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福島

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清野和也さん

インタビューページへ戻る 清野さんは山形県出身、大学生の時に福島に住みはじめました。現在は「NPO法人チーム福島」という団体の中にある「福島ひまわり里親プロジェクト」の事務局を担当されています。 福島の地域説明、風評被害について、影響 面積が全国で第3位。これだけ広いんですよっていうのを頭入れてほしいんですね。 これだけ広いから地域によって被害が全然違う。 大きく浜通と仲通と会津地方って分かれてます。浜通りは今日行かれたところが。いわき市ってのも浜通りで原発被害が一番大きかったのが浜通りっていう地域なんですけど。会津地方ってのが八重の桜の舞台になってるところで、ここはすごく放射線量が低い本当に東京とかと変わらないくらい低くて。なのでよく、福島の被害、放射能被害で風評被害って言葉使うと思うんですけど、ここは本当に風評被害って呼ばれている地域です。 今みなさんがいるのが仲通りって言って、ここは福島市とか郡山市とか新幹線とかで通ると思うんですけど。ここは風評被害の地域と実害被害の地域。というのは本当に放射能によって作物が採れなくなっている地域が地域によってバラバラな地域ですね。ですのでこのあたりも決して放射能が低い地域ではない。今日来る時に放射能測定器とかそこらへんにあったと思うんですけど、他の地域と比べればちょっと高くなってしまうって事でやっぱり子供たちもそういう事の中で生きてしまっているっていう。最後浜通りっていう地域が今日見て頂いたいわき市だったり、あとフラガールっていうのが映画でも、ああいうのの舞台になったのは浜通りっていう地域で。もともとは観光がメインだったので、どうしても震災の影響が観光に行ってしまったので。この地域は実害って言われてる地域です。でこういう風に広いんだなって事を分かってもらうと、福島って一色単に風評被害って言っても、ここも風評被害っていう考え方でもなく、逆に、福島ってひどいんでしょって考え方にもならないかなって思います。北海道みたいなもんなんで、北海道って言い過ぎなんですけど。北海道の端っこで起こった事は関係ないくらいじゃないですか。 3.11後の変化:人口の減少 で、福島、震災があって何が変わったかと言うと、まず人口がぐっと減ってます。これは現在って言っても昨年のデータなんですけど。6万1千人が確実に減っている。これは亡くなったとかだけではなくて、結局県外に避難されたりとか、例えばこの避難地域っていう人たちは福島その地域に住めないので、県外に住まれているっていう人も合わせての数字です。 観光への影響 あとこれデータないんですけど、震災があって何が一番落ち込んだかっていうと、もちろん農業分野とか漁業、ってのが一番なんですけど、次に落ち込んでるのか観光の分野なんですね。やっぱり風評被害ってところ、特に先ほど見た会津ってところは観光がメインなので、あそこは本当に風評被害で、全然東京と変わらないのに、でもキャンプ場の人たちが全然人が来ないって。前までは学校さんたちが子供たちを連れて来ていたのに、今は親の反対で来ない、って状況があって。観光ってのががくって落ちてます。でその観光の中でも教育旅行、みなさんで言うと例えば小学校中学校の頃修学旅行って行かれますよね?あれって福島で言えば会津地方だったり浜通りってのが修学旅行で来るかたってのが多かったんですね。歴史を学ぼうっていうので。なんですけどこれが9割減、なので全然人が来なくなってしまっているって中でどうにかしてこの観光だったり、そいういった面で僕らができること。しかも続けて、継続的にやらないと修学旅行って3年後のを今決める、で決まったら3年間はずっと同じ所になるらしいんですね。なのでその時その時一瞬だけやっても、継続して出来るプロジェクトはないか、っていう所で本題に入るんですけど。 福島ひまわり里親プロジェクト 福島ひまわり里親プロジェクトっていうプロジェクトをさせていただいております。 これはですねNPO法人チーム福島っていう、福島県内の若手経営者、大体20代から一番上でも40代前半の方、計10名でさせて頂いているプロジェクトです。で、どんなプロジェクトかというと、全国の方々に知的障害者の方にパック詰めして頂いたひまわりの種っていうのを販売して、それを全国の学校だたりご家庭で育ててもらう。で咲かせた種を福島に送って頂いて、今度はその種を福島県内で咲かせる。そうする事で自分たちのひまわりの子供が福島で咲いているという事で、観光誘致と、あとは障碍者の方の雇用と、これを通して例えば学校さんですと復興に興味を持つということで風化と教育対策っておいうことでやらせて頂いているプロジェクトです。2011年に始まって何年目、3年目になるんですけれど、全国で10万員以上の方がこのプロジェクトに関わって下さっていて、 福島県内2012年が9千カ所で、今年が1万6千カ所で復興のシンボルとしてひまわりを咲かせて頂いています。 まあ流れとしては今の通りなんですけれども、ひまわりの種を購入して、全国でそだてて、って。最初の年は育てる種がないので2011年は完全に全国たで。全国で育ててくださいってやって、大体ひまわりの種が5トンくらいと、あと一緒に『頑張ってね』っていう応援のメッセージが全国から届いたんですね。それがこのプロジェクトに届きました。 で2012年には福島県内の観光地だったりあとは行政だったり学校だったりっていう所に届けてもらって、ひまわりをさかせる事で観光の名所というか、ひまわりの迷路を作ったりとかで、ひとつの観光地ということで作らせて頂きました。そして2013年は入ってないんですけど、2013年も同様に2012年に送っていただいた種を1万6千カ所で咲かせたという事になっております。 福島ひまわり里親プロジェクト:目的 目的、 ちょっと話したんですけど、最初この雇用対策っていう話をさせて頂きました。 で、二本松市ってところが福島のとなりにあるんですけど、そこの障害者施設が震災によってお仕事全然なくなっちゃったんですね。っていうのはその人たちがやっていたのがおまんじゅうの箱入れのお仕事。と、野菜作りだったんですけど、野菜作りはやっぱり放射能で二本松は作っちゃダメだったので、それでダメになったのと、まんじゅうの箱入れっていうのが、結局震災があって観光がダメになっちゃって、観光がダメになっちゃうとおまんじゅうも売れなくなっちゃうんです。でお土産の箱売りっていうのをやっていたんで、ちょっと障害者さんに出す余裕っていうのがなくなってしまって、障害者さんの仕事がなくなってしまったんです。このかた達は作業所に来るのは良いんだけど、仕事が全然なくなっちゃってるっていう状況で、家の代表とかは、だっから違う地域に移動して仕事されたらどうかっていう事も提案したんですけど、結局霜害を持ってるかたっていうのは、そこに通うのでも2年も3年とかかけてやっと自分でその土地で暮らして行けるようにるっていう状況で、いきなり新しい土地でまたゼロから始めるってなるとまたたくさんの労力だったり時間がかかってしまうっていうのがあるんdねすね。なのでっこで出来る事はなにかないかなっていうところでこのひまわりの種のパック詰め。種は海外産なんですね。なのでその種を買って、その種をスプーンで救って袋に入れて販売しているんですけどそういう作業だったり、ちょっと見づらいんですけどこういう種と一緒にひまわりのラベルをつけて送ってて、こいうラベルの書き方とか。あとは全国で届いた種の仕分け作業とか。そういうのをお仕事としてさせて頂いてます。で、種は1パック500円で販売してるんですけど、そのお金がこういう作業代っていう事で、使わせて頂いております。(だいたい何名くらいいらっしゃるんですか?) ここが今40名くらいでしたかね。その40名の中でプロジェクト担当っていう方もいて、今は震災とかでいろんなプロジェクトも増えてきたので担当でお豆腐を作ったりもされているので、そういう事をされている人もいて。で今は野菜とかも普通に作れるようになったので農業担当って事もされてます。 清野さん自身のプロジェクトによるご自身の変化 先ほどお話頂いた子供たちの将来の夢への影響や価値観の変化の影響がありますが、清野さんご自身で価値観の変化などはありましたか?僕自身がですね、僕自身がか。でもやっぱり、自分の為って視点がなくなったというか。僕がこのプロジェクトに関わって変わったのは、未来の事のためだったりとか、そういう視点って持ったことなかったんですね。そんな、知らんわーって思ってたんですけど、でもこういうプロジェクトでそういう子達と関わったりとかいろんな事想像するわけですよね、このプロジェクトって何の為にやってるのかなって。何のためにってなった時に、やっぱ自分の為だけじゃやってけないなって。これ震災があったからって事にも直結してくんですけど、やっぱこうやって全国の方が福島の事を我がごとのように思ってやってくださってる姿って多分僕が一番ダイレクトに見れてるんで、自分もそうなりたいなだったり、自分がやる事で未来がもっと良くなるといいなって視点に変わりましたね。僕らがどうこうしてるんじゃないので、僕らは種を電話とかネットで注文受けたのを送るだけって、言ってしまえば。もちろんその中で色んな企画とかしますけど、でも僕らは全国で咲かせてくれないことにはなにも進まないプロジェクトで、福島で咲かせてくれなければ。やってくださってる方がすごいです。 今後のどうしていくか、理念について プロジェクトにも共通してるんですけど、うちの理念っていうのがfor you for Japanっていうんですね。つまり目の前の事に、人の為に何かするってのが結局日本の為に繋がってるっていう考え方で。それって僕らでいうと福島の為ってなるんですけど。で僕らって今、世界中から見て福島っていうのは同情の町。ちょっとかわいそうな町って思われてる部分が結構多いと思うんですね。だkら海外とかでもイベントが結構あると思うんですけどそれって結構同情心から来てるんですよ。それを今度は尊敬の目に変えて行きたい。あ、福島ってすごいな、こんな人たちいるんだ。じゃあ福島に学びに行こうって。さっきも話したんですけど、そういう事をプロジェクトを通して発信していきたいなってのもあります。僕個人としてもそういう時に何ができるかなって時に福島の人たちのルーツだったりこの土地っていうのがどういう人たちがいるのかっていうのを知ってそれをまた伝えて行くっていくのも指名なのかなっておもってるので。そういう風に、同情の町から尊敬の町って。これはプロジェクト全体でも共有してるんですけど。それが一番ですかね。 インタビューページへ戻る Advertisements

九頭見淑子さん

インタビューページへ戻る 九頭見さんは、福島県いわき市、湯本にある操業100年の和菓子屋 「久つみ」を経営しています。実際九頭見さんのお店で3.11の震災後の生活への影響や、現在の状況、震災後の様々な心境などのお話をお聞きしました。 3.11の震災後の変化(街の変化、商売の変化) 売上的にはね、三分の一だね。例え…簡単に言ったら100万…一か月100万売れてたとしたら30万…もう本当に観光客がいない町になっちゃったからね。もう今は旅館25軒位あるんだけどね、ちゃんとした営業でお客さん…観光客だけでやってる旅館1軒しかいない。後の24軒のうち泊めて仕事してる…あの…観光地・観光客以外の作業員の人みんないるのでどこの旅館も、その他はね、三分の一くらいのお部屋をね、一般の観光の人に状況なので…もう本当にヒドイもんだよ。だからバスをね、まず見ないから、バス通んないから…いつも、今まではね、今日もう土曜日でしょ…土曜日だから道せまい所をやっとおっきい観光バスが曲がるのが大変そうなのをしょっちゅうみてたりね…駐車場には5台6台とバスが停まってたけど…今いないからバスが。まずこない! バスが来ても「ハワイアンズ」には東京からね、直接無料バスみたいなバスが通っていて…後観光バスも「ハワイアンズ」は作業員の人がいないのでそういう意味では一人勝ちだね…「今は観光客がのびてきている」ってハワイアンズ言うんだけども…その伸びてるひとつの理由は国とか東京都とかそういう所で補助金を出していて補助金を出して、1人例えば5,000円なら5,000円を補助します…いわきとかに泊まった場合。けどこっち(いわき市)泊まる所ないでしょ?だからみんなハワイアンズにバスで行っちゃうわけよ。だから「ハワイアンズ」はそれで潤っているで…今、結構、お客さんはいるよ。 震災以降の変化について、心境 それなりに努力はしても努力は努力として、でも何もやらないよりはね、人を呼ぶように、子供はここで学際をやったりね…よく学校とかで文化祭をやるけれども町で小学校中学校高校とかみんなきてね、演劇…演劇はやらなかったな、歌と吹奏学とか後は剣道は剣道の人が盾とかやったりだとか、いろいろレスリングだとか、子供たちが集まると親も来るし、おじいちゃんおばあちゃんも来るし結構いっぱい一日だけでも人が集まって賑やかだった日があったのね。で、それ毎日やって欲しいなあーっとか思っちゃったりとかね、でもそんなことできるはずもないんだけどもね。本当に、夜ここで立ってここの道路350メートルもあるんだけど、向うまで見えるわけよ、人が通っていないから、寂しいよね。もうだって駅から降りてくる人なんか前から見たら全然減っているし、駅の自動券売機なんか連休っていったって売上金が例えば目標が50万とか100万とかだとしても全然やっぱり売れないって駅でも嘆いている。 今の状況、悲しみ、人々の思い 今ちっちゃかった子供が大きくなったときにきけん児が産まれたら、なければいいけど、あったらね、もう私たちの都合で呼んでなっちゃったら目回ってられないので、安心する所があるので、今いってもらっているんだけど、そういう人も旅館も若い人達はすぐに出てちゃったからね、子供たちに影響があるっていうからね、まして女のこのいる家族なんかお嫁に行くにも「福島の家があるの」って言うと絶対なんかなるって思われるらしく結構遠くにいっちゃったし。ここの角でお土産屋さんやってる所もやめちゃって、長野の方に行ってね、お店もだんだんだんだん減っていく一方でこれから….ゆったり館に行くには通らないか….一番の旅館のメイン通りの童謡館の近くあるんだけど、なーんにもなくなっちゃった壊してそのあとに出来ないから、もう戦後の終戦後の第二次世界大戦の焼け野原にぽつらぽつら家があるみたいな感じになっちゃってて、恥ずかしいというな投げ悲しいというか、でも後継者がいなければ家を建てる人もいないでしょー、だからなーって思うんだけども。本当の出来る事ならあの日の前で戻りたいって気持ちはあるけどもそれは出来ないことだから、これからの事を考えるって事だけで…自分達はもう家もあるしお店もなんとかね、自分達が食べて行く分はねなんとか、3分の1でもね、やらないよりは少しは利益が出るのでやってるって感じですね。 福島のイメージ、原発への思い 原発の事故がなければね、確かに300人以上いわき市も津波で亡くなっているので、沿岸沿いね、今もまだ復興していないのだけども、それと地震だけだったらね大丈夫だったとは思うけども、自分達の努力ではもう…フォローしきれない原発でね…この頃そんなに歩かなくなったけども…1年目、2年目は今ころの時間皆作業から帰ってきた人が本当にぞろぞろ、ぞろぞろものすごくいっぱい居たから。もう町がまるで観光地の色ではなくなっていた。 メディア/報道について でも一番最初のもう何が何だか報道もめちゃめちゃ、何が起きているのか、何ベクレル…何…そういう単位の話しもねどっちが大きくてどっちが少ないのかも分からないその原発に対しての知識って…だいたい皆もっていなかったので、何が起きてるんだろう…って思ったけど…本当にバスでねその送り迎えして作業員の人が朝の3時ころ行くんだよね、各旅館回っていくバスなんか見るとなんか本当戦地に向かう兵隊さんみたいな感じで、それが行ってきてまた帰ってきてってのを繰り返しで…異様だったね..そういう時の様子から今は落ち着いて見えるけれども原発そのものはみんな知ってるように汚染水でもう…うそばっかり言ってるしね、次から次からあっちこちから漏れてまた何十万ベクレルが出たとか言ってるけど新聞にのるのは本当に3行か4行ぐらいで。すごい大変な事が起きてるのにあんまり報道それなくなってきているし、実際はもうまもなく3月でね3年になるのに「何か変った事ありますか?」って聞かれても特にないですねえ…お客さんも戻ってきてるわけじゃないしね、逆にだんだんだんだんこれをいつまでもこんなことを5年たっても40年、10年たっても40年って40年40年ってのがせばまらずにもう私らの世代が、せいぜい平均寿命だとしてもあと20年ちょっとだからさ、その時代にはこのままいっちゃうのかなーっていう思いもいっぱいあってね。 今後への不安、考えについて そういう不安ね、そういうのは考えれば考えるほど不安が多くなるので、考えないようにしようとは思うのだけど、でも現実に毎月放射能検査はちゃんと来てね、わりと少なくなってきたんだよ、わりとね、測ってもらってるんだよ、そういうのはみんなやっているとは思う。後、食品の検査ね、それも保健所でやってもらって、「大丈夫です」をもらってやっているのだけども…それだってさ一日一日そんな、例えば菓子あけました、ここには放射能はこうですだのが一番上にあったら食べたくなくなっちゃうでしょー…だからそれは聞かれた時だけ言うことにしているのだけども、でも現実は…まあーお菓子はそれほどでもないけども、あの米とかねなんかやっぱり自分のところで作って子供にあげようと思っている人もいるけれども、子供は「もう結構です」って断られるしね、魚も得にそうだし、私なんかも親戚とかに毎年いまぐらいになったらサンマとか送ったりとかしてたけど、あの事故以来向うから「もう、結構ですから」とか断られたし、逆に果物とかも送ってきた人たちもパターっと送ってこないし…もうなんか…きん…親戚付き合いもそういういみでなくなっちゃうよね。じゃ、何を送ろうかと思うと全国共通の洗剤とかさ、ビールだとかさ、携わりないもの送ると…「お母さんのそういうお心遣いがよくわかります」みたいなお礼状がきたりしたりね…. インタビューページへ戻る

20130518 梅谷勝義 3

「もうこれはもうとりあえず天災と思ってまず対処していかないといけない、そのあとにじっくりとどういう責任になるかっていうのをやればいいのに、はじめっから責任、政治の責任、何もしてくれないとか、で情報をださない、と、その初動動作が自分は憤慨してましたね。」

20130518 梅谷勝義 2

「学生のころからある意味放射能と一緒に共存していこうかなと思ってて」

20130518 梅谷勝義 1

「道の駅で販売するときに有機の里のなんかワッペンとかあるんですよ。シールを、それを元気シールっていうんですよ。(シールがあるないだとお客さまの見る目は)違うようですよ。」

20130706 坂本和憲 3

「(さきほど、一度他のところの避難されて、4月ぐらいには戻ってらしたって仰ってたんですけど、戻ってらしたのはなぜでしょうか、そのお仕事の関係でしょうか?)仕事もあれだし、学校も始まるってときだったんで、子ども達が。それで戻ってきたしそれ別にそんな染量的に双葉郡内とか、福島郡山みたいに高いってわけでもなくて、原発でその一週間とかがいわきが高かっただけなんで、 あとはずっとその放射能のヨウ素のぶんがあって急に放射能の濃度があがってでも一週間たったら下がった。であのセシウムとかっていうのはいわきとはずいぶん上空を通り越して関東とかにいったみたいなんで( なるほど、その情報みたいのはってどちらから)それはあとですね。うちらもあっちにいっても何をするってこともないしただ普通だったら田んぼとか畑にいってれば良かったのも何もせず子どもらと公園で遊んでるだなんだって毎日同じこと繰り返してたし、こういうことやってたってて思って、その当時思えばなんですけど、あの当時思えばうちらこっちに帰ってきて仕事できるのか自分ちのうちからあと畑の財産どうなるのかなあっていう気持ちでむこうには避難してたんですけど。自分のふるさとはってもう戻れないのかなってそれを思うとなんつうんですかね、小さいころからずっと生まれ育ってきたじゃないですか、そうするとそっち地元のだった小さい頃からの友達なり近所のひとなりだでなんか寂しくて涙でてくる感じはありましたね(その避難してるときも) そうですね。で帰ってきたらやっぱりこっちのがいいなと」

20130706 坂本和憲 2

“(販売の形態といいますか、農協にだしていらっしゃるのかそれとも直売所という形で ) 長ネギに関してはここ9割か100パーは農協経由で色々な市場にいってますね。(西洋野菜に関しては) 西洋野菜に関しては農協に関係なく自分で市場経由で東京方面いったりあと自分で地元いわきのたいらっていうとこなんですけど、あちらの飲食店、地元のスパリゾートハワイアンさんとかで使ってもらってます。(それは直接売りにいかれるんですか。)そうですね、ハワイアンズさんに関しても自分から売りにいまは、前は市場通してたんですけど( その前というのは311よりも前?)いや、311後も市場通じてやってたんですけど、ちょって伝票関係でちょっともめてしまってしまいまして、それで直接ってことで。( あ、そうなんですか、その市場をとおすのと直接売っているのでは違いはおおきくは) いや、ないです、ただ震災前は野菜のほうは東京のほうでも結構有名なレストランとかに売り込みで営業いったりあと県内でもホテルさんとかと取引はしてましたけど、まあ震災後は色んな諸事情でそういうとことは縁がなくなっちゃったというのはありますし、ありますね。”

20130706 坂本和憲 1

“(その311の前と後でなんか変化っていうのは大きなおのはありました?)変化的には価格の面ではやはり震災直後は1ヶ月間はだいたい出荷停止だったんで そのぶん仕事できずにまああの第一原発のほうもくすぶってて危ないということでうちの姉妹らが避難してきたらということで東京とか埼玉のほうに避難、一時して、4月の頭にはもう帰ってきちゃったですけどまあそれ までそれ以降出荷すんのにしてる時期があったのにできなかったんで30Rほど廃棄処分になっちゃいましたね。でそれで価格も、出荷が始まったら、他産地、例年の半値ででしたがね。でそれ以降もそこ年よりは風評被害もあるせいか、若干安め。(その、風評被害というのは今も続いて)そうですね、価格的には続いて、まあ風評被害があるっていう感じでまあ個人的には本当に風評被害なのかどうなのかってやはりどこかものがあふれれば、そこの産地の色んな野菜でもまあだぶついて 値が高くなんないで まあいっぱいでるときはどうしてもだぶついてるから、安いって言う感じになるけど、そういう面あるとやっぱりかなり差があるような感じはしますね。”

20130706 折笠明憲 6

(これからの福島の農業について) “自分4Hクラブの会長やっていて、今自分が思ってるのは、食育というか、これからの農業を担う人たち、これからの子どもたちに、自分たちは一体何ができるだろうなっていうのをすごく今考えて行動してるんですね。で、一つのことを・・・ただ農業やるっていうのは・・・今「後継者不足後継者不足」って言ってるのが、あの、60代70代のおじいちゃんおばあちゃんが、いきなり20代の人たちに、「やれよ、同じようにやれよ」って言ったってたぶんみんな「無理です」って言うのが多いんですよ。で、それが自分が年齢、今もう30近くになって、30になってから、じゃあ10代の人に伝えるよりは、もう20代って若手でうちらが集まってる中で、じゃあ、今のうちらから自分の下の若いやつらにどうやって伝えて、どうやって下を育てていってあげることができるかっていうのを、一つの方法として考えられればいいかなあって思って今やっていて、えー、子どもたちに、あの、この農業というのを知ってもらってそれの上で「安全なんだよ」っていうのをPRしていきたいなっていうのが一つの今これからの農業として俺が考えてることで、実際あの、保育園のほうに出向いて、野菜のほうを作って、あの、みんなで収穫やろうとか種まいてみようとか言うのもやってますし、あと高校生の受け入れもやってますし。今年は農業短大が、あの、矢吹っていう、白河に近い所にありますので、あそこでスポーツ交流会をして、短大生で、若い農業者、うちら20代30代の農業者が立派に「農業で飯を食ってるんだよ、これは普通の仕事なんだよ」っていうのを伝えることができればなっていうので交流会のほうも企画して、やったりとかして。その・・・上の人たちや消費者っていうのもあるんですけど、消費者にやんなきゃいけないのはもうみんなでやってることなんで、自分たち今20代30代手前、30代頭の人たちと、次の・・・本当にすぐ下の次の人らが繋がることでこれからのこの福島の農業をもっと大きく、もっと、あの、堅実なものにできないかなと思って、それに対しては色々やってみたいなと思って今活動してるというか、はい。農業やってますので、はい。ちょっとそこらは、今頑張ってるところですかね。”

20130706 折笠明憲 5

20130706 折笠明憲 4 の内容の続き “今もう復興だなんだっていうので、ある程度進んできてますだなんだって言ってますけども、そこの姿を見てしまうと、まだまだあれなんだなあ・・・まだ普通の生活ができるところまで戻ってないんだなっていうのがすごくよくわかるというか、目の当りにしてきましたね。だからとっても・・・うーん、なんて言えばいいのかなって。うーん、すごく自分のできることが小さいんだけども何かしてあげたいし、こういうのを人の・・・うーん、そうですね、その四国の人にも言ったんですけど、今まだ、まだ復活というか、復興も終わっていない状況というのを、そんな中でも私たち農業やってるんだよっていうのを、その四国の青年クラブの方々に、伝えてもらえればいいというので、あの映像だったり写真だったりいろいろ撮ってってもらって、はしたんですけども、実際来た人たちも、「テレビで見るのと現実で見るのはやっぱり違う」っていうのはすごく言われましたね。現実にその前にあるのと、テレビの画面で見るのでは全然迫力も違うし、思うところも違うんだなっていうのはありましたね。”

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