。ほんでやっぱり行けなくて。そしてしばらく1時間くらいねどうしたらいいかわからなかったの。うん。どうしようかなって。避難所っていう(考えが)の頭になかったの。そしたら、あれって避難所ってあるよなって思って、で名取に来たんだけれども、そしたら文化会館っていうとこだけが非常灯ついてたのちょうど。そこに立ち寄ったら人いっぱいいるのね。そんで一人だしねまあ、俺よりもねやっぱり年配の人たちもいるし、その人たちも立っているし、ここにいてもダメかなあって思って、市役所に戻りに行って、ええ。でそこは電気もついてたしテレビもずーっと見ててね。幸いにそこに暖かいコーヒーがあったんだよね。自販機があって。だからそういうのでね少し助けられたんだなって思って。避難所にもうねえ3日か4日くらいしかいなかったんだよね。 Q: 寝る場所って布団ひくだけとかですか、それともなんか段ボールの上とか…? そうそう、段ボール、毛布ね渡されたんだけれどもやっぱかけないでみんな敷くんだよね。だからそれをみんな敷いて、まああと知り合いの人からね、毛布とか布団よこされる人はそれをかけていたけれど。ほとんどはみんな敷いてたね毛布。俺行ったときはもうなかったのかなあ。毛布。確かなかった。 Q: そしたらもうじゃあ地べたに直で? うん。俺はね、その震災の夜と次の日の夜はねずっと寝てないの。結局閖上もどうなっているかもわからないし、そしてそのころまだ母親の消息っていうのはわからなかったからだから気にはなるし、なんか寝付けなかったね、ずーっと。 閖上への熱い思い で閖上に戻ってきたくもなったよね。一人になれば。他に行く気にはなれなかったね。閖上に行ってまたみんなと会えるんだあって思って。閖上好きだしね。 Q: 閖上の何が好きですか? 何がってねえ。まずね、海が近くにあるっていうのがいいよね。そして車があれば便利だしね、閖上は。友達とも会えるし。近所の人たちともなんもトラブルなくやっていたしね。知らないとこに行くよりはやっぱりいい閖上の方がね。 仮設での生活 まずここ来てね一番はまずほっとしたね。自分が落ち着いて寝れる場所があるって。気を遣わずにねただやっぱねこういう作りだから物音とかそういうのを気にしながらなんだろうなって思いながらだったけれども、でもほっとしたね。だって好きな時に横になれるし、風呂にも入れるし。だからそんでもねまだ閖上の多くはまだ仮設に入れない人がいっぱいいたから先に入って申し訳ないなあっていうのもあったしね。 これからの閖上 今?今ね、わからない。たぶん戻らないかも。戻ってもそんな知っている人いないんじゃないかなって。俺もともと現地再建っていうのも嫌だったからね。本当に安全な現地再建だったら戻るけれども、今のあれではね。また津波が来たら浸水しってなったら嫌だよね。 将来ねえ。だから閖上がどうなるかだよね。なにも見えないから不安だらけ。未来に関しては。 Q: 荒川さん自身はどんな町にしたいとか、閖上を思いますか? だからね、本当だったらね、前くらいの震災前の人口に戻らなくてもせめてね、5000人くらいは戻ってまたね、わいわいやりたかったっていうのはありますね。 震災を通しての人間関係の変化 あのね、特にあれだよね、親戚関係。今までだったらね閖上にいたころっていうのはもう何かあるたびにちょくちょく行ってたけど、今全く行かなくなったしね。よっぽどなにかないかぎりね、不幸あったとか、祝い事があったとか、っていう以外は会わなくなってるね 。前は普通に合えば挨拶とかもしてたけど。親戚すらね、どこに住んでいるかわからない人もいるし。まあ遠い親戚だけどね。 Q: 連絡とかあんまり…? だよね。本当に連絡先とかもわからないし。今って本当に血の濃い親戚だけしかわからないよね。 Q: それは震災でバラバラに バラバラになって、ええ。 震災を通して、今後、人々に伝えていきたいこととは… まずね、伝えたいことっていうのは本当に風化させないってことだね、このことをね。自分だってそうだったのかもわかんないってあるんだよね。いろんなこと、いろんな自然災害、事件事故もだけど。それを自分たちがどう頑張ったら本当に忘れずにいくのかなっていうのはね、もっと考えないといけないのかなって思うんだね。そして今から閖上の町がどうなるかはわからないけども、閖上の町っていうのはこういう楽しい町があったんだっていうのを、それもずっと伝えていかなきゃいけないのかなって思うよね。まあ、あと今からだと思うんだよね、いろいろわかってくるのが、もっともっと。ええ。今はまず、あれだよね、落ち着いてはきたけどやっぱりまだ何をしたらいいかっていうのがわからないよね。うん。ただ本当こういうことがあった、そしてこういう町があったっていうのは、覚えてるだけじゃなくてもっと伝えていきたいね。今はそう思うね。 インタビュー一覧へ戻る

大貫 満喜子さん

インタビュー一覧へ戻る 生まれも育ちも閖上だが、一度そこを離れた大貫満喜子さん。戻ろうと考えていた時に震災が。彼女が閖上に込める思いとは。 閖上の好きところ なんだろうね。全部ひっくるめてなんじゃない?人も、あの、場所も。くうきも。風も。全部。だ、これがっていうのはないね。全部総合的に好き、うん。嫌いなんだけど好き。わかるかな。あのね田舎町って最初に言ったじゃない。田舎だからこそ人間関係もちょっと複雑なとこもあったりするわけ。 これからの復興について まあね、元に戻んのは当然無理なんだからさ。やっぱ1から作るわけでしょ。それはみんな楽しみながらやればいいのにね。結局昔だってそれなんでしょ。閖上って昔から本当に古い歴史はあるんだけど、古いものは何にもないのさ。つまり何回も津波の被害にあってるんでしょ、おそらくは。当然のことながらだけど。てことはさ、流される度に作り直してるわけじゃん。だったらもう一回作ればいいんじゃない?それもそんな色んなしがらみなくさ。今一番問題になってるのは、名取市は現地復興とかいって、だから話矛盾すると思って聞いてると思うんだよね、きっと。なんで私が名取市に対して敵意をもってるかっていうところ。現地復興ならそれでいいじゃないかって思うかもしれないんだけど、結局なに、行政側のほうでこうしろみたいにして作られたものの中に戻っていくていう感覚はどうなのかなって思う。もちろんほら、一人ひとりで難しいのはわかってるし、行政はそのためにあるから、まずはレールを敷いてそこに住民の戻るっていう。それはわかるんだけど、なんか強制連行みたいなやり方での現地再建案っていうのはちょっといただけないんでないかなって。みんなが自然に戻りたいとか、戻るっていうふうな、風に作ってくれて、それで初めてみんなで楽しみながらね、いい町作りができると私は思うんだけれども。そうでないじゃない。ここじゃなきゃいけないとか、それも嫌がってる人まで無理強いするような感じで戻そうとするでしょ。そういう意味ではいい町なんか作れないもんね。だから楽しくね、本当は明るく、前向きに、もう一回一からやればいいだよね、別にね。そんなかさ上げ、まあかさ上げは安全性っていう意味では必要なのかもしれないけど、そこまで行儀よくしなくていい。逃げるとこさえ作ってくれればいいと思うし。そんな大きい商店街、なんだか今日も見たけど、なんかね。円形のもの、すごい商店街作りますって。そんなもの最初に張り切って何なのって。そうでないんでないのって。住みたいなって、戻りたいなって思わせるようにしてくれなきゃね。そういう風になんないといけないし。 生きていくうえで一番大切なこと なんでしょうね。うん。まあつながりとかじゃないかな。うん。ちょっとね色々話しながら、さっきのほらあんまり良い事なかったみたいなね、あったけど、そういえば一つあったなっての思い出したの。それがやっぱつながりかな。それこそ震災がなければ出会わなかった人たちもいっぱいいるわけよ。閖上の人も含めて、ボランティアの人も含めて、支援してくれる人も含めてね、こういうことがなければ絶対一生会わなかっただろうっていう人いっぱいいて、そういう人たちの顔が浮かんだのね。そういえばそうだったと。今でもずっとねいい付き合いをさせてもらってる方もいる。全然目立たないんだけどね、そういう人たちこそでも、だからもっとポッと出てくれればいいのにさ。本当に継続してやってくれる人たちってね、あの、それこそマスコミとかに出てこないのよ。陰でひっそりとやる、地道にやるからこそ継続するんだろうしね。そういう人たちはありがたいし、今も繋がってますね。そんなもんぐらいすか。 閖上の復興が遅れていることについて 閖上は住民が悪いから復興遅れてんだみたいなさ、見聞きするの。見たくはないけどやっぱ気になるから調べるそうなんね。決してそうではない、決してそうでは ないっていうことを知ってほしい。みんながみんが反目しあってるわけじゃない。みんな町が大好きで何とかしたいって思いがあるがゆえに色んな議論してるだ けで、そこの合意形成をするための調整役が本当は行政であるべきなのにそれをしようとしなかったからここまで来ちゃっただけの話で、住民がみんながみんな いがみ合ってるわけじゃない。本当はみんな閖上が好きで良くしたいからやってるだけだってこと知ってほしいかな。ぜひおいでませ閖上、みたいな感じ。 メッセージ まずはやっぱりぜひ来てほしいと。まずは現地に来てくださいと。どういう町なのか想像してね、車でこう通り過ぎるんじゃなくて、歩いてほしいの、そこにどれ だけの人が住んでどういう町だったんかって想像しながらぜひ足を運んでほしいなと思うし。まあね、みんなが楽しく暮らせるような町づくりになるように見 守ってほしいなと。 インタビュー一覧へ戻る

赤間 直哉さん

インタビュー一覧へ戻る プロパンガス屋として働く傍ら、アルバイトをし、たこ焼きを売っている赤間直哉さん。過去に消防団員でもあった彼の見る閖上とは。 震災前の閖上 Q:震災を経験されて、さまざまな思いをしたと思うんですけども、閖上という町はすごくみなさん仲が良いっていうのも聞かしていただいたんですけども、震災前は閖上っていう町はどのような・・・ うーん、結局ね、小さい町だし、昔からのある町なんで結構、みんな親戚なんです。うん、誰かと誰かが親戚で、誰かと誰かが親戚という、もうどこの子やって言ったら、こうルーツ、二三代聞くと、もうバレちゃうみたいなそういう地区だったんで、うん、あそこのあーなん、あそこのあーなんだぞやとかもう、すぐバレちゃうんで、まあ極端な話は、悪いことできない。うん。もう小さい町だから、噂も早いんですよね。あそこのあいつが自転車盗んだんだとかね、ま、お金盗んだとか、そういうのを代々言われ続けるんで、間違ったこともしちゃいけない町っていうかね、そんな感じでした。うん。で、しょ・・さっきも言ったように、子供の、幼稚園の時から中学校まで全員一緒なんです。うん。どっからも、間違って、転校ね、家が変わってここに閖上にきて、一人二人入ってくるけど、ほとんど閖上の人だけで、幼稚園から小学校、小学校から中学校って。全然変化のない町でしたね。うん。だからさっき言ったみたいに、長沼さん(愛島仮設の方)とかね、歳近いし、けっこう、なんちゅうか、上も下も知ってます。 みなし仮設について Q:私たちの、今までお話聞いた方々は、やっぱり、仮設に行かれた方々・・・のお話、がほとんどだったので、仮設ならではの、こう、大変なこと、なんか隣同士の壁がうすかったりとか、物資の、まあ、取り合いじゃないんですけど、問題とかそういうのがあったんですけれども、みなし仮設ならではの、また別のなんか、大変だったことってありましたか? ああ。俺は、おれは、ですけどね。あのー、今まで集団生活したじゃない。2か月という、ねえ、体育館の中でさ。そいつがアパートに行って、果たして、なんちゅうか、暮らしていけんのかなという不安はありましたね。うん。あそこにいれば、黙ってご飯食べれてね、ところが、アパート代払って、仕事もそんなにしないで、このまんま食っていけんのかなっていう不安はありました。うん。あれ、それで良いのかな(笑)。うん。 どういう町になってほしいか Q:どういう町にしたいという、なにかこう、なんかありますか? うーん。どうだろうね。落ち着きたいね、早くね。うん。あの、こういうふうに、こういう、全部、新しい家(うち)にならないでほしいな。全部新しくなっちゃうんですけど、うん、なに、俺、何がよかったっていうと、適当だったんです。新しい家も古い家も。全部あって。うーん、落ち着いたんですけど。こう、全部新しいと、落ち着かない。うん。 実は、ああ、名取市内にも結構昔できた団地、ってあるじゃないですか。そういうとこって40年くらい経つと、一気に、一気に寂れて、一気に子供たちも一気にいなくなる・・・なってるんですよ、要は分かりますかね、こういう町って、こう30代40代の人がガーンと土地買って、住んで、で、そういう人たちが子供産んで、一気にいなくなって、終わり・・・な町が多いんですよ。 ところが、閖上っちゅう町は、うーん、ぐっちゃぐちゃ、だったから、まあそれなりに過疎化してたんだけど、こう、若い人が戻ってきたりとか、こう、そんなの繰り返してたから、こう、一気にある年代から、40年後たっても、そのまんまみたいな、ちょっとずつは高齢化してますよ、日本全部が高齢化なんだから。ただ、新しい町って一気じゃないですか、40年後経てば、家も全部古くなってて、住んでる人も、うーん、30代が70になってて、子供たちは全員いなくなってとか、そうはならないでほしいなあ。うん。ただ、過疎化はしてたのよ。うん。子供たちは、一クラス、一クラス例えば、40人守れなかった、それぐらいは過疎化してました。正直ね。ただ、そういう町だったのにも関わらず、若い人たちが西に行きたいって言ってんのにね、あっちに行こうとしてる計画じゃないですか、そうすっと、戻る人どれだけいんのって。子育て世代がね。それが心配です。 インタビュー一覧へ戻る

MSR 佐藤 雅典 6

エピソード クリップ1 クリップ2 クリップ3 クリップ4 クリップ5 クリップ6 クリップ7 クリップ8 佐藤 雅典 クリップ6 「戻りたいんだけど、どうしようかな、と悩んでる人もいる。だから戻って先に生活を始める。」「地元の人が戻るのはすごく大切」

カテゴリー(地域別)

Access Counter

  • 79,727 hits