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若者

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遠藤 弘行さん

インタビュー一覧へ戻る 雄勝で生まれ育ち、硯職人として現在は実家の跡地であった場所を借り、お店と作業場を構えている遠藤弘行さん。今年の3月までは約33年間消防団の一員でもありました。 後継者 仕事的にはここ、あのプレハブの仕事場で、しようと思えばできるんだけども、販売する店って言うのは今6畳でしょ。ちょっと狭くて、あの、自分の彫ったのを見てもらうのに、もう少しスペース広くないとダメで。最初の段階では品物がないから、あのこれで十分だったの。段々増えてくると、やっぱりあの色んな品物見てもらいたいから、結局展示する場所をもっとこれの3倍ぐらい欲しいんだけども。まだあの、色々、こっちの道路の関係で、道路が新しく作られるらしいから、そうなるとこの場所でできるのかどうかもっていうのもわからないね。やっぱりちょっとして店が欲しいだけども、それもちょっと悩んでるところで。何でかって言うと、後継者。あのー今から自分だけだとあと、数えてみると先数えたら、10年20年しかできないのかなって思うとね、なかなか設備的なものはあるから。息子でも仕事後継いでればいいんだけど、別の仕事してるんで。まだ今の状態では後継者がいない状態っていう。。そういう状態です。 俺が来た36年前でさえ、珍しがられたっていうか職人として戻って来たっていうが。むしろ硯産業は推定してきてて、辞めていく人がいたぐらいの時期にその昭和53年っていうのは。あまりあの硯的にはいい仕事じゃないっていうのはその頃からもう30何年前からあって。たまたま俺が戻って来た。だから俺が始めた36年前から今まで正式には職人は誰もいない。新しく育った人。俺が最後みたいな感じなんですよ。それまでは大学卒業して10年ぐらい前かな、帝京大を卒業して来たって言う人が雄勝の人じゃなくて、東京の方の人なんだけども。4年間ここで硯の仕事をしてたんだけども辞めていっちゃったとか、やった人はいるけども、ずっと今継続してやってる人がいなくなっちゃった。いなくなっちゃったっていうよりも俺もだから36年前に珍しがられて新聞の記事になるぐらい、ユーターンしてきたっていう。載ったことがあって。それからその頃から硯の仕事って珍しいっていうか、やる人がいなかった。逆に今震災後はあれでしょ、ここ今年ぐらい少しこう硯の方に若い人がいるし、今年の春、地元の子供が大学卒業して、帰ってきて、硯の組合に入ったって言うところまでは情報きてるんですけど。まあだから後継者、その人たちが今やっと育てば、あの本当に40年近くぶりに職人っていう。なる可能性はある。 消防団 消防団ね、あの今年の3月退団ってあの、辞めたんですけど。32年と11ヶ月なんか続けてきたっていうか。こっちに24歳で帰ってきて、数年3年ー4年ぐらいにしてから消防団に。やっぱ地元で仕事をしてる人が消防団に入んないと、その消防署だけじゃ間に合わないんです。なぜかというと、各浜に水門とか門扉っていうのがあって、それを閉めるのに、本当の消防署の職員ってそんなにいないでしょ。あの消防車一台しかいなんで、だからあの、各浜に行って閉めるっていうのは、やっぱりそれぞれその浜の人の住んでる人の担当なんで。そうすると自営とかやってる人がそういうのに入んないとあの、会社委員の人だと昼間いないんで、まあ、地元で仕事を始めたから、あの結婚するあたりにそういう話があって、27歳か28歳ぐらいの時に入ったんです。それから32年で。今回辞めたのが、まあちょっと色々消防団が合併するっていうので、自分もここに住むことを決めてないんです。仕事場はあるんだけども、住まいは別なちょっとあの遠い方に希望してるんで、そこから通う予定ないんで。まあ、消防団が合併するのを期に32-3年入ってたんで、いいかなってなって。60過ぎてね。あはは。それで3月に退団、辞めたんですね。 継がれるこだわり 自分は50歳の時に、その50歳の時が自分は東京の方に行ってる時の、まあ、丁度子育て終わってから要するに商売買いしようと思ってたらしくて、俺が向こうに行ってる時に、独学でやったんですよ。あの硯の仕事っていうかだから、道具から自分で作って、先生が和尚さんがいない独学で硯の彫り方して、自分で始めたっていう。だからあの石をとってた時は、もちろん組合の人たちの下ろしやってる人に硯の原石を販売してたんですけど、やっぱり自分の考えっていうのを出したいんで、自分で直売所っていうのを始めたっていう。それがあるときその、まあ、神奈川にいたんですけど、そっちから帰ってきた時に自宅のまああの玄関ってちょっと昔の家なんで4畳半ぐらいある、その両側に棚ができて、硯が、普通の玄関開けると硯がこう、並び始めてたっていうか、手作りの棚でね。それがあの、自分にねすごいインパクトあったのが。子供の頃はあの、ここのうちの実家に住んでたんで、ここから降りていくと、硯彫ってる職人さんがそこにいて、沢ってね、沢の向かい側に工場があって、その人が彫ってたはあの、長方形のうーんと、まあ小学生の硯が中心だから、こういう硯を彫ってたわけですよ。その俺が子供の頃に彫ってた職人さん。だからこれと同じ規格品っていって、大量生産で、同じものを彫ってた。これしか見た事なくて、親父の所とか家に帰ってくるとこういう。なんでしょう、長方形の硯がほとんどなくて、こういう彫刻とか入ったのが並んでて、それをみてなんか衝撃を受けたんですけど。で、自分がその24歳にこっちで帰ってくるちょっと前にね、その数年間あるでしょ、その間に来るたんび、色んなの彫刻みて、あの自分の気持ちがこう、段々ね、あの彫刻してみたいみたいな、たまたま広告会社にいたんで、そういうデザインまでいかないけど、彫刻の方にすごい興味があったっていうのもあって、色ついたのとか利用するでしょ。こういうのが今までに小さい時みてた硯と全然違うんで。だからインパクト結構強くて。まあ、この硯だけだったら多分戻ってきてないです。だからうちの親父がこういう商売を50歳から始めたから、自分もこの道に入ってきたていう。親父がやんなければ、俺もいなかった。長男じゃないし、帰ってこなくてもよかったんだけど。だから親父の考えがすごい俺の中には入ってて、そのこだわりっていうのはまだ親父の後を継いでるんで。そのこだわりがたまたま去年本出してもらったのにつながってるんですけど、親子の想いっていう。雄勝の硯の中でも一番こだわってるやり方してますね、っていうのを取り上げて本にしたいっていうことで。それが一番のこのこだわりなんです。 復興の状況 Q: あの、まあ、今震災から3年経って、雄勝の現、この復興の現状だとか、そういうのどう思われますか? A: あのーどこも一緒だと思うんですけども、結局目に見えてはそんなに復興にしてるように見えないでしょ?とりあえず片付いたかなって。ただあのー自分は浜の方の仕事のあれはよくわかんない養殖とかね、そっちは進んでると思うんだけども。その他の仕事、元々ここにはあまりなかったんだけども、あの唯一ね昨日も自分行ってきたんですけど、自分が石持ってきてる石ってさっきから波板石って言ってるでしょ?波板って言う地区があるんです、もう少しこの道路をえーと、6分ぐらい行った地区、雄勝とあの女川町っていう所の栄えの最後の集落なんですけど、そこで地区がね。そこはね20数世帯しか元々なくて、今3世帯かなんか住んでるらしいんですけど、4世帯、5世帯ぐらい残ってるんですよ建物。そいで、後集団移転で6世帯か7世帯戻るらしいんですけど、その戻る工事が進んでないんだけども、このコミュニティーセンターっていうのだけ、完成したんですよ、これ。これがいち早く完成して、あのこの人たちがね、ここから波板地区から俺が持ってきてる硯の石山にいっぱいあるんです。それを利用して、この体験学習を地元の人たちがしようと思って、まだ自分たちの住まいは仮設なんだけども、これだけあの兵庫県からの義援金が宮城県にきた、その宮城県で公的なのを義援金をこう使わせてもらうっていうことで。何ヶ所かこうあのまあ、希望っていうか応募あった所から選ばれて、波板地区集会場兼体験学習に使うっていうので、市長を通して、これあのもう先月できたばかりで。これが唯一進んでるかなって見える、しかも集会場で雄勝のししょうなんかではこれも公民館がないので、公民館代わりに来月やっぱり公民館で元々やってたあの夏休みの子供達集めて、ありんこ塾ってあるんですけど、それも来月あるとかっていって、ここで体験したり、ここあの石を割ったりね、それから絵を描いたりとか、体験させるそういうのをやろうと思って、地区の人が。あとは収入もちょっと欲しいと。そのみんな年金暮らしするような人が多いんで。そいで、建物はだからその戻ってくる個数の割とデカイの建ててもらったんだけども、維持していかなくちゃないんで、一応色んなあのこういう体験学習で来てもらったりして、宿泊する時はいくらか貰ってとか、素泊まりなんで。それが一番俺として今目に見えてこう、す、前に進んでる。で自分的にはこの地区の石を利用してるんで、一応あの硯の方では協力はしてるんですけど、だからこのなかでも若干とろろ昆布とか海の物と硯とか石の販売、ちょっと玄関先にね置いて、一応売り始めたっていうか。だから硯は遠藤さんっていうことでやってもらって、何しろこの波板の石を使ってるっていうのをこの地区の人がうちの親父も使ってるし、俺も使ってるし、親子二代でこの自分の所の石を使ってくれてるっていうことで、まあできる範囲では協力しようと思ってるんですけど。それが唯一この場所で今復興的な感じで動き始めてるのかなっていうのは、目に見えてね。ただあの後はこっちの方はまだあれでしょかつ上げとか、あれってわかんない。それぐらいの状況でしょうね。 インタビュー一覧へ戻る Advertisements

阿部 傳吾さん・和子さん

インタビュー一覧へ戻る 雄勝で唯一無二の傳吾さん独自の方法で編み出した技術を用いたとろろ昆布製法。傳吾さん、奥様の和子さん、娘さんの3人で喜昆布(よろこぶ)商店を経営されています。雄勝生まれ育ちの傳吾さんと、秋田からお嫁にいらっしゃった奥様からお話を伺いました。 おかげさまの感謝 (拾う人→加工する人→買う人→ の輪になっているという話)わたしは拾う人のおかげ様、私が買う人のおかげ様、なににつけてもおかげさまの感謝。おかげさま感謝なんですよ、これがあるからこそ輪になってるんですよ。その輪はできて初めて成り立ってます、どこかでもくずれればダメなんですよ、拾う人だってほねおってるんだからさ、わたしだってただでもらえねぇから・・・つぎちゃんととれるように、そこでこういう言葉もでてきたんだけどね、よろこぶしょうてんなんて。これも頭にぱっとうかんできたんだけど。 住めば都 Q:どうですか、雄勝は? A: いやーどう、どうとかっていうことじゃないよね、え。まあ実家で暮らしたなら、学校卒業するまでだし。え、こっちに来てから40年以上になるんだから、絶対こっちの方が多いし。あははは。住めば都っていうね、言葉があって。まあ、どっちも良い所だけっども。 Q: 雄勝の良いところはどんなところですか? A: うーん、どうだろう。あははは。えーまあ、色々とね違う環境の所に住んでみると、それまでに住んでた所の良いとこ、悪いとこっていうのは見えてくるし。他から来ると、ここの良いとこも、悪いとこも色々と見えるけれども。あははは。 雄勝での生活 和子さん: だから、まあ実際ここに皆高齢者のほとんどだけども、みんなね、結構ねいっぱい年金もらってるんです。で結構余裕で、あの、うーん、すごいゆとりのある生活をしてるっていうのかな。ゆとりって言うのは、お金がいっぱいあるって意味じゃなくて心にゆとりのある生活ね。だから、子供たちはほとんど皆、町外に出てしまって、皆、もう皆歳なんだから、こっちへおいでって言われても、いやーここが良いって、残ってる人たちがほとんどでね、 傳吾さん: 行ってもすぐ戻ってくる。 和子さん: ある程度ね、お金の無理、なんていうのかな、贅沢しなきゃ食べられるくらい年金もらってるからみんな。って、それが一番贅沢な生活だろうなって思いますよ。ちょこっと畑したり、皆お互いに隣近所お茶のみに歩いたり、なんかいろいろそいうのね、うーんだから、やっぱりゆとりのある生活。あの心にゆとりのある生活してると思うのよ。 インタビュー一覧へ戻る

阿部 優一郎さん

インタビュー一覧へ戻る 雄勝に産まれ育ち、震災時は福島で高校教師として働いていた阿部優一郎さん。 震災で母親と弟夫婦を亡くしたことを機に、雄勝に戻り、漁師としての家業を継ぎました。新米漁師としての苦労や復興についてのお考え、家族のお話など様々なことを聞かせてくれました。 浜の人は家族 Q: 急に漁師さんをすることになった時に、ノウハウとか前に教えてくれる先輩の漁師さんとかいらっしゃいましたか。 A: はい。まあ逆にそれがないとやれる仕事じゃないので、あのーまあ親父もまあずっとやってきた仕事ですしね。まあ私も無いなり諸なり、小さい頃一緒に観て、まあ、た、多少知ってた分もあるんですけど、自分がいざやるなると、やっぱりあのー生活のリズムがまずほら、180度違うような世界よね。まあ最近、ようやくになってようやく、体の体内時計がリセットされてきて、漁師の仕事にこう変わってきたのかなっていう感じで。で、やっぱ周りの人っていうのは、こう特にこの雄勝というところはあのー昔ながらのね、こう近所とのつながりっていうか、まあ結局浜の人がこう皆家族みたいなところがあるので、であのうちも、うちの家族がね、こういう状況になってしまったのも皆知ってますし、で、まあ帰ってくる、やるってなれば、こう頑張れってな形で、随分こう手を貸すことはなくても貸してもらうっていうことはかなり多くて今日に至ってますけど… 海に対する思い うーーん、まあいろんな思いありますよね。うん、まあやっぱりあのーこの浜で育って、やっぱこう、まあ漁師気質というか、こうなんかこう気持ちがなんていうか、こう荒っぽいような人が多かった気がして、でまあ自分がその中で育って、まあ教師の道になった時に、結構やっぱね教師になった時に、ここで育ったそのなんていうか、こう人とのかかわり方っていうかまあそういう風に案外教師の道こう活かせたりしてね。非常に雄勝に産まれて良かったなーって思うことも多かったですし、後はまあ家族とか、周りにいた人たちの影響とかはもちろんあると思ってるので、海のこう近くで育ってよかったなっていう風な思いもやっぱありますしね。 まあその反面あとは、こう津波でまあこんなことになってしまって…っていう風なことで、残念な思いというか、うーん、まあ家族返してくれよっていう風な思いもありますしね。ちょっと複雑な思いはあるかな。 雄勝の現状と未来 全然満足してないですねー。で、さっき言ったようにこう人がこう住んで、街っていうかこうコミュニティとしてのこう体をなしてないというか。もう今は言える事はもう、先がやっぱりないというか、もう今残ってる人たちの年齢層を考えると、特にここ数年で何かしらこう手を打つところはうっていかないと、もう人口の自然増っていうのは、もう望めなくなっているという現実がありますからね。で、そこで何か、それこそもう、もう少し若い人たちが、まあ秀平くんみたいな世代の人たちが、やっぱなんか住んでみたいなっていうか、やっぱ雄勝に戻ろうとか、まあ出て行った人たちもね。何かこう、そういうもうのを埋めるようなものをこう作ってくって事をしないと、ただやっぱりこう今残ってた、残ったお年寄りの人が亡くなってもう本当にこう限界集落とかって言葉で言われてますけど、まあそういう地域にだけはしたくないなっていう…思いは強いですよね。 インタビュー一覧へ戻る

永沼 慧さん

インタビュー一覧へ戻る 現在、消防団員として雄勝町で働いている永沼慧さん。これからも消防団員として働きたいということなどの永沼さん自身の将来のことや雄勝の未来のことをお伺いしました。 進学しかなかった 生徒: えっと、高校に進む人が多いんですか? 永沼氏: そうですね。大体高校に進学すると思います。はい 生徒: 他の道とかってあるんですか? 永沼氏: わー、私たちの時はなかったですかね。はい。進学が一番、進学しかなかったと思います 生徒: なんか、石巻の高校に行くと、なんか、家と離れるから、なんか、新しいマンションを借りることになったりっていうことは 永沼氏: あーとー、そうですね、下宿したりしてた人もいましたけど、バスとか出てたので、通学の、そのバスに乗って通学してました 生徒: あ、こっちから? 永沼氏: はい 生徒: なんか、結構な割合の方が漁師になるのを、なんか、なるという風に聞いたんですけど、なんか、それについてどういう風に思われてた? 永沼氏: えーとー、どうなんですかね?私の同級生ではない、なってないので。私もあんまり考えてなかったんですけども 生徒: ど、どんな感じの職業が多いんですか? 永沼氏: えー、色々ですね。学校の先生とかもいますし、はい。あと、普通に建築業とか、色々ー。ほんとに色々ですね 若者の減少 生徒: 結構若い方が少ないっていう風に聞いたんですけど、それに対して、なんか、どういう風に考えたり思ったりしていますか? 永沼氏: まー、そうですね。ま、今、なんていうんですかね、漁業やっても結局あんまり、その、ま、生活していくのにも、あんま大変ですし。ま、他に仕事探しに出るっていうのはまぁしょうがないのかなっていう気はします。私もまぁ、公務員やってますし。ま、ですかね、ま、そういう感じですかね。ま、なんていうか、ま、集まって遊んでたりしてるので、ま、別にここに住んでなくても全然良いのかなっていう感じで、はい 生徒: なんか、この浜、結構その、ご年配の方とかにお話を伺うと、なんか、若い方がやっぱり来てほしいなーみたいな話を結構聞いてて、なんか、なんだろ、責任だったり、そういうのを感じたりしますか? 永沼氏: わー、ま、特にもう残れみたいなプレッシャーをかけられたことないので、ま、別にそんなには感じたことないですけども、はい 生徒: じゃ、その、結構インタビューしてると、ご年配じゃないですけど、こう歳が上の方は、そういう風に、今言ってたみたいに、若い人に戻って来てほしいとか結構おっしゃってる方多いんですけど、それを聞いて今どう思いますか? 永沼氏: うーん、どうなんですかねぇ。まぁ、今の仕事も全然気に入ってるってか、好きで、好きでっていうか、まぁ、楽しく、楽しい仕事、うーん、楽しいばっかじゃないんですけど、今となってはまぁ好きでやってるので。住んで、まぁ、こっちに住んでますし、まぁ、別に特に変化はないですね、言われても、はい。 インタビュー一覧へ戻る

佐藤 ちず子さん

インタビュー一覧へ戻る 雄勝町で生まれ育った佐藤ちず子さんは結婚後仙台から雄勝に戻り2人のお子さん、旦那さんと震災までずっと雄勝に住んでいましたが、震災後雄勝を離れ旧石巻市の東松島市に移転。 被災前の雄勝 あたし実家雄勝なんですけど、あの、私、父、両親とあとまあ、私3人兄弟なので、兄2人と私で住んでたんですね、前は。で、まあ、本当に家があって道路があって、目の前海だったんですよ。だから本当にもう5月ぐらいからちょっと暖かいと海に行って泳いだりとかして、まあでも今はその海もあのすっかり埋め立てになっちゃって、まあ、とうわさはなくなったので、そういうこともなくなたんですね。そしてのったんですけど、そうですね、あまり、うーん、まあ、不便だなとか不自由だなとかって感じる事は確かに、お店にしても、やっぱり大きいショッピングセンターとかそういう、まっこっちに買い物に来ないといけないし、病院にしても、うーん、やっぱりその病気によっては雄勝で診てもらえないものもあるので、結局こっちに来たり、あるいは仙台に行ったりってあるんで、まあ、不自由だなって感じる部分は確かにはありました。子供も家からちょっと高校に通えなかったりもしたんで、不自由だなって思ったんですけど、でもやっぱり暮らして、多分若いときの考えなのかなって今ね、ここに来て思うんですけど。やっぱりまあ、隣近所の付き合いはあるにしても、うーん、なんて言うのかな。まあ、静かに暮らすっていうんですかね、そういうのであればやぱり、あゆう所の方が、うーん、隣近所とのねお付き合いもちょっと濃密っていうかで。何にしろ、私の親戚も震災の後何人か残って、養殖、友達とかも養殖またしてるんですけども、やっぱりそういうのって頂いて、頂いて食べることも多かったんですね。だからうちの子供達なんかも、もうその味に慣れちゃって、こっちに着てからあの食べたいって言うんで、お店に行って買ってきたんですよ。そしたら「味が無い」って言うんですよ。美味しくないとは言わないんですけど味が無いと。あはは。うーん、うん。なんかいつもの味がしないていう、最もね海から取って数時間の内にはもう口にするんで、うーん。だから本当に最初ここに来た時はあのもうここは津波が来ない所だったので、もう本当にマックスバリューも開いてたし、あともうちょっとの農協さんがあるんですけど、そこも開いてたし。確かにお店に入れられる人数っていうのが限られてたんですね、やっぱり余震とかあった時のために非難のために、並んで買い物とかもしたんですけど。まあ、ある程度お金があれば何でもここは手に入るんですよ、不自由なく。でもやっぱり、そういうのを食べて育ってきた子供達とか私にすると、買ってまではなーここで買ってこれを買ってまではなっていう。うーん、ただ大きく変わったとは思いますよ。やっぱりね、年々人は減っていくし、皆さん便利さを求めるよりも自分が年を取った時の、あのことを考えてやっぱ出て、逆に出て行かれる方もいたと思いますので、まあ一概にはね言えないんですけど、うーん。でもそれでも反面若い人も戻ってきていたのも事実なので、うん、その、うん、まあ、何が変わった変わらないって言うのはちょっとわかんないですけどね、ただ、うーん、私達はずっとあそこで津波さえなければずっとあそこにいたんだろなって思うんで、うーん、と思ってました。 若者減少への想い まず働く場所がないですよね、それが一番ネックですよね。あと、まあ、地形的にもやっぱちょっと複雑な地形なので、だし、あと周りのその受け入れ側の考え方もあると思うんですよね。うん、やっぱり実家に戻って養殖しますとか、実家に戻って家業継ぎますとかって言った時に、やっぱり、あぁ良かったねって私たちは言えますけど、でもその家の当人はやっぱ先々の事を考えると思うんです、本当にこれで一生食べていけるのか、やっていけるのか。そうなった時に、いや、自分の代で終わりにするから戻ってこなくていいよって言う親御さんもいると思うし、うん、じゃあ息子が戻ってきたらもうちょと手広くしたいから戻ってこればって言う人もいると思うんですけど。だからやっぱり先の見通しが立たないから、うーん、戻る戻らないあの、その、ね、若者が増える増えないっていうのもあると思う。でも結構戻ってきてた人達もあったかな。あはは。うーん、とは思ってましたけどね。 雄勝のこれから 誰が行ってもうーん、なんていうんだろう、こう、本当にウェルカムな状態で受け入れてくれる様な所になってくれれば、もしかすると、その雄勝とは全く関係ない人も行って、住むようになるのかなーって。やっぱり昔ながらの田舎なので、やっぱりちょっとそういうところは、こう、集団意識じゃないけど、ちょっとそういうところがあるのかなって。 インタビュー一覧へ戻る

高橋 頼雄さん

インタビュー一覧へ戻る 雄勝町の仮設商店街の横にある雄勝硯生産販売共同組合で職員として働いている高橋頼雄さん。元々震災前は自分の所で硯を作る会社を経営しておりました。津波で家は流され、現在お母様と森林公園の仮設で暮らしています。 残る理由 私は最初っから雄勝に残るつもりで、仮設住宅も早い時期だったら石巻中心部も早かったんだね、そこにも入れたんですけど、私は最初からもう雄勝の仮設に住みますと。その後も継続して住むつもりでいたので、仕事はもちろんここなのでね、もうそういう意味では私は逆にまあ幸せだというか、やりたいこと、好きなことをやらしてもらってるんで、まだ恵まれてる方かなと思いますよね。みんなよく言われるのが、いやよくこんな不便な所でって、何も、それこそコンビニもない、何もないって、いや最初っからそんな求めてないので、車で30分走りゃ何でもあるし、ていう感覚で暮らしているので。 一番梱包はここでの仕事が一番ここに材料があって環境があるわけなんで、一番やりやすいのはまあ第一と。あとはやっぱりあの生活自体が豊かなんですよ。季節季節に海産物いっぱいあって、買おうと思えば安く帰るし、別に買わなくてもいっぱい貰えるしとか。そういった人もいっぱいいたりして。まあ近所付き合いもずっと、あのいっぱいあって。今でも仮設に移ってもみんな雄勝の人ばっかりいる、みんな顔なじみなんで。なんか作ってる人いれば持って来るし、まああの山菜時期だったから、今なんか本当山菜食べまくり状態。毎日民宿みたいな暮らしてますね。で、まあそういうのが季節感もたっぷり味わえるし、仕事もここでできるし。私にとって、こんな良い所はないので、やっぱ住みやすいね。 若者の受け入れ 一応、あの募集かけてやりたい人いませんかっていうので入ってもらったり。あとはあの今度は若い子1人入るのは、地元の出身の人で、大学でちょっとその物作りも学んで、元々やりたいって言ったんで、震災のちょっとお手伝いというかインターンというわけじゃないけど、夏休み使ってずっと手伝い、ボランティアでやってもらってたりしてたんで、であのその素材を使ってこういうのをやってるっていうのを理解してもらって、それで大学を卒業するにあたり、まあその勤めたいんですって言ったらそりゃもう受けるというので入ってきてもらってるんですよね。そういった形であの受けていけば、ただ何人もっていうのはまだね、そんなに水産体制とまあ売り上げも上げないといけないので、そのためにはまだしっかり売り上げをあの今よりもきちんと上げて、ちゃんとして自営をもってやればすぐ来たい人も受け入れられるんじゃないかなって。とにかく売り上げがそのまあ良い物作って、ちゃんとした物を売っていけば、必ずあの人は来ますと思っております。 伝えたいこと 震災から3年以上経て、えーまあただあの、ハード的な状況は変わってはないです、ま瓦礫片付いて、まあ少しずつは進むとは思うのですが、私らはあの仕事は切らさないつもりでずっと、まあ特に私らの硯の仕事ってもう600年以上続いているので、それはもうどうしてもここで終わらせるわけにはいかないというので元々始まって、あの色々本当に報道等で取り上げていただいてるので、注目度は前よりよく見てもらってますので、その中でちゃんとした物をこれからもここで作っていこうと思ってます。そのためには、是非あのいらない、無駄な物は作らずに、あのもうシンプルに生きたいんですよね。でここにあのぜひ来てもらって、まあ別にそんな災害がまあ頻繁にあるわけでなくて、来てもらって、安心して、何かあってもきちっと誘導等もありますので、何より私らの硯もそうですし、あのここ海産物、ホタテが特に有名であったり、まあ夏場だったらホヤだったり、魚とかとっても美味しいところなので、でそういうお店ももうちゃんと、仮設ではありますが、営業してるので、何かしらお手伝いにとか、何もしてねから申し訳ねえとかじゃなくて、行っちゃいけねえのは全然ないので、あの遊びにとにとにかく来てください。あの良いもんと美味しいもんはしっかり、それは雄勝だけじゃなくてね、あの東部沿岸部みんなそれでもう一回立て直すので、一生懸命頑張ってるので。普通にとにかく遊びに来て、まあ正直お金ちょっと使ってもらうのが一番早いので、お願いします。 インタビュー一覧へ戻る

永沼 信良さん

インタビュー一覧へ戻る 震災後から部落の会長として桑浜で暮らしている永沼信良さん。震災後の会長業の苦労や部落のことについて教えていただきました。 震災前からの過疎化 永沼氏: 震災があったから当然まあ余計にそうなったんだか分かんないけども、いくらかは少しずづはみんな都会行ってるのさ。若い人たちは。で高校もないっていうのは自分の娘たちは高校に入って今石巻の高校いって帰るのが大変だっちゃ。そうするとアパートを借りて学校さ通ってるからお母さんもそこさ行って、ご飯とか食べさしているから、してるから。そういうのはあの状況なんだよ。震災前と、震災前と対して変わらないと思うよ。震災になってここから家も流されてねすぐ石巻さ行った人たちもあるけどね。だから子供たち、若い人はもう帰ってこないっていうもう9割がた帰ってこないんじゃね。 生徒: それは必然的に? 永沼氏: うんそう。 生徒: じゃあほかの浜で住んでる方はもうしょうがないと思っている人たちが? 永沼氏: うん、しょうがないっていうより、今の世の中の動きならそうなるほかしかないのかな 部落の特徴 生徒: ほかの浜と比べて桑浜のこういったところがいいっとかってありますか? 永沼氏: うん、どう比べても。うんなんていうのかな。まあここはほれ10軒ぐらいしかないけどもねまとまってるからいいんじゃないですか? 生徒: まとまって? 永沼氏: うん、まあっていうことは何があってもみんな協力しあって一緒になんでもやるっていう。ほかの部落は部落が大きいと色々問題があるけどもここはほれ最初からもう部落が小さいからね。 生徒: 雄勝町の中でも小さい? 永沼氏: 小さい。15がちいさいぐらいだからまあ20軒足らず。震災が遭ってから10軒、5軒が仮設に入って。後4軒石巻の方へいって。 震災後の会長業 永沼氏: 震災、私は本当は震災前は会長は震災前はやってないわけよ。震災があってここにいた会長が石巻の方へ行ったわけさ。急にうちの自分さ会長やってくれって言われたわけさ。俺も頭真っ白になって。こういうむちゃくちゃになってる部落をさ、そこで初めすぐ最初からなんかやってればよかったけど、急に会長やれったってなんの会長やればいいのか最初分からなかったのさ。でも羽坂の会長さんね、よく会長は羽坂の最初は震災の親分羽坂だったからね。あっちは会長、俺副会長で全部うちでやって。でも羽坂と桑浜は会長は会長同士で桑浜は桑浜でやらなきゃいけねえさね。その時にもうがれきをもう道路めちゃくちゃなってるからね。こいつ何するのかなってそれだけ頭がいっぱいだったね。でもういなくなった方がいいかなって。でも会長というのはええ付き合いだから、それこそ一生懸命やりましたね。 完全復興とは 永沼氏: ま、海の人たちだから、当然あの海岸をね、綺麗にしなければ直してもらえれば、みな張り合いがあるんじゃねぇの尚更。うん。そうやろ? 生徒: 海岸が直って、あそこがあれば 永沼氏: 今日ださの船さ乗れぇんだもの波で。波来て 生徒: あぁ、波が高くて? 永沼氏: うん、毎日満潮だったの高潮だったのね。当然、もう海岸越えてくるから。うん、そーいうだ、そういう、まぁ、そういうあれもあるから、とにかく早く海岸を直してもらえれば、いつでも海に行けれるという状況。だから、わし、自分もね、ほんとはあのー、海岸先ね早く直してもらわないと、船もおっきいのつくったわけさ、いつなおっか分かんないから、ダメだなーってあきらめてる、歳も歳だからね。今、一番思ってることは、海岸を早く直してほしいかな、それが一番のあの復興、完全復興だね、そう直ってもらえればっていうことですね。とにかく、マイペースで動くしかないです、あとは。自分たちでどうにもならないから インタビュー一覧へ戻る

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