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雄勝町

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遠藤 弘行さん

インタビュー一覧へ戻る 雄勝で生まれ育ち、硯職人として現在は実家の跡地であった場所を借り、お店と作業場を構えている遠藤弘行さん。今年の3月までは約33年間消防団の一員でもありました。 後継者 仕事的にはここ、あのプレハブの仕事場で、しようと思えばできるんだけども、販売する店って言うのは今6畳でしょ。ちょっと狭くて、あの、自分の彫ったのを見てもらうのに、もう少しスペース広くないとダメで。最初の段階では品物がないから、あのこれで十分だったの。段々増えてくると、やっぱりあの色んな品物見てもらいたいから、結局展示する場所をもっとこれの3倍ぐらい欲しいんだけども。まだあの、色々、こっちの道路の関係で、道路が新しく作られるらしいから、そうなるとこの場所でできるのかどうかもっていうのもわからないね。やっぱりちょっとして店が欲しいだけども、それもちょっと悩んでるところで。何でかって言うと、後継者。あのー今から自分だけだとあと、数えてみると先数えたら、10年20年しかできないのかなって思うとね、なかなか設備的なものはあるから。息子でも仕事後継いでればいいんだけど、別の仕事してるんで。まだ今の状態では後継者がいない状態っていう。。そういう状態です。 俺が来た36年前でさえ、珍しがられたっていうか職人として戻って来たっていうが。むしろ硯産業は推定してきてて、辞めていく人がいたぐらいの時期にその昭和53年っていうのは。あまりあの硯的にはいい仕事じゃないっていうのはその頃からもう30何年前からあって。たまたま俺が戻って来た。だから俺が始めた36年前から今まで正式には職人は誰もいない。新しく育った人。俺が最後みたいな感じなんですよ。それまでは大学卒業して10年ぐらい前かな、帝京大を卒業して来たって言う人が雄勝の人じゃなくて、東京の方の人なんだけども。4年間ここで硯の仕事をしてたんだけども辞めていっちゃったとか、やった人はいるけども、ずっと今継続してやってる人がいなくなっちゃった。いなくなっちゃったっていうよりも俺もだから36年前に珍しがられて新聞の記事になるぐらい、ユーターンしてきたっていう。載ったことがあって。それからその頃から硯の仕事って珍しいっていうか、やる人がいなかった。逆に今震災後はあれでしょ、ここ今年ぐらい少しこう硯の方に若い人がいるし、今年の春、地元の子供が大学卒業して、帰ってきて、硯の組合に入ったって言うところまでは情報きてるんですけど。まあだから後継者、その人たちが今やっと育てば、あの本当に40年近くぶりに職人っていう。なる可能性はある。 消防団 消防団ね、あの今年の3月退団ってあの、辞めたんですけど。32年と11ヶ月なんか続けてきたっていうか。こっちに24歳で帰ってきて、数年3年ー4年ぐらいにしてから消防団に。やっぱ地元で仕事をしてる人が消防団に入んないと、その消防署だけじゃ間に合わないんです。なぜかというと、各浜に水門とか門扉っていうのがあって、それを閉めるのに、本当の消防署の職員ってそんなにいないでしょ。あの消防車一台しかいなんで、だからあの、各浜に行って閉めるっていうのは、やっぱりそれぞれその浜の人の住んでる人の担当なんで。そうすると自営とかやってる人がそういうのに入んないとあの、会社委員の人だと昼間いないんで、まあ、地元で仕事を始めたから、あの結婚するあたりにそういう話があって、27歳か28歳ぐらいの時に入ったんです。それから32年で。今回辞めたのが、まあちょっと色々消防団が合併するっていうので、自分もここに住むことを決めてないんです。仕事場はあるんだけども、住まいは別なちょっとあの遠い方に希望してるんで、そこから通う予定ないんで。まあ、消防団が合併するのを期に32-3年入ってたんで、いいかなってなって。60過ぎてね。あはは。それで3月に退団、辞めたんですね。 継がれるこだわり 自分は50歳の時に、その50歳の時が自分は東京の方に行ってる時の、まあ、丁度子育て終わってから要するに商売買いしようと思ってたらしくて、俺が向こうに行ってる時に、独学でやったんですよ。あの硯の仕事っていうかだから、道具から自分で作って、先生が和尚さんがいない独学で硯の彫り方して、自分で始めたっていう。だからあの石をとってた時は、もちろん組合の人たちの下ろしやってる人に硯の原石を販売してたんですけど、やっぱり自分の考えっていうのを出したいんで、自分で直売所っていうのを始めたっていう。それがあるときその、まあ、神奈川にいたんですけど、そっちから帰ってきた時に自宅のまああの玄関ってちょっと昔の家なんで4畳半ぐらいある、その両側に棚ができて、硯が、普通の玄関開けると硯がこう、並び始めてたっていうか、手作りの棚でね。それがあの、自分にねすごいインパクトあったのが。子供の頃はあの、ここのうちの実家に住んでたんで、ここから降りていくと、硯彫ってる職人さんがそこにいて、沢ってね、沢の向かい側に工場があって、その人が彫ってたはあの、長方形のうーんと、まあ小学生の硯が中心だから、こういう硯を彫ってたわけですよ。その俺が子供の頃に彫ってた職人さん。だからこれと同じ規格品っていって、大量生産で、同じものを彫ってた。これしか見た事なくて、親父の所とか家に帰ってくるとこういう。なんでしょう、長方形の硯がほとんどなくて、こういう彫刻とか入ったのが並んでて、それをみてなんか衝撃を受けたんですけど。で、自分がその24歳にこっちで帰ってくるちょっと前にね、その数年間あるでしょ、その間に来るたんび、色んなの彫刻みて、あの自分の気持ちがこう、段々ね、あの彫刻してみたいみたいな、たまたま広告会社にいたんで、そういうデザインまでいかないけど、彫刻の方にすごい興味があったっていうのもあって、色ついたのとか利用するでしょ。こういうのが今までに小さい時みてた硯と全然違うんで。だからインパクト結構強くて。まあ、この硯だけだったら多分戻ってきてないです。だからうちの親父がこういう商売を50歳から始めたから、自分もこの道に入ってきたていう。親父がやんなければ、俺もいなかった。長男じゃないし、帰ってこなくてもよかったんだけど。だから親父の考えがすごい俺の中には入ってて、そのこだわりっていうのはまだ親父の後を継いでるんで。そのこだわりがたまたま去年本出してもらったのにつながってるんですけど、親子の想いっていう。雄勝の硯の中でも一番こだわってるやり方してますね、っていうのを取り上げて本にしたいっていうことで。それが一番のこのこだわりなんです。 復興の状況 Q: あの、まあ、今震災から3年経って、雄勝の現、この復興の現状だとか、そういうのどう思われますか? A: あのーどこも一緒だと思うんですけども、結局目に見えてはそんなに復興にしてるように見えないでしょ?とりあえず片付いたかなって。ただあのー自分は浜の方の仕事のあれはよくわかんない養殖とかね、そっちは進んでると思うんだけども。その他の仕事、元々ここにはあまりなかったんだけども、あの唯一ね昨日も自分行ってきたんですけど、自分が石持ってきてる石ってさっきから波板石って言ってるでしょ?波板って言う地区があるんです、もう少しこの道路をえーと、6分ぐらい行った地区、雄勝とあの女川町っていう所の栄えの最後の集落なんですけど、そこで地区がね。そこはね20数世帯しか元々なくて、今3世帯かなんか住んでるらしいんですけど、4世帯、5世帯ぐらい残ってるんですよ建物。そいで、後集団移転で6世帯か7世帯戻るらしいんですけど、その戻る工事が進んでないんだけども、このコミュニティーセンターっていうのだけ、完成したんですよ、これ。これがいち早く完成して、あのこの人たちがね、ここから波板地区から俺が持ってきてる硯の石山にいっぱいあるんです。それを利用して、この体験学習を地元の人たちがしようと思って、まだ自分たちの住まいは仮設なんだけども、これだけあの兵庫県からの義援金が宮城県にきた、その宮城県で公的なのを義援金をこう使わせてもらうっていうことで。何ヶ所かこうあのまあ、希望っていうか応募あった所から選ばれて、波板地区集会場兼体験学習に使うっていうので、市長を通して、これあのもう先月できたばかりで。これが唯一進んでるかなって見える、しかも集会場で雄勝のししょうなんかではこれも公民館がないので、公民館代わりに来月やっぱり公民館で元々やってたあの夏休みの子供達集めて、ありんこ塾ってあるんですけど、それも来月あるとかっていって、ここで体験したり、ここあの石を割ったりね、それから絵を描いたりとか、体験させるそういうのをやろうと思って、地区の人が。あとは収入もちょっと欲しいと。そのみんな年金暮らしするような人が多いんで。そいで、建物はだからその戻ってくる個数の割とデカイの建ててもらったんだけども、維持していかなくちゃないんで、一応色んなあのこういう体験学習で来てもらったりして、宿泊する時はいくらか貰ってとか、素泊まりなんで。それが一番俺として今目に見えてこう、す、前に進んでる。で自分的にはこの地区の石を利用してるんで、一応あの硯の方では協力はしてるんですけど、だからこのなかでも若干とろろ昆布とか海の物と硯とか石の販売、ちょっと玄関先にね置いて、一応売り始めたっていうか。だから硯は遠藤さんっていうことでやってもらって、何しろこの波板の石を使ってるっていうのをこの地区の人がうちの親父も使ってるし、俺も使ってるし、親子二代でこの自分の所の石を使ってくれてるっていうことで、まあできる範囲では協力しようと思ってるんですけど。それが唯一この場所で今復興的な感じで動き始めてるのかなっていうのは、目に見えてね。ただあの後はこっちの方はまだあれでしょかつ上げとか、あれってわかんない。それぐらいの状況でしょうね。 インタビュー一覧へ戻る Advertisements

阿部 傳吾さん・和子さん

インタビュー一覧へ戻る 雄勝で唯一無二の傳吾さん独自の方法で編み出した技術を用いたとろろ昆布製法。傳吾さん、奥様の和子さん、娘さんの3人で喜昆布(よろこぶ)商店を経営されています。雄勝生まれ育ちの傳吾さんと、秋田からお嫁にいらっしゃった奥様からお話を伺いました。 おかげさまの感謝 (拾う人→加工する人→買う人→ の輪になっているという話)わたしは拾う人のおかげ様、私が買う人のおかげ様、なににつけてもおかげさまの感謝。おかげさま感謝なんですよ、これがあるからこそ輪になってるんですよ。その輪はできて初めて成り立ってます、どこかでもくずれればダメなんですよ、拾う人だってほねおってるんだからさ、わたしだってただでもらえねぇから・・・つぎちゃんととれるように、そこでこういう言葉もでてきたんだけどね、よろこぶしょうてんなんて。これも頭にぱっとうかんできたんだけど。 住めば都 Q:どうですか、雄勝は? A: いやーどう、どうとかっていうことじゃないよね、え。まあ実家で暮らしたなら、学校卒業するまでだし。え、こっちに来てから40年以上になるんだから、絶対こっちの方が多いし。あははは。住めば都っていうね、言葉があって。まあ、どっちも良い所だけっども。 Q: 雄勝の良いところはどんなところですか? A: うーん、どうだろう。あははは。えーまあ、色々とね違う環境の所に住んでみると、それまでに住んでた所の良いとこ、悪いとこっていうのは見えてくるし。他から来ると、ここの良いとこも、悪いとこも色々と見えるけれども。あははは。 雄勝での生活 和子さん: だから、まあ実際ここに皆高齢者のほとんどだけども、みんなね、結構ねいっぱい年金もらってるんです。で結構余裕で、あの、うーん、すごいゆとりのある生活をしてるっていうのかな。ゆとりって言うのは、お金がいっぱいあるって意味じゃなくて心にゆとりのある生活ね。だから、子供たちはほとんど皆、町外に出てしまって、皆、もう皆歳なんだから、こっちへおいでって言われても、いやーここが良いって、残ってる人たちがほとんどでね、 傳吾さん: 行ってもすぐ戻ってくる。 和子さん: ある程度ね、お金の無理、なんていうのかな、贅沢しなきゃ食べられるくらい年金もらってるからみんな。って、それが一番贅沢な生活だろうなって思いますよ。ちょこっと畑したり、皆お互いに隣近所お茶のみに歩いたり、なんかいろいろそいうのね、うーんだから、やっぱりゆとりのある生活。あの心にゆとりのある生活してると思うのよ。 インタビュー一覧へ戻る

佐々木 信平さん

インタビュー一覧へ戻る 元々大工をやっていたが天然スレートの職人に転職した佐々木信平さん。雄勝には5人しかスレート職人がいなく、佐々木さん自身は雄勝出身ではないが、雄勝の様々な場所で関わっています。 昔の家 M: その震災の前だと屋根はほとんどスレートだったんですか? S: ほとんどってわけでもないですけど、あの新しく建てたところはスレートは使わなかったけど、昔っからの家はほとんど・・ M: 民間の家とか・・ S: そうです。壁もみんなスレートで拭いてたんで。でそのあの、ドイツ・ウィンブルグそっちの方だと同じような、向こうも石が取れるからね。そんな感じでやってましたよ。 M: 写真とかないのかな、見てみたいです。 S: 今帰りにあのパンフレット、私のパンフレットあげますよ。あの昔の工場の自宅がスレートで全部できてた。何種類。。7種類か8種類の形で付いてるんです。でも写ってるのは3種類ぐらいなんですけどね。そこのわきに土壌があって、土壌の後ろのほうとか色んな形で付いてるんですね。そこねスレートを付くってる会社だから、見本、見本みたいにして。 硯の観光地 N: スレートって本当に綺麗だし、日本に十人しかいないって言うの聞くと、どうやってどうにかしてなんか広めれないかなってすごい考えてるんですけど、ずっと。 佐々木さん S: そうだよね。あのそれも言われてるんですけど、雄勝の人たちは硯組合で、雄勝の町をなんも産業はないから、観光の町にしようって。例えば壁をね、壁をスレートにするとか、ヨーロッパ系に作るとかして、人を呼び込むと。それとミニ東京駅を作るとか。考えてるんですけども。まあ一番お金はかかるんで、もうずぐってわけにもいかないけど、ちょっと長い目で見てそういう風にやろうかって。で、この間も相談受けて。大体壁をやるとしたらどれぐらいかかるかなとか、それをねちょっと教えて国のほうにどれぐらいかかるのかって。 N: そのミニ東京駅みたいなのを雄勝の中に作るってことですか? S: あの、今のたなこ屋ありますよね、あの付近に作りたいなって言ってるんです。 今後の雄勝 Q: その今後の雄勝、どういう風になって欲しいとかってあります? A: うん、やっぱりね、あのスレートの山を再開して欲しいです、市場を。で、今は硯の山として再開してるけど、やっぱスレートをもう一回取って欲しいです。というのは、あの富山っていうのはあの行動ぶれっていってトンネル、地下のトンネル掘ってるんですね。雄勝は露天ぶれだから直ぐ再開できるんですよ。だからそういうところから違うで、あの行動ぶれだと水を汲むだけでも大変なの、こっちは自然と水が信徒していくんで、その辺が違うのであのお金に関してはあまりかからないと思うけど、まあかかるのはかかるけど、その額が違うと思うんですよ。だから再開できるとすれば、やっぱ雄勝かなと思うんですよ。で雄勝の石はすごく良い石なんでね、我々が使ってるのも使いやすいですし、うちの国産はみな同じなんですけども、あの陸前高田の方はちょっとね、質的にはちょっとかなって感じです。ただ雄勝と富山は物はまるっきり違うけど使いやすい。やっぱり外国産から見たら、スペイン産とそっくり、似てるんです。ただあのアメリカとかフランスとかね、イギリスとか取ってるけど、あ、中国なんかも、硬い、すごい硬いんですよ。こっちは弾力性があるんです。で、スペイン産も弾力性があるんですよ。石に弾力があるっておかしいかもしれないけど、やっぱり柔らかいんです。 インタビュー一覧へ戻る

千葉 正人さん

題名: 千葉 正人さん インタビュー一覧へ戻る 元々消防隊の一員として55歳で早期退職、その後お蕎麦屋さんを開店。現在は雄勝の仮説商店街から少し離れた実家の跡地であった場所でお蕎麦屋さんを奥さんと営んでる千葉正人さん。趣味は人との会話。これからの雄勝、そしてふるさとへの想いを語ってくれました。 ふるさと 俺ね、俺雄勝好きなんですよ、自分の生まれた場所だから。どんなに廃れてもさ、ふるさとはふるさとって想いたい気持ちが強くて、で、まあ、あの、私が、うーんと、消防職をね55で早期退職して、そば屋やったんですよ。 Q:自分が生まれたからって言う理由以外にもここがふるさととして好きな理由ってありますか? A:だからそこに生まれ育ってきたからあのね、誰しもふるさとはあると思うんだけどもさ、まああの、あのお父さんが転勤族でさ、転々してればさ、特に国家公務員の家族とか北海道に行ったり、遠くに行ったりさ、どこぞと転々すると本当にふるさとがあってもないもんだがさ。小学校半分でさ、あの転向だと、小学校高校はまだこっちだ、小学校だったらまるっきり、高校だったらまったく違う所だった。そういう人もいっぱいいるちゃ。どんどんそういう人がふるさとってどうなんだろうって思うんだけども。でも小学校…6年だか5年までいた子供がさ、いまだに還暦の同級会なんかに来る。そういうもんだとおもう。だから幼き時代の思い出っていうのは本当大事なんじゃないですかね。だからもしここで生まれ育てなくてもふるさと思うってことは、生まれ育ってなかったら第二のふるさとだとよく言うけどもさ。でもやっぱりうん、やっぱり家族がいて、育ててもらって、そしてその地域の学校に行って、ここで見慣れた風景があったらさ、あぁ、あの世に行くときにはその風景が絶対その頭によぎったままあの世に行くと思うな。うん、それがふるさとでしょう、思う。 お店(震災後) まあ、あのいずれそのまあ店は流されてさ、もうすっかり屋根の天辺まで汐被ったんだけども、で、店残ってて。そういう、瓦礫撤去しますっていう風な張り紙貼られたから、なんとかもうもったいないから、あの今までそばで使った道具洗っとこうかなと思ったらさ、またこう来るのさ、そしたら「あぁ、千葉さん店大丈夫でしたか?」とかさ、そんなの多くて。で、色々考えたさ、う~~ん、200件300件超えるぐらいのこう、着信履歴があってさ、それ本当そういうのは前のお客さんだったんだよな。う~ん、だったらなあ、そんなにこう、心配してもらってたんだと思って、それにこう、背中押されるような気持ちでさ、でやっぱりそば屋もう一回やろうかなって。まあ、色々ボランティアさんのお陰で本当に、言葉、どんな言葉も尽くせないほどの、本当に感謝の想いがあって、いっぱい手伝ってもらってさ。で、これ本当は自分でちんたらちんたらね、1人で作業してたら3年、今でもまだ大工仕事してるかもしれない。それが6ヶ月で出来上がってしまった。ありがたかったな。一昨年の9月20日にまだ外壁も半分ぐらい張ってないのに、うーん、あのお彼岸でさ、お墓参りの人が来るわけさ、ああ、そういう人がもしね、あのなんか屋ある所でさお茶飲むぐらいでも一腹できたらいい所提供したらわって言うんで、じゃあ、うーん、そば簡単なものだけ出しても、ここは最初開店するかっていうんで、うーん、9月20日にプレオープンしたの。 雄勝の復興 あの雄勝人は入れっことを考えればいい。雄勝のこんなん、僻地っていったってもう、海がまったく一番がゆうに向けた、この天然に恵まれた魚介類さ。津波っていうイメージを怖がらすからおかしいんであってさ。そもそも津波が来なかった時はどうっだったのっていう世界もあるんだから。こういうね、例えば雄勝ってね、本当はあの天然の良港としての非難港なんの。時化があったら漁船がいっぱい昔は入ってきて、もうすごかったのね。それが今まあ、200回規制なんとかってさ、漁船今あの、仕事する人がいなくなってきたから、あの時化なんていうのはそんなそんな船は渓流することもなくなった。ましてこのご湾はこの通りだからあの夜、ご湾ではビットって言われてさ、そこにロープを絡んで、ご湾に寄せて、渓流する施設があるんです。だから、もしそのあの、まあね、雄勝がどうなったらいいかって言ったら、マリン事業しかないの。マリン事業。これなんでかってったら、とりあえず防潮堤はいらないの。で、津波が来たら、高台に逃げて、で、全部やられるんだから、あんな津波来たらそうすっと、高台にシェルター設けてさ、一週間暮らせるだけの施設をさ二方向非難でシェルターと作ってくれればそれでいい。そしたら膨大な予算なんていらないのさ。で、さらにそれはあの物はあってそれは地域コミュニティーで管理できるようにしておけば、ずーとずーとそれを守られていくのさ。っていうことはそれはいわいる、防災のなんつうの、言い伝えとなってさ、あの忘却じゃないけれども、忘れ去られる事なく、いじゅうされていくと思うんだよ。まあ、地域コミュニティーセンターみたいなのが、高台にポツンとあって集落ごとにあったら十分それであのソフト面の防災は、ハード面はだからシェルターと作ってあとソフト面は言い伝えっていうのはそうあの何かあれば、それは言い伝えしていく事ができるんだからそれやればいいって。 若い世代 Q: 若い世代にはドンドン来てほしいと思いますか。 A: うーん、まーね、ルール守る人が来て欲しいと思うけどな。うーん、あのマリンレジャーって言ったら、あの水上バイクとかでしょ、あいうののね、あれのこうあのなんだあの水上ボートみたいにこう水槽でこう水にいってあの陸に船上げてずーと行くでしょ。あれと同じ機能でさ、水上バイクっていうのは海水だったらあれ全部こう真水を通してさ、あのあれエンジンの中を洗わないとダメなのよ。それにはそういうプール、専門のプールが必要なのさ。どこにもないんだよ。だからみんな川でやってるんだよ。川でビュンビュンビュンビュンやってるのがそのためなのよ。で、ここ波ないでしょ、おもしろいように例えば交差点を作ってさ、色々こうやって走るとか、うーん、そういうなんかもう作ったら凄いと思うんだよ。いづれ一気にさ、商大のそこでこうプールを作って、川のあのポップ、ポップアップしてる真水あるんだからさ、それをこちらに返してきて持ってきてそこでプールを作ったらさ、もうみんなして来るのよ。黙ってたって、色んな発信しなくても、みんなあの口伝てで、雄勝こんなのあるんだって、おー行ってみよう行ってみような世界なのよ。うん、みんな水上バイク持ってる人多いんだよ。そしたらそういうなんていうのさ、例えばデモンストレーションなんかこう水上バイク祭りなんかのイベントでやったらすごいと思うしさ、そしてそういう機能が燃料きゅうも出来る、そしてそういうコースもあるからさ、そこでなんつうのアマチュア競技なんかもできるようなあの場所があるんですよ。雄勝の魅力っていうのは黙っててもよい所になれば、そういうことをさね、提供できるあの、膨大な予算はいらない、天然のままでさ、それができるんだもんな。 将来の雄勝 あまりにぎやかなる必要はないだけどな。うーん、やっぱりこう、静かなこう、まあ、なって、なるって言う静かな町でいいから、まあ、雄勝の良さをわかって入ってくる人が常にこうね、(おうれい?)するような、そういう町になってくれたらいいなと思うな。雄勝の、雄勝のより所をなんていうの、行ってみたいってなふうに雄勝にさ、足を運ぶ、そういう魅力な町があったらいいかなとも思うな。 インタビュー一覧へ戻る

阿部 貴之さん

インタビュー一覧へ戻る 雄勝の浜のひとつである水浜出身者として、また、長男としての視点からのお話を伺うことができました。現在は宮城県漁業雄勝湾支所の支所長として務めていらっしゃいます。 近所づきあい Q:近所の人々の付き合いってのはどうでしたか 阿部氏:近所づきあいってのはいっぱいありましたよね、普通になんだろう、家にほとんどカギはかかってないですから、私も父親が仕事をしてて、母親も家で床屋みたいなのしてたんですよ、だから隣の家の人に育てられたみたいなもんなんですよ。だから会うと言われるんですけど、母親に怒られて家でして、探してるんだけどいなくて、隣の家に土足で入ってこたつにはいってたっていう、隣の家も誰もいないんですよ、でもこたつに入ってたっていう、こういう風に言われるくらい、私四人兄弟なんですけど、私はほんとに隣の家、次の弟は前の家とかって、ほとんど自分で育ててない。妹ぐらいになってくると自分のうちでとか、私と弟が育てるとかそんな感じだったんで、今でもかわいがってもらってます。 長男の役目と集まれる場所 Q:さきほど長男だから雄勝に戻ってきたいっておっしゃってたんですけど、それはどういった考え 阿部氏:まず、自分ちでお墓地元に作りますけど、世話っていうとあれですけど、兄弟も出てるし、そうすると地元に帰ってくるタイミングがなかなかないし、うちのいとこのおばちゃんとかにも千葉とかに出ててたまに帰ってくるのはうちだったんですよ、なんでそういう場所を残したいなっていうのはありましたね。けっこういとこの兄ちゃんとかも、そのおじさんもふたり息子いるんですけど、まぁみんなでどこにいくこともできないんで飲もうかってなるとどこにいくこともできないんで、まあうちで飲もうかって、そういうの昔からずっとやってると帰ってくるうちは残したいなって思いましたね。 Q:やっぱりみなさんが集まるような場所は必要 阿部氏:必要だと思いますよ、今こうしてなくなったからこそどっかそういう場所ってほしいよねってのあるんですけど、うちのいとこのおじさんとかはもともと養殖ずっとしてるんで、両方、一件はうちのこったんで、もう一人の方もうちをたてて、今はお邪魔する方になってます、やっぱりそういう場所がないとなかなか来れない、仕事にはきますけど泊まるっていう場所がないじゃないですか、そうすると一回一回帰んなきゃいけないってのがさみしいなって Q:こうやってみなさんが集まる機会ってのは震災前と比べてどうですか、減ったり 阿部氏:減ってますよ、集まって帰る場所がないじゃないですか今までだったら歩いて行ける距離にあったのがどうしても車でってなると来るのも大変だしな、帰るのも大変だしなって、何かがないと集まらない 来てほしい Q:最後の質問になるんですけども、そのこちらWEBSITEにものせるのでだくさんの人も見ると思うのでメッセージとか Q:いいたいことなんでも、こっちのこととか全然テレビで流れてないので Q:伝えたいこと、言いそびれちゃったこと 阿部氏:言いそびれちゃったこと、まぁまずは雄勝に来てほしいってこと、やっぱり現状見てもらって、こういう中でも頑張ってる人がいるっていうのもみんなに知ってほしいってのはありますね。そんで雄勝に来てもらっていいところをどんどん探してもらいたい、そしてそういうところをこっちでも大きくしていきたいっていうことくらいですね インタビュー一覧へ戻る

小木曽 清さん

インタビュー一覧へ戻る 教員になられて31年目、大須小学校の教頭先生になられて今年で2年目です。震災後、小木曽さん自ら被災地の小学校での勤務を希望したそうです。雄勝出身者ではありませんが、雄勝の子どもたち、町の人たちを客観的な視点から語ってくださいました。 自慢のふるさと 漁業やってくとか自分の跡次とかあんまりいないよね、親も自分のやりたい仕事につけっていう親だと思うから、そうすると就職先がないのでね、でもやっぱり自分の田舎はここだっていう風にね、帰ってきてはいるけど、夏休みになるとね小学生とかきてるので、田舎でかえってきてるんだるなって、そういう感じでおじいさんおばあさんのところに帰省するっていう場所なんだろうなって、それがこどもたちにとって、今の小中学生が大人になって出て行ったときに、自慢の故郷になってほしいなって思いますね、でていったとしても自分の生まれ育ったとこはこんなに自然に恵まれているっていう誇りに思ってね出て行ってほしい 浜ごとのつながり Q:客観的に見て大須の人とかって絆とかって強い印象はうけますか 小木曽氏:大須学区って4つの地区があって、大須地区熊沢地区桑浜地区、大須3区、大須地区は大須小学校、3区ってのはいまの3つの、3区は3つあるからじゃなくて、2区と3区があるから、それぞれの地区で仲がいい、漁するのもそれぞれの浜できまりがあるみたいで、ピーっていう笛の合図でだーって船をだして自分の好きな場所にってウニをとるとかわかめを取るってとこもあるし、最初っから船を出してて、サイレンがなるとばーってとるとか、それぞれの地区で決まりがあるらしい、やっぱりそういう浜の繋がりとかってのはかたい 復興状況 Q:現在の雄勝の様子、復興も含めてどう思われますか 小木曽氏:雄勝3区については徐々に復興漁業に関してはホヤも今年から、ホヤって3年かかるからね、あとは、銀ざけとか、大須3区では銀ざけしてないけど雄勝3区では復活してきてるし、あとは復興住宅とか建てるだけの段階になってきてるしね、そういう段階ではいいと思うけど、雄勝の町は全然だよね。ほとんどひといないでしょ、あるのはたなこや(仮設商店街)さん、硯組合のプレハブが増えたのかな、あとはみうら海産と、やおやさん、あとは水産会社が工場ができたよね、あれぐらいしかないよね、話によると8メーターから9メーターかさあげするっていうけど、ところどころ積んではあるけど、あれがかさあげなのかわからない、先が見えない、進んでるとは言えないと思いますね インタビュー一覧へ戻る

高橋 武彦さん

インタビュー一覧へ戻る 南三陸観光バス会社社長であり、奥様と雄勝町内の地区自治会もまとめていらっしゃいます。明るく「当たり前に感謝」とおっしゃる非常に前向きなご夫婦でした。 雄勝の町 高橋氏:生まれも育ちも雄勝町、震災にあうまで雄勝です。 Q:その中のどの部分 高橋氏:雄勝の中心で上雄勝地区、海岸から250メーター Q:その町の様子っていうのは小さいころからどんな感じでしたか 高橋氏:小さいころから育ったんで海の幸も山の幸もいいとこ、ただちょっと田舎で不便なとこもあるんだけど、そこがいいとこで・・・だからやっぱり雄勝町ものもの私らもかえることにしたんですけど ふるさと Q:やっぱり3年すんで慣れてきたっていうことで、生まれ育った前の場所と比べてもどうですか 高橋氏:やっぱり遠く感じるね、雄勝の町たまにいこうとするんだけど、結構遠く感じるんだよね。同じ距離なんだけど。でもいけばねいいなって Q:遠く感じるのは心の距離が遠くなっちゃったっていう感じですか 高橋氏:いやー1か月に1回私行くか行かないかちょっと今親戚がいて一か月休み・・・・て、だからちょっと雄勝はねようがないといかないんだよね、気持ちの中では遠くなったかもね、でもいざ帰るとやっぱりいいよね Q:故郷っていう感じはしますか 高橋氏:しますね、やっぱり何じゅうねん60年近く、わし今63だから、60年も生まれ育ったところなんで、まぁなんにもなくなってしまうとこんなに狭いところだったんだなって、まえはうちぎっしりだったでしょ道路んとこまで、だから雄勝町広いとこだなと思ってたけど、いざなくなってしまうとやっぱり 夫婦の連携 雄勝に帰って好きなことやろっかって女房と言ってるんだけど、で、いま雄勝地区の中心地に30世帯くらいもどるんですよ、これからうちつくるんですけど、でそのことで今一生懸命動いてるのがうちの女房でして、わしは何もしてないから、最初は何年越しの計画立てて、会社どうやってって1年後にこうしよ2年後にこうしよ3年後にこうしよ4年後にこうしよって、ないよね、わしはその時の勘で、代表っていうのは決めなくちゃ、専務とかなら社長今いないからわかりませんて、ところが社長がいいかわるいかって決定しなくちゃいけない、勘だよ勘 インタビュー一覧へ戻る

阿部 優一郎さん

インタビュー一覧へ戻る 雄勝に産まれ育ち、震災時は福島で高校教師として働いていた阿部優一郎さん。 震災で母親と弟夫婦を亡くしたことを機に、雄勝に戻り、漁師としての家業を継ぎました。新米漁師としての苦労や復興についてのお考え、家族のお話など様々なことを聞かせてくれました。 浜の人は家族 Q: 急に漁師さんをすることになった時に、ノウハウとか前に教えてくれる先輩の漁師さんとかいらっしゃいましたか。 A: はい。まあ逆にそれがないとやれる仕事じゃないので、あのーまあ親父もまあずっとやってきた仕事ですしね。まあ私も無いなり諸なり、小さい頃一緒に観て、まあ、た、多少知ってた分もあるんですけど、自分がいざやるなると、やっぱりあのー生活のリズムがまずほら、180度違うような世界よね。まあ最近、ようやくになってようやく、体の体内時計がリセットされてきて、漁師の仕事にこう変わってきたのかなっていう感じで。で、やっぱ周りの人っていうのは、こう特にこの雄勝というところはあのー昔ながらのね、こう近所とのつながりっていうか、まあ結局浜の人がこう皆家族みたいなところがあるので、であのうちも、うちの家族がね、こういう状況になってしまったのも皆知ってますし、で、まあ帰ってくる、やるってなれば、こう頑張れってな形で、随分こう手を貸すことはなくても貸してもらうっていうことはかなり多くて今日に至ってますけど… 海に対する思い うーーん、まあいろんな思いありますよね。うん、まあやっぱりあのーこの浜で育って、やっぱこう、まあ漁師気質というか、こうなんかこう気持ちがなんていうか、こう荒っぽいような人が多かった気がして、でまあ自分がその中で育って、まあ教師の道になった時に、結構やっぱね教師になった時に、ここで育ったそのなんていうか、こう人とのかかわり方っていうかまあそういう風に案外教師の道こう活かせたりしてね。非常に雄勝に産まれて良かったなーって思うことも多かったですし、後はまあ家族とか、周りにいた人たちの影響とかはもちろんあると思ってるので、海のこう近くで育ってよかったなっていう風な思いもやっぱありますしね。 まあその反面あとは、こう津波でまあこんなことになってしまって…っていう風なことで、残念な思いというか、うーん、まあ家族返してくれよっていう風な思いもありますしね。ちょっと複雑な思いはあるかな。 雄勝の現状と未来 全然満足してないですねー。で、さっき言ったようにこう人がこう住んで、街っていうかこうコミュニティとしてのこう体をなしてないというか。もう今は言える事はもう、先がやっぱりないというか、もう今残ってる人たちの年齢層を考えると、特にここ数年で何かしらこう手を打つところはうっていかないと、もう人口の自然増っていうのは、もう望めなくなっているという現実がありますからね。で、そこで何か、それこそもう、もう少し若い人たちが、まあ秀平くんみたいな世代の人たちが、やっぱなんか住んでみたいなっていうか、やっぱ雄勝に戻ろうとか、まあ出て行った人たちもね。何かこう、そういうもうのを埋めるようなものをこう作ってくって事をしないと、ただやっぱりこう今残ってた、残ったお年寄りの人が亡くなってもう本当にこう限界集落とかって言葉で言われてますけど、まあそういう地域にだけはしたくないなっていう…思いは強いですよね。 インタビュー一覧へ戻る

上山 正彦さん

インタビュー一覧へ戻る 雄勝仮設商店街でお買いものと食事ができる魚屋「南三陸うまいもの屋 洸洋」を経営している上山正彦さん。お魚屋さんのことや神楽のこと、雄勝の将来のことを時々ジョークを挟みながら楽しくお話して頂きました。 海の存在 上山氏: 海でそのレジャーをするって言うよりは、何か海に潜って物を取るっていうのが基本的、基本ていうかその、まぁなんていうのその今でいう密漁とかすごい厳しくもなかった感じの、まぁ地元っていう強み。でまぁ、それが一つの自然体系って感じで、まぁ親なり、その地元の人から言われて、まぁやってるっていう。まぁだから海でバーベキューしたり、そのレジャーっていうのは、もうほんと、高校入ってから、何これっていう感じ。そう、海と戯れるってのはこんなのかみたいな感じで。でしたね 遠洋漁業 上山氏: で結構ね、皆さんは、その雄勝は、その漁師町だっていう、ことを言うんですけど、意外とそうじゃない部分も多いんですよ。あの漁師は漁師なんですけど、昔のーそのうちなおやじもそうなんですけど、遠洋漁業、に乗ってる人が多くて、そこでまず一つのその財をなすっていうか、ある程度の資金を貯めて、それでまぁあの体が動けるうちに、養殖の、をしたりとか。まぁ、養殖をおそくやってんのを、拡大するために一旦船に乗って、あのお金を貯めてっていう 生徒: 遠洋漁業の方が生計は立てやすい 上山氏: 昔はそうだったんです。今あの、まぁ今分かるかどうかあれなんですけど、昔はちょっと二百海里問題とか、あってその、今すんごいあの、漁業ってかその、漁船は色んな規制があるじゃないですか、そこ、他の諸外国と。それが結局、二百海里規制が入って、で、まぁ、言い方悪いと乱獲だったんですよね、日本の船っていうのは。まぁ、そういう部分にたぶんとらえられたのかなっていうのがあって。まーだからとにかく、うちらのおやじだって、おやじ世代の人がたぶん多いと思うのは、その中学校卒業したら、もうそのまま船乗っちゃえみたいな。うちのおっちゃんたちもそうなんだけど、とにかく中学卒業して、あのー、船に乗って、まぁお金を稼ぐ。体丈夫だったらもう一年我慢すれば家建つって言われたくらい、稼げたっていう 震災後の気持ち 上山氏: 震災に、そのー、あって、仕事がどうこうとかっていうのをすごい考えたんだけど、まやんなきゃないのは、とにかく、神楽やんなきゃないなって思って。で例えばその、例えば神楽をね、してて、で震災でもう雄勝なんてもう働ける場所もねぇから、もうもう、まだ、なんとか頑張れる年齢だから、仙台とか東京行って、お金稼ぐかっては考えなかったね。とにかくまずは、道具は流出して、それ探しに行って、なんとかそれこれやんねぇとやばいよねっていう感じ。やばいよねっていうか、やらなダメでしょってみたいな感じ、だったから。だからその、なんだろ、その、あの津波を、またぶん、人生で二度と見たくはない津波だったけど、ま見てしまって。でも、なんか、この世の終わりだって一瞬は思ったんだけど、まぁその波がひけたあとには、まぁ、何とかしなきゃいけないんだろうねっていう感覚。あー、皆建物なくなってしまったけど、ま自分らも生きてんだし、何とかなんでしょっていう。ちょっと楽観的なとこもあったかなっていう感じ 将来の目標 上山氏: うん、でっかい夢ってのは、やっぱりあれですよ。ま、この、今せっかく立ち上げた、その飲食店を極端に大きくする気はないんですけども、まぁ、なんてかな、親しみられやすいお店にして、まぁ誰かにちょっと任せて、で、自分は神楽の方に専念したいなっていうのは、うーん、ありますね。その神楽に専念するっつうのは、なんてのその雄勝のその地域のコミュニティの方に力を入れたいっていう。で、やっぱり、ま、その、自分が神楽をやりたいだけじゃなくて、その後継者の問題がすごい、あのー、やっぱり、なかなか若い人たちが、若い世代がやるっていう、魅力が、魅力作りっていうのがやっぱり欠けてるので。で、ま、うちらは、その歴史上の中では、神楽を継承していく中の通過点の人間なので、これをまた次世代に残すっていう役割がたぶん一番重要だと思うんですよ。なので、そのー、昔からあるものを、聞いた、聞いてみて、伝えて、それをまた次の世代に、そのバトンを渡す役割をしっかりやりたいんだってのが今の自分の中での夢かなっていう インタビュー一覧へ戻る

永沼 のり子さん

インタビュー一覧へ戻る 仙台で生まれて育ち、結婚されてから雄勝町に引越してきた永沼のり子さん。雄勝に来たときのことや漁師の妻としてのお話をしていただきました。家事と海での仕事を両方こなしている姿が格好良いお母さんです。 雄勝の良いところ 生徒: 何か仙台と、なんかここが一番驚いた、なんか違いで驚いたとか、なんかどのような違いがありましたか? 永沼氏: あっ、あのね、まず自然は綺麗ですよね。空も綺麗だし、夜空も、星とかね、あと海もすごく綺麗だし。あと、人がねやっぱり、この辺の人は除け者にしないんです。うん、一応人間だから、誰々さんがあぁいう風に言ったとか言うんだけども、いざこうまとまると、必ずどの人も入れるっていうか。うん、そういうところは何かすごいなって。町場だと、もう全然孤立しちゃったり、もう全然話しなかったりっていうのがあるんだけども、もうこっちは全然。うーん、そういうのはすごくびっくりしました 気持ちの変化 永沼氏: うちの主人が五年前位に脳梗塞になってから、一緒に海に行くようになって、初めてこう何か、こうなんていうの、自分の中にあったものがすっきりしたっていうか。うん 生徒: それはなんか、なんだろ 生徒: もやもやしたことが 永沼氏: うん、なんかこう、今までは、そんな、そんなに海とか行ってなくって、なんか私海いーなーって、こうなんか、あんまりいい感じじゃなかったんですね、自分の中で納得できないっていうか。なんでここにいるの?みたいな感じもあったんだけども。でも、病気して、いや、行かなくちゃいけないんだって思ってからは、何かもう、きれたって感じ、です 生徒: じゃその当時の、その海に対する印象とかも全然今 永沼氏: 違います。うん、だから海に行くようになってから、お婆さんも変わったし、私に対して、うん。で、前にね、ちょっと聞いたことあるんです、何年か経ってからね。そしたら、私が途中でここから出ていくと思ったらしいんです、最初の頃。うん、だからなんか、信用できなかったみたいなことを、前に話してくれたことがあって 生徒: それって何年位かかって、そのー 永沼氏: あー、結構ー。このお爺さん、お婆さん亡くなってからくらいかな。うん 気持ちの変化 -漁業に携わる女性- 生徒: なんか、そのお義母さんがなんか認めてもら、海に出てから認めてもらったってことなんですけど。やっぱりここにずっと住んでた人は、海に、で働くってことについて、なんか、しっかり考えとかを持ってたっていうか、そういう何かあったんですかね? 生徒: 特別な想いみたいな 永沼氏: うーん。あのね、ここの地区だけが割と女の人も海に行くんですね。他の地区は、もうお父さんだけとか、ま、ほとんどなんですね、うん 生徒: それってなんで、なんでなのかって 永沼氏: だから、お婆さんは私が海に行くことによって、あっすごいなって逆に思ってくれたみたいなんです。仙台から来て、海に行ってくれてみたいな。うん 生徒: そういう風に、信用に繋がった、あー 生徒: 実際、海出て、なんかすごい大変だったこととかってありますか? 永沼氏: あっ、そういうのはあまりなかったです、うん。だから、自分の中で、こう、なんか、あっこんなことで自分がなんかウジウジしてたんだって、逆に。うーん、そういう感じがありましたね。行ってみたら、全然、何でこんなことで、あっ、こうなんか、悩んでたのかなーって 伝えたいこと ま、風化させないってよく言うけどもそれはたぶん無理だと思うんですよね。ここに住む人以外の方は、やっぱり自分の生活でたぶん一生懸命になっちゃって、新聞とか雑誌を見て、あっ思い出すって感じだと思うんですね。だから、やっぱり、自分の身にそういうことが起こったら、どうしようっていう判断をしてもらえれば、ま、犠牲者を出さないようにね。一人一人が私たちの二の舞にならないようにしてほしいなっていうのはあります 生徒: 判断っていうのは、どういう判断ですか? 永沼氏: うん、やっぱり、ここでは今まで津波が来ても、上まで上がってこないっていうのがもう何十年もあって、昔からそういう風に言われてきたんです。だから、この浜まで来るはずがないみたいな。でも、実際に来たから。だから、やっぱり、来なかったから来ないんじゃなくて、来るかもしれないっていうのを皆いつでも持っててほしいなって、うーん。だから、子ども達にも言うんですね。地震がきたら、まずどこに逃げようかっていうのを、必ず思っててねーって。で、親は親で逃げるから、やっぱり自分の身が一番大事だからっては、一応言っとくんです。うーん インタビュー一覧へ戻る

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