佐々木 信平さん

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元々大工をやっていたが天然スレートの職人に転職した佐々木信平さん。雄勝には5人しかスレート職人がいなく、佐々木さん自身は雄勝出身ではないが、雄勝の様々な場所で関わっています。


昔の家

M: その震災の前だと屋根はほとんどスレートだったんですか?
S: ほとんどってわけでもないですけど、あの新しく建てたところはスレートは使わなかったけど、昔っからの家はほとんど・・
M: 民間の家とか・・
S: そうです。壁もみんなスレートで拭いてたんで。でそのあの、ドイツ・ウィンブルグそっちの方だと同じような、向こうも石が取れるからね。そんな感じでやってましたよ。
M: 写真とかないのかな、見てみたいです。
S: 今帰りにあのパンフレット、私のパンフレットあげますよ。あの昔の工場の自宅がスレートで全部できてた。何種類。。7種類か8種類の形で付いてるんです。でも写ってるのは3種類ぐらいなんですけどね。そこのわきに土壌があって、土壌の後ろのほうとか色んな形で付いてるんですね。そこねスレートを付くってる会社だから、見本、見本みたいにして。


硯の観光地
N: スレートって本当に綺麗だし、日本に十人しかいないって言うの聞くと、どうやってどうにかしてなんか広めれないかなってすごい考えてるんですけど、ずっと。
佐々木さん
S: そうだよね。あのそれも言われてるんですけど、雄勝の人たちは硯組合で、雄勝の町をなんも産業はないから、観光の町にしようって。例えば壁をね、壁をスレートにするとか、ヨーロッパ系に作るとかして、人を呼び込むと。それとミニ東京駅を作るとか。考えてるんですけども。まあ一番お金はかかるんで、もうずぐってわけにもいかないけど、ちょっと長い目で見てそういう風にやろうかって。で、この間も相談受けて。大体壁をやるとしたらどれぐらいかかるかなとか、それをねちょっと教えて国のほうにどれぐらいかかるのかって。
N: そのミニ東京駅みたいなのを雄勝の中に作るってことですか?
S: あの、今のたなこ屋ありますよね、あの付近に作りたいなって言ってるんです。


今後の雄勝
Q: その今後の雄勝、どういう風になって欲しいとかってあります?
A: うん、やっぱりね、あのスレートの山を再開して欲しいです、市場を。で、今は硯の山として再開してるけど、やっぱスレートをもう一回取って欲しいです。というのは、あの富山っていうのはあの行動ぶれっていってトンネル、地下のトンネル掘ってるんですね。雄勝は露天ぶれだから直ぐ再開できるんですよ。だからそういうところから違うで、あの行動ぶれだと水を汲むだけでも大変なの、こっちは自然と水が信徒していくんで、その辺が違うのであのお金に関してはあまりかからないと思うけど、まあかかるのはかかるけど、その額が違うと思うんですよ。だから再開できるとすれば、やっぱ雄勝かなと思うんですよ。で雄勝の石はすごく良い石なんでね、我々が使ってるのも使いやすいですし、うちの国産はみな同じなんですけども、あの陸前高田の方はちょっとね、質的にはちょっとかなって感じです。ただ雄勝と富山は物はまるっきり違うけど使いやすい。やっぱり外国産から見たら、スペイン産とそっくり、似てるんです。ただあのアメリカとかフランスとかね、イギリスとか取ってるけど、あ、中国なんかも、硬い、すごい硬いんですよ。こっちは弾力性があるんです。で、スペイン産も弾力性があるんですよ。石に弾力があるっておかしいかもしれないけど、やっぱり柔らかいんです。


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千葉 正人さん

題名: 千葉 正人さん

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元々消防隊の一員として55歳で早期退職、その後お蕎麦屋さんを開店。現在は雄勝の仮説商店街から少し離れた実家の跡地であった場所でお蕎麦屋さんを奥さんと営んでる千葉正人さん。趣味は人との会話。これからの雄勝、そしてふるさとへの想いを語ってくれました。


ふるさと

俺ね、俺雄勝好きなんですよ、自分の生まれた場所だから。どんなに廃れてもさ、ふるさとはふるさとって想いたい気持ちが強くて、で、まあ、あの、私が、うーんと、消防職をね55で早期退職して、そば屋やったんですよ。
Q:自分が生まれたからって言う理由以外にもここがふるさととして好きな理由ってありますか?
A:だからそこに生まれ育ってきたからあのね、誰しもふるさとはあると思うんだけどもさ、まああの、あのお父さんが転勤族でさ、転々してればさ、特に国家公務員の家族とか北海道に行ったり、遠くに行ったりさ、どこぞと転々すると本当にふるさとがあってもないもんだがさ。小学校半分でさ、あの転向だと、小学校高校はまだこっちだ、小学校だったらまるっきり、高校だったらまったく違う所だった。そういう人もいっぱいいるちゃ。どんどんそういう人がふるさとってどうなんだろうって思うんだけども。でも小学校…6年だか5年までいた子供がさ、いまだに還暦の同級会なんかに来る。そういうもんだとおもう。だから幼き時代の思い出っていうのは本当大事なんじゃないですかね。だからもしここで生まれ育てなくてもふるさと思うってことは、生まれ育ってなかったら第二のふるさとだとよく言うけどもさ。でもやっぱりうん、やっぱり家族がいて、育ててもらって、そしてその地域の学校に行って、ここで見慣れた風景があったらさ、あぁ、あの世に行くときにはその風景が絶対その頭によぎったままあの世に行くと思うな。うん、それがふるさとでしょう、思う。


お店(震災後)
まあ、あのいずれそのまあ店は流されてさ、もうすっかり屋根の天辺まで汐被ったんだけども、で、店残ってて。そういう、瓦礫撤去しますっていう風な張り紙貼られたから、なんとかもうもったいないから、あの今までそばで使った道具洗っとこうかなと思ったらさ、またこう来るのさ、そしたら「あぁ、千葉さん店大丈夫でしたか?」とかさ、そんなの多くて。で、色々考えたさ、う~~ん、200件300件超えるぐらいのこう、着信履歴があってさ、それ本当そういうのは前のお客さんだったんだよな。う~ん、だったらなあ、そんなにこう、心配してもらってたんだと思って、それにこう、背中押されるような気持ちでさ、でやっぱりそば屋もう一回やろうかなって。まあ、色々ボランティアさんのお陰で本当に、言葉、どんな言葉も尽くせないほどの、本当に感謝の想いがあって、いっぱい手伝ってもらってさ。で、これ本当は自分でちんたらちんたらね、1人で作業してたら3年、今でもまだ大工仕事してるかもしれない。それが6ヶ月で出来上がってしまった。ありがたかったな。一昨年の9月20日にまだ外壁も半分ぐらい張ってないのに、うーん、あのお彼岸でさ、お墓参りの人が来るわけさ、ああ、そういう人がもしね、あのなんか屋ある所でさお茶飲むぐらいでも一腹できたらいい所提供したらわって言うんで、じゃあ、うーん、そば簡単なものだけ出しても、ここは最初開店するかっていうんで、うーん、9月20日にプレオープンしたの。


雄勝の復興
あの雄勝人は入れっことを考えればいい。雄勝のこんなん、僻地っていったってもう、海がまったく一番がゆうに向けた、この天然に恵まれた魚介類さ。津波っていうイメージを怖がらすからおかしいんであってさ。そもそも津波が来なかった時はどうっだったのっていう世界もあるんだから。こういうね、例えば雄勝ってね、本当はあの天然の良港としての非難港なんの。時化があったら漁船がいっぱい昔は入ってきて、もうすごかったのね。それが今まあ、200回規制なんとかってさ、漁船今あの、仕事する人がいなくなってきたから、あの時化なんていうのはそんなそんな船は渓流することもなくなった。ましてこのご湾はこの通りだからあの夜、ご湾ではビットって言われてさ、そこにロープを絡んで、ご湾に寄せて、渓流する施設があるんです。だから、もしそのあの、まあね、雄勝がどうなったらいいかって言ったら、マリン事業しかないの。マリン事業。これなんでかってったら、とりあえず防潮堤はいらないの。で、津波が来たら、高台に逃げて、で、全部やられるんだから、あんな津波来たらそうすっと、高台にシェルター設けてさ、一週間暮らせるだけの施設をさ二方向非難でシェルターと作ってくれればそれでいい。そしたら膨大な予算なんていらないのさ。で、さらにそれはあの物はあってそれは地域コミュニティーで管理できるようにしておけば、ずーとずーとそれを守られていくのさ。っていうことはそれはいわいる、防災のなんつうの、言い伝えとなってさ、あの忘却じゃないけれども、忘れ去られる事なく、いじゅうされていくと思うんだよ。まあ、地域コミュニティーセンターみたいなのが、高台にポツンとあって集落ごとにあったら十分それであのソフト面の防災は、ハード面はだからシェルターと作ってあとソフト面は言い伝えっていうのはそうあの何かあれば、それは言い伝えしていく事ができるんだからそれやればいいって。


若い世代
Q: 若い世代にはドンドン来てほしいと思いますか。
A: うーん、まーね、ルール守る人が来て欲しいと思うけどな。うーん、あのマリンレジャーって言ったら、あの水上バイクとかでしょ、あいうののね、あれのこうあのなんだあの水上ボートみたいにこう水槽でこう水にいってあの陸に船上げてずーと行くでしょ。あれと同じ機能でさ、水上バイクっていうのは海水だったらあれ全部こう真水を通してさ、あのあれエンジンの中を洗わないとダメなのよ。それにはそういうプール、専門のプールが必要なのさ。どこにもないんだよ。だからみんな川でやってるんだよ。川でビュンビュンビュンビュンやってるのがそのためなのよ。で、ここ波ないでしょ、おもしろいように例えば交差点を作ってさ、色々こうやって走るとか、うーん、そういうなんかもう作ったら凄いと思うんだよ。いづれ一気にさ、商大のそこでこうプールを作って、川のあのポップ、ポップアップしてる真水あるんだからさ、それをこちらに返してきて持ってきてそこでプールを作ったらさ、もうみんなして来るのよ。黙ってたって、色んな発信しなくても、みんなあの口伝てで、雄勝こんなのあるんだって、おー行ってみよう行ってみような世界なのよ。うん、みんな水上バイク持ってる人多いんだよ。そしたらそういうなんていうのさ、例えばデモンストレーションなんかこう水上バイク祭りなんかのイベントでやったらすごいと思うしさ、そしてそういう機能が燃料きゅうも出来る、そしてそういうコースもあるからさ、そこでなんつうのアマチュア競技なんかもできるようなあの場所があるんですよ。雄勝の魅力っていうのは黙っててもよい所になれば、そういうことをさね、提供できるあの、膨大な予算はいらない、天然のままでさ、それができるんだもんな。


将来の雄勝
あまりにぎやかなる必要はないだけどな。うーん、やっぱりこう、静かなこう、まあ、なって、なるって言う静かな町でいいから、まあ、雄勝の良さをわかって入ってくる人が常にこうね、(おうれい?)するような、そういう町になってくれたらいいなと思うな。雄勝の、雄勝のより所をなんていうの、行ってみたいってなふうに雄勝にさ、足を運ぶ、そういう魅力な町があったらいいかなとも思うな。


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小木曽 清さん

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教員になられて31年目、大須小学校の教頭先生になられて今年で2年目です。震災後、小木曽さん自ら被災地の小学校での勤務を希望したそうです。雄勝出身者ではありませんが、雄勝の子どもたち、町の人たちを客観的な視点から語ってくださいました。


自慢のふるさと

漁業やってくとか自分の跡次とかあんまりいないよね、親も自分のやりたい仕事につけっていう親だと思うから、そうすると就職先がないのでね、でもやっぱり自分の田舎はここだっていう風にね、帰ってきてはいるけど、夏休みになるとね小学生とかきてるので、田舎でかえってきてるんだるなって、そういう感じでおじいさんおばあさんのところに帰省するっていう場所なんだろうなって、それがこどもたちにとって、今の小中学生が大人になって出て行ったときに、自慢の故郷になってほしいなって思いますね、でていったとしても自分の生まれ育ったとこはこんなに自然に恵まれているっていう誇りに思ってね出て行ってほしい


浜ごとのつながり

Q:客観的に見て大須の人とかって絆とかって強い印象はうけますか

小木曽氏:大須学区って4つの地区があって、大須地区熊沢地区桑浜地区、大須3区、大須地区は大須小学校、3区ってのはいまの3つの、3区は3つあるからじゃなくて、2区と3区があるから、それぞれの地区で仲がいい、漁するのもそれぞれの浜できまりがあるみたいで、ピーっていう笛の合図でだーって船をだして自分の好きな場所にってウニをとるとかわかめを取るってとこもあるし、最初っから船を出してて、サイレンがなるとばーってとるとか、それぞれの地区で決まりがあるらしい、やっぱりそういう浜の繋がりとかってのはかたい


復興状況

Q:現在の雄勝の様子、復興も含めてどう思われますか

小木曽氏:雄勝3区については徐々に復興漁業に関してはホヤも今年から、ホヤって3年かかるからね、あとは、銀ざけとか、大須3区では銀ざけしてないけど雄勝3区では復活してきてるし、あとは復興住宅とか建てるだけの段階になってきてるしね、そういう段階ではいいと思うけど、雄勝の町は全然だよね。ほとんどひといないでしょ、あるのはたなこや(仮設商店街)さん、硯組合のプレハブが増えたのかな、あとはみうら海産と、やおやさん、あとは水産会社が工場ができたよね、あれぐらいしかないよね、話によると8メーターから9メーターかさあげするっていうけど、ところどころ積んではあるけど、あれがかさあげなのかわからない、先が見えない、進んでるとは言えないと思いますね


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阿部 優一郎さん

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雄勝に産まれ育ち、震災時は福島で高校教師として働いていた阿部優一郎さん。
震災で母親と弟夫婦を亡くしたことを機に、雄勝に戻り、漁師としての家業を継ぎました。新米漁師としての苦労や復興についてのお考え、家族のお話など様々なことを聞かせてくれました。


浜の人は家族

Q: 急に漁師さんをすることになった時に、ノウハウとか前に教えてくれる先輩の漁師さんとかいらっしゃいましたか。
A: はい。まあ逆にそれがないとやれる仕事じゃないので、あのーまあ親父もまあずっとやってきた仕事ですしね。まあ私も無いなり諸なり、小さい頃一緒に観て、まあ、た、多少知ってた分もあるんですけど、自分がいざやるなると、やっぱりあのー生活のリズムがまずほら、180度違うような世界よね。まあ最近、ようやくになってようやく、体の体内時計がリセットされてきて、漁師の仕事にこう変わってきたのかなっていう感じで。で、やっぱ周りの人っていうのは、こう特にこの雄勝というところはあのー昔ながらのね、こう近所とのつながりっていうか、まあ結局浜の人がこう皆家族みたいなところがあるので、であのうちも、うちの家族がね、こういう状況になってしまったのも皆知ってますし、で、まあ帰ってくる、やるってなれば、こう頑張れってな形で、随分こう手を貸すことはなくても貸してもらうっていうことはかなり多くて今日に至ってますけど…


海に対する思い
うーーん、まあいろんな思いありますよね。うん、まあやっぱりあのーこの浜で育って、やっぱこう、まあ漁師気質というか、こうなんかこう気持ちがなんていうか、こう荒っぽいような人が多かった気がして、でまあ自分がその中で育って、まあ教師の道になった時に、結構やっぱね教師になった時に、ここで育ったそのなんていうか、こう人とのかかわり方っていうかまあそういう風に案外教師の道こう活かせたりしてね。非常に雄勝に産まれて良かったなーって思うことも多かったですし、後はまあ家族とか、周りにいた人たちの影響とかはもちろんあると思ってるので、海のこう近くで育ってよかったなっていう風な思いもやっぱありますしね。
まあその反面あとは、こう津波でまあこんなことになってしまって…っていう風なことで、残念な思いというか、うーん、まあ家族返してくれよっていう風な思いもありますしね。ちょっと複雑な思いはあるかな。


雄勝の現状と未来
全然満足してないですねー。で、さっき言ったようにこう人がこう住んで、街っていうかこうコミュニティとしてのこう体をなしてないというか。もう今は言える事はもう、先がやっぱりないというか、もう今残ってる人たちの年齢層を考えると、特にここ数年で何かしらこう手を打つところはうっていかないと、もう人口の自然増っていうのは、もう望めなくなっているという現実がありますからね。で、そこで何か、それこそもう、もう少し若い人たちが、まあ秀平くんみたいな世代の人たちが、やっぱなんか住んでみたいなっていうか、やっぱ雄勝に戻ろうとか、まあ出て行った人たちもね。何かこう、そういうもうのを埋めるようなものをこう作ってくって事をしないと、ただやっぱりこう今残ってた、残ったお年寄りの人が亡くなってもう本当にこう限界集落とかって言葉で言われてますけど、まあそういう地域にだけはしたくないなっていう…思いは強いですよね。


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永沼 清徳さん

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サラリーマンとして東京でも働いていた経験のある永沼清徳さんは、現在養殖業と定置網漁をしている漁師さんです。春には綺麗なオレンジ色をしたホヤの養殖に力を入れていました。奥さんの永沼のり子さんと一緒に船の上で仕事をする「夫婦船」がとても印象的でした。


震災前の桑浜

永沼氏: いや、やっぱりあのねぇ、こんなに小っちゃいので、漁業以外にはなかったですね、漁業だけっていうか。まぁ、漁業っつってもこう色々ほらアワビを捕ったりウニを捕ったり、あと磯の、なんだろ海藻類をこう捕ったりして、まぁ、なんだかんだと一年中こう、何かしらはできるような浜なんですここは
生徒: なんかあの、十五浜あるっていう風に雄勝町の人にきいたんですけど、なんか桑浜は他の集落とかとこう違うとかっていうのってありますか
永沼氏: うーん、小っちゃい?規模が小っちゃいですね。あの、あるボランティアさんが「かわいい浜」という表現を使いました。かわいい浜。かわいいって
生徒: それはなんか、小さいからこそできることとかってあるんですか
永沼氏: まとまりはあるかな。うん、ほいで、意見が通りやすい。要するに、あのいろんな問題起きるんだけども、まぁ皆で話し合うと比較的まとまり早いですね。もう向かうととにかく仕事早いですんわ。


震災後の桑浜
永沼氏: 石巻とか国で決まるよりは、震災のね、四月の七日からもうあちこちの浜で瓦礫をどうしようかって問題なってるときに、ここの浜は四月の七日からスタートです。もう個人で連れて来て、業者を、やってと。んで四月の七日から、えーと、瓦礫の撤去を自前で初めて、この地区の人が頼んでね、業者を頼んで。そいで、六月の十日には瓦礫の撤去終わりました、全て。そのころやっと動き出してる浜のが多かったですから。仕事早いんですここ
生徒: それ、それって何で
永沼氏: あっ何でかなー。あの比較的皆こう自分の得意ってか、知ってる人が結構いて。じゃそっち頼んでみるよと。もう、し、じゅ、ここのところが小っちゃいってのは皆分かってっから、あの市とかにお願いしてもたぶん後回しにされる可能性が高いですよね。でもまぁそれこそかわいい浜なんで、だったらもうかえって自分のねコネをフルに使って業者呼んじゃおうと、そしたらたまたま知ってる人がいて、じゃやりましょうというんで始まりました、すぐ
生徒: 活発な
永沼氏: えぇ、比較的だから進みが早いんですよ。こうと思ったらもうやっちゃうって感じ
生徒: えっそっれてなんか、どう
永沼のり子氏: あれだよね、震災後皆で逃げるときもね、最後の最後まで、皆が知ってるから誰一人残さないように、こう皆で声掛け合って
永沼氏: 比較的まとまりは強いですね、団結が強いっていうか。かと言って皆友達ってなぁなぁではないんですよ。皆意見はしっかり持ってるし、ただ向かったら真っ直ぐですね、ここは


変わらない気持ち
永沼氏: うん、あの震災直後はね、やっぱり、テレビなんかでもよくあの出てたけど、負けてたまるか状態だったけど。うーんやっぱり、ねぇ別に海を憎んでる訳じゃないし、やっぱり今まで通りこう共存していかなくちゃいけないので、あんまりこう心境の変化ってのはないねぇ。だってほら色んなこと起きるんですよ。今回は津波だったけども、湿気でダメになったりね、あと施設同士が絡まったりして、自分、人間のこう自分たちが失敗してやる訳じゃない、もう自然の潮でほら絡まったりするので、なんだろ、毎日心配ですよね、それを言えば。えぇ、絡まって落ちてしまったらねぇ水揚げできないわけですから。津波だけが心配ではなくて、毎日が心配ですわ


目標
永沼氏: うんやっぱ今やってる仕事をこう継続っていうかね、そんなに無理しないで継続できるように。てっか無理はしたくないので、とにかくこう女房と二人で仲良くやりたい仕事ですよね。無理しちゃ、一日二日は無理できてもやっぱりね一週間二週間で無理できなくなるので、楽しく出来れば、目標は楽しく!まぁ、あと二人でこう、子どもたちがねもう大きくなって自分の手から離れていけば、もう二人で楽しく生活できればいいかなと思って


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永沼 慧さん

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現在、消防団員として雄勝町で働いている永沼慧さん。これからも消防団員として働きたいということなどの永沼さん自身の将来のことや雄勝の未来のことをお伺いしました。


進学しかなかった
生徒: えっと、高校に進む人が多いんですか?
永沼氏: そうですね。大体高校に進学すると思います。はい
生徒: 他の道とかってあるんですか?
永沼氏: わー、私たちの時はなかったですかね。はい。進学が一番、進学しかなかったと思います
生徒: なんか、石巻の高校に行くと、なんか、家と離れるから、なんか、新しいマンションを借りることになったりっていうことは
永沼氏: あーとー、そうですね、下宿したりしてた人もいましたけど、バスとか出てたので、通学の、そのバスに乗って通学してました
生徒: あ、こっちから?
永沼氏: はい
生徒: なんか、結構な割合の方が漁師になるのを、なんか、なるという風に聞いたんですけど、なんか、それについてどういう風に思われてた?
永沼氏: えーとー、どうなんですかね?私の同級生ではない、なってないので。私もあんまり考えてなかったんですけども
生徒: ど、どんな感じの職業が多いんですか?
永沼氏: えー、色々ですね。学校の先生とかもいますし、はい。あと、普通に建築業とか、色々ー。ほんとに色々ですね


若者の減少
生徒: 結構若い方が少ないっていう風に聞いたんですけど、それに対して、なんか、どういう風に考えたり思ったりしていますか?
永沼氏: まー、そうですね。ま、今、なんていうんですかね、漁業やっても結局あんまり、その、ま、生活していくのにも、あんま大変ですし。ま、他に仕事探しに出るっていうのはまぁしょうがないのかなっていう気はします。私もまぁ、公務員やってますし。ま、ですかね、ま、そういう感じですかね。ま、なんていうか、ま、集まって遊んでたりしてるので、ま、別にここに住んでなくても全然良いのかなっていう感じで、はい
生徒: なんか、この浜、結構その、ご年配の方とかにお話を伺うと、なんか、若い方がやっぱり来てほしいなーみたいな話を結構聞いてて、なんか、なんだろ、責任だったり、そういうのを感じたりしますか?
永沼氏: わー、ま、特にもう残れみたいなプレッシャーをかけられたことないので、ま、別にそんなには感じたことないですけども、はい
生徒: じゃ、その、結構インタビューしてると、ご年配じゃないですけど、こう歳が上の方は、そういう風に、今言ってたみたいに、若い人に戻って来てほしいとか結構おっしゃってる方多いんですけど、それを聞いて今どう思いますか?
永沼氏: うーん、どうなんですかねぇ。まぁ、今の仕事も全然気に入ってるってか、好きで、好きでっていうか、まぁ、楽しく、楽しい仕事、うーん、楽しいばっかじゃないんですけど、今となってはまぁ好きでやってるので。住んで、まぁ、こっちに住んでますし、まぁ、別に特に変化はないですね、言われても、はい。


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中村 一成さん

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奥様と仮設暮らしをしながら布団屋を経営されています。雄勝生まれ、雄勝育ち…60年住んだ雄勝は決して嫌いになることのできないふるさと。そんなふるさとが今置かれている現状、進まない復興への歯がゆさ、将来への不安を語っていただきました。


雄勝の現状

まぁ、この雄勝も今どうにか形の中でいろんな構想出てるんですけども、まぁ私の持論なんですけども、まぁ私も役職がらまちづくり委員会の委員だったりなんかしてまちづくりにいろいろ話し合いの中にはいってたんですけども、正直歯がゆかったですね、ものがすすんでいかない、そしてまちづくり委員会でみなさんの意見聞いてやってくんですけどのその中でこれがいいんじゃないかなってやってもらうのは本署にいってペケにされるのいっぱいあったんですよね。で、一転二転三転していくなかでこうやってくんですけど、まぁおたくたち見るように雄勝の町ってほんとにすすんでないでしょ、あの、いっぱいこう形はできてるんですよ構想は、でもなかなかすすまない。まぁ何が原因なのか私らもよくわかんないんですけど、まぁ一年ましに、わたしらもそうなんですけど、地元に残ってこう頑張ろうっていう人が1年2年経っていくとなんだ住めないんじゃないかとか全然動きがないから離れてく人が多くなった。一番怖いですね。


雄勝に残る理由

生徒:その、中村さんが雄勝に残る一番の理由ってなんですか

中村氏:私はね、今は形をどうにか戻してやりたいなって気はあんのね、ただ私は今ここにねこれからずっと雄勝にいるのかっていわれるとちょっとかんがえるのね、っていうのは私は今船越で生まれて60何年ここで住んでふるさとを嫌いな人は誰もいないのね。ただ自分がこれから年取っていくといろんな面での心配がある。だから今は自分がやれるうちはやりましょうって自分の力でできること微々たるもんですけど、だからそれを今はとにかくやりたいなって、自分なりにはね。で、あんまりかっこいいこというとあれなんですけど、かっこいい話じゃないですけどそういう質問されると、中村さんはこの雄勝の町をなんとかしようと一生懸命がんばってんだべなっていうとそんなことない何にもやってない、そうでなく自分が出来ることは何かそこなんですわたしは。


コミュニティーの崩壊

生徒:その周りの人とのつながりっていうのは震災前と後で変わったようなことってありますか

中村氏:いや、変わってないでしょ、うん、ただ遠くなったのは遠くなったよね。船越の場合は、今でも住んでる人は10人くらい、10人いないと思う。3世帯10人くらいだね。それで、まず私はもう、部落のこのコミュニティーが崩れるのが一番おっかなかったのね、っていうのは今質問あったように雄勝の船越に生活している、普段いろんなものを分け合ったり話し合ったりお茶飲んでたりしてたような、ポンと離れてしまったのね。したらそれが崩れてしまうのがおっかなかったもんですから、月に1回ずつ集会開いたんですよ、で、集会を開いて2年ぐらいそういうことやって、それでみんなのコミュニケーションを深めていったんですよ、でも、時が経ってしまうとなかなかそれもままならなくなってきたのもじじつです。船越を好きなんだけれども現実すれば足が遠のいてしまう。やっぱり海があって海にいろんなものとりにいってるうちはいいんだけど、石巻の都会に住んでね、ここに何もようないのにくるかっていうとこないよね、それが現実。だから昔のコミュニティーそのものっていうのは崩れてしまったね。


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徳水 利枝さん

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ふるさとである雄勝をなんとかしようと、ローズファクトリーガーデンという素敵な庭園を造られました。ボランティアの方々と力を合わせ規模は拡大し続けています。みんなが立ち寄れる場所の必要性をお話ししてくれました。


足を止める場所が必要

出るのも雄勝に戻るのもみんながみんないずれも笑っての選択じゃなくてそれぞれがつらい選択をせまられた3年間かなと思います。3年経った今が今の雄勝の状況で、まぁ今みなさんみても、誰が来ても人がいないね、みんな変わらないねって言われるんですけど、でもこういう現状になっております。私はここをやり始めたときには何にもなくて、写真一応出したんですけど、全く何もないときでした。今は仮設商店街、・・・商店街があるんですけど、・・・商店街もないときでしたので、多くの人が仮設が外にあるから外に避難するんですけども、お墓だけは残るんですね。お墓だいじょうぶだったので、そうすると震災で亡くなった方もいらっしゃるので、お墓詣りに来るんですけど、ここら辺の人は昔お墓詣りしたら、そのお仏壇があるところによって、またお線香挙げてっていうのが普通の生活だったんですけど、震災後はお墓詣りしたらどこにもいくところがなくて、ばたばた帰っていくっていうような。私もはじめそうだったので、それはほんとに忍びないなと思ったので


メッセージ1

Q:・・・伝えたいこととかってありますか
徳水氏:そうですね。あの、伝えたいこと急にふられても
Q:雄勝町のことでもいいですし、このWebsiteを見る方にでもいいですし、なんでもほんとに
徳水氏:まぁあの、ちょっと忘れかけられているところですけれども、こういう町があるんだということをみなさんに分かってもらえたらうれしいなっていうのはひとつありますね。雄勝は何もなくなってはいるんですけれどもまだまだこれから進めていかなきゃいけない、行こうと思ってるところなので、ぜひ一度来て観てもらいたい。震災、どうしよ、伝えたいこと急に言われるとどうしましょ
Q:今全然流れてないので、ここがどうなっているかってのも全然わからないですし、
Q:すごく、復興が完了しちゃったようなイメージなんですよ


メッセージ2

Q:最初来てびっくりでほんとになにもなくて、
徳水氏:みたひとでないと、それですね、みたひとでないと復興はまだ終わってないのとか、ここまでいったよっていうのはみたひとしか話せないと思うんですよ、きてみないと震災の映像っていうのはせいぜい180度じゃないですか。でもすべてないってのは360度なんですよ、その360度なにもないっていうのはなかなか伝わらないので、まぁあの一番は来て観てほしいなっていうのがあります、そして、全部なくなったところで、そこで生活をもういっかいやろうっていうのってそれまでのかちかんっていうのも全部変わるんですね。全部作ってどんどんお金が入ってくるっていうような状況じゃないので、ある程度の生活で、それでも、いい別な尺度での幸福っていうのになっていくんですね、そういうものもあるんだっていうのもぜひ来て味わってみたらどうかなって思います。別の尺度での幸福、もしかしたらきて、短い2、3日の滞在でも感じることってあるかもしれない、余計なもの壊さないで乱さないである程度の循環していく中で、感じる幸せとか満足感っていうのが雄勝にはあるので、きてみて味わってもらえたらいいかなと


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佐藤 ちず子さん

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雄勝町で生まれ育った佐藤ちず子さんは結婚後仙台から雄勝に戻り2人のお子さん、旦那さんと震災までずっと雄勝に住んでいましたが、震災後雄勝を離れ旧石巻市の東松島市に移転。


被災前の雄勝

あたし実家雄勝なんですけど、あの、私、父、両親とあとまあ、私3人兄弟なので、兄2人と私で住んでたんですね、前は。で、まあ、本当に家があって道路があって、目の前海だったんですよ。だから本当にもう5月ぐらいからちょっと暖かいと海に行って泳いだりとかして、まあでも今はその海もあのすっかり埋め立てになっちゃって、まあ、とうわさはなくなったので、そういうこともなくなたんですね。そしてのったんですけど、そうですね、あまり、うーん、まあ、不便だなとか不自由だなとかって感じる事は確かに、お店にしても、やっぱり大きいショッピングセンターとかそういう、まっこっちに買い物に来ないといけないし、病院にしても、うーん、やっぱりその病気によっては雄勝で診てもらえないものもあるので、結局こっちに来たり、あるいは仙台に行ったりってあるんで、まあ、不自由だなって感じる部分は確かにはありました。子供も家からちょっと高校に通えなかったりもしたんで、不自由だなって思ったんですけど、でもやっぱり暮らして、多分若いときの考えなのかなって今ね、ここに来て思うんですけど。やっぱりまあ、隣近所の付き合いはあるにしても、うーん、なんて言うのかな。まあ、静かに暮らすっていうんですかね、そういうのであればやぱり、あゆう所の方が、うーん、隣近所とのねお付き合いもちょっと濃密っていうかで。何にしろ、私の親戚も震災の後何人か残って、養殖、友達とかも養殖またしてるんですけども、やっぱりそういうのって頂いて、頂いて食べることも多かったんですね。だからうちの子供達なんかも、もうその味に慣れちゃって、こっちに着てからあの食べたいって言うんで、お店に行って買ってきたんですよ。そしたら「味が無い」って言うんですよ。美味しくないとは言わないんですけど味が無いと。あはは。うーん、うん。なんかいつもの味がしないていう、最もね海から取って数時間の内にはもう口にするんで、うーん。だから本当に最初ここに来た時はあのもうここは津波が来ない所だったので、もう本当にマックスバリューも開いてたし、あともうちょっとの農協さんがあるんですけど、そこも開いてたし。確かにお店に入れられる人数っていうのが限られてたんですね、やっぱり余震とかあった時のために非難のために、並んで買い物とかもしたんですけど。まあ、ある程度お金があれば何でもここは手に入るんですよ、不自由なく。でもやっぱり、そういうのを食べて育ってきた子供達とか私にすると、買ってまではなーここで買ってこれを買ってまではなっていう。うーん、ただ大きく変わったとは思いますよ。やっぱりね、年々人は減っていくし、皆さん便利さを求めるよりも自分が年を取った時の、あのことを考えてやっぱ出て、逆に出て行かれる方もいたと思いますので、まあ一概にはね言えないんですけど、うーん。でもそれでも反面若い人も戻ってきていたのも事実なので、うん、その、うん、まあ、何が変わった変わらないって言うのはちょっとわかんないですけどね、ただ、うーん、私達はずっとあそこで津波さえなければずっとあそこにいたんだろなって思うんで、うーん、と思ってました。


若者減少への想い

まず働く場所がないですよね、それが一番ネックですよね。あと、まあ、地形的にもやっぱちょっと複雑な地形なので、だし、あと周りのその受け入れ側の考え方もあると思うんですよね。うん、やっぱり実家に戻って養殖しますとか、実家に戻って家業継ぎますとかって言った時に、やっぱり、あぁ良かったねって私たちは言えますけど、でもその家の当人はやっぱ先々の事を考えると思うんです、本当にこれで一生食べていけるのか、やっていけるのか。そうなった時に、いや、自分の代で終わりにするから戻ってこなくていいよって言う親御さんもいると思うし、うん、じゃあ息子が戻ってきたらもうちょと手広くしたいから戻ってこればって言う人もいると思うんですけど。だからやっぱり先の見通しが立たないから、うーん、戻る戻らないあの、その、ね、若者が増える増えないっていうのもあると思う。でも結構戻ってきてた人達もあったかな。あはは。うーん、とは思ってましたけどね。


雄勝のこれから

誰が行ってもうーん、なんていうんだろう、こう、本当にウェルカムな状態で受け入れてくれる様な所になってくれれば、もしかすると、その雄勝とは全く関係ない人も行って、住むようになるのかなーって。やっぱり昔ながらの田舎なので、やっぱりちょっとそういうところは、こう、集団意識じゃないけど、ちょっとそういうところがあるのかなって。


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