清野和也さん

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清野さんは山形県出身、大学生の時に福島に住みはじめました。現在は「NPO法人チーム福島」という団体の中にある「福島ひまわり里親プロジェクト」の事務局を担当されています。

福島の地域説明、風評被害について、影響

面積が全国で第3位。これだけ広いんですよっていうのを頭入れてほしいんですね。
これだけ広いから地域によって被害が全然違う。
大きく浜通と仲通と会津地方って分かれてます。浜通りは今日行かれたところが。いわき市ってのも浜通りで原発被害が一番大きかったのが浜通りっていう地域なんですけど。会津地方ってのが八重の桜の舞台になってるところで、ここはすごく放射線量が低い本当に東京とかと変わらないくらい低くて。なのでよく、福島の被害、放射能被害で風評被害って言葉使うと思うんですけど、ここは本当に風評被害って呼ばれている地域です。
今みなさんがいるのが仲通りって言って、ここは福島市とか郡山市とか新幹線とかで通ると思うんですけど。ここは風評被害の地域と実害被害の地域。というのは本当に放射能によって作物が採れなくなっている地域が地域によってバラバラな地域ですね。ですのでこのあたりも決して放射能が低い地域ではない。今日来る時に放射能測定器とかそこらへんにあったと思うんですけど、他の地域と比べればちょっと高くなってしまうって事でやっぱり子供たちもそういう事の中で生きてしまっているっていう。最後浜通りっていう地域が今日見て頂いたいわき市だったり、あとフラガールっていうのが映画でも、ああいうのの舞台になったのは浜通りっていう地域で。もともとは観光がメインだったので、どうしても震災の影響が観光に行ってしまったので。この地域は実害って言われてる地域です。でこういう風に広いんだなって事を分かってもらうと、福島って一色単に風評被害って言っても、ここも風評被害っていう考え方でもなく、逆に、福島ってひどいんでしょって考え方にもならないかなって思います。北海道みたいなもんなんで、北海道って言い過ぎなんですけど。北海道の端っこで起こった事は関係ないくらいじゃないですか。

3.11後の変化:人口の減少

で、福島、震災があって何が変わったかと言うと、まず人口がぐっと減ってます。これは現在って言っても昨年のデータなんですけど。6万1千人が確実に減っている。これは亡くなったとかだけではなくて、結局県外に避難されたりとか、例えばこの避難地域っていう人たちは福島その地域に住めないので、県外に住まれているっていう人も合わせての数字です。

観光への影響

あとこれデータないんですけど、震災があって何が一番落ち込んだかっていうと、もちろん農業分野とか漁業、ってのが一番なんですけど、次に落ち込んでるのか観光の分野なんですね。やっぱり風評被害ってところ、特に先ほど見た会津ってところは観光がメインなので、あそこは本当に風評被害で、全然東京と変わらないのに、でもキャンプ場の人たちが全然人が来ないって。前までは学校さんたちが子供たちを連れて来ていたのに、今は親の反対で来ない、って状況があって。観光ってのががくって落ちてます。でその観光の中でも教育旅行、みなさんで言うと例えば小学校中学校の頃修学旅行って行かれますよね?あれって福島で言えば会津地方だったり浜通りってのが修学旅行で来るかたってのが多かったんですね。歴史を学ぼうっていうので。なんですけどこれが9割減、なので全然人が来なくなってしまっているって中でどうにかしてこの観光だったり、そいういった面で僕らができること。しかも続けて、継続的にやらないと修学旅行って3年後のを今決める、で決まったら3年間はずっと同じ所になるらしいんですね。なのでその時その時一瞬だけやっても、継続して出来るプロジェクトはないか、っていう所で本題に入るんですけど。

福島ひまわり里親プロジェクト

福島ひまわり里親プロジェクトっていうプロジェクトをさせていただいております。
これはですねNPO法人チーム福島っていう、福島県内の若手経営者、大体20代から一番上でも40代前半の方、計10名でさせて頂いているプロジェクトです。で、どんなプロジェクトかというと、全国の方々に知的障害者の方にパック詰めして頂いたひまわりの種っていうのを販売して、それを全国の学校だたりご家庭で育ててもらう。で咲かせた種を福島に送って頂いて、今度はその種を福島県内で咲かせる。そうする事で自分たちのひまわりの子供が福島で咲いているという事で、観光誘致と、あとは障碍者の方の雇用と、これを通して例えば学校さんですと復興に興味を持つということで風化と教育対策っておいうことでやらせて頂いているプロジェクトです。2011年に始まって何年目、3年目になるんですけれど、全国で10万員以上の方がこのプロジェクトに関わって下さっていて、 福島県内2012年が9千カ所で、今年が1万6千カ所で復興のシンボルとしてひまわりを咲かせて頂いています。
まあ流れとしては今の通りなんですけれども、ひまわりの種を購入して、全国でそだてて、って。最初の年は育てる種がないので2011年は完全に全国たで。全国で育ててくださいってやって、大体ひまわりの種が5トンくらいと、あと一緒に『頑張ってね』っていう応援のメッセージが全国から届いたんですね。それがこのプロジェクトに届きました。
で2012年には福島県内の観光地だったりあとは行政だったり学校だったりっていう所に届けてもらって、ひまわりをさかせる事で観光の名所というか、ひまわりの迷路を作ったりとかで、ひとつの観光地ということで作らせて頂きました。そして2013年は入ってないんですけど、2013年も同様に2012年に送っていただいた種を1万6千カ所で咲かせたという事になっております。

福島ひまわり里親プロジェクト:目的

目的、
ちょっと話したんですけど、最初この雇用対策っていう話をさせて頂きました。 で、二本松市ってところが福島のとなりにあるんですけど、そこの障害者施設が震災によってお仕事全然なくなっちゃったんですね。っていうのはその人たちがやっていたのがおまんじゅうの箱入れのお仕事。と、野菜作りだったんですけど、野菜作りはやっぱり放射能で二本松は作っちゃダメだったので、それでダメになったのと、まんじゅうの箱入れっていうのが、結局震災があって観光がダメになっちゃって、観光がダメになっちゃうとおまんじゅうも売れなくなっちゃうんです。でお土産の箱売りっていうのをやっていたんで、ちょっと障害者さんに出す余裕っていうのがなくなってしまって、障害者さんの仕事がなくなってしまったんです。このかた達は作業所に来るのは良いんだけど、仕事が全然なくなっちゃってるっていう状況で、家の代表とかは、だっから違う地域に移動して仕事されたらどうかっていう事も提案したんですけど、結局霜害を持ってるかたっていうのは、そこに通うのでも2年も3年とかかけてやっと自分でその土地で暮らして行けるようにるっていう状況で、いきなり新しい土地でまたゼロから始めるってなるとまたたくさんの労力だったり時間がかかってしまうっていうのがあるんdねすね。なのでっこで出来る事はなにかないかなっていうところでこのひまわりの種のパック詰め。種は海外産なんですね。なのでその種を買って、その種をスプーンで救って袋に入れて販売しているんですけどそういう作業だったり、ちょっと見づらいんですけどこういう種と一緒にひまわりのラベルをつけて送ってて、こいうラベルの書き方とか。あとは全国で届いた種の仕分け作業とか。そういうのをお仕事としてさせて頂いてます。で、種は1パック500円で販売してるんですけど、そのお金がこういう作業代っていう事で、使わせて頂いております。(だいたい何名くらいいらっしゃるんですか?)
ここが今40名くらいでしたかね。その40名の中でプロジェクト担当っていう方もいて、今は震災とかでいろんなプロジェクトも増えてきたので担当でお豆腐を作ったりもされているので、そういう事をされている人もいて。で今は野菜とかも普通に作れるようになったので農業担当って事もされてます。

清野さん自身のプロジェクトによるご自身の変化

先ほどお話頂いた子供たちの将来の夢への影響や価値観の変化の影響がありますが、清野さんご自身で価値観の変化などはありましたか?僕自身がですね、僕自身がか。でもやっぱり、自分の為って視点がなくなったというか。僕がこのプロジェクトに関わって変わったのは、未来の事のためだったりとか、そういう視点って持ったことなかったんですね。そんな、知らんわーって思ってたんですけど、でもこういうプロジェクトでそういう子達と関わったりとかいろんな事想像するわけですよね、このプロジェクトって何の為にやってるのかなって。何のためにってなった時に、やっぱ自分の為だけじゃやってけないなって。これ震災があったからって事にも直結してくんですけど、やっぱこうやって全国の方が福島の事を我がごとのように思ってやってくださってる姿って多分僕が一番ダイレクトに見れてるんで、自分もそうなりたいなだったり、自分がやる事で未来がもっと良くなるといいなって視点に変わりましたね。僕らがどうこうしてるんじゃないので、僕らは種を電話とかネットで注文受けたのを送るだけって、言ってしまえば。もちろんその中で色んな企画とかしますけど、でも僕らは全国で咲かせてくれないことにはなにも進まないプロジェクトで、福島で咲かせてくれなければ。やってくださってる方がすごいです。

今後のどうしていくか、理念について

プロジェクトにも共通してるんですけど、うちの理念っていうのがfor you for Japanっていうんですね。つまり目の前の事に、人の為に何かするってのが結局日本の為に繋がってるっていう考え方で。それって僕らでいうと福島の為ってなるんですけど。で僕らって今、世界中から見て福島っていうのは同情の町。ちょっとかわいそうな町って思われてる部分が結構多いと思うんですね。だkら海外とかでもイベントが結構あると思うんですけどそれって結構同情心から来てるんですよ。それを今度は尊敬の目に変えて行きたい。あ、福島ってすごいな、こんな人たちいるんだ。じゃあ福島に学びに行こうって。さっきも話したんですけど、そういう事をプロジェクトを通して発信していきたいなってのもあります。僕個人としてもそういう時に何ができるかなって時に福島の人たちのルーツだったりこの土地っていうのがどういう人たちがいるのかっていうのを知ってそれをまた伝えて行くっていくのも指名なのかなっておもってるので。そういう風に、同情の町から尊敬の町って。これはプロジェクト全体でも共有してるんですけど。それが一番ですかね。

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深田和秀さん

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深田さんは、現在特にどの団体にも属さず、個人で放射能量の計量を行ってらっしゃいます。

深田さんの「敗因」

要するに廃炉後の世界をどうするしたら良いのだろうかっていうことで、廃炉アクションっていう、イベントを、考えて、えー、そういうことを、ちょうど、その日に合わせて、要するに3月の26日に、いわき市で、もう場所も借りて、そいで、いろんなことを、お話しする、コメンテーターの方も呼んで、シンポジウムも予定して、そういうとこまできてたんです。でもうあと開催する、ところが11日に、事故が起きて、みなさんご存知のように、もういっぺんに。もとより、その、そういうことに、アンテナをたてて用意をしてたお母さんの人たちは、すぐさま、福島から離れたんです。もう何も後ろ見ないで、とにかく離れた。ところが私は、まず1つは、親父が、要するにその、介護施設に入ってましたので、移動できなかった。で、私は、あの…あぶくま高地を、福島市は、約70kmから80km圏、です。超えて、福島に影響を及ぼすとは、実は考えていなかたんです。で、それが私の、まあ言って見れば、敗因なんですよ。まあだから背負った、まあだから失敗の、重みなんですね。だから一緒に、当然何日かの停電と、断水がありました。

周囲の問題についての認識格差

それはいや、感じますというか、認識格差っていう言葉が適当かどうか分かりませんけど、もとより人間の体はここに寄って感受性は違いますから、例えばなんで花粉症にあなたがなって私がならないの、とか、ていうのはなかなか、まあ科学的な説明もちゃんとできるはずなんだけど、なかなか難しい問題ですよね。だからあんたなんで、そのことわかんないのって、放射能の怖さ分かんないのと、突き詰めても、なかなか、相手の方は、理解できないんです。理解できないっていうか、どういうことなのかっていうのを、あのー、実は、分からないんですね。で、えー、逆に、私のように、ある程度そういうことを頭のなかで分かっていても、実際は高をくくってしまうような場面ってのはあるわけですよ。さっきも言いましたように、阿武隈山地を超えてくるなんて言うようなことは、要するに80kmも、放射性物質が、プルームが、通って、そこで微量な物が落とされて、なんか影響あるのって、要するにイメージが、されてなかったわけですよ。ね、そのために、本来は警告をしてみなさんに、少なくとも、危ないよ、ということを言わなきゃならないような、立場にあった者が、何も言えないで、一緒に、水汲みにならんでたって、そういうなんかものすごいブラックジョークみたいな話になっちゃうんですよね。ですから、そういう認識の違いっていうのはあることを前提に、やっぱり、あの、全体的な、相対的な、放射策をやってかなきゃなんない。

除染の限界

まあいわゆる植木とかがあって、そういうところにもう放射性物資がついているんですね。でちょうどそれが、境の生け垣になってるわけですよ。ね。ところがあたしたちが、隣のお家にいってそれいっぱいついてるから、すいません丸裸にしてくださいって言えますか?ないしはこの隣に、大きな木があって、それが常緑樹で、ずっと蓄えてるんです。それが自分ちの、子供の部屋ってだいたい二階につくります。子供部屋にちょうど、上手く、放射性物質からでる放射線の影響を受けるようなシステムになってるんです。で、それを気づいても、じゃあすいませんそれを枝打ちしてください、それをきってくださいと、言えますか?言えないですよね。そうすると、当然限界があるわけですよ。だから、除染に限界があるってのはもうハナからきまってることなんですよ。だからどう、それを避けるためにどうしたらいいのかと。いうふうになれば、やっぱり安全対策、ってか社会的な除染みたいなものも用意しとかなきゃだめなんです。つまり、希望者には子供だけでも先にどっか一時、避難させる。何年なるかわかりません。それは行政がどれだけしっかりやるかにかかってきます。ないしは疎開させる。それで、もう最悪の場合は、除染をしてる間だけ、どっか、移動して。あと、この中閉め切って、畑かけるんですよ。そんなことしますかお母さん。自分がお母さんなって、今やってることってのは、部屋の中を、閉じて、部屋を閉じて、じゃあ綺麗にするからね、ちょっと待っててねってこう畑かけてるのと一緒ですよ。普通、自分がお母さんになられたら、ちょっとあんたら出てよっていって、掃除、しませんか。僕はちょっと、普通はそうするもんだと思いますけど、違いますかね、うん。今の、やってるときは、逆なんです。ちょっと逃げないでよ逃げないでよ、と、うん。ちょっと綺麗にするから逃げないでよって中に閉じ込めてるんですよ。違いますかね。

福島市内での反原発運動について

全体的にはあの、この、福島市での、運動ってのは、非常に、下火です。うん。ええ。これは、もう、残念なことですけど。なかなか人も、まあ後でのぞいてみればわかると思うんですけど、なかなか人も集まっていません。ええ。そうですね、うん。あの中途半端な、いわゆる、その言って見ればその、国が指定された、その認定された、汚染地域ではないんですよね、でもうここは、まあ、除染が終わったとされる、田村市とかああいうとこよりも、まだ高いんです。平均なあれで言うとね。で、濃淡がかなりあって、ご存知のように渡りであるとか、大极であるとかっていうとこは、まだ、高い線量のとこもあります。私のとこも、先月くらいに、やっと除染が終わったんですけど、実は、住宅除染だけってのは、自分ちの敷地内でしかやってない。だから前も、道路であるとか、道路の中の脇のそこが、その、何も手つかずになって、つまってるというような状況は改善されてないんです。自分ちだけは。


政府の

要するに、被害を受けた人は被害を淡々と言うしかないんですよ。ところが被害を隠そうとしている人も実際いる訳ですよ。で、その人らはあの、いかにも優しいことを言っていかにも解決できるようなことをおっしゃる訳ですけど。それを、いやちょっとちがうんじゃないですか、と言うことを皆さんの感覚で暴いて行くの方がま、面白いんじゃないかと思います。皆さんたぶん被害者だけを回ってると思うんですね。ところが、被害者はやっぱりなかなか狭いんです、視野が。自分が受けた波乱の中でしか見てない。それが相対的にその老い隠そうとしているとこの位置関係とかがみきれてないケースが多いんです。ところが、行政であるとか頭のいい人たちいわゆる原子力村とかいろいろ言われてる推進してる者は、結構澄観で見てるんですね。で、次ぎにどうゆう政策をすれば風評被害ははっと盛り上がって、どこにどういうお金を入れれば少し緩和するであろうとかどこがこの運動のキーポイントであるとかどこをちょっと撫でてあげれば人々がこっち側によるとか。そういうことを良く研究しているんです。我々よりも。だからこうずっと成功してきて押さえ込まれている訳でしょ。本来なら暴動が起こっていますよ、人殺しが起こっていますよ。それをうまく押さえている人たちのやっぱり技術とか本音とか何を目指しているかを探った方が面白いんじゃないかと。そこではまあ、余談です。だから被害者の仲の話を集めるのは以外と容易だけど、深みがあまり無くなっちゃうんで、やっぱり少し、それと対応できるような、それを老い隠そうとしている勢力がいてそうなってるという関係性を見ながらやらないと、ちょっと面白み欠けるんじゃないかなという気はしますね。

東京電力について

で、あのー私は福島ですから、福島住んでる者っていうのはいわゆる自主避難区域の人たちというのは、もう何も顧みられないと。要するに、えー12万というお金をま、あの、一部の地域で支払った訳です。でこれは内実では4万円だけが精神的な慰謝料で他は生活の援助みたいな形で東電が払った。それで終わりですよっていう形になっていうわけですよ。でそれも皆さん受け取り方もまちまちですよ。ウワァー12万も貰った嬉しいなという人もいれば、えー12万ではどうにもならないと。これで東京電力許すわけにはいかない、という人もいるだろうし。それらを考えてくると、そう、まだこれから紛失する問題も甲状腺の問題であるとかいろんなことでいってくれば、福島はまだ終わっていなくてこれから、ま、変な意味、架橋に入ってくるのではないかと。実際的に現実的な路線のもう今後見つけざるを得なくなる、提示しなくちゃならなくなる、全部避難って全寸期間って言ってた者も一部避難もしょうがねーや、って言うとこまで煮詰ってきてるんです。でこれは、なぜ煮詰ってきてるかというと皆さんご存知のようにオリンピック前になんとかもう解決しちゃいたいなということなんです。だからこれからが逆に言うと正念場なんです、あらゆる意味で。要するに、向こうがはめる型にはまってそのまま捨て置かれるのか、それとも別な解決方法を見つめて色々向かいあれするのか。だからそういう、ことを頭に置いておいていてビデオとか作ってやっぱり問題のあれをはかっていただけたらと思います。

避けられない原発事故の風化

いやあの、これは風化するのは当然ですよね。どんなことでも風化は必ず進むんであって、だからあの、風化してもしなくてもやっぱりやらなきゃなんないこととのは生活レベルであるんですよ。生活レベルで皆さんが要するに、その問題と直面しなくなったらもう風化の始まりなんですよ。例えば、食う食べ物にあまり留意しなくなった、マスクもしなくなった。ね、あまり放射線がいくつだかも興味示さなくなった。これは個人で止められるもんではありません。いくら呼びかけてもそのものは風化するんです。だから、風化していいとは言いませんけど風化は避けられませんよ。ところが、いつも崖っぷちにいるってことを皆さん忘れちゃうんですよね。

活動を続けるモチベーションとは?

真基本的にはあの、なかなか何も言わないで館箱の中に入る、要するに葬儀箱に入る、足をこう入れてるけど、なんか、一言言わないとなかなか死に絶えて行かないような世代なもんですから、そういう意味では。だから、なんらかその、昔取った杵柄的な社会運動に関わる、ま東京なんかでもやってらっしゃる中で、同じような世代の方が男女とも思いますよ。でむしろ40代とかね、そういう方が少ないというような、要するに、自分らが全協働世代の息子さんらに対しては、DNAを渡していないんです私に言わせると。ちゃんと伝えていないんです、渡していないと言うか。自分らがやったことの正当性をちゃんと理論立てて自分の生き様を説明しきれていないんです。実は。そういう問題もあるんです。じゃ私はあいにくというか、そういう子供もいないしあれもいなかったんで、あの、そういうことはなかったんですけど。だから、逆に言えば悪魔の全協働世代と言われてるがお前らがぼかしたんだみたいな論議を子供達から指摘されるんですね。そういうことって無いですか。うん。ま、皆さんはまだそれのお子さんになる訳です。だからちょっと違うあれなんですけど、ま、おじいちゃんの見方を冷静に見れる人とお父さんの、皆さんのお父さんの世代はあまり冷静じゃなくて生活の1面で付き合わなきゃならなかったから、なんでそんなことやってたのと。それで、いまなにやってるの?ということになる。じゃなんか思想的にはるかというとあまり良い参考になるようなことなにも無いねと言うような。そういう目で見られる場合もあるんですね。多分僕はそういうの嫌なもんで、ま自分がやってきたそういう学生時代とかそれがなかかったことをま逆の意味で言えば引きずっていると。それが言ってみればモチベーションになってるの。

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佐藤 英介さん

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佐藤さんは社会福祉法人楽寿荘の統括事務長です。震災直後、屋内退避地域との境界地域で物資のない中、高齢者施設の運営を継続しました。施設建物直前まで津波が押し寄せた時には、入所者を避難させました。


福島県と宮城県岩手県との違いについて
放射能の被害と津波の被害について

「まーね考えてみたら放射能の問題さえなければ…だから宮城県とか岩手県の方の災害も大変だと思うけど…一点ねそれだけの問題に対して福島県は放射能のかかってるんでね。2重にこう、避難を被害を受けた人と放射能だけの人と2通り分かれているんですね、福島県の人はね。放射能だけで逃げた人と津波の人とそれから津波と両方やられた人。で津波と両方やられた人は逃げた人と同じ、その帰れない地区は同じ扱いになるとは思うんだけども、でもやっぱり皆温度差があるから大変だと思いますね」

放射能、援助、除染

「これ広げてみてください。
ちょうど37キロなんですここ。で30キロ圏までは色々恩恵があるんですけどもその隣は全く、全くないんです、わたしらの所。直線で37キロなんです。今でもその窓際に出すと0.6−0.7マイクロシーベルトくらいあるかな。でそこの桜の木の下の根っこあたりはしたにおろすと1.3マイクロシーベルトくらい。今でも。で、除染をする予定ではあるらしいんですけど、建物関係は全部除染しちゃったんで、自分らで。高圧除染で、もう最初の頃に。その頃はね、屋上の雨水の先の落ちくずね、あのあたりで10.0越えるくらいの濃度はあったんですよね。ですからこの辺の松林はたぶんあると思うんですよ。逃げるところがないんで、多分放射性物質が付着して。松の葉っぱでもなんでも落ちちゃうでしょ?その辺が残ってるんでね、まだね、だから37キロ、こういう感じでとんだみたいですね。」

コミュニティー、避難所、仮設

「で現実にいわき市の行政区域からみた時はみなさん全部一緒になって、こうグループグループになって各町にね。ですから同じ仮設になって、ここは(一つの仮設は)大隈町、ここは、、、町、そしてここはいわき市の津波で家なくなった人たちって、同じグループの中でこうやって分かれてるんですね。ようはみんなバラバラに入ってるでしょ?だからそれぞれの付き合いが出てもそれぞれも直接、点と点の繋がりしかないから。」

施設職員

「これどこの施設も困ったんだけども、職員いなくなっちゃって。残って一生懸命やっている人と、どうしよっかって事になったんですよね。かたっぽペナルティーでかたっぽご褒美やんなきゃなんないのかって。そういう風にこう人を区別しちゃうと来づらくなるんじゃないかとか、そのあと職員同士で感情的におかしくなるんじゃないかっていう。なった施設が結構あったんですよ。わたしんとこ結果的に何もなかったんですけど。最終的に500万使ったんですけど、ようするに2週間毎日いた人には25万あげましょうと。で、今度ペナルティーの方はどうしようかって考えた時に、給料を下げるとかいろんな事やった施設もあると思うんですけれども、給料を下げたままだと一生ついてくと相当なマイナスになるじゃないですか。なんで、一回でいいだろうと。じゃあ賞与をカットしようと。で賞与をカットするのもいっぺんにカットすると大変だから、2回に分けてカットしようと。できるだけ負担がかからないように。だって本来はみんないなきゃなんないのに、家族の関係でみんな逃げたっていう人が多いんですよね。家族がいるからお前も一緒に来いっていう事で一緒に行ったんだけども家族を置いて戻ってきたっていう、そういうケースが多かったんですね。まあ、そういう事で一応ペナルティーとご褒美あげたけれどもそういうトラブルは私の施設ではなんもなかったですね。いさかいも何にも。他の施設では結構あったみたいです。でいずらくなって辞めた人もいるって。」

政治、風化、福島県と他の都道府県

「だったら当たり前だって。忘れられたって当たりまえじゃないのって。私もそう思うんだよね。本当にそうだったらそういう意思表示をしなきゃなんないからね。東京だってもう放射能そんなに響かないでしょ? 私は日常茶飯事だから。原発だって誰も信用してないですから。わたしらは。あのいちいち発表しててもみんなうそだろうって。後から後から。 まえから話聞いてたのが後から出てくるから。ひどいはなし。」

原発事故後のいわき市

「40年、60年くらいかかるなんて言われてるから。いま ものすごいですよ、いわき市。他県ナンバーがものすごくて。それから飲み屋もゴチャゴチャしてるし。朝になるとワーって双葉郡に行って、夕方になるとワーって戻ってくる。これが何十年も続いてるって言うんで、みんあうーんなんて思ってるけど。でそういう人と避難して来てる人とみんなごちゃ混ぜになってるんで。ここがね。そんなの東京の人分かんないでしょそんな。多分、私はここ、こういう恩恵がなくなったときあなたら注目して見てた方が良いと思うよ。なくなった時避難してた人たちがどういう動きするかって事だと思います。

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