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不安

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増子 理香さん

インタビューページへ戻る 増子理香さん つながらろう!放射能から避難したママネット@東京 繋がりや情報共有の大切さ http://www.youtube.com/watch?v=wUoiLn2LV6o 「2011年の..実質的にいうと6月に作って…でお母さんたちの繋がり、とにかく情報がなくて…で、私は自主避難者なんですね…強制避難の人と自主避難っていうのはコミュニテぃーの中で大きく分かれているんですけど…自主避難した人たちは避難先も自分で選ばなきゃいけないし、で、その…支援とかも本当に薄かったのでとにかく繋がりがなかったので…すごく孤独だったし不安だったんですよあの時..2011年…でとにかく「繋がりたい!!」って思って…それで1人で繋がって!って言っても仕方がないし…器を作ったらどうかなと思って作って…それで偶然立ち上げるきっかけになった時に、あの郡山って福島県郡山市っていう大きな市があるんですけれどもー…そこから避難したお母さんと偶然巡り合うことがあって、人の紹介で…で、その方とすごく意気投合して、「じゃ、その会を開こう」って言ってー…会場を探して定期的にその会を開いて」 自主避難者 http://www.youtube.com/watch?v=oV1ROxRDYVQ 「最初は私達避難したお母さんたちで、やっぱ避難できるってことはー..ごく一握りの人たちなわけですよ…福島の中で6万人の方が避難してるって言われてるんですけど、でも福島全体…福島の人口からみると強制避難じゃなくて自主避難で見ると…その人たちは恵まれてる人、タイミングも多少お金とか人脈に恵まれた本当にラッキーだったっていうしかないんだけども。」 避難するかしないかは人それぞれの価値観により選択される http://www.youtube.com/watch?v=-Ma8eHWl3Yk 「関西の人からすると「関東なんて住む所じゃないよーじゃないんだからもう避難してきてよかったわねー」って東京の人が福島の人を迎えるかのように関西では関東の避難者も東北の避難者も全部同じ。沖縄になんか関西から避難してる人もいるもん。「関西なんて、本島なんて住むところじゃない、住めないよー、沖縄にいらっしゃいなさいよー」「本島は汚染されているわ!」みたいな、こっちオスプレーだけどーみたいな。うん、だから世界から見ると「日本になんか住んでないほうがいいわ」みたいな、これは大なり小なり違うんだけどもやっぱり汚染っていうのはね、、すごく避難を選択するっていうのは個人の判断になってくるとは思うんですけどねー」 親子供、学校、安全宣言、情報共有 http://www.youtube.com/watch?v=a6aY8BZAKGA 「日本の被ばく許容量ってあるじゃなですか、それが年間1ミリシーベルトだったんですよ。それ以上被ばくしてはならないって国が定めてて…それを11ミリシーベルトって超えてても避難区域ではないのね…で、ここ通いなさいっていうし授業中はマスクしちゃいけませんとか言うの、とか「学校の水道のお水は安全だから」ってうちの子はペットボトルの水を水稲に入れて学校の給食のときとかに持ってかせていたのだけども学校の先生に「学校の水道は安全だから水稲はだめ」って娘さんだけダメって言われて…で、子供はいろいろな情報の中…、私が結局はこういう風に避難したような母親なのでそれなりのそういう情報を与えている家庭にいたから、学校のお水も飲まなかったし水稲のお水も飲めなかったし、学校では一滴もお水は飲まないでおうち帰ってきたりとかしてたのね。そんなの可笑しいでしょ?小学校1年生、6歳ですよ6歳。そういうのが普通…だから親が抱えているような乳幼児だったら親が守るような事が出来るのだけれどもー小学校とかましては高校生だったら部活あったりこういう問題で…親が子供を守りたいと思うような気持ちがあっても思い通りになんなかったりーそういうのですね」 素直に話せない空気 http://www.youtube.com/watch?v=PIcF4d9_vaM 「おっしゃる通りで、親しい人ほど話せない状況であったりするので、私が一番話せない…放射能について話せないのは夫。 夫に相談ができないのが、不安を話せば「そんなこと…」ってなるし、「大丈夫だよ」って帰ってきてほしいから、で、「そんな困難があるってことだったらそこにいる意味ないじゃん」とか言われたりとか 「甲状腺がんが福島の子に見つかったみたいだよ」って言ったら「お前たちは東京にいるからがんにならないわけないじゃん、東京の郊外とかどうのこうの」だとかさーそりゃそうだよって思うけど… どんどんこう話しをすり替えられたりとかなっちゃうから口論になるんですよねー。 だから話せないようになったんですよー。くだらない話しですけど、この間知り合いの娘さんが高校受験をするっていって 「公立受験するはずだったのが私立の大学に付属の高校から推薦を取れてすんなり入れたんだー」っていう話しをちょうど電話できたから 「何々さんの子供さんが推薦とれてうちの子もそうで来たらいいよねーー」って言ったら「それまでいるのかよ、何年先までいるのかよ」みたいな話しとかにスラっとすり替わって、 やっぱり当事者だからそうなっちゃうんですけどもー本当に喋り…喋れなくなりましたねー。実際向うに残ってる分家の親族とか子供の繋がりとか切れちゃいましたね…うん…たまに帰ったりするときとかにーカフェに行ったりとかするのだけどーなんかこう「避難どう?」っていうのはなくーで、言葉に詰まるから私が「最近どう?」とか聞くじゃないですか、そこにいる人達にー…「んー変わらない」とか言われて「この前もプールやったよー運動会やったよー」ってだからなんかこう、あえて不安じゃないわ的なオーラを出して…話す」 震災から3年経って… http://www.youtube.com/watch?v=DevI2-O0gQs 「私今一応福島のお母さんたちのネットワークの、別に一応代表なんですけどー別に世話人をしているわけではなく…やっているんですけどー…福島から避難してる子供達のお母さんとか2011年から考えると大分..本当変化していって課題とかも不安点とかもやっぱりすごく変化していってるんですよね。で、最初のころはさっき話したんですけども2011年に自主避難している人たちは会えるだけで「私も避難者」「私も避難者」っていうだけで嬉しくて交流会あちこち..特に東京とか支援者が多く開いて…そこに行っては知り合って、巡り合いの喜びがある時期だったんですけどー2012年のやっぱ後半ころからだんだんやっぱり変わってきて、そのそこでもう楽しく交流するっていうよりかは、どうやって生活していくかとか戻らないだとか、得に自主避難者は勝手に避難しているわけだから勝手に帰るわけですよ。」 家族関係、お父さんの心理、震災離婚 http://www.youtube.com/watch?v=xj_FwfNv18E 「後は、ケースとしては残ってるお父さんが病んじゃったりで家に火を付けて自殺したお父さんもいます。本当に家が全焼しちゃって結局なくなっちゃんですね..「帰ってこないならば離婚するー」っていう夫と離婚しちゃった人もいたりー…とかどっちが寂しいか考えてごらんよって言いたいんですけど…かえって来ないよりは離婚を選択をする。とかたまに長期でたまに休みがとれたから福島にかえって福島の家を開けたらそこに離婚届けがあったりとかーあって、旦那さんの荷物全部なくなっちゃってたりとかでーとか結構“震災離婚”って聞くと思うんですけどもー本当に多いんですよ震災離婚が…本当に色んな家庭があるからー母子非難を支えてくれる旦那さんもいればーうちみたいに微妙な立場の旦那さんもいるしー..もう毎週毎週会いに来て支えてくれる人も、旦那さんも、もう本当色々なんだけどーとにかく、旦那さんたちもどっちかっていうとアンチの人がそれでお母さんと子供が選択を迫らなきゃいけない時期に、特に今3年たって、4年目になると結構節目じゃないですか3年って「もう3年」という言葉があるようにーようにどうするのって迫られていかなきゃいけない時期でもあるのかなーってなりますね。」 言える環境、避難者の感情、子供 http://www.youtube.com/watch?v=taShE37s0do 「皆が隠さずに言えるとね、色んな意味でもまた変わってくるとは思うんですけどもー…なかなか難しいかなーとは思う。だから支援者として何が出来るかってよく聞いてくださるんですけどー…ね、なんかね寄り添って忘れないでもらいたいですねー。なんかこう色んな事を相談したりとかする色んな所にで、例えば今までもあったかと思いますが、色んなことの相談とか愚痴だとかあった時に話す人って完結したいわけじゃなかったりするわけじゃないですかー…なんか…肯定…呼び止めてもらいたいときが多いから、だからそういうのが一番の支援かなって思いますよね、だからその手前にあるのは聞いてくれることなので、一番の支援じゃないですかねー。はい。今この人がどう生きていくことを支えるかっていう事に変わっていってますよね、で、私もよく色んな支援者とかに、「去年まではいわての方に毎日毎週毎月とか行ってたのだけども、もうやめちゃったとかって」言って。「なんで?」とかって聞くと仮設とか色々回ってたんだけどー…俺が言っても私達が行ってても変わらない。だから変化を求めていく人は変わらない事に疲れてくしー..でも変化…結果を求めるんじゃなくて、その個人のパーソナルをサポートしてあげることができる、あとはこの人がどうそれで力を得ていくかじゃないですか。だから結局判断するのはその人じゃないですか、いくら結婚しなさいっていったって判断するのは自分じゃない?海外で仕事があるからってそこに行くかはどうかはどんなに条件が良くても自分の判断。判断するまともの精神力とかまともな感性だとかまともな道徳的な考え、間隔がやっぱり被災地の人たち仮設に住んでる人達は保てないんですよね、だからそれはそれを支えてあげるのが一番、一番、いちばーん!!根本な支援かなと思うんですよねー、物をあげる支援は固定先の支援、段階があるんだと思うんですけどもー…私がどう強く生きていけることを支えて、守ってくれてるかって考えれるようなサポート。、その考えられる余裕を作ってくれるサポート。が一番かな。」 イジメ、子供、学校、 http://www.youtube.com/watch?v=9xETORgCz9c&feature=youtu.be 「一番初歩的な問題はイジメでした。新聞で見たことあるかもしれないけども、2011年辺りは避難してきた、得に原発から避難してきた“福島”ってついた名前の子供に石を投げたりとか入館拒否があったりとか、ホテルでの宿泊拒否もあった。本当に…ちょっとプチ避難みたいな事したでしょ?3.11のときって。そうすると関西とかで、何…受付のカード書いて福島って書いたときに「ちゃんと検査してきてますか?」とか「当館ではちょっと検査してないスクリーニングっていうんですけども、大分被ばくの検査してない方々にはちょっと宿泊できません」とか言ったりとか、関東では多分なかったと思うけど、いっぱい受け入れたと思うけど関西だとかだと新聞に結構出てたりとかして。ほとんどの子が避難して繋がってるお母さんたちの子供、ほとんどが小学生ぐらいからそういうイジメにあって、高校生ぐらいになるともうそれが気にならなくなって個人でちゃんと分かって、発言するけどー…小学校だと多分言葉を放った家庭でそういう、なんていうか、放射能のアンチ的な部分も危険性を伝えてるのはいい家庭なんだとは思うけどーそこ、それから先の教育が出来てなくって、ついつい親から聞いた放射能が危ないだとか危険だとかっていう言葉で接しちゃったとは思うんですよ、決して悪気は子供だからないとは思うし。だからそういうイジメは結構あるから我が子がいじめられたってのはありますね。それが言わない理由かなー..うんー…だからすごく考えるより複雑で親がどうこうとかよりも子供達本人の問題としてそれはもう幼稚園年中年長から理解は出来てるしそういう情報で溢れていたからね、当時は特に。まー親次第よ、親。親がどういう情報を流すかどうかだけどー、うん。」 インタビューページへ戻る Advertisements

菅原 忠男さん

インタビュー一覧へ戻る 仙台市出身の菅原忠男さん。閖上出身の奥様とご結婚されてから震災まで30年間程住まわれていました。震災があった時も閖上でお仕事をされていたそうです。 閖上に戻りたいのか Q: もしも閖上に戻れるのなら戻りたいですか? うーん、三割くらい。みんながさ、私も戻る私も戻るっていうなら戻ってやる。あの、孫おいてね。まごは絶対行かないって言ってるから。孫はひとり部屋ほしいだべがらまえそいなだったからね、なおさら。もどるったてね三割くらいだな。だってわたしだけ戻るったってね、戻んない人、隣近所にいないっちゃな。もどっても。津波あるんでないかなって。人がいて一番だと思うけど。 昔はね漁師町だからね、やっぱり良かったよ。あの、友達付き合いだの、家のばあちゃんだちも、女房も魚売りしったからね。あの魚かごに背負って仙台の町の方に。あの頃だのやっぱり閖上が最高だったんじゃないですか。私ちゃっこい時いなかったからさ。でも聞くと、閖上の町って言うの、なんて言うの、して漁師の町だからね。お金は、金持ちっていうか、金持ちの人結構いたんだよ。 あーもう、閖上っていうと一丁目から七丁目まであったのね。それで仮設っちゅうのきめらったっちゃ。この辺のこの仮設は三丁目と四丁目の人が集まったのね。あとたまにどっからか入って。だとやっぱりすぐ仲良くなったね。して別の仮設なのいろんなところからきてるから、全然合わないっていうかね。 町のつながりっていってもそうでもないんでね?私だも閖上朝市あるんだよね。毎週日曜。あと日曜祭日。毎週行ってたんだよね。だってうちから歩いて5分くらいで行けたから。やっぱり顔ぶれ見るとあんまり地元の人来ないのね。だから今なんてなおさらなんでないですか。あっちなったからね。だけど今また閖上に戻ったから。やっぱりそういうのあるとね集まるんですよ。朝市、閖上の朝市有名だったんだよ。80件くらい出たんだから。朝6時ころから。今はね遅くなったんだ。9時じから1時ころまで。前は10時から1時ころまで。今はね7時ころから1時までだからなんていうのお昼だのも食べさせてお金いくらかね。だから延ばしたんだよ。で結構そいなの食べれば金になっからね。町おこしっていうかねそういうの。 いまでも行かれますか? たまに。ちょこちょこ。だから今度まえの市場んとこになったから、いってやっかなと思って。先週あたりからね、戻ったのね。 私たちもグランドオープンなった時たまたま行って。たまたま。 ああそうなの?なんちゅうか豚汁かせたりね。あとさんまだのね。さんまの季節の時はさんまかせらっだり。自分で焼きながら。 変わったっていうか亡くなった人たちが多いからなおさらでないの?だれだれさんなくなったってあっちこっちでいうから尚更あいなったんでねかなって思うのね。だってもうね、起きてしまったことなんだけどね。やっぱり今からがねあれなんだっちゃ。元気ださねとね。年寄なんてなおさらね。しょぼーんとしったってね、ますますあれなっから。私たちあれしたって、年寄のひと元気ならないもんね。年寄の人は一人でいるから具合悪くなって救急車で二回くらい助けてやったのね、救急車よんで。うちの棟の人まだ40くらいの人。風呂入って具合悪くなって。しておらいさ走ってきて救急車呼んでけろって。して頭の方手術して。でにかいぐらい手術して助かったけどね。やっぱり家さ閉じこもった人だね。やっぱりどうしても、そいな人なるんだね、やっぱり。そいな人ももっと、そいなのふえっと、もっとああなんでかのかなって思うよ。人の関係もね、もっと。 インタビュー一覧へ戻る

九頭見淑子さん

インタビューページへ戻る 九頭見さんは、福島県いわき市、湯本にある操業100年の和菓子屋 「久つみ」を経営しています。実際九頭見さんのお店で3.11の震災後の生活への影響や、現在の状況、震災後の様々な心境などのお話をお聞きしました。 3.11の震災後の変化(街の変化、商売の変化) 売上的にはね、三分の一だね。例え…簡単に言ったら100万…一か月100万売れてたとしたら30万…もう本当に観光客がいない町になっちゃったからね。もう今は旅館25軒位あるんだけどね、ちゃんとした営業でお客さん…観光客だけでやってる旅館1軒しかいない。後の24軒のうち泊めて仕事してる…あの…観光地・観光客以外の作業員の人みんないるのでどこの旅館も、その他はね、三分の一くらいのお部屋をね、一般の観光の人に状況なので…もう本当にヒドイもんだよ。だからバスをね、まず見ないから、バス通んないから…いつも、今まではね、今日もう土曜日でしょ…土曜日だから道せまい所をやっとおっきい観光バスが曲がるのが大変そうなのをしょっちゅうみてたりね…駐車場には5台6台とバスが停まってたけど…今いないからバスが。まずこない! バスが来ても「ハワイアンズ」には東京からね、直接無料バスみたいなバスが通っていて…後観光バスも「ハワイアンズ」は作業員の人がいないのでそういう意味では一人勝ちだね…「今は観光客がのびてきている」ってハワイアンズ言うんだけども…その伸びてるひとつの理由は国とか東京都とかそういう所で補助金を出していて補助金を出して、1人例えば5,000円なら5,000円を補助します…いわきとかに泊まった場合。けどこっち(いわき市)泊まる所ないでしょ?だからみんなハワイアンズにバスで行っちゃうわけよ。だから「ハワイアンズ」はそれで潤っているで…今、結構、お客さんはいるよ。 震災以降の変化について、心境 それなりに努力はしても努力は努力として、でも何もやらないよりはね、人を呼ぶように、子供はここで学際をやったりね…よく学校とかで文化祭をやるけれども町で小学校中学校高校とかみんなきてね、演劇…演劇はやらなかったな、歌と吹奏学とか後は剣道は剣道の人が盾とかやったりだとか、いろいろレスリングだとか、子供たちが集まると親も来るし、おじいちゃんおばあちゃんも来るし結構いっぱい一日だけでも人が集まって賑やかだった日があったのね。で、それ毎日やって欲しいなあーっとか思っちゃったりとかね、でもそんなことできるはずもないんだけどもね。本当に、夜ここで立ってここの道路350メートルもあるんだけど、向うまで見えるわけよ、人が通っていないから、寂しいよね。もうだって駅から降りてくる人なんか前から見たら全然減っているし、駅の自動券売機なんか連休っていったって売上金が例えば目標が50万とか100万とかだとしても全然やっぱり売れないって駅でも嘆いている。 今の状況、悲しみ、人々の思い 今ちっちゃかった子供が大きくなったときにきけん児が産まれたら、なければいいけど、あったらね、もう私たちの都合で呼んでなっちゃったら目回ってられないので、安心する所があるので、今いってもらっているんだけど、そういう人も旅館も若い人達はすぐに出てちゃったからね、子供たちに影響があるっていうからね、まして女のこのいる家族なんかお嫁に行くにも「福島の家があるの」って言うと絶対なんかなるって思われるらしく結構遠くにいっちゃったし。ここの角でお土産屋さんやってる所もやめちゃって、長野の方に行ってね、お店もだんだんだんだん減っていく一方でこれから….ゆったり館に行くには通らないか….一番の旅館のメイン通りの童謡館の近くあるんだけど、なーんにもなくなっちゃった壊してそのあとに出来ないから、もう戦後の終戦後の第二次世界大戦の焼け野原にぽつらぽつら家があるみたいな感じになっちゃってて、恥ずかしいというな投げ悲しいというか、でも後継者がいなければ家を建てる人もいないでしょー、だからなーって思うんだけども。本当の出来る事ならあの日の前で戻りたいって気持ちはあるけどもそれは出来ないことだから、これからの事を考えるって事だけで…自分達はもう家もあるしお店もなんとかね、自分達が食べて行く分はねなんとか、3分の1でもね、やらないよりは少しは利益が出るのでやってるって感じですね。 福島のイメージ、原発への思い 原発の事故がなければね、確かに300人以上いわき市も津波で亡くなっているので、沿岸沿いね、今もまだ復興していないのだけども、それと地震だけだったらね大丈夫だったとは思うけども、自分達の努力ではもう…フォローしきれない原発でね…この頃そんなに歩かなくなったけども…1年目、2年目は今ころの時間皆作業から帰ってきた人が本当にぞろぞろ、ぞろぞろものすごくいっぱい居たから。もう町がまるで観光地の色ではなくなっていた。 メディア/報道について でも一番最初のもう何が何だか報道もめちゃめちゃ、何が起きているのか、何ベクレル…何…そういう単位の話しもねどっちが大きくてどっちが少ないのかも分からないその原発に対しての知識って…だいたい皆もっていなかったので、何が起きてるんだろう…って思ったけど…本当にバスでねその送り迎えして作業員の人が朝の3時ころ行くんだよね、各旅館回っていくバスなんか見るとなんか本当戦地に向かう兵隊さんみたいな感じで、それが行ってきてまた帰ってきてってのを繰り返しで…異様だったね..そういう時の様子から今は落ち着いて見えるけれども原発そのものはみんな知ってるように汚染水でもう…うそばっかり言ってるしね、次から次からあっちこちから漏れてまた何十万ベクレルが出たとか言ってるけど新聞にのるのは本当に3行か4行ぐらいで。すごい大変な事が起きてるのにあんまり報道それなくなってきているし、実際はもうまもなく3月でね3年になるのに「何か変った事ありますか?」って聞かれても特にないですねえ…お客さんも戻ってきてるわけじゃないしね、逆にだんだんだんだんこれをいつまでもこんなことを5年たっても40年、10年たっても40年って40年40年ってのがせばまらずにもう私らの世代が、せいぜい平均寿命だとしてもあと20年ちょっとだからさ、その時代にはこのままいっちゃうのかなーっていう思いもいっぱいあってね。 今後への不安、考えについて そういう不安ね、そういうのは考えれば考えるほど不安が多くなるので、考えないようにしようとは思うのだけど、でも現実に毎月放射能検査はちゃんと来てね、わりと少なくなってきたんだよ、わりとね、測ってもらってるんだよ、そういうのはみんなやっているとは思う。後、食品の検査ね、それも保健所でやってもらって、「大丈夫です」をもらってやっているのだけども…それだってさ一日一日そんな、例えば菓子あけました、ここには放射能はこうですだのが一番上にあったら食べたくなくなっちゃうでしょー…だからそれは聞かれた時だけ言うことにしているのだけども、でも現実は…まあーお菓子はそれほどでもないけども、あの米とかねなんかやっぱり自分のところで作って子供にあげようと思っている人もいるけれども、子供は「もう結構です」って断られるしね、魚も得にそうだし、私なんかも親戚とかに毎年いまぐらいになったらサンマとか送ったりとかしてたけど、あの事故以来向うから「もう、結構ですから」とか断られたし、逆に果物とかも送ってきた人たちもパターっと送ってこないし…もうなんか…きん…親戚付き合いもそういういみでなくなっちゃうよね。じゃ、何を送ろうかと思うと全国共通の洗剤とかさ、ビールだとかさ、携わりないもの送ると…「お母さんのそういうお心遣いがよくわかります」みたいなお礼状がきたりしたりね…. インタビューページへ戻る

太田 光朗さん

インタビュー一覧へ戻る 生まれも育ちも閖上の太田さん。長年様々な形で閖上に関わってきた太田さんに、お話を伺いました。 震災による人間関係の変化 でも平成、11年の、11年くらいだったかな、震災受けたの。11年の3月11日が東日本大震災だよね。それがあったために、現在は本当にあの、人間関係がみんなだめになったんだよね。ていうのは今まではこのないかいで運動会だ、地域で仮装大会だの、公民館でいっぱいあったでしょ、みんなで。15地区あったのね、上町だ、中島町だってそれでみんなで集まって運動会やったの。それがやれないのがほんとに悲しい、その時代に戻りたい本当に。戻らないからねえ。人間も楽しくやってね、そういうところですよ、あの震災前はね。 震災後のつながりの変化 変わったね、うん。つながりはもうほとんどなくなったし、今この仮設にいる人はほとんどつながりは何人かいるの、5,6人いるのね、前から役員やってた人もいるけど、あとは同じ町内会の顔見知りだけであとは話したことないからそういうのはつながりはもうずっと大変だろうね、向こうも大変だろうしさ、そういうのが多いんじゃないかな。だから結局今言ったとおりかたまりというのががでてくるわけさ。おんなじ、1号棟から17号棟まであるんだけども、1号棟の人は隣近所で仲いい、今まで話したとない人だけど隣だから仲良くなるんだ、それでここはここで仲良くやってるんだね。あとこっちはこっちでやって、、。だから仮設全体でいうまとまりはあるんでしょうけど、常にあるもの、というのは遠目でやってんだね。それは悪いことじゃないから、だからそういうのはいいんじゃないかと思うね。そういう習慣あったからね。昔は離れててもみんな固まって何かあったら寄ってたけども。 将来の不安 将来の不安はあるね。私は、年寄りは。若い人たちは未来っていうのが、娘とかは未来ってのはあるけど、76になってさ、どういうふうになんのかなっていう不安だね一番最初に。でみんなと会えなくなるってことは今まで、ほんと会わなくなるんだみんなばらばらで。だんだん足も動かんなくなったりしてさ、その不安てのはあるね。この前は、いろんな遊び行くって温泉とか行ったりしてたんだけど、そういうのこのままだと体も動かなくなるでしょ。だから俺なんかちょっと金だけは貯めとかなきゃだめだなあって病院へ行くお金とかいろろあるでしょ、今度できなくなるから日本もね。で我々もできてこなくなるわけさ。これ家賃も取られるようになると今度家賃も払わなきゃなるし医療費も高くなるでしょ?そういうの考えるとねえって思ってるんだ、お金だけ持ってればねえ。だから将来はそういう不安だね。いやとにかく悲しいし悔しいね。最初悔しいし悲しい、言ってるんだけどね。あと今後やってくことはやるしかねないから。だって、くよくよしたって、でもたまたま考えると寝られなくなるんだわ、俺あと何年くらい生きられるのかなあ、生きた後いなくなんのかなあって思うのね。子供らもちゃんとやんのかなあって今の子供はかわいそうだって思うけどね。 インタビュー一覧へ戻る

遠藤 佐恵子さん

インタビュー一覧へ戻る 福岡出身の遠藤佐恵子さん。結婚を機に閖上へ。2011年3月11日、閖上の町と共に津波で家が流されてしまい、現在では仮設で夫と2人で暮らしてます。インタビューでは、福岡出身ならではの視点から閖上に対する思い、また、現在の生活についての思いを話してくれました。 震災前の閖上 震災前…閖上はね、ほんとに小さな町だけど、みんなこう、なんていうのかな…面倒見がいいっていうのかな。ちょっと面倒見が良すぎて干渉がちょっと度が過ぎるとこもあるのね。うん、うん。出かけるとどこいくの?ね、ほっといてほしい時もあるんだけど。それはそれでまたね。だから、これからも、なんか、まとまったとこに住みたいの。どこでもいいから。必ずその土地に帰らなくてもいいんだけど、この、閖上の人たちと一緒の暮らしたいってみんなそう思ってるのね。 震災当日 あのー、その閖上の町の中で働いてたんだけども、その地震…ちょっと普通じゃない揺れだったし、隣…2件くらい隣の人が、6メートルくらいの津波がくるから逃げた方がいいよって言われて、一緒に働いている人の車に乗せられて、ま、まぁ小学校、中学校に逃げようとは思わなかったね。まず、閖上から離れよう、た方がいいってことで、ここらへん、うーんと、増田の方に逃げたんだけど。文化会館とかは…見てないね。市役所近く!市役所の近くに文化会館ってあるのね。最初はそこじゃないところに逃げたんだけど、みんなほら、ガソリンもない、余計に動かれないってことで、でそこに逃げて、で最初から最後までそこの避難所にずっといたの。2か月、とちょっとね。うん。最初、なんていうの?ああいうホール、んーと、いろんな歌とか劇とかやるホールから、こういう板、なんていうの、あそこにじかにこう…だから背中痛くて寝れなかった最初は。うん。普通はみんなが歩いてるところだからね。うん。でもやっぱ長くいると、ちゃんと寝るようになるのね。うん。あの頃まだ寒かったしね。うーん。 まだ布団とかしかないで、ぷちぷちってあるじゃない。あ、これこれ。これ敷いた上に毛布敷いたりして、もう支援のも。布団とかないよ。そうだね、震災から5月の末までだからね。3,4,5、うん。それでここにきたから。そうだね、うん。だって最初は食べ物もなかったし、電気もないし、テレビ、テレビとかの情報も全然、最初はわかんないからね… 避難所での生活 1日1日なにをして過ごしたか、なにして過ごしたらいいかわからない。なにもすること…うん…まだ、知り合いが周りにいたからね、まだしゃべって…うん。まず、いろんな物資、支援は頂いたからね。来たときは着の身着のままだったんだけども、出るときなんか家、自分の周り、荷物がいっぱい増えてんだね、まぁ服もそうだけどね…一部が知り合いだけど、だいたいもう閖上の人は大体わかる…うん、あの人はここの人、ここら辺のひとだ、ってわかるから。そう、そういう心強さはあったよね。全然知らない町の人と一緒にいるわけじゃないから、うん。ほするとやっぱり普段しゃべってなくてもやっぱり、しゃべれるようになったっていうか…やっぱこう自然に話しかけるっていうのかな?うん。だからそこで知り合って仲良、まぁ仲良くっていうかねぇ。そういうのもあるんだよね。絶対閖上にいたらしゃべれなかっただろう、って人としゃべったりね。で、出かけるときに自然に今日どこにいってくるから、とか聞いてもいないのにみんな答えたり、言ったりして。まず、うーん…避難所いって、まぁ楽しいっていったらまた言葉としてよくないんだろうけど、うん… 未来への不安 やっぱこれから、どうなんのかなぁとか…まだほら、行く先もちゃんと決まってないでここほら遅いからね。き、名取市は。と、そういうのもあるしぃ、仕事もないからやっぱり、なんていうか、経済的な面の心配もあるし…まぁ結局まぁ年齢も年齢だから、仕事もぱっと見つからないから、パート的なものしかないじゃない?うん…だから、こういう風になるのわかって、もうちょっとわかってれば、もうちょっとちゃんと蓄えをしといたら良かったかなって…後の祭りでしょ? 忘れないでほしい 知ってもらいた…それはある。今でもそれ以上にあっちこっちでいろんな災害があるから、それこそ、忘れられるんじゃないかっていうのはあるよね。今どこに住んでても安全な場所って、ないんだもんね。オリンピック決まったからオリンピックの方にみんなお金いって、こっち回ってこないんじゃないかな、とか、まぁそれはないっていうんだけども、やっぱり…その心配もね… 未来 ほんとに、うん…閖上の人たち集まって元に戻れ、まぁもとはちょっと危険区域だからあれだけども、ちょっと少しでも近くに住めればいいかなと、だから結構みんなここらへんに家買ったり、うん、もうしてるんだよね。うん、家建てて、うん。若い人はやっぱりそういう風にできるけど、もう、ねぇ、年代的に無理だから。娘たちはもう閖上は嫌だっていうからね。若い人はなかなかね。うん。だから、市で現地再建ってそこに戻るみたいなこと言ってんだけど、やっぱり、地震にあった人のことを考えればやっぱりそこには戻れ、ないよね。で、こんなに頻繁に地震あるじゃないですか?と、ますます、旦那はもともと閖上育ちだから帰りたいっていうのね。と私も、最初は、で一人で帰んなさいって言って、うん。なんか私は、だんだんと嫌になっ、うん、最初はまぁいいかと思ったけど、こんな地震が多いからだんだんちょっと、怖くなってきたこともあるのね。できればこう、なるべくこっちより?今住んでる寄りに、建ててくれない、でそう。閖上じゃなくても閖上の人たち集めればそれが閖上だからね。必ずしもその…そこじゃなくてもいいかなと思うんだけど。最初は、閖上閖上って言ってたんだけど、もうあまりに決まらないからもう、旦那さえももうどうでもいいって今…うん。勤めに行く関係でここの方がどっちかっていえば近くなったから、うん、うん。このままでもう、ここに慣れちゃうと、ここに住んでもいいかなと思う。みんなそう思ってんのね。だからここ壊してたんとアパート建ててくれるといいの。買い物近いじゃないですか、ここね。お店がそこにあるから。そういう人もいるけどまぁここは無理な話なんだけどね。ね、家建てられるような余裕があれば一番いいんだけどね。でも、ここにはやっぱちょっと住まないかな…うん…どこに住むかっていうとなかなかねぇ…うん、あまりにもね、こう進み方が遅いし、決まらないから、何年後にもう帰れるっていうがあればいくらかはねぇ、こう目標じゃないけどあるけど、まぁそれが決まらないからね…だから震災で、震災後になにかいいことあったかなーとおもって考えるけど、ないんだよね…なにもないね… インタビュー一覧へ戻る

針生 敏夫さん

インタビューページへ戻る 現在、農業のお仕事をされている針生敏夫さん。震災直後、多くの人を高台に避難させ人命を救いました。夜中に震災の悪夢を見て眠れない夜が続いたと言います。 人とのかかわりや仮設での生活 んーそういったのでストレスは溜まってないとおもうんだけどね。あー、みんなおんなじなんだもん。みんな被災してんだもん。 Q: 結構、前の方々と話しされたりとか、心強い環境ではあったんですか。 うん、そう。やっぱりほら、みんなと仲良くしなきゃいけないなあっていうそういう思いを持って接すれば、やっぱり揉め事って起きないもんですよ。 Q: その二ヶ月後に仮設に移られて、仮設住宅での生活ってどうですか。 んーと、まあ、外に出てるわけじゃないですからね。風も当たんないように。まあある程度は、ほら、話し声とかテレビの隣の音とか、しますけどね。まあ、くしゃみとか話し声は聞きますけどね、うん。それはお互い様だから、うん、仕方ないと思う。橋の下に寝てるんじゃないからね。暖房ひいてね。また、こういったとこに、住めるだけでも、ありがたいなーっとおもうですけどね。 震災から年月が経った今…未来への不安 ストレス溜まってるかはわかんないけども、んー…多少はやっぱり…あるかもしんない。仮設に暮らしてっからじゃなくて、やっぱり、先を見たときにやっぱり。先を途中..見なければいいんだけど、先を見てしまうと不安があるじゃない。うん…その日を大切に生きれば、そう感じないんだけども。どうしても..その人その人の事情があるからね。そういった時にやっぱり、不安とか感じるとやっぱりストレスも溜まるかなあ…うん。 3.11のこの震災を、絶対に忘れてはいけない んーちょっと辛い時もありますね。辛い時も..あるんですよ。でも、風化させてはね、ダメなんですけどね。やっぱり伝えていかないと。 インタビューページへ戻る

相原 弘さん

インタビュー一覧へ戻る 閖上で生まれ育った、相原弘さん。かつては肉屋を営んでいましたが、津波でお店が流されてしまいました。震災によって変わってしまった相原さんの暮らし、そして、閖上への想いを語ってくださいました。 交流の変化 Q:なんかこう、震災を経験したからこそ、その昔の交流が何か変わってしまったっていうのもありますか? 変わったわな。で、商店街なくなったっちゃあ、で、今再開市場でやってるの。その、そいつらその人らとの交流はねえ、全然ねえわ。 Q:その、逆に、新しく交流が始まった人とかっていますか? この団地(仮設住宅)で。うん。ちょうどここ閖上一丁目の人が99パーセントな。だから、ほとんどみんな知り合いだっちゃ。だから、まあ助かってるっちゃあな。まるっきり知らねえではねえ。 Q:その残りの1パーセントの人っていうのは、どちらから・・・ どちら・・ってあの、福島のほう・・・。 Q:そういう方たちとは、結構交流が・・・? は、全然、俺は、私はないね。 Q:それは、あの、交流する機会がないんですか? そういう人は、なん、こういう、とこに来ないのね。ここは(仮設の集会所)、あの、交流の場だから。で、昨日飲み会やってさ。手ちょっと気になって。 Q:よく参加なさるんですか? 参加、ええ。参加100パーセント。参加することに意義あるもんね。 生徒:それでまたお互い団結しようっていう・・・ 震災前の閖上について・相原さんの思い Q:その、まあ、新しい環境にいらっしゃると思うんですけども、その震災前の閖上のこととかを思い出すことって多いですか? 思い出したくないな。うん。寝るの思い出すとさ、やっぱ帰る気になるわな。帰り・・・帰れないからっていうの・・・思い出したくねえわ。思い出しても、戻れるか戻れないかってのも分かんないっちゃあ今、現在。戻れんならばね、俺、もう一回やり直しましょうっていう気はあってもさ、戻れっか戻れねんのか分かんねえんだわやなあ。・・・だ、あの、道路のね、ちゃんと決まったさ、このようになりますよっていう説明があればさ、じゃあ戻りますかってのっけども、道路もなにもわけわかんねんだものさあの、戻ってもどうしようねっちゃな。ましてや・・・タイヤかわかんねえんわな。 伝えたいこと Q:あの、これ僕たちが今日撮ったビデオを将来見る人とか、今の閖上、名取の実情を知らない人たち、名取だけじゃなくて、被災地の実情を知らない人たちに、何か伝えたいこととか、知っておいて欲しいことって・・・ うーん、こういうことは、二度と経験してもらいたくない。うん。できんならば。でも、いま日本でそっちこっちで地震が起きてっからねえ、なん、注意ってか、そういう注意だけはしてもらいたいなあ。きん・・仕事はわきまえてさ。いつ起きっか分からないんだからよお。そん直前をも見てっから。だ、やっぱあの北海道の釧路かな、あれん時もテレビ見てて、まさかと思ったよ、閖上もああなるとは思わなかったからね。だー来たから、ああ来たって、まず、まさかなあ、ほらああいう津波来るとは思わないっちゃ。だ、ああいう津波は二度と見たくないわ。まあ、経験者だから言えるんだけっども、ほんとあれはほんと、一生忘れられないね。 インタビュー一覧へ戻る

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