久米田泉さん

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震災後は桜団地仮設の自治会の一員として2年間務められた久米田さん。仮設での出来事や、閑上への思いをお話し頂きました。


仮設における閑上のつながり

Q:そうゆうみんなでできれば一緒に移動したいっていうのは、仮設でできたつながりが強いから?
そうですね。はい。
Q:そのできたつながりっていうのは震災前からのものなんですか?
ものもありますね。閖上特有のそういった近所付き合いっていうのが。アットホーム的に。本当にお醤油かしてとか、これ食べてとか、これ作り切れないからこれ食べてとか。そんな感じでアットホームな関係は保てたんではないかと思います。
Q:じゃあそれは仮設に入ってからも続いていった
続いてますね。まあお醤油貸してっていうのはもう昭和の時代です。私の小さい頃のことですけど、作ったものってかいただいたりとか、あと食べきれない野菜をわけてくださったりとか、そういった関係は今でもこの仮設ではありますね。


自治会役員としての活動

役員を2年間やって、去年の春、2年間やったんですよ役員。役員をやって、いろんなコミュニケーションをとって、誰が具合悪いとか、誰がどんなお薬を飲んでるとか、誰が歩行に困難なのか全部知り尽くして、名前も覚えて対応してきた分だけそれで成長したのかなと思って。
Q:その役員の久米田さんの具体的な役割は?
マルチでした。マルチです。会長がいなかったので、会長の一応総務なんですけど、物資担当だったり、週の決め事、一日一日、1か月のスケジュール表とかの組み合わせとか、時間の組み合わせとか、あとは倉庫掃除とか
Q:本当にマルチですね。
あとボランティアさんが来たときに、私の目では判断できないなっていうところを、何件もくるんですよ。一日5.6件くるんですよ。こうゆう者なんですけど、何かできることはありませんかとか、こうゆうことしてあげたいんですけど何時からがいいですかとか、それを会長にお伺いしていいものなのかどうなのか、私が即決で決めていいものなのかどうなのか。あとは悪質かどうか。それを判断するのに1日中集会所にいたのが2年間だったんですね。そうゆう役員の仕事でした。


2年間を振り返って

Q:そうゆういろいろな経営っていうのはそうゆう災害のトラウマを考えるよけになってるっていうか
もう無我夢中でした。2年間は。住宅の方も今住んでる住民の方も2年間は無我夢中だったと思います。あたりを見るっていうよりも、自分の生活をゼロからスタートしなければならないので、それにくわしたボランティア活動だったりとかそういった支援物資の配布をいただいたりとか。


子供達のトラウマ

地震のことは一切しゃべりませんでした。
Q:思い出してほしくないものなんですか?
はい。っていうのは、今でも地震がなるとリュックサック背負う子いるんですよ。そうゆうこもいるので地震のことは一切しゃべらないと。今は今、その時はその時。で会話したのが一応配慮したつもりでしたね。
Q:そうですよね。やっぱりここ震災後に生まれてる子のほうが少ないですもんね。子供に震災のことを質問されたときっていうのはどうゆう風に対応されてるんですか?
質問はなかったです。なかったです。テレビ局とかはいっぱいきまして、震災後もどうゆうふうな経路で逃げたのかとか、そんなことは聞かれましたけど私のほうでは、しゃべりはしませんでしたね、子供たちには。
Q:そうゆう子たちがそのさっき例でいったリュックをしょってしまうっていうこがいるって言ってたと思うんですけど、他にもやっぱそうゆうふうに地震の影響が心の傷になってるんだなって感じることはありますか?
ありましたね。住民さんのお孫さんが地震がなるとばあちゃんここまで津波くるって毎回聞くっていう話を聞きましたね。だからそれだけまだトラウマ的に。
Q:そうゆう聞かれたときの対応として心掛けてることとか、これは言ってはいけないとか
もうしゃべらないのが一番ですね。
Q:聞かれても来ないよって
そうですね。大丈夫よって。大丈夫よって。


閑上の慰霊碑について

Q:そしたらそれこそ慰霊碑に名前を書いてほしいとかっていう感じですかね。
うんそれは、母親とか、あの亡くなられた方とか、震災で亡くなられた方。また行方不明者の方。の名前は入れてもらえれば最高かなって。うん。名まえっつってもあの相当な数になるでしょうから久米田家とか、何家とか、何家とかって、うん。そんな風な感じで、入れてもらえれば最高かなっとは思ってますけどね。そうするといつ行ってもそこに、みんなと一緒に、みんなの供養もふくめて、母親の、と、久米田家の、あのご先祖の供養になるかなーとは思いますけどね。5
Q:慰霊碑がそういう大きなものになればなるほど、注目度っていうのが上がって、外から来る人も増えるんじゃないかなって思うんですけど、そういうのはもう、歓迎ですか。
歓迎ですね。やっぱりさっきもいったように、風化してほしくないので、うん、ほんに眠ってる方は震災で眠ってる方だったり、あるいは震災前に亡くなった方で、わかる範囲でうんあの書いてあったりっていうのを見て、ああ、こんなにたくさんの方が亡くなったんだ。ああ、こんなに荒れた土地が、あるんだとか。うんそういった面では、うん。
Q:知ってほしい。
知ってほしいですね。はい。


今後の閑上の町への希望と不安

Q:あの今、あの、どのような閖上の町をつくっていうかなんていうかこう、話されてたんですけど、今は本当に海の威嚇の閖上にはなにもないっていう状態だと思うんですけれども。これから、どのような、閖上の町にしていきたいというか。将来どういう風な町になっていけばいいなと思っていますか?
前に戻ってほしいですね。うん。前の、前の通り。ええ。今は災害公営住宅がはい,建ちました。でもスーパーもない。医者もない。ってなると、高齢者が、閖上に帰る確率が高いので、うん。若い人たちはもう家を建てたり。うん。アパート借りたりして、さい、公営、あの、仮設を出てってるんで。だいたいは。予測的には高齢者が多いんで。そこが心配ですよね。


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