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人付き合い

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野口一子さん

インタビュー一覧へ戻る 宮城県仙台に住む野口一子さん。閖上に知人がいらっしゃるそうで、閖上にもまた行きたいと言います。旦那さんを震災前に亡くされ、震災当時一人で、とても恐怖を抱えていたと語ります。 震災時の恐怖 ほんとに怖かった。その揺れるのが大体あれほど大きくなくても大体ずっと続いてたんですよ。そして雪が降ってきたでしょ。で、まあ日中まだ会社がやってる時間には寄ってきたりしたけども、夕方になったら誰もいなくなったの、この辺に。それで怖くてもう家にいられなかったんです。それで、明るい時傘さして、鍵かけて。でも、鍵もみんなかかったし、トイレも壊れて、今もまだ壊れてますけど、壊れても普通に使えるんです。それで怖くて一人で家にいられなかったから傘さして町内ずっと歩いてたけど、誰もいなかった。で、小学校がずっとあるんですけど、行ったとこにね国道のとこ。で、そこがそういう時に集まるとこだったの。私そのことなんかちっとも頭になかった、もう怖くて怖くて一人でしたから。それでここ歩いてて、でも家に入るのは嫌だなあと思って。。 震災直後 そして市役所こう見たら明かりがこうこう付いてたんです。だからあぁユミにも子供にも連絡しなきゃと思って、どうせダメだと思うんだけど、ここ通じないんです電話は。それで市役所行ったの。そしたらロビーが一杯人がいて、そして公衆電話がダーッとあるからそこをみんな列になって待ってて、やるけども、どなたも通じないの。三回ぐらい回しては交代して。私もダメでしたけども。 こんな目に遭うとは そして怖いなーと思って、また外でなきゃなと思ってたら、ミゾグチさんの奥さん迎えに来てくれて、家に行こうって言われてまた。そして泊めてもらって。一人はもう心細いわ、怖くて。ほんとに・・・こんな目に逢うとは思わなかったってみんな思ってるでしょうけど。 怖い思い あのーこういう怖い思いすると、地震というものが怖いと思うようになるのね。そんなに地震なんて大きいのにあったことなかったから、そんな怖いと思ったことなかったけど、ほんとにもうちょっと揺れてもあの頃はもう・・・ドキドキドキドキしましたよ、うん。 Q:今はその怖い気持ちって少しずつ薄くなりつつあって。。 ええ、ありますね。。。雨漏りだけが怖い。 仙台の復興 Q:現状とかっていうのはニュースからわかりますか?復興してるとことか・・・ そうですね。大体わかりますね。まあまあですけどもね、うん。だけどあのー、国だってそんなにお金無いし、市だって県だってねあれですから、そう思うようにトントントンとは行かないですよね、これはね、完全にね、復興ってね・・・だから・・・まあ、これはしょうがないですよね、徐々にだね。 Q:仙台の復興はもう早かった。。。 仙台はね、やっぱりね。で、私あの、高校の同級生とかがもう仙台が津波でなんとかなんて言ってみんな心配してくれたけど、この、私達の所は海に近くないから大丈夫でしたよみんなね。 心の復興 まあ仮設は可哀想だもんね。さっき言った(テレビで放映されていた)おじさんに、ほんとに狭いとこ、台所があってここでご飯食べて、こうやって小さな部屋があるぐらいなんですよね。おじさんは多分ここに休むんでしょうね。そしてその男の子まだ高校生だっていう人が・・・お兄さんと一緒なのかな、まあ二つぐらいしかない部屋でしたね。だから・・・ほんとに狭いもんね。だからカビるでしょうね。あの、人が大勢集まったとこも温度上がるでしょ。それとおんなじだもんね、狭いところにねいれば。でもあの男の人も卒業して、中学校だったのかな、そして高校三年終わって、今年あたり就職したかもしれない、その弟さんの方。お兄さんは勤めてたんだっけね。何回もやったわ、その人たちのこと。かわいそうに。だからあまり笑顔とかなかったね、その男の人。可愛がられてたでしょうにね、まだ中学生ぐらいだったらね。そういう人一杯いるんだろうね。 Q:そういう仮設に住んでる人は、やっぱり家がないってことで、なんか心の復興っていうか、すぐに同じような生活に戻れないっていう・・・ そうかもしれないね。 Q:仙台の人たちはそことはやっぱりちょっと違くて、家があったていうところが違う点ですか。 家があったからね。 Q:そこでこう、やっぱり仙台の人の心の復興は他の人と比べて早いっていうのはありますか? そうですよね。それはそうですよ。それであのー、立派なうちがあってもそこは一ヶ月に一回、一週間に一回とか二回とか行けないとか言って、そして入るともうねずみとかなんか動物とか入ってもうどうしようもないとかああいう風になったら、どうするんだよと思ってね、それこそもう立て直せば一番いいですけど、立て直したらそんな大きな家も建てられないでしょうし。私だったらどうするだろうなって思ってました・・・気の毒だね、それはね。 Q:仙台の人はどっちかって言うと、普通の生活に戻るのは早かったですか。 うん、早かったですね。まだまだ電気もつかないのかなって思ったら、ある程度。でもその通りから向こうがもっと早かったんですよ、やっぱりそういうなんかの具合でね。でもね、みんな言ってるけど、私も思いますけど、大体三歳から五歳くらいあのショックで年を取りましたね。頭も悪くなったし。失敗ばっかしするし。大体一日に三つくらい間違いするんだから。ほんとにあの・・・大体みんな・・・おかしくなった。そして実際ほんとに年も取りますからね。 インタビュー一覧へ戻る

鈴木芳一さん

インタビュー一覧へ戻る 震災を乗り越えようと新しいことを始めた鈴木芳一さん。パソコン教室に通い、ガラス細工も始めたそうです。そんな中、震災で御家族を亡くされてからの現在の心情、震災当時の話等語ってくださいました。 当時の津波の恐怖 今度あのー、せっかく仏壇を新しくしたから位牌だけでも取りさ行きたいなと思って最後に位牌取りに行ったんですよ。その時に、丁度それが来たとき、あのー海の方、あれが津波だと思わなかったのね。あのー、とにかく土煙?煙がもやもやーってなってたのはわかるんだけど、まさかあれが津波だとは思わなくて、だから三回目の津波、んー、ああ三回目に戻ったとき、丁度私津波に巻き込まれたんですよ。うん。その時は周りの人たちらが、俺が車運転してる時に戻れーって騒いだらしんだけど聞こえるわけじゃなかったし、で、対向車に逆走してくる車が一杯あったんですよ。なーんでこいつら逆走するんだろうなーって思ったんですよその時。そして、真正面みると土煙みたいなもくもくもくーってなってたんですよ、空が。そしてそれがもう津波だと思わなかったから。で、それが丁度水。。なんちゅうんだろ、寄せてくるって言ったらなんともいえない表現だけど、寄せて来たんですよ。それ、私もすっかり飲まれて。ただ私の家はワンボックスだったから、何度か高いかったからまだ良かったんだけど、車ぐるぐる回されて、もう逃げることもなんにも出来なくなったのね。そしてそん時人間の本能なんでしょうね、そん時一瞬にして私窓開けたんだってね。そして窓開けて、で窓半分ぐらい空いて止まったんですよ、もう電気系統ショートしてたから。うん、そんときの正面のガラス、全面フロントガラスありますよね、あんな音ってすごいです。ミリミリミリと音がします。あーものすごかったです。そしてその間に私と車に、車にぶつかってきた車があるんですよ何台か。あのー、軽の車とかいろんな車がぶつかってきて。あのー窓が空いて、そこから私は上手く逃げられたんですよ。ところが自分にぶつかって来た女の子、今でも忘れられないけれど、あの顔は。あの結局その子はもう巻き込まれてもう水たっぷり浸かったんだわ、軽だから小さいでしょ。車体低いから、俺のは高いっちゃ車体が。だから助けてっちゅうんだけどあの顔。窓に顔を貼り付けて。あの顔は一生多分忘れられないなと思っています。あの女の子は。あの女の子の顔と、後おばあちゃんが柱に津波で着いて助けてーって叫んでる顔は。声も顔も。多分それはたまになら、今でも夜暗くて寝れません。怖くて。今もだから明かり付けて寝てます。夜、出るのも怖いし夜。いつのまにかそういう恐怖になってしまったんだね。だから一人でいるときが一番怖いですね、いろんなこと思い出すからね。 無我夢中で逃げた だからあん時っちゅうのは無我夢中なんだよね。うん、実際は。だからあの無我夢中で逃げたことさえ、逃げて、車から逃げるのはほんの何秒もないですよね実際は。だからいや、多分これは経験から言うんだけど。自分はあん時はもう半分死ぬんだなって思ったから。あのー車流されて、巻き込まれて、あのードア開かないとき、あー俺はここで死ぬんだなってあの時本当にそう思いました。でやっぱり、いろんなことを走馬灯に・・・よく言うよね、テレビなんかでもね、あれ経験しました。ほんっとにいろんなことを頭ん中に出てくるんだね。それも経験しました。あーこういうこと言うんだなってよくあん時はあの、よく走馬灯のように蘇るって言うようによくテレビなんかで見ますけど、あーそういう、こういうことなんだなーって。あんときは半分あー俺はここで死ぬんだなあと思いましたからね。 生かされている Q:そういう当時の震災のことって、ずっと覚えて・・・ うんなんでしょうね、なんで覚えてるんでしょうね。記憶の断片にね。他のことは忘れても、そのことだけは忘れられないってこれはなんなんだろうなって思ってます、だから。 Q:忘れてはいけない・・・ うん、そう思ってます自分もだから。そして自分が何のために生かされているのかなって悩んでいますよ。あの当時死んでもおかしくない状況だったのに、なんで自分だけこうやって生かされてるのかな、カミさんは何をどうしろっていってるのかなとふと考える時あります。あの時、ホントに死んでもおかしくなかったですから私は。おめは、だからみんなにおめえは長生きするなって言われるけれど、長生きしたくないなとは思ってます。 Q:生かされた命・・・ そう、だから何のために生かされてるのかがちょっと・・・苦しんでます。 閖上の海 あの、なんとも言えないです、あの朝。朝起きて、窓開けたとき、朝日のきらきらしてるっちゅうのが何とも言えないですよね。うちも古い家で二階から、私二階に住んでたから窓開けると、なんっとも言えないですよ、あの情景が。あの情景私好きだなって思ってるんですよ。あの、起きて朝キラキラして、海がさ、キラキラしてるんですよね。で、そこにある船がポンポンポンとのって煙はいてる姿が何とも言えなくてね。好きな光景だなって思ってました。夜は夜であの灯台の明かり、あのピカピカ光る、あれも何とも言えない。好きでしたからね。うん、なんとなく何かと海見てるだけでも、一人でぽつらーっと海さ行くのも好きだったからね。あのー波の音?あれが好きだったからね。 橋の向こう Q:鈴木さん自身はそういう亡くなられた方を思い出す特定の場所とかっていうのはあるんですか?ここに行ったらあの人たちを思い出すっていう・・・ いや、それはないな。ないけれど、どうゆうわけか行きたがらないんだよね。あのー、橋から向こうに。どうゆうわけか。でも良かったのは、俺だけじゃないんだね。あのやっぱりみんなそうゆう風になってる人はまたいるんだね。だからそれは安心した。あれ、俺病気かなあって思ったもん自分で、行けなくなる、行けないっていうのは。それで、聞くと、そうなんだ私も行けない行けないって言う人いるなあって思ったから、だから安心はしました。あれー俺ってなにか病気になったのかなって思ったもんほんとに。どーも車運転しててもそっから先行こうと思っても、なーんか行きづらいんだよね。だからいつもこう橋から向こうへは行ったことないです。だから日和山からは行ったことないです。どうもあの橋越えられなくているから今。 Q:その震災の経験はトラウマになって・・・ いやーだからそれはトラウマなのか俺はちょっとわかんないけどさ、自分でさ。まずいなとは思ってるんだけど、でも、いや俺だけじゃないんだなって思ったからまぁそれなりに安心はしたのね、いやこれって病気なんじゃないかってほんとに思ったから自分で。 苦労と今 うん、俺も考えてるよ。俺も考えるもん。あのーここ(仮設)へ来た頃。死にたいなーって思ってたもん。なんでこんな苦労するなら死んだ方が楽だなあって思ったもん、実際は。 Q:その考えをなくすきっかけになったのはやっぱり・・・ うん、そのパソコン教室さ行って、そして今自分のやろうとしている仕事が俺自身がやっぱりおもしろいなって思ってるからさ。うんいや、結局苦痛じゃないっちゃ。いや、それはお金になるならない別にしてね。まぁ今は実際お金になってないけど。なんとなく今やってる事自体が今楽しいからさ。面白いなあと思ってるから。ただ、その面白いからっつって、ね、おもしろさイコールお金に結びつかないからさ今とこさ。でもー、今言ったように自殺っていうのはほんとに考えたね。で、そんなことしたら死んだほうがなんぼでも楽だなーっちゅうのは思ったことはあります。こんな苦労することなら死んだ方がいいやーっていうのはね。まぁ今は隠れているのかもしれないけど、どこかに、自分の気持ちの中にね。今は仕事の事とかで今頭が目一杯だからさ。いやー今度いつ展示会すっかなーってことで今手いっぱいです。あと俺以上どういう風に汗かいたらいいんだべなーって目一杯です。売れた商品早く作りたいなとも思ってるし。買ってもらったのにまだ作ってないから。 Q:集中したいことが出来ると気持ちも明るくなりますね。 はは。いやーでもね、みんなそれなりにやっぱりみんな苦労しているんだよみんな。うん、立ち直れんでいるんだよ、今。俺だってほんとにひどかったもん。一年・・・一年間ほんとなんにもしてなかったです。ぼーっとしていました。よくまあみんなこんなそういう風に働いたりさ行けるなあって思ってました。会社なくなったこと自体がショックだったんだからさ。会社ね、30年も同じことやってきたことしか知らないっちゃ、実際。実際世の中っちゅうのはほとんど知らなかったのとおんなじだね。会社とうちの往復だけしか知らないんだから。それ以外のことを知らなくたって別に食っていけるんだから。 インタビュー一覧へ戻る

沼田 幸也、恵さん

インタビュー一覧へ戻る 閖上生まれ閖上育ちの旦那様沼田幸也さん。奥様の恵さんは25年前に閖上へ。被災当日、旦那様は仕事で違う町へ行かれており閖上の状況をわからず、しかし奥様の恵さんは津波を経験。 昔の閖上 Q:昔地震来る前、昔の閖上がどのような町でしたか? 幸也さん:昔の閖上はやっぱ、まあ近所になるとやっぱ一つの家族みたいな感じになっちゃうんだよね。あっこあの、そのなんつうの半々ってあって同じあのなんていうんですかね、町内会でのこう隣組とかっつうのあって、まあそういう所はわげけてなく、えーなんかこう昔聞いてたのはここで醤油の貸し借りとかそういうのも隣近所でよくやってた、長屋みたいな感じだったっていう。私が生まれた頃はやっぱこう世代が変わってるのであのその、あのやっぱ町内会でなんかやるってなったら呼ぶ集まってはなんかかんか運動会にしてもお祭りにしても色々やってたんですけど・・ 恵さん:多いね行事ごとはね。子供とお年寄りが一緒になってやる行事が多いよな。普通ね子供会は子供会だけなんだけど、お祭りは子供の見越し、大人の見越しまでとか。 幸也さん:そんな地区でやるんで、だあ先。。先月か?あの閖上の方で見越し担いでたんですけど、でそん時もあの上智大学の人達何人かが来ててあのインタビューさせてくださいって。あははは。でそん時はほら、うちらの年代結構いるが、下の子紹介してやってあげたらしてやったんすけど、あいう感じだと結局子供見越しあと大人見越しってこうやって一緒に出て行ったんですけど、実際はあの、その地区だが日和山地区とか紙町地区那珂市、あとそういう同じ地区の中でみんな子供見越しが子供会が出して、あと本見越しっておれら担ぐ見越しはもう一日中練り歩くみたいな感じで。 閖上への愛着 幸也さん:最初美田園見に行ったんですよ。海の方ね 恵さん:お父さんはやっぱ海がいいって 幸也さん:海、海がいい 恵さん:海が近いのがいい Q:それは何でですか? 幸也さん:やっぱ海は涼しいっすもん。うん、あとなんか開放感あるっつうか。やっぱどっか閖上に戻りたいっつうのはあるんでしょうね。そっちのほうに。ただ市で計画してるようはかつ上げしたから安全だっていうのはちょっと納得いかないんですけど、だから俺らはもう閖上には戻らないと決めてこっち買ったんすけど。最初その美田園だと高波も来てなかったし、あの高くすれば床下までいかないんじゃないかっつう思いで言ったんだけど、息子に一言「ここ津波来てっぺや」って言われて。で、山しかないけど山でいいのかって「山の方がいいべや」って言われて、結局こっちに買ったんです。うん、俺はやっぱ山より海の方がよかったんですけど。 恵さん:やっぱしね、やっぱり海で育ってる人はどうしても海の近くっていうか、うーんあるのかな。やっぱね。うちも実家はほら海、海だもんね。 幸也さん:うん、海だよ。 恵さん:うん、ちょっと高いけど海の見える所にやっぱし再建してるから、やっぱしみんな、うーん海の近くで育った人は海、やっぱ怖いけどまあやっぱし海がいいのかな。ねえ、やっぱ違うもんね。うーん 近所付き合い Q:何か言い残したとか、これだけは知ってもらいたいということはありますか? 幸也さん:あと、やっぱこう今家族になってるけど、やっぱうちらも今その状態なんだけども、やっぱ近所付き合いは大事にしたほうがいいかもしれない。 恵さん:そうだね。 幸也さん:やっぱ聞くとああ寝たっきりで例えばうちらが仕事いって子供達だけ残して、で隣近所が付き合いがあれば「ああ、誰々仕事行ってから子供達残ってんかもしれないね」ってそれで助かった人達も結構いたて聞いてるので 恵さん:うん、閖上はね。あそこはおばあちゃんだけとか迎えにいってあげたりとか 幸也さん:閖上はそういうの結構あったって。あのしんちゃんもそうだったね。友達で前NHKとかに出てた橋本真一さんとかも結構町内会長やってたから周って非難させたとか、あそこばあちゃんしかいねえからとか 恵さん:閖上結構それが多いの。年寄りが多かったから、結局それで亡くなってる人達、おばあちゃん残ってるから迎えに行かなきゃっつって亡くなってる人達も多いから。うーん、だから隣近所はね、今思うと大事にしなきゃいけないかな。 幸也さん:だってうちもやってたもんな、付き合い。あのほれ町内会の役員やるからって繋がり始まって、まだ3年4年ぐらいだもんな。うーん、隣近所はな。やっぱ、そう長屋、古きよき時代じゃないけど、そういうのがいいんだろうね。そういうのは大事にするべきだろうね。多分都会に行ってしまうとそういうのなくなっちゃいますよね、多分。逆に警戒しちゃってね、隣との付き合いもなくなってしまうし。 インタビュー一覧へ戻る

小野 直光さん

インタビュー一覧へ戻る 昔から自営業で働いてきた小野直光さん。閖上の人たち同士の近さについて、その距離感が良くもあれば、反面に自営業をしているからこそ分かる大変さをお話ししてくれました。 震災後も変わらない人付き合い Q: その方の中にもやっぱり家、家族失くされた方もいると思うんですけど、あの震災後付き合い方が変わったりとかありますか? 付き合い方、んー、付き合い方、そーですね。付き合い方は昔のよう、昔と全く一緒っていう付き合い方と言ってもいろいろありますが、たとえばちょっとお邪魔してお茶をのむとか、 震災後の人々の距離…近すぎる、すべて見えてしまう なんとかっていうのはまぁ気の合う方々普通に昔と変わらずやってるんじゃないでしょうかね、そういう面では、ただ、んー、それでもあまりに近すぎるといいますかね、昔はこう閖上の町があって転々と滞在してたんですよね、それがあまりに近くて見えすぎるというようなかんじも正直ありますね。ま、いいかわるいかは別ですけども。やはり最初は離れ離れ、何にもなくなってこういう風にひとつになって心強さっていう感じもありましたけど、まぁ、なれなんでしょうね、うん。あまり近すぎるのもちょっとって感じますね Q: それはどのような時に感じますか? あの、同業者間ですと余計に感じることが多いと思いますね。要は、あの、すべて見えてしまう。それがちょっとすべていままではね、そんなことはないんですけど、ちょっと車でとおすりすぎるとかちょっと用があれば立ち寄るとか、それがいまちょっと、外見ると全部見えてしまって、それで閖上の方もね、あの。買いにくいっていうんですよ。というより、その。例えば、魚屋さんが3件あって、ここで1件ここで買うのがほかの魚屋さんから見えるんです。で、さっきいったように商売してると閖上の方半分くらいわかる、だからだれだれさんうちにこなかったなって内心ね、口にはしなくてもこなかったなっていうのも思うし ボランティアに対して  Q: ボランティアの方にどのようなことを知ってもらいたいですか? あー、どのようなことを知ってもらいたい、やはり今でも、なんか掃除とかしてくれてますよね、ええ、側溝ですとか、えー、まぁ、例えば日和山付近ですと、そこで何かをするからみんなで一緒に運んだりとかあそこ周辺の掃除とかやってるのは見てましたんで、そういうふうにボランティアの方がやってくれてるから、ま、あの状態であるんだなと、もしボランティアの方がいなければ閖上の人がいって夏には草をかり、ゴミがあればひろいってのをやるのかもしれませんが、やはりボランティアの方がいないとすさんでくるのかなっておもいますね、それから、観光バスなんかもきますけど、やはり、人がいるっていうだけで全然違いますね。まぁ夜になれば全然違いますけど、仕事上言ったりもするんですが、やはり人がいないっていうのはさみしいですし、まぁあの、震災直後のままだなとあの暗く人がいなくなってからの時間は、やはり日中でもボランティアの方まだだいぶいらっしゃるので、やっぱそういった面でも全然違いますね インタビュー一覧へ戻る

高橋 吉也さん

インタビュー一覧へ戻る 震災前はタクシードライバーとして閖上の方々と交流を持ちながら暮らしていた高橋吉也さん。今はタクシードライバーやマイクロバスの運転手の他に内職のビーズ作りをして販売を行い復興支援にも協力しています。閖上の将来に熱く語っていただきました。 閖上での人付き合い Q. 震災前の閖上っていうのはどんな感じでしたか いやあいいとこだよ。静でね、釣りもできるし、あとその日散歩してもなんていうかこう仙台みたいな町ですよね。だけど、ささってできるしさ、車だって混まないし、いいとこなんだよ。 Q. みんなで交流とかも うん、ありますよ。うん。だから特にタクシーもしているから顔も知っているってこともあるっちゃ。それでしゃべったりさ。 Q. ご近所付き合いとかやっぱ家族のように仲良かったりするんですか? うーん近所付き合いっていうのはあまりしなかったかなあ。うーんだっておらはよそ者だから。生まれは仙台だから、仙台市だから。でそこさ45,6年なんだけど、だからあんまり交流はなかったね。 Q. それは住み始めてから40年とか経ってもあんまりなかった…? うん。だから近所とかはお茶のみとかするんだけど、あとちょっと離れたら知らないじゃないですか、やっぱり。行ったり来たりね。 仮設生活について Q. 早く仮設に行きたいっていうのは そうそうそうそう。だから今は極楽って、極楽って言えば、うん、ね、そういうもんだよ。うん。心配するわけではねえもん。ここは病院はある、買い物は楽、みんな近場にあるじゃないですか。だからここより本当にいいとないと思うよ。ただまだ、その復興して、戻ろうとしても、本来ならば戻りたくないの。なんにもない。んで、市役所だって本当になんにもいつもなくて、今までずっとずるずるべったりで、2年半経つ、過ぎたんだわ。なにやってんだっていうのが本音なのさ。 閖上の将来 Q. 今後閖上ってどんな町になっていくのかなって 閖上の町を作ろうとしているんだけれどもたぶんできないと思うよ。今後10年、20年経っても。だからそうなったならば、県の方からそれから国の方でか、ソーラーパネルを作って電気を作ったらいいんでないかと我々は思うわけよ。だからなんも住む人いないけんな。空き地でしょ。津波来たらまたなるんでしょ。そうなるんだったらソーラーでも電気を送って、国さ大きくすればそれで済むことだ。それはそれでいいんでないかと我々、俺の考えはだよ。だからみんな助かるし。あとは何、あの東道路っていうのかな?高速あるところのこっち側さこういうの丸さ作って町みたいなのを作ればみんな戻るんだから。それが東側だって埋め立て、あの、津波の来たとこさ、公営住宅だ住宅建てたって戻る人も少ないってことなの。みんな流されてね、1丁目まで、1丁目まで流されて誰も住むっていうのはあんまりないじゃないですか。でももう我々はもう死んでからもう1回来るから、いや俺たち、あんたたちの時代だから今度。そうなった場合はだからどういうふうにすっかって。そこなのよ。 インタビュー一覧へ戻る

長沼 俊幸さん

インタビュー一覧へ戻る 水道業をしながら語り部も行っている長沼俊幸さん。1番最初のインタビューだったので閖上についてお話していただいて、震災前と後の変化や、閖上のつながりの強さやコミュニティーなどを教えてくださいました。 閖上という町 Q. あの、閖上で、あの51年間過ごされたということなんですけども、私たちどういう街かっていうのを私たちも知らなくて、あの、少しでもいいので・・・ はい、うん、まずね、閖上ってまちはね、まーもちろんみなさん今日行ってみて分かると思うんですけど、あの、閖上っていうあの、港町ですね、。漁師さんたちのまち、まぁ今は漁師さん少なくなりましたけども、もともとは漁師さんたちのまちで、栄えた漁、栄えたまちですね。やっぱちっちゃいまちで、ああいうちっちゃいまちなもんですから、ほんとにみんな知り合い、あー、知ってる人、顔見知り。まぁ、元をたどせばほんとみんな親戚みたいな感じになってるところでね、ほんとに今考えればね、いいところだったのかなって、思いま、 まぁ、もちろんいいところだからこそ、50年も私いて、今でも閖上に戻りたいって気持ちで思ってやってきましたんで、ほんとにいいところでした。隣近所もみんな、みなさん知り合いだし、だから、今仮設に私は自分の家族、あとー、私の親、じいちゃんばあちゃんも一緒にいるんですよね。で、じいちゃんばあちゃんたちがやっぱ閖上にいれば、なんぼ年とってもいくら年とっても、少し体が具合悪くなってもどっかに散歩しにいくわけですよ、年老いてね。で、お茶飲みに行ったりどっかに散歩しに行ったりね、で、そういうときに万が一ね、どっかで事故が起きた、どっかで倒れてた、具合が悪くなったっていっても必ず分かるんですよ。どこのじいちゃんどこのって。そうすると誰かしらが連絡よこしてくれるわけですよね。そうすると私たちみたいな、若い世代、働いてる世代の人も、じいちゃんばあちゃんを2人で置きっぱなしにしても、心配なく仕事に行けるわけですよね。そういうね、いい町だったんですよ、安心なね。子どもだってそうです。子ども育てんのにも、どこの子ども、どこの孫ってみんな分かるわけですよ。だからなにか子どもたちが悪さをすれば周りの人達が怒こってくれるし、すぐに、もー話は聞こえてくるしってことでね。そういういい町だったの。んー、だから 今もこうやって私が、私たちの年齢ぐらいの人で、震災があって今仮設住宅にいるって人は少ないんですよ。みんなやっぱそれなりにね、もう2年も経ったんで、ある程度目鼻立ちをつけてどこかに引っ越す。あとー、自分で家を建てるっていうことしてる人が多いです、たしかに。んー、でもやっぱり私もそれはしたいんですけど、実際やっぱりその、あのー、私の親たちが嫌なんですよね。そういう知らない、自分たちの知らない、誰も知らない町に行って生活するって事が嫌なんですよ。で、まぁ、自分の家にいるよりは、そういう知らない町に行って暮らすよりは、ここにいて、みんな閖上の人たちと一緒に暮らしたいという思いがあるわけですね。 閖上のつながり 孤立したとこだったのね。俺たちの親父の年代がそうだったのね、だからそれがずっと続いて、俺たちみたいな年代でもね、高校にくらいになんか行き来するようになっても、そういう町で、なんか閖上って特別な人たちで、つながりが強いんですよね。だから小学校中学校なんか先輩たちからいじめられるんだけど、それが高校に行ってみていっきにみんないっきに外に出ていくでしょ、そうすると閖上っていうだけでみんなから助けてもらえるんの。そういうつながりが異常に強い。異常なくらい! 大切なのは人々 Q. どうしても1つ聞きたいことがあるんですけど。それだけ絆が強いっておっしゃってたじゃないですか、家族のようなって、で、土地はすごい大きな被害を受けたじゃないですか、それで、今のような状況の中で、その「土地」が自分の帰る場所であるのか、それとも「人々」が帰る場所であるのか、そのへんをどのようにお考えになるのかちょっと聞きたかったんですけど 俺はね、私が思うのは、人なんですよ。人が戻る場所なんですよ。だから中には、場所、あの閖上っていう場所をつくればまたこの閖上ってまちができるっていう人もいるんですよたしかに。でも、俺はできないと思う。場所なんてどこでもいっしょ。だって、ここだっていま閖上の人たちのそのつながりあるんですよ。だからこの場所をそのまんまね、これから何十年も住んでいいよって言われたら、この場所はずっとこのままですよ。何十年もずっと。今の人たちのゆりあげのつながり保ったままいけますよ。だから俺は場所じゃないんじゃないのかなって、人!だからここにいる人たちをここにそっくりそのままどっかにもってって、その人たちをあと50年暮らさせたってこのまんまですよ、ずっと。どこどこの孫、どこどこのばあちゃん、どこどこのあんちゃんって言われて。ね。その、この人たちをバラバラにしてあの閖上の土地に町をつくって、いろんなところから人呼んできて、一つの町を作って、そこで50年したからってこういう人たちのつながりって絶対できないと思う。だって、やっぱり何十年もずっと続けてきた人たちとの暮らしとつながりがってこそ初めての場所なんですよね。もちろん、だから、これらの人たちを山に連れてってねやればまた漁師町とはちがったまちにはなるかもしれないけども、人とのつながりってのはそれで続いていくと思うね。だから俺は人だと思ってる。だから俺がゆりあげに帰りたい帰りたいってずっと言ってきたのはそこなんですよ。あのばしょに帰りたいんじゃ人ですよ。閖上の人たちと一緒に暮らしたいと思ってたんです、ずっと。だから今のうちの親父たち、おふくろたちとおんなじ。 インタビュー一覧へ戻る

遠藤 茂美さん、遠藤 利也さん

インタビュー一覧へ戻る もともと農家をやられており、震災後も農家復興を目指し奮闘している遠藤茂美さん。そして、もともと仙台空港に勤めていたが震災をきっかけに自分の地元である小塚原地区の農家復興に興味を持ち遠藤茂美さんと共に小塚原地区での農家復興を日々努力している遠藤利也さん。インタビューでは閖上独特の人付き合いやコミュニティーについてお話していただきました。 震災前の閖上 Q:では昔の閖上について教えていただいてよろしいですか?えっと人間関係といいますか、人との付き合い方だったり、そういうものを教えていただけたらなと。 遠藤茂美:どうだろう。ここはね、閖上の町とまた違って、なんていったらいいのべかな。ここえらな。閖上の町は町で漁業の町であって、ちょっと離れたここは農業っていうかたちになっているのかなって、で人付き合いは、ほら、あったかいっちゃ。やっぱ地元として、ここ閖上地区っていうのは、幼稚園から、幼稚園、小学校、中学校へずっーと同じなのね、みんながそのまんま、どっからも人が入ってこないのね、持ち上がりでずっと行くから、上下の先輩たちと後輩たちとの関係も仲がいいってことですかね。なかなか、名取はここだけだあね。閖上だけだな。だから仲間意識はすごくある町だね。 地元を盛り上げようと思った理由 Q:その地元を盛り上げていこうって思う1番、思った1番大きい理由を教えていただけませんか? 遠藤利也:1番大きい理由はやっぱりこの小塚原がというか閖上というか名取市が好きだからっていう。言うのちょっとこっぱずかしいんですけど。たぶんそれしかないかなあって。ですね。 Q:どういうところが好きでしたか? 遠藤利也:好きっていうだけでもちょっとこっぱずかしいのに。聞かれるとまた(笑)このおんちゃんたちも好きだし、この上の世代のずんちゃんばんちゃんも好きだし、同級生たちも。なんかやっぱりこの閖上っていう土地は独特みたいで、高校行くと高校の友達とか専門学校行ったら学校、大学だったら大学の友達っていうんで、やっぱりそこで新たな仲間が増えるじゃないですか。でもやっぱりなんか帰ってくるところがみんな閖上というか。もう珍しく幼稚園から、小学校から、正確に言えば、小学校から中学校ずっと9年間ずっと同じメンバーなんですよ。増えたり減ったりっていうのが、転校とかないと、あの、ない。だからもう9年間ずっと一緒なんですね。もっと幼稚園合わせれば11年間一緒みたいな土地で、ってなるとよその地区だといろんな小学校が混ざって中学校になったりするじゃないですか、あとは別れちゃったりとか、そういうのが全然ない土地で、ってなるとやっぱり繋がりも腐れ縁に近いですけど、同級生との繋がりもやっぱり大きいので。ってなるとやっぱり皆震災あってからも集まるのは閖上のみ。で震災も経って2年9か月ですか。経ちましたけどそれでもやっぱり集まって話すのはやっぱり地元の人間が多かったりだとか、よっぽど他所の行ってないと。他所に行っている人間も閖上最近どうなのって声かけてくれたり、たまに帰ってくるとやっぱり皆で集まったり。なんか繋がりがとてもあついというか太いというか。なのでそこがやぱっり好きなのかなと思いますけどね。 閖上に戻る・戻らない理由 遠藤利也:戻ってこない理由の1つでもありますよね。結局生活のなんていうか軸というか大黒柱というのが、僕たちの世代で変わっていたとしたら、わざわざ津波きたところで移転しなくてもいいんじゃない、子供たちの学校の関係もあるので今ここらへんの子達はバスで通っているのね。で通ってもその学校に例えばわかりやすいとこで言うと野球部あるんだけどサッカー部ない。サッカーやりたいからじゃあいっちゃうと。となるとやぱっりそういう新しく生活をスタートさせるっていうのも僕たちの世代だったらまあ簡単にできる。じいちゃんばあちゃんだとそこに行ったら近所も知らない人たちだけどってなることって多いじゃないですか。ってなるとやっぱ出歩かなくなったりとか。でも僕たちは子供たちがいれば、近所の人たちとコミュニケーションとれたりだとか。ってなるとやっぱり他所の行ってで学校が近くてとか、電車が近くてとかっていう所の方が僕たちとしては、考え方としては楽なんだよね。だから他所に行ってる理由もあったりとか。だからやっぱり難しい。難しいですかね。他所に行ってしまった方が楽な部分っていうのもあるので、やっぱり増えてくれるは、その増えてもとに戻ってくれればいいんですけど。 インタビュー一覧へ戻る

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