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つながり

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小木曽 清さん

インタビュー一覧へ戻る 教員になられて31年目、大須小学校の教頭先生になられて今年で2年目です。震災後、小木曽さん自ら被災地の小学校での勤務を希望したそうです。雄勝出身者ではありませんが、雄勝の子どもたち、町の人たちを客観的な視点から語ってくださいました。 自慢のふるさと 漁業やってくとか自分の跡次とかあんまりいないよね、親も自分のやりたい仕事につけっていう親だと思うから、そうすると就職先がないのでね、でもやっぱり自分の田舎はここだっていう風にね、帰ってきてはいるけど、夏休みになるとね小学生とかきてるので、田舎でかえってきてるんだるなって、そういう感じでおじいさんおばあさんのところに帰省するっていう場所なんだろうなって、それがこどもたちにとって、今の小中学生が大人になって出て行ったときに、自慢の故郷になってほしいなって思いますね、でていったとしても自分の生まれ育ったとこはこんなに自然に恵まれているっていう誇りに思ってね出て行ってほしい 浜ごとのつながり Q:客観的に見て大須の人とかって絆とかって強い印象はうけますか 小木曽氏:大須学区って4つの地区があって、大須地区熊沢地区桑浜地区、大須3区、大須地区は大須小学校、3区ってのはいまの3つの、3区は3つあるからじゃなくて、2区と3区があるから、それぞれの地区で仲がいい、漁するのもそれぞれの浜できまりがあるみたいで、ピーっていう笛の合図でだーって船をだして自分の好きな場所にってウニをとるとかわかめを取るってとこもあるし、最初っから船を出してて、サイレンがなるとばーってとるとか、それぞれの地区で決まりがあるらしい、やっぱりそういう浜の繋がりとかってのはかたい 復興状況 Q:現在の雄勝の様子、復興も含めてどう思われますか 小木曽氏:雄勝3区については徐々に復興漁業に関してはホヤも今年から、ホヤって3年かかるからね、あとは、銀ざけとか、大須3区では銀ざけしてないけど雄勝3区では復活してきてるし、あとは復興住宅とか建てるだけの段階になってきてるしね、そういう段階ではいいと思うけど、雄勝の町は全然だよね。ほとんどひといないでしょ、あるのはたなこや(仮設商店街)さん、硯組合のプレハブが増えたのかな、あとはみうら海産と、やおやさん、あとは水産会社が工場ができたよね、あれぐらいしかないよね、話によると8メーターから9メーターかさあげするっていうけど、ところどころ積んではあるけど、あれがかさあげなのかわからない、先が見えない、進んでるとは言えないと思いますね インタビュー一覧へ戻る

阿部 優一郎さん

インタビュー一覧へ戻る 雄勝に産まれ育ち、震災時は福島で高校教師として働いていた阿部優一郎さん。 震災で母親と弟夫婦を亡くしたことを機に、雄勝に戻り、漁師としての家業を継ぎました。新米漁師としての苦労や復興についてのお考え、家族のお話など様々なことを聞かせてくれました。 浜の人は家族 Q: 急に漁師さんをすることになった時に、ノウハウとか前に教えてくれる先輩の漁師さんとかいらっしゃいましたか。 A: はい。まあ逆にそれがないとやれる仕事じゃないので、あのーまあ親父もまあずっとやってきた仕事ですしね。まあ私も無いなり諸なり、小さい頃一緒に観て、まあ、た、多少知ってた分もあるんですけど、自分がいざやるなると、やっぱりあのー生活のリズムがまずほら、180度違うような世界よね。まあ最近、ようやくになってようやく、体の体内時計がリセットされてきて、漁師の仕事にこう変わってきたのかなっていう感じで。で、やっぱ周りの人っていうのは、こう特にこの雄勝というところはあのー昔ながらのね、こう近所とのつながりっていうか、まあ結局浜の人がこう皆家族みたいなところがあるので、であのうちも、うちの家族がね、こういう状況になってしまったのも皆知ってますし、で、まあ帰ってくる、やるってなれば、こう頑張れってな形で、随分こう手を貸すことはなくても貸してもらうっていうことはかなり多くて今日に至ってますけど… 海に対する思い うーーん、まあいろんな思いありますよね。うん、まあやっぱりあのーこの浜で育って、やっぱこう、まあ漁師気質というか、こうなんかこう気持ちがなんていうか、こう荒っぽいような人が多かった気がして、でまあ自分がその中で育って、まあ教師の道になった時に、結構やっぱね教師になった時に、ここで育ったそのなんていうか、こう人とのかかわり方っていうかまあそういう風に案外教師の道こう活かせたりしてね。非常に雄勝に産まれて良かったなーって思うことも多かったですし、後はまあ家族とか、周りにいた人たちの影響とかはもちろんあると思ってるので、海のこう近くで育ってよかったなっていう風な思いもやっぱありますしね。 まあその反面あとは、こう津波でまあこんなことになってしまって…っていう風なことで、残念な思いというか、うーん、まあ家族返してくれよっていう風な思いもありますしね。ちょっと複雑な思いはあるかな。 雄勝の現状と未来 全然満足してないですねー。で、さっき言ったようにこう人がこう住んで、街っていうかこうコミュニティとしてのこう体をなしてないというか。もう今は言える事はもう、先がやっぱりないというか、もう今残ってる人たちの年齢層を考えると、特にここ数年で何かしらこう手を打つところはうっていかないと、もう人口の自然増っていうのは、もう望めなくなっているという現実がありますからね。で、そこで何か、それこそもう、もう少し若い人たちが、まあ秀平くんみたいな世代の人たちが、やっぱなんか住んでみたいなっていうか、やっぱ雄勝に戻ろうとか、まあ出て行った人たちもね。何かこう、そういうもうのを埋めるようなものをこう作ってくって事をしないと、ただやっぱりこう今残ってた、残ったお年寄りの人が亡くなってもう本当にこう限界集落とかって言葉で言われてますけど、まあそういう地域にだけはしたくないなっていう…思いは強いですよね。 インタビュー一覧へ戻る

中村 一成さん

インタビュー一覧へ戻る 奥様と仮設暮らしをしながら布団屋を経営されています。雄勝生まれ、雄勝育ち…60年住んだ雄勝は決して嫌いになることのできないふるさと。そんなふるさとが今置かれている現状、進まない復興への歯がゆさ、将来への不安を語っていただきました。 雄勝の現状 まぁ、この雄勝も今どうにか形の中でいろんな構想出てるんですけども、まぁ私の持論なんですけども、まぁ私も役職がらまちづくり委員会の委員だったりなんかしてまちづくりにいろいろ話し合いの中にはいってたんですけども、正直歯がゆかったですね、ものがすすんでいかない、そしてまちづくり委員会でみなさんの意見聞いてやってくんですけどのその中でこれがいいんじゃないかなってやってもらうのは本署にいってペケにされるのいっぱいあったんですよね。で、一転二転三転していくなかでこうやってくんですけど、まぁおたくたち見るように雄勝の町ってほんとにすすんでないでしょ、あの、いっぱいこう形はできてるんですよ構想は、でもなかなかすすまない。まぁ何が原因なのか私らもよくわかんないんですけど、まぁ一年ましに、わたしらもそうなんですけど、地元に残ってこう頑張ろうっていう人が1年2年経っていくとなんだ住めないんじゃないかとか全然動きがないから離れてく人が多くなった。一番怖いですね。 雄勝に残る理由 生徒:その、中村さんが雄勝に残る一番の理由ってなんですか 中村氏:私はね、今は形をどうにか戻してやりたいなって気はあんのね、ただ私は今ここにねこれからずっと雄勝にいるのかっていわれるとちょっとかんがえるのね、っていうのは私は今船越で生まれて60何年ここで住んでふるさとを嫌いな人は誰もいないのね。ただ自分がこれから年取っていくといろんな面での心配がある。だから今は自分がやれるうちはやりましょうって自分の力でできること微々たるもんですけど、だからそれを今はとにかくやりたいなって、自分なりにはね。で、あんまりかっこいいこというとあれなんですけど、かっこいい話じゃないですけどそういう質問されると、中村さんはこの雄勝の町をなんとかしようと一生懸命がんばってんだべなっていうとそんなことない何にもやってない、そうでなく自分が出来ることは何かそこなんですわたしは。 コミュニティーの崩壊 生徒:その周りの人とのつながりっていうのは震災前と後で変わったようなことってありますか 中村氏:いや、変わってないでしょ、うん、ただ遠くなったのは遠くなったよね。船越の場合は、今でも住んでる人は10人くらい、10人いないと思う。3世帯10人くらいだね。それで、まず私はもう、部落のこのコミュニティーが崩れるのが一番おっかなかったのね、っていうのは今質問あったように雄勝の船越に生活している、普段いろんなものを分け合ったり話し合ったりお茶飲んでたりしてたような、ポンと離れてしまったのね。したらそれが崩れてしまうのがおっかなかったもんですから、月に1回ずつ集会開いたんですよ、で、集会を開いて2年ぐらいそういうことやって、それでみんなのコミュニケーションを深めていったんですよ、でも、時が経ってしまうとなかなかそれもままならなくなってきたのもじじつです。船越を好きなんだけれども現実すれば足が遠のいてしまう。やっぱり海があって海にいろんなものとりにいってるうちはいいんだけど、石巻の都会に住んでね、ここに何もようないのにくるかっていうとこないよね、それが現実。だから昔のコミュニティーそのものっていうのは崩れてしまったね。 インタビュー一覧へ戻る

佐藤 富寿子さん

インタビュー一覧へ戻る 雄勝の羽坂に住む佐藤富寿子さんの家では、近所のお母さん方が集まるお茶会にお邪魔するかたちでインタビューをさせて頂きました。佐藤富寿子さんを初め、母の佐藤満子さん、近所に住む永沼千代子さんと佐藤元子さんのお話を通して、雄勝の昔の様子や震災後に雄勝に残る人々の声をきくことができました。 守るべきもの いろいろだから小さな部落なんだけども、小ちゃな部落だからねやることが多いんだよね、あれもこれもってあるんだてば、都会にはないそういう流されないものがさ。さらって流されないものがあるから、以外とそれを維持しているのが、負担が大きいというか、残された人たちがね、大変なの。守っていくっつことが大変なことだったんだなっていうことは、私はずっとここにいていっつも思うことなの。 守ることは大変だって。お母様方に手伝ってもらって、はりきとうなんかもずっとやってきたけども、もうお正月の元旦からだよ。みんな家に来て泊まるでしょう、家に来て帰ってくるわけでしょう。もうゆっくりするどころか、次の日の準備しなきゃならないから、ここ全部外してだよ、全部外したまんま、さあ起きろ、4時になったら起きろ起きろって。もう前の日舞い上がって、飲んだ食った、わいわいやるでしょう。もう子供たちは起こされるや、うーん本当にね、そう思うと何十年もそういうのね、ここで皆お母様たちに手伝ってもらってね、やれたことだけど。本当にその時、ましてやうちお婿さんだから、全く持ってうちの事はわからないいんだ。だから大変な思いしたと思うんです。だから本当に守るということが大変だなって。 昔の雄勝・地域とのつながり 永沼千代子さん:(他の浜との交流)昔はあまりなかったね。婦人会っていうのが雄勝町にね、公民館であって婦人会のいろいろな行事とか・・・ 佐藤富寿子さん:婦人会なんかったら人も多かったみたいよ。 永沼さん:でも戦争当時の婦人会がほら、兵隊さんにね。 佐藤さん:交流会と言えば、運動会ですよ。運動会が一番メインのもので、雄勝町体育大会という・・・それがね、部落根性というのかな、その部落の根性もすごいんだから。 永沼さん:部落が15浜あって、北上町が13浜あったの 佐藤さん:行事はね、イベントっていうのはまず雄勝祭りは最近の事であって、本当の交流というのはね、その会その会って婦人会とか老人会とか、そういう会があるでしょ。そういう時ぐらいであって・・・行事があれば参加するだけだよね。さっきも言ったけど運動会が一番のあれ出すところだな。あれは面白かったよ、最高。 震災後のつながり でもやっぱり考えてみると、まとめてもあれだよね、昔やってきたことが続いてるということはいいことだよね。守らないといけないということも、もちろん大変なことだろうし、だけど、だからこそやっぱりまた協力性が出てきたっていうかさ、かっこいいこと、いい風に言えばね。カッコつければそういう事で、うーん皆が協力心が出てきたっていうかさ、今はみんな必ず出て協力してくれて、尚更この震災後には、お互い、隣近所気をつけながら、声かけながらやってるということは事実だと思いますよ。 あまり鑑賞しすぎることもあるけど、それで困る時もあるけど、悪く言えばそうなんだけども、良く言えばお互いの家族、家庭を見守るっていうかね。尚更ね、震災後にその気持ちがね、出てきたんだか、なんだか。 インタビュー一覧へ戻る

野口一子さん

インタビュー一覧へ戻る 宮城県仙台に住む野口一子さん。閖上に知人がいらっしゃるそうで、閖上にもまた行きたいと言います。旦那さんを震災前に亡くされ、震災当時一人で、とても恐怖を抱えていたと語ります。 震災時の恐怖 ほんとに怖かった。その揺れるのが大体あれほど大きくなくても大体ずっと続いてたんですよ。そして雪が降ってきたでしょ。で、まあ日中まだ会社がやってる時間には寄ってきたりしたけども、夕方になったら誰もいなくなったの、この辺に。それで怖くてもう家にいられなかったんです。それで、明るい時傘さして、鍵かけて。でも、鍵もみんなかかったし、トイレも壊れて、今もまだ壊れてますけど、壊れても普通に使えるんです。それで怖くて一人で家にいられなかったから傘さして町内ずっと歩いてたけど、誰もいなかった。で、小学校がずっとあるんですけど、行ったとこにね国道のとこ。で、そこがそういう時に集まるとこだったの。私そのことなんかちっとも頭になかった、もう怖くて怖くて一人でしたから。それでここ歩いてて、でも家に入るのは嫌だなあと思って。。 震災直後 そして市役所こう見たら明かりがこうこう付いてたんです。だからあぁユミにも子供にも連絡しなきゃと思って、どうせダメだと思うんだけど、ここ通じないんです電話は。それで市役所行ったの。そしたらロビーが一杯人がいて、そして公衆電話がダーッとあるからそこをみんな列になって待ってて、やるけども、どなたも通じないの。三回ぐらい回しては交代して。私もダメでしたけども。 こんな目に遭うとは そして怖いなーと思って、また外でなきゃなと思ってたら、ミゾグチさんの奥さん迎えに来てくれて、家に行こうって言われてまた。そして泊めてもらって。一人はもう心細いわ、怖くて。ほんとに・・・こんな目に逢うとは思わなかったってみんな思ってるでしょうけど。 怖い思い あのーこういう怖い思いすると、地震というものが怖いと思うようになるのね。そんなに地震なんて大きいのにあったことなかったから、そんな怖いと思ったことなかったけど、ほんとにもうちょっと揺れてもあの頃はもう・・・ドキドキドキドキしましたよ、うん。 Q:今はその怖い気持ちって少しずつ薄くなりつつあって。。 ええ、ありますね。。。雨漏りだけが怖い。 仙台の復興 Q:現状とかっていうのはニュースからわかりますか?復興してるとことか・・・ そうですね。大体わかりますね。まあまあですけどもね、うん。だけどあのー、国だってそんなにお金無いし、市だって県だってねあれですから、そう思うようにトントントンとは行かないですよね、これはね、完全にね、復興ってね・・・だから・・・まあ、これはしょうがないですよね、徐々にだね。 Q:仙台の復興はもう早かった。。。 仙台はね、やっぱりね。で、私あの、高校の同級生とかがもう仙台が津波でなんとかなんて言ってみんな心配してくれたけど、この、私達の所は海に近くないから大丈夫でしたよみんなね。 心の復興 まあ仮設は可哀想だもんね。さっき言った(テレビで放映されていた)おじさんに、ほんとに狭いとこ、台所があってここでご飯食べて、こうやって小さな部屋があるぐらいなんですよね。おじさんは多分ここに休むんでしょうね。そしてその男の子まだ高校生だっていう人が・・・お兄さんと一緒なのかな、まあ二つぐらいしかない部屋でしたね。だから・・・ほんとに狭いもんね。だからカビるでしょうね。あの、人が大勢集まったとこも温度上がるでしょ。それとおんなじだもんね、狭いところにねいれば。でもあの男の人も卒業して、中学校だったのかな、そして高校三年終わって、今年あたり就職したかもしれない、その弟さんの方。お兄さんは勤めてたんだっけね。何回もやったわ、その人たちのこと。かわいそうに。だからあまり笑顔とかなかったね、その男の人。可愛がられてたでしょうにね、まだ中学生ぐらいだったらね。そういう人一杯いるんだろうね。 Q:そういう仮設に住んでる人は、やっぱり家がないってことで、なんか心の復興っていうか、すぐに同じような生活に戻れないっていう・・・ そうかもしれないね。 Q:仙台の人たちはそことはやっぱりちょっと違くて、家があったていうところが違う点ですか。 家があったからね。 Q:そこでこう、やっぱり仙台の人の心の復興は他の人と比べて早いっていうのはありますか? そうですよね。それはそうですよ。それであのー、立派なうちがあってもそこは一ヶ月に一回、一週間に一回とか二回とか行けないとか言って、そして入るともうねずみとかなんか動物とか入ってもうどうしようもないとかああいう風になったら、どうするんだよと思ってね、それこそもう立て直せば一番いいですけど、立て直したらそんな大きな家も建てられないでしょうし。私だったらどうするだろうなって思ってました・・・気の毒だね、それはね。 Q:仙台の人はどっちかって言うと、普通の生活に戻るのは早かったですか。 うん、早かったですね。まだまだ電気もつかないのかなって思ったら、ある程度。でもその通りから向こうがもっと早かったんですよ、やっぱりそういうなんかの具合でね。でもね、みんな言ってるけど、私も思いますけど、大体三歳から五歳くらいあのショックで年を取りましたね。頭も悪くなったし。失敗ばっかしするし。大体一日に三つくらい間違いするんだから。ほんとにあの・・・大体みんな・・・おかしくなった。そして実際ほんとに年も取りますからね。 インタビュー一覧へ戻る

久米田泉さん

インタビュー一覧へ戻る 震災後は桜団地仮設の自治会の一員として2年間務められた久米田さん。仮設での出来事や、閑上への思いをお話し頂きました。 仮設における閑上のつながり Q:そうゆうみんなでできれば一緒に移動したいっていうのは、仮設でできたつながりが強いから? そうですね。はい。 Q:そのできたつながりっていうのは震災前からのものなんですか? ものもありますね。閖上特有のそういった近所付き合いっていうのが。アットホーム的に。本当にお醤油かしてとか、これ食べてとか、これ作り切れないからこれ食べてとか。そんな感じでアットホームな関係は保てたんではないかと思います。 Q:じゃあそれは仮設に入ってからも続いていった 続いてますね。まあお醤油貸してっていうのはもう昭和の時代です。私の小さい頃のことですけど、作ったものってかいただいたりとか、あと食べきれない野菜をわけてくださったりとか、そういった関係は今でもこの仮設ではありますね。 自治会役員としての活動 役員を2年間やって、去年の春、2年間やったんですよ役員。役員をやって、いろんなコミュニケーションをとって、誰が具合悪いとか、誰がどんなお薬を飲んでるとか、誰が歩行に困難なのか全部知り尽くして、名前も覚えて対応してきた分だけそれで成長したのかなと思って。 Q:その役員の久米田さんの具体的な役割は? マルチでした。マルチです。会長がいなかったので、会長の一応総務なんですけど、物資担当だったり、週の決め事、一日一日、1か月のスケジュール表とかの組み合わせとか、時間の組み合わせとか、あとは倉庫掃除とか Q:本当にマルチですね。 あとボランティアさんが来たときに、私の目では判断できないなっていうところを、何件もくるんですよ。一日5.6件くるんですよ。こうゆう者なんですけど、何かできることはありませんかとか、こうゆうことしてあげたいんですけど何時からがいいですかとか、それを会長にお伺いしていいものなのかどうなのか、私が即決で決めていいものなのかどうなのか。あとは悪質かどうか。それを判断するのに1日中集会所にいたのが2年間だったんですね。そうゆう役員の仕事でした。 2年間を振り返って Q:そうゆういろいろな経営っていうのはそうゆう災害のトラウマを考えるよけになってるっていうか もう無我夢中でした。2年間は。住宅の方も今住んでる住民の方も2年間は無我夢中だったと思います。あたりを見るっていうよりも、自分の生活をゼロからスタートしなければならないので、それにくわしたボランティア活動だったりとかそういった支援物資の配布をいただいたりとか。 子供達のトラウマ 地震のことは一切しゃべりませんでした。 Q:思い出してほしくないものなんですか? はい。っていうのは、今でも地震がなるとリュックサック背負う子いるんですよ。そうゆうこもいるので地震のことは一切しゃべらないと。今は今、その時はその時。で会話したのが一応配慮したつもりでしたね。 Q:そうですよね。やっぱりここ震災後に生まれてる子のほうが少ないですもんね。子供に震災のことを質問されたときっていうのはどうゆう風に対応されてるんですか? 質問はなかったです。なかったです。テレビ局とかはいっぱいきまして、震災後もどうゆうふうな経路で逃げたのかとか、そんなことは聞かれましたけど私のほうでは、しゃべりはしませんでしたね、子供たちには。 Q:そうゆう子たちがそのさっき例でいったリュックをしょってしまうっていうこがいるって言ってたと思うんですけど、他にもやっぱそうゆうふうに地震の影響が心の傷になってるんだなって感じることはありますか? ありましたね。住民さんのお孫さんが地震がなるとばあちゃんここまで津波くるって毎回聞くっていう話を聞きましたね。だからそれだけまだトラウマ的に。 Q:そうゆう聞かれたときの対応として心掛けてることとか、これは言ってはいけないとか もうしゃべらないのが一番ですね。 Q:聞かれても来ないよって そうですね。大丈夫よって。大丈夫よって。 閑上の慰霊碑について Q:そしたらそれこそ慰霊碑に名前を書いてほしいとかっていう感じですかね。 うんそれは、母親とか、あの亡くなられた方とか、震災で亡くなられた方。また行方不明者の方。の名前は入れてもらえれば最高かなって。うん。名まえっつってもあの相当な数になるでしょうから久米田家とか、何家とか、何家とかって、うん。そんな風な感じで、入れてもらえれば最高かなっとは思ってますけどね。そうするといつ行ってもそこに、みんなと一緒に、みんなの供養もふくめて、母親の、と、久米田家の、あのご先祖の供養になるかなーとは思いますけどね。5 Q:慰霊碑がそういう大きなものになればなるほど、注目度っていうのが上がって、外から来る人も増えるんじゃないかなって思うんですけど、そういうのはもう、歓迎ですか。 歓迎ですね。やっぱりさっきもいったように、風化してほしくないので、うん、ほんに眠ってる方は震災で眠ってる方だったり、あるいは震災前に亡くなった方で、わかる範囲でうんあの書いてあったりっていうのを見て、ああ、こんなにたくさんの方が亡くなったんだ。ああ、こんなに荒れた土地が、あるんだとか。うんそういった面では、うん。 Q:知ってほしい。 知ってほしいですね。はい。 今後の閑上の町への希望と不安 Q:あの今、あの、どのような閖上の町をつくっていうかなんていうかこう、話されてたんですけど、今は本当に海の威嚇の閖上にはなにもないっていう状態だと思うんですけれども。これから、どのような、閖上の町にしていきたいというか。将来どういう風な町になっていけばいいなと思っていますか? 前に戻ってほしいですね。うん。前の、前の通り。ええ。今は災害公営住宅がはい,建ちました。でもスーパーもない。医者もない。ってなると、高齢者が、閖上に帰る確率が高いので、うん。若い人たちはもう家を建てたり。うん。アパート借りたりして、さい、公営、あの、仮設を出てってるんで。だいたいは。予測的には高齢者が多いんで。そこが心配ですよね。 インタビュー一覧へ戻る

木皿俊克さん

インタビュー一覧へ戻る 閖上生まれ閖上育ちの木皿俊克さん。現在は東部愛島仮設の自治会で会計士をやっているそうです。 震災前の閖上について 二階だったんですが、流される家が二階だったんですけどほんとに海が見えてほんとにこう波の音が聞こえて、夏にはもう潮風が入ってきてクーラーが要らないくらい寒いくらい夏でも、そんな時もありました。 暮らしやすそうな、、 そうですね。暮らしやすかったですねー。今はある程度愛島にも慣れてこの生活にも慣れたんですけれど、でもやっぱり時たま閖上のことを思い出してあーもう朝になると散歩にでかけたり、こんな時だったら日曜日の朝頃からたぶん松林の所をぐるぐるぐるっと一時間くらいかけて散歩してたりしますね。 Q: 今思い返しても閖上という町は暮らしやすかった、、 木皿:暮らしやすかったですねー!はい。やっぱりこう愛島の東部仮設という形でこうだいたい地元の人というか、前四丁目っていうですけども、海の近く低山彫りっていう所があって低山彫りも東にあの四丁目、三丁目とひる山に五丁目、六丁目があってっていう形なんですけれども、そこの人たちの暮らしぶりっていうのは良かったっていう。遠藤会長と愛島東部仮設の遠藤会長とも町内会で一緒でしたもんですからそうゆう関係で結局地元のつながりがすごいこう深いっていうかそうゆう感じは思っていましたね。やっぱりこう暮らしやすかった。結構でかけても”おお”みたいな感じで。 Q: 出かけると顔見知りの方と、、 そうですね。挨拶とかするんで、はい、私はでも若い頃はそんなにこう町内会と仲良く付き合ったわけじゃないんで、逆に50代の頃から町内会の役員を始めていろんな人と仲良くなって、そういった面で暮らしやすい、私だけじゃなくってみんな言うんですが、コミュニティーというか、隣近所の仲が良いというそういった場所柄でしたね。 仮設での暮らし Q: 最初こちらにいらした時は仮設住宅の印象はどうでしたか? ああ!まぁえっと、良いのか分からないですけれど暮らしやすかったですね。最初に思っていた時は隣の人の声が聞こえるとか、冬寒くて夏暑いって言われてて、でもそんなことなくてすごく快適で、はい。愛島東部仮設は私としては暮らしやすいですね。一人で暮らしているんですが、暮らしやすいです。 Q: こちらにいらした時は昔からの閖上の知り合いの方はいましたか? いましたね。遠藤会長をはじめ。こちらが知らないと向こうが知っていて、向こうから声をかけられてもこっちが分からないという、そういう恥ずかしいこともありますね。 Q: そういう方がやっぱりいらっしゃると、、 気持もやっぱり違ってきますね。大河原にいた時はすごい便利というか楽だったんですがなにも自分ですることもないし、でもやっぱりちょっと寂しいっていう感じはあって、やっぱりこちらにきて俺もしょっちゅう出かけてる方だからあんまりこう付き合いとかがある方ではないんですが、心強いですね。知っている人たちがいるってことは。やっぱり昔の閖上をちょっと思い出させてくれる。すごい大事な所かなと。 Q: そうすると以前と比べてご近所さんとのつながりと言いますか、というのはあんまりこちらでも変わっていないという、、 そうですね。ちょっとこう場所が変わっただけで、コミュニティー自体は変わってないという。 Q: 現在は仮設住宅にお住いになっていて何か特に困ったこととかありますか? いや、ないですね。もうちょっと細かく言えばあるんでしょうが、まぁ暮らす分には本当にすごい暮らしやすいですね。会社も私は仙台の方にあるものですから近いんで、生活するにはもう、会社も近いんで、はい。通勤もしやすいですね。 神戸での経験 Q: 自治会に参加するにあたってその役員をするにあたって生活の変化というかありましたか? 変化というかただ楽しいですよね。自分でまぁあの去年たまたま、今年か。たまたま神戸に行く機会がありまして、冗談半分にちょっと去年の夏か秋ころに神戸に行かないかって言われて、行く行くって手を挙げて、だいたいそういう話って近くになってそういう話あったっけってなるんだけれども、具体的な話になってそろそろ神戸に行かなきゃ行けないんだけどってみたく言われてあー本当なんだって。そういう形で行かせてもらってすごい自分の今でもこう宝物みたくなっていて、それはすごい自分でも良かったなって思ってます。で、そういった声かけてくれた会長を始めみなさまに本当に感謝しているというか、それはありますね。 Q: 神戸に行かれたことでなにが一番大きかったですか? あーまず一番はあのやっぱり神戸の人たちも同じ痛みっていったらなんですが抱えているっていうのが分かりまして、私自身も阪神淡路大震災の時はこうやっぱり人ごとだったですね。で自分たちがなってこうそんなにこう聞いたりなんだりしないけども、こう1.17の阪神淡路大震災のイベントを通じて、こういろんな人から聞こえたりしてみると、未だにやっぱり揺れたりなんだりすると心配なんだよね、って歩いていてもきこえるわけですよね。あーちょっとやっぱり同じこうやっぱり痛みを抱えてるし、やっぱり忘れてはいけないし、みたいな形でやっぱり、うーん、忘れるってことがやっぱり一番悲しい。まあ、忘れていいってこともあるけども、やっぱり忘れないでいてもらいたいっていのもあるし。そういったものを、すごい感じたし。いろんな人の、人との交流っていうのもやっぱりあったし。そういっためんでは、すごいこう、まあ、うん、阪神淡路大震災の教訓もあるし、今回の東日本大震災のやつもあるし。あとやっぱ人とのつながりっていうか、そういったものをすごい感じさせてもらった従う集いだったと自分では思っています。繰り返しになりますけど、そういったのに参加できたのがやっぱり自分自身のやっぱり幸せだなって感じてるんで、そういっためんではやっぱりすごいこう、自治会に入って良かったなって感じてます。 将来やりたいこと Q: 今木皿さんご自身で、なんか希望っていうか、こうなって欲しいなっていう得に強い思いってありますか? あー。やっぱりこう。上手くは言えないんですけども、やっぱりこう前向きなかたちっていうか、そういったやっぱりいろんなかたちで。私なんかもうテニスとかやってるんで、まあ先ほど、テニスをやってきたんですけども。友達とかとまーいろいろテニスの旅行に出かけたりとか、あと、そういった生活だけじゃなくて趣味とかの部分でもやっぱりこういろんな可能性あるじゃないですか。はい。そういう例えばカラオケが好きな人はカラオケやったりとか。そういった形でこう趣味とか、サークルみたいなの作って、やっていけたらなーって思ってるんですけども。 慰霊碑 Q: 先ほど、震災に関しての記憶というか、今後に伝えていくべきだど、ということをお話されたと思うんですけども、何かそういうものを形として何か残しておきたいってそういう思いっ慰霊碑でしたりとか、、 そうですね。できれば、まあいろんな考え方があって、具体的なものを残しておいたほうがいいって人もいるし、でもなんらかの形で残してもらいたいみたいな。それが、直接、間接かは分からないですけども、そういった形で、まあどっか忘れないような形で残しておいてもらいちなっていうのはありますね。まあ、いろいろ若者にしても、建造物にしても、残したほうがいいってなんかこう、賛否両論あるんですけどねー。でもやっぱりどういう形であれ、忘れないでほしいっていうのはありますねー。 Q: 賛否両論あるっておっしゃったんですけど、こう賛成の方と賛成ではない方の、どういう意見の違いがあるんですか? やっぱりこう、あまりにも、残しておくことによって昔のことをトラウマにとらえちゃうと、それは結局マイナスのイメージになるみたいな形、で、やっぱり賛成の方にすれば、そういったやつのことでそういった大きなことがあったんだよって知らしめたいって2つありますよねー。だからねー。ある意味でそういった教訓にしたいって形のと、あとその、呼び起こすことによってトラウマの形ってそういう人たちのことを考えると、やってはいけないんだっていう2つの意見に分かれちゃいますよね。それは私はどうこう言うつもりはないですけど。 Q: 木皿さんてきには、どうお考えですか? 私的には何らかの形で残してもらいたいなーっていうのはありますね。それが直接じゃなくても、あるいはこうなんらかの形ではやっぱり残しておいてもらいたいっていうのはありますねー。 インタビュー一覧へ戻る

沼田 幸也、恵さん

インタビュー一覧へ戻る 閖上生まれ閖上育ちの旦那様沼田幸也さん。奥様の恵さんは25年前に閖上へ。被災当日、旦那様は仕事で違う町へ行かれており閖上の状況をわからず、しかし奥様の恵さんは津波を経験。 昔の閖上 Q:昔地震来る前、昔の閖上がどのような町でしたか? 幸也さん:昔の閖上はやっぱ、まあ近所になるとやっぱ一つの家族みたいな感じになっちゃうんだよね。あっこあの、そのなんつうの半々ってあって同じあのなんていうんですかね、町内会でのこう隣組とかっつうのあって、まあそういう所はわげけてなく、えーなんかこう昔聞いてたのはここで醤油の貸し借りとかそういうのも隣近所でよくやってた、長屋みたいな感じだったっていう。私が生まれた頃はやっぱこう世代が変わってるのであのその、あのやっぱ町内会でなんかやるってなったら呼ぶ集まってはなんかかんか運動会にしてもお祭りにしても色々やってたんですけど・・ 恵さん:多いね行事ごとはね。子供とお年寄りが一緒になってやる行事が多いよな。普通ね子供会は子供会だけなんだけど、お祭りは子供の見越し、大人の見越しまでとか。 幸也さん:そんな地区でやるんで、だあ先。。先月か?あの閖上の方で見越し担いでたんですけど、でそん時もあの上智大学の人達何人かが来ててあのインタビューさせてくださいって。あははは。でそん時はほら、うちらの年代結構いるが、下の子紹介してやってあげたらしてやったんすけど、あいう感じだと結局子供見越しあと大人見越しってこうやって一緒に出て行ったんですけど、実際はあの、その地区だが日和山地区とか紙町地区那珂市、あとそういう同じ地区の中でみんな子供見越しが子供会が出して、あと本見越しっておれら担ぐ見越しはもう一日中練り歩くみたいな感じで。 閖上への愛着 幸也さん:最初美田園見に行ったんですよ。海の方ね 恵さん:お父さんはやっぱ海がいいって 幸也さん:海、海がいい 恵さん:海が近いのがいい Q:それは何でですか? 幸也さん:やっぱ海は涼しいっすもん。うん、あとなんか開放感あるっつうか。やっぱどっか閖上に戻りたいっつうのはあるんでしょうね。そっちのほうに。ただ市で計画してるようはかつ上げしたから安全だっていうのはちょっと納得いかないんですけど、だから俺らはもう閖上には戻らないと決めてこっち買ったんすけど。最初その美田園だと高波も来てなかったし、あの高くすれば床下までいかないんじゃないかっつう思いで言ったんだけど、息子に一言「ここ津波来てっぺや」って言われて。で、山しかないけど山でいいのかって「山の方がいいべや」って言われて、結局こっちに買ったんです。うん、俺はやっぱ山より海の方がよかったんですけど。 恵さん:やっぱしね、やっぱり海で育ってる人はどうしても海の近くっていうか、うーんあるのかな。やっぱね。うちも実家はほら海、海だもんね。 幸也さん:うん、海だよ。 恵さん:うん、ちょっと高いけど海の見える所にやっぱし再建してるから、やっぱしみんな、うーん海の近くで育った人は海、やっぱ怖いけどまあやっぱし海がいいのかな。ねえ、やっぱ違うもんね。うーん 近所付き合い Q:何か言い残したとか、これだけは知ってもらいたいということはありますか? 幸也さん:あと、やっぱこう今家族になってるけど、やっぱうちらも今その状態なんだけども、やっぱ近所付き合いは大事にしたほうがいいかもしれない。 恵さん:そうだね。 幸也さん:やっぱ聞くとああ寝たっきりで例えばうちらが仕事いって子供達だけ残して、で隣近所が付き合いがあれば「ああ、誰々仕事行ってから子供達残ってんかもしれないね」ってそれで助かった人達も結構いたて聞いてるので 恵さん:うん、閖上はね。あそこはおばあちゃんだけとか迎えにいってあげたりとか 幸也さん:閖上はそういうの結構あったって。あのしんちゃんもそうだったね。友達で前NHKとかに出てた橋本真一さんとかも結構町内会長やってたから周って非難させたとか、あそこばあちゃんしかいねえからとか 恵さん:閖上結構それが多いの。年寄りが多かったから、結局それで亡くなってる人達、おばあちゃん残ってるから迎えに行かなきゃっつって亡くなってる人達も多いから。うーん、だから隣近所はね、今思うと大事にしなきゃいけないかな。 幸也さん:だってうちもやってたもんな、付き合い。あのほれ町内会の役員やるからって繋がり始まって、まだ3年4年ぐらいだもんな。うーん、隣近所はな。やっぱ、そう長屋、古きよき時代じゃないけど、そういうのがいいんだろうね。そういうのは大事にするべきだろうね。多分都会に行ってしまうとそういうのなくなっちゃいますよね、多分。逆に警戒しちゃってね、隣との付き合いもなくなってしまうし。 インタビュー一覧へ戻る

菅原 忠男さん

インタビュー一覧へ戻る 仙台市出身の菅原忠男さん。閖上出身の奥様とご結婚されてから震災まで30年間程住まわれていました。震災があった時も閖上でお仕事をされていたそうです。 閖上に戻りたいのか Q: もしも閖上に戻れるのなら戻りたいですか? うーん、三割くらい。みんながさ、私も戻る私も戻るっていうなら戻ってやる。あの、孫おいてね。まごは絶対行かないって言ってるから。孫はひとり部屋ほしいだべがらまえそいなだったからね、なおさら。もどるったてね三割くらいだな。だってわたしだけ戻るったってね、戻んない人、隣近所にいないっちゃな。もどっても。津波あるんでないかなって。人がいて一番だと思うけど。 昔はね漁師町だからね、やっぱり良かったよ。あの、友達付き合いだの、家のばあちゃんだちも、女房も魚売りしったからね。あの魚かごに背負って仙台の町の方に。あの頃だのやっぱり閖上が最高だったんじゃないですか。私ちゃっこい時いなかったからさ。でも聞くと、閖上の町って言うの、なんて言うの、して漁師の町だからね。お金は、金持ちっていうか、金持ちの人結構いたんだよ。 あーもう、閖上っていうと一丁目から七丁目まであったのね。それで仮設っちゅうのきめらったっちゃ。この辺のこの仮設は三丁目と四丁目の人が集まったのね。あとたまにどっからか入って。だとやっぱりすぐ仲良くなったね。して別の仮設なのいろんなところからきてるから、全然合わないっていうかね。 町のつながりっていってもそうでもないんでね?私だも閖上朝市あるんだよね。毎週日曜。あと日曜祭日。毎週行ってたんだよね。だってうちから歩いて5分くらいで行けたから。やっぱり顔ぶれ見るとあんまり地元の人来ないのね。だから今なんてなおさらなんでないですか。あっちなったからね。だけど今また閖上に戻ったから。やっぱりそういうのあるとね集まるんですよ。朝市、閖上の朝市有名だったんだよ。80件くらい出たんだから。朝6時ころから。今はね遅くなったんだ。9時じから1時ころまで。前は10時から1時ころまで。今はね7時ころから1時までだからなんていうのお昼だのも食べさせてお金いくらかね。だから延ばしたんだよ。で結構そいなの食べれば金になっからね。町おこしっていうかねそういうの。 いまでも行かれますか? たまに。ちょこちょこ。だから今度まえの市場んとこになったから、いってやっかなと思って。先週あたりからね、戻ったのね。 私たちもグランドオープンなった時たまたま行って。たまたま。 ああそうなの?なんちゅうか豚汁かせたりね。あとさんまだのね。さんまの季節の時はさんまかせらっだり。自分で焼きながら。 変わったっていうか亡くなった人たちが多いからなおさらでないの?だれだれさんなくなったってあっちこっちでいうから尚更あいなったんでねかなって思うのね。だってもうね、起きてしまったことなんだけどね。やっぱり今からがねあれなんだっちゃ。元気ださねとね。年寄なんてなおさらね。しょぼーんとしったってね、ますますあれなっから。私たちあれしたって、年寄のひと元気ならないもんね。年寄の人は一人でいるから具合悪くなって救急車で二回くらい助けてやったのね、救急車よんで。うちの棟の人まだ40くらいの人。風呂入って具合悪くなって。しておらいさ走ってきて救急車呼んでけろって。して頭の方手術して。でにかいぐらい手術して助かったけどね。やっぱり家さ閉じこもった人だね。やっぱりどうしても、そいな人なるんだね、やっぱり。そいな人ももっと、そいなのふえっと、もっとああなんでかのかなって思うよ。人の関係もね、もっと。 インタビュー一覧へ戻る

菅野 勝子さん、菅野 貞二さん

インタビュー一覧へ戻る 夫、貞二さんはもともと閖上出身で、妻、勝子さんはもともと閖上出身ではなく、お嫁に来てから30年以上住むうちに閖上が彼女のとってのふるさとになったと語っています。 集団移設 昔からの生活習慣とか、お祭りだったりとか、イベントあるじゃないですか、地域地域のお正月、お盆ってこれからもやっていこうと思うし、どこに行ってもね。だからあそこの現地復興じゃなくて、せめてみんなが言ってるように、東部道路よりも西側にいっぱい田んぼがあるんだから、そこに閖上の町を本当、そんなね、そんな学識経験者や市役所の人が言うように、商店街だとか、医療施設だとかそんな学校なんかつくったって、学校にいく子供達のいる親はだれも帰りませんから。家の息子からはじめ、子供達、あんな思いして小学校の屋上ににげたじゃないですか、あんな恐ろしい事経験してるのに、また閖上に立派な学校作りますからなんて言ったって、誰も帰りませんよ、小学生いる子供達は。 震災前の閖上は人情味とかいっぱいあって、私は嫁に来て三十年経つんですけど、実家で生活した歳月よりも、嫁にきてからの方が長くて、本当にいま自分ふるさとって言ったら実家よりも閖上なんですよね。 そうですね、私たちはありました。親戚もすぐ近くにいっぱい住んでいましたから、あの昔のようにね醤油とかなかったらちょっと貸てとか磯切れたからかしてとか米きれたから貸してとか、ちょっと頂戴ぐらいなかんじで気軽に言える感じはありました。銀行なんかも閉まったら今はコンビニなんかでお金おろせるけども、今お金ないかなちょっと貸してとかそういうなんて言うのかな、昔の長屋みたいなね、繋がりはありました。今もハーモニカ長屋なんですよ。ドレミファソラシド、八世帯が一つになって、ハーモニカ長屋なんですよね今、でもうち息子と息子達の夫婦と私と三世帯借りて入ってますから、その中で一号棟だからあんまり気を使わないんですけど、大きい声だしたりどんどんって響くからね、気使いますよね、私たちは端っこだからいいですけど、孫とかまだ小さいから迷惑かけてないかなとか、気使いますけど人との繋がりはみんないいね、おばあちゃんとか、隣の奥さんとか、人間関係ではあんまり。 食べ物はね、家の避難所に行くと名取市内の避難所で自炊してた避難所なんですよ。他のは自衛隊の人のが作ってたのを食べてたんです。 私たちは、班を、とにかく、震災後一週間まで班を作ったんです。一班から何班まであったんだろう。班を作って、三班までは食事当番、四班からはお掃除たくの、トイレ掃除、あとはカーテンあけとか、交代でやってたんですよ。だから朝もう五時半に起きて、はんから一人ずつでて保健室に行って、ご飯で多いときに一日いっとさんじょう、一升の十三倍こんな釜で三つ炊くの、こんなでっかい釜で。みそ汁もおんなじおっきい鍋で三つ作って、あとおかず何したらいいか、支援物資が最初はなかったんだけど、野菜とか飲み物とか缶詰とか来て、自分で頑張って考えて、マヨネーズなんかもあったからね、素麺ゆでて、色んなもの入れて、鍋作ったりとか、そしてそれを男の人呼んで作ったり、体育館に分けてテーブル並べて、五時ですから皆さん並んでください。子供さんから、子供さん、お年寄りって感じで並んでもらって配るんですよ。そうすると大人でも子供でもお年寄りでもお皿を持ってくるんですよ。洗えないからラップを引いて、おかずと漬け物とみそ汁とあと自分でちゃんともってきてそれもってきて自分でちゃんと分けてもらう。もうね、いっぱいとにかく分けてあげる。普通だったらこんな一膳ちゃわんに一杯くらいしか食べないでしょ?それがね、二膳以上のご飯をよそって、それを持って帰る訳じゃないですか。で、それを私たちがみんなに分け与えるの。まだ残ってますからどうぞってマイクで言うんですよ。おかずも残っています、ご飯も残ってますおかわりしたい人どうぞっていうと、わーっと来るの。自分たちのこんな大量のご飯をわーって食べちゃっておかわりを待ってるの。おかわりっていうと一斉にもらいに行ってまた食べるの。 インタビュー一覧へ戻る

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