![]() 佐藤和男 |
クリップ 3 「(避難所)330人入ったから、畳1枚で1人。とてもじゃないけど、大変だったよ。だから、(仮設住宅に)一番最初に当たって、飛び込んで入ってきたのさ」 |
仮設住宅
須藤 清孝 1
木皿俊克さん
閖上生まれ閖上育ちの木皿俊克さん。現在は東部愛島仮設の自治会で会計士をやっているそうです。
震災前の閖上について
二階だったんですが、流される家が二階だったんですけどほんとに海が見えてほんとにこう波の音が聞こえて、夏にはもう潮風が入ってきてクーラーが要らないくらい寒いくらい夏でも、そんな時もありました。
暮らしやすそうな、、
そうですね。暮らしやすかったですねー。今はある程度愛島にも慣れてこの生活にも慣れたんですけれど、でもやっぱり時たま閖上のことを思い出してあーもう朝になると散歩にでかけたり、こんな時だったら日曜日の朝頃からたぶん松林の所をぐるぐるぐるっと一時間くらいかけて散歩してたりしますね。
Q: 今思い返しても閖上という町は暮らしやすかった、、
木皿:暮らしやすかったですねー!はい。やっぱりこう愛島の東部仮設という形でこうだいたい地元の人というか、前四丁目っていうですけども、海の近く低山彫りっていう所があって低山彫りも東にあの四丁目、三丁目とひる山に五丁目、六丁目があってっていう形なんですけれども、そこの人たちの暮らしぶりっていうのは良かったっていう。遠藤会長と愛島東部仮設の遠藤会長とも町内会で一緒でしたもんですからそうゆう関係で結局地元のつながりがすごいこう深いっていうかそうゆう感じは思っていましたね。やっぱりこう暮らしやすかった。結構でかけても”おお”みたいな感じで。
Q: 出かけると顔見知りの方と、、
そうですね。挨拶とかするんで、はい、私はでも若い頃はそんなにこう町内会と仲良く付き合ったわけじゃないんで、逆に50代の頃から町内会の役員を始めていろんな人と仲良くなって、そういった面で暮らしやすい、私だけじゃなくってみんな言うんですが、コミュニティーというか、隣近所の仲が良いというそういった場所柄でしたね。
仮設での暮らし
Q: 最初こちらにいらした時は仮設住宅の印象はどうでしたか?
ああ!まぁえっと、良いのか分からないですけれど暮らしやすかったですね。最初に思っていた時は隣の人の声が聞こえるとか、冬寒くて夏暑いって言われてて、でもそんなことなくてすごく快適で、はい。愛島東部仮設は私としては暮らしやすいですね。一人で暮らしているんですが、暮らしやすいです。
Q: こちらにいらした時は昔からの閖上の知り合いの方はいましたか?
いましたね。遠藤会長をはじめ。こちらが知らないと向こうが知っていて、向こうから声をかけられてもこっちが分からないという、そういう恥ずかしいこともありますね。
Q: そういう方がやっぱりいらっしゃると、、
気持もやっぱり違ってきますね。大河原にいた時はすごい便利というか楽だったんですがなにも自分ですることもないし、でもやっぱりちょっと寂しいっていう感じはあって、やっぱりこちらにきて俺もしょっちゅう出かけてる方だからあんまりこう付き合いとかがある方ではないんですが、心強いですね。知っている人たちがいるってことは。やっぱり昔の閖上をちょっと思い出させてくれる。すごい大事な所かなと。
Q: そうすると以前と比べてご近所さんとのつながりと言いますか、というのはあんまりこちらでも変わっていないという、、
そうですね。ちょっとこう場所が変わっただけで、コミュニティー自体は変わってないという。
Q: 現在は仮設住宅にお住いになっていて何か特に困ったこととかありますか?
いや、ないですね。もうちょっと細かく言えばあるんでしょうが、まぁ暮らす分には本当にすごい暮らしやすいですね。会社も私は仙台の方にあるものですから近いんで、生活するにはもう、会社も近いんで、はい。通勤もしやすいですね。
神戸での経験
Q: 自治会に参加するにあたってその役員をするにあたって生活の変化というかありましたか?
変化というかただ楽しいですよね。自分でまぁあの去年たまたま、今年か。たまたま神戸に行く機会がありまして、冗談半分にちょっと去年の夏か秋ころに神戸に行かないかって言われて、行く行くって手を挙げて、だいたいそういう話って近くになってそういう話あったっけってなるんだけれども、具体的な話になってそろそろ神戸に行かなきゃ行けないんだけどってみたく言われてあー本当なんだって。そういう形で行かせてもらってすごい自分の今でもこう宝物みたくなっていて、それはすごい自分でも良かったなって思ってます。で、そういった声かけてくれた会長を始めみなさまに本当に感謝しているというか、それはありますね。
Q: 神戸に行かれたことでなにが一番大きかったですか?
あーまず一番はあのやっぱり神戸の人たちも同じ痛みっていったらなんですが抱えているっていうのが分かりまして、私自身も阪神淡路大震災の時はこうやっぱり人ごとだったですね。で自分たちがなってこうそんなにこう聞いたりなんだりしないけども、こう1.17の阪神淡路大震災のイベントを通じて、こういろんな人から聞こえたりしてみると、未だにやっぱり揺れたりなんだりすると心配なんだよね、って歩いていてもきこえるわけですよね。あーちょっとやっぱり同じこうやっぱり痛みを抱えてるし、やっぱり忘れてはいけないし、みたいな形でやっぱり、うーん、忘れるってことがやっぱり一番悲しい。まあ、忘れていいってこともあるけども、やっぱり忘れないでいてもらいたいっていのもあるし。そういったものを、すごい感じたし。いろんな人の、人との交流っていうのもやっぱりあったし。そういっためんでは、すごいこう、まあ、うん、阪神淡路大震災の教訓もあるし、今回の東日本大震災のやつもあるし。あとやっぱ人とのつながりっていうか、そういったものをすごい感じさせてもらった従う集いだったと自分では思っています。繰り返しになりますけど、そういったのに参加できたのがやっぱり自分自身のやっぱり幸せだなって感じてるんで、そういっためんではやっぱりすごいこう、自治会に入って良かったなって感じてます。
将来やりたいこと
Q: 今木皿さんご自身で、なんか希望っていうか、こうなって欲しいなっていう得に強い思いってありますか?
あー。やっぱりこう。上手くは言えないんですけども、やっぱりこう前向きなかたちっていうか、そういったやっぱりいろんなかたちで。私なんかもうテニスとかやってるんで、まあ先ほど、テニスをやってきたんですけども。友達とかとまーいろいろテニスの旅行に出かけたりとか、あと、そういった生活だけじゃなくて趣味とかの部分でもやっぱりこういろんな可能性あるじゃないですか。はい。そういう例えばカラオケが好きな人はカラオケやったりとか。そういった形でこう趣味とか、サークルみたいなの作って、やっていけたらなーって思ってるんですけども。
慰霊碑
Q: 先ほど、震災に関しての記憶というか、今後に伝えていくべきだど、ということをお話されたと思うんですけども、何かそういうものを形として何か残しておきたいってそういう思いっ慰霊碑でしたりとか、、
そうですね。できれば、まあいろんな考え方があって、具体的なものを残しておいたほうがいいって人もいるし、でもなんらかの形で残してもらいたいみたいな。それが、直接、間接かは分からないですけども、そういった形で、まあどっか忘れないような形で残しておいてもらいちなっていうのはありますね。まあ、いろいろ若者にしても、建造物にしても、残したほうがいいってなんかこう、賛否両論あるんですけどねー。でもやっぱりどういう形であれ、忘れないでほしいっていうのはありますねー。
Q: 賛否両論あるっておっしゃったんですけど、こう賛成の方と賛成ではない方の、どういう意見の違いがあるんですか?
やっぱりこう、あまりにも、残しておくことによって昔のことをトラウマにとらえちゃうと、それは結局マイナスのイメージになるみたいな形、で、やっぱり賛成の方にすれば、そういったやつのことでそういった大きなことがあったんだよって知らしめたいって2つありますよねー。だからねー。ある意味でそういった教訓にしたいって形のと、あとその、呼び起こすことによってトラウマの形ってそういう人たちのことを考えると、やってはいけないんだっていう2つの意見に分かれちゃいますよね。それは私はどうこう言うつもりはないですけど。
Q: 木皿さんてきには、どうお考えですか?
私的には何らかの形で残してもらいたいなーっていうのはありますね。それが直接じゃなくても、あるいはこうなんらかの形ではやっぱり残しておいてもらいたいっていうのはありますねー。
松岡 孝一 5
松岡 孝一 4
松岡 孝一 3
太田 ふみ子さん
宮城県角田市で生まれ育ち、閖上へ嫁いだ太田ふみ子さん。仮設住宅における人間関係や、今後の予定、今の楽しみについてお話ししていただきました。
避難所での人との関わり
Q:こういったお話は、今でも他の方と話したりしますか?昔の、その、震災当日の出来事を…?
うん。
Q:そのときどうだったかとか、そんときどうしてたのーとか…?
そういう話はね。聞いてたけどね。もう一寸、ひと。あと、ふた足走るの遅かったら、逃れなかった、とか、ねえ。そういう話はいっぱいね、さいさんもう、みんな持ってるだろうにねえ。あそこにこえ、うーん、旦那さん亡くなった人も。少し貯めといたお金、少しづつためといたお金、流されたーとか。あとからになって気づくのね、みんな。あたしらも、なん、財布のなかにいくらも入ってない。バックなんか持ってねえー。うーん、本当に。
Q:それをそのー、震災直後から色んな方と喋ったりできましたか?
あー、できたのー。であのー、うーんと、次の日は、閖上の小学校まで歩いて行って。その歩くのも、もう、なんていうの、あの道路だからね。で、お母さんそっち見ないほうが良いよっていわれて。ああー、亡くなった人の姿見えるんだなあっていうの、思って、必死に、走ったけどね。あの道路の中どうやって走ったんだかとか思ってね。で連れて行かれたのが、うーん、バスに乗せられて、避難所、こっちの増田の方っていうと、立腰小学校ってあるんですけど、そこに避難させられて。そこにー、もうー、閖上の人いっぱい。一丁目二丁目の人たちー、かなあ。300人くらいいたのかなあ。そういう中で生活してねえ。
Q:そのたくさんの方と、一緒に生活されてたんですか?
うんー。
Q:その中に知ってる方っていらっしゃったんですか?
みんな…知ってる人もいれば、あたしも世間知らずだから、あんまり歩かないほうだから、顔は分かるけど、うんー、けっこうねえ、知ってる人はいっぱいいて。それでー、もう日にちが経ってくると、うちは、誰それが亡くなった、流されて亡くなった。あっちでもこっちでもねえー、もう。迎えに行って帰ってこなかったとかね。そういうー、みんなの大変な思い、後から分かってねえ。気の毒だったなーと思って。
Q:お互いこれから頑張ろうねえ、こういうことがあっても生きていこうねえっていうことを話したりは…?
それはねえ、お互いねえ、気持ちには余裕なかったからねえ、これからどうなるんだろうっていう思いだけでねえ。でもー、そこの地域の人たちの支援とかーねえ、そういうの、こう、いっぱい、頂いたり、食べさせてもらったりねえ。そういうので、あたしたちは、後々、一番食べ物がよかったんじゃないとかって、うん、そういうことはねえ、うん、自衛隊の方たちにねえ、手伝ってもらったりしてねえ。
閖上に戻りたいか
Q:太田さん的に閖上にまた戻りたいっていう気持ちはありますか?
いやあたし、海って嫁に来た時から好きでなかったから。いやー、この際、こっちの方に来れたらっていう思いはあるけどね。うんー、戻りたいとは思わなかったね。孫たちもほら、同級生、仲の良かった友達が、上と下に一人ずついたったからね。だから、子供たちも、孫たちも行きたくない。娘たち夫婦だって多分おんなじでね。暮らしてきたけどね。うんー。
Q:その気持ちはやっぱみん、っていうのは変わらない?もう二年半経ってますけど、変わってないですか?
変わらない。今もウチの人、閖上に月に、ね、一回とかっていう、いうー、名取広報なんですけど、それを届けに行くのに、一件一件届けに行くのに、やっぱり一人で行くのは大変だから、乗り降りするだけでもねえ、うん。だから、運転してー、運転しながら付いて行くんだけど。もうすごくてねえ、あのー、んー、なんていうのかなあ、もう雑草でねえ。うんー。で、明るいうちはいいんだけど、夕方なんか行く時ー、あるでしょ?そういうとき、もう、頭痛くなってね、体が震えてきて、早く帰ろうって言って帰ってくるんだけどね、いつもね。うんー。
震災後の家族との交流の深まり
Q:震災通して、家族と仲が深まったとか、旦那さんもそうですけど、やっぱそういう感じることってありますか?
うーーーーん、そうだねえー。娘がやっと親の気持ち分かってくれ、分かってきたって。親の苦労分かってきたっていう風に言われたときは、やっと分かったのかー!なんて(笑)思うだけでね。なかなかね、感じないものだからね。まあー、夫婦、家族、上手く行けば良いなって思うだけで、ねえ。だから、お父さんには長生きして、ほしい。面倒見は良いし、優しいからね。
仮設住宅での人間関係
あたしってこう、人間関係に、こう弱いのかなあ…。あんまりこういうとこに行事あっても、うんー、仕事してるから尚更なんだけど…慣れないっていうか…。たまに来ると、こっちに来たらーとか、ああ珍しい子だーとかって。優しい声かけられるんなら良いけど、目で見ると分かるからね、そういうのが苦手だから、尻込みするっていうか。うんー。で、ここの集会場の中でもね、編み物だ縫い物だっていっぱいしてる人いるんだけど、私不器用だからなにせ。だから、うちにいたいって言うの、本当で。みんな行くの分かってるんだけど、来れない。
いつまでもごちゃごちゃこちゃこちゃって、こう、なんか、あーでもないーこーでもない、って一人の人を攻撃したりとかね。うんー、そういうこと。でも、その人の性格だから分かんないけど…。…あんまり上手く言えない。
Q:仮設に、で暮らしててそういうこと思うこと多いですか?
多いね、うん。だからこういうとこに来たくないっていうのも一つあるしね。
Q:仮設に、ってことですか?
うん。…まあ、その人たちもみんなストレス溜まってるから、ねえ。一人一人性格も違うしねえ。うんー。…もっと大きい輪が欲しい、うん。
今の楽しみ(外の人との関わり)
今一番楽しみなのは、自分で好きなの…運動。頭良くないから、遊ぶのだけ好きだったから。学校にいるときから、運動が好きだったから。遊びに行くのに、うちの人にも、外に出ないとだめだーとかって、まあ、少し自分で言うのはおかしいんだけど、欝に近い精神状態になった時もあるから…色々ね。
今はレクダンスの方に、行ってってね。楽しんできて。昨日も行って、一日踊ってきたんだけど(笑)もう脳みそ固まってるわ、覚え、やっと覚えたなーって思っても、うちに帰ってくるまでに忘れたりとか(笑)でも楽しい。外にいるほうが楽しい。でもそういうおかげで、こう、みんな良い人に恵まれて、ほらー、シルバー人材センターでお世話になってる人にもよくしてもらってねえ、頂いたり、ご馳走になったり、レクダンスで会った人たちにはやっぱり、寄って行きなーって言われて、お昼までご馳走になって、夕方まで遊んでくることもできるから。今太ってきたんだけど(笑)
小野 直光さん
昔から自営業で働いてきた小野直光さん。閖上の人たち同士の近さについて、その距離感が良くもあれば、反面に自営業をしているからこそ分かる大変さをお話ししてくれました。
震災後も変わらない人付き合い
Q: その方の中にもやっぱり家、家族失くされた方もいると思うんですけど、あの震災後付き合い方が変わったりとかありますか?
付き合い方、んー、付き合い方、そーですね。付き合い方は昔のよう、昔と全く一緒っていう付き合い方と言ってもいろいろありますが、たとえばちょっとお邪魔してお茶をのむとか、
震災後の人々の距離…近すぎる、すべて見えてしまう
なんとかっていうのはまぁ気の合う方々普通に昔と変わらずやってるんじゃないでしょうかね、そういう面では、ただ、んー、それでもあまりに近すぎるといいますかね、昔はこう閖上の町があって転々と滞在してたんですよね、それがあまりに近くて見えすぎるというようなかんじも正直ありますね。ま、いいかわるいかは別ですけども。やはり最初は離れ離れ、何にもなくなってこういう風にひとつになって心強さっていう感じもありましたけど、まぁ、なれなんでしょうね、うん。あまり近すぎるのもちょっとって感じますね
Q: それはどのような時に感じますか?
あの、同業者間ですと余計に感じることが多いと思いますね。要は、あの、すべて見えてしまう。それがちょっとすべていままではね、そんなことはないんですけど、ちょっと車でとおすりすぎるとかちょっと用があれば立ち寄るとか、それがいまちょっと、外見ると全部見えてしまって、それで閖上の方もね、あの。買いにくいっていうんですよ。というより、その。例えば、魚屋さんが3件あって、ここで1件ここで買うのがほかの魚屋さんから見えるんです。で、さっきいったように商売してると閖上の方半分くらいわかる、だからだれだれさんうちにこなかったなって内心ね、口にはしなくてもこなかったなっていうのも思うし
ボランティアに対して
Q: ボランティアの方にどのようなことを知ってもらいたいですか?
あー、どのようなことを知ってもらいたい、やはり今でも、なんか掃除とかしてくれてますよね、ええ、側溝ですとか、えー、まぁ、例えば日和山付近ですと、そこで何かをするからみんなで一緒に運んだりとかあそこ周辺の掃除とかやってるのは見てましたんで、そういうふうにボランティアの方がやってくれてるから、ま、あの状態であるんだなと、もしボランティアの方がいなければ閖上の人がいって夏には草をかり、ゴミがあればひろいってのをやるのかもしれませんが、やはりボランティアの方がいないとすさんでくるのかなっておもいますね、それから、観光バスなんかもきますけど、やはり、人がいるっていうだけで全然違いますね。まぁ夜になれば全然違いますけど、仕事上言ったりもするんですが、やはり人がいないっていうのはさみしいですし、まぁあの、震災直後のままだなとあの暗く人がいなくなってからの時間は、やはり日中でもボランティアの方まだだいぶいらっしゃるので、やっぱそういった面でも全然違いますね
高橋 吉也さん
震災前はタクシードライバーとして閖上の方々と交流を持ちながら暮らしていた高橋吉也さん。今はタクシードライバーやマイクロバスの運転手の他に内職のビーズ作りをして販売を行い復興支援にも協力しています。閖上の将来に熱く語っていただきました。
閖上での人付き合い
Q. 震災前の閖上っていうのはどんな感じでしたか
いやあいいとこだよ。静でね、釣りもできるし、あとその日散歩してもなんていうかこう仙台みたいな町ですよね。だけど、ささってできるしさ、車だって混まないし、いいとこなんだよ。
Q. みんなで交流とかも
うん、ありますよ。うん。だから特にタクシーもしているから顔も知っているってこともあるっちゃ。それでしゃべったりさ。
Q. ご近所付き合いとかやっぱ家族のように仲良かったりするんですか?
うーん近所付き合いっていうのはあまりしなかったかなあ。うーんだっておらはよそ者だから。生まれは仙台だから、仙台市だから。でそこさ45,6年なんだけど、だからあんまり交流はなかったね。
Q. それは住み始めてから40年とか経ってもあんまりなかった…?
うん。だから近所とかはお茶のみとかするんだけど、あとちょっと離れたら知らないじゃないですか、やっぱり。行ったり来たりね。
仮設生活について
Q. 早く仮設に行きたいっていうのは
そうそうそうそう。だから今は極楽って、極楽って言えば、うん、ね、そういうもんだよ。うん。心配するわけではねえもん。ここは病院はある、買い物は楽、みんな近場にあるじゃないですか。だからここより本当にいいとないと思うよ。ただまだ、その復興して、戻ろうとしても、本来ならば戻りたくないの。なんにもない。んで、市役所だって本当になんにもいつもなくて、今までずっとずるずるべったりで、2年半経つ、過ぎたんだわ。なにやってんだっていうのが本音なのさ。
閖上の将来
Q. 今後閖上ってどんな町になっていくのかなって
閖上の町を作ろうとしているんだけれどもたぶんできないと思うよ。今後10年、20年経っても。だからそうなったならば、県の方からそれから国の方でか、ソーラーパネルを作って電気を作ったらいいんでないかと我々は思うわけよ。だからなんも住む人いないけんな。空き地でしょ。津波来たらまたなるんでしょ。そうなるんだったらソーラーでも電気を送って、国さ大きくすればそれで済むことだ。それはそれでいいんでないかと我々、俺の考えはだよ。だからみんな助かるし。あとは何、あの東道路っていうのかな?高速あるところのこっち側さこういうの丸さ作って町みたいなのを作ればみんな戻るんだから。それが東側だって埋め立て、あの、津波の来たとこさ、公営住宅だ住宅建てたって戻る人も少ないってことなの。みんな流されてね、1丁目まで、1丁目まで流されて誰も住むっていうのはあんまりないじゃないですか。でももう我々はもう死んでからもう1回来るから、いや俺たち、あんたたちの時代だから今度。そうなった場合はだからどういうふうにすっかって。そこなのよ。
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