遠藤 弘行さん

インタビュー一覧へ戻る


雄勝で生まれ育ち、硯職人として現在は実家の跡地であった場所を借り、お店と作業場を構えている遠藤弘行さん。今年の3月までは約33年間消防団の一員でもありました。


後継者
仕事的にはここ、あのプレハブの仕事場で、しようと思えばできるんだけども、販売する店って言うのは今6畳でしょ。ちょっと狭くて、あの、自分の彫ったのを見てもらうのに、もう少しスペース広くないとダメで。最初の段階では品物がないから、あのこれで十分だったの。段々増えてくると、やっぱりあの色んな品物見てもらいたいから、結局展示する場所をもっとこれの3倍ぐらい欲しいんだけども。まだあの、色々、こっちの道路の関係で、道路が新しく作られるらしいから、そうなるとこの場所でできるのかどうかもっていうのもわからないね。やっぱりちょっとして店が欲しいだけども、それもちょっと悩んでるところで。何でかって言うと、後継者。あのー今から自分だけだとあと、数えてみると先数えたら、10年20年しかできないのかなって思うとね、なかなか設備的なものはあるから。息子でも仕事後継いでればいいんだけど、別の仕事してるんで。まだ今の状態では後継者がいない状態っていう。。そういう状態です。

俺が来た36年前でさえ、珍しがられたっていうか職人として戻って来たっていうが。むしろ硯産業は推定してきてて、辞めていく人がいたぐらいの時期にその昭和53年っていうのは。あまりあの硯的にはいい仕事じゃないっていうのはその頃からもう30何年前からあって。たまたま俺が戻って来た。だから俺が始めた36年前から今まで正式には職人は誰もいない。新しく育った人。俺が最後みたいな感じなんですよ。それまでは大学卒業して10年ぐらい前かな、帝京大を卒業して来たって言う人が雄勝の人じゃなくて、東京の方の人なんだけども。4年間ここで硯の仕事をしてたんだけども辞めていっちゃったとか、やった人はいるけども、ずっと今継続してやってる人がいなくなっちゃった。いなくなっちゃったっていうよりも俺もだから36年前に珍しがられて新聞の記事になるぐらい、ユーターンしてきたっていう。載ったことがあって。それからその頃から硯の仕事って珍しいっていうか、やる人がいなかった。逆に今震災後はあれでしょ、ここ今年ぐらい少しこう硯の方に若い人がいるし、今年の春、地元の子供が大学卒業して、帰ってきて、硯の組合に入ったって言うところまでは情報きてるんですけど。まあだから後継者、その人たちが今やっと育てば、あの本当に40年近くぶりに職人っていう。なる可能性はある。


消防団
消防団ね、あの今年の3月退団ってあの、辞めたんですけど。32年と11ヶ月なんか続けてきたっていうか。こっちに24歳で帰ってきて、数年3年ー4年ぐらいにしてから消防団に。やっぱ地元で仕事をしてる人が消防団に入んないと、その消防署だけじゃ間に合わないんです。なぜかというと、各浜に水門とか門扉っていうのがあって、それを閉めるのに、本当の消防署の職員ってそんなにいないでしょ。あの消防車一台しかいなんで、だからあの、各浜に行って閉めるっていうのは、やっぱりそれぞれその浜の人の住んでる人の担当なんで。そうすると自営とかやってる人がそういうのに入んないとあの、会社委員の人だと昼間いないんで、まあ、地元で仕事を始めたから、あの結婚するあたりにそういう話があって、27歳か28歳ぐらいの時に入ったんです。それから32年で。今回辞めたのが、まあちょっと色々消防団が合併するっていうので、自分もここに住むことを決めてないんです。仕事場はあるんだけども、住まいは別なちょっとあの遠い方に希望してるんで、そこから通う予定ないんで。まあ、消防団が合併するのを期に32-3年入ってたんで、いいかなってなって。60過ぎてね。あはは。それで3月に退団、辞めたんですね。


継がれるこだわり
自分は50歳の時に、その50歳の時が自分は東京の方に行ってる時の、まあ、丁度子育て終わってから要するに商売買いしようと思ってたらしくて、俺が向こうに行ってる時に、独学でやったんですよ。あの硯の仕事っていうかだから、道具から自分で作って、先生が和尚さんがいない独学で硯の彫り方して、自分で始めたっていう。だからあの石をとってた時は、もちろん組合の人たちの下ろしやってる人に硯の原石を販売してたんですけど、やっぱり自分の考えっていうのを出したいんで、自分で直売所っていうのを始めたっていう。それがあるときその、まあ、神奈川にいたんですけど、そっちから帰ってきた時に自宅のまああの玄関ってちょっと昔の家なんで4畳半ぐらいある、その両側に棚ができて、硯が、普通の玄関開けると硯がこう、並び始めてたっていうか、手作りの棚でね。それがあの、自分にねすごいインパクトあったのが。子供の頃はあの、ここのうちの実家に住んでたんで、ここから降りていくと、硯彫ってる職人さんがそこにいて、沢ってね、沢の向かい側に工場があって、その人が彫ってたはあの、長方形のうーんと、まあ小学生の硯が中心だから、こういう硯を彫ってたわけですよ。その俺が子供の頃に彫ってた職人さん。だからこれと同じ規格品っていって、大量生産で、同じものを彫ってた。これしか見た事なくて、親父の所とか家に帰ってくるとこういう。なんでしょう、長方形の硯がほとんどなくて、こういう彫刻とか入ったのが並んでて、それをみてなんか衝撃を受けたんですけど。で、自分がその24歳にこっちで帰ってくるちょっと前にね、その数年間あるでしょ、その間に来るたんび、色んなの彫刻みて、あの自分の気持ちがこう、段々ね、あの彫刻してみたいみたいな、たまたま広告会社にいたんで、そういうデザインまでいかないけど、彫刻の方にすごい興味があったっていうのもあって、色ついたのとか利用するでしょ。こういうのが今までに小さい時みてた硯と全然違うんで。だからインパクト結構強くて。まあ、この硯だけだったら多分戻ってきてないです。だからうちの親父がこういう商売を50歳から始めたから、自分もこの道に入ってきたていう。親父がやんなければ、俺もいなかった。長男じゃないし、帰ってこなくてもよかったんだけど。だから親父の考えがすごい俺の中には入ってて、そのこだわりっていうのはまだ親父の後を継いでるんで。そのこだわりがたまたま去年本出してもらったのにつながってるんですけど、親子の想いっていう。雄勝の硯の中でも一番こだわってるやり方してますね、っていうのを取り上げて本にしたいっていうことで。それが一番のこのこだわりなんです。


復興の状況

Q: あの、まあ、今震災から3年経って、雄勝の現、この復興の現状だとか、そういうのどう思われますか?

A: あのーどこも一緒だと思うんですけども、結局目に見えてはそんなに復興にしてるように見えないでしょ?とりあえず片付いたかなって。ただあのー自分は浜の方の仕事のあれはよくわかんない養殖とかね、そっちは進んでると思うんだけども。その他の仕事、元々ここにはあまりなかったんだけども、あの唯一ね昨日も自分行ってきたんですけど、自分が石持ってきてる石ってさっきから波板石って言ってるでしょ?波板って言う地区があるんです、もう少しこの道路をえーと、6分ぐらい行った地区、雄勝とあの女川町っていう所の栄えの最後の集落なんですけど、そこで地区がね。そこはね20数世帯しか元々なくて、今3世帯かなんか住んでるらしいんですけど、4世帯、5世帯ぐらい残ってるんですよ建物。そいで、後集団移転で6世帯か7世帯戻るらしいんですけど、その戻る工事が進んでないんだけども、このコミュニティーセンターっていうのだけ、完成したんですよ、これ。これがいち早く完成して、あのこの人たちがね、ここから波板地区から俺が持ってきてる硯の石山にいっぱいあるんです。それを利用して、この体験学習を地元の人たちがしようと思って、まだ自分たちの住まいは仮設なんだけども、これだけあの兵庫県からの義援金が宮城県にきた、その宮城県で公的なのを義援金をこう使わせてもらうっていうことで。何ヶ所かこうあのまあ、希望っていうか応募あった所から選ばれて、波板地区集会場兼体験学習に使うっていうので、市長を通して、これあのもう先月できたばかりで。これが唯一進んでるかなって見える、しかも集会場で雄勝のししょうなんかではこれも公民館がないので、公民館代わりに来月やっぱり公民館で元々やってたあの夏休みの子供達集めて、ありんこ塾ってあるんですけど、それも来月あるとかっていって、ここで体験したり、ここあの石を割ったりね、それから絵を描いたりとか、体験させるそういうのをやろうと思って、地区の人が。あとは収入もちょっと欲しいと。そのみんな年金暮らしするような人が多いんで。そいで、建物はだからその戻ってくる個数の割とデカイの建ててもらったんだけども、維持していかなくちゃないんで、一応色んなあのこういう体験学習で来てもらったりして、宿泊する時はいくらか貰ってとか、素泊まりなんで。それが一番俺として今目に見えてこう、す、前に進んでる。で自分的にはこの地区の石を利用してるんで、一応あの硯の方では協力はしてるんですけど、だからこのなかでも若干とろろ昆布とか海の物と硯とか石の販売、ちょっと玄関先にね置いて、一応売り始めたっていうか。だから硯は遠藤さんっていうことでやってもらって、何しろこの波板の石を使ってるっていうのをこの地区の人がうちの親父も使ってるし、俺も使ってるし、親子二代でこの自分の所の石を使ってくれてるっていうことで、まあできる範囲では協力しようと思ってるんですけど。それが唯一この場所で今復興的な感じで動き始めてるのかなっていうのは、目に見えてね。ただあの後はこっちの方はまだあれでしょかつ上げとか、あれってわかんない。それぐらいの状況でしょうね。


インタビュー一覧へ戻る

阿部 貴之さん

インタビュー一覧へ戻る


雄勝の浜のひとつである水浜出身者として、また、長男としての視点からのお話を伺うことができました。現在は宮城県漁業雄勝湾支所の支所長として務めていらっしゃいます。


近所づきあい

Q:近所の人々の付き合いってのはどうでしたか

阿部氏:近所づきあいってのはいっぱいありましたよね、普通になんだろう、家にほとんどカギはかかってないですから、私も父親が仕事をしてて、母親も家で床屋みたいなのしてたんですよ、だから隣の家の人に育てられたみたいなもんなんですよ。だから会うと言われるんですけど、母親に怒られて家でして、探してるんだけどいなくて、隣の家に土足で入ってこたつにはいってたっていう、隣の家も誰もいないんですよ、でもこたつに入ってたっていう、こういう風に言われるくらい、私四人兄弟なんですけど、私はほんとに隣の家、次の弟は前の家とかって、ほとんど自分で育ててない。妹ぐらいになってくると自分のうちでとか、私と弟が育てるとかそんな感じだったんで、今でもかわいがってもらってます。


長男の役目と集まれる場所

Q:さきほど長男だから雄勝に戻ってきたいっておっしゃってたんですけど、それはどういった考え

阿部氏:まず、自分ちでお墓地元に作りますけど、世話っていうとあれですけど、兄弟も出てるし、そうすると地元に帰ってくるタイミングがなかなかないし、うちのいとこのおばちゃんとかにも千葉とかに出ててたまに帰ってくるのはうちだったんですよ、なんでそういう場所を残したいなっていうのはありましたね。けっこういとこの兄ちゃんとかも、そのおじさんもふたり息子いるんですけど、まぁみんなでどこにいくこともできないんで飲もうかってなるとどこにいくこともできないんで、まあうちで飲もうかって、そういうの昔からずっとやってると帰ってくるうちは残したいなって思いましたね。

Q:やっぱりみなさんが集まるような場所は必要

阿部氏:必要だと思いますよ、今こうしてなくなったからこそどっかそういう場所ってほしいよねってのあるんですけど、うちのいとこのおじさんとかはもともと養殖ずっとしてるんで、両方、一件はうちのこったんで、もう一人の方もうちをたてて、今はお邪魔する方になってます、やっぱりそういう場所がないとなかなか来れない、仕事にはきますけど泊まるっていう場所がないじゃないですか、そうすると一回一回帰んなきゃいけないってのがさみしいなって

Q:こうやってみなさんが集まる機会ってのは震災前と比べてどうですか、減ったり

阿部氏:減ってますよ、集まって帰る場所がないじゃないですか今までだったら歩いて行ける距離にあったのがどうしても車でってなると来るのも大変だしな、帰るのも大変だしなって、何かがないと集まらない


来てほしい

Q:最後の質問になるんですけども、そのこちらWEBSITEにものせるのでだくさんの人も見ると思うのでメッセージとか
Q:いいたいことなんでも、こっちのこととか全然テレビで流れてないので
Q:伝えたいこと、言いそびれちゃったこと

阿部氏:言いそびれちゃったこと、まぁまずは雄勝に来てほしいってこと、やっぱり現状見てもらって、こういう中でも頑張ってる人がいるっていうのもみんなに知ってほしいってのはありますね。そんで雄勝に来てもらっていいところをどんどん探してもらいたい、そしてそういうところをこっちでも大きくしていきたいっていうことくらいですね


インタビュー一覧へ戻る

阿部 優一郎さん

インタビュー一覧へ戻る


雄勝に産まれ育ち、震災時は福島で高校教師として働いていた阿部優一郎さん。
震災で母親と弟夫婦を亡くしたことを機に、雄勝に戻り、漁師としての家業を継ぎました。新米漁師としての苦労や復興についてのお考え、家族のお話など様々なことを聞かせてくれました。


浜の人は家族

Q: 急に漁師さんをすることになった時に、ノウハウとか前に教えてくれる先輩の漁師さんとかいらっしゃいましたか。
A: はい。まあ逆にそれがないとやれる仕事じゃないので、あのーまあ親父もまあずっとやってきた仕事ですしね。まあ私も無いなり諸なり、小さい頃一緒に観て、まあ、た、多少知ってた分もあるんですけど、自分がいざやるなると、やっぱりあのー生活のリズムがまずほら、180度違うような世界よね。まあ最近、ようやくになってようやく、体の体内時計がリセットされてきて、漁師の仕事にこう変わってきたのかなっていう感じで。で、やっぱ周りの人っていうのは、こう特にこの雄勝というところはあのー昔ながらのね、こう近所とのつながりっていうか、まあ結局浜の人がこう皆家族みたいなところがあるので、であのうちも、うちの家族がね、こういう状況になってしまったのも皆知ってますし、で、まあ帰ってくる、やるってなれば、こう頑張れってな形で、随分こう手を貸すことはなくても貸してもらうっていうことはかなり多くて今日に至ってますけど…


海に対する思い
うーーん、まあいろんな思いありますよね。うん、まあやっぱりあのーこの浜で育って、やっぱこう、まあ漁師気質というか、こうなんかこう気持ちがなんていうか、こう荒っぽいような人が多かった気がして、でまあ自分がその中で育って、まあ教師の道になった時に、結構やっぱね教師になった時に、ここで育ったそのなんていうか、こう人とのかかわり方っていうかまあそういう風に案外教師の道こう活かせたりしてね。非常に雄勝に産まれて良かったなーって思うことも多かったですし、後はまあ家族とか、周りにいた人たちの影響とかはもちろんあると思ってるので、海のこう近くで育ってよかったなっていう風な思いもやっぱありますしね。
まあその反面あとは、こう津波でまあこんなことになってしまって…っていう風なことで、残念な思いというか、うーん、まあ家族返してくれよっていう風な思いもありますしね。ちょっと複雑な思いはあるかな。


雄勝の現状と未来
全然満足してないですねー。で、さっき言ったようにこう人がこう住んで、街っていうかこうコミュニティとしてのこう体をなしてないというか。もう今は言える事はもう、先がやっぱりないというか、もう今残ってる人たちの年齢層を考えると、特にここ数年で何かしらこう手を打つところはうっていかないと、もう人口の自然増っていうのは、もう望めなくなっているという現実がありますからね。で、そこで何か、それこそもう、もう少し若い人たちが、まあ秀平くんみたいな世代の人たちが、やっぱなんか住んでみたいなっていうか、やっぱ雄勝に戻ろうとか、まあ出て行った人たちもね。何かこう、そういうもうのを埋めるようなものをこう作ってくって事をしないと、ただやっぱりこう今残ってた、残ったお年寄りの人が亡くなってもう本当にこう限界集落とかって言葉で言われてますけど、まあそういう地域にだけはしたくないなっていう…思いは強いですよね。


インタビュー一覧へ戻る

佐藤 ちず子さん

インタビュー一覧へ戻る


雄勝町で生まれ育った佐藤ちず子さんは結婚後仙台から雄勝に戻り2人のお子さん、旦那さんと震災までずっと雄勝に住んでいましたが、震災後雄勝を離れ旧石巻市の東松島市に移転。


被災前の雄勝

あたし実家雄勝なんですけど、あの、私、父、両親とあとまあ、私3人兄弟なので、兄2人と私で住んでたんですね、前は。で、まあ、本当に家があって道路があって、目の前海だったんですよ。だから本当にもう5月ぐらいからちょっと暖かいと海に行って泳いだりとかして、まあでも今はその海もあのすっかり埋め立てになっちゃって、まあ、とうわさはなくなったので、そういうこともなくなたんですね。そしてのったんですけど、そうですね、あまり、うーん、まあ、不便だなとか不自由だなとかって感じる事は確かに、お店にしても、やっぱり大きいショッピングセンターとかそういう、まっこっちに買い物に来ないといけないし、病院にしても、うーん、やっぱりその病気によっては雄勝で診てもらえないものもあるので、結局こっちに来たり、あるいは仙台に行ったりってあるんで、まあ、不自由だなって感じる部分は確かにはありました。子供も家からちょっと高校に通えなかったりもしたんで、不自由だなって思ったんですけど、でもやっぱり暮らして、多分若いときの考えなのかなって今ね、ここに来て思うんですけど。やっぱりまあ、隣近所の付き合いはあるにしても、うーん、なんて言うのかな。まあ、静かに暮らすっていうんですかね、そういうのであればやぱり、あゆう所の方が、うーん、隣近所とのねお付き合いもちょっと濃密っていうかで。何にしろ、私の親戚も震災の後何人か残って、養殖、友達とかも養殖またしてるんですけども、やっぱりそういうのって頂いて、頂いて食べることも多かったんですね。だからうちの子供達なんかも、もうその味に慣れちゃって、こっちに着てからあの食べたいって言うんで、お店に行って買ってきたんですよ。そしたら「味が無い」って言うんですよ。美味しくないとは言わないんですけど味が無いと。あはは。うーん、うん。なんかいつもの味がしないていう、最もね海から取って数時間の内にはもう口にするんで、うーん。だから本当に最初ここに来た時はあのもうここは津波が来ない所だったので、もう本当にマックスバリューも開いてたし、あともうちょっとの農協さんがあるんですけど、そこも開いてたし。確かにお店に入れられる人数っていうのが限られてたんですね、やっぱり余震とかあった時のために非難のために、並んで買い物とかもしたんですけど。まあ、ある程度お金があれば何でもここは手に入るんですよ、不自由なく。でもやっぱり、そういうのを食べて育ってきた子供達とか私にすると、買ってまではなーここで買ってこれを買ってまではなっていう。うーん、ただ大きく変わったとは思いますよ。やっぱりね、年々人は減っていくし、皆さん便利さを求めるよりも自分が年を取った時の、あのことを考えてやっぱ出て、逆に出て行かれる方もいたと思いますので、まあ一概にはね言えないんですけど、うーん。でもそれでも反面若い人も戻ってきていたのも事実なので、うん、その、うん、まあ、何が変わった変わらないって言うのはちょっとわかんないですけどね、ただ、うーん、私達はずっとあそこで津波さえなければずっとあそこにいたんだろなって思うんで、うーん、と思ってました。


若者減少への想い

まず働く場所がないですよね、それが一番ネックですよね。あと、まあ、地形的にもやっぱちょっと複雑な地形なので、だし、あと周りのその受け入れ側の考え方もあると思うんですよね。うん、やっぱり実家に戻って養殖しますとか、実家に戻って家業継ぎますとかって言った時に、やっぱり、あぁ良かったねって私たちは言えますけど、でもその家の当人はやっぱ先々の事を考えると思うんです、本当にこれで一生食べていけるのか、やっていけるのか。そうなった時に、いや、自分の代で終わりにするから戻ってこなくていいよって言う親御さんもいると思うし、うん、じゃあ息子が戻ってきたらもうちょと手広くしたいから戻ってこればって言う人もいると思うんですけど。だからやっぱり先の見通しが立たないから、うーん、戻る戻らないあの、その、ね、若者が増える増えないっていうのもあると思う。でも結構戻ってきてた人達もあったかな。あはは。うーん、とは思ってましたけどね。


雄勝のこれから

誰が行ってもうーん、なんていうんだろう、こう、本当にウェルカムな状態で受け入れてくれる様な所になってくれれば、もしかすると、その雄勝とは全く関係ない人も行って、住むようになるのかなーって。やっぱり昔ながらの田舎なので、やっぱりちょっとそういうところは、こう、集団意識じゃないけど、ちょっとそういうところがあるのかなって。


インタビュー一覧へ戻る

加納 竜司さん

インタビュー一覧へ戻る


雄勝町にある店子屋(仮設商店街)でお寿司屋さんを経営している加納竜司さん。長い修行を経て開店したお寿司屋さんは津波によって、流されてしまいました。雄勝町でお店続けようと思った理由や雄勝の現状などについてお話していただきました。


伝八寿司を続ける理由
あのね、まずはその、外にあるんだけど、うちの看板すか。伝八寿司って同級生に売ってもらった看板なんで木のね、それが流されてたんだけど、なんか見つかったっていうのがまず一つで、あとうち卵焼きに伝八って焼印をしてんだけど、それがほんと店の、流された店のところに、地面に刺さってたのね。あれ、これって。そういうのもあったし、包丁とかも残ってたし。んで、まぁ一番はあの、食べ物屋さんがね、誰もやらないって言うんすよ。他の。要はあの、みんな歳なんすよ、60過ぎる人たち…俺が飲食店で多分一番若かったんで、でみんななんか、いや俺は仮設店舗になんかはいらねー、今更やったって無駄だべ、とかみんな…でそれでまぁ、まぁ雄勝に残ってる人たちにも、雄勝食い物屋ねぇと大変なんだろうなっていう話もされてたから。もういっぱつ、じゃぁとりあえずで、最初はね、でとりあえずやってみっかって。そんだけ大変だって言うなら。まぁ最初の動機はそうだな、でやってみようって…まぁ俺もほら、家族いるから。食わせていかないといけないからね。無謀なチャレンジはできないっすよ。


雄勝町に残るか残らないか
あの雄勝に残ることに関しては、全然苦じゃないんですよ。まぁ自分が生まれ育った町なんで、全然もう、嫌だとかそういうのはないんです。ただ、うちの、なんていうんすか、家族がなんかまぁ、もう戻りたくねーっていうこともやっぱあるんすよ…うちの親とかは、その、一旦、今うちは俺ら雄勝にはいないんでね、河北町ってとこにいるんすけど、あの…その高台移転ってあるじゃないですか、そん時に、あんたら好きな方選んでいいよ、言ったんですよ、親に。雄勝に戻るのもいいし、こっちの河北町に残るのもいいし…そしたら迷わず河北町選んだから、なんでや、って言ったら、いや、もう今度あんな津波来たら逃げらんね、っていうのと、あともう病院もねーし、なにもねーし、大変、年寄には大変だと思う。


加納さんにとっての雄勝町
ああ、やっぱりねー。一番落ち着、落ち着くっていうのが一番かなぁ。でやっぱあの、やっぱり、昔っからいるし…で残ってる漁師さんとか結構残ってるし、別に雄勝いて、こう退屈するっていうことがそんなないすよね、うん。なんか普通にいる、みたいな。たのしい…楽しいわけじゃないですけど、まぁいて一番楽なところです。雄勝。その河北町とかにいるより、雄勝にいた方が楽だっていうことです。楽っていうか、気持ちが。まぁあんな津波とかもあったんだけど…一番いやすいところです。だから残ってるっていうところは、まぁそういう感じですか。


伝えたいこと
ぜひ、機会があったら雄勝にきてもらって、自分の目で見てもらって、まぁ雄勝のいいところとか、あ、こんなに復興とかがこんなに進んでないんだな、とかを見てもらって、まぁ…こうなんつったらいいんだろうね、言ってもらいたいつーかね。まぁ自分たちも言っていきますけど、外の人にもなんか知ってもらいっていうか、かな。


インタビュー一覧へ戻る

永沼 信良さん

インタビュー一覧へ戻る


震災後から部落の会長として桑浜で暮らしている永沼信良さん。震災後の会長業の苦労や部落のことについて教えていただきました。


震災前からの過疎化

永沼氏: 震災があったから当然まあ余計にそうなったんだか分かんないけども、いくらかは少しずづはみんな都会行ってるのさ。若い人たちは。で高校もないっていうのは自分の娘たちは高校に入って今石巻の高校いって帰るのが大変だっちゃ。そうするとアパートを借りて学校さ通ってるからお母さんもそこさ行って、ご飯とか食べさしているから、してるから。そういうのはあの状況なんだよ。震災前と、震災前と対して変わらないと思うよ。震災になってここから家も流されてねすぐ石巻さ行った人たちもあるけどね。だから子供たち、若い人はもう帰ってこないっていうもう9割がた帰ってこないんじゃね。
生徒: それは必然的に?
永沼氏: うんそう。
生徒: じゃあほかの浜で住んでる方はもうしょうがないと思っている人たちが?
永沼氏: うん、しょうがないっていうより、今の世の中の動きならそうなるほかしかないのかな


部落の特徴
生徒: ほかの浜と比べて桑浜のこういったところがいいっとかってありますか?
永沼氏: うん、どう比べても。うんなんていうのかな。まあここはほれ10軒ぐらいしかないけどもねまとまってるからいいんじゃないですか?
生徒: まとまって?
永沼氏: うん、まあっていうことは何があってもみんな協力しあって一緒になんでもやるっていう。ほかの部落は部落が大きいと色々問題があるけどもここはほれ最初からもう部落が小さいからね。
生徒: 雄勝町の中でも小さい?
永沼氏: 小さい。15がちいさいぐらいだからまあ20軒足らず。震災が遭ってから10軒、5軒が仮設に入って。後4軒石巻の方へいって。


震災後の会長業
永沼氏: 震災、私は本当は震災前は会長は震災前はやってないわけよ。震災があってここにいた会長が石巻の方へ行ったわけさ。急にうちの自分さ会長やってくれって言われたわけさ。俺も頭真っ白になって。こういうむちゃくちゃになってる部落をさ、そこで初めすぐ最初からなんかやってればよかったけど、急に会長やれったってなんの会長やればいいのか最初分からなかったのさ。でも羽坂の会長さんね、よく会長は羽坂の最初は震災の親分羽坂だったからね。あっちは会長、俺副会長で全部うちでやって。でも羽坂と桑浜は会長は会長同士で桑浜は桑浜でやらなきゃいけねえさね。その時にもうがれきをもう道路めちゃくちゃなってるからね。こいつ何するのかなってそれだけ頭がいっぱいだったね。でもういなくなった方がいいかなって。でも会長というのはええ付き合いだから、それこそ一生懸命やりましたね。


完全復興とは
永沼氏: ま、海の人たちだから、当然あの海岸をね、綺麗にしなければ直してもらえれば、みな張り合いがあるんじゃねぇの尚更。うん。そうやろ?
生徒: 海岸が直って、あそこがあれば
永沼氏: 今日ださの船さ乗れぇんだもの波で。波来て
生徒: あぁ、波が高くて?
永沼氏: うん、毎日満潮だったの高潮だったのね。当然、もう海岸越えてくるから。うん、そーいうだ、そういう、まぁ、そういうあれもあるから、とにかく早く海岸を直してもらえれば、いつでも海に行けれるという状況。だから、わし、自分もね、ほんとはあのー、海岸先ね早く直してもらわないと、船もおっきいのつくったわけさ、いつなおっか分かんないから、ダメだなーってあきらめてる、歳も歳だからね。今、一番思ってることは、海岸を早く直してほしいかな、それが一番のあの復興、完全復興だね、そう直ってもらえればっていうことですね。とにかく、マイペースで動くしかないです、あとは。自分たちでどうにもならないから


インタビュー一覧へ戻る

今野 瑠理さん

インタビュー一覧へ戻る


これから養殖業を始めたいと考えている今野瑠理さん。雄勝町の豊かな自然が好きで、震災後も雄勝町に住み続けたいとおっしゃていました。


雄勝に残る理由

生徒: 雄勝町にずっと住み続けようと思った理由は何ですか?
今野氏: 一番はやっぱりこうおばあさんのそばにいたいっていうのもあるし。この桑浜っていうこの場所が好きなんですよ、一番は。自然が好きなんで、そうですね。もうあっちっていうか石巻の方には住む気がないっていうか、おばあちゃんになるまではずっとここにいたいですね。
生徒: 石巻市内の方へ買い物に行くとおっしゃてましたが、石巻はこの町とは違いますか?
今野氏: そうですね、確かに石巻のあっちの方に行けば、買い物も普通にできるし、豊富なものはいっぱいありますけどやっぱその空気はあっちはちょっとあれなんですよ、自分は合わないというか。やっぱここにいて少し散歩するだけでもすごいリフレッシュできるっていうか、その安心感もわくし。あと何より人の良さがすごいここいいので、あっちに出ると知らない人ばっかりっていうのもあるんですけど、人のふれあいが欲しいというか。このはい、人の良さが一番いいので、やっぱここにいたいと思うんですよね。


町から引っ越す人
生徒: この町から引っ越す人と引っ越さない人の違いは何ですか?
今野氏: 養殖業が全部一旦だめになったんで、もう一回するのにはすごい多額のお金もかかるし、それでやっぱ出稼ぎっていうかあっちで仕事して暮らした方がお金もかからないし。あとはここはあの、おんちゃんっていうか年結構いった人っていったらおかしいんですけど、結構あの老人とかしかいないんで、あっちの方が住みやすいというか、あっちの方にその娘息子がいるから引っ越すっていうのが多くて、なんででも一番は漁業ですかね。できなくなったんで引っ越そうっていう
生徒: これからるりさんはどのようにこの町で暮らしていきたいですか?
今野氏: そうですね、うん。私も養殖したいと思ってるんですよ。少しの養殖でもなんていうんですか、お金にならないのはわかってるんですけど、少し人残ってほしいので、自分が若いほうなので若者が養殖とかなんかしたら少しぐらいこうなんていうんですか、こういう若者もいるんだっていうことで、桑浜じゃなく雄勝町にこう戻ってきてほしいっていうのが望みというか、少しその気持ちはあるんですよね。


復興の様子
今野氏: 実際本当に復興ていうのが進まってるか分かんないんですよ。道の桑浜漁港もまだこう整備もされてないんで、なんで違う地域は整備されているところは整備されてるし、今してるとこもあるんですけど、桑浜っていうとこはなかなか進まないんですよ。だから確かに漁業の養殖は始まってるっていう復興はできてるんですけど、漁港はまだこう石だらけってのもあるし。そうですね。


ボランティア
生徒: ボランティアとしてはこれからどのような形で携われると思いますか?
今野氏: そうですね、本当来てくれるっていうその気持ちだけでうれしいんですけど、やっぱボランティアの人たちも話しかけてくれるんですよ。それはすごく自分にとってうれしいし。もちろんここもきれいにすごいしてくれたし、こう個人で来てくれる人もいるし、団体で来てくれる人もいるんで本当感謝してるというか、ここもなにかできるみたいですけど、できた後もどんどんボランティアさんに来てほしいですね。何も仕事がなくても遊びに来てほしいというか、それだけでも人口増えるというのもあるし、一瞬だけでも。なんで本当来るたび、毎回楽しいですね。


インタビュー一覧へ戻る