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名取

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高橋 吉也さん

インタビュー一覧へ戻る 震災前はタクシードライバーとして閖上の方々と交流を持ちながら暮らしていた高橋吉也さん。今はタクシードライバーやマイクロバスの運転手の他に内職のビーズ作りをして販売を行い復興支援にも協力しています。閖上の将来に熱く語っていただきました。 閖上での人付き合い Q. 震災前の閖上っていうのはどんな感じでしたか いやあいいとこだよ。静でね、釣りもできるし、あとその日散歩してもなんていうかこう仙台みたいな町ですよね。だけど、ささってできるしさ、車だって混まないし、いいとこなんだよ。 Q. みんなで交流とかも うん、ありますよ。うん。だから特にタクシーもしているから顔も知っているってこともあるっちゃ。それでしゃべったりさ。 Q. ご近所付き合いとかやっぱ家族のように仲良かったりするんですか? うーん近所付き合いっていうのはあまりしなかったかなあ。うーんだっておらはよそ者だから。生まれは仙台だから、仙台市だから。でそこさ45,6年なんだけど、だからあんまり交流はなかったね。 Q. それは住み始めてから40年とか経ってもあんまりなかった…? うん。だから近所とかはお茶のみとかするんだけど、あとちょっと離れたら知らないじゃないですか、やっぱり。行ったり来たりね。 仮設生活について Q. 早く仮設に行きたいっていうのは そうそうそうそう。だから今は極楽って、極楽って言えば、うん、ね、そういうもんだよ。うん。心配するわけではねえもん。ここは病院はある、買い物は楽、みんな近場にあるじゃないですか。だからここより本当にいいとないと思うよ。ただまだ、その復興して、戻ろうとしても、本来ならば戻りたくないの。なんにもない。んで、市役所だって本当になんにもいつもなくて、今までずっとずるずるべったりで、2年半経つ、過ぎたんだわ。なにやってんだっていうのが本音なのさ。 閖上の将来 Q. 今後閖上ってどんな町になっていくのかなって 閖上の町を作ろうとしているんだけれどもたぶんできないと思うよ。今後10年、20年経っても。だからそうなったならば、県の方からそれから国の方でか、ソーラーパネルを作って電気を作ったらいいんでないかと我々は思うわけよ。だからなんも住む人いないけんな。空き地でしょ。津波来たらまたなるんでしょ。そうなるんだったらソーラーでも電気を送って、国さ大きくすればそれで済むことだ。それはそれでいいんでないかと我々、俺の考えはだよ。だからみんな助かるし。あとは何、あの東道路っていうのかな?高速あるところのこっち側さこういうの丸さ作って町みたいなのを作ればみんな戻るんだから。それが東側だって埋め立て、あの、津波の来たとこさ、公営住宅だ住宅建てたって戻る人も少ないってことなの。みんな流されてね、1丁目まで、1丁目まで流されて誰も住むっていうのはあんまりないじゃないですか。でももう我々はもう死んでからもう1回来るから、いや俺たち、あんたたちの時代だから今度。そうなった場合はだからどういうふうにすっかって。そこなのよ。 インタビュー一覧へ戻る

長沼 俊幸さん

インタビュー一覧へ戻る 水道業をしながら語り部も行っている長沼俊幸さん。1番最初のインタビューだったので閖上についてお話していただいて、震災前と後の変化や、閖上のつながりの強さやコミュニティーなどを教えてくださいました。 閖上という町 Q. あの、閖上で、あの51年間過ごされたということなんですけども、私たちどういう街かっていうのを私たちも知らなくて、あの、少しでもいいので・・・ はい、うん、まずね、閖上ってまちはね、まーもちろんみなさん今日行ってみて分かると思うんですけど、あの、閖上っていうあの、港町ですね、。漁師さんたちのまち、まぁ今は漁師さん少なくなりましたけども、もともとは漁師さんたちのまちで、栄えた漁、栄えたまちですね。やっぱちっちゃいまちで、ああいうちっちゃいまちなもんですから、ほんとにみんな知り合い、あー、知ってる人、顔見知り。まぁ、元をたどせばほんとみんな親戚みたいな感じになってるところでね、ほんとに今考えればね、いいところだったのかなって、思いま、 まぁ、もちろんいいところだからこそ、50年も私いて、今でも閖上に戻りたいって気持ちで思ってやってきましたんで、ほんとにいいところでした。隣近所もみんな、みなさん知り合いだし、だから、今仮設に私は自分の家族、あとー、私の親、じいちゃんばあちゃんも一緒にいるんですよね。で、じいちゃんばあちゃんたちがやっぱ閖上にいれば、なんぼ年とってもいくら年とっても、少し体が具合悪くなってもどっかに散歩しにいくわけですよ、年老いてね。で、お茶飲みに行ったりどっかに散歩しに行ったりね、で、そういうときに万が一ね、どっかで事故が起きた、どっかで倒れてた、具合が悪くなったっていっても必ず分かるんですよ。どこのじいちゃんどこのって。そうすると誰かしらが連絡よこしてくれるわけですよね。そうすると私たちみたいな、若い世代、働いてる世代の人も、じいちゃんばあちゃんを2人で置きっぱなしにしても、心配なく仕事に行けるわけですよね。そういうね、いい町だったんですよ、安心なね。子どもだってそうです。子ども育てんのにも、どこの子ども、どこの孫ってみんな分かるわけですよ。だからなにか子どもたちが悪さをすれば周りの人達が怒こってくれるし、すぐに、もー話は聞こえてくるしってことでね。そういういい町だったの。んー、だから 今もこうやって私が、私たちの年齢ぐらいの人で、震災があって今仮設住宅にいるって人は少ないんですよ。みんなやっぱそれなりにね、もう2年も経ったんで、ある程度目鼻立ちをつけてどこかに引っ越す。あとー、自分で家を建てるっていうことしてる人が多いです、たしかに。んー、でもやっぱり私もそれはしたいんですけど、実際やっぱりその、あのー、私の親たちが嫌なんですよね。そういう知らない、自分たちの知らない、誰も知らない町に行って生活するって事が嫌なんですよ。で、まぁ、自分の家にいるよりは、そういう知らない町に行って暮らすよりは、ここにいて、みんな閖上の人たちと一緒に暮らしたいという思いがあるわけですね。 閖上のつながり 孤立したとこだったのね。俺たちの親父の年代がそうだったのね、だからそれがずっと続いて、俺たちみたいな年代でもね、高校にくらいになんか行き来するようになっても、そういう町で、なんか閖上って特別な人たちで、つながりが強いんですよね。だから小学校中学校なんか先輩たちからいじめられるんだけど、それが高校に行ってみていっきにみんないっきに外に出ていくでしょ、そうすると閖上っていうだけでみんなから助けてもらえるんの。そういうつながりが異常に強い。異常なくらい! 大切なのは人々 Q. どうしても1つ聞きたいことがあるんですけど。それだけ絆が強いっておっしゃってたじゃないですか、家族のようなって、で、土地はすごい大きな被害を受けたじゃないですか、それで、今のような状況の中で、その「土地」が自分の帰る場所であるのか、それとも「人々」が帰る場所であるのか、そのへんをどのようにお考えになるのかちょっと聞きたかったんですけど 俺はね、私が思うのは、人なんですよ。人が戻る場所なんですよ。だから中には、場所、あの閖上っていう場所をつくればまたこの閖上ってまちができるっていう人もいるんですよたしかに。でも、俺はできないと思う。場所なんてどこでもいっしょ。だって、ここだっていま閖上の人たちのそのつながりあるんですよ。だからこの場所をそのまんまね、これから何十年も住んでいいよって言われたら、この場所はずっとこのままですよ。何十年もずっと。今の人たちのゆりあげのつながり保ったままいけますよ。だから俺は場所じゃないんじゃないのかなって、人!だからここにいる人たちをここにそっくりそのままどっかにもってって、その人たちをあと50年暮らさせたってこのまんまですよ、ずっと。どこどこの孫、どこどこのばあちゃん、どこどこのあんちゃんって言われて。ね。その、この人たちをバラバラにしてあの閖上の土地に町をつくって、いろんなところから人呼んできて、一つの町を作って、そこで50年したからってこういう人たちのつながりって絶対できないと思う。だって、やっぱり何十年もずっと続けてきた人たちとの暮らしとつながりがってこそ初めての場所なんですよね。もちろん、だから、これらの人たちを山に連れてってねやればまた漁師町とはちがったまちにはなるかもしれないけども、人とのつながりってのはそれで続いていくと思うね。だから俺は人だと思ってる。だから俺がゆりあげに帰りたい帰りたいってずっと言ってきたのはそこなんですよ。あのばしょに帰りたいんじゃ人ですよ。閖上の人たちと一緒に暮らしたいと思ってたんです、ずっと。だから今のうちの親父たち、おふくろたちとおんなじ。 インタビュー一覧へ戻る

太田 光朗さん

インタビュー一覧へ戻る 生まれも育ちも閖上の太田さん。長年様々な形で閖上に関わってきた太田さんに、お話を伺いました。 震災による人間関係の変化 でも平成、11年の、11年くらいだったかな、震災受けたの。11年の3月11日が東日本大震災だよね。それがあったために、現在は本当にあの、人間関係がみんなだめになったんだよね。ていうのは今まではこのないかいで運動会だ、地域で仮装大会だの、公民館でいっぱいあったでしょ、みんなで。15地区あったのね、上町だ、中島町だってそれでみんなで集まって運動会やったの。それがやれないのがほんとに悲しい、その時代に戻りたい本当に。戻らないからねえ。人間も楽しくやってね、そういうところですよ、あの震災前はね。 震災後のつながりの変化 変わったね、うん。つながりはもうほとんどなくなったし、今この仮設にいる人はほとんどつながりは何人かいるの、5,6人いるのね、前から役員やってた人もいるけど、あとは同じ町内会の顔見知りだけであとは話したことないからそういうのはつながりはもうずっと大変だろうね、向こうも大変だろうしさ、そういうのが多いんじゃないかな。だから結局今言ったとおりかたまりというのががでてくるわけさ。おんなじ、1号棟から17号棟まであるんだけども、1号棟の人は隣近所で仲いい、今まで話したとない人だけど隣だから仲良くなるんだ、それでここはここで仲良くやってるんだね。あとこっちはこっちでやって、、。だから仮設全体でいうまとまりはあるんでしょうけど、常にあるもの、というのは遠目でやってんだね。それは悪いことじゃないから、だからそういうのはいいんじゃないかと思うね。そういう習慣あったからね。昔は離れててもみんな固まって何かあったら寄ってたけども。 将来の不安 将来の不安はあるね。私は、年寄りは。若い人たちは未来っていうのが、娘とかは未来ってのはあるけど、76になってさ、どういうふうになんのかなっていう不安だね一番最初に。でみんなと会えなくなるってことは今まで、ほんと会わなくなるんだみんなばらばらで。だんだん足も動かんなくなったりしてさ、その不安てのはあるね。この前は、いろんな遊び行くって温泉とか行ったりしてたんだけど、そういうのこのままだと体も動かなくなるでしょ。だから俺なんかちょっと金だけは貯めとかなきゃだめだなあって病院へ行くお金とかいろろあるでしょ、今度できなくなるから日本もね。で我々もできてこなくなるわけさ。これ家賃も取られるようになると今度家賃も払わなきゃなるし医療費も高くなるでしょ?そういうの考えるとねえって思ってるんだ、お金だけ持ってればねえ。だから将来はそういう不安だね。いやとにかく悲しいし悔しいね。最初悔しいし悲しい、言ってるんだけどね。あと今後やってくことはやるしかねないから。だって、くよくよしたって、でもたまたま考えると寝られなくなるんだわ、俺あと何年くらい生きられるのかなあ、生きた後いなくなんのかなあって思うのね。子供らもちゃんとやんのかなあって今の子供はかわいそうだって思うけどね。 インタビュー一覧へ戻る

大友 吉彦さん

インタビュー一覧へ戻る 閖上生まれ閖上育ちの大友吉彦さん。震災により家が流され現在は仮設住宅にお住まいになっていらっしゃいます。閖上に長年住まわれてきた大友さんに震災前の閖上はどのような町だったのかお伺いしました。 震災前の閖上 うん、だから大体顔お合わされば大体わかるような人達。まあそうじゃなくても大体閖上の町の中で、暮らしていると、大体どこに住んでいるってのはお互いこう分かっているようなところだからね、うん。そんなに広いところじゃないから閖上って。 つながりと仮設での生活 Q.その震災前と比べて、人との関わりに変化はありましたか? いやあ特別な変化なんてのはないね。うん。ただほらそこで、あのー、一応仮設の中にはみな電化製品から何からもう用意されている、、で私らも1回家族の方に申し込んで、で入ったのが1か月くらいあとだった。で1か月後ってのはこの仮設ができて、で大体もうそろそろいれようか、その時に仮設に入った。だからその時は品物はなかったよねえ。この仙台、まあ仙台とは言わず東京の方からもあった。うん。東京の方から車で来て古い洗濯機から冷蔵庫から何からね、持ってきたけど、、まあいろいろ汚した方はね、それなりによこしてくれたんだけど、私らのところについた時、あまり、、それなりのものという、見方、悪いけどね、だけどやっぱり、あとで1か月くらいして、まず電話して引っ越したからね、だけどまずその段階の時にはやっぱりここにみんな入ってるから、入ったけど、だからあまりいいものはなかったんじゃないかなあ。うん。 伝えたいこと Q.えーっと最後になってしまうんですけども、あのこれからそのウェブとかにビデオを載せていくんですけど、そのこれから、そのビデオを見る方とかその被災者の実情を知らない方々に何か伝えたいこととか知っておいてほしいことはありますか? うん、あの、まあしいて言えばね、余計なものは持つなって、うん。本当に自分の必要なもの、これだけで十分、うん。下手にあれこれってねそう、見てるとそういうことで亡くなっている人も多いんじゃないかな。私はそう思うよ。うん、だからそうやって見ると、恐らく何も取らずして逃げる、取ろうとして、取れなくて、そのまま、水が来て逃げようと思った時には、もう、逃げ遅れ。だからもう水が見えた時にはもう終わりだよね。まあ、よっぽど2階に逃げて屋上さ行って助かるかわかんないけど、、、まああまりそういう風なもののやっぱりあさり方ってのはなんていうのかな、そういうのは、あまりしない方がいいな。うん、、、まあ若い人、若い人達って言ってもこういう境遇にあったときはとにかくものは持たずして逃げることだ。 インタビュー一覧へ戻る

遠藤 佐恵子さん

インタビュー一覧へ戻る 福岡出身の遠藤佐恵子さん。結婚を機に閖上へ。2011年3月11日、閖上の町と共に津波で家が流されてしまい、現在では仮設で夫と2人で暮らしてます。インタビューでは、福岡出身ならではの視点から閖上に対する思い、また、現在の生活についての思いを話してくれました。 震災前の閖上 震災前…閖上はね、ほんとに小さな町だけど、みんなこう、なんていうのかな…面倒見がいいっていうのかな。ちょっと面倒見が良すぎて干渉がちょっと度が過ぎるとこもあるのね。うん、うん。出かけるとどこいくの?ね、ほっといてほしい時もあるんだけど。それはそれでまたね。だから、これからも、なんか、まとまったとこに住みたいの。どこでもいいから。必ずその土地に帰らなくてもいいんだけど、この、閖上の人たちと一緒の暮らしたいってみんなそう思ってるのね。 震災当日 あのー、その閖上の町の中で働いてたんだけども、その地震…ちょっと普通じゃない揺れだったし、隣…2件くらい隣の人が、6メートルくらいの津波がくるから逃げた方がいいよって言われて、一緒に働いている人の車に乗せられて、ま、まぁ小学校、中学校に逃げようとは思わなかったね。まず、閖上から離れよう、た方がいいってことで、ここらへん、うーんと、増田の方に逃げたんだけど。文化会館とかは…見てないね。市役所近く!市役所の近くに文化会館ってあるのね。最初はそこじゃないところに逃げたんだけど、みんなほら、ガソリンもない、余計に動かれないってことで、でそこに逃げて、で最初から最後までそこの避難所にずっといたの。2か月、とちょっとね。うん。最初、なんていうの?ああいうホール、んーと、いろんな歌とか劇とかやるホールから、こういう板、なんていうの、あそこにじかにこう…だから背中痛くて寝れなかった最初は。うん。普通はみんなが歩いてるところだからね。うん。でもやっぱ長くいると、ちゃんと寝るようになるのね。うん。あの頃まだ寒かったしね。うーん。 まだ布団とかしかないで、ぷちぷちってあるじゃない。あ、これこれ。これ敷いた上に毛布敷いたりして、もう支援のも。布団とかないよ。そうだね、震災から5月の末までだからね。3,4,5、うん。それでここにきたから。そうだね、うん。だって最初は食べ物もなかったし、電気もないし、テレビ、テレビとかの情報も全然、最初はわかんないからね… 避難所での生活 1日1日なにをして過ごしたか、なにして過ごしたらいいかわからない。なにもすること…うん…まだ、知り合いが周りにいたからね、まだしゃべって…うん。まず、いろんな物資、支援は頂いたからね。来たときは着の身着のままだったんだけども、出るときなんか家、自分の周り、荷物がいっぱい増えてんだね、まぁ服もそうだけどね…一部が知り合いだけど、だいたいもう閖上の人は大体わかる…うん、あの人はここの人、ここら辺のひとだ、ってわかるから。そう、そういう心強さはあったよね。全然知らない町の人と一緒にいるわけじゃないから、うん。ほするとやっぱり普段しゃべってなくてもやっぱり、しゃべれるようになったっていうか…やっぱこう自然に話しかけるっていうのかな?うん。だからそこで知り合って仲良、まぁ仲良くっていうかねぇ。そういうのもあるんだよね。絶対閖上にいたらしゃべれなかっただろう、って人としゃべったりね。で、出かけるときに自然に今日どこにいってくるから、とか聞いてもいないのにみんな答えたり、言ったりして。まず、うーん…避難所いって、まぁ楽しいっていったらまた言葉としてよくないんだろうけど、うん… 未来への不安 やっぱこれから、どうなんのかなぁとか…まだほら、行く先もちゃんと決まってないでここほら遅いからね。き、名取市は。と、そういうのもあるしぃ、仕事もないからやっぱり、なんていうか、経済的な面の心配もあるし…まぁ結局まぁ年齢も年齢だから、仕事もぱっと見つからないから、パート的なものしかないじゃない?うん…だから、こういう風になるのわかって、もうちょっとわかってれば、もうちょっとちゃんと蓄えをしといたら良かったかなって…後の祭りでしょ? 忘れないでほしい 知ってもらいた…それはある。今でもそれ以上にあっちこっちでいろんな災害があるから、それこそ、忘れられるんじゃないかっていうのはあるよね。今どこに住んでても安全な場所って、ないんだもんね。オリンピック決まったからオリンピックの方にみんなお金いって、こっち回ってこないんじゃないかな、とか、まぁそれはないっていうんだけども、やっぱり…その心配もね… 未来 ほんとに、うん…閖上の人たち集まって元に戻れ、まぁもとはちょっと危険区域だからあれだけども、ちょっと少しでも近くに住めればいいかなと、だから結構みんなここらへんに家買ったり、うん、もうしてるんだよね。うん、家建てて、うん。若い人はやっぱりそういう風にできるけど、もう、ねぇ、年代的に無理だから。娘たちはもう閖上は嫌だっていうからね。若い人はなかなかね。うん。だから、市で現地再建ってそこに戻るみたいなこと言ってんだけど、やっぱり、地震にあった人のことを考えればやっぱりそこには戻れ、ないよね。で、こんなに頻繁に地震あるじゃないですか?と、ますます、旦那はもともと閖上育ちだから帰りたいっていうのね。と私も、最初は、で一人で帰んなさいって言って、うん。なんか私は、だんだんと嫌になっ、うん、最初はまぁいいかと思ったけど、こんな地震が多いからだんだんちょっと、怖くなってきたこともあるのね。できればこう、なるべくこっちより?今住んでる寄りに、建ててくれない、でそう。閖上じゃなくても閖上の人たち集めればそれが閖上だからね。必ずしもその…そこじゃなくてもいいかなと思うんだけど。最初は、閖上閖上って言ってたんだけど、もうあまりに決まらないからもう、旦那さえももうどうでもいいって今…うん。勤めに行く関係でここの方がどっちかっていえば近くなったから、うん、うん。このままでもう、ここに慣れちゃうと、ここに住んでもいいかなと思う。みんなそう思ってんのね。だからここ壊してたんとアパート建ててくれるといいの。買い物近いじゃないですか、ここね。お店がそこにあるから。そういう人もいるけどまぁここは無理な話なんだけどね。ね、家建てられるような余裕があれば一番いいんだけどね。でも、ここにはやっぱちょっと住まないかな…うん…どこに住むかっていうとなかなかねぇ…うん、あまりにもね、こう進み方が遅いし、決まらないから、何年後にもう帰れるっていうがあればいくらかはねぇ、こう目標じゃないけどあるけど、まぁそれが決まらないからね…だから震災で、震災後になにかいいことあったかなーとおもって考えるけど、ないんだよね…なにもないね… インタビュー一覧へ戻る

遠藤 一雄さん

インタビュー一覧へ戻る 閖上で生まれ育った遠藤一雄さん。定年退職後も、閖上4丁目で暮らしていましたが、津波により家が流されてしまいました。現在では愛島東部仮設住宅の会長を務め、遠藤さん自身も愛島東部仮設で暮らしてます。震災後の仮設住宅での生活を中心に、会長として見てきたこと、感じてきたことなど様々な経験を話してくださいました。 区間わけと行政 Q. 小学校中学校は地域によって分けられていますか? みんな一緒ですよ、あの、おおまがりっていうところがあるんですけども、ちょうどここから閖上の中間ぐらいに、そこまで閖上の区間なんです、学区みんないっしょです。 Q. どこからが閖上でどこからが閖上じゃないのか、ひとそれぞれ考え方が違うように伺いました。 そうそう、あのね、閖上のね、いまでいう、小学校あるね、ひいらぎの、あの辺までが、閖上区間なんです、名前はね。そしてそこから西側は丘区っていうんです。「おか」ね、普通の「おか」、丘区っていって、だけども学区はみんな一緒で、あの町内の運動会とかある時はみんな一緒ですから。 Q. 小学校はひとつですか? ひとつ、中学校も一つ、ええ Q. 丘区の方々も閖上に含まれますか? そうですよ、うん、ただこうほんとの閖上っていう地名がついてるとこが閖上っていう感じだけども、その丘区ってとこも閖上地区さ入ってますから。だから今市長さんなんかよく現地再建でやってるっちゃね、やってるけども、丘区の方さ みんな住みたいってみんないうの現地再建より、こっちは閖上じゃなくて丘区っていうんだけど、結局みんないっしょなんだよね。結局みんなお互いに学校も小学校も中学校も卒業しておっきくなっても同級生だなんだってやってるんだから、それを市長さんわかったらうまくいくんだけどね本当は。こっちは閖上じゃない、こっちは閖上だってさ、差別したらよくないと思うんだな、そういうことやってるから進まないんだな Q. 地名だけでみていて、 そそそ、そういうこと。 Q. 人間の関わり方に目を向けていないということなんでしょうか? そそ、まぁ今閖上のことやってからだけども、こっちの人は差別だよね。普通はさ、名前から言ったら、同じ名前で暮らしてるんだからさ、だからそういうことやってたら復興もなかなかままならないんじゃないかなって、うん、行政の考えと違うから、うん。反発力がすごいんですよ。だから今このままで行かされて、工事に着工したとなっても、行く人がいなければまた見直し、するようになっから、市長さんも大変でないかな。 Q. どういった方が行政に関わっているんですか? 私たちはその名取市閖上地区の住民さんの意向をこっちを住みたい人の意向を、その人らの意見を市やなんなりに提出してやって、署名とかもやってましたよ。 Q. 受け入れてくれる感じではないのでしょうか? あまりないね。市長がそのこうあんまり…かもしれないけど、普通なら市長さんこう長い時間で対応するでしょ、5分3分くらいでぱっと退出するんだもん、話にならん、うちら今こういうことやっても、宮城県会議員さんとか、俺ら一緒になって担当の西村さんとか今年の6月からな、復興庁にいってきたんです、西村さんと県会議員さんと私と、復興庁の大臣とお話ししてきたんです、でもあっちでも頑張ってくれって…てことで復興中の中でね、普通はすぐ帰るんだけどもね1時間以上もお茶のみしながら、大臣と復興大臣と。 Q. お気持伝えたんですか? 伝えましたよ。それで、それが県の審議員会に挙がったわけさ。ほら、西側さもってくとか、あと今計画どの場所をさ、災害公営住宅っていうのがたつんだってね、その公営住宅お寺の跡地さ建てたりっていう計画なのさ、誰もお寺の跡地にばっとたててもらって住めないですよね。まぁ先祖さんの頭こう踏みつけらってるようでねお前ら何やってんだっていわれそうだっちゃさ。で最初「建てる建てる」ってがんばってて、その私も市議会で代表で喋って、知事さんのいるところでさ。したら知事さん怒ってさ、市長と答弁することになったら、そうしたら建てませんってその場で言うんだよ。住民はその日まで建てるって思ってんだから、それで判断してんだから、そしたら今度建てねーっつんだからさ。じょうだんじゃねーってさ、その時のがれればいいっていう感じで話すんだよね。 ボランティアと自立 んー、やっぱりみんなもね、震災になって、ここにきたはいいは、人からもらうようなことではだめだと。ここから5年ないしね、出てきた場合自立心がなくなるから、まぁ出て行っても自立できるようにみんなでがんばるべって、ことでみんなでやってる。だからうちにほかの仮設みたいにボランティアさんにこれやってくれってさ、絶対うち言わないです。うん、だけども一度ねこの自治会で年に3回大きな祭りあるんです、3月4月になったら花見とかね、夏祭りとか、あと10月になったら芋煮会とか、それでここの自治会でみんないろんなことやって、ここだけだとあれだからって、たとえば上智大学さんに手伝ってもらってるから、その人さ声かけて招待しましょう、招待しながらやってるんです。うん、逆に。まぁお返しっつったらおかしいけど、俺たちにできること、ならやりたい。世話なった人に声かけて、だからNPOやってもらってる人とか文化大学とかね、なにもいらないからとにかく食べに来てくれって、うん。 閖上に戻りたいか まぁね、俺たちも先祖さんたちからの代でずっと閖上にいるから閖上に戻りたい、でも、さっきもゆったけど丘区も閖上だから、その災害危険区域のちょっと西側っていうのもあるわけだっちゃ。だからそのへんでやっぱりやらねーと。ここからはもう閖上から遠くに行くっていうのは考えられねーかな。なるべく海の近くにはいねーとって思ってるけど。 遺体安置所での経験 そしたらだいぶ人亡くなってるってことで遺体安置所もうけたのさ。そして、二日目から私2か月半ぐらいその遺体安置所さ確認にいたんです、町内の人達もいるからね。で全部、最寄りの人みんな見つかって、連絡して引き取ってもらって、2か月半やってた。 Q. それは自分からやり始めたのですか? そう、で、もうほれ、知人の弟だのいないだの、で、弟さんがね、ちょうど15日してぐらいあがってさ、俺が最初に見つけて、…あそこの息子さんだけ見つからなかったんだ、やっぱりお父さんより早く見つかってたのね。ところがね遺体がこっから半分しかなかったんです。それで見せられなかったから、DNAで4日ぐらいしてからわかったけども、で、私140体か150体ぐらいみんなに引き渡したんだ。分かってる人…もうあんな時は、ああいう人間見たりすっと思い出すでしょ。夜なんか。1日2日目ぐらいは、「あ、こんな人いたんだ」ってぐらいで、もうあとは日にち経ってくるとみんな一緒の顔してるよ。…だからなんともなくとは言わないけど、見つけても助けてあげれなくて悪かったってぐらいで引き渡ししたけどね。そういうことなんです。だからやっぱりね、だから今こんなことして、会長やって、みんなの協力もらってってことは、俺は生かされたから少しでもみんなのためにやらないとってやってるけど。まぁみんな長沼君とか役員さんたちがいいからね、みんなすぐに声かけると協力してくれるからそれだけがありがたいです。 Q. 震災を経験して人との協力性が本当に大事だなって、実感しました? あー、思いますね、やっぱり何もない平和な土地は結局声かけたりなんだりしてやってけるけども、やっぱりなくなったら協力がないとやっていけないさ。個人個人ではね。 ボランティアとメディア やっぱりやってくれてる人は一刻も早く復興してもらいっていう感じもあるんでねーの。やっぱりいろんな形で聞くけど、よく日和山に花植えるとかさ、でも結局花植えてもさ、正直な話、水やりにも来ないでしょ、植えるだけで、だれが水やるか。で、一回植えれば次に来ないでしょ、うん、そういうのまぁボランティアはボランティアなんだけどさ、ふつうやるならああやってSTEPさんみたいに、寒くても毎日3人でも5人でもね、やってるっていう人のほうがほんとにああいうひとをよく感謝しないと。んださ、花植えるのは一時的ださ、であと来ないんだよ。それでまた1年くらいしてから例えば花がなかったから花植えるかとかさ、それで植えっぱなしで誰があそこで水やりなんかするのね、しないでしょ。 Q. 単発なんですね。 そうそう、その単発的なことをやってんだ、ってことよりもさ、もう少しやり方があるさね。単発でなくてさ、やっぱりSTEPさんみたいにね、ああいう風に毎日とはいわねーけどさ、例えば2か月に1っペンとかね。あと植えた花どうなってっぺってじゃぁ水やってって、てくる人もいるっちゃね。 Q. 長期的なボランティアということですか? そうそう、まぁ水かけなんかは5人や3人ぐらいでいいんだから。うんそんなに団体で花植えにさ来ることはないんだから。とは思う。 んー、メディア、の方でも、それをやっぱりある程度伝えるんだから、伝えるに対して、例えばこの人達がこれをやってくれたからとか、そういうことばっかりでなく、あたりの住民とか、だからおれが今言ったようにさ、ね、一回植えたらそれでいいって問題でないということば取り上げて言ってもらえれば、ある程度その団体でもメディアでぽっと流されれば、これはこれではまずいのかなって考えると思うのね。 Q. 最初から最後までやり切れてない部分があるんですね。 うん、そうなんだよね。まぁ俺だけの考えだかなんだかわかんないけど。それは見てたら、長いこと見てたら分かると思いますよ。 Q. … Continue reading

渡辺 カツさん

インタビュー一覧へ戻る 仮設住宅に入りたての頃は周りに家族以外の知り合いがおらず苦労したという渡辺カツさん。その苦境をどう切り抜けたのか、語っていただきました。また、今後の予定や閖上の未来についても、お話を伺いました。 仮設住宅での生活&人間関係について 私だれも知らないから、この人どっから来たの〜?って顔で見られたのね。その時は、うーんと傷付いたんですよ。 いやあ〜こんな風に疎外されてるような感じでね、ここで暮らしていけるかしらぁ〜って思ったんです。んでも、まず自分から進んでね、あの、みんなと打ち解けなければ、やってけないなあ〜と思ってさ、それから色々な、んだ、イベントがあったでしょ?そういう時に積極的に来るようになったのね、ここに。それで、ひと、一人、二人、顔見知りになって、そいで、今は凄く楽しいです。うん。そいで、色々なイベントに私は参加して、そして、何でもやろうと思うんですよ、貪欲に。できなくてもいい、参加してー、うん、そいで、みんなと親しくなんなきゃっていう感じで、今はほとんど顔見知りになって、友達になって。 だから、とにかく私は前向きにね何にでも参加しようっていうことから始まったんです。ここへ来てから。 何やるにしても、積極的に。やろうよーやろうよーっていうような感じで。自分がそう思いしたから、そう思ってる人がいると思うのね、やっぱ。ああー一緒にこういうことやれないかなーっていうひと、中にはいると思うのね。中には、ほら、集会場に出てこない人もいるから、そういう人はなるべく声かけてー。あのー、集会場にもおいでよーっていう感じで。みんな一緒でしょここは、自分のうちみたいなもんだから。声かけながらね、みんな一緒にお茶飲もうよとかなんとかってなるべく声かけるようにしてるのよ。だから、けっこー今仲良しでね。 Q:そういうイベントに参加するのは大体女の人と聞きました。 そうそう、ほとんど女の人、男の人は二人くらいかな。 Q:男の人は…? 男の人は何してるんだろね、うちのにいるんだろね。あとほらここに、電気マッサージ機だのあるでしょ。だから、それをしにくる人は何人かいるのね。でもイベントに参加するっていうことは、ないね。ほら、イベントって言ったって、お花とか、食べることとかさ。手先のことをやろうっていうことだから、男向きではないんだろうね、やっぱりね、うん。お花をいけたり、お針をしたり、んーまあお話を聞くのは男でもできるけど、なんつーの、やっぱり、年も年なんだよね。おじいちゃんが多いのよ。だから、おらは何しなくたってていいわあーっていう人が多いのね。うーんここは、学校へ行ってる、若い人を集中して集めたところだから、子供たちはけっこういるのよ。で若いお母さんもいるのね。でもそういう人はここへ来ないでしょ。で残った人は80過ぎてる人たちとかが多いのよ。だから60代、70代っていうのは限られた人しかいないんだよね。 Q:若い世代の人は若い世代の人で…? 若い人達は忙しいんじゃない?働いてるから。 Q:そうすると、、なんていうんだろ、あまりこう、カツさん達のお年代の方たち、集会場に集まっている方たちと、その若い方々とのコミュニケーションとかっていうのは… コミュニケーションは、若い人達は朝会えば、おはようこんにちはぐらいは言うよみんな。んで、ちっちゃい子いると、ちっちゃい子通してお母さんと話をしたり。コミュニケーションはいいと思うんだけどね、うん。 何も気取ってることないなと思ったら、気が楽になったのね。うん、だから、だっちゃねーとか言われれば、ん、だっちゃー!とかいう、返して。そういう風に自分も変えていかなくちゃ、しっ、団体生活って難しいと思うんだよねー、自分の主張ばっかり通してたってさ、うまいわけにいかないと思うのね。 自分もそう前向きになてかなきゃこれから生きていけないでしょ。後ろばっか見てらんないし。だから、もう、これから残された人生どう楽しくやってこうかなーっていう風なことしか考えてないね。うーん。ワンちゃんといる、遊んでるのもいいし、自分で好きなことやってるのもいいし、好きなもん食べるのもいいし、うーん。そうかなあ、だと思う。 閖上の今までと今後について 独特なんだよね、閖上っていう、こう、町は。親戚も多いしね。あの町っていうのは、ほら、島みたいなもんだから。うーん。そこに何千軒って建って。そこで行ったり来たり嫁に行ったり、嫁にもらったり。ほんだから、周りはみんな親戚みたいなもんなのよ、ここは。だから、下手なこと喋っと筒抜けだし、うーん、そういうとこはあるんだよね。 Q:それは、震災後、あのー、変わりましたか? うーん、震災、震災後はー、いや、変わった人もいるだろうしー、うーん、変わった人が多いんじゃないかと思うのね、話聞いてみると。ここ、昔とは違うんだよっていう人が多いからね。昔、浜にいたときに付き合っていた人と付き合わなくなった人もいるし、なんだ、昔と違うんだからね、ここは、今は今なんだよ、っていう人も多いね。 Q:これからの閖上の町っていうのは、どんなようになっていくと思いますか?それか、なってほしいと思いますかー? あー、うーん。今からの町はちょっと考えられないけどもー、若い人がいなくなるんじゃないかって思うのね、閖上の町は。結局、若い人はみんなここらへんにウチ建ててる人が多いし、今いる現在の人たちも閖上には帰りたくないっていう人がいっぱいなのね。うーん。だけども、帰んなくちゃなんないっていう人は、ウチも建てられない、お金もない、結局、市の世話になんないと、ウチも入れないっていう人が多いから、そういう人ばっかになるわけよ、わけでしょ。そうすっと、年寄りの町になっちゃうんだよね。 ウチはもう、孫が閖上には絶対帰りませんって言うのよ。んで、うちのママもそうなのね。あの、閖上の人じゃないから、閖上の独特の雰囲気っていうのに慣れないんだよね。わたしら年寄りだから、いい加減になれてきたけども。若い人はなれないんだよね、閖上の町のその独特の雰囲気っていうのあるから。だからもう、閖上には行かないっていうのあるのね。 Q:もし、そのー、娘さんたち、の考えとか、関係なしだったら、カツさん自身でしたら。 私だったら、別に悪くないかなって感じなのね。今はね、慣れてきちゃったから。この雰囲気にも慣れてきたし。私一人だったら、まあ、閖上に行ってもいいかなっていう気持ちもあるけども、やっぱりもう歳だしねえ、やっぱり、娘たちの世話になんなくちゃいけなくなるから、やっぱりそれはできないなって。 支援について Q:なんか、ここの、この仮設に、年を取った人のためになんとか足りないこととか、それが、ありますか? なんとか足りないって言ったって、やっぱりー、自分たちが助け合っていかなくちゃなんないことだからねえ。人の手借りて、どうのこうのっていうにも、まず、近所となり仲良くして、何かあった時にはー、みんなで助け合わなくちゃなんないなーって気は、っていうのはあるんだけどねえ。私は割合、年寄りの人たちに手貸してるの方かなってーいう気はするけども。頼られてるっていうこともあるのね。この人に言えばなんとかしてもらえるっていうので、私に相談する人も多いのね。あの人にああ言われたんだけど、こう言われたんだーっていう話を持ってくるわけよ。んでえ、この間もなんだかねえ、物資どっかからもらったみたいなんだなあ、年寄りの人たち、二人で、この仮設にいる人たちが。 たまたま会ったんだかなんなんだか知らないけど、んで、仙台からきた人なんだあって言うけど、なん、物資いりませんかあって言って、ああ、ありがとうございますって、置いてかれたみたいなんだけど、処分に困っているわけよね、結局は、その年寄りの人達は。んで、どんなのが来たのおって私のとこに来たから見たのね、そしたら、今時着れるようなものでないのよ。十袋ぐらい置いてったのこういうの。個人的にもらったってどうしようもないから、こういうことは自治会長さんに言って、自治会長さんから、あの、引き受けてもらえばいいのかなあーって、思ったんだけど。そう言ったんじゃ傷付くだろうなー、って思ったから。えーどうしようねえこれねえ、これ、広げてみて、着れるー?って言ったら、着れないーっていうのね、こんなの誰も貰わないっていうのね、近所の人、若い人も来たんだけども。それが、ほら、カーテンのボロだったり、こういう、なんつーの、コタツ掛けのボロボロっていうようなやつなの。なーんか、あげるゴミを置いてったみたいな感じなのね、見たら。言っちゃ悪いけどねえ。おいてってくれた人はどんな気持ちで置いてったかわかんねえよ。んで見るとね。ちっちゃい人が着る服なのか、おっきい人が着る服なのか、サイズ見ても、サイズ全部切ってあるのよ。だからあのー、サイズ見てね、100-100、120-120のサイズなら子供だしー。こう広げて見ても、ちっちゃいんだけれども、こどもが着るような服ではないのよ。ここに、こう、リボンがついてるようなやつとかさ。えっ、これはー大人が着る服なんだっちゃねーって見ても、見てもねえ、ちっちゃいのよ。Sサイズみたいなのね。Sサイズ着る人いっかしらーって感じなのね。 ありゃーだめだわなーこれなあー誰も着る人いねえーっちゃなーって言ったの。そしたら、とにかくねーそのー、シ、シミだらけだったのよね。シミだらけだったり、この襟のあたり見っと、襟が小汚いやつだったりさあ。ほんーとに一枚も着れるやつないのよ。どうするーって、貰ったのはいいけど、これー、集会場行って広げるー?って言ったっけ。だめだわなーって言うんだっけ。だから、家にじゃあ貰わないことにして、私みんなー、自分の名取市の袋に入れ替えて、ゴミに出すからねーつってさ、この間、土曜日か、5袋ばっかりとりあえず一回に出せないから、全部入れ替えて5袋ばっかり出してきたのよ、ゴミに。ゴミ見たら持ってってくれたから、よかったなーっと思ったけれど。まだ残ってるのよ、5袋ぐらい。ほんでも見ても、着れるもんでねーのよ。いやあなんか考えてみたら、いやー、悪質な人がいるなーっていう感じなのね、自分のゴミをここ置いてったんじゃねえかって思うような感じなのよ。だから下手にもらっちゃダメだなーって思って。後で、ほら、やんわりと、こういうときはこうしなくちゃだめだよーって教えよっかなーと思ったのよ。だけどそのおばあちゃんも85ぐれえのおばちゃんなのね。だから、貰えば良いと思って貰ったもんなんだけどさ(笑)そういうこともあるの、うん。 支援への感謝と、これからについて(4:22~) 今までほら、全世界の人たち、日本人ばっかりじゃなく世界の人たちに2年8ヶ月ぐらいになるのかな、色々な支援してもらってるわけですよね。だから、支援してもらって本当助かったこともあるし、自分たちがこのまんま支援ばっか受けてては前向きになれないなーっていうとこもあるのね。だから、やれることは自分たちでやってこうよーっていう、そういう気持ちだね、今はね。うーん。だから、そのー、支援物資来ねえとか、支援物なんで今になってなんで来ねえんだって言う人には言うのね。もう支援物資もらう月日じゃないよって。今、自分たちが何でもやれることやって恩返しやんなくちゃならない時期だよって言うのよ。だからあ、本当に今まで色んな人にお世話になってありがったからね、うん。 インタビュー一覧へ戻る

高橋 久子さん

インタビュー一覧へ戻る 閖上1丁目のまちカフェでインタビューを行いました。自作の歌と前向きな姿勢が印象的でした。 仮設住宅での生活について Q:今住まれている仮設に、震災前からの知り合いの方はいらっしゃいましたか? A:知ってる人は1人か2人くらいいたけどね。たまにかまぼこ屋さんで働いてて、あーとかいう人いたけど、ほとんど顔見知りじゃないよ。でもほら毎日、出てくる人は誰それさんってわかるけど、集会所に来ない人。2、30人は来るけど、後の人は行きたくないって。男の人なんかとくに、お年寄りの方とかとくに。やっぱ、1人2人しか来ないもんね。男の人って来ないんでないかな。だから知らない人も、8割ぐらい知らないんじゃない、未だに。わかんないよ。顔見知りの、ほらお茶のみって20人ぐらいいるけど、後は分からないよね。 Q:仮設住宅に住んでいて大変なことはありますか? A:大変だって言ったってしょうがないです。大変だって言ったら何でも大変です。やっぱり隣の家に音が聞こえるんじゃないかとか。やっぱりうちの団地、セキスイハイム、ガラスも二枚になってるから音もきちっとしてるね。隣の音もおっきな音だと聞こえるけど、戸あけてない限り聞こえてこないよね。テレビの音とかも。家の面積は小さいけど、防音はしっかりできてるよね。普通の住宅と同じ作りなんだって。仮設仕様じゃなくて、あの一般住宅、セキスイハイムの住宅を仮設として使っている状態なんだって。だからうちのもしっかりしててね。だからお風呂でも”ピコピコピ間もなくお風呂が沸きます。ピコピコピお風呂が沸きました。”っていう普通の家庭の…ユニットバスって言うのかな。四角の狭くて入れないとかって言うのでなくて。普通の新築住宅みたいなこういう形の。 エンジョイ仮設 エンジョイ仮設住宅 津波の大震災で仮設住宅に入った 8件の住宅が連なっている 昔はハーモニカ長屋といったそうだ   ハーモニカなら私の部屋は1号室だから ドレミのドだ    ドレミの歌のドは ドはドーナッツのドだけど どんなときにもともある そうだ、どんなときにも明るく楽しく 振り返って暗くならず この状態を受け入れて前進あるのみ   海辺の家から山手のセカンドハウスに来たと思えば楽しいじゃないか  こたつから五、六歩で 台所風呂トイレ 花の水やり 洗濯干し   なんでもコンパクトで楽だ主人と二人 なんでもオープンで 秘密基地もない  知らない人ともあいさつを交わし  多く作ったおかずや野菜を交換  たまに違う通路を通って 鉢植えの花や野菜を眺めたりしている  ただうっかりすると  自分の家を通り過ぎたりしてしまう   だから西側の雨樋に 目印にピンクの小さいリボンをつけた 一人でくすっと笑った   みんなでドレミの順にならんで ドはドーナッツのド レはレモンのレ  などと、歌ったら楽しいだろうなぁなんて バカげたことを空想している ははは 狭くてどうのこうの言うんじゃなくてやっぱり現実を受け入れなきゃいけないのよね。本当に文句ばかり言ったって天災なんだからね。ドーはドーナツのド、レーはレモンのレーって、ミの人はミーはみんなのミとかって八人並んでやったら楽しいでしょ。まだやったことないけどさ。そういうのを考えてエンジョイ仮設住宅って言うのを書いたんですよ。 震災後の人との関わり、助け合い 震災後、しばらくして同級生のみんなから電話貰って。支援物資を送ってくれたり本当にうれしかった。あの時は本当に寒かったからね。調剤薬局に行ったら、どうぞ、御自由にと書いてあったので、主人は毛糸の股引きを見つけて、あーこいつあったかいからもらおうなんて言ってもらったんだよ。着のみ着のままで逃げたからね。普通なら洗濯してからはくんだけどそのままはいて喜んだんだよ。震災後すぐには支援物資はこないんですよ。道路も壊れてるし信号もなかったしね。多分調剤薬局には近所の人が持ってきてくれたと思いますよ。ズボン、ジャンバー等サイズが合うものをもらってありがたかったですよ。私は仙台の息子宅にお世話になったので暖かい食事、布団で過ごすことができたので避難所で生活するよりは幸せだったですよ。近くのところでラーメン炊き出しをやっているという事で行ったんですよそしたら店の外でテント張って、お金も払わないのにいらっしゃいませーと暖かく向かいいれてくれて、ラーメンとごはん息子家族の分と六人分頂きました。京都の餃子の王将というラーメン屋さんだったね。責任者の方に「みんな流されたんだよ」と言ったら「ちょっと待っててね」と言われて、待ってたら卵を30個位と果物をもらってね、うれしくて握手して涙がこぼれました。 今後について 閖上…2年7か月経ってもなにも変わってないですよ。だから今後どうなるのかねえ。でも私は家を建てるつもりはないので、市役所にお世話になるしかないですよ。一戸建てに入れるようにって要望をだしているんですけど、まだ、今から町を作って、戻れるのは、まあ戻るって言ってももっと西の方に一戸建てを希望しているんですけど、ここの地区じゃなくて。 世界中のみなさんに色々支援していただいて、こんなに元気になりましたので、ありがとうございますっていうのをお伝えしたいと思いますね。これからも私たちを見離さずに見守っていただきたいと思いますので、よろしくお願いします。今日はありがとうございました。 インタビュー一覧へ戻る

中澤 芳文さん

インタビュー一覧へ戻る 生まれも育ちも閖上の中澤芳文さん。3.11の震災でご家族を亡くされました。震災から月日が経った今、胸中をありのままに語ってくださいました。 「被災者」と「遺族」 あの、結局そのひどさが分かっていない、自分達は、んーなんて言うんでしょうね、被災地ですけど、被災者じゃないんですよ。 Q: 周りの人達がですか? そうなんですよ。みんなが沿岸部じゃないんですよね。ですけど、みんな被災者なんですよ。家がちょっと傾いたとか、皿が割れたとか、皿一つ割れても被災者ですから、保険会社側から言えば、保険おりますんでね、被災者なんですよ。ですけど、私らはようは本当に被災者って言ったらおかしいですけど、うん、やっぱ遺族なんですよね。 震災の記憶 その半年くらいは、その日の2時46分、その日の2時46分、なんですよ。なるたんびに、3月11日の2時46分以降を思い出そうとする自分がいるんですよ。ですけど、その時は思い出せなかったんですよ、その後どうしたとか、どうやって娘を迎えに行ったとか、すごい思い出せなくて、ずっとその記憶を思い出すのにやっぱり半年くらいかかって、、、ただ思い出せるんですけど、すぐ、忘れようっていうもうひとつ蓋をしちゃうんですね、精神的にやっぱりあの持たなくて、そういう気持ちが落ちた時に薬を服用してもう少し落ち着かせてたんですけど、そうすると、仕事中なんですけど、やっぱり眠気が来るので、まあほとんど睡眠薬導入剤と一緒なので、仕事先に行っても行く先々でどうだったの?家族はどうだったのって聞かれるんですね。まあそれに笑い、笑えるっていうか普通に答えられるようになるまで本当に半年、まあ1年くらいかかりましたね。 被災への共感 あの支えられてるなっていう感覚が起きるのが、実はわたしはあんまりないんですよね、、。ただ支えはないんですけど、共感していただいてるのは多いです。あの、なんていうんですかね、こうやってみなさんとお話をして、うなずいていただく、理解してもらう、でこういろいろな、facebookだったりネットとかで被災地のこととか、被災地にみなさん関東から足を運んでいただいたりとかそういう情報をみると、あっ共感していただいてるな、ていうのが、思えるんですね、で、ただこう冷やかしじゃないですけど被災地見たさみたいなのはこうあったと思うんですよ。それがどんどん日を追うごとによってほんとの現状をみなさん見に来ていただいてる、てのが分かったんですね。 閖上の良さ ほんとにねーとんでもない街ですよ。楽しすぎますもん。だから、なんていうですかね、閖上の当たり前が通じないっていうのもびっくりしましたけど。あの、ですからみなさんね、食べたことあります閖上のたこ焼き、あるじゃないですか、あれが普通だと思ってるんですから。ずっとあの、あれいくつまでだろ、高校卒業するくらいまで、あれは普通だったんですよ。で、私仙台市内の学校だったんですけど、仙台市内の学生がたこ焼き食べると、パックでぱっと出されてびっくりした、っていう記憶があるんですね。で、そのたこ焼き屋さんも、わたしも高校入る頃かなあ、もう毎日やらなくなったっていう、ですから前に食べれなくなったていう記憶があるんですね。で、年に一回神社のお祭りがあるときに食べれるくらいで。で、あとはおばあちゃん(閖上のたこ焼きを作る方)の気分だったんで。ほんとにびっくりしましたよ。たこ焼きは棒に刺さってないたこ焼きをたこ焼きと思わなくて、おかしいなーって思って。ほんとに閖上の街ん中ひとつで全部用が足りてしまう、買い物もちょっとはできますけど、一番最初にお話した通りに行くのは不便かもしれないですいろんな所に。ただ、生活するうえではなんにも困んない街だったので。ほんとね、海がそばでまあ、何年か前に海水浴場もやっともう一度できるようになった街ですから。んー私が子供の頃、小学校、中学校の頃はもう海水浴場がなかったので、うん、それでもやっぱり子供、ね、同級生とみんなで夏休みになれば閖上の海に行くんですよ。そうすると、大体同級生の一人くらいは溺れて、すんごい引き潮に会うんで、私も2、3回溺れましたけど。面白い所いっぱい、まあ、山が無いだけでほんとにいい街ですよ。ほんとに、子供の頃までは釣りをやったりとかは。あとはまあひっきりなしにいろーんな方が来て頂く街ですからね。 インタビュー一覧へ戻る

荒木 保子さん

インタビュー一覧へ戻る 震災を乗り越えて、現在、息子さんと仮設住宅で暮らしている荒木保子さん。複雑な胸の内を語ってくださいました。 震災を経験した今… うん、人に迷惑かけないで、やっぱり、自分で自立して一生懸命生きていかなくてはないかと思ってます。みんなに迷惑はかけたくないから。これから、そうやって生きていかなくてダメなの、自分のことはじぶんでしないといけないし、独立しなくちゃないので。それは、息子に対しても、家族に対しても、そう思ってます。自分がちゃんとできるようになれば、みんなに迷惑かけないし、それ一番思ってますね、私のね。やっぱり、津波、こう、体験した人でないと、分かんないですね、これはね。だから、テレビ見てるとさあ、涙ボロボロ流れてくるんだよ、私。東日本大震災って言われると涙こぼれてきます。だってうちも流される、そのまんま、車も流されるそのまんま。いや、そのまんま流れたんですよ。でもかろうじて言えば、壁が抜けなかったので、ものは残ったのもありますけど。だから次の日から、あの、水引いてから、毎日子供たちに、4人して、2番目と3番目と夫婦して、行って持ってきてもらったの、いっぱいあるんですけど。で、選択して持ってきてくれました。それも、入れない区域ですけど、遠くからあるいて持ってきたよって言って、震災の時は、津波…2回しか行ってないんですよ、閖上。見るの嫌だから、行かないから、行かなかったんです。でも、避難所、仮設は不自由ですよね。なにからなにから不自由です。だ、これからみんなに、やっぱり手を借りて、生きていかなくてはないでしょうから。年取ってくるとね、だ、みんな助け合って、行かなくてはならないんだなーって思ってるんですけどね。一人で生きて…人間は一人で生きてられないからね。生きれないから。人の手借りなくてはならないんです。だ、いじわるしたくもないし、私何言われても黙ってるから。 仮設での大変さ こういう仮設っていうのは大変だなっていうことを知ってもらいたいほんとはね。こういう災難にあって、こういう仮設に入って、不自由な生活だってことは、知ってもらいたいです。めったに入れない仮設だからね。こういうのはね。まさかこういうのに入れるとは思ってなかったからね。ミシミシ言って、ものすごいんですよ、夜寝れないんです。風吹くとものすごいんです、音が。床はべこべこべこべこって。トイレは寒い。寒くて、あの、夜、朝にはいる時は、トイレ開けとくんです、エアコンつけて。ずいぶん、二年三年だからは、こう隙間だらけになってるのかなあ。寒いは寒いです。だからやっぱり仮設に入った人でないとわからないです、これはねえ。早く復興決まってもどりたいですよね。 閖上の良さ やっぱり閖上は良いですよ。海風は入るし、こういうあれでないから、海の方だから涼しいし、…いいとこですよ閖上は。でみんな戻るからって、友達も行ってくれるから、で、一緒に行こうねとは言ってたんですけど。ま、病院も何も建ってないんだら、行ったってしょうがないなとは考えたんですけど、今からの話だからもうどうなるか分からないんだよね。何年かかるか分からないですからね。 インタビュー一覧へ戻る

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