荒木 保子さん

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震災を乗り越えて、現在、息子さんと仮設住宅で暮らしている荒木保子さん。複雑な胸の内を語ってくださいました。


震災を経験した今…

うん、人に迷惑かけないで、やっぱり、自分で自立して一生懸命生きていかなくてはないかと思ってます。みんなに迷惑はかけたくないから。これから、そうやって生きていかなくてダメなの、自分のことはじぶんでしないといけないし、独立しなくちゃないので。それは、息子に対しても、家族に対しても、そう思ってます。自分がちゃんとできるようになれば、みんなに迷惑かけないし、それ一番思ってますね、私のね。やっぱり、津波、こう、体験した人でないと、分かんないですね、これはね。だから、テレビ見てるとさあ、涙ボロボロ流れてくるんだよ、私。東日本大震災って言われると涙こぼれてきます。だってうちも流される、そのまんま、車も流されるそのまんま。いや、そのまんま流れたんですよ。でもかろうじて言えば、壁が抜けなかったので、ものは残ったのもありますけど。だから次の日から、あの、水引いてから、毎日子供たちに、4人して、2番目と3番目と夫婦して、行って持ってきてもらったの、いっぱいあるんですけど。で、選択して持ってきてくれました。それも、入れない区域ですけど、遠くからあるいて持ってきたよって言って、震災の時は、津波…2回しか行ってないんですよ、閖上。見るの嫌だから、行かないから、行かなかったんです。でも、避難所、仮設は不自由ですよね。なにからなにから不自由です。だ、これからみんなに、やっぱり手を借りて、生きていかなくてはないでしょうから。年取ってくるとね、だ、みんな助け合って、行かなくてはならないんだなーって思ってるんですけどね。一人で生きて…人間は一人で生きてられないからね。生きれないから。人の手借りなくてはならないんです。だ、いじわるしたくもないし、私何言われても黙ってるから。


仮設での大変さ

こういう仮設っていうのは大変だなっていうことを知ってもらいたいほんとはね。こういう災難にあって、こういう仮設に入って、不自由な生活だってことは、知ってもらいたいです。めったに入れない仮設だからね。こういうのはね。まさかこういうのに入れるとは思ってなかったからね。ミシミシ言って、ものすごいんですよ、夜寝れないんです。風吹くとものすごいんです、音が。床はべこべこべこべこって。トイレは寒い。寒くて、あの、夜、朝にはいる時は、トイレ開けとくんです、エアコンつけて。ずいぶん、二年三年だからは、こう隙間だらけになってるのかなあ。寒いは寒いです。だからやっぱり仮設に入った人でないとわからないです、これはねえ。早く復興決まってもどりたいですよね。


閖上の良さ

やっぱり閖上は良いですよ。海風は入るし、こういうあれでないから、海の方だから涼しいし、…いいとこですよ閖上は。でみんな戻るからって、友達も行ってくれるから、で、一緒に行こうねとは言ってたんですけど。ま、病院も何も建ってないんだら、行ったってしょうがないなとは考えたんですけど、今からの話だからもうどうなるか分からないんだよね。何年かかるか分からないですからね。


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針生 敏夫さん

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現在、農業のお仕事をされている針生敏夫さん。震災直後、多くの人を高台に避難させ人命を救いました。夜中に震災の悪夢を見て眠れない夜が続いたと言います。


人とのかかわりや仮設での生活

んーそういったのでストレスは溜まってないとおもうんだけどね。あー、みんなおんなじなんだもん。みんな被災してんだもん。

Q: 結構、前の方々と話しされたりとか、心強い環境ではあったんですか。
うん、そう。やっぱりほら、みんなと仲良くしなきゃいけないなあっていうそういう思いを持って接すれば、やっぱり揉め事って起きないもんですよ。

Q: その二ヶ月後に仮設に移られて、仮設住宅での生活ってどうですか。
んーと、まあ、外に出てるわけじゃないですからね。風も当たんないように。まあある程度は、ほら、話し声とかテレビの隣の音とか、しますけどね。まあ、くしゃみとか話し声は聞きますけどね、うん。それはお互い様だから、うん、仕方ないと思う。橋の下に寝てるんじゃないからね。暖房ひいてね。また、こういったとこに、住めるだけでも、ありがたいなーっとおもうですけどね。


震災から年月が経った今…未来への不安

ストレス溜まってるかはわかんないけども、んー…多少はやっぱり…あるかもしんない。仮設に暮らしてっからじゃなくて、やっぱり、先を見たときにやっぱり。先を途中..見なければいいんだけど、先を見てしまうと不安があるじゃない。うん…その日を大切に生きれば、そう感じないんだけども。どうしても..その人その人の事情があるからね。そういった時にやっぱり、不安とか感じるとやっぱりストレスも溜まるかなあ…うん。


3.11のこの震災を、絶対に忘れてはいけない

んーちょっと辛い時もありますね。辛い時も..あるんですよ。でも、風化させてはね、ダメなんですけどね。やっぱり伝えていかないと。


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大貫 満喜子さん

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生まれも育ちも閖上だが、一度そこを離れた大貫満喜子さん。戻ろうと考えていた時に震災が。彼女が閖上に込める思いとは。


閖上の好きところ

なんだろうね。全部ひっくるめてなんじゃない?人も、あの、場所も。くうきも。風も。全部。だ、これがっていうのはないね。全部総合的に好き、うん。嫌いなんだけど好き。わかるかな。あのね田舎町って最初に言ったじゃない。田舎だからこそ人間関係もちょっと複雑なとこもあったりするわけ。


これからの復興について

まあね、元に戻んのは当然無理なんだからさ。やっぱ1から作るわけでしょ。それはみんな楽しみながらやればいいのにね。結局昔だってそれなんでしょ。閖上って昔から本当に古い歴史はあるんだけど、古いものは何にもないのさ。つまり何回も津波の被害にあってるんでしょ、おそらくは。当然のことながらだけど。てことはさ、流される度に作り直してるわけじゃん。だったらもう一回作ればいいんじゃない?それもそんな色んなしがらみなくさ。今一番問題になってるのは、名取市は現地復興とかいって、だから話矛盾すると思って聞いてると思うんだよね、きっと。なんで私が名取市に対して敵意をもってるかっていうところ。現地復興ならそれでいいじゃないかって思うかもしれないんだけど、結局なに、行政側のほうでこうしろみたいにして作られたものの中に戻っていくていう感覚はどうなのかなって思う。もちろんほら、一人ひとりで難しいのはわかってるし、行政はそのためにあるから、まずはレールを敷いてそこに住民の戻るっていう。それはわかるんだけど、なんか強制連行みたいなやり方での現地再建案っていうのはちょっといただけないんでないかなって。みんなが自然に戻りたいとか、戻るっていうふうな、風に作ってくれて、それで初めてみんなで楽しみながらね、いい町作りができると私は思うんだけれども。そうでないじゃない。ここじゃなきゃいけないとか、それも嫌がってる人まで無理強いするような感じで戻そうとするでしょ。そういう意味ではいい町なんか作れないもんね。だから楽しくね、本当は明るく、前向きに、もう一回一からやればいいだよね、別にね。そんなかさ上げ、まあかさ上げは安全性っていう意味では必要なのかもしれないけど、そこまで行儀よくしなくていい。逃げるとこさえ作ってくれればいいと思うし。そんな大きい商店街、なんだか今日も見たけど、なんかね。円形のもの、すごい商店街作りますって。そんなもの最初に張り切って何なのって。そうでないんでないのって。住みたいなって、戻りたいなって思わせるようにしてくれなきゃね。そういう風になんないといけないし。


生きていくうえで一番大切なこと

なんでしょうね。うん。まあつながりとかじゃないかな。うん。ちょっとね色々話しながら、さっきのほらあんまり良い事なかったみたいなね、あったけど、そういえば一つあったなっての思い出したの。それがやっぱつながりかな。それこそ震災がなければ出会わなかった人たちもいっぱいいるわけよ。閖上の人も含めて、ボランティアの人も含めて、支援してくれる人も含めてね、こういうことがなければ絶対一生会わなかっただろうっていう人いっぱいいて、そういう人たちの顔が浮かんだのね。そういえばそうだったと。今でもずっとねいい付き合いをさせてもらってる方もいる。全然目立たないんだけどね、そういう人たちこそでも、だからもっとポッと出てくれればいいのにさ。本当に継続してやってくれる人たちってね、あの、それこそマスコミとかに出てこないのよ。陰でひっそりとやる、地道にやるからこそ継続するんだろうしね。そういう人たちはありがたいし、今も繋がってますね。そんなもんぐらいすか。


閖上の復興が遅れていることについて

閖上は住民が悪いから復興遅れてんだみたいなさ、見聞きするの。見たくはないけどやっぱ気になるから調べるそうなんね。決してそうではない、決してそうでは ないっていうことを知ってほしい。みんながみんが反目しあってるわけじゃない。みんな町が大好きで何とかしたいって思いがあるがゆえに色んな議論してるだ けで、そこの合意形成をするための調整役が本当は行政であるべきなのにそれをしようとしなかったからここまで来ちゃっただけの話で、住民がみんながみんな いがみ合ってるわけじゃない。本当はみんな閖上が好きで良くしたいからやってるだけだってこと知ってほしいかな。ぜひおいでませ閖上、みたいな感じ。


メッセージ

まずはやっぱりぜひ来てほしいと。まずは現地に来てくださいと。どういう町なのか想像してね、車でこう通り過ぎるんじゃなくて、歩いてほしいの、そこにどれ だけの人が住んでどういう町だったんかって想像しながらぜひ足を運んでほしいなと思うし。まあね、みんなが楽しく暮らせるような町づくりになるように見 守ってほしいなと。


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小斉 正義さん

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閖上で生まれ育った小斉正義さん。退職直前まで仙台で働いており、震災によって家が流されてしまいました。少し前までは仮設に住んでいましたが、つい最近中古のマンションに引っ越されました。閖上について多くのことを語ってくださいました。


震災後の町のつながり

Q:震災の方で、震災で町がつながった・・・
うーん、つながり・・・つながり、っていいますかね、結局あの、一応あの、町内の、あの町内会体でもってこう、ある程度集められたもんですからね。であの、必ずしもその町内の中にだけお友達とか友人がいるわけじゃないんですよ。別の町内の方もいるわけですよね、バラバラになっていくわけ、どうしてもこう。なので、あの、必然的に連絡が取りにくくなった。とそれにあと、あの、民間のアパートに入る人もいるわけですよ。ですから、特に民間のアパートにはいった方は、今(電話)よこした人なんですけどね、どこにいるのか、っていうのはあの、しばらく分かんなかったんじゃないですかね。んで、だんだんだんだんこうね、あの人はどこにいるっていうふうに分かってきましたけどね。だから、あの、そういう意味でのコミュニケーションがなくなりましたけども、意外とね、ひとつの町だったもんでですね、小さい町だったもんですから、そんなにあの、コミュニケーションが悪いっていうかんじはしなかったですけどね。


仮設でのつながり

Q:今は、だいぶなんか、今は仮設ですよね、仮設でなんか、そういうもともと、まあ一つの町だったっていう感じがしますか?それとも、なんかほかの場所から来た人もいる・・・
うんうん。そうですね、あの、比較的閖上の人たちだっていう気がするもんですから、そんなにあの、違和感って言いますかね、そういうものはなかったですね。仮設に暮らしているってこと自体は、違和感ですけどね。ただあの、個人的には、そんなにあの、違和感は感じなかった。で、それにあの、造りがね、造りがよかったんですよ。言ってみれば、昔、日本でいう、長屋形式なんですよ。ですから、必然的に隣の人ともお話しするわけ。それから、あー、前後ろもですね、あの、平面で顔、必ず開ければいるんですよ。ですから、そういう意味で、あの、まるっきり顔しらないわけではないですし、ですから、こうあまり違和感っていうか、その疎外感っていうか、そういうものはなかったですね、私はね。


人間関係の変化

Q:震災前の、閖上と比べて、今の閖上って、どんなことでも良いんですけど、人間関係とか、変化とかはありましたか?
うーん、まあ、でもね、この通りでね、閖上の人っていっても、もう閖上の人は閖上に住んでるわけでもないですわね、ですからもう、それぞれでもって、ええ、2年8か月ね、暮らしてるわけですから、まあ今の現状には、あった生活を捨てざるを得なくなると思うんですよ。だ、そういう意味では、なんていうんでしょう、もう、別々の、生活を、に、向かって歩み出したっていう感じじゃないですかね。みながみなではないですけどね。 ・・・・ たもんですから、自力で再建できる方は、もうそれに向かって動き始めたんです。で、今だいたいこう、落ち着いて来たようですけどね。ですから、やれる方はこう、どんどん動いたもんですから、そういう意味では、まあそれぞれの道をですね、歩きはじめた人たちと、あと市のこう、閖上の行く末をね、見て、今でもこう、じっと動かない人たちと、になってるんじゃないですかね。


震災後のコミュニケーションについて

Q:小斉さんご自身の経験で、震災前と震災後で閖上人との付き合い方の変化はありますか?
うーん。変化っていってもね、友人知人は亡くなってるしね。ええ。ですから、まあ、変化しようにも相手がいなくなってるわけ、私の場合は。親戚もなくなってるし、えー、うちの近所の、ね、友人知人も亡くなってますから。私そのものとしては、変化というよりももう誰もいなくなったって感じだわね。だ、そのみなさんは、そういうこのコミュニケーションとかね、そういうことによる、こう、調べたいんだと思いますけど、今回の震災に関しては、あまりにも人が亡くなってるのでね、そういう意味で私自身は、あの、コミュニケーションというか、コミュニケーションとる人がいなくなったっていう感じですよね。で、それにあと、ほら、今言った通り、もうバラバラになってますしね、いずれね。バラバラになってますので、あの、ひと、その、閖上の町としては、全然想像つかないわけですよ、もう。みんなバラバラになってるもんですから。ですから、さっきまで話したのも、しばらくぶりなので、私がほら、中古のマンションに移ったものですからね、したいということで、こうやって電話で、ぐらいしか、連絡とりようないわけですよ。今までだったら、ひょーって行って、おーって言うんですけどね。ま、そういう意味では、ね、あの、コミュニケーションがあってないようなもんっていうか。コミュニケーションそのものが、もうね、必要ないっていうか、極端なこと言ったら、もう今それぞれの生活も精一杯ですからね。そこに住んでるとこでやっていくしかないと、ま、仮設だったら仮設の中で、で仮設だって、みんなバラバラの仮設でしょ。閖上は全部一つの、になって仮設はまたべつですけども、結局、こっちにある仮設、あともうこっちにある仮設、ってそういうのがバラバラですから、その中でしか、やっぱりやれないていうことでしょうか。あとは、復興してきて、今度はどういう、あの街づくりしていくか、その中で、どういうコミュニケーションが生まれるか、だけであって、今はもう、閖上の町そのものがないに等しいもんですから、コミュニケーションって言われても、それはちょっとね、いろいろこうやってね、こういう記憶とか、そっちにもあるでしょ、閖上なんとかカフェとかですね、は、あるんですけどね、ま、そこは、それだけのもので、で、全体的なものじゃないよって。でまあ、・・・お祭りもあったんですよ。お祭りもね、あの日和山でもってね。それでも何人くらい来てんのかわかりませんしね。ええ。昔であれば、祭りだって、みんなのうちでね、あの、各の家で、お赤飯を炊いてね、で、あのちょっと料理をつくってね、えー、やったもんですけど。今は別にね、仮設にいれば、閖上のお祭りだったったって、仮設で赤飯炊くかっていったらそんなこともしませんしね。だから、コミュニケーションそのものがありますかって言うこと自体がもう、ね、あの、不自然ていうかね、私から言わせてもらえば、もう。


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