阿部 傳吾さん・和子さん

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雄勝で唯一無二の傳吾さん独自の方法で編み出した技術を用いたとろろ昆布製法。傳吾さん、奥様の和子さん、娘さんの3人で喜昆布(よろこぶ)商店を経営されています。雄勝生まれ育ちの傳吾さんと、秋田からお嫁にいらっしゃった奥様からお話を伺いました。


おかげさまの感謝

(拾う人→加工する人→買う人→ の輪になっているという話)わたしは拾う人のおかげ様、私が買う人のおかげ様、なににつけてもおかげさまの感謝。おかげさま感謝なんですよ、これがあるからこそ輪になってるんですよ。その輪はできて初めて成り立ってます、どこかでもくずれればダメなんですよ、拾う人だってほねおってるんだからさ、わたしだってただでもらえねぇから・・・つぎちゃんととれるように、そこでこういう言葉もでてきたんだけどね、よろこぶしょうてんなんて。これも頭にぱっとうかんできたんだけど。


住めば都

Q:どうですか、雄勝は?
A: いやーどう、どうとかっていうことじゃないよね、え。まあ実家で暮らしたなら、学校卒業するまでだし。え、こっちに来てから40年以上になるんだから、絶対こっちの方が多いし。あははは。住めば都っていうね、言葉があって。まあ、どっちも良い所だけっども。
Q: 雄勝の良いところはどんなところですか?
A: うーん、どうだろう。あははは。えーまあ、色々とね違う環境の所に住んでみると、それまでに住んでた所の良いとこ、悪いとこっていうのは見えてくるし。他から来ると、ここの良いとこも、悪いとこも色々と見えるけれども。あははは。


雄勝での生活

和子さん: だから、まあ実際ここに皆高齢者のほとんどだけども、みんなね、結構ねいっぱい年金もらってるんです。で結構余裕で、あの、うーん、すごいゆとりのある生活をしてるっていうのかな。ゆとりって言うのは、お金がいっぱいあるって意味じゃなくて心にゆとりのある生活ね。だから、子供たちはほとんど皆、町外に出てしまって、皆、もう皆歳なんだから、こっちへおいでって言われても、いやーここが良いって、残ってる人たちがほとんどでね、
傳吾さん: 行ってもすぐ戻ってくる。
和子さん: ある程度ね、お金の無理、なんていうのかな、贅沢しなきゃ食べられるくらい年金もらってるからみんな。って、それが一番贅沢な生活だろうなって思いますよ。ちょこっと畑したり、皆お互いに隣近所お茶のみに歩いたり、なんかいろいろそいうのね、うーんだから、やっぱりゆとりのある生活。あの心にゆとりのある生活してると思うのよ。


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阿部 貴之さん

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雄勝の浜のひとつである水浜出身者として、また、長男としての視点からのお話を伺うことができました。現在は宮城県漁業雄勝湾支所の支所長として務めていらっしゃいます。


近所づきあい

Q:近所の人々の付き合いってのはどうでしたか

阿部氏:近所づきあいってのはいっぱいありましたよね、普通になんだろう、家にほとんどカギはかかってないですから、私も父親が仕事をしてて、母親も家で床屋みたいなのしてたんですよ、だから隣の家の人に育てられたみたいなもんなんですよ。だから会うと言われるんですけど、母親に怒られて家でして、探してるんだけどいなくて、隣の家に土足で入ってこたつにはいってたっていう、隣の家も誰もいないんですよ、でもこたつに入ってたっていう、こういう風に言われるくらい、私四人兄弟なんですけど、私はほんとに隣の家、次の弟は前の家とかって、ほとんど自分で育ててない。妹ぐらいになってくると自分のうちでとか、私と弟が育てるとかそんな感じだったんで、今でもかわいがってもらってます。


長男の役目と集まれる場所

Q:さきほど長男だから雄勝に戻ってきたいっておっしゃってたんですけど、それはどういった考え

阿部氏:まず、自分ちでお墓地元に作りますけど、世話っていうとあれですけど、兄弟も出てるし、そうすると地元に帰ってくるタイミングがなかなかないし、うちのいとこのおばちゃんとかにも千葉とかに出ててたまに帰ってくるのはうちだったんですよ、なんでそういう場所を残したいなっていうのはありましたね。けっこういとこの兄ちゃんとかも、そのおじさんもふたり息子いるんですけど、まぁみんなでどこにいくこともできないんで飲もうかってなるとどこにいくこともできないんで、まあうちで飲もうかって、そういうの昔からずっとやってると帰ってくるうちは残したいなって思いましたね。

Q:やっぱりみなさんが集まるような場所は必要

阿部氏:必要だと思いますよ、今こうしてなくなったからこそどっかそういう場所ってほしいよねってのあるんですけど、うちのいとこのおじさんとかはもともと養殖ずっとしてるんで、両方、一件はうちのこったんで、もう一人の方もうちをたてて、今はお邪魔する方になってます、やっぱりそういう場所がないとなかなか来れない、仕事にはきますけど泊まるっていう場所がないじゃないですか、そうすると一回一回帰んなきゃいけないってのがさみしいなって

Q:こうやってみなさんが集まる機会ってのは震災前と比べてどうですか、減ったり

阿部氏:減ってますよ、集まって帰る場所がないじゃないですか今までだったら歩いて行ける距離にあったのがどうしても車でってなると来るのも大変だしな、帰るのも大変だしなって、何かがないと集まらない


来てほしい

Q:最後の質問になるんですけども、そのこちらWEBSITEにものせるのでだくさんの人も見ると思うのでメッセージとか
Q:いいたいことなんでも、こっちのこととか全然テレビで流れてないので
Q:伝えたいこと、言いそびれちゃったこと

阿部氏:言いそびれちゃったこと、まぁまずは雄勝に来てほしいってこと、やっぱり現状見てもらって、こういう中でも頑張ってる人がいるっていうのもみんなに知ってほしいってのはありますね。そんで雄勝に来てもらっていいところをどんどん探してもらいたい、そしてそういうところをこっちでも大きくしていきたいっていうことくらいですね


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阿部 優一郎さん

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雄勝に産まれ育ち、震災時は福島で高校教師として働いていた阿部優一郎さん。
震災で母親と弟夫婦を亡くしたことを機に、雄勝に戻り、漁師としての家業を継ぎました。新米漁師としての苦労や復興についてのお考え、家族のお話など様々なことを聞かせてくれました。


浜の人は家族

Q: 急に漁師さんをすることになった時に、ノウハウとか前に教えてくれる先輩の漁師さんとかいらっしゃいましたか。
A: はい。まあ逆にそれがないとやれる仕事じゃないので、あのーまあ親父もまあずっとやってきた仕事ですしね。まあ私も無いなり諸なり、小さい頃一緒に観て、まあ、た、多少知ってた分もあるんですけど、自分がいざやるなると、やっぱりあのー生活のリズムがまずほら、180度違うような世界よね。まあ最近、ようやくになってようやく、体の体内時計がリセットされてきて、漁師の仕事にこう変わってきたのかなっていう感じで。で、やっぱ周りの人っていうのは、こう特にこの雄勝というところはあのー昔ながらのね、こう近所とのつながりっていうか、まあ結局浜の人がこう皆家族みたいなところがあるので、であのうちも、うちの家族がね、こういう状況になってしまったのも皆知ってますし、で、まあ帰ってくる、やるってなれば、こう頑張れってな形で、随分こう手を貸すことはなくても貸してもらうっていうことはかなり多くて今日に至ってますけど…


海に対する思い
うーーん、まあいろんな思いありますよね。うん、まあやっぱりあのーこの浜で育って、やっぱこう、まあ漁師気質というか、こうなんかこう気持ちがなんていうか、こう荒っぽいような人が多かった気がして、でまあ自分がその中で育って、まあ教師の道になった時に、結構やっぱね教師になった時に、ここで育ったそのなんていうか、こう人とのかかわり方っていうかまあそういう風に案外教師の道こう活かせたりしてね。非常に雄勝に産まれて良かったなーって思うことも多かったですし、後はまあ家族とか、周りにいた人たちの影響とかはもちろんあると思ってるので、海のこう近くで育ってよかったなっていう風な思いもやっぱありますしね。
まあその反面あとは、こう津波でまあこんなことになってしまって…っていう風なことで、残念な思いというか、うーん、まあ家族返してくれよっていう風な思いもありますしね。ちょっと複雑な思いはあるかな。


雄勝の現状と未来
全然満足してないですねー。で、さっき言ったようにこう人がこう住んで、街っていうかこうコミュニティとしてのこう体をなしてないというか。もう今は言える事はもう、先がやっぱりないというか、もう今残ってる人たちの年齢層を考えると、特にここ数年で何かしらこう手を打つところはうっていかないと、もう人口の自然増っていうのは、もう望めなくなっているという現実がありますからね。で、そこで何か、それこそもう、もう少し若い人たちが、まあ秀平くんみたいな世代の人たちが、やっぱなんか住んでみたいなっていうか、やっぱ雄勝に戻ろうとか、まあ出て行った人たちもね。何かこう、そういうもうのを埋めるようなものをこう作ってくって事をしないと、ただやっぱりこう今残ってた、残ったお年寄りの人が亡くなってもう本当にこう限界集落とかって言葉で言われてますけど、まあそういう地域にだけはしたくないなっていう…思いは強いですよね。


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永沼 慧さん

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現在、消防団員として雄勝町で働いている永沼慧さん。これからも消防団員として働きたいということなどの永沼さん自身の将来のことや雄勝の未来のことをお伺いしました。


進学しかなかった
生徒: えっと、高校に進む人が多いんですか?
永沼氏: そうですね。大体高校に進学すると思います。はい
生徒: 他の道とかってあるんですか?
永沼氏: わー、私たちの時はなかったですかね。はい。進学が一番、進学しかなかったと思います
生徒: なんか、石巻の高校に行くと、なんか、家と離れるから、なんか、新しいマンションを借りることになったりっていうことは
永沼氏: あーとー、そうですね、下宿したりしてた人もいましたけど、バスとか出てたので、通学の、そのバスに乗って通学してました
生徒: あ、こっちから?
永沼氏: はい
生徒: なんか、結構な割合の方が漁師になるのを、なんか、なるという風に聞いたんですけど、なんか、それについてどういう風に思われてた?
永沼氏: えーとー、どうなんですかね?私の同級生ではない、なってないので。私もあんまり考えてなかったんですけども
生徒: ど、どんな感じの職業が多いんですか?
永沼氏: えー、色々ですね。学校の先生とかもいますし、はい。あと、普通に建築業とか、色々ー。ほんとに色々ですね


若者の減少
生徒: 結構若い方が少ないっていう風に聞いたんですけど、それに対して、なんか、どういう風に考えたり思ったりしていますか?
永沼氏: まー、そうですね。ま、今、なんていうんですかね、漁業やっても結局あんまり、その、ま、生活していくのにも、あんま大変ですし。ま、他に仕事探しに出るっていうのはまぁしょうがないのかなっていう気はします。私もまぁ、公務員やってますし。ま、ですかね、ま、そういう感じですかね。ま、なんていうか、ま、集まって遊んでたりしてるので、ま、別にここに住んでなくても全然良いのかなっていう感じで、はい
生徒: なんか、この浜、結構その、ご年配の方とかにお話を伺うと、なんか、若い方がやっぱり来てほしいなーみたいな話を結構聞いてて、なんか、なんだろ、責任だったり、そういうのを感じたりしますか?
永沼氏: わー、ま、特にもう残れみたいなプレッシャーをかけられたことないので、ま、別にそんなには感じたことないですけども、はい
生徒: じゃ、その、結構インタビューしてると、ご年配じゃないですけど、こう歳が上の方は、そういう風に、今言ってたみたいに、若い人に戻って来てほしいとか結構おっしゃってる方多いんですけど、それを聞いて今どう思いますか?
永沼氏: うーん、どうなんですかねぇ。まぁ、今の仕事も全然気に入ってるってか、好きで、好きでっていうか、まぁ、楽しく、楽しい仕事、うーん、楽しいばっかじゃないんですけど、今となってはまぁ好きでやってるので。住んで、まぁ、こっちに住んでますし、まぁ、別に特に変化はないですね、言われても、はい。


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佐藤 ちず子さん

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雄勝町で生まれ育った佐藤ちず子さんは結婚後仙台から雄勝に戻り2人のお子さん、旦那さんと震災までずっと雄勝に住んでいましたが、震災後雄勝を離れ旧石巻市の東松島市に移転。


被災前の雄勝

あたし実家雄勝なんですけど、あの、私、父、両親とあとまあ、私3人兄弟なので、兄2人と私で住んでたんですね、前は。で、まあ、本当に家があって道路があって、目の前海だったんですよ。だから本当にもう5月ぐらいからちょっと暖かいと海に行って泳いだりとかして、まあでも今はその海もあのすっかり埋め立てになっちゃって、まあ、とうわさはなくなったので、そういうこともなくなたんですね。そしてのったんですけど、そうですね、あまり、うーん、まあ、不便だなとか不自由だなとかって感じる事は確かに、お店にしても、やっぱり大きいショッピングセンターとかそういう、まっこっちに買い物に来ないといけないし、病院にしても、うーん、やっぱりその病気によっては雄勝で診てもらえないものもあるので、結局こっちに来たり、あるいは仙台に行ったりってあるんで、まあ、不自由だなって感じる部分は確かにはありました。子供も家からちょっと高校に通えなかったりもしたんで、不自由だなって思ったんですけど、でもやっぱり暮らして、多分若いときの考えなのかなって今ね、ここに来て思うんですけど。やっぱりまあ、隣近所の付き合いはあるにしても、うーん、なんて言うのかな。まあ、静かに暮らすっていうんですかね、そういうのであればやぱり、あゆう所の方が、うーん、隣近所とのねお付き合いもちょっと濃密っていうかで。何にしろ、私の親戚も震災の後何人か残って、養殖、友達とかも養殖またしてるんですけども、やっぱりそういうのって頂いて、頂いて食べることも多かったんですね。だからうちの子供達なんかも、もうその味に慣れちゃって、こっちに着てからあの食べたいって言うんで、お店に行って買ってきたんですよ。そしたら「味が無い」って言うんですよ。美味しくないとは言わないんですけど味が無いと。あはは。うーん、うん。なんかいつもの味がしないていう、最もね海から取って数時間の内にはもう口にするんで、うーん。だから本当に最初ここに来た時はあのもうここは津波が来ない所だったので、もう本当にマックスバリューも開いてたし、あともうちょっとの農協さんがあるんですけど、そこも開いてたし。確かにお店に入れられる人数っていうのが限られてたんですね、やっぱり余震とかあった時のために非難のために、並んで買い物とかもしたんですけど。まあ、ある程度お金があれば何でもここは手に入るんですよ、不自由なく。でもやっぱり、そういうのを食べて育ってきた子供達とか私にすると、買ってまではなーここで買ってこれを買ってまではなっていう。うーん、ただ大きく変わったとは思いますよ。やっぱりね、年々人は減っていくし、皆さん便利さを求めるよりも自分が年を取った時の、あのことを考えてやっぱ出て、逆に出て行かれる方もいたと思いますので、まあ一概にはね言えないんですけど、うーん。でもそれでも反面若い人も戻ってきていたのも事実なので、うん、その、うん、まあ、何が変わった変わらないって言うのはちょっとわかんないですけどね、ただ、うーん、私達はずっとあそこで津波さえなければずっとあそこにいたんだろなって思うんで、うーん、と思ってました。


若者減少への想い

まず働く場所がないですよね、それが一番ネックですよね。あと、まあ、地形的にもやっぱちょっと複雑な地形なので、だし、あと周りのその受け入れ側の考え方もあると思うんですよね。うん、やっぱり実家に戻って養殖しますとか、実家に戻って家業継ぎますとかって言った時に、やっぱり、あぁ良かったねって私たちは言えますけど、でもその家の当人はやっぱ先々の事を考えると思うんです、本当にこれで一生食べていけるのか、やっていけるのか。そうなった時に、いや、自分の代で終わりにするから戻ってこなくていいよって言う親御さんもいると思うし、うん、じゃあ息子が戻ってきたらもうちょと手広くしたいから戻ってこればって言う人もいると思うんですけど。だからやっぱり先の見通しが立たないから、うーん、戻る戻らないあの、その、ね、若者が増える増えないっていうのもあると思う。でも結構戻ってきてた人達もあったかな。あはは。うーん、とは思ってましたけどね。


雄勝のこれから

誰が行ってもうーん、なんていうんだろう、こう、本当にウェルカムな状態で受け入れてくれる様な所になってくれれば、もしかすると、その雄勝とは全く関係ない人も行って、住むようになるのかなーって。やっぱり昔ながらの田舎なので、やっぱりちょっとそういうところは、こう、集団意識じゃないけど、ちょっとそういうところがあるのかなって。


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永沼 信良さん

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震災後から部落の会長として桑浜で暮らしている永沼信良さん。震災後の会長業の苦労や部落のことについて教えていただきました。


震災前からの過疎化

永沼氏: 震災があったから当然まあ余計にそうなったんだか分かんないけども、いくらかは少しずづはみんな都会行ってるのさ。若い人たちは。で高校もないっていうのは自分の娘たちは高校に入って今石巻の高校いって帰るのが大変だっちゃ。そうするとアパートを借りて学校さ通ってるからお母さんもそこさ行って、ご飯とか食べさしているから、してるから。そういうのはあの状況なんだよ。震災前と、震災前と対して変わらないと思うよ。震災になってここから家も流されてねすぐ石巻さ行った人たちもあるけどね。だから子供たち、若い人はもう帰ってこないっていうもう9割がた帰ってこないんじゃね。
生徒: それは必然的に?
永沼氏: うんそう。
生徒: じゃあほかの浜で住んでる方はもうしょうがないと思っている人たちが?
永沼氏: うん、しょうがないっていうより、今の世の中の動きならそうなるほかしかないのかな


部落の特徴
生徒: ほかの浜と比べて桑浜のこういったところがいいっとかってありますか?
永沼氏: うん、どう比べても。うんなんていうのかな。まあここはほれ10軒ぐらいしかないけどもねまとまってるからいいんじゃないですか?
生徒: まとまって?
永沼氏: うん、まあっていうことは何があってもみんな協力しあって一緒になんでもやるっていう。ほかの部落は部落が大きいと色々問題があるけどもここはほれ最初からもう部落が小さいからね。
生徒: 雄勝町の中でも小さい?
永沼氏: 小さい。15がちいさいぐらいだからまあ20軒足らず。震災が遭ってから10軒、5軒が仮設に入って。後4軒石巻の方へいって。


震災後の会長業
永沼氏: 震災、私は本当は震災前は会長は震災前はやってないわけよ。震災があってここにいた会長が石巻の方へ行ったわけさ。急にうちの自分さ会長やってくれって言われたわけさ。俺も頭真っ白になって。こういうむちゃくちゃになってる部落をさ、そこで初めすぐ最初からなんかやってればよかったけど、急に会長やれったってなんの会長やればいいのか最初分からなかったのさ。でも羽坂の会長さんね、よく会長は羽坂の最初は震災の親分羽坂だったからね。あっちは会長、俺副会長で全部うちでやって。でも羽坂と桑浜は会長は会長同士で桑浜は桑浜でやらなきゃいけねえさね。その時にもうがれきをもう道路めちゃくちゃなってるからね。こいつ何するのかなってそれだけ頭がいっぱいだったね。でもういなくなった方がいいかなって。でも会長というのはええ付き合いだから、それこそ一生懸命やりましたね。


完全復興とは
永沼氏: ま、海の人たちだから、当然あの海岸をね、綺麗にしなければ直してもらえれば、みな張り合いがあるんじゃねぇの尚更。うん。そうやろ?
生徒: 海岸が直って、あそこがあれば
永沼氏: 今日ださの船さ乗れぇんだもの波で。波来て
生徒: あぁ、波が高くて?
永沼氏: うん、毎日満潮だったの高潮だったのね。当然、もう海岸越えてくるから。うん、そーいうだ、そういう、まぁ、そういうあれもあるから、とにかく早く海岸を直してもらえれば、いつでも海に行けれるという状況。だから、わし、自分もね、ほんとはあのー、海岸先ね早く直してもらわないと、船もおっきいのつくったわけさ、いつなおっか分かんないから、ダメだなーってあきらめてる、歳も歳だからね。今、一番思ってることは、海岸を早く直してほしいかな、それが一番のあの復興、完全復興だね、そう直ってもらえればっていうことですね。とにかく、マイペースで動くしかないです、あとは。自分たちでどうにもならないから


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今野 瑠理さん

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これから養殖業を始めたいと考えている今野瑠理さん。雄勝町の豊かな自然が好きで、震災後も雄勝町に住み続けたいとおっしゃていました。


雄勝に残る理由

生徒: 雄勝町にずっと住み続けようと思った理由は何ですか?
今野氏: 一番はやっぱりこうおばあさんのそばにいたいっていうのもあるし。この桑浜っていうこの場所が好きなんですよ、一番は。自然が好きなんで、そうですね。もうあっちっていうか石巻の方には住む気がないっていうか、おばあちゃんになるまではずっとここにいたいですね。
生徒: 石巻市内の方へ買い物に行くとおっしゃてましたが、石巻はこの町とは違いますか?
今野氏: そうですね、確かに石巻のあっちの方に行けば、買い物も普通にできるし、豊富なものはいっぱいありますけどやっぱその空気はあっちはちょっとあれなんですよ、自分は合わないというか。やっぱここにいて少し散歩するだけでもすごいリフレッシュできるっていうか、その安心感もわくし。あと何より人の良さがすごいここいいので、あっちに出ると知らない人ばっかりっていうのもあるんですけど、人のふれあいが欲しいというか。このはい、人の良さが一番いいので、やっぱここにいたいと思うんですよね。


町から引っ越す人
生徒: この町から引っ越す人と引っ越さない人の違いは何ですか?
今野氏: 養殖業が全部一旦だめになったんで、もう一回するのにはすごい多額のお金もかかるし、それでやっぱ出稼ぎっていうかあっちで仕事して暮らした方がお金もかからないし。あとはここはあの、おんちゃんっていうか年結構いった人っていったらおかしいんですけど、結構あの老人とかしかいないんで、あっちの方が住みやすいというか、あっちの方にその娘息子がいるから引っ越すっていうのが多くて、なんででも一番は漁業ですかね。できなくなったんで引っ越そうっていう
生徒: これからるりさんはどのようにこの町で暮らしていきたいですか?
今野氏: そうですね、うん。私も養殖したいと思ってるんですよ。少しの養殖でもなんていうんですか、お金にならないのはわかってるんですけど、少し人残ってほしいので、自分が若いほうなので若者が養殖とかなんかしたら少しぐらいこうなんていうんですか、こういう若者もいるんだっていうことで、桑浜じゃなく雄勝町にこう戻ってきてほしいっていうのが望みというか、少しその気持ちはあるんですよね。


復興の様子
今野氏: 実際本当に復興ていうのが進まってるか分かんないんですよ。道の桑浜漁港もまだこう整備もされてないんで、なんで違う地域は整備されているところは整備されてるし、今してるとこもあるんですけど、桑浜っていうとこはなかなか進まないんですよ。だから確かに漁業の養殖は始まってるっていう復興はできてるんですけど、漁港はまだこう石だらけってのもあるし。そうですね。


ボランティア
生徒: ボランティアとしてはこれからどのような形で携われると思いますか?
今野氏: そうですね、本当来てくれるっていうその気持ちだけでうれしいんですけど、やっぱボランティアの人たちも話しかけてくれるんですよ。それはすごく自分にとってうれしいし。もちろんここもきれいにすごいしてくれたし、こう個人で来てくれる人もいるし、団体で来てくれる人もいるんで本当感謝してるというか、ここもなにかできるみたいですけど、できた後もどんどんボランティアさんに来てほしいですね。何も仕事がなくても遊びに来てほしいというか、それだけでも人口増えるというのもあるし、一瞬だけでも。なんで本当来るたび、毎回楽しいですね。


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