佐藤 ちず子さん

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雄勝町で生まれ育った佐藤ちず子さんは結婚後仙台から雄勝に戻り2人のお子さん、旦那さんと震災までずっと雄勝に住んでいましたが、震災後雄勝を離れ旧石巻市の東松島市に移転。


被災前の雄勝

あたし実家雄勝なんですけど、あの、私、父、両親とあとまあ、私3人兄弟なので、兄2人と私で住んでたんですね、前は。で、まあ、本当に家があって道路があって、目の前海だったんですよ。だから本当にもう5月ぐらいからちょっと暖かいと海に行って泳いだりとかして、まあでも今はその海もあのすっかり埋め立てになっちゃって、まあ、とうわさはなくなったので、そういうこともなくなたんですね。そしてのったんですけど、そうですね、あまり、うーん、まあ、不便だなとか不自由だなとかって感じる事は確かに、お店にしても、やっぱり大きいショッピングセンターとかそういう、まっこっちに買い物に来ないといけないし、病院にしても、うーん、やっぱりその病気によっては雄勝で診てもらえないものもあるので、結局こっちに来たり、あるいは仙台に行ったりってあるんで、まあ、不自由だなって感じる部分は確かにはありました。子供も家からちょっと高校に通えなかったりもしたんで、不自由だなって思ったんですけど、でもやっぱり暮らして、多分若いときの考えなのかなって今ね、ここに来て思うんですけど。やっぱりまあ、隣近所の付き合いはあるにしても、うーん、なんて言うのかな。まあ、静かに暮らすっていうんですかね、そういうのであればやぱり、あゆう所の方が、うーん、隣近所とのねお付き合いもちょっと濃密っていうかで。何にしろ、私の親戚も震災の後何人か残って、養殖、友達とかも養殖またしてるんですけども、やっぱりそういうのって頂いて、頂いて食べることも多かったんですね。だからうちの子供達なんかも、もうその味に慣れちゃって、こっちに着てからあの食べたいって言うんで、お店に行って買ってきたんですよ。そしたら「味が無い」って言うんですよ。美味しくないとは言わないんですけど味が無いと。あはは。うーん、うん。なんかいつもの味がしないていう、最もね海から取って数時間の内にはもう口にするんで、うーん。だから本当に最初ここに来た時はあのもうここは津波が来ない所だったので、もう本当にマックスバリューも開いてたし、あともうちょっとの農協さんがあるんですけど、そこも開いてたし。確かにお店に入れられる人数っていうのが限られてたんですね、やっぱり余震とかあった時のために非難のために、並んで買い物とかもしたんですけど。まあ、ある程度お金があれば何でもここは手に入るんですよ、不自由なく。でもやっぱり、そういうのを食べて育ってきた子供達とか私にすると、買ってまではなーここで買ってこれを買ってまではなっていう。うーん、ただ大きく変わったとは思いますよ。やっぱりね、年々人は減っていくし、皆さん便利さを求めるよりも自分が年を取った時の、あのことを考えてやっぱ出て、逆に出て行かれる方もいたと思いますので、まあ一概にはね言えないんですけど、うーん。でもそれでも反面若い人も戻ってきていたのも事実なので、うん、その、うん、まあ、何が変わった変わらないって言うのはちょっとわかんないですけどね、ただ、うーん、私達はずっとあそこで津波さえなければずっとあそこにいたんだろなって思うんで、うーん、と思ってました。


若者減少への想い

まず働く場所がないですよね、それが一番ネックですよね。あと、まあ、地形的にもやっぱちょっと複雑な地形なので、だし、あと周りのその受け入れ側の考え方もあると思うんですよね。うん、やっぱり実家に戻って養殖しますとか、実家に戻って家業継ぎますとかって言った時に、やっぱり、あぁ良かったねって私たちは言えますけど、でもその家の当人はやっぱ先々の事を考えると思うんです、本当にこれで一生食べていけるのか、やっていけるのか。そうなった時に、いや、自分の代で終わりにするから戻ってこなくていいよって言う親御さんもいると思うし、うん、じゃあ息子が戻ってきたらもうちょと手広くしたいから戻ってこればって言う人もいると思うんですけど。だからやっぱり先の見通しが立たないから、うーん、戻る戻らないあの、その、ね、若者が増える増えないっていうのもあると思う。でも結構戻ってきてた人達もあったかな。あはは。うーん、とは思ってましたけどね。


雄勝のこれから

誰が行ってもうーん、なんていうんだろう、こう、本当にウェルカムな状態で受け入れてくれる様な所になってくれれば、もしかすると、その雄勝とは全く関係ない人も行って、住むようになるのかなーって。やっぱり昔ながらの田舎なので、やっぱりちょっとそういうところは、こう、集団意識じゃないけど、ちょっとそういうところがあるのかなって。


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佐藤 秀平さん

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雄勝に残る数少ない20代の佐藤秀平さん。トラックの運転手として日々働き、明るい性格で雄勝の運動会を盛り上げる姿が印象的でした。雄勝に残る理由や、現状、雄勝に対する想いを話して下さりました。


雄勝に残る理由

おれ、会社の所在地が雄勝町なんだよ。こういう小さい乗用車じゃないんで乗ってる車も、大型トラックだし、いろんな所にまさかあちこちに停めるわけにはいかないし、まあなんとなく街に出る気は最初からなかったので、だからいいや、人がいないなら、いっその事何かおれのものだ。何したって怒られねーぞ。みたいな感じで思っちゃったんだけどもね、んー何が良くて残ったって分からないおれも。
でも、おれは仕事で石巻に通ったり帰ってたりする道のりが好きだったりする。その山の景色をみて、桜芽吹いてきたなとか、ああ紅葉きれいだなとかさ。ああ、今日風強いなーとか海荒れてるなーってそういういろんな所みていくのが好きだから、たぶん残ったのかもしれない。うん。まず静かだし、そしてこう今からどういう風にこう再生されていくのかなっていう楽しみもあるし、果たして本当に元通りに戻るのか、それとも近未来化のモデル漁港みたいになるかよく分からないけども、まあそういう楽しみもあるし。そして人手も足りないから、若いような人でもだからそのアルバイトとかもしやすいし。お願いします使って下さいって言われなくても来てけろって言われれば、それで終わりなんで。だんだん、元々人もいなくて狭い所さね、さらに少なくなったから人間関係は濃くなったし。


震災後の友達
周りの友達っていう友達ね、みんな街に出て行ってしまったから。今つるんでる友達というのは、震災後にできた友達がほとんどだから。高校だって街の高校ですし、俺らの学校は進学校ではなくて、就職が80%ぐらいしめてる学校だったからみんな船のったりとか、卒業して一度も会ってない友達もいるし、どうなってっか、生きてるか死んでるかも分からない人だっている。
(震災後にできた友達)あのー、いつもの友達と遊んでて、友達の友達、の友達の友達とか、だんだん枝分かれしていって、類は友を呼ぶって似たような人たちが、こう集まって、たんかなー
石巻の人ではあるけど、雄勝の人ではない


雄勝の未来

周りの人たちはさ、人が住みやすい場所とかさ、若者が帰ってきてとか、そういうのは望んでも叶わない夢だから。若者とかそういう人たちは、あっちの方に土地を買って家たててる人もいるし、あっちの方に復興住宅申し込んでる人、中には戻ってくる人もいるけども、おれの理想はこじんまりとした、本当に震災前にただ戻ってもらいたい。渋滞とかもなく、あまり人混みも起きず、たまに1年に1回のね、ウニ祭りとかさイベントがある時ぐらいで、本当に1年中人が来られたっておもしろくないから、シーズン的に来てほしい。海開きとか、ウニ祭り、ホタテ祭りとか。後は、もうちょっとライフラインを。ライフラインというか、雄勝から一歩も出なくても生活できますよ、というレベルまで戻ってもらいたい。


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佐藤 美千代さん

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雄勝町のてなこ屋商店街(仮設商店街)の少し外れたところに、トレーラーハウスで八百屋さんを構える「八百清」の佐藤美千代さん。家族のお話や将来への希望についてたくさん話して下さいました。


お店の将来

この3月の12日にここに、このトレーラーハウスで商売して、そして、一日も早く高台になって、このトレーラーハウスを高台に持って行ってあのー、震災前のような店番がしたいのさ。というのは、ほらこういう生活慣れないんだ。朝に来て、夕方帰るって。そういう生活は今までしたことないちゃ。だから今までだと、お家とお店が一緒だから、お布団も干せたし、洗濯物もね、外に干せたし、そういうので夕方になっと夕飯作りながらお店番をするって。それがね、何十年も続いてたから、こういう生活、本当にこういてて、あ、今日は何をすっかなってこう考えるのが精一杯で何にも出来ないものね。


生かされた命
だから、私も震災で、叔父、叔母、それから従妹、近所のおばさん、あと義理のお姉さんとかって一杯亡くしたけっど、未だにあの上んない人もあるんだっちゃ。見つからない人も。だからね、自分がその時自分も、一応泳いだけれども、一応助かったから、何とかね、その、助かった命をもう少し、ね、みんなのためにねー。みんなだってさー亡くなった人はさ、もっともっとさーいろんなことをやりたいって思ってたと思うんだよ。で従妹の人は私と同級生だから年金の話なんかしたばっかりなのね。年金もらうか、早くもらうかーとか言ってね。そうしてる内に亡くなってしまって、、、とにかくね、「生かされた命だと思って」。
本当に3.11はさ、亡くなった人と生きた人が本当に紙一重で、本当に何メートルか先に車が走っていた人が亡くなったり、もうちょっと遅れた人が、すぐUターンして山の方に行ったりっていうような感じがあったから。


唯一の楽しみ
で今年はこのひな壇のそこの階段のとこで14人皆でとったの。それを撮って、あのー私が河北新報さ、7月から12月までのカレンダー、それに申し込んだから今写真ないんだ。で、毎年こう、私たち仮設で花見をしたりして、そういう何て言うのかな、みんな家族。自分たち二人っきりだったのがいつのこま14人になって、それが唯一の楽しみでねー。早く高台になって、その14人がみんなでさ座れるようなね、テーブル囲めたらいいなと思うし。今仮設さ行くと、14人なんか入らないからね。孫たちだんだん、だんだん大きくなってきて一回入ったの。ちょって、あと動かないでーとかって感じでとにかくね、狭いんだー


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阿部 利昭さん

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雄勝町熊沢会長の阿部さん。大工見習いとして大曲から、熊沢に越してきました。雄勝町に対する尾思いや震災を通して苦労していることについて、大工として、また浜の会長として、今感じていることについて話してくださりました。


雄勝の未来と今
Q. 若い方たちを呼び戻すための活動などは行われていますか。
A. 今のところの、たぶん取り組んではいんだけども、今のところ前向きに取り組んでるとは言えないでねーべか。つーことはね、あの学校ができて初めて若い方を呼び戻すって言う、多分そのあとに計画がたつんでねーべか、と思うけども、ある程度までは、要するに漁師だから。漁業。養殖業。そういう人たちが、今帰ってきてるのね。単身赴任で来てるわけさ。だって奥さんと子供はどっかへ、例えばほら松の方さおいでおいで。おいおいはそういう人たちも帰ってくんだべけっども。あんまり便利よすぎたとこさ、生活慣れてしまうと、帰ってくる人たちが少なくなってしまうわけ。


行政の計画と現実
Q.雄勝商店街の建物は本当は建てては行けないということですか。
A.そうなの。そいつを許可してしまってやっているから。結局あの、商売をやっていて、許可は出したんだけれども、あれを建ててしまうとまた、撤去するたって金がかかるから。だからそういうことやっているから、行政が後手後手となってるわけ。
Q.雄勝商店街をもともと建てる計画をしたのも行政ですか?
A.建てるのは個人で建てるのね。そうなの。その申請した時は、例えばここは、9.5メートルの嵩上げなるよって、たぶん説明は言っている。だけれどもいつそうなるのかわからないのだから。生活がかかっているでしょ。それでたぶん許可出したと思う。あそこは危険地帯でほんとは建物は(建てては)ダメなんだ。


大工として感じる時代の流れ
[現代ではハウスメーカーで家を建てる大工さんがほとんど、だがそのため大工さんと、家主の繋がりがなくなった。]
だから建つのも早いんだけど、手放すのも早いわけなんです。愛着が一切ないと、あきてしまって払うことができなくなると、もうすぐ手放す。そういう人たちが多くなっている。そいつを中古住宅として、販売してるしてる人たちもいる。せっかく建てたのに、俺はそんなことはしない、、(家主さんと)一体になって家建てるもんだから、愛着が湧く。


伝えたいこと
いいところだから。雄勝は。本当に風光明媚って、来て分かるっちゃ?住んではね、ほんと良いんだってば。ただ、あの、交通の便が悪いから、ただ今まで通りではないからね。もっともっと便利になる可能性はあっからさ。やっぱりみんなに帰ってきてもらいたいな、とは思います。だってこいつも高台で、今までよりも全部広く??なるからね。2メートルも。でもこっちまで直ってしまうから。今あのここは南三陸自然公園になってるために、行政ができねーくなってるわけさ。あの、解除になんねーと、だから震災だから。そういうのもほんとはなくしてね。できる限り住民の考えもねぇ、行政のほうで考えてくれればいいのにと。


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阿部 善規さん

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雄勝町熊沢で現在暮らしている阿部善規さん。もともと浜の麓にあった家は流されてしまいました。漁業を通して感じてきたこと、自然と共存することに対して、震災を通して阿部さんが感じてきたことを話してくださりました。


震災に強い漁業
だから災害に、私が思うのは災害に強いって言ったら、もう少しね、この自然を利用したおんなじその手を加えるのも自然に利用、自然を利用したそのやり方をね。それをやればほら、結局は最初は経費かかっても後後はいいと思うんですよ。だからもうちょっと自然に近いやり方でね。最初は手を加えても、自然にその近いやりかた。


震災について
だからその、津波もねー、あの私の、私らはその津波っていうのはおじいさんが昭和8年の津波を経験して、こううるさかった人なんですよ。ものすごいあの津波に対して、あの神経質で、ずいぶんと自分の親が神経質じゃないかと思うくらい神経質でね、地震のあれはとにかく、もう逃げることだったんですよ。もう逃げる、逃げる。地震になったらとにかくみんな起こしてね、もうテレビつけて、自分で起きてきて、テレビつけて、もう玄関もなにもみな開けてね、もうなんていうか早い話、車もなにももう全部エンジンかけなさいで、逃げるそういうね、神経質な親だったんですよ。だから、津波、津波になった時もやっぱり逃げるっていうことはどこか頭にはあったんですけど、ほれで一番うちは下にあったから、とにかく津波に対して神経質だったし、私らはほら、こういう土地であるから、あればこそ、いくら津波来たって、1メーター逃げれば1メーターあがるっていうのは感じたから、それこそ津波そこまで来ても、もうそりゃ命とられるようなことはないんですよね。ただ、結局親の言うことには、結局津波は3回目あたりには、大きいの来るから、っていうから、波が引いていけば、引いて行っただけ大きいのが来るなって思うから。もう引いて行ったとこさは、もう行かないんですよ。だから3回目だから、1回目ここまできたら2回目多分それより多いんだろうって上で見てるわけですよ。そういうなんていうか今まで経験はしていないんだけど、そういう親からなにされたことが自分ではわかってて、結局はほら、思うんですよね。だからまぁあまりこの部落には被害っていうのはないんですよ。船はなんかは流されたけどもね。大抵は流されたけっども、あの、人間が流されたとか、死んでしまったとか、この浜にはないんですよ。みんなそういうことをあれしてるからね。


住めば都
ああ、やっぱりねー。一番落ち着、落ち着くっていうのが一番かなぁ。でやっぱあの、やっぱり、昔っからいるし…で残ってる漁師さんとか結構残ってるし、別に雄勝いて、こう退屈するっていうことがそんなないすよね、うん。なんか普通にいる、みたいな。たのしい…楽しいわけじゃないですけど、まぁいて一番楽なところです。雄勝。その河北町とかにいるより、雄勝にいた方が楽だっていうことです。楽っていうか、気持ちが。まぁあんな津波とかもあったんだけど…一番いやすいところです。だから残ってるっていうところは、まぁそういう感じですか。


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佐藤 一さん

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雄勝町では若い漁師さんで、震災後は仮設住宅から海に通っている佐藤一さん。漁師としての仕事や震災後の復興についてお話していただきました。


雄勝で続ける理由

生徒: もしその外に出て、新しい生活を始めるとしたらどういうことをしてたと思いますか?その新しい生活を、どうなるかなっていう
佐藤氏: そうだね、漁業を再開できるのかできないのか。で雄勝で漁業をするのか、ほかの土地に行って漁業するのか、またはまったく漁業関係ない仕事につくのかで考えて。やっぱ6割7割ぐらいは雄勝に戻って漁業なの。それが駄目なんだったらどうしようなかみたいな。でまあ他の仕事をしてっていうのもあったけど、もうなここまで40過ぎまでやっちゃうとなんかほかのこともね、そういう自分がイメージできないっていうか。感じにもなっちゃってたなぁ。
生徒: そこまで雄勝にもどるってどういった、そこまで雄勝に戻りたいって
佐藤氏: うん、どうだろうなぁ。実際仙台に行って暮らして半月まあ向こうにいたわけじゃない。で、こっちにきて思ったのが、この浜の匂いっていうか、海の匂いっていうか、浜の匂いっていうかやっぱり落ち着くんだよね。でうん。ここで仕事したいなみたいな。それぐらいかな。


震災後の海の仕事
生徒: さとうさん自身はその震災前と後では、海で働くっていう気持ちとしての変化は?
佐藤氏: ないな。変わらず。淡々と仕事をしているというか。どうなんだろうな、津波がきて悔しかったといえば、悔しい。ただ自分の場合は、なんだろう、うん、どうだろうな、まあまあ。そこまでなんかこうまあ一応津波はくるくるって思ってたんで、だってまあ海の仕事をしてて津波でやられちゃうっていうことはある程度考えてたんで、半分しょうがないなって。なんか潔すぎるけどね。だからそういう覚悟があったからあんまり心折れるまではやられなかったのかな、たぶん。


漁と海
生徒: 海ってどういったものなんですかね、佐藤さんのなかで
佐藤氏: 海。どんなもの。難しいな。結局はこの天気が良かったり悪かったり風が吹いたり、なかったり。これは雨だの雪だのまあ自然と仕事を一緒にしてるよな感覚かな。あとはもう本当に結構一人で漁、漁に出てるときは疲れたなあ。やめようかな、もうちょっとがんばろうかな、みたいなぁは自分とのそういう感じで、あとはもうこの天気が悪くなってきた風吹いてきた強くなるなどが、そういうのがもうちょっと頑張ろうとか、もう早めに止めた方がいいなみたいな感じで見てる。海も一緒かな。なんか常にそばにあるというか、そこにあるっていうか。感じですかね特別なわけでもなく、なかったらやだなみたいな。


復興とは

生徒: 佐藤さんにとって復興っていうのはどういう状態で使うのか?復興を終えるということはどういうことなのかとか?
佐藤氏: うん。なんか。うん。微妙だよね、実際は。復興って。だって仕事はこうやって船持って、んで震災前とおなじぐらいのものができて、で当然船も自分のやれる範囲の自分のまわりはなんとか震災前の形に戻しました。でもあの漁港整備とか、宅地だとかっていうものは自分で頑張ってどうにかできるものじゃないじゃん。行政の仕事だから。だからまあ、自分的にはもう復興っていっていいんじゃないの。あとはもうどんどん稼ぐしかないし頑張るしかないし。って思う反面、そういう自分が手が出せない所っていうのはまだまだ復興にはほどとおい。復興できるのかみたいなっていうまだレベルでしょ。だからなんて言っていいんだろうね。自分の中でもまだよく分かっていない復興とは何か。だって完全に震災前に戻すぞと、でもそれは無理な話だから。人そのものが戻ってこないって言ってるし。実際にまあ、自分ら漁業やってるから海の近くに住みたいで海の近くに住みたいで、船の見えるところに住みたい言って戻ってくるけど、実際、サラリーマンとか会社員は実際雄勝に戻ってくる必要がないんだよね。今石巻だとか、町場にいた方が、雄勝にいた時よりも超便利だし、みたいな。まあ郷土愛あって、やっぱ雄勝だよねっていう人が中にはいるかもしれないけど、たぶんあれじゃない。高台移転して帰ってくるのってほとんど高齢の方じゃないかな。なんかこう産まれ育ったところで死にたいみたいな方々は戻ってくるかも知れないけど、ある程度、このなんだろう、40代五十代五十代より下はそうそう戻ってこないと思う。だって便利だもん。まああとはどんだけ雄勝を愛しているかみたいな。どうなのかな。


メッセージ

佐藤氏: まあ気軽に浜に遊びに来てほしいかな。結構ね震災前はさ、この浜に遊びに来る釣り人とかさ、あとは普通の家族づれでもそうだけど、なんかじゃまくさかったのね。で実際来た人たちは飲み食いしたゴミとかもそのままそこらへんに置いてくしそのマナー悪くて。。ですごい煙たがって嫌がってた人とかも結構多かったの、自分だけじゃなく。でもそれは自分の気持ちの受け入れ方ができてなかったっていうのもあったなとかって反省して。震災後も色んな人に手伝ってもらって、色んな人と知り合って、ってやったじゃん。で実際今度漁業っていうものを知らない。自分たちが作っておいしいもの届けようと思ってるのに、そのホタテがどういう風に作られてるのかわからない。ああそうかと、帰ってきてもらったら、来た人に気軽に声かけて話して、で漁業ってこうだよと、こうやって作ってるんだよって見せることによって、その人が興味を持って食べるようになれば。今魚介類離れとか魚離れとか言わるじゃん。そういうのをなんとか取り戻そうと、食育だとか力入れてやってるけども。そんなね、伝わってるのかどうかわからないことをするよりも、遊びに来てくれた人とこうやって話してた方がよっぽど効果あんじゃねえのかなって思って。しかもどんどんおいしいおいしいって食べてくれるとこっちも嬉しいし。これからは心を入れ替えてみなを受け入れようと思ったな。だから気軽に遊びに来てください。



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永沼 信良さん

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震災後から部落の会長として桑浜で暮らしている永沼信良さん。震災後の会長業の苦労や部落のことについて教えていただきました。


震災前からの過疎化

永沼氏: 震災があったから当然まあ余計にそうなったんだか分かんないけども、いくらかは少しずづはみんな都会行ってるのさ。若い人たちは。で高校もないっていうのは自分の娘たちは高校に入って今石巻の高校いって帰るのが大変だっちゃ。そうするとアパートを借りて学校さ通ってるからお母さんもそこさ行って、ご飯とか食べさしているから、してるから。そういうのはあの状況なんだよ。震災前と、震災前と対して変わらないと思うよ。震災になってここから家も流されてねすぐ石巻さ行った人たちもあるけどね。だから子供たち、若い人はもう帰ってこないっていうもう9割がた帰ってこないんじゃね。
生徒: それは必然的に?
永沼氏: うんそう。
生徒: じゃあほかの浜で住んでる方はもうしょうがないと思っている人たちが?
永沼氏: うん、しょうがないっていうより、今の世の中の動きならそうなるほかしかないのかな


部落の特徴
生徒: ほかの浜と比べて桑浜のこういったところがいいっとかってありますか?
永沼氏: うん、どう比べても。うんなんていうのかな。まあここはほれ10軒ぐらいしかないけどもねまとまってるからいいんじゃないですか?
生徒: まとまって?
永沼氏: うん、まあっていうことは何があってもみんな協力しあって一緒になんでもやるっていう。ほかの部落は部落が大きいと色々問題があるけどもここはほれ最初からもう部落が小さいからね。
生徒: 雄勝町の中でも小さい?
永沼氏: 小さい。15がちいさいぐらいだからまあ20軒足らず。震災が遭ってから10軒、5軒が仮設に入って。後4軒石巻の方へいって。


震災後の会長業
永沼氏: 震災、私は本当は震災前は会長は震災前はやってないわけよ。震災があってここにいた会長が石巻の方へ行ったわけさ。急にうちの自分さ会長やってくれって言われたわけさ。俺も頭真っ白になって。こういうむちゃくちゃになってる部落をさ、そこで初めすぐ最初からなんかやってればよかったけど、急に会長やれったってなんの会長やればいいのか最初分からなかったのさ。でも羽坂の会長さんね、よく会長は羽坂の最初は震災の親分羽坂だったからね。あっちは会長、俺副会長で全部うちでやって。でも羽坂と桑浜は会長は会長同士で桑浜は桑浜でやらなきゃいけねえさね。その時にもうがれきをもう道路めちゃくちゃなってるからね。こいつ何するのかなってそれだけ頭がいっぱいだったね。でもういなくなった方がいいかなって。でも会長というのはええ付き合いだから、それこそ一生懸命やりましたね。


完全復興とは
永沼氏: ま、海の人たちだから、当然あの海岸をね、綺麗にしなければ直してもらえれば、みな張り合いがあるんじゃねぇの尚更。うん。そうやろ?
生徒: 海岸が直って、あそこがあれば
永沼氏: 今日ださの船さ乗れぇんだもの波で。波来て
生徒: あぁ、波が高くて?
永沼氏: うん、毎日満潮だったの高潮だったのね。当然、もう海岸越えてくるから。うん、そーいうだ、そういう、まぁ、そういうあれもあるから、とにかく早く海岸を直してもらえれば、いつでも海に行けれるという状況。だから、わし、自分もね、ほんとはあのー、海岸先ね早く直してもらわないと、船もおっきいのつくったわけさ、いつなおっか分かんないから、ダメだなーってあきらめてる、歳も歳だからね。今、一番思ってることは、海岸を早く直してほしいかな、それが一番のあの復興、完全復興だね、そう直ってもらえればっていうことですね。とにかく、マイペースで動くしかないです、あとは。自分たちでどうにもならないから


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今野 瑠理さん

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これから養殖業を始めたいと考えている今野瑠理さん。雄勝町の豊かな自然が好きで、震災後も雄勝町に住み続けたいとおっしゃていました。


雄勝に残る理由

生徒: 雄勝町にずっと住み続けようと思った理由は何ですか?
今野氏: 一番はやっぱりこうおばあさんのそばにいたいっていうのもあるし。この桑浜っていうこの場所が好きなんですよ、一番は。自然が好きなんで、そうですね。もうあっちっていうか石巻の方には住む気がないっていうか、おばあちゃんになるまではずっとここにいたいですね。
生徒: 石巻市内の方へ買い物に行くとおっしゃてましたが、石巻はこの町とは違いますか?
今野氏: そうですね、確かに石巻のあっちの方に行けば、買い物も普通にできるし、豊富なものはいっぱいありますけどやっぱその空気はあっちはちょっとあれなんですよ、自分は合わないというか。やっぱここにいて少し散歩するだけでもすごいリフレッシュできるっていうか、その安心感もわくし。あと何より人の良さがすごいここいいので、あっちに出ると知らない人ばっかりっていうのもあるんですけど、人のふれあいが欲しいというか。このはい、人の良さが一番いいので、やっぱここにいたいと思うんですよね。


町から引っ越す人
生徒: この町から引っ越す人と引っ越さない人の違いは何ですか?
今野氏: 養殖業が全部一旦だめになったんで、もう一回するのにはすごい多額のお金もかかるし、それでやっぱ出稼ぎっていうかあっちで仕事して暮らした方がお金もかからないし。あとはここはあの、おんちゃんっていうか年結構いった人っていったらおかしいんですけど、結構あの老人とかしかいないんで、あっちの方が住みやすいというか、あっちの方にその娘息子がいるから引っ越すっていうのが多くて、なんででも一番は漁業ですかね。できなくなったんで引っ越そうっていう
生徒: これからるりさんはどのようにこの町で暮らしていきたいですか?
今野氏: そうですね、うん。私も養殖したいと思ってるんですよ。少しの養殖でもなんていうんですか、お金にならないのはわかってるんですけど、少し人残ってほしいので、自分が若いほうなので若者が養殖とかなんかしたら少しぐらいこうなんていうんですか、こういう若者もいるんだっていうことで、桑浜じゃなく雄勝町にこう戻ってきてほしいっていうのが望みというか、少しその気持ちはあるんですよね。


復興の様子
今野氏: 実際本当に復興ていうのが進まってるか分かんないんですよ。道の桑浜漁港もまだこう整備もされてないんで、なんで違う地域は整備されているところは整備されてるし、今してるとこもあるんですけど、桑浜っていうとこはなかなか進まないんですよ。だから確かに漁業の養殖は始まってるっていう復興はできてるんですけど、漁港はまだこう石だらけってのもあるし。そうですね。


ボランティア
生徒: ボランティアとしてはこれからどのような形で携われると思いますか?
今野氏: そうですね、本当来てくれるっていうその気持ちだけでうれしいんですけど、やっぱボランティアの人たちも話しかけてくれるんですよ。それはすごく自分にとってうれしいし。もちろんここもきれいにすごいしてくれたし、こう個人で来てくれる人もいるし、団体で来てくれる人もいるんで本当感謝してるというか、ここもなにかできるみたいですけど、できた後もどんどんボランティアさんに来てほしいですね。何も仕事がなくても遊びに来てほしいというか、それだけでも人口増えるというのもあるし、一瞬だけでも。なんで本当来るたび、毎回楽しいですね。


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