菅野 勝子さん、菅野 貞二さん

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夫、貞二さんはもともと閖上出身で、妻、勝子さんはもともと閖上出身ではなく、お嫁に来てから30年以上住むうちに閖上が彼女のとってのふるさとになったと語っています。


集団移設

昔からの生活習慣とか、お祭りだったりとか、イベントあるじゃないですか、地域地域のお正月、お盆ってこれからもやっていこうと思うし、どこに行ってもね。だからあそこの現地復興じゃなくて、せめてみんなが言ってるように、東部道路よりも西側にいっぱい田んぼがあるんだから、そこに閖上の町を本当、そんなね、そんな学識経験者や市役所の人が言うように、商店街だとか、医療施設だとかそんな学校なんかつくったって、学校にいく子供達のいる親はだれも帰りませんから。家の息子からはじめ、子供達、あんな思いして小学校の屋上ににげたじゃないですか、あんな恐ろしい事経験してるのに、また閖上に立派な学校作りますからなんて言ったって、誰も帰りませんよ、小学生いる子供達は。

震災前の閖上は人情味とかいっぱいあって、私は嫁に来て三十年経つんですけど、実家で生活した歳月よりも、嫁にきてからの方が長くて、本当にいま自分ふるさとって言ったら実家よりも閖上なんですよね。

そうですね、私たちはありました。親戚もすぐ近くにいっぱい住んでいましたから、あの昔のようにね醤油とかなかったらちょっと貸てとか磯切れたからかしてとか米きれたから貸してとか、ちょっと頂戴ぐらいなかんじで気軽に言える感じはありました。銀行なんかも閉まったら今はコンビニなんかでお金おろせるけども、今お金ないかなちょっと貸してとかそういうなんて言うのかな、昔の長屋みたいなね、繋がりはありました。今もハーモニカ長屋なんですよ。ドレミファソラシド、八世帯が一つになって、ハーモニカ長屋なんですよね今、でもうち息子と息子達の夫婦と私と三世帯借りて入ってますから、その中で一号棟だからあんまり気を使わないんですけど、大きい声だしたりどんどんって響くからね、気使いますよね、私たちは端っこだからいいですけど、孫とかまだ小さいから迷惑かけてないかなとか、気使いますけど人との繋がりはみんないいね、おばあちゃんとか、隣の奥さんとか、人間関係ではあんまり。

食べ物はね、家の避難所に行くと名取市内の避難所で自炊してた避難所なんですよ。他のは自衛隊の人のが作ってたのを食べてたんです。

私たちは、班を、とにかく、震災後一週間まで班を作ったんです。一班から何班まであったんだろう。班を作って、三班までは食事当番、四班からはお掃除たくの、トイレ掃除、あとはカーテンあけとか、交代でやってたんですよ。だから朝もう五時半に起きて、はんから一人ずつでて保健室に行って、ご飯で多いときに一日いっとさんじょう、一升の十三倍こんな釜で三つ炊くの、こんなでっかい釜で。みそ汁もおんなじおっきい鍋で三つ作って、あとおかず何したらいいか、支援物資が最初はなかったんだけど、野菜とか飲み物とか缶詰とか来て、自分で頑張って考えて、マヨネーズなんかもあったからね、素麺ゆでて、色んなもの入れて、鍋作ったりとか、そしてそれを男の人呼んで作ったり、体育館に分けてテーブル並べて、五時ですから皆さん並んでください。子供さんから、子供さん、お年寄りって感じで並んでもらって配るんですよ。そうすると大人でも子供でもお年寄りでもお皿を持ってくるんですよ。洗えないからラップを引いて、おかずと漬け物とみそ汁とあと自分でちゃんともってきてそれもってきて自分でちゃんと分けてもらう。もうね、いっぱいとにかく分けてあげる。普通だったらこんな一膳ちゃわんに一杯くらいしか食べないでしょ?それがね、二膳以上のご飯をよそって、それを持って帰る訳じゃないですか。で、それを私たちがみんなに分け与えるの。まだ残ってますからどうぞってマイクで言うんですよ。おかずも残っています、ご飯も残ってますおかわりしたい人どうぞっていうと、わーっと来るの。自分たちのこんな大量のご飯をわーって食べちゃっておかわりを待ってるの。おかわりっていうと一斉にもらいに行ってまた食べるの。


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菅原 則子さん

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閖上が大好きな菅原 則子さん。ご結婚されてから12年間は仙台で過ごされたのですが、やはり閖上がいいとなって旦那さんを引き連れて閖上に帰ってこられました。


閖上の人間関係

やっぱり隣近所、兄弟達よりもやっぱり隣近所がいいみたいで、よくお茶飲みに行ったりとか、よくそういう風にしてましたね。よく隣のうちでも、うーんと、何年か前に引っ越して来たんだけども、引っ越して間もなく、とけ込んじゃって、行ったり来たりお茶のみしたりとかしてますね。で、今もやっぱり津波になってからも、近所の人たちとおつきあい、ここにいないんだけども、その人達はみなし家庭にいるんですけども、そこにいってあそびに行ったりはしてましたね。


閖上の人たちが集まれば閖上に

そうだと思いますよ。やっぱり昔からの人たちだから、なんていうの、その、こう閖上の人たちの集まりって言うね、よそからあまり来ないでしょ結局、引っ越して閖上の方に。なかなね。閖上の人が地元に戻ってくるとか、だったらばあれだけど。あんまり閖上によそから引っ越してくるとか無いんじゃないかしらね。だから閖上の人たちが集まれば本当の閖上の町、になるんでないかしらね。

やっぱりみんな閖上の人でないと閖上の土地って言えないんでないかしら。


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千葉 真理さん

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小さいお子さんがいるため震災直後保健センターでしばらく過ごされた千葉真理さん。震災直後にも関わらず物資を分けてくれたりと、そこには閖上の人のよさがあふれていたようです。


小学校入学をひかえるお子さんの今後とゆりあげの過疎化

Q:閖上小学校に入学することについて
いや、大丈夫じゃないですけども、いや、どこでもいいんですけども、まぁちょっとなんだろうあっちの仙台の方に行くといじめとかなんかもあるとか聞くので、なんか人数少ない方がいいのかなって、知ってる人もいるし、でもなんかどんどん人数が少なくなってるんですよね、なんか17人ぐらいなら閖上小学校と思ってたけども、なんかこないだ説明会行ったらなんか8人、そしたらなんか、でもそれでも減るかもしれないっていう話してたんで


震災の話はしない

Q:震災の話とかを友人の方たちと話されたりするんですか
あんまりしませんね、お母さんがなくなったりしたかたたちもいるので、あんまりしたくないのかな、はなさないです


閖上の人はびっくりするくらいにいい人、悪い人はいない?

みんないい人ですよほんと、びっくりするぐらい悪い人はいない、いないっていうか、あんまりいないと思いますよ、みんな声かけてくれて、だから元気とかで、びっくりするくらいいいですよ、閖上の人は

Q: それは千葉さんにとって閖上の人達の人柄
人柄も好きですね、朝とかもおはようって


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小野 直光さん

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昔から自営業で働いてきた小野直光さん。閖上の人たち同士の近さについて、その距離感が良くもあれば、反面に自営業をしているからこそ分かる大変さをお話ししてくれました。


震災後も変わらない人付き合い

Q: その方の中にもやっぱり家、家族失くされた方もいると思うんですけど、あの震災後付き合い方が変わったりとかありますか?
付き合い方、んー、付き合い方、そーですね。付き合い方は昔のよう、昔と全く一緒っていう付き合い方と言ってもいろいろありますが、たとえばちょっとお邪魔してお茶をのむとか、


震災後の人々の距離…近すぎる、すべて見えてしまう

なんとかっていうのはまぁ気の合う方々普通に昔と変わらずやってるんじゃないでしょうかね、そういう面では、ただ、んー、それでもあまりに近すぎるといいますかね、昔はこう閖上の町があって転々と滞在してたんですよね、それがあまりに近くて見えすぎるというようなかんじも正直ありますね。ま、いいかわるいかは別ですけども。やはり最初は離れ離れ、何にもなくなってこういう風にひとつになって心強さっていう感じもありましたけど、まぁ、なれなんでしょうね、うん。あまり近すぎるのもちょっとって感じますね

Q: それはどのような時に感じますか?
あの、同業者間ですと余計に感じることが多いと思いますね。要は、あの、すべて見えてしまう。それがちょっとすべていままではね、そんなことはないんですけど、ちょっと車でとおすりすぎるとかちょっと用があれば立ち寄るとか、それがいまちょっと、外見ると全部見えてしまって、それで閖上の方もね、あの。買いにくいっていうんですよ。というより、その。例えば、魚屋さんが3件あって、ここで1件ここで買うのがほかの魚屋さんから見えるんです。で、さっきいったように商売してると閖上の方半分くらいわかる、だからだれだれさんうちにこなかったなって内心ね、口にはしなくてもこなかったなっていうのも思うし


ボランティアに対して 

Q: ボランティアの方にどのようなことを知ってもらいたいですか?
あー、どのようなことを知ってもらいたい、やはり今でも、なんか掃除とかしてくれてますよね、ええ、側溝ですとか、えー、まぁ、例えば日和山付近ですと、そこで何かをするからみんなで一緒に運んだりとかあそこ周辺の掃除とかやってるのは見てましたんで、そういうふうにボランティアの方がやってくれてるから、ま、あの状態であるんだなと、もしボランティアの方がいなければ閖上の人がいって夏には草をかり、ゴミがあればひろいってのをやるのかもしれませんが、やはりボランティアの方がいないとすさんでくるのかなっておもいますね、それから、観光バスなんかもきますけど、やはり、人がいるっていうだけで全然違いますね。まぁ夜になれば全然違いますけど、仕事上言ったりもするんですが、やはり人がいないっていうのはさみしいですし、まぁあの、震災直後のままだなとあの暗く人がいなくなってからの時間は、やはり日中でもボランティアの方まだだいぶいらっしゃるので、やっぱそういった面でも全然違いますね


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鈴木 淳子さん

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閖上生まれ閖上育ちの鈴木淳子さん。震災前の閖上について、そして震災後も前向きに生きていく大切さを語ってくれました。


閖上の人の温かいつながり

Q: やっぱり人間関係とか、閖上の人達と
そうだねー、うん、けっこう繋がりはあるね。やっぱこう人の子でも怒る、いまだとおこったらなんかいろいろ言われるじゃん、そんなことねーもん、ひとの子でも他人のこでも怒ってさ、なんで怒られんのって思ったけど、やっぱ悪いことしたら悪いっていわねーとね、今の子どもなんつーか、

じゃぁもうなんか家族みたいな感じで


入居場所は市が決める

Q:避難所から仮設にうつるのはなんか手続きとか、書類書いたりとか?
うん、あったよ。あったあった。入るとやっぱ市で決めんだべね、申請はしてたけどね、ほとんど地区で決めたのかな、ここが3丁目4丁目、私は4丁目だったんだけど、そこが、プレハブの、そうかな、そっちはなんか先に入った人は、仲良かったひとは分かれるさね、さみしかったね。だからそっちにいきたいなーってね。だからそういうのはやっぱりあったね。


避難所生活、「楽しかった!」

Q: その避難所の生活ってのはどうでしたか?
やっぱり不便だよ、だけども、なんつーっつたらいいの、楽しかった。知らない人もいるけど、やっぱいざこざはあるよ、でもうん、楽しかった

Q: いろんな人と?
うん

Q: 避難所には元から知り合いの方とか?
うーん、そだね、うちの近所の人もいたし、あの、ここで、仮設入った人でも、何人か同じ避難所の人何人かいたからね。

Q: じゃぁけっこう避難所での人間関係とかつながりとか?
うん、そうね、こうA班B班C班って、分けられてて、班ごとに、あー、この人閖上だったのって、初めて会う人のほうが多かったかな。だからけっこう、結束もあったね。


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高橋 吉也さん

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震災前はタクシードライバーとして閖上の方々と交流を持ちながら暮らしていた高橋吉也さん。今はタクシードライバーやマイクロバスの運転手の他に内職のビーズ作りをして販売を行い復興支援にも協力しています。閖上の将来に熱く語っていただきました。


閖上での人付き合い

Q. 震災前の閖上っていうのはどんな感じでしたか
いやあいいとこだよ。静でね、釣りもできるし、あとその日散歩してもなんていうかこう仙台みたいな町ですよね。だけど、ささってできるしさ、車だって混まないし、いいとこなんだよ。

Q. みんなで交流とかも
うん、ありますよ。うん。だから特にタクシーもしているから顔も知っているってこともあるっちゃ。それでしゃべったりさ。

Q. ご近所付き合いとかやっぱ家族のように仲良かったりするんですか?
うーん近所付き合いっていうのはあまりしなかったかなあ。うーんだっておらはよそ者だから。生まれは仙台だから、仙台市だから。でそこさ45,6年なんだけど、だからあんまり交流はなかったね。

Q. それは住み始めてから40年とか経ってもあんまりなかった…?
うん。だから近所とかはお茶のみとかするんだけど、あとちょっと離れたら知らないじゃないですか、やっぱり。行ったり来たりね。


仮設生活について

Q. 早く仮設に行きたいっていうのは
そうそうそうそう。だから今は極楽って、極楽って言えば、うん、ね、そういうもんだよ。うん。心配するわけではねえもん。ここは病院はある、買い物は楽、みんな近場にあるじゃないですか。だからここより本当にいいとないと思うよ。ただまだ、その復興して、戻ろうとしても、本来ならば戻りたくないの。なんにもない。んで、市役所だって本当になんにもいつもなくて、今までずっとずるずるべったりで、2年半経つ、過ぎたんだわ。なにやってんだっていうのが本音なのさ。


閖上の将来

Q. 今後閖上ってどんな町になっていくのかなって
閖上の町を作ろうとしているんだけれどもたぶんできないと思うよ。今後10年、20年経っても。だからそうなったならば、県の方からそれから国の方でか、ソーラーパネルを作って電気を作ったらいいんでないかと我々は思うわけよ。だからなんも住む人いないけんな。空き地でしょ。津波来たらまたなるんでしょ。そうなるんだったらソーラーでも電気を送って、国さ大きくすればそれで済むことだ。それはそれでいいんでないかと我々、俺の考えはだよ。だからみんな助かるし。あとは何、あの東道路っていうのかな?高速あるところのこっち側さこういうの丸さ作って町みたいなのを作ればみんな戻るんだから。それが東側だって埋め立て、あの、津波の来たとこさ、公営住宅だ住宅建てたって戻る人も少ないってことなの。みんな流されてね、1丁目まで、1丁目まで流されて誰も住むっていうのはあんまりないじゃないですか。でももう我々はもう死んでからもう1回来るから、いや俺たち、あんたたちの時代だから今度。そうなった場合はだからどういうふうにすっかって。そこなのよ。


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長沼 俊幸さん

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水道業をしながら語り部も行っている長沼俊幸さん。1番最初のインタビューだったので閖上についてお話していただいて、震災前と後の変化や、閖上のつながりの強さやコミュニティーなどを教えてくださいました。


閖上という町

Q. あの、閖上で、あの51年間過ごされたということなんですけども、私たちどういう街かっていうのを私たちも知らなくて、あの、少しでもいいので・・・

はい、うん、まずね、閖上ってまちはね、まーもちろんみなさん今日行ってみて分かると思うんですけど、あの、閖上っていうあの、港町ですね、。漁師さんたちのまち、まぁ今は漁師さん少なくなりましたけども、もともとは漁師さんたちのまちで、栄えた漁、栄えたまちですね。やっぱちっちゃいまちで、ああいうちっちゃいまちなもんですから、ほんとにみんな知り合い、あー、知ってる人、顔見知り。まぁ、元をたどせばほんとみんな親戚みたいな感じになってるところでね、ほんとに今考えればね、いいところだったのかなって、思いま、 まぁ、もちろんいいところだからこそ、50年も私いて、今でも閖上に戻りたいって気持ちで思ってやってきましたんで、ほんとにいいところでした。隣近所もみんな、みなさん知り合いだし、だから、今仮設に私は自分の家族、あとー、私の親、じいちゃんばあちゃんも一緒にいるんですよね。で、じいちゃんばあちゃんたちがやっぱ閖上にいれば、なんぼ年とってもいくら年とっても、少し体が具合悪くなってもどっかに散歩しにいくわけですよ、年老いてね。で、お茶飲みに行ったりどっかに散歩しに行ったりね、で、そういうときに万が一ね、どっかで事故が起きた、どっかで倒れてた、具合が悪くなったっていっても必ず分かるんですよ。どこのじいちゃんどこのって。そうすると誰かしらが連絡よこしてくれるわけですよね。そうすると私たちみたいな、若い世代、働いてる世代の人も、じいちゃんばあちゃんを2人で置きっぱなしにしても、心配なく仕事に行けるわけですよね。そういうね、いい町だったんですよ、安心なね。子どもだってそうです。子ども育てんのにも、どこの子ども、どこの孫ってみんな分かるわけですよ。だからなにか子どもたちが悪さをすれば周りの人達が怒こってくれるし、すぐに、もー話は聞こえてくるしってことでね。そういういい町だったの。んー、だから 今もこうやって私が、私たちの年齢ぐらいの人で、震災があって今仮設住宅にいるって人は少ないんですよ。みんなやっぱそれなりにね、もう2年も経ったんで、ある程度目鼻立ちをつけてどこかに引っ越す。あとー、自分で家を建てるっていうことしてる人が多いです、たしかに。んー、でもやっぱり私もそれはしたいんですけど、実際やっぱりその、あのー、私の親たちが嫌なんですよね。そういう知らない、自分たちの知らない、誰も知らない町に行って生活するって事が嫌なんですよ。で、まぁ、自分の家にいるよりは、そういう知らない町に行って暮らすよりは、ここにいて、みんな閖上の人たちと一緒に暮らしたいという思いがあるわけですね。


閖上のつながり

孤立したとこだったのね。俺たちの親父の年代がそうだったのね、だからそれがずっと続いて、俺たちみたいな年代でもね、高校にくらいになんか行き来するようになっても、そういう町で、なんか閖上って特別な人たちで、つながりが強いんですよね。だから小学校中学校なんか先輩たちからいじめられるんだけど、それが高校に行ってみていっきにみんないっきに外に出ていくでしょ、そうすると閖上っていうだけでみんなから助けてもらえるんの。そういうつながりが異常に強い。異常なくらい!


大切なのは人々

Q. どうしても1つ聞きたいことがあるんですけど。それだけ絆が強いっておっしゃってたじゃないですか、家族のようなって、で、土地はすごい大きな被害を受けたじゃないですか、それで、今のような状況の中で、その「土地」が自分の帰る場所であるのか、それとも「人々」が帰る場所であるのか、そのへんをどのようにお考えになるのかちょっと聞きたかったんですけど

俺はね、私が思うのは、人なんですよ。人が戻る場所なんですよ。だから中には、場所、あの閖上っていう場所をつくればまたこの閖上ってまちができるっていう人もいるんですよたしかに。でも、俺はできないと思う。場所なんてどこでもいっしょ。だって、ここだっていま閖上の人たちのそのつながりあるんですよ。だからこの場所をそのまんまね、これから何十年も住んでいいよって言われたら、この場所はずっとこのままですよ。何十年もずっと。今の人たちのゆりあげのつながり保ったままいけますよ。だから俺は場所じゃないんじゃないのかなって、人!だからここにいる人たちをここにそっくりそのままどっかにもってって、その人たちをあと50年暮らさせたってこのまんまですよ、ずっと。どこどこの孫、どこどこのばあちゃん、どこどこのあんちゃんって言われて。ね。その、この人たちをバラバラにしてあの閖上の土地に町をつくって、いろんなところから人呼んできて、一つの町を作って、そこで50年したからってこういう人たちのつながりって絶対できないと思う。だって、やっぱり何十年もずっと続けてきた人たちとの暮らしとつながりがってこそ初めての場所なんですよね。もちろん、だから、これらの人たちを山に連れてってねやればまた漁師町とはちがったまちにはなるかもしれないけども、人とのつながりってのはそれで続いていくと思うね。だから俺は人だと思ってる。だから俺がゆりあげに帰りたい帰りたいってずっと言ってきたのはそこなんですよ。あのばしょに帰りたいんじゃ人ですよ。閖上の人たちと一緒に暮らしたいと思ってたんです、ずっと。だから今のうちの親父たち、おふくろたちとおんなじ。


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太田 光朗さん

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生まれも育ちも閖上の太田さん。長年様々な形で閖上に関わってきた太田さんに、お話を伺いました。


震災による人間関係の変化

でも平成、11年の、11年くらいだったかな、震災受けたの。11年の3月11日が東日本大震災だよね。それがあったために、現在は本当にあの、人間関係がみんなだめになったんだよね。ていうのは今まではこのないかいで運動会だ、地域で仮装大会だの、公民館でいっぱいあったでしょ、みんなで。15地区あったのね、上町だ、中島町だってそれでみんなで集まって運動会やったの。それがやれないのがほんとに悲しい、その時代に戻りたい本当に。戻らないからねえ。人間も楽しくやってね、そういうところですよ、あの震災前はね。


震災後のつながりの変化

変わったね、うん。つながりはもうほとんどなくなったし、今この仮設にいる人はほとんどつながりは何人かいるの、5,6人いるのね、前から役員やってた人もいるけど、あとは同じ町内会の顔見知りだけであとは話したことないからそういうのはつながりはもうずっと大変だろうね、向こうも大変だろうしさ、そういうのが多いんじゃないかな。だから結局今言ったとおりかたまりというのががでてくるわけさ。おんなじ、1号棟から17号棟まであるんだけども、1号棟の人は隣近所で仲いい、今まで話したとない人だけど隣だから仲良くなるんだ、それでここはここで仲良くやってるんだね。あとこっちはこっちでやって、、。だから仮設全体でいうまとまりはあるんでしょうけど、常にあるもの、というのは遠目でやってんだね。それは悪いことじゃないから、だからそういうのはいいんじゃないかと思うね。そういう習慣あったからね。昔は離れててもみんな固まって何かあったら寄ってたけども。


将来の不安

将来の不安はあるね。私は、年寄りは。若い人たちは未来っていうのが、娘とかは未来ってのはあるけど、76になってさ、どういうふうになんのかなっていう不安だね一番最初に。でみんなと会えなくなるってことは今まで、ほんと会わなくなるんだみんなばらばらで。だんだん足も動かんなくなったりしてさ、その不安てのはあるね。この前は、いろんな遊び行くって温泉とか行ったりしてたんだけど、そういうのこのままだと体も動かなくなるでしょ。だから俺なんかちょっと金だけは貯めとかなきゃだめだなあって病院へ行くお金とかいろろあるでしょ、今度できなくなるから日本もね。で我々もできてこなくなるわけさ。これ家賃も取られるようになると今度家賃も払わなきゃなるし医療費も高くなるでしょ?そういうの考えるとねえって思ってるんだ、お金だけ持ってればねえ。だから将来はそういう不安だね。いやとにかく悲しいし悔しいね。最初悔しいし悲しい、言ってるんだけどね。あと今後やってくことはやるしかねないから。だって、くよくよしたって、でもたまたま考えると寝られなくなるんだわ、俺あと何年くらい生きられるのかなあ、生きた後いなくなんのかなあって思うのね。子供らもちゃんとやんのかなあって今の子供はかわいそうだって思うけどね。


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大友 吉彦さん

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閖上生まれ閖上育ちの大友吉彦さん。震災により家が流され現在は仮設住宅にお住まいになっていらっしゃいます。閖上に長年住まわれてきた大友さんに震災前の閖上はどのような町だったのかお伺いしました。


震災前の閖上

うん、だから大体顔お合わされば大体わかるような人達。まあそうじゃなくても大体閖上の町の中で、暮らしていると、大体どこに住んでいるってのはお互いこう分かっているようなところだからね、うん。そんなに広いところじゃないから閖上って。


つながりと仮設での生活

Q.その震災前と比べて、人との関わりに変化はありましたか?
いやあ特別な変化なんてのはないね。うん。ただほらそこで、あのー、一応仮設の中にはみな電化製品から何からもう用意されている、、で私らも1回家族の方に申し込んで、で入ったのが1か月くらいあとだった。で1か月後ってのはこの仮設ができて、で大体もうそろそろいれようか、その時に仮設に入った。だからその時は品物はなかったよねえ。この仙台、まあ仙台とは言わず東京の方からもあった。うん。東京の方から車で来て古い洗濯機から冷蔵庫から何からね、持ってきたけど、、まあいろいろ汚した方はね、それなりによこしてくれたんだけど、私らのところについた時、あまり、、それなりのものという、見方、悪いけどね、だけどやっぱり、あとで1か月くらいして、まず電話して引っ越したからね、だけどまずその段階の時にはやっぱりここにみんな入ってるから、入ったけど、だからあまりいいものはなかったんじゃないかなあ。うん。


伝えたいこと

Q.えーっと最後になってしまうんですけども、あのこれからそのウェブとかにビデオを載せていくんですけど、そのこれから、そのビデオを見る方とかその被災者の実情を知らない方々に何か伝えたいこととか知っておいてほしいことはありますか?
うん、あの、まあしいて言えばね、余計なものは持つなって、うん。本当に自分の必要なもの、これだけで十分、うん。下手にあれこれってねそう、見てるとそういうことで亡くなっている人も多いんじゃないかな。私はそう思うよ。うん、だからそうやって見ると、恐らく何も取らずして逃げる、取ろうとして、取れなくて、そのまま、水が来て逃げようと思った時には、もう、逃げ遅れ。だからもう水が見えた時にはもう終わりだよね。まあ、よっぽど2階に逃げて屋上さ行って助かるかわかんないけど、、、まああまりそういう風なもののやっぱりあさり方ってのはなんていうのかな、そういうのは、あまりしない方がいいな。うん、、、まあ若い人、若い人達って言ってもこういう境遇にあったときはとにかくものは持たずして逃げることだ。


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