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復興

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遠藤 弘行さん

インタビュー一覧へ戻る 雄勝で生まれ育ち、硯職人として現在は実家の跡地であった場所を借り、お店と作業場を構えている遠藤弘行さん。今年の3月までは約33年間消防団の一員でもありました。 後継者 仕事的にはここ、あのプレハブの仕事場で、しようと思えばできるんだけども、販売する店って言うのは今6畳でしょ。ちょっと狭くて、あの、自分の彫ったのを見てもらうのに、もう少しスペース広くないとダメで。最初の段階では品物がないから、あのこれで十分だったの。段々増えてくると、やっぱりあの色んな品物見てもらいたいから、結局展示する場所をもっとこれの3倍ぐらい欲しいんだけども。まだあの、色々、こっちの道路の関係で、道路が新しく作られるらしいから、そうなるとこの場所でできるのかどうかもっていうのもわからないね。やっぱりちょっとして店が欲しいだけども、それもちょっと悩んでるところで。何でかって言うと、後継者。あのー今から自分だけだとあと、数えてみると先数えたら、10年20年しかできないのかなって思うとね、なかなか設備的なものはあるから。息子でも仕事後継いでればいいんだけど、別の仕事してるんで。まだ今の状態では後継者がいない状態っていう。。そういう状態です。 俺が来た36年前でさえ、珍しがられたっていうか職人として戻って来たっていうが。むしろ硯産業は推定してきてて、辞めていく人がいたぐらいの時期にその昭和53年っていうのは。あまりあの硯的にはいい仕事じゃないっていうのはその頃からもう30何年前からあって。たまたま俺が戻って来た。だから俺が始めた36年前から今まで正式には職人は誰もいない。新しく育った人。俺が最後みたいな感じなんですよ。それまでは大学卒業して10年ぐらい前かな、帝京大を卒業して来たって言う人が雄勝の人じゃなくて、東京の方の人なんだけども。4年間ここで硯の仕事をしてたんだけども辞めていっちゃったとか、やった人はいるけども、ずっと今継続してやってる人がいなくなっちゃった。いなくなっちゃったっていうよりも俺もだから36年前に珍しがられて新聞の記事になるぐらい、ユーターンしてきたっていう。載ったことがあって。それからその頃から硯の仕事って珍しいっていうか、やる人がいなかった。逆に今震災後はあれでしょ、ここ今年ぐらい少しこう硯の方に若い人がいるし、今年の春、地元の子供が大学卒業して、帰ってきて、硯の組合に入ったって言うところまでは情報きてるんですけど。まあだから後継者、その人たちが今やっと育てば、あの本当に40年近くぶりに職人っていう。なる可能性はある。 消防団 消防団ね、あの今年の3月退団ってあの、辞めたんですけど。32年と11ヶ月なんか続けてきたっていうか。こっちに24歳で帰ってきて、数年3年ー4年ぐらいにしてから消防団に。やっぱ地元で仕事をしてる人が消防団に入んないと、その消防署だけじゃ間に合わないんです。なぜかというと、各浜に水門とか門扉っていうのがあって、それを閉めるのに、本当の消防署の職員ってそんなにいないでしょ。あの消防車一台しかいなんで、だからあの、各浜に行って閉めるっていうのは、やっぱりそれぞれその浜の人の住んでる人の担当なんで。そうすると自営とかやってる人がそういうのに入んないとあの、会社委員の人だと昼間いないんで、まあ、地元で仕事を始めたから、あの結婚するあたりにそういう話があって、27歳か28歳ぐらいの時に入ったんです。それから32年で。今回辞めたのが、まあちょっと色々消防団が合併するっていうので、自分もここに住むことを決めてないんです。仕事場はあるんだけども、住まいは別なちょっとあの遠い方に希望してるんで、そこから通う予定ないんで。まあ、消防団が合併するのを期に32-3年入ってたんで、いいかなってなって。60過ぎてね。あはは。それで3月に退団、辞めたんですね。 継がれるこだわり 自分は50歳の時に、その50歳の時が自分は東京の方に行ってる時の、まあ、丁度子育て終わってから要するに商売買いしようと思ってたらしくて、俺が向こうに行ってる時に、独学でやったんですよ。あの硯の仕事っていうかだから、道具から自分で作って、先生が和尚さんがいない独学で硯の彫り方して、自分で始めたっていう。だからあの石をとってた時は、もちろん組合の人たちの下ろしやってる人に硯の原石を販売してたんですけど、やっぱり自分の考えっていうのを出したいんで、自分で直売所っていうのを始めたっていう。それがあるときその、まあ、神奈川にいたんですけど、そっちから帰ってきた時に自宅のまああの玄関ってちょっと昔の家なんで4畳半ぐらいある、その両側に棚ができて、硯が、普通の玄関開けると硯がこう、並び始めてたっていうか、手作りの棚でね。それがあの、自分にねすごいインパクトあったのが。子供の頃はあの、ここのうちの実家に住んでたんで、ここから降りていくと、硯彫ってる職人さんがそこにいて、沢ってね、沢の向かい側に工場があって、その人が彫ってたはあの、長方形のうーんと、まあ小学生の硯が中心だから、こういう硯を彫ってたわけですよ。その俺が子供の頃に彫ってた職人さん。だからこれと同じ規格品っていって、大量生産で、同じものを彫ってた。これしか見た事なくて、親父の所とか家に帰ってくるとこういう。なんでしょう、長方形の硯がほとんどなくて、こういう彫刻とか入ったのが並んでて、それをみてなんか衝撃を受けたんですけど。で、自分がその24歳にこっちで帰ってくるちょっと前にね、その数年間あるでしょ、その間に来るたんび、色んなの彫刻みて、あの自分の気持ちがこう、段々ね、あの彫刻してみたいみたいな、たまたま広告会社にいたんで、そういうデザインまでいかないけど、彫刻の方にすごい興味があったっていうのもあって、色ついたのとか利用するでしょ。こういうのが今までに小さい時みてた硯と全然違うんで。だからインパクト結構強くて。まあ、この硯だけだったら多分戻ってきてないです。だからうちの親父がこういう商売を50歳から始めたから、自分もこの道に入ってきたていう。親父がやんなければ、俺もいなかった。長男じゃないし、帰ってこなくてもよかったんだけど。だから親父の考えがすごい俺の中には入ってて、そのこだわりっていうのはまだ親父の後を継いでるんで。そのこだわりがたまたま去年本出してもらったのにつながってるんですけど、親子の想いっていう。雄勝の硯の中でも一番こだわってるやり方してますね、っていうのを取り上げて本にしたいっていうことで。それが一番のこのこだわりなんです。 復興の状況 Q: あの、まあ、今震災から3年経って、雄勝の現、この復興の現状だとか、そういうのどう思われますか? A: あのーどこも一緒だと思うんですけども、結局目に見えてはそんなに復興にしてるように見えないでしょ?とりあえず片付いたかなって。ただあのー自分は浜の方の仕事のあれはよくわかんない養殖とかね、そっちは進んでると思うんだけども。その他の仕事、元々ここにはあまりなかったんだけども、あの唯一ね昨日も自分行ってきたんですけど、自分が石持ってきてる石ってさっきから波板石って言ってるでしょ?波板って言う地区があるんです、もう少しこの道路をえーと、6分ぐらい行った地区、雄勝とあの女川町っていう所の栄えの最後の集落なんですけど、そこで地区がね。そこはね20数世帯しか元々なくて、今3世帯かなんか住んでるらしいんですけど、4世帯、5世帯ぐらい残ってるんですよ建物。そいで、後集団移転で6世帯か7世帯戻るらしいんですけど、その戻る工事が進んでないんだけども、このコミュニティーセンターっていうのだけ、完成したんですよ、これ。これがいち早く完成して、あのこの人たちがね、ここから波板地区から俺が持ってきてる硯の石山にいっぱいあるんです。それを利用して、この体験学習を地元の人たちがしようと思って、まだ自分たちの住まいは仮設なんだけども、これだけあの兵庫県からの義援金が宮城県にきた、その宮城県で公的なのを義援金をこう使わせてもらうっていうことで。何ヶ所かこうあのまあ、希望っていうか応募あった所から選ばれて、波板地区集会場兼体験学習に使うっていうので、市長を通して、これあのもう先月できたばかりで。これが唯一進んでるかなって見える、しかも集会場で雄勝のししょうなんかではこれも公民館がないので、公民館代わりに来月やっぱり公民館で元々やってたあの夏休みの子供達集めて、ありんこ塾ってあるんですけど、それも来月あるとかっていって、ここで体験したり、ここあの石を割ったりね、それから絵を描いたりとか、体験させるそういうのをやろうと思って、地区の人が。あとは収入もちょっと欲しいと。そのみんな年金暮らしするような人が多いんで。そいで、建物はだからその戻ってくる個数の割とデカイの建ててもらったんだけども、維持していかなくちゃないんで、一応色んなあのこういう体験学習で来てもらったりして、宿泊する時はいくらか貰ってとか、素泊まりなんで。それが一番俺として今目に見えてこう、す、前に進んでる。で自分的にはこの地区の石を利用してるんで、一応あの硯の方では協力はしてるんですけど、だからこのなかでも若干とろろ昆布とか海の物と硯とか石の販売、ちょっと玄関先にね置いて、一応売り始めたっていうか。だから硯は遠藤さんっていうことでやってもらって、何しろこの波板の石を使ってるっていうのをこの地区の人がうちの親父も使ってるし、俺も使ってるし、親子二代でこの自分の所の石を使ってくれてるっていうことで、まあできる範囲では協力しようと思ってるんですけど。それが唯一この場所で今復興的な感じで動き始めてるのかなっていうのは、目に見えてね。ただあの後はこっちの方はまだあれでしょかつ上げとか、あれってわかんない。それぐらいの状況でしょうね。 インタビュー一覧へ戻る Advertisements

佐々木 信平さん

インタビュー一覧へ戻る 元々大工をやっていたが天然スレートの職人に転職した佐々木信平さん。雄勝には5人しかスレート職人がいなく、佐々木さん自身は雄勝出身ではないが、雄勝の様々な場所で関わっています。 昔の家 M: その震災の前だと屋根はほとんどスレートだったんですか? S: ほとんどってわけでもないですけど、あの新しく建てたところはスレートは使わなかったけど、昔っからの家はほとんど・・ M: 民間の家とか・・ S: そうです。壁もみんなスレートで拭いてたんで。でそのあの、ドイツ・ウィンブルグそっちの方だと同じような、向こうも石が取れるからね。そんな感じでやってましたよ。 M: 写真とかないのかな、見てみたいです。 S: 今帰りにあのパンフレット、私のパンフレットあげますよ。あの昔の工場の自宅がスレートで全部できてた。何種類。。7種類か8種類の形で付いてるんです。でも写ってるのは3種類ぐらいなんですけどね。そこのわきに土壌があって、土壌の後ろのほうとか色んな形で付いてるんですね。そこねスレートを付くってる会社だから、見本、見本みたいにして。 硯の観光地 N: スレートって本当に綺麗だし、日本に十人しかいないって言うの聞くと、どうやってどうにかしてなんか広めれないかなってすごい考えてるんですけど、ずっと。 佐々木さん S: そうだよね。あのそれも言われてるんですけど、雄勝の人たちは硯組合で、雄勝の町をなんも産業はないから、観光の町にしようって。例えば壁をね、壁をスレートにするとか、ヨーロッパ系に作るとかして、人を呼び込むと。それとミニ東京駅を作るとか。考えてるんですけども。まあ一番お金はかかるんで、もうずぐってわけにもいかないけど、ちょっと長い目で見てそういう風にやろうかって。で、この間も相談受けて。大体壁をやるとしたらどれぐらいかかるかなとか、それをねちょっと教えて国のほうにどれぐらいかかるのかって。 N: そのミニ東京駅みたいなのを雄勝の中に作るってことですか? S: あの、今のたなこ屋ありますよね、あの付近に作りたいなって言ってるんです。 今後の雄勝 Q: その今後の雄勝、どういう風になって欲しいとかってあります? A: うん、やっぱりね、あのスレートの山を再開して欲しいです、市場を。で、今は硯の山として再開してるけど、やっぱスレートをもう一回取って欲しいです。というのは、あの富山っていうのはあの行動ぶれっていってトンネル、地下のトンネル掘ってるんですね。雄勝は露天ぶれだから直ぐ再開できるんですよ。だからそういうところから違うで、あの行動ぶれだと水を汲むだけでも大変なの、こっちは自然と水が信徒していくんで、その辺が違うのであのお金に関してはあまりかからないと思うけど、まあかかるのはかかるけど、その額が違うと思うんですよ。だから再開できるとすれば、やっぱ雄勝かなと思うんですよ。で雄勝の石はすごく良い石なんでね、我々が使ってるのも使いやすいですし、うちの国産はみな同じなんですけども、あの陸前高田の方はちょっとね、質的にはちょっとかなって感じです。ただ雄勝と富山は物はまるっきり違うけど使いやすい。やっぱり外国産から見たら、スペイン産とそっくり、似てるんです。ただあのアメリカとかフランスとかね、イギリスとか取ってるけど、あ、中国なんかも、硬い、すごい硬いんですよ。こっちは弾力性があるんです。で、スペイン産も弾力性があるんですよ。石に弾力があるっておかしいかもしれないけど、やっぱり柔らかいんです。 インタビュー一覧へ戻る

阿部 貴之さん

インタビュー一覧へ戻る 雄勝の浜のひとつである水浜出身者として、また、長男としての視点からのお話を伺うことができました。現在は宮城県漁業雄勝湾支所の支所長として務めていらっしゃいます。 近所づきあい Q:近所の人々の付き合いってのはどうでしたか 阿部氏:近所づきあいってのはいっぱいありましたよね、普通になんだろう、家にほとんどカギはかかってないですから、私も父親が仕事をしてて、母親も家で床屋みたいなのしてたんですよ、だから隣の家の人に育てられたみたいなもんなんですよ。だから会うと言われるんですけど、母親に怒られて家でして、探してるんだけどいなくて、隣の家に土足で入ってこたつにはいってたっていう、隣の家も誰もいないんですよ、でもこたつに入ってたっていう、こういう風に言われるくらい、私四人兄弟なんですけど、私はほんとに隣の家、次の弟は前の家とかって、ほとんど自分で育ててない。妹ぐらいになってくると自分のうちでとか、私と弟が育てるとかそんな感じだったんで、今でもかわいがってもらってます。 長男の役目と集まれる場所 Q:さきほど長男だから雄勝に戻ってきたいっておっしゃってたんですけど、それはどういった考え 阿部氏:まず、自分ちでお墓地元に作りますけど、世話っていうとあれですけど、兄弟も出てるし、そうすると地元に帰ってくるタイミングがなかなかないし、うちのいとこのおばちゃんとかにも千葉とかに出ててたまに帰ってくるのはうちだったんですよ、なんでそういう場所を残したいなっていうのはありましたね。けっこういとこの兄ちゃんとかも、そのおじさんもふたり息子いるんですけど、まぁみんなでどこにいくこともできないんで飲もうかってなるとどこにいくこともできないんで、まあうちで飲もうかって、そういうの昔からずっとやってると帰ってくるうちは残したいなって思いましたね。 Q:やっぱりみなさんが集まるような場所は必要 阿部氏:必要だと思いますよ、今こうしてなくなったからこそどっかそういう場所ってほしいよねってのあるんですけど、うちのいとこのおじさんとかはもともと養殖ずっとしてるんで、両方、一件はうちのこったんで、もう一人の方もうちをたてて、今はお邪魔する方になってます、やっぱりそういう場所がないとなかなか来れない、仕事にはきますけど泊まるっていう場所がないじゃないですか、そうすると一回一回帰んなきゃいけないってのがさみしいなって Q:こうやってみなさんが集まる機会ってのは震災前と比べてどうですか、減ったり 阿部氏:減ってますよ、集まって帰る場所がないじゃないですか今までだったら歩いて行ける距離にあったのがどうしても車でってなると来るのも大変だしな、帰るのも大変だしなって、何かがないと集まらない 来てほしい Q:最後の質問になるんですけども、そのこちらWEBSITEにものせるのでだくさんの人も見ると思うのでメッセージとか Q:いいたいことなんでも、こっちのこととか全然テレビで流れてないので Q:伝えたいこと、言いそびれちゃったこと 阿部氏:言いそびれちゃったこと、まぁまずは雄勝に来てほしいってこと、やっぱり現状見てもらって、こういう中でも頑張ってる人がいるっていうのもみんなに知ってほしいってのはありますね。そんで雄勝に来てもらっていいところをどんどん探してもらいたい、そしてそういうところをこっちでも大きくしていきたいっていうことくらいですね インタビュー一覧へ戻る

小木曽 清さん

インタビュー一覧へ戻る 教員になられて31年目、大須小学校の教頭先生になられて今年で2年目です。震災後、小木曽さん自ら被災地の小学校での勤務を希望したそうです。雄勝出身者ではありませんが、雄勝の子どもたち、町の人たちを客観的な視点から語ってくださいました。 自慢のふるさと 漁業やってくとか自分の跡次とかあんまりいないよね、親も自分のやりたい仕事につけっていう親だと思うから、そうすると就職先がないのでね、でもやっぱり自分の田舎はここだっていう風にね、帰ってきてはいるけど、夏休みになるとね小学生とかきてるので、田舎でかえってきてるんだるなって、そういう感じでおじいさんおばあさんのところに帰省するっていう場所なんだろうなって、それがこどもたちにとって、今の小中学生が大人になって出て行ったときに、自慢の故郷になってほしいなって思いますね、でていったとしても自分の生まれ育ったとこはこんなに自然に恵まれているっていう誇りに思ってね出て行ってほしい 浜ごとのつながり Q:客観的に見て大須の人とかって絆とかって強い印象はうけますか 小木曽氏:大須学区って4つの地区があって、大須地区熊沢地区桑浜地区、大須3区、大須地区は大須小学校、3区ってのはいまの3つの、3区は3つあるからじゃなくて、2区と3区があるから、それぞれの地区で仲がいい、漁するのもそれぞれの浜できまりがあるみたいで、ピーっていう笛の合図でだーって船をだして自分の好きな場所にってウニをとるとかわかめを取るってとこもあるし、最初っから船を出してて、サイレンがなるとばーってとるとか、それぞれの地区で決まりがあるらしい、やっぱりそういう浜の繋がりとかってのはかたい 復興状況 Q:現在の雄勝の様子、復興も含めてどう思われますか 小木曽氏:雄勝3区については徐々に復興漁業に関してはホヤも今年から、ホヤって3年かかるからね、あとは、銀ざけとか、大須3区では銀ざけしてないけど雄勝3区では復活してきてるし、あとは復興住宅とか建てるだけの段階になってきてるしね、そういう段階ではいいと思うけど、雄勝の町は全然だよね。ほとんどひといないでしょ、あるのはたなこや(仮設商店街)さん、硯組合のプレハブが増えたのかな、あとはみうら海産と、やおやさん、あとは水産会社が工場ができたよね、あれぐらいしかないよね、話によると8メーターから9メーターかさあげするっていうけど、ところどころ積んではあるけど、あれがかさあげなのかわからない、先が見えない、進んでるとは言えないと思いますね インタビュー一覧へ戻る

高橋 武彦さん

インタビュー一覧へ戻る 南三陸観光バス会社社長であり、奥様と雄勝町内の地区自治会もまとめていらっしゃいます。明るく「当たり前に感謝」とおっしゃる非常に前向きなご夫婦でした。 雄勝の町 高橋氏:生まれも育ちも雄勝町、震災にあうまで雄勝です。 Q:その中のどの部分 高橋氏:雄勝の中心で上雄勝地区、海岸から250メーター Q:その町の様子っていうのは小さいころからどんな感じでしたか 高橋氏:小さいころから育ったんで海の幸も山の幸もいいとこ、ただちょっと田舎で不便なとこもあるんだけど、そこがいいとこで・・・だからやっぱり雄勝町ものもの私らもかえることにしたんですけど ふるさと Q:やっぱり3年すんで慣れてきたっていうことで、生まれ育った前の場所と比べてもどうですか 高橋氏:やっぱり遠く感じるね、雄勝の町たまにいこうとするんだけど、結構遠く感じるんだよね。同じ距離なんだけど。でもいけばねいいなって Q:遠く感じるのは心の距離が遠くなっちゃったっていう感じですか 高橋氏:いやー1か月に1回私行くか行かないかちょっと今親戚がいて一か月休み・・・・て、だからちょっと雄勝はねようがないといかないんだよね、気持ちの中では遠くなったかもね、でもいざ帰るとやっぱりいいよね Q:故郷っていう感じはしますか 高橋氏:しますね、やっぱり何じゅうねん60年近く、わし今63だから、60年も生まれ育ったところなんで、まぁなんにもなくなってしまうとこんなに狭いところだったんだなって、まえはうちぎっしりだったでしょ道路んとこまで、だから雄勝町広いとこだなと思ってたけど、いざなくなってしまうとやっぱり 夫婦の連携 雄勝に帰って好きなことやろっかって女房と言ってるんだけど、で、いま雄勝地区の中心地に30世帯くらいもどるんですよ、これからうちつくるんですけど、でそのことで今一生懸命動いてるのがうちの女房でして、わしは何もしてないから、最初は何年越しの計画立てて、会社どうやってって1年後にこうしよ2年後にこうしよ3年後にこうしよ4年後にこうしよって、ないよね、わしはその時の勘で、代表っていうのは決めなくちゃ、専務とかなら社長今いないからわかりませんて、ところが社長がいいかわるいかって決定しなくちゃいけない、勘だよ勘 インタビュー一覧へ戻る

阿部 優一郎さん

インタビュー一覧へ戻る 雄勝に産まれ育ち、震災時は福島で高校教師として働いていた阿部優一郎さん。 震災で母親と弟夫婦を亡くしたことを機に、雄勝に戻り、漁師としての家業を継ぎました。新米漁師としての苦労や復興についてのお考え、家族のお話など様々なことを聞かせてくれました。 浜の人は家族 Q: 急に漁師さんをすることになった時に、ノウハウとか前に教えてくれる先輩の漁師さんとかいらっしゃいましたか。 A: はい。まあ逆にそれがないとやれる仕事じゃないので、あのーまあ親父もまあずっとやってきた仕事ですしね。まあ私も無いなり諸なり、小さい頃一緒に観て、まあ、た、多少知ってた分もあるんですけど、自分がいざやるなると、やっぱりあのー生活のリズムがまずほら、180度違うような世界よね。まあ最近、ようやくになってようやく、体の体内時計がリセットされてきて、漁師の仕事にこう変わってきたのかなっていう感じで。で、やっぱ周りの人っていうのは、こう特にこの雄勝というところはあのー昔ながらのね、こう近所とのつながりっていうか、まあ結局浜の人がこう皆家族みたいなところがあるので、であのうちも、うちの家族がね、こういう状況になってしまったのも皆知ってますし、で、まあ帰ってくる、やるってなれば、こう頑張れってな形で、随分こう手を貸すことはなくても貸してもらうっていうことはかなり多くて今日に至ってますけど… 海に対する思い うーーん、まあいろんな思いありますよね。うん、まあやっぱりあのーこの浜で育って、やっぱこう、まあ漁師気質というか、こうなんかこう気持ちがなんていうか、こう荒っぽいような人が多かった気がして、でまあ自分がその中で育って、まあ教師の道になった時に、結構やっぱね教師になった時に、ここで育ったそのなんていうか、こう人とのかかわり方っていうかまあそういう風に案外教師の道こう活かせたりしてね。非常に雄勝に産まれて良かったなーって思うことも多かったですし、後はまあ家族とか、周りにいた人たちの影響とかはもちろんあると思ってるので、海のこう近くで育ってよかったなっていう風な思いもやっぱありますしね。 まあその反面あとは、こう津波でまあこんなことになってしまって…っていう風なことで、残念な思いというか、うーん、まあ家族返してくれよっていう風な思いもありますしね。ちょっと複雑な思いはあるかな。 雄勝の現状と未来 全然満足してないですねー。で、さっき言ったようにこう人がこう住んで、街っていうかこうコミュニティとしてのこう体をなしてないというか。もう今は言える事はもう、先がやっぱりないというか、もう今残ってる人たちの年齢層を考えると、特にここ数年で何かしらこう手を打つところはうっていかないと、もう人口の自然増っていうのは、もう望めなくなっているという現実がありますからね。で、そこで何か、それこそもう、もう少し若い人たちが、まあ秀平くんみたいな世代の人たちが、やっぱなんか住んでみたいなっていうか、やっぱ雄勝に戻ろうとか、まあ出て行った人たちもね。何かこう、そういうもうのを埋めるようなものをこう作ってくって事をしないと、ただやっぱりこう今残ってた、残ったお年寄りの人が亡くなってもう本当にこう限界集落とかって言葉で言われてますけど、まあそういう地域にだけはしたくないなっていう…思いは強いですよね。 インタビュー一覧へ戻る

永沼 清徳さん

インタビュー一覧へ戻る サラリーマンとして東京でも働いていた経験のある永沼清徳さんは、現在養殖業と定置網漁をしている漁師さんです。春には綺麗なオレンジ色をしたホヤの養殖に力を入れていました。奥さんの永沼のり子さんと一緒に船の上で仕事をする「夫婦船」がとても印象的でした。 震災前の桑浜 永沼氏: いや、やっぱりあのねぇ、こんなに小っちゃいので、漁業以外にはなかったですね、漁業だけっていうか。まぁ、漁業っつってもこう色々ほらアワビを捕ったりウニを捕ったり、あと磯の、なんだろ海藻類をこう捕ったりして、まぁ、なんだかんだと一年中こう、何かしらはできるような浜なんですここは 生徒: なんかあの、十五浜あるっていう風に雄勝町の人にきいたんですけど、なんか桑浜は他の集落とかとこう違うとかっていうのってありますか 永沼氏: うーん、小っちゃい?規模が小っちゃいですね。あの、あるボランティアさんが「かわいい浜」という表現を使いました。かわいい浜。かわいいって 生徒: それはなんか、小さいからこそできることとかってあるんですか 永沼氏: まとまりはあるかな。うん、ほいで、意見が通りやすい。要するに、あのいろんな問題起きるんだけども、まぁ皆で話し合うと比較的まとまり早いですね。もう向かうととにかく仕事早いですんわ。 震災後の桑浜 永沼氏: 石巻とか国で決まるよりは、震災のね、四月の七日からもうあちこちの浜で瓦礫をどうしようかって問題なってるときに、ここの浜は四月の七日からスタートです。もう個人で連れて来て、業者を、やってと。んで四月の七日から、えーと、瓦礫の撤去を自前で初めて、この地区の人が頼んでね、業者を頼んで。そいで、六月の十日には瓦礫の撤去終わりました、全て。そのころやっと動き出してる浜のが多かったですから。仕事早いんですここ 生徒: それ、それって何で 永沼氏: あっ何でかなー。あの比較的皆こう自分の得意ってか、知ってる人が結構いて。じゃそっち頼んでみるよと。もう、し、じゅ、ここのところが小っちゃいってのは皆分かってっから、あの市とかにお願いしてもたぶん後回しにされる可能性が高いですよね。でもまぁそれこそかわいい浜なんで、だったらもうかえって自分のねコネをフルに使って業者呼んじゃおうと、そしたらたまたま知ってる人がいて、じゃやりましょうというんで始まりました、すぐ 生徒: 活発な 永沼氏: えぇ、比較的だから進みが早いんですよ。こうと思ったらもうやっちゃうって感じ 生徒: えっそっれてなんか、どう 永沼のり子氏: あれだよね、震災後皆で逃げるときもね、最後の最後まで、皆が知ってるから誰一人残さないように、こう皆で声掛け合って 永沼氏: 比較的まとまりは強いですね、団結が強いっていうか。かと言って皆友達ってなぁなぁではないんですよ。皆意見はしっかり持ってるし、ただ向かったら真っ直ぐですね、ここは 変わらない気持ち 永沼氏: うん、あの震災直後はね、やっぱり、テレビなんかでもよくあの出てたけど、負けてたまるか状態だったけど。うーんやっぱり、ねぇ別に海を憎んでる訳じゃないし、やっぱり今まで通りこう共存していかなくちゃいけないので、あんまりこう心境の変化ってのはないねぇ。だってほら色んなこと起きるんですよ。今回は津波だったけども、湿気でダメになったりね、あと施設同士が絡まったりして、自分、人間のこう自分たちが失敗してやる訳じゃない、もう自然の潮でほら絡まったりするので、なんだろ、毎日心配ですよね、それを言えば。えぇ、絡まって落ちてしまったらねぇ水揚げできないわけですから。津波だけが心配ではなくて、毎日が心配ですわ 目標 永沼氏: うんやっぱ今やってる仕事をこう継続っていうかね、そんなに無理しないで継続できるように。てっか無理はしたくないので、とにかくこう女房と二人で仲良くやりたい仕事ですよね。無理しちゃ、一日二日は無理できてもやっぱりね一週間二週間で無理できなくなるので、楽しく出来れば、目標は楽しく!まぁ、あと二人でこう、子どもたちがねもう大きくなって自分の手から離れていけば、もう二人で楽しく生活できればいいかなと思って インタビュー一覧へ戻る

中村 一成さん

インタビュー一覧へ戻る 奥様と仮設暮らしをしながら布団屋を経営されています。雄勝生まれ、雄勝育ち…60年住んだ雄勝は決して嫌いになることのできないふるさと。そんなふるさとが今置かれている現状、進まない復興への歯がゆさ、将来への不安を語っていただきました。 雄勝の現状 まぁ、この雄勝も今どうにか形の中でいろんな構想出てるんですけども、まぁ私の持論なんですけども、まぁ私も役職がらまちづくり委員会の委員だったりなんかしてまちづくりにいろいろ話し合いの中にはいってたんですけども、正直歯がゆかったですね、ものがすすんでいかない、そしてまちづくり委員会でみなさんの意見聞いてやってくんですけどのその中でこれがいいんじゃないかなってやってもらうのは本署にいってペケにされるのいっぱいあったんですよね。で、一転二転三転していくなかでこうやってくんですけど、まぁおたくたち見るように雄勝の町ってほんとにすすんでないでしょ、あの、いっぱいこう形はできてるんですよ構想は、でもなかなかすすまない。まぁ何が原因なのか私らもよくわかんないんですけど、まぁ一年ましに、わたしらもそうなんですけど、地元に残ってこう頑張ろうっていう人が1年2年経っていくとなんだ住めないんじゃないかとか全然動きがないから離れてく人が多くなった。一番怖いですね。 雄勝に残る理由 生徒:その、中村さんが雄勝に残る一番の理由ってなんですか 中村氏:私はね、今は形をどうにか戻してやりたいなって気はあんのね、ただ私は今ここにねこれからずっと雄勝にいるのかっていわれるとちょっとかんがえるのね、っていうのは私は今船越で生まれて60何年ここで住んでふるさとを嫌いな人は誰もいないのね。ただ自分がこれから年取っていくといろんな面での心配がある。だから今は自分がやれるうちはやりましょうって自分の力でできること微々たるもんですけど、だからそれを今はとにかくやりたいなって、自分なりにはね。で、あんまりかっこいいこというとあれなんですけど、かっこいい話じゃないですけどそういう質問されると、中村さんはこの雄勝の町をなんとかしようと一生懸命がんばってんだべなっていうとそんなことない何にもやってない、そうでなく自分が出来ることは何かそこなんですわたしは。 コミュニティーの崩壊 生徒:その周りの人とのつながりっていうのは震災前と後で変わったようなことってありますか 中村氏:いや、変わってないでしょ、うん、ただ遠くなったのは遠くなったよね。船越の場合は、今でも住んでる人は10人くらい、10人いないと思う。3世帯10人くらいだね。それで、まず私はもう、部落のこのコミュニティーが崩れるのが一番おっかなかったのね、っていうのは今質問あったように雄勝の船越に生活している、普段いろんなものを分け合ったり話し合ったりお茶飲んでたりしてたような、ポンと離れてしまったのね。したらそれが崩れてしまうのがおっかなかったもんですから、月に1回ずつ集会開いたんですよ、で、集会を開いて2年ぐらいそういうことやって、それでみんなのコミュニケーションを深めていったんですよ、でも、時が経ってしまうとなかなかそれもままならなくなってきたのもじじつです。船越を好きなんだけれども現実すれば足が遠のいてしまう。やっぱり海があって海にいろんなものとりにいってるうちはいいんだけど、石巻の都会に住んでね、ここに何もようないのにくるかっていうとこないよね、それが現実。だから昔のコミュニティーそのものっていうのは崩れてしまったね。 インタビュー一覧へ戻る

徳水 利枝さん

インタビュー一覧へ戻る ふるさとである雄勝をなんとかしようと、ローズファクトリーガーデンという素敵な庭園を造られました。ボランティアの方々と力を合わせ規模は拡大し続けています。みんなが立ち寄れる場所の必要性をお話ししてくれました。 足を止める場所が必要 出るのも雄勝に戻るのもみんながみんないずれも笑っての選択じゃなくてそれぞれがつらい選択をせまられた3年間かなと思います。3年経った今が今の雄勝の状況で、まぁ今みなさんみても、誰が来ても人がいないね、みんな変わらないねって言われるんですけど、でもこういう現状になっております。私はここをやり始めたときには何にもなくて、写真一応出したんですけど、全く何もないときでした。今は仮設商店街、・・・商店街があるんですけど、・・・商店街もないときでしたので、多くの人が仮設が外にあるから外に避難するんですけども、お墓だけは残るんですね。お墓だいじょうぶだったので、そうすると震災で亡くなった方もいらっしゃるので、お墓詣りに来るんですけど、ここら辺の人は昔お墓詣りしたら、そのお仏壇があるところによって、またお線香挙げてっていうのが普通の生活だったんですけど、震災後はお墓詣りしたらどこにもいくところがなくて、ばたばた帰っていくっていうような。私もはじめそうだったので、それはほんとに忍びないなと思ったので メッセージ1 Q:・・・伝えたいこととかってありますか 徳水氏:そうですね。あの、伝えたいこと急にふられても Q:雄勝町のことでもいいですし、このWebsiteを見る方にでもいいですし、なんでもほんとに 徳水氏:まぁあの、ちょっと忘れかけられているところですけれども、こういう町があるんだということをみなさんに分かってもらえたらうれしいなっていうのはひとつありますね。雄勝は何もなくなってはいるんですけれどもまだまだこれから進めていかなきゃいけない、行こうと思ってるところなので、ぜひ一度来て観てもらいたい。震災、どうしよ、伝えたいこと急に言われるとどうしましょ Q:今全然流れてないので、ここがどうなっているかってのも全然わからないですし、 Q:すごく、復興が完了しちゃったようなイメージなんですよ メッセージ2 Q:最初来てびっくりでほんとになにもなくて、 徳水氏:みたひとでないと、それですね、みたひとでないと復興はまだ終わってないのとか、ここまでいったよっていうのはみたひとしか話せないと思うんですよ、きてみないと震災の映像っていうのはせいぜい180度じゃないですか。でもすべてないってのは360度なんですよ、その360度なにもないっていうのはなかなか伝わらないので、まぁあの一番は来て観てほしいなっていうのがあります、そして、全部なくなったところで、そこで生活をもういっかいやろうっていうのってそれまでのかちかんっていうのも全部変わるんですね。全部作ってどんどんお金が入ってくるっていうような状況じゃないので、ある程度の生活で、それでも、いい別な尺度での幸福っていうのになっていくんですね、そういうものもあるんだっていうのもぜひ来て味わってみたらどうかなって思います。別の尺度での幸福、もしかしたらきて、短い2、3日の滞在でも感じることってあるかもしれない、余計なもの壊さないで乱さないである程度の循環していく中で、感じる幸せとか満足感っていうのが雄勝にはあるので、きてみて味わってもらえたらいいかなと インタビュー一覧へ戻る

佐藤 ちず子さん

インタビュー一覧へ戻る 雄勝町で生まれ育った佐藤ちず子さんは結婚後仙台から雄勝に戻り2人のお子さん、旦那さんと震災までずっと雄勝に住んでいましたが、震災後雄勝を離れ旧石巻市の東松島市に移転。 被災前の雄勝 あたし実家雄勝なんですけど、あの、私、父、両親とあとまあ、私3人兄弟なので、兄2人と私で住んでたんですね、前は。で、まあ、本当に家があって道路があって、目の前海だったんですよ。だから本当にもう5月ぐらいからちょっと暖かいと海に行って泳いだりとかして、まあでも今はその海もあのすっかり埋め立てになっちゃって、まあ、とうわさはなくなったので、そういうこともなくなたんですね。そしてのったんですけど、そうですね、あまり、うーん、まあ、不便だなとか不自由だなとかって感じる事は確かに、お店にしても、やっぱり大きいショッピングセンターとかそういう、まっこっちに買い物に来ないといけないし、病院にしても、うーん、やっぱりその病気によっては雄勝で診てもらえないものもあるので、結局こっちに来たり、あるいは仙台に行ったりってあるんで、まあ、不自由だなって感じる部分は確かにはありました。子供も家からちょっと高校に通えなかったりもしたんで、不自由だなって思ったんですけど、でもやっぱり暮らして、多分若いときの考えなのかなって今ね、ここに来て思うんですけど。やっぱりまあ、隣近所の付き合いはあるにしても、うーん、なんて言うのかな。まあ、静かに暮らすっていうんですかね、そういうのであればやぱり、あゆう所の方が、うーん、隣近所とのねお付き合いもちょっと濃密っていうかで。何にしろ、私の親戚も震災の後何人か残って、養殖、友達とかも養殖またしてるんですけども、やっぱりそういうのって頂いて、頂いて食べることも多かったんですね。だからうちの子供達なんかも、もうその味に慣れちゃって、こっちに着てからあの食べたいって言うんで、お店に行って買ってきたんですよ。そしたら「味が無い」って言うんですよ。美味しくないとは言わないんですけど味が無いと。あはは。うーん、うん。なんかいつもの味がしないていう、最もね海から取って数時間の内にはもう口にするんで、うーん。だから本当に最初ここに来た時はあのもうここは津波が来ない所だったので、もう本当にマックスバリューも開いてたし、あともうちょっとの農協さんがあるんですけど、そこも開いてたし。確かにお店に入れられる人数っていうのが限られてたんですね、やっぱり余震とかあった時のために非難のために、並んで買い物とかもしたんですけど。まあ、ある程度お金があれば何でもここは手に入るんですよ、不自由なく。でもやっぱり、そういうのを食べて育ってきた子供達とか私にすると、買ってまではなーここで買ってこれを買ってまではなっていう。うーん、ただ大きく変わったとは思いますよ。やっぱりね、年々人は減っていくし、皆さん便利さを求めるよりも自分が年を取った時の、あのことを考えてやっぱ出て、逆に出て行かれる方もいたと思いますので、まあ一概にはね言えないんですけど、うーん。でもそれでも反面若い人も戻ってきていたのも事実なので、うん、その、うん、まあ、何が変わった変わらないって言うのはちょっとわかんないですけどね、ただ、うーん、私達はずっとあそこで津波さえなければずっとあそこにいたんだろなって思うんで、うーん、と思ってました。 若者減少への想い まず働く場所がないですよね、それが一番ネックですよね。あと、まあ、地形的にもやっぱちょっと複雑な地形なので、だし、あと周りのその受け入れ側の考え方もあると思うんですよね。うん、やっぱり実家に戻って養殖しますとか、実家に戻って家業継ぎますとかって言った時に、やっぱり、あぁ良かったねって私たちは言えますけど、でもその家の当人はやっぱ先々の事を考えると思うんです、本当にこれで一生食べていけるのか、やっていけるのか。そうなった時に、いや、自分の代で終わりにするから戻ってこなくていいよって言う親御さんもいると思うし、うん、じゃあ息子が戻ってきたらもうちょと手広くしたいから戻ってこればって言う人もいると思うんですけど。だからやっぱり先の見通しが立たないから、うーん、戻る戻らないあの、その、ね、若者が増える増えないっていうのもあると思う。でも結構戻ってきてた人達もあったかな。あはは。うーん、とは思ってましたけどね。 雄勝のこれから 誰が行ってもうーん、なんていうんだろう、こう、本当にウェルカムな状態で受け入れてくれる様な所になってくれれば、もしかすると、その雄勝とは全く関係ない人も行って、住むようになるのかなーって。やっぱり昔ながらの田舎なので、やっぱりちょっとそういうところは、こう、集団意識じゃないけど、ちょっとそういうところがあるのかなって。 インタビュー一覧へ戻る

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