永沼 のり子さん

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仙台で生まれて育ち、結婚されてから雄勝町に引越してきた永沼のり子さん。雄勝に来たときのことや漁師の妻としてのお話をしていただきました。家事と海での仕事を両方こなしている姿が格好良いお母さんです。


雄勝の良いところ
生徒: 何か仙台と、なんかここが一番驚いた、なんか違いで驚いたとか、なんかどのような違いがありましたか?
永沼氏: あっ、あのね、まず自然は綺麗ですよね。空も綺麗だし、夜空も、星とかね、あと海もすごく綺麗だし。あと、人がねやっぱり、この辺の人は除け者にしないんです。うん、一応人間だから、誰々さんがあぁいう風に言ったとか言うんだけども、いざこうまとまると、必ずどの人も入れるっていうか。うん、そういうところは何かすごいなって。町場だと、もう全然孤立しちゃったり、もう全然話しなかったりっていうのがあるんだけども、もうこっちは全然。うーん、そういうのはすごくびっくりしました


気持ちの変化
永沼氏: うちの主人が五年前位に脳梗塞になってから、一緒に海に行くようになって、初めてこう何か、こうなんていうの、自分の中にあったものがすっきりしたっていうか。うん
生徒: それはなんか、なんだろ
生徒: もやもやしたことが
永沼氏: うん、なんかこう、今までは、そんな、そんなに海とか行ってなくって、なんか私海いーなーって、こうなんか、あんまりいい感じじゃなかったんですね、自分の中で納得できないっていうか。なんでここにいるの?みたいな感じもあったんだけども。でも、病気して、いや、行かなくちゃいけないんだって思ってからは、何かもう、きれたって感じ、です
生徒: じゃその当時の、その海に対する印象とかも全然今
永沼氏: 違います。うん、だから海に行くようになってから、お婆さんも変わったし、私に対して、うん。で、前にね、ちょっと聞いたことあるんです、何年か経ってからね。そしたら、私が途中でここから出ていくと思ったらしいんです、最初の頃。うん、だからなんか、信用できなかったみたいなことを、前に話してくれたことがあって
生徒: それって何年位かかって、そのー
永沼氏: あー、結構ー。このお爺さん、お婆さん亡くなってからくらいかな。うん


気持ちの変化 -漁業に携わる女性-
生徒: なんか、そのお義母さんがなんか認めてもら、海に出てから認めてもらったってことなんですけど。やっぱりここにずっと住んでた人は、海に、で働くってことについて、なんか、しっかり考えとかを持ってたっていうか、そういう何かあったんですかね?
生徒: 特別な想いみたいな
永沼氏: うーん。あのね、ここの地区だけが割と女の人も海に行くんですね。他の地区は、もうお父さんだけとか、ま、ほとんどなんですね、うん
生徒: それってなんで、なんでなのかって
永沼氏: だから、お婆さんは私が海に行くことによって、あっすごいなって逆に思ってくれたみたいなんです。仙台から来て、海に行ってくれてみたいな。うん
生徒: そういう風に、信用に繋がった、あー
生徒: 実際、海出て、なんかすごい大変だったこととかってありますか?
永沼氏: あっ、そういうのはあまりなかったです、うん。だから、自分の中で、こう、なんか、あっこんなことで自分がなんかウジウジしてたんだって、逆に。うーん、そういう感じがありましたね。行ってみたら、全然、何でこんなことで、あっ、こうなんか、悩んでたのかなーって


伝えたいこと
ま、風化させないってよく言うけどもそれはたぶん無理だと思うんですよね。ここに住む人以外の方は、やっぱり自分の生活でたぶん一生懸命になっちゃって、新聞とか雑誌を見て、あっ思い出すって感じだと思うんですね。だから、やっぱり、自分の身にそういうことが起こったら、どうしようっていう判断をしてもらえれば、ま、犠牲者を出さないようにね。一人一人が私たちの二の舞にならないようにしてほしいなっていうのはあります
生徒: 判断っていうのは、どういう判断ですか?
永沼氏: うん、やっぱり、ここでは今まで津波が来ても、上まで上がってこないっていうのがもう何十年もあって、昔からそういう風に言われてきたんです。だから、この浜まで来るはずがないみたいな。でも、実際に来たから。だから、やっぱり、来なかったから来ないんじゃなくて、来るかもしれないっていうのを皆いつでも持っててほしいなって、うーん。だから、子ども達にも言うんですね。地震がきたら、まずどこに逃げようかっていうのを、必ず思っててねーって。で、親は親で逃げるから、やっぱり自分の身が一番大事だからっては、一応言っとくんです。うーん


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永沼 清徳さん

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サラリーマンとして東京でも働いていた経験のある永沼清徳さんは、現在養殖業と定置網漁をしている漁師さんです。春には綺麗なオレンジ色をしたホヤの養殖に力を入れていました。奥さんの永沼のり子さんと一緒に船の上で仕事をする「夫婦船」がとても印象的でした。


震災前の桑浜

永沼氏: いや、やっぱりあのねぇ、こんなに小っちゃいので、漁業以外にはなかったですね、漁業だけっていうか。まぁ、漁業っつってもこう色々ほらアワビを捕ったりウニを捕ったり、あと磯の、なんだろ海藻類をこう捕ったりして、まぁ、なんだかんだと一年中こう、何かしらはできるような浜なんですここは
生徒: なんかあの、十五浜あるっていう風に雄勝町の人にきいたんですけど、なんか桑浜は他の集落とかとこう違うとかっていうのってありますか
永沼氏: うーん、小っちゃい?規模が小っちゃいですね。あの、あるボランティアさんが「かわいい浜」という表現を使いました。かわいい浜。かわいいって
生徒: それはなんか、小さいからこそできることとかってあるんですか
永沼氏: まとまりはあるかな。うん、ほいで、意見が通りやすい。要するに、あのいろんな問題起きるんだけども、まぁ皆で話し合うと比較的まとまり早いですね。もう向かうととにかく仕事早いですんわ。


震災後の桑浜
永沼氏: 石巻とか国で決まるよりは、震災のね、四月の七日からもうあちこちの浜で瓦礫をどうしようかって問題なってるときに、ここの浜は四月の七日からスタートです。もう個人で連れて来て、業者を、やってと。んで四月の七日から、えーと、瓦礫の撤去を自前で初めて、この地区の人が頼んでね、業者を頼んで。そいで、六月の十日には瓦礫の撤去終わりました、全て。そのころやっと動き出してる浜のが多かったですから。仕事早いんですここ
生徒: それ、それって何で
永沼氏: あっ何でかなー。あの比較的皆こう自分の得意ってか、知ってる人が結構いて。じゃそっち頼んでみるよと。もう、し、じゅ、ここのところが小っちゃいってのは皆分かってっから、あの市とかにお願いしてもたぶん後回しにされる可能性が高いですよね。でもまぁそれこそかわいい浜なんで、だったらもうかえって自分のねコネをフルに使って業者呼んじゃおうと、そしたらたまたま知ってる人がいて、じゃやりましょうというんで始まりました、すぐ
生徒: 活発な
永沼氏: えぇ、比較的だから進みが早いんですよ。こうと思ったらもうやっちゃうって感じ
生徒: えっそっれてなんか、どう
永沼のり子氏: あれだよね、震災後皆で逃げるときもね、最後の最後まで、皆が知ってるから誰一人残さないように、こう皆で声掛け合って
永沼氏: 比較的まとまりは強いですね、団結が強いっていうか。かと言って皆友達ってなぁなぁではないんですよ。皆意見はしっかり持ってるし、ただ向かったら真っ直ぐですね、ここは


変わらない気持ち
永沼氏: うん、あの震災直後はね、やっぱり、テレビなんかでもよくあの出てたけど、負けてたまるか状態だったけど。うーんやっぱり、ねぇ別に海を憎んでる訳じゃないし、やっぱり今まで通りこう共存していかなくちゃいけないので、あんまりこう心境の変化ってのはないねぇ。だってほら色んなこと起きるんですよ。今回は津波だったけども、湿気でダメになったりね、あと施設同士が絡まったりして、自分、人間のこう自分たちが失敗してやる訳じゃない、もう自然の潮でほら絡まったりするので、なんだろ、毎日心配ですよね、それを言えば。えぇ、絡まって落ちてしまったらねぇ水揚げできないわけですから。津波だけが心配ではなくて、毎日が心配ですわ


目標
永沼氏: うんやっぱ今やってる仕事をこう継続っていうかね、そんなに無理しないで継続できるように。てっか無理はしたくないので、とにかくこう女房と二人で仲良くやりたい仕事ですよね。無理しちゃ、一日二日は無理できてもやっぱりね一週間二週間で無理できなくなるので、楽しく出来れば、目標は楽しく!まぁ、あと二人でこう、子どもたちがねもう大きくなって自分の手から離れていけば、もう二人で楽しく生活できればいいかなと思って


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永沼 慧さん

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現在、消防団員として雄勝町で働いている永沼慧さん。これからも消防団員として働きたいということなどの永沼さん自身の将来のことや雄勝の未来のことをお伺いしました。


進学しかなかった
生徒: えっと、高校に進む人が多いんですか?
永沼氏: そうですね。大体高校に進学すると思います。はい
生徒: 他の道とかってあるんですか?
永沼氏: わー、私たちの時はなかったですかね。はい。進学が一番、進学しかなかったと思います
生徒: なんか、石巻の高校に行くと、なんか、家と離れるから、なんか、新しいマンションを借りることになったりっていうことは
永沼氏: あーとー、そうですね、下宿したりしてた人もいましたけど、バスとか出てたので、通学の、そのバスに乗って通学してました
生徒: あ、こっちから?
永沼氏: はい
生徒: なんか、結構な割合の方が漁師になるのを、なんか、なるという風に聞いたんですけど、なんか、それについてどういう風に思われてた?
永沼氏: えーとー、どうなんですかね?私の同級生ではない、なってないので。私もあんまり考えてなかったんですけども
生徒: ど、どんな感じの職業が多いんですか?
永沼氏: えー、色々ですね。学校の先生とかもいますし、はい。あと、普通に建築業とか、色々ー。ほんとに色々ですね


若者の減少
生徒: 結構若い方が少ないっていう風に聞いたんですけど、それに対して、なんか、どういう風に考えたり思ったりしていますか?
永沼氏: まー、そうですね。ま、今、なんていうんですかね、漁業やっても結局あんまり、その、ま、生活していくのにも、あんま大変ですし。ま、他に仕事探しに出るっていうのはまぁしょうがないのかなっていう気はします。私もまぁ、公務員やってますし。ま、ですかね、ま、そういう感じですかね。ま、なんていうか、ま、集まって遊んでたりしてるので、ま、別にここに住んでなくても全然良いのかなっていう感じで、はい
生徒: なんか、この浜、結構その、ご年配の方とかにお話を伺うと、なんか、若い方がやっぱり来てほしいなーみたいな話を結構聞いてて、なんか、なんだろ、責任だったり、そういうのを感じたりしますか?
永沼氏: わー、ま、特にもう残れみたいなプレッシャーをかけられたことないので、ま、別にそんなには感じたことないですけども、はい
生徒: じゃ、その、結構インタビューしてると、ご年配じゃないですけど、こう歳が上の方は、そういう風に、今言ってたみたいに、若い人に戻って来てほしいとか結構おっしゃってる方多いんですけど、それを聞いて今どう思いますか?
永沼氏: うーん、どうなんですかねぇ。まぁ、今の仕事も全然気に入ってるってか、好きで、好きでっていうか、まぁ、楽しく、楽しい仕事、うーん、楽しいばっかじゃないんですけど、今となってはまぁ好きでやってるので。住んで、まぁ、こっちに住んでますし、まぁ、別に特に変化はないですね、言われても、はい。


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中村 一成さん

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奥様と仮設暮らしをしながら布団屋を経営されています。雄勝生まれ、雄勝育ち…60年住んだ雄勝は決して嫌いになることのできないふるさと。そんなふるさとが今置かれている現状、進まない復興への歯がゆさ、将来への不安を語っていただきました。


雄勝の現状

まぁ、この雄勝も今どうにか形の中でいろんな構想出てるんですけども、まぁ私の持論なんですけども、まぁ私も役職がらまちづくり委員会の委員だったりなんかしてまちづくりにいろいろ話し合いの中にはいってたんですけども、正直歯がゆかったですね、ものがすすんでいかない、そしてまちづくり委員会でみなさんの意見聞いてやってくんですけどのその中でこれがいいんじゃないかなってやってもらうのは本署にいってペケにされるのいっぱいあったんですよね。で、一転二転三転していくなかでこうやってくんですけど、まぁおたくたち見るように雄勝の町ってほんとにすすんでないでしょ、あの、いっぱいこう形はできてるんですよ構想は、でもなかなかすすまない。まぁ何が原因なのか私らもよくわかんないんですけど、まぁ一年ましに、わたしらもそうなんですけど、地元に残ってこう頑張ろうっていう人が1年2年経っていくとなんだ住めないんじゃないかとか全然動きがないから離れてく人が多くなった。一番怖いですね。


雄勝に残る理由

生徒:その、中村さんが雄勝に残る一番の理由ってなんですか

中村氏:私はね、今は形をどうにか戻してやりたいなって気はあんのね、ただ私は今ここにねこれからずっと雄勝にいるのかっていわれるとちょっとかんがえるのね、っていうのは私は今船越で生まれて60何年ここで住んでふるさとを嫌いな人は誰もいないのね。ただ自分がこれから年取っていくといろんな面での心配がある。だから今は自分がやれるうちはやりましょうって自分の力でできること微々たるもんですけど、だからそれを今はとにかくやりたいなって、自分なりにはね。で、あんまりかっこいいこというとあれなんですけど、かっこいい話じゃないですけどそういう質問されると、中村さんはこの雄勝の町をなんとかしようと一生懸命がんばってんだべなっていうとそんなことない何にもやってない、そうでなく自分が出来ることは何かそこなんですわたしは。


コミュニティーの崩壊

生徒:その周りの人とのつながりっていうのは震災前と後で変わったようなことってありますか

中村氏:いや、変わってないでしょ、うん、ただ遠くなったのは遠くなったよね。船越の場合は、今でも住んでる人は10人くらい、10人いないと思う。3世帯10人くらいだね。それで、まず私はもう、部落のこのコミュニティーが崩れるのが一番おっかなかったのね、っていうのは今質問あったように雄勝の船越に生活している、普段いろんなものを分け合ったり話し合ったりお茶飲んでたりしてたような、ポンと離れてしまったのね。したらそれが崩れてしまうのがおっかなかったもんですから、月に1回ずつ集会開いたんですよ、で、集会を開いて2年ぐらいそういうことやって、それでみんなのコミュニケーションを深めていったんですよ、でも、時が経ってしまうとなかなかそれもままならなくなってきたのもじじつです。船越を好きなんだけれども現実すれば足が遠のいてしまう。やっぱり海があって海にいろんなものとりにいってるうちはいいんだけど、石巻の都会に住んでね、ここに何もようないのにくるかっていうとこないよね、それが現実。だから昔のコミュニティーそのものっていうのは崩れてしまったね。


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徳水 利枝さん

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ふるさとである雄勝をなんとかしようと、ローズファクトリーガーデンという素敵な庭園を造られました。ボランティアの方々と力を合わせ規模は拡大し続けています。みんなが立ち寄れる場所の必要性をお話ししてくれました。


足を止める場所が必要

出るのも雄勝に戻るのもみんながみんないずれも笑っての選択じゃなくてそれぞれがつらい選択をせまられた3年間かなと思います。3年経った今が今の雄勝の状況で、まぁ今みなさんみても、誰が来ても人がいないね、みんな変わらないねって言われるんですけど、でもこういう現状になっております。私はここをやり始めたときには何にもなくて、写真一応出したんですけど、全く何もないときでした。今は仮設商店街、・・・商店街があるんですけど、・・・商店街もないときでしたので、多くの人が仮設が外にあるから外に避難するんですけども、お墓だけは残るんですね。お墓だいじょうぶだったので、そうすると震災で亡くなった方もいらっしゃるので、お墓詣りに来るんですけど、ここら辺の人は昔お墓詣りしたら、そのお仏壇があるところによって、またお線香挙げてっていうのが普通の生活だったんですけど、震災後はお墓詣りしたらどこにもいくところがなくて、ばたばた帰っていくっていうような。私もはじめそうだったので、それはほんとに忍びないなと思ったので


メッセージ1

Q:・・・伝えたいこととかってありますか
徳水氏:そうですね。あの、伝えたいこと急にふられても
Q:雄勝町のことでもいいですし、このWebsiteを見る方にでもいいですし、なんでもほんとに
徳水氏:まぁあの、ちょっと忘れかけられているところですけれども、こういう町があるんだということをみなさんに分かってもらえたらうれしいなっていうのはひとつありますね。雄勝は何もなくなってはいるんですけれどもまだまだこれから進めていかなきゃいけない、行こうと思ってるところなので、ぜひ一度来て観てもらいたい。震災、どうしよ、伝えたいこと急に言われるとどうしましょ
Q:今全然流れてないので、ここがどうなっているかってのも全然わからないですし、
Q:すごく、復興が完了しちゃったようなイメージなんですよ


メッセージ2

Q:最初来てびっくりでほんとになにもなくて、
徳水氏:みたひとでないと、それですね、みたひとでないと復興はまだ終わってないのとか、ここまでいったよっていうのはみたひとしか話せないと思うんですよ、きてみないと震災の映像っていうのはせいぜい180度じゃないですか。でもすべてないってのは360度なんですよ、その360度なにもないっていうのはなかなか伝わらないので、まぁあの一番は来て観てほしいなっていうのがあります、そして、全部なくなったところで、そこで生活をもういっかいやろうっていうのってそれまでのかちかんっていうのも全部変わるんですね。全部作ってどんどんお金が入ってくるっていうような状況じゃないので、ある程度の生活で、それでも、いい別な尺度での幸福っていうのになっていくんですね、そういうものもあるんだっていうのもぜひ来て味わってみたらどうかなって思います。別の尺度での幸福、もしかしたらきて、短い2、3日の滞在でも感じることってあるかもしれない、余計なもの壊さないで乱さないである程度の循環していく中で、感じる幸せとか満足感っていうのが雄勝にはあるので、きてみて味わってもらえたらいいかなと


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佐藤 ちず子さん

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雄勝町で生まれ育った佐藤ちず子さんは結婚後仙台から雄勝に戻り2人のお子さん、旦那さんと震災までずっと雄勝に住んでいましたが、震災後雄勝を離れ旧石巻市の東松島市に移転。


被災前の雄勝

あたし実家雄勝なんですけど、あの、私、父、両親とあとまあ、私3人兄弟なので、兄2人と私で住んでたんですね、前は。で、まあ、本当に家があって道路があって、目の前海だったんですよ。だから本当にもう5月ぐらいからちょっと暖かいと海に行って泳いだりとかして、まあでも今はその海もあのすっかり埋め立てになっちゃって、まあ、とうわさはなくなったので、そういうこともなくなたんですね。そしてのったんですけど、そうですね、あまり、うーん、まあ、不便だなとか不自由だなとかって感じる事は確かに、お店にしても、やっぱり大きいショッピングセンターとかそういう、まっこっちに買い物に来ないといけないし、病院にしても、うーん、やっぱりその病気によっては雄勝で診てもらえないものもあるので、結局こっちに来たり、あるいは仙台に行ったりってあるんで、まあ、不自由だなって感じる部分は確かにはありました。子供も家からちょっと高校に通えなかったりもしたんで、不自由だなって思ったんですけど、でもやっぱり暮らして、多分若いときの考えなのかなって今ね、ここに来て思うんですけど。やっぱりまあ、隣近所の付き合いはあるにしても、うーん、なんて言うのかな。まあ、静かに暮らすっていうんですかね、そういうのであればやぱり、あゆう所の方が、うーん、隣近所とのねお付き合いもちょっと濃密っていうかで。何にしろ、私の親戚も震災の後何人か残って、養殖、友達とかも養殖またしてるんですけども、やっぱりそういうのって頂いて、頂いて食べることも多かったんですね。だからうちの子供達なんかも、もうその味に慣れちゃって、こっちに着てからあの食べたいって言うんで、お店に行って買ってきたんですよ。そしたら「味が無い」って言うんですよ。美味しくないとは言わないんですけど味が無いと。あはは。うーん、うん。なんかいつもの味がしないていう、最もね海から取って数時間の内にはもう口にするんで、うーん。だから本当に最初ここに来た時はあのもうここは津波が来ない所だったので、もう本当にマックスバリューも開いてたし、あともうちょっとの農協さんがあるんですけど、そこも開いてたし。確かにお店に入れられる人数っていうのが限られてたんですね、やっぱり余震とかあった時のために非難のために、並んで買い物とかもしたんですけど。まあ、ある程度お金があれば何でもここは手に入るんですよ、不自由なく。でもやっぱり、そういうのを食べて育ってきた子供達とか私にすると、買ってまではなーここで買ってこれを買ってまではなっていう。うーん、ただ大きく変わったとは思いますよ。やっぱりね、年々人は減っていくし、皆さん便利さを求めるよりも自分が年を取った時の、あのことを考えてやっぱ出て、逆に出て行かれる方もいたと思いますので、まあ一概にはね言えないんですけど、うーん。でもそれでも反面若い人も戻ってきていたのも事実なので、うん、その、うん、まあ、何が変わった変わらないって言うのはちょっとわかんないですけどね、ただ、うーん、私達はずっとあそこで津波さえなければずっとあそこにいたんだろなって思うんで、うーん、と思ってました。


若者減少への想い

まず働く場所がないですよね、それが一番ネックですよね。あと、まあ、地形的にもやっぱちょっと複雑な地形なので、だし、あと周りのその受け入れ側の考え方もあると思うんですよね。うん、やっぱり実家に戻って養殖しますとか、実家に戻って家業継ぎますとかって言った時に、やっぱり、あぁ良かったねって私たちは言えますけど、でもその家の当人はやっぱ先々の事を考えると思うんです、本当にこれで一生食べていけるのか、やっていけるのか。そうなった時に、いや、自分の代で終わりにするから戻ってこなくていいよって言う親御さんもいると思うし、うん、じゃあ息子が戻ってきたらもうちょと手広くしたいから戻ってこればって言う人もいると思うんですけど。だからやっぱり先の見通しが立たないから、うーん、戻る戻らないあの、その、ね、若者が増える増えないっていうのもあると思う。でも結構戻ってきてた人達もあったかな。あはは。うーん、とは思ってましたけどね。


雄勝のこれから

誰が行ってもうーん、なんていうんだろう、こう、本当にウェルカムな状態で受け入れてくれる様な所になってくれれば、もしかすると、その雄勝とは全く関係ない人も行って、住むようになるのかなーって。やっぱり昔ながらの田舎なので、やっぱりちょっとそういうところは、こう、集団意識じゃないけど、ちょっとそういうところがあるのかなって。


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高橋 頼雄さん

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雄勝町の仮設商店街の横にある雄勝硯生産販売共同組合で職員として働いている高橋頼雄さん。元々震災前は自分の所で硯を作る会社を経営しておりました。津波で家は流され、現在お母様と森林公園の仮設で暮らしています。


残る理由
私は最初っから雄勝に残るつもりで、仮設住宅も早い時期だったら石巻中心部も早かったんだね、そこにも入れたんですけど、私は最初からもう雄勝の仮設に住みますと。その後も継続して住むつもりでいたので、仕事はもちろんここなのでね、もうそういう意味では私は逆にまあ幸せだというか、やりたいこと、好きなことをやらしてもらってるんで、まだ恵まれてる方かなと思いますよね。みんなよく言われるのが、いやよくこんな不便な所でって、何も、それこそコンビニもない、何もないって、いや最初っからそんな求めてないので、車で30分走りゃ何でもあるし、ていう感覚で暮らしているので。

一番梱包はここでの仕事が一番ここに材料があって環境があるわけなんで、一番やりやすいのはまあ第一と。あとはやっぱりあの生活自体が豊かなんですよ。季節季節に海産物いっぱいあって、買おうと思えば安く帰るし、別に買わなくてもいっぱい貰えるしとか。そういった人もいっぱいいたりして。まあ近所付き合いもずっと、あのいっぱいあって。今でも仮設に移ってもみんな雄勝の人ばっかりいる、みんな顔なじみなんで。なんか作ってる人いれば持って来るし、まああの山菜時期だったから、今なんか本当山菜食べまくり状態。毎日民宿みたいな暮らしてますね。で、まあそういうのが季節感もたっぷり味わえるし、仕事もここでできるし。私にとって、こんな良い所はないので、やっぱ住みやすいね。


若者の受け入れ
一応、あの募集かけてやりたい人いませんかっていうので入ってもらったり。あとはあの今度は若い子1人入るのは、地元の出身の人で、大学でちょっとその物作りも学んで、元々やりたいって言ったんで、震災のちょっとお手伝いというかインターンというわけじゃないけど、夏休み使ってずっと手伝い、ボランティアでやってもらってたりしてたんで、であのその素材を使ってこういうのをやってるっていうのを理解してもらって、それで大学を卒業するにあたり、まあその勤めたいんですって言ったらそりゃもう受けるというので入ってきてもらってるんですよね。そういった形であの受けていけば、ただ何人もっていうのはまだね、そんなに水産体制とまあ売り上げも上げないといけないので、そのためにはまだしっかり売り上げをあの今よりもきちんと上げて、ちゃんとして自営をもってやればすぐ来たい人も受け入れられるんじゃないかなって。とにかく売り上げがそのまあ良い物作って、ちゃんとした物を売っていけば、必ずあの人は来ますと思っております。


伝えたいこと
震災から3年以上経て、えーまあただあの、ハード的な状況は変わってはないです、ま瓦礫片付いて、まあ少しずつは進むとは思うのですが、私らはあの仕事は切らさないつもりでずっと、まあ特に私らの硯の仕事ってもう600年以上続いているので、それはもうどうしてもここで終わらせるわけにはいかないというので元々始まって、あの色々本当に報道等で取り上げていただいてるので、注目度は前よりよく見てもらってますので、その中でちゃんとした物をこれからもここで作っていこうと思ってます。そのためには、是非あのいらない、無駄な物は作らずに、あのもうシンプルに生きたいんですよね。でここにあのぜひ来てもらって、まあ別にそんな災害がまあ頻繁にあるわけでなくて、来てもらって、安心して、何かあってもきちっと誘導等もありますので、何より私らの硯もそうですし、あのここ海産物、ホタテが特に有名であったり、まあ夏場だったらホヤだったり、魚とかとっても美味しいところなので、でそういうお店ももうちゃんと、仮設ではありますが、営業してるので、何かしらお手伝いにとか、何もしてねから申し訳ねえとかじゃなくて、行っちゃいけねえのは全然ないので、あの遊びにとにとにかく来てください。あの良いもんと美味しいもんはしっかり、それは雄勝だけじゃなくてね、あの東部沿岸部みんなそれでもう一回立て直すので、一生懸命頑張ってるので。普通にとにかく遊びに来て、まあ正直お金ちょっと使ってもらうのが一番早いので、お願いします。


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佐藤 秀平さん

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雄勝に残る数少ない20代の佐藤秀平さん。トラックの運転手として日々働き、明るい性格で雄勝の運動会を盛り上げる姿が印象的でした。雄勝に残る理由や、現状、雄勝に対する想いを話して下さりました。


雄勝に残る理由

おれ、会社の所在地が雄勝町なんだよ。こういう小さい乗用車じゃないんで乗ってる車も、大型トラックだし、いろんな所にまさかあちこちに停めるわけにはいかないし、まあなんとなく街に出る気は最初からなかったので、だからいいや、人がいないなら、いっその事何かおれのものだ。何したって怒られねーぞ。みたいな感じで思っちゃったんだけどもね、んー何が良くて残ったって分からないおれも。
でも、おれは仕事で石巻に通ったり帰ってたりする道のりが好きだったりする。その山の景色をみて、桜芽吹いてきたなとか、ああ紅葉きれいだなとかさ。ああ、今日風強いなーとか海荒れてるなーってそういういろんな所みていくのが好きだから、たぶん残ったのかもしれない。うん。まず静かだし、そしてこう今からどういう風にこう再生されていくのかなっていう楽しみもあるし、果たして本当に元通りに戻るのか、それとも近未来化のモデル漁港みたいになるかよく分からないけども、まあそういう楽しみもあるし。そして人手も足りないから、若いような人でもだからそのアルバイトとかもしやすいし。お願いします使って下さいって言われなくても来てけろって言われれば、それで終わりなんで。だんだん、元々人もいなくて狭い所さね、さらに少なくなったから人間関係は濃くなったし。


震災後の友達
周りの友達っていう友達ね、みんな街に出て行ってしまったから。今つるんでる友達というのは、震災後にできた友達がほとんどだから。高校だって街の高校ですし、俺らの学校は進学校ではなくて、就職が80%ぐらいしめてる学校だったからみんな船のったりとか、卒業して一度も会ってない友達もいるし、どうなってっか、生きてるか死んでるかも分からない人だっている。
(震災後にできた友達)あのー、いつもの友達と遊んでて、友達の友達、の友達の友達とか、だんだん枝分かれしていって、類は友を呼ぶって似たような人たちが、こう集まって、たんかなー
石巻の人ではあるけど、雄勝の人ではない


雄勝の未来

周りの人たちはさ、人が住みやすい場所とかさ、若者が帰ってきてとか、そういうのは望んでも叶わない夢だから。若者とかそういう人たちは、あっちの方に土地を買って家たててる人もいるし、あっちの方に復興住宅申し込んでる人、中には戻ってくる人もいるけども、おれの理想はこじんまりとした、本当に震災前にただ戻ってもらいたい。渋滞とかもなく、あまり人混みも起きず、たまに1年に1回のね、ウニ祭りとかさイベントがある時ぐらいで、本当に1年中人が来られたっておもしろくないから、シーズン的に来てほしい。海開きとか、ウニ祭り、ホタテ祭りとか。後は、もうちょっとライフラインを。ライフラインというか、雄勝から一歩も出なくても生活できますよ、というレベルまで戻ってもらいたい。


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佐藤 美千代さん

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雄勝町のてなこ屋商店街(仮設商店街)の少し外れたところに、トレーラーハウスで八百屋さんを構える「八百清」の佐藤美千代さん。家族のお話や将来への希望についてたくさん話して下さいました。


お店の将来

この3月の12日にここに、このトレーラーハウスで商売して、そして、一日も早く高台になって、このトレーラーハウスを高台に持って行ってあのー、震災前のような店番がしたいのさ。というのは、ほらこういう生活慣れないんだ。朝に来て、夕方帰るって。そういう生活は今までしたことないちゃ。だから今までだと、お家とお店が一緒だから、お布団も干せたし、洗濯物もね、外に干せたし、そういうので夕方になっと夕飯作りながらお店番をするって。それがね、何十年も続いてたから、こういう生活、本当にこういてて、あ、今日は何をすっかなってこう考えるのが精一杯で何にも出来ないものね。


生かされた命
だから、私も震災で、叔父、叔母、それから従妹、近所のおばさん、あと義理のお姉さんとかって一杯亡くしたけっど、未だにあの上んない人もあるんだっちゃ。見つからない人も。だからね、自分がその時自分も、一応泳いだけれども、一応助かったから、何とかね、その、助かった命をもう少し、ね、みんなのためにねー。みんなだってさー亡くなった人はさ、もっともっとさーいろんなことをやりたいって思ってたと思うんだよ。で従妹の人は私と同級生だから年金の話なんかしたばっかりなのね。年金もらうか、早くもらうかーとか言ってね。そうしてる内に亡くなってしまって、、、とにかくね、「生かされた命だと思って」。
本当に3.11はさ、亡くなった人と生きた人が本当に紙一重で、本当に何メートルか先に車が走っていた人が亡くなったり、もうちょっと遅れた人が、すぐUターンして山の方に行ったりっていうような感じがあったから。


唯一の楽しみ
で今年はこのひな壇のそこの階段のとこで14人皆でとったの。それを撮って、あのー私が河北新報さ、7月から12月までのカレンダー、それに申し込んだから今写真ないんだ。で、毎年こう、私たち仮設で花見をしたりして、そういう何て言うのかな、みんな家族。自分たち二人っきりだったのがいつのこま14人になって、それが唯一の楽しみでねー。早く高台になって、その14人がみんなでさ座れるようなね、テーブル囲めたらいいなと思うし。今仮設さ行くと、14人なんか入らないからね。孫たちだんだん、だんだん大きくなってきて一回入ったの。ちょって、あと動かないでーとかって感じでとにかくね、狭いんだー


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