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コミュニティ

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阿部 傳吾さん・和子さん

インタビュー一覧へ戻る 雄勝で唯一無二の傳吾さん独自の方法で編み出した技術を用いたとろろ昆布製法。傳吾さん、奥様の和子さん、娘さんの3人で喜昆布(よろこぶ)商店を経営されています。雄勝生まれ育ちの傳吾さんと、秋田からお嫁にいらっしゃった奥様からお話を伺いました。 おかげさまの感謝 (拾う人→加工する人→買う人→ の輪になっているという話)わたしは拾う人のおかげ様、私が買う人のおかげ様、なににつけてもおかげさまの感謝。おかげさま感謝なんですよ、これがあるからこそ輪になってるんですよ。その輪はできて初めて成り立ってます、どこかでもくずれればダメなんですよ、拾う人だってほねおってるんだからさ、わたしだってただでもらえねぇから・・・つぎちゃんととれるように、そこでこういう言葉もでてきたんだけどね、よろこぶしょうてんなんて。これも頭にぱっとうかんできたんだけど。 住めば都 Q:どうですか、雄勝は? A: いやーどう、どうとかっていうことじゃないよね、え。まあ実家で暮らしたなら、学校卒業するまでだし。え、こっちに来てから40年以上になるんだから、絶対こっちの方が多いし。あははは。住めば都っていうね、言葉があって。まあ、どっちも良い所だけっども。 Q: 雄勝の良いところはどんなところですか? A: うーん、どうだろう。あははは。えーまあ、色々とね違う環境の所に住んでみると、それまでに住んでた所の良いとこ、悪いとこっていうのは見えてくるし。他から来ると、ここの良いとこも、悪いとこも色々と見えるけれども。あははは。 雄勝での生活 和子さん: だから、まあ実際ここに皆高齢者のほとんどだけども、みんなね、結構ねいっぱい年金もらってるんです。で結構余裕で、あの、うーん、すごいゆとりのある生活をしてるっていうのかな。ゆとりって言うのは、お金がいっぱいあるって意味じゃなくて心にゆとりのある生活ね。だから、子供たちはほとんど皆、町外に出てしまって、皆、もう皆歳なんだから、こっちへおいでって言われても、いやーここが良いって、残ってる人たちがほとんどでね、 傳吾さん: 行ってもすぐ戻ってくる。 和子さん: ある程度ね、お金の無理、なんていうのかな、贅沢しなきゃ食べられるくらい年金もらってるからみんな。って、それが一番贅沢な生活だろうなって思いますよ。ちょこっと畑したり、皆お互いに隣近所お茶のみに歩いたり、なんかいろいろそいうのね、うーんだから、やっぱりゆとりのある生活。あの心にゆとりのある生活してると思うのよ。 インタビュー一覧へ戻る

中村 一成さん

インタビュー一覧へ戻る 奥様と仮設暮らしをしながら布団屋を経営されています。雄勝生まれ、雄勝育ち…60年住んだ雄勝は決して嫌いになることのできないふるさと。そんなふるさとが今置かれている現状、進まない復興への歯がゆさ、将来への不安を語っていただきました。 雄勝の現状 まぁ、この雄勝も今どうにか形の中でいろんな構想出てるんですけども、まぁ私の持論なんですけども、まぁ私も役職がらまちづくり委員会の委員だったりなんかしてまちづくりにいろいろ話し合いの中にはいってたんですけども、正直歯がゆかったですね、ものがすすんでいかない、そしてまちづくり委員会でみなさんの意見聞いてやってくんですけどのその中でこれがいいんじゃないかなってやってもらうのは本署にいってペケにされるのいっぱいあったんですよね。で、一転二転三転していくなかでこうやってくんですけど、まぁおたくたち見るように雄勝の町ってほんとにすすんでないでしょ、あの、いっぱいこう形はできてるんですよ構想は、でもなかなかすすまない。まぁ何が原因なのか私らもよくわかんないんですけど、まぁ一年ましに、わたしらもそうなんですけど、地元に残ってこう頑張ろうっていう人が1年2年経っていくとなんだ住めないんじゃないかとか全然動きがないから離れてく人が多くなった。一番怖いですね。 雄勝に残る理由 生徒:その、中村さんが雄勝に残る一番の理由ってなんですか 中村氏:私はね、今は形をどうにか戻してやりたいなって気はあんのね、ただ私は今ここにねこれからずっと雄勝にいるのかっていわれるとちょっとかんがえるのね、っていうのは私は今船越で生まれて60何年ここで住んでふるさとを嫌いな人は誰もいないのね。ただ自分がこれから年取っていくといろんな面での心配がある。だから今は自分がやれるうちはやりましょうって自分の力でできること微々たるもんですけど、だからそれを今はとにかくやりたいなって、自分なりにはね。で、あんまりかっこいいこというとあれなんですけど、かっこいい話じゃないですけどそういう質問されると、中村さんはこの雄勝の町をなんとかしようと一生懸命がんばってんだべなっていうとそんなことない何にもやってない、そうでなく自分が出来ることは何かそこなんですわたしは。 コミュニティーの崩壊 生徒:その周りの人とのつながりっていうのは震災前と後で変わったようなことってありますか 中村氏:いや、変わってないでしょ、うん、ただ遠くなったのは遠くなったよね。船越の場合は、今でも住んでる人は10人くらい、10人いないと思う。3世帯10人くらいだね。それで、まず私はもう、部落のこのコミュニティーが崩れるのが一番おっかなかったのね、っていうのは今質問あったように雄勝の船越に生活している、普段いろんなものを分け合ったり話し合ったりお茶飲んでたりしてたような、ポンと離れてしまったのね。したらそれが崩れてしまうのがおっかなかったもんですから、月に1回ずつ集会開いたんですよ、で、集会を開いて2年ぐらいそういうことやって、それでみんなのコミュニケーションを深めていったんですよ、でも、時が経ってしまうとなかなかそれもままならなくなってきたのもじじつです。船越を好きなんだけれども現実すれば足が遠のいてしまう。やっぱり海があって海にいろんなものとりにいってるうちはいいんだけど、石巻の都会に住んでね、ここに何もようないのにくるかっていうとこないよね、それが現実。だから昔のコミュニティーそのものっていうのは崩れてしまったね。 インタビュー一覧へ戻る

沼田 幸也、恵さん

インタビュー一覧へ戻る 閖上生まれ閖上育ちの旦那様沼田幸也さん。奥様の恵さんは25年前に閖上へ。被災当日、旦那様は仕事で違う町へ行かれており閖上の状況をわからず、しかし奥様の恵さんは津波を経験。 昔の閖上 Q:昔地震来る前、昔の閖上がどのような町でしたか? 幸也さん:昔の閖上はやっぱ、まあ近所になるとやっぱ一つの家族みたいな感じになっちゃうんだよね。あっこあの、そのなんつうの半々ってあって同じあのなんていうんですかね、町内会でのこう隣組とかっつうのあって、まあそういう所はわげけてなく、えーなんかこう昔聞いてたのはここで醤油の貸し借りとかそういうのも隣近所でよくやってた、長屋みたいな感じだったっていう。私が生まれた頃はやっぱこう世代が変わってるのであのその、あのやっぱ町内会でなんかやるってなったら呼ぶ集まってはなんかかんか運動会にしてもお祭りにしても色々やってたんですけど・・ 恵さん:多いね行事ごとはね。子供とお年寄りが一緒になってやる行事が多いよな。普通ね子供会は子供会だけなんだけど、お祭りは子供の見越し、大人の見越しまでとか。 幸也さん:そんな地区でやるんで、だあ先。。先月か?あの閖上の方で見越し担いでたんですけど、でそん時もあの上智大学の人達何人かが来ててあのインタビューさせてくださいって。あははは。でそん時はほら、うちらの年代結構いるが、下の子紹介してやってあげたらしてやったんすけど、あいう感じだと結局子供見越しあと大人見越しってこうやって一緒に出て行ったんですけど、実際はあの、その地区だが日和山地区とか紙町地区那珂市、あとそういう同じ地区の中でみんな子供見越しが子供会が出して、あと本見越しっておれら担ぐ見越しはもう一日中練り歩くみたいな感じで。 閖上への愛着 幸也さん:最初美田園見に行ったんですよ。海の方ね 恵さん:お父さんはやっぱ海がいいって 幸也さん:海、海がいい 恵さん:海が近いのがいい Q:それは何でですか? 幸也さん:やっぱ海は涼しいっすもん。うん、あとなんか開放感あるっつうか。やっぱどっか閖上に戻りたいっつうのはあるんでしょうね。そっちのほうに。ただ市で計画してるようはかつ上げしたから安全だっていうのはちょっと納得いかないんですけど、だから俺らはもう閖上には戻らないと決めてこっち買ったんすけど。最初その美田園だと高波も来てなかったし、あの高くすれば床下までいかないんじゃないかっつう思いで言ったんだけど、息子に一言「ここ津波来てっぺや」って言われて。で、山しかないけど山でいいのかって「山の方がいいべや」って言われて、結局こっちに買ったんです。うん、俺はやっぱ山より海の方がよかったんですけど。 恵さん:やっぱしね、やっぱり海で育ってる人はどうしても海の近くっていうか、うーんあるのかな。やっぱね。うちも実家はほら海、海だもんね。 幸也さん:うん、海だよ。 恵さん:うん、ちょっと高いけど海の見える所にやっぱし再建してるから、やっぱしみんな、うーん海の近くで育った人は海、やっぱ怖いけどまあやっぱし海がいいのかな。ねえ、やっぱ違うもんね。うーん 近所付き合い Q:何か言い残したとか、これだけは知ってもらいたいということはありますか? 幸也さん:あと、やっぱこう今家族になってるけど、やっぱうちらも今その状態なんだけども、やっぱ近所付き合いは大事にしたほうがいいかもしれない。 恵さん:そうだね。 幸也さん:やっぱ聞くとああ寝たっきりで例えばうちらが仕事いって子供達だけ残して、で隣近所が付き合いがあれば「ああ、誰々仕事行ってから子供達残ってんかもしれないね」ってそれで助かった人達も結構いたて聞いてるので 恵さん:うん、閖上はね。あそこはおばあちゃんだけとか迎えにいってあげたりとか 幸也さん:閖上はそういうの結構あったって。あのしんちゃんもそうだったね。友達で前NHKとかに出てた橋本真一さんとかも結構町内会長やってたから周って非難させたとか、あそこばあちゃんしかいねえからとか 恵さん:閖上結構それが多いの。年寄りが多かったから、結局それで亡くなってる人達、おばあちゃん残ってるから迎えに行かなきゃっつって亡くなってる人達も多いから。うーん、だから隣近所はね、今思うと大事にしなきゃいけないかな。 幸也さん:だってうちもやってたもんな、付き合い。あのほれ町内会の役員やるからって繋がり始まって、まだ3年4年ぐらいだもんな。うーん、隣近所はな。やっぱ、そう長屋、古きよき時代じゃないけど、そういうのがいいんだろうね。そういうのは大事にするべきだろうね。多分都会に行ってしまうとそういうのなくなっちゃいますよね、多分。逆に警戒しちゃってね、隣との付き合いもなくなってしまうし。 インタビュー一覧へ戻る

菅原 忠男さん

インタビュー一覧へ戻る 仙台市出身の菅原忠男さん。閖上出身の奥様とご結婚されてから震災まで30年間程住まわれていました。震災があった時も閖上でお仕事をされていたそうです。 閖上に戻りたいのか Q: もしも閖上に戻れるのなら戻りたいですか? うーん、三割くらい。みんながさ、私も戻る私も戻るっていうなら戻ってやる。あの、孫おいてね。まごは絶対行かないって言ってるから。孫はひとり部屋ほしいだべがらまえそいなだったからね、なおさら。もどるったてね三割くらいだな。だってわたしだけ戻るったってね、戻んない人、隣近所にいないっちゃな。もどっても。津波あるんでないかなって。人がいて一番だと思うけど。 昔はね漁師町だからね、やっぱり良かったよ。あの、友達付き合いだの、家のばあちゃんだちも、女房も魚売りしったからね。あの魚かごに背負って仙台の町の方に。あの頃だのやっぱり閖上が最高だったんじゃないですか。私ちゃっこい時いなかったからさ。でも聞くと、閖上の町って言うの、なんて言うの、して漁師の町だからね。お金は、金持ちっていうか、金持ちの人結構いたんだよ。 あーもう、閖上っていうと一丁目から七丁目まであったのね。それで仮設っちゅうのきめらったっちゃ。この辺のこの仮設は三丁目と四丁目の人が集まったのね。あとたまにどっからか入って。だとやっぱりすぐ仲良くなったね。して別の仮設なのいろんなところからきてるから、全然合わないっていうかね。 町のつながりっていってもそうでもないんでね?私だも閖上朝市あるんだよね。毎週日曜。あと日曜祭日。毎週行ってたんだよね。だってうちから歩いて5分くらいで行けたから。やっぱり顔ぶれ見るとあんまり地元の人来ないのね。だから今なんてなおさらなんでないですか。あっちなったからね。だけど今また閖上に戻ったから。やっぱりそういうのあるとね集まるんですよ。朝市、閖上の朝市有名だったんだよ。80件くらい出たんだから。朝6時ころから。今はね遅くなったんだ。9時じから1時ころまで。前は10時から1時ころまで。今はね7時ころから1時までだからなんていうのお昼だのも食べさせてお金いくらかね。だから延ばしたんだよ。で結構そいなの食べれば金になっからね。町おこしっていうかねそういうの。 いまでも行かれますか? たまに。ちょこちょこ。だから今度まえの市場んとこになったから、いってやっかなと思って。先週あたりからね、戻ったのね。 私たちもグランドオープンなった時たまたま行って。たまたま。 ああそうなの?なんちゅうか豚汁かせたりね。あとさんまだのね。さんまの季節の時はさんまかせらっだり。自分で焼きながら。 変わったっていうか亡くなった人たちが多いからなおさらでないの?だれだれさんなくなったってあっちこっちでいうから尚更あいなったんでねかなって思うのね。だってもうね、起きてしまったことなんだけどね。やっぱり今からがねあれなんだっちゃ。元気ださねとね。年寄なんてなおさらね。しょぼーんとしったってね、ますますあれなっから。私たちあれしたって、年寄のひと元気ならないもんね。年寄の人は一人でいるから具合悪くなって救急車で二回くらい助けてやったのね、救急車よんで。うちの棟の人まだ40くらいの人。風呂入って具合悪くなって。しておらいさ走ってきて救急車呼んでけろって。して頭の方手術して。でにかいぐらい手術して助かったけどね。やっぱり家さ閉じこもった人だね。やっぱりどうしても、そいな人なるんだね、やっぱり。そいな人ももっと、そいなのふえっと、もっとああなんでかのかなって思うよ。人の関係もね、もっと。 インタビュー一覧へ戻る

菅野 勝子さん、菅野 貞二さん

インタビュー一覧へ戻る 夫、貞二さんはもともと閖上出身で、妻、勝子さんはもともと閖上出身ではなく、お嫁に来てから30年以上住むうちに閖上が彼女のとってのふるさとになったと語っています。 集団移設 昔からの生活習慣とか、お祭りだったりとか、イベントあるじゃないですか、地域地域のお正月、お盆ってこれからもやっていこうと思うし、どこに行ってもね。だからあそこの現地復興じゃなくて、せめてみんなが言ってるように、東部道路よりも西側にいっぱい田んぼがあるんだから、そこに閖上の町を本当、そんなね、そんな学識経験者や市役所の人が言うように、商店街だとか、医療施設だとかそんな学校なんかつくったって、学校にいく子供達のいる親はだれも帰りませんから。家の息子からはじめ、子供達、あんな思いして小学校の屋上ににげたじゃないですか、あんな恐ろしい事経験してるのに、また閖上に立派な学校作りますからなんて言ったって、誰も帰りませんよ、小学生いる子供達は。 震災前の閖上は人情味とかいっぱいあって、私は嫁に来て三十年経つんですけど、実家で生活した歳月よりも、嫁にきてからの方が長くて、本当にいま自分ふるさとって言ったら実家よりも閖上なんですよね。 そうですね、私たちはありました。親戚もすぐ近くにいっぱい住んでいましたから、あの昔のようにね醤油とかなかったらちょっと貸てとか磯切れたからかしてとか米きれたから貸してとか、ちょっと頂戴ぐらいなかんじで気軽に言える感じはありました。銀行なんかも閉まったら今はコンビニなんかでお金おろせるけども、今お金ないかなちょっと貸してとかそういうなんて言うのかな、昔の長屋みたいなね、繋がりはありました。今もハーモニカ長屋なんですよ。ドレミファソラシド、八世帯が一つになって、ハーモニカ長屋なんですよね今、でもうち息子と息子達の夫婦と私と三世帯借りて入ってますから、その中で一号棟だからあんまり気を使わないんですけど、大きい声だしたりどんどんって響くからね、気使いますよね、私たちは端っこだからいいですけど、孫とかまだ小さいから迷惑かけてないかなとか、気使いますけど人との繋がりはみんないいね、おばあちゃんとか、隣の奥さんとか、人間関係ではあんまり。 食べ物はね、家の避難所に行くと名取市内の避難所で自炊してた避難所なんですよ。他のは自衛隊の人のが作ってたのを食べてたんです。 私たちは、班を、とにかく、震災後一週間まで班を作ったんです。一班から何班まであったんだろう。班を作って、三班までは食事当番、四班からはお掃除たくの、トイレ掃除、あとはカーテンあけとか、交代でやってたんですよ。だから朝もう五時半に起きて、はんから一人ずつでて保健室に行って、ご飯で多いときに一日いっとさんじょう、一升の十三倍こんな釜で三つ炊くの、こんなでっかい釜で。みそ汁もおんなじおっきい鍋で三つ作って、あとおかず何したらいいか、支援物資が最初はなかったんだけど、野菜とか飲み物とか缶詰とか来て、自分で頑張って考えて、マヨネーズなんかもあったからね、素麺ゆでて、色んなもの入れて、鍋作ったりとか、そしてそれを男の人呼んで作ったり、体育館に分けてテーブル並べて、五時ですから皆さん並んでください。子供さんから、子供さん、お年寄りって感じで並んでもらって配るんですよ。そうすると大人でも子供でもお年寄りでもお皿を持ってくるんですよ。洗えないからラップを引いて、おかずと漬け物とみそ汁とあと自分でちゃんともってきてそれもってきて自分でちゃんと分けてもらう。もうね、いっぱいとにかく分けてあげる。普通だったらこんな一膳ちゃわんに一杯くらいしか食べないでしょ?それがね、二膳以上のご飯をよそって、それを持って帰る訳じゃないですか。で、それを私たちがみんなに分け与えるの。まだ残ってますからどうぞってマイクで言うんですよ。おかずも残っています、ご飯も残ってますおかわりしたい人どうぞっていうと、わーっと来るの。自分たちのこんな大量のご飯をわーって食べちゃっておかわりを待ってるの。おかわりっていうと一斉にもらいに行ってまた食べるの。 インタビュー一覧へ戻る

菅原 則子さん

インタビュー一覧へ戻る 閖上が大好きな菅原 則子さん。ご結婚されてから12年間は仙台で過ごされたのですが、やはり閖上がいいとなって旦那さんを引き連れて閖上に帰ってこられました。 閖上の人間関係 やっぱり隣近所、兄弟達よりもやっぱり隣近所がいいみたいで、よくお茶飲みに行ったりとか、よくそういう風にしてましたね。よく隣のうちでも、うーんと、何年か前に引っ越して来たんだけども、引っ越して間もなく、とけ込んじゃって、行ったり来たりお茶のみしたりとかしてますね。で、今もやっぱり津波になってからも、近所の人たちとおつきあい、ここにいないんだけども、その人達はみなし家庭にいるんですけども、そこにいってあそびに行ったりはしてましたね。 閖上の人たちが集まれば閖上に そうだと思いますよ。やっぱり昔からの人たちだから、なんていうの、その、こう閖上の人たちの集まりって言うね、よそからあまり来ないでしょ結局、引っ越して閖上の方に。なかなね。閖上の人が地元に戻ってくるとか、だったらばあれだけど。あんまり閖上によそから引っ越してくるとか無いんじゃないかしらね。だから閖上の人たちが集まれば本当の閖上の町、になるんでないかしらね。 やっぱりみんな閖上の人でないと閖上の土地って言えないんでないかしら。 インタビュー一覧へ戻る

太田 ふみ子さん

インタビュー一覧へ戻る 宮城県角田市で生まれ育ち、閖上へ嫁いだ太田ふみ子さん。仮設住宅における人間関係や、今後の予定、今の楽しみについてお話ししていただきました。 避難所での人との関わり Q:こういったお話は、今でも他の方と話したりしますか?昔の、その、震災当日の出来事を…? うん。 Q:そのときどうだったかとか、そんときどうしてたのーとか…? そういう話はね。聞いてたけどね。もう一寸、ひと。あと、ふた足走るの遅かったら、逃れなかった、とか、ねえ。そういう話はいっぱいね、さいさんもう、みんな持ってるだろうにねえ。あそこにこえ、うーん、旦那さん亡くなった人も。少し貯めといたお金、少しづつためといたお金、流されたーとか。あとからになって気づくのね、みんな。あたしらも、なん、財布のなかにいくらも入ってない。バックなんか持ってねえー。うーん、本当に。 Q:それをそのー、震災直後から色んな方と喋ったりできましたか? あー、できたのー。であのー、うーんと、次の日は、閖上の小学校まで歩いて行って。その歩くのも、もう、なんていうの、あの道路だからね。で、お母さんそっち見ないほうが良いよっていわれて。ああー、亡くなった人の姿見えるんだなあっていうの、思って、必死に、走ったけどね。あの道路の中どうやって走ったんだかとか思ってね。で連れて行かれたのが、うーん、バスに乗せられて、避難所、こっちの増田の方っていうと、立腰小学校ってあるんですけど、そこに避難させられて。そこにー、もうー、閖上の人いっぱい。一丁目二丁目の人たちー、かなあ。300人くらいいたのかなあ。そういう中で生活してねえ。 Q:そのたくさんの方と、一緒に生活されてたんですか? うんー。 Q:その中に知ってる方っていらっしゃったんですか? みんな…知ってる人もいれば、あたしも世間知らずだから、あんまり歩かないほうだから、顔は分かるけど、うんー、けっこうねえ、知ってる人はいっぱいいて。それでー、もう日にちが経ってくると、うちは、誰それが亡くなった、流されて亡くなった。あっちでもこっちでもねえー、もう。迎えに行って帰ってこなかったとかね。そういうー、みんなの大変な思い、後から分かってねえ。気の毒だったなーと思って。 Q:お互いこれから頑張ろうねえ、こういうことがあっても生きていこうねえっていうことを話したりは…? それはねえ、お互いねえ、気持ちには余裕なかったからねえ、これからどうなるんだろうっていう思いだけでねえ。でもー、そこの地域の人たちの支援とかーねえ、そういうの、こう、いっぱい、頂いたり、食べさせてもらったりねえ。そういうので、あたしたちは、後々、一番食べ物がよかったんじゃないとかって、うん、そういうことはねえ、うん、自衛隊の方たちにねえ、手伝ってもらったりしてねえ。 閖上に戻りたいか Q:太田さん的に閖上にまた戻りたいっていう気持ちはありますか? いやあたし、海って嫁に来た時から好きでなかったから。いやー、この際、こっちの方に来れたらっていう思いはあるけどね。うんー、戻りたいとは思わなかったね。孫たちもほら、同級生、仲の良かった友達が、上と下に一人ずついたったからね。だから、子供たちも、孫たちも行きたくない。娘たち夫婦だって多分おんなじでね。暮らしてきたけどね。うんー。 Q:その気持ちはやっぱみん、っていうのは変わらない?もう二年半経ってますけど、変わってないですか? 変わらない。今もウチの人、閖上に月に、ね、一回とかっていう、いうー、名取広報なんですけど、それを届けに行くのに、一件一件届けに行くのに、やっぱり一人で行くのは大変だから、乗り降りするだけでもねえ、うん。だから、運転してー、運転しながら付いて行くんだけど。もうすごくてねえ、あのー、んー、なんていうのかなあ、もう雑草でねえ。うんー。で、明るいうちはいいんだけど、夕方なんか行く時ー、あるでしょ?そういうとき、もう、頭痛くなってね、体が震えてきて、早く帰ろうって言って帰ってくるんだけどね、いつもね。うんー。 震災後の家族との交流の深まり Q:震災通して、家族と仲が深まったとか、旦那さんもそうですけど、やっぱそういう感じることってありますか? うーーーーん、そうだねえー。娘がやっと親の気持ち分かってくれ、分かってきたって。親の苦労分かってきたっていう風に言われたときは、やっと分かったのかー!なんて(笑)思うだけでね。なかなかね、感じないものだからね。まあー、夫婦、家族、上手く行けば良いなって思うだけで、ねえ。だから、お父さんには長生きして、ほしい。面倒見は良いし、優しいからね。 仮設住宅での人間関係 あたしってこう、人間関係に、こう弱いのかなあ…。あんまりこういうとこに行事あっても、うんー、仕事してるから尚更なんだけど…慣れないっていうか…。たまに来ると、こっちに来たらーとか、ああ珍しい子だーとかって。優しい声かけられるんなら良いけど、目で見ると分かるからね、そういうのが苦手だから、尻込みするっていうか。うんー。で、ここの集会場の中でもね、編み物だ縫い物だっていっぱいしてる人いるんだけど、私不器用だからなにせ。だから、うちにいたいって言うの、本当で。みんな行くの分かってるんだけど、来れない。 いつまでもごちゃごちゃこちゃこちゃって、こう、なんか、あーでもないーこーでもない、って一人の人を攻撃したりとかね。うんー、そういうこと。でも、その人の性格だから分かんないけど…。…あんまり上手く言えない。 Q:仮設に、で暮らしててそういうこと思うこと多いですか? 多いね、うん。だからこういうとこに来たくないっていうのも一つあるしね。 Q:仮設に、ってことですか? うん。…まあ、その人たちもみんなストレス溜まってるから、ねえ。一人一人性格も違うしねえ。うんー。…もっと大きい輪が欲しい、うん。 今の楽しみ(外の人との関わり) 今一番楽しみなのは、自分で好きなの…運動。頭良くないから、遊ぶのだけ好きだったから。学校にいるときから、運動が好きだったから。遊びに行くのに、うちの人にも、外に出ないとだめだーとかって、まあ、少し自分で言うのはおかしいんだけど、欝に近い精神状態になった時もあるから…色々ね。 今はレクダンスの方に、行ってってね。楽しんできて。昨日も行って、一日踊ってきたんだけど(笑)もう脳みそ固まってるわ、覚え、やっと覚えたなーって思っても、うちに帰ってくるまでに忘れたりとか(笑)でも楽しい。外にいるほうが楽しい。でもそういうおかげで、こう、みんな良い人に恵まれて、ほらー、シルバー人材センターでお世話になってる人にもよくしてもらってねえ、頂いたり、ご馳走になったり、レクダンスで会った人たちにはやっぱり、寄って行きなーって言われて、お昼までご馳走になって、夕方まで遊んでくることもできるから。今太ってきたんだけど(笑) インタビュー一覧へ戻る

千葉 真理さん

インタビュー一覧へ戻る 小さいお子さんがいるため震災直後保健センターでしばらく過ごされた千葉真理さん。震災直後にも関わらず物資を分けてくれたりと、そこには閖上の人のよさがあふれていたようです。 小学校入学をひかえるお子さんの今後とゆりあげの過疎化 Q:閖上小学校に入学することについて いや、大丈夫じゃないですけども、いや、どこでもいいんですけども、まぁちょっとなんだろうあっちの仙台の方に行くといじめとかなんかもあるとか聞くので、なんか人数少ない方がいいのかなって、知ってる人もいるし、でもなんかどんどん人数が少なくなってるんですよね、なんか17人ぐらいなら閖上小学校と思ってたけども、なんかこないだ説明会行ったらなんか8人、そしたらなんか、でもそれでも減るかもしれないっていう話してたんで 震災の話はしない Q:震災の話とかを友人の方たちと話されたりするんですか あんまりしませんね、お母さんがなくなったりしたかたたちもいるので、あんまりしたくないのかな、はなさないです 閖上の人はびっくりするくらいにいい人、悪い人はいない? みんないい人ですよほんと、びっくりするぐらい悪い人はいない、いないっていうか、あんまりいないと思いますよ、みんな声かけてくれて、だから元気とかで、びっくりするくらいいいですよ、閖上の人は Q: それは千葉さんにとって閖上の人達の人柄 人柄も好きですね、朝とかもおはようって インタビュー一覧へ戻る

小野 直光さん

インタビュー一覧へ戻る 昔から自営業で働いてきた小野直光さん。閖上の人たち同士の近さについて、その距離感が良くもあれば、反面に自営業をしているからこそ分かる大変さをお話ししてくれました。 震災後も変わらない人付き合い Q: その方の中にもやっぱり家、家族失くされた方もいると思うんですけど、あの震災後付き合い方が変わったりとかありますか? 付き合い方、んー、付き合い方、そーですね。付き合い方は昔のよう、昔と全く一緒っていう付き合い方と言ってもいろいろありますが、たとえばちょっとお邪魔してお茶をのむとか、 震災後の人々の距離…近すぎる、すべて見えてしまう なんとかっていうのはまぁ気の合う方々普通に昔と変わらずやってるんじゃないでしょうかね、そういう面では、ただ、んー、それでもあまりに近すぎるといいますかね、昔はこう閖上の町があって転々と滞在してたんですよね、それがあまりに近くて見えすぎるというようなかんじも正直ありますね。ま、いいかわるいかは別ですけども。やはり最初は離れ離れ、何にもなくなってこういう風にひとつになって心強さっていう感じもありましたけど、まぁ、なれなんでしょうね、うん。あまり近すぎるのもちょっとって感じますね Q: それはどのような時に感じますか? あの、同業者間ですと余計に感じることが多いと思いますね。要は、あの、すべて見えてしまう。それがちょっとすべていままではね、そんなことはないんですけど、ちょっと車でとおすりすぎるとかちょっと用があれば立ち寄るとか、それがいまちょっと、外見ると全部見えてしまって、それで閖上の方もね、あの。買いにくいっていうんですよ。というより、その。例えば、魚屋さんが3件あって、ここで1件ここで買うのがほかの魚屋さんから見えるんです。で、さっきいったように商売してると閖上の方半分くらいわかる、だからだれだれさんうちにこなかったなって内心ね、口にはしなくてもこなかったなっていうのも思うし ボランティアに対して  Q: ボランティアの方にどのようなことを知ってもらいたいですか? あー、どのようなことを知ってもらいたい、やはり今でも、なんか掃除とかしてくれてますよね、ええ、側溝ですとか、えー、まぁ、例えば日和山付近ですと、そこで何かをするからみんなで一緒に運んだりとかあそこ周辺の掃除とかやってるのは見てましたんで、そういうふうにボランティアの方がやってくれてるから、ま、あの状態であるんだなと、もしボランティアの方がいなければ閖上の人がいって夏には草をかり、ゴミがあればひろいってのをやるのかもしれませんが、やはりボランティアの方がいないとすさんでくるのかなっておもいますね、それから、観光バスなんかもきますけど、やはり、人がいるっていうだけで全然違いますね。まぁ夜になれば全然違いますけど、仕事上言ったりもするんですが、やはり人がいないっていうのはさみしいですし、まぁあの、震災直後のままだなとあの暗く人がいなくなってからの時間は、やはり日中でもボランティアの方まだだいぶいらっしゃるので、やっぱそういった面でも全然違いますね インタビュー一覧へ戻る

鈴木 淳子さん

インタビュー一覧へ戻る 閖上生まれ閖上育ちの鈴木淳子さん。震災前の閖上について、そして震災後も前向きに生きていく大切さを語ってくれました。 閖上の人の温かいつながり Q: やっぱり人間関係とか、閖上の人達と そうだねー、うん、けっこう繋がりはあるね。やっぱこう人の子でも怒る、いまだとおこったらなんかいろいろ言われるじゃん、そんなことねーもん、ひとの子でも他人のこでも怒ってさ、なんで怒られんのって思ったけど、やっぱ悪いことしたら悪いっていわねーとね、今の子どもなんつーか、 じゃぁもうなんか家族みたいな感じで 入居場所は市が決める Q:避難所から仮設にうつるのはなんか手続きとか、書類書いたりとか? うん、あったよ。あったあった。入るとやっぱ市で決めんだべね、申請はしてたけどね、ほとんど地区で決めたのかな、ここが3丁目4丁目、私は4丁目だったんだけど、そこが、プレハブの、そうかな、そっちはなんか先に入った人は、仲良かったひとは分かれるさね、さみしかったね。だからそっちにいきたいなーってね。だからそういうのはやっぱりあったね。 避難所生活、「楽しかった!」 Q: その避難所の生活ってのはどうでしたか? やっぱり不便だよ、だけども、なんつーっつたらいいの、楽しかった。知らない人もいるけど、やっぱいざこざはあるよ、でもうん、楽しかった Q: いろんな人と? うん Q: 避難所には元から知り合いの方とか? うーん、そだね、うちの近所の人もいたし、あの、ここで、仮設入った人でも、何人か同じ避難所の人何人かいたからね。 Q: じゃぁけっこう避難所での人間関係とかつながりとか? うん、そうね、こうA班B班C班って、分けられてて、班ごとに、あー、この人閖上だったのって、初めて会う人のほうが多かったかな。だからけっこう、結束もあったね。 インタビュー一覧へ戻る

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