清野和也さん

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清野さんは山形県出身、大学生の時に福島に住みはじめました。現在は「NPO法人チーム福島」という団体の中にある「福島ひまわり里親プロジェクト」の事務局を担当されています。

福島の地域説明、風評被害について、影響

面積が全国で第3位。これだけ広いんですよっていうのを頭入れてほしいんですね。
これだけ広いから地域によって被害が全然違う。
大きく浜通と仲通と会津地方って分かれてます。浜通りは今日行かれたところが。いわき市ってのも浜通りで原発被害が一番大きかったのが浜通りっていう地域なんですけど。会津地方ってのが八重の桜の舞台になってるところで、ここはすごく放射線量が低い本当に東京とかと変わらないくらい低くて。なのでよく、福島の被害、放射能被害で風評被害って言葉使うと思うんですけど、ここは本当に風評被害って呼ばれている地域です。
今みなさんがいるのが仲通りって言って、ここは福島市とか郡山市とか新幹線とかで通ると思うんですけど。ここは風評被害の地域と実害被害の地域。というのは本当に放射能によって作物が採れなくなっている地域が地域によってバラバラな地域ですね。ですのでこのあたりも決して放射能が低い地域ではない。今日来る時に放射能測定器とかそこらへんにあったと思うんですけど、他の地域と比べればちょっと高くなってしまうって事でやっぱり子供たちもそういう事の中で生きてしまっているっていう。最後浜通りっていう地域が今日見て頂いたいわき市だったり、あとフラガールっていうのが映画でも、ああいうのの舞台になったのは浜通りっていう地域で。もともとは観光がメインだったので、どうしても震災の影響が観光に行ってしまったので。この地域は実害って言われてる地域です。でこういう風に広いんだなって事を分かってもらうと、福島って一色単に風評被害って言っても、ここも風評被害っていう考え方でもなく、逆に、福島ってひどいんでしょって考え方にもならないかなって思います。北海道みたいなもんなんで、北海道って言い過ぎなんですけど。北海道の端っこで起こった事は関係ないくらいじゃないですか。

3.11後の変化:人口の減少

で、福島、震災があって何が変わったかと言うと、まず人口がぐっと減ってます。これは現在って言っても昨年のデータなんですけど。6万1千人が確実に減っている。これは亡くなったとかだけではなくて、結局県外に避難されたりとか、例えばこの避難地域っていう人たちは福島その地域に住めないので、県外に住まれているっていう人も合わせての数字です。

観光への影響

あとこれデータないんですけど、震災があって何が一番落ち込んだかっていうと、もちろん農業分野とか漁業、ってのが一番なんですけど、次に落ち込んでるのか観光の分野なんですね。やっぱり風評被害ってところ、特に先ほど見た会津ってところは観光がメインなので、あそこは本当に風評被害で、全然東京と変わらないのに、でもキャンプ場の人たちが全然人が来ないって。前までは学校さんたちが子供たちを連れて来ていたのに、今は親の反対で来ない、って状況があって。観光ってのががくって落ちてます。でその観光の中でも教育旅行、みなさんで言うと例えば小学校中学校の頃修学旅行って行かれますよね?あれって福島で言えば会津地方だったり浜通りってのが修学旅行で来るかたってのが多かったんですね。歴史を学ぼうっていうので。なんですけどこれが9割減、なので全然人が来なくなってしまっているって中でどうにかしてこの観光だったり、そいういった面で僕らができること。しかも続けて、継続的にやらないと修学旅行って3年後のを今決める、で決まったら3年間はずっと同じ所になるらしいんですね。なのでその時その時一瞬だけやっても、継続して出来るプロジェクトはないか、っていう所で本題に入るんですけど。

福島ひまわり里親プロジェクト

福島ひまわり里親プロジェクトっていうプロジェクトをさせていただいております。
これはですねNPO法人チーム福島っていう、福島県内の若手経営者、大体20代から一番上でも40代前半の方、計10名でさせて頂いているプロジェクトです。で、どんなプロジェクトかというと、全国の方々に知的障害者の方にパック詰めして頂いたひまわりの種っていうのを販売して、それを全国の学校だたりご家庭で育ててもらう。で咲かせた種を福島に送って頂いて、今度はその種を福島県内で咲かせる。そうする事で自分たちのひまわりの子供が福島で咲いているという事で、観光誘致と、あとは障碍者の方の雇用と、これを通して例えば学校さんですと復興に興味を持つということで風化と教育対策っておいうことでやらせて頂いているプロジェクトです。2011年に始まって何年目、3年目になるんですけれど、全国で10万員以上の方がこのプロジェクトに関わって下さっていて、 福島県内2012年が9千カ所で、今年が1万6千カ所で復興のシンボルとしてひまわりを咲かせて頂いています。
まあ流れとしては今の通りなんですけれども、ひまわりの種を購入して、全国でそだてて、って。最初の年は育てる種がないので2011年は完全に全国たで。全国で育ててくださいってやって、大体ひまわりの種が5トンくらいと、あと一緒に『頑張ってね』っていう応援のメッセージが全国から届いたんですね。それがこのプロジェクトに届きました。
で2012年には福島県内の観光地だったりあとは行政だったり学校だったりっていう所に届けてもらって、ひまわりをさかせる事で観光の名所というか、ひまわりの迷路を作ったりとかで、ひとつの観光地ということで作らせて頂きました。そして2013年は入ってないんですけど、2013年も同様に2012年に送っていただいた種を1万6千カ所で咲かせたという事になっております。

福島ひまわり里親プロジェクト:目的

目的、
ちょっと話したんですけど、最初この雇用対策っていう話をさせて頂きました。 で、二本松市ってところが福島のとなりにあるんですけど、そこの障害者施設が震災によってお仕事全然なくなっちゃったんですね。っていうのはその人たちがやっていたのがおまんじゅうの箱入れのお仕事。と、野菜作りだったんですけど、野菜作りはやっぱり放射能で二本松は作っちゃダメだったので、それでダメになったのと、まんじゅうの箱入れっていうのが、結局震災があって観光がダメになっちゃって、観光がダメになっちゃうとおまんじゅうも売れなくなっちゃうんです。でお土産の箱売りっていうのをやっていたんで、ちょっと障害者さんに出す余裕っていうのがなくなってしまって、障害者さんの仕事がなくなってしまったんです。このかた達は作業所に来るのは良いんだけど、仕事が全然なくなっちゃってるっていう状況で、家の代表とかは、だっから違う地域に移動して仕事されたらどうかっていう事も提案したんですけど、結局霜害を持ってるかたっていうのは、そこに通うのでも2年も3年とかかけてやっと自分でその土地で暮らして行けるようにるっていう状況で、いきなり新しい土地でまたゼロから始めるってなるとまたたくさんの労力だったり時間がかかってしまうっていうのがあるんdねすね。なのでっこで出来る事はなにかないかなっていうところでこのひまわりの種のパック詰め。種は海外産なんですね。なのでその種を買って、その種をスプーンで救って袋に入れて販売しているんですけどそういう作業だったり、ちょっと見づらいんですけどこういう種と一緒にひまわりのラベルをつけて送ってて、こいうラベルの書き方とか。あとは全国で届いた種の仕分け作業とか。そういうのをお仕事としてさせて頂いてます。で、種は1パック500円で販売してるんですけど、そのお金がこういう作業代っていう事で、使わせて頂いております。(だいたい何名くらいいらっしゃるんですか?)
ここが今40名くらいでしたかね。その40名の中でプロジェクト担当っていう方もいて、今は震災とかでいろんなプロジェクトも増えてきたので担当でお豆腐を作ったりもされているので、そういう事をされている人もいて。で今は野菜とかも普通に作れるようになったので農業担当って事もされてます。

清野さん自身のプロジェクトによるご自身の変化

先ほどお話頂いた子供たちの将来の夢への影響や価値観の変化の影響がありますが、清野さんご自身で価値観の変化などはありましたか?僕自身がですね、僕自身がか。でもやっぱり、自分の為って視点がなくなったというか。僕がこのプロジェクトに関わって変わったのは、未来の事のためだったりとか、そういう視点って持ったことなかったんですね。そんな、知らんわーって思ってたんですけど、でもこういうプロジェクトでそういう子達と関わったりとかいろんな事想像するわけですよね、このプロジェクトって何の為にやってるのかなって。何のためにってなった時に、やっぱ自分の為だけじゃやってけないなって。これ震災があったからって事にも直結してくんですけど、やっぱこうやって全国の方が福島の事を我がごとのように思ってやってくださってる姿って多分僕が一番ダイレクトに見れてるんで、自分もそうなりたいなだったり、自分がやる事で未来がもっと良くなるといいなって視点に変わりましたね。僕らがどうこうしてるんじゃないので、僕らは種を電話とかネットで注文受けたのを送るだけって、言ってしまえば。もちろんその中で色んな企画とかしますけど、でも僕らは全国で咲かせてくれないことにはなにも進まないプロジェクトで、福島で咲かせてくれなければ。やってくださってる方がすごいです。

今後のどうしていくか、理念について

プロジェクトにも共通してるんですけど、うちの理念っていうのがfor you for Japanっていうんですね。つまり目の前の事に、人の為に何かするってのが結局日本の為に繋がってるっていう考え方で。それって僕らでいうと福島の為ってなるんですけど。で僕らって今、世界中から見て福島っていうのは同情の町。ちょっとかわいそうな町って思われてる部分が結構多いと思うんですね。だkら海外とかでもイベントが結構あると思うんですけどそれって結構同情心から来てるんですよ。それを今度は尊敬の目に変えて行きたい。あ、福島ってすごいな、こんな人たちいるんだ。じゃあ福島に学びに行こうって。さっきも話したんですけど、そういう事をプロジェクトを通して発信していきたいなってのもあります。僕個人としてもそういう時に何ができるかなって時に福島の人たちのルーツだったりこの土地っていうのがどういう人たちがいるのかっていうのを知ってそれをまた伝えて行くっていくのも指名なのかなっておもってるので。そういう風に、同情の町から尊敬の町って。これはプロジェクト全体でも共有してるんですけど。それが一番ですかね。

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九頭見淑子さん

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九頭見さんは、福島県いわき市、湯本にある操業100年の和菓子屋 「久つみ」を経営しています。実際九頭見さんのお店で3.11の震災後の生活への影響や、現在の状況、震災後の様々な心境などのお話をお聞きしました。

3.11の震災後の変化(街の変化、商売の変化)

売上的にはね、三分の一だね。例え…簡単に言ったら100万…一か月100万売れてたとしたら30万…もう本当に観光客がいない町になっちゃったからね。もう今は旅館25軒位あるんだけどね、ちゃんとした営業でお客さん…観光客だけでやってる旅館1軒しかいない。後の24軒のうち泊めて仕事してる…あの…観光地・観光客以外の作業員の人みんないるのでどこの旅館も、その他はね、三分の一くらいのお部屋をね、一般の観光の人に状況なので…もう本当にヒドイもんだよ。だからバスをね、まず見ないから、バス通んないから…いつも、今まではね、今日もう土曜日でしょ…土曜日だから道せまい所をやっとおっきい観光バスが曲がるのが大変そうなのをしょっちゅうみてたりね…駐車場には5台6台とバスが停まってたけど…今いないからバスが。まずこない! バスが来ても「ハワイアンズ」には東京からね、直接無料バスみたいなバスが通っていて…後観光バスも「ハワイアンズ」は作業員の人がいないのでそういう意味では一人勝ちだね…「今は観光客がのびてきている」ってハワイアンズ言うんだけども…その伸びてるひとつの理由は国とか東京都とかそういう所で補助金を出していて補助金を出して、1人例えば5,000円なら5,000円を補助します…いわきとかに泊まった場合。けどこっち(いわき市)泊まる所ないでしょ?だからみんなハワイアンズにバスで行っちゃうわけよ。だから「ハワイアンズ」はそれで潤っているで…今、結構、お客さんはいるよ。

震災以降の変化について、心境

それなりに努力はしても努力は努力として、でも何もやらないよりはね、人を呼ぶように、子供はここで学際をやったりね…よく学校とかで文化祭をやるけれども町で小学校中学校高校とかみんなきてね、演劇…演劇はやらなかったな、歌と吹奏学とか後は剣道は剣道の人が盾とかやったりだとか、いろいろレスリングだとか、子供たちが集まると親も来るし、おじいちゃんおばあちゃんも来るし結構いっぱい一日だけでも人が集まって賑やかだった日があったのね。で、それ毎日やって欲しいなあーっとか思っちゃったりとかね、でもそんなことできるはずもないんだけどもね。本当に、夜ここで立ってここの道路350メートルもあるんだけど、向うまで見えるわけよ、人が通っていないから、寂しいよね。もうだって駅から降りてくる人なんか前から見たら全然減っているし、駅の自動券売機なんか連休っていったって売上金が例えば目標が50万とか100万とかだとしても全然やっぱり売れないって駅でも嘆いている。

今の状況、悲しみ、人々の思い

今ちっちゃかった子供が大きくなったときにきけん児が産まれたら、なければいいけど、あったらね、もう私たちの都合で呼んでなっちゃったら目回ってられないので、安心する所があるので、今いってもらっているんだけど、そういう人も旅館も若い人達はすぐに出てちゃったからね、子供たちに影響があるっていうからね、まして女のこのいる家族なんかお嫁に行くにも「福島の家があるの」って言うと絶対なんかなるって思われるらしく結構遠くにいっちゃったし。ここの角でお土産屋さんやってる所もやめちゃって、長野の方に行ってね、お店もだんだんだんだん減っていく一方でこれから….ゆったり館に行くには通らないか….一番の旅館のメイン通りの童謡館の近くあるんだけど、なーんにもなくなっちゃった壊してそのあとに出来ないから、もう戦後の終戦後の第二次世界大戦の焼け野原にぽつらぽつら家があるみたいな感じになっちゃってて、恥ずかしいというな投げ悲しいというか、でも後継者がいなければ家を建てる人もいないでしょー、だからなーって思うんだけども。本当の出来る事ならあの日の前で戻りたいって気持ちはあるけどもそれは出来ないことだから、これからの事を考えるって事だけで…自分達はもう家もあるしお店もなんとかね、自分達が食べて行く分はねなんとか、3分の1でもね、やらないよりは少しは利益が出るのでやってるって感じですね。

福島のイメージ、原発への思い

原発の事故がなければね、確かに300人以上いわき市も津波で亡くなっているので、沿岸沿いね、今もまだ復興していないのだけども、それと地震だけだったらね大丈夫だったとは思うけども、自分達の努力ではもう…フォローしきれない原発でね…この頃そんなに歩かなくなったけども…1年目、2年目は今ころの時間皆作業から帰ってきた人が本当にぞろぞろ、ぞろぞろものすごくいっぱい居たから。もう町がまるで観光地の色ではなくなっていた。

メディア/報道について

でも一番最初のもう何が何だか報道もめちゃめちゃ、何が起きているのか、何ベクレル…何…そういう単位の話しもねどっちが大きくてどっちが少ないのかも分からないその原発に対しての知識って…だいたい皆もっていなかったので、何が起きてるんだろう…って思ったけど…本当にバスでねその送り迎えして作業員の人が朝の3時ころ行くんだよね、各旅館回っていくバスなんか見るとなんか本当戦地に向かう兵隊さんみたいな感じで、それが行ってきてまた帰ってきてってのを繰り返しで…異様だったね..そういう時の様子から今は落ち着いて見えるけれども原発そのものはみんな知ってるように汚染水でもう…うそばっかり言ってるしね、次から次からあっちこちから漏れてまた何十万ベクレルが出たとか言ってるけど新聞にのるのは本当に3行か4行ぐらいで。すごい大変な事が起きてるのにあんまり報道それなくなってきているし、実際はもうまもなく3月でね3年になるのに「何か変った事ありますか?」って聞かれても特にないですねえ…お客さんも戻ってきてるわけじゃないしね、逆にだんだんだんだんこれをいつまでもこんなことを5年たっても40年、10年たっても40年って40年40年ってのがせばまらずにもう私らの世代が、せいぜい平均寿命だとしてもあと20年ちょっとだからさ、その時代にはこのままいっちゃうのかなーっていう思いもいっぱいあってね。

今後への不安、考えについて

そういう不安ね、そういうのは考えれば考えるほど不安が多くなるので、考えないようにしようとは思うのだけど、でも現実に毎月放射能検査はちゃんと来てね、わりと少なくなってきたんだよ、わりとね、測ってもらってるんだよ、そういうのはみんなやっているとは思う。後、食品の検査ね、それも保健所でやってもらって、「大丈夫です」をもらってやっているのだけども…それだってさ一日一日そんな、例えば菓子あけました、ここには放射能はこうですだのが一番上にあったら食べたくなくなっちゃうでしょー…だからそれは聞かれた時だけ言うことにしているのだけども、でも現実は…まあーお菓子はそれほどでもないけども、あの米とかねなんかやっぱり自分のところで作って子供にあげようと思っている人もいるけれども、子供は「もう結構です」って断られるしね、魚も得にそうだし、私なんかも親戚とかに毎年いまぐらいになったらサンマとか送ったりとかしてたけど、あの事故以来向うから「もう、結構ですから」とか断られたし、逆に果物とかも送ってきた人たちもパターっと送ってこないし…もうなんか…きん…親戚付き合いもそういういみでなくなっちゃうよね。じゃ、何を送ろうかと思うと全国共通の洗剤とかさ、ビールだとかさ、携わりないもの送ると…「お母さんのそういうお心遣いがよくわかります」みたいなお礼状がきたりしたりね….

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深田和秀さん

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深田さんは、現在特にどの団体にも属さず、個人で放射能量の計量を行ってらっしゃいます。

深田さんの「敗因」

要するに廃炉後の世界をどうするしたら良いのだろうかっていうことで、廃炉アクションっていう、イベントを、考えて、えー、そういうことを、ちょうど、その日に合わせて、要するに3月の26日に、いわき市で、もう場所も借りて、そいで、いろんなことを、お話しする、コメンテーターの方も呼んで、シンポジウムも予定して、そういうとこまできてたんです。でもうあと開催する、ところが11日に、事故が起きて、みなさんご存知のように、もういっぺんに。もとより、その、そういうことに、アンテナをたてて用意をしてたお母さんの人たちは、すぐさま、福島から離れたんです。もう何も後ろ見ないで、とにかく離れた。ところが私は、まず1つは、親父が、要するにその、介護施設に入ってましたので、移動できなかった。で、私は、あの…あぶくま高地を、福島市は、約70kmから80km圏、です。超えて、福島に影響を及ぼすとは、実は考えていなかたんです。で、それが私の、まあ言って見れば、敗因なんですよ。まあだから背負った、まあだから失敗の、重みなんですね。だから一緒に、当然何日かの停電と、断水がありました。

周囲の問題についての認識格差

それはいや、感じますというか、認識格差っていう言葉が適当かどうか分かりませんけど、もとより人間の体はここに寄って感受性は違いますから、例えばなんで花粉症にあなたがなって私がならないの、とか、ていうのはなかなか、まあ科学的な説明もちゃんとできるはずなんだけど、なかなか難しい問題ですよね。だからあんたなんで、そのことわかんないのって、放射能の怖さ分かんないのと、突き詰めても、なかなか、相手の方は、理解できないんです。理解できないっていうか、どういうことなのかっていうのを、あのー、実は、分からないんですね。で、えー、逆に、私のように、ある程度そういうことを頭のなかで分かっていても、実際は高をくくってしまうような場面ってのはあるわけですよ。さっきも言いましたように、阿武隈山地を超えてくるなんて言うようなことは、要するに80kmも、放射性物質が、プルームが、通って、そこで微量な物が落とされて、なんか影響あるのって、要するにイメージが、されてなかったわけですよ。ね、そのために、本来は警告をしてみなさんに、少なくとも、危ないよ、ということを言わなきゃならないような、立場にあった者が、何も言えないで、一緒に、水汲みにならんでたって、そういうなんかものすごいブラックジョークみたいな話になっちゃうんですよね。ですから、そういう認識の違いっていうのはあることを前提に、やっぱり、あの、全体的な、相対的な、放射策をやってかなきゃなんない。

除染の限界

まあいわゆる植木とかがあって、そういうところにもう放射性物資がついているんですね。でちょうどそれが、境の生け垣になってるわけですよ。ね。ところがあたしたちが、隣のお家にいってそれいっぱいついてるから、すいません丸裸にしてくださいって言えますか?ないしはこの隣に、大きな木があって、それが常緑樹で、ずっと蓄えてるんです。それが自分ちの、子供の部屋ってだいたい二階につくります。子供部屋にちょうど、上手く、放射性物質からでる放射線の影響を受けるようなシステムになってるんです。で、それを気づいても、じゃあすいませんそれを枝打ちしてください、それをきってくださいと、言えますか?言えないですよね。そうすると、当然限界があるわけですよ。だから、除染に限界があるってのはもうハナからきまってることなんですよ。だからどう、それを避けるためにどうしたらいいのかと。いうふうになれば、やっぱり安全対策、ってか社会的な除染みたいなものも用意しとかなきゃだめなんです。つまり、希望者には子供だけでも先にどっか一時、避難させる。何年なるかわかりません。それは行政がどれだけしっかりやるかにかかってきます。ないしは疎開させる。それで、もう最悪の場合は、除染をしてる間だけ、どっか、移動して。あと、この中閉め切って、畑かけるんですよ。そんなことしますかお母さん。自分がお母さんなって、今やってることってのは、部屋の中を、閉じて、部屋を閉じて、じゃあ綺麗にするからね、ちょっと待っててねってこう畑かけてるのと一緒ですよ。普通、自分がお母さんになられたら、ちょっとあんたら出てよっていって、掃除、しませんか。僕はちょっと、普通はそうするもんだと思いますけど、違いますかね、うん。今の、やってるときは、逆なんです。ちょっと逃げないでよ逃げないでよ、と、うん。ちょっと綺麗にするから逃げないでよって中に閉じ込めてるんですよ。違いますかね。

福島市内での反原発運動について

全体的にはあの、この、福島市での、運動ってのは、非常に、下火です。うん。ええ。これは、もう、残念なことですけど。なかなか人も、まあ後でのぞいてみればわかると思うんですけど、なかなか人も集まっていません。ええ。そうですね、うん。あの中途半端な、いわゆる、その言って見ればその、国が指定された、その認定された、汚染地域ではないんですよね、でもうここは、まあ、除染が終わったとされる、田村市とかああいうとこよりも、まだ高いんです。平均なあれで言うとね。で、濃淡がかなりあって、ご存知のように渡りであるとか、大极であるとかっていうとこは、まだ、高い線量のとこもあります。私のとこも、先月くらいに、やっと除染が終わったんですけど、実は、住宅除染だけってのは、自分ちの敷地内でしかやってない。だから前も、道路であるとか、道路の中の脇のそこが、その、何も手つかずになって、つまってるというような状況は改善されてないんです。自分ちだけは。


政府の

要するに、被害を受けた人は被害を淡々と言うしかないんですよ。ところが被害を隠そうとしている人も実際いる訳ですよ。で、その人らはあの、いかにも優しいことを言っていかにも解決できるようなことをおっしゃる訳ですけど。それを、いやちょっとちがうんじゃないですか、と言うことを皆さんの感覚で暴いて行くの方がま、面白いんじゃないかと思います。皆さんたぶん被害者だけを回ってると思うんですね。ところが、被害者はやっぱりなかなか狭いんです、視野が。自分が受けた波乱の中でしか見てない。それが相対的にその老い隠そうとしているとこの位置関係とかがみきれてないケースが多いんです。ところが、行政であるとか頭のいい人たちいわゆる原子力村とかいろいろ言われてる推進してる者は、結構澄観で見てるんですね。で、次ぎにどうゆう政策をすれば風評被害ははっと盛り上がって、どこにどういうお金を入れれば少し緩和するであろうとかどこがこの運動のキーポイントであるとかどこをちょっと撫でてあげれば人々がこっち側によるとか。そういうことを良く研究しているんです。我々よりも。だからこうずっと成功してきて押さえ込まれている訳でしょ。本来なら暴動が起こっていますよ、人殺しが起こっていますよ。それをうまく押さえている人たちのやっぱり技術とか本音とか何を目指しているかを探った方が面白いんじゃないかと。そこではまあ、余談です。だから被害者の仲の話を集めるのは以外と容易だけど、深みがあまり無くなっちゃうんで、やっぱり少し、それと対応できるような、それを老い隠そうとしている勢力がいてそうなってるという関係性を見ながらやらないと、ちょっと面白み欠けるんじゃないかなという気はしますね。

東京電力について

で、あのー私は福島ですから、福島住んでる者っていうのはいわゆる自主避難区域の人たちというのは、もう何も顧みられないと。要するに、えー12万というお金をま、あの、一部の地域で支払った訳です。でこれは内実では4万円だけが精神的な慰謝料で他は生活の援助みたいな形で東電が払った。それで終わりですよっていう形になっていうわけですよ。でそれも皆さん受け取り方もまちまちですよ。ウワァー12万も貰った嬉しいなという人もいれば、えー12万ではどうにもならないと。これで東京電力許すわけにはいかない、という人もいるだろうし。それらを考えてくると、そう、まだこれから紛失する問題も甲状腺の問題であるとかいろんなことでいってくれば、福島はまだ終わっていなくてこれから、ま、変な意味、架橋に入ってくるのではないかと。実際的に現実的な路線のもう今後見つけざるを得なくなる、提示しなくちゃならなくなる、全部避難って全寸期間って言ってた者も一部避難もしょうがねーや、って言うとこまで煮詰ってきてるんです。でこれは、なぜ煮詰ってきてるかというと皆さんご存知のようにオリンピック前になんとかもう解決しちゃいたいなということなんです。だからこれからが逆に言うと正念場なんです、あらゆる意味で。要するに、向こうがはめる型にはまってそのまま捨て置かれるのか、それとも別な解決方法を見つめて色々向かいあれするのか。だからそういう、ことを頭に置いておいていてビデオとか作ってやっぱり問題のあれをはかっていただけたらと思います。

避けられない原発事故の風化

いやあの、これは風化するのは当然ですよね。どんなことでも風化は必ず進むんであって、だからあの、風化してもしなくてもやっぱりやらなきゃなんないこととのは生活レベルであるんですよ。生活レベルで皆さんが要するに、その問題と直面しなくなったらもう風化の始まりなんですよ。例えば、食う食べ物にあまり留意しなくなった、マスクもしなくなった。ね、あまり放射線がいくつだかも興味示さなくなった。これは個人で止められるもんではありません。いくら呼びかけてもそのものは風化するんです。だから、風化していいとは言いませんけど風化は避けられませんよ。ところが、いつも崖っぷちにいるってことを皆さん忘れちゃうんですよね。

活動を続けるモチベーションとは?

真基本的にはあの、なかなか何も言わないで館箱の中に入る、要するに葬儀箱に入る、足をこう入れてるけど、なんか、一言言わないとなかなか死に絶えて行かないような世代なもんですから、そういう意味では。だから、なんらかその、昔取った杵柄的な社会運動に関わる、ま東京なんかでもやってらっしゃる中で、同じような世代の方が男女とも思いますよ。でむしろ40代とかね、そういう方が少ないというような、要するに、自分らが全協働世代の息子さんらに対しては、DNAを渡していないんです私に言わせると。ちゃんと伝えていないんです、渡していないと言うか。自分らがやったことの正当性をちゃんと理論立てて自分の生き様を説明しきれていないんです。実は。そういう問題もあるんです。じゃ私はあいにくというか、そういう子供もいないしあれもいなかったんで、あの、そういうことはなかったんですけど。だから、逆に言えば悪魔の全協働世代と言われてるがお前らがぼかしたんだみたいな論議を子供達から指摘されるんですね。そういうことって無いですか。うん。ま、皆さんはまだそれのお子さんになる訳です。だからちょっと違うあれなんですけど、ま、おじいちゃんの見方を冷静に見れる人とお父さんの、皆さんのお父さんの世代はあまり冷静じゃなくて生活の1面で付き合わなきゃならなかったから、なんでそんなことやってたのと。それで、いまなにやってるの?ということになる。じゃなんか思想的にはるかというとあまり良い参考になるようなことなにも無いねと言うような。そういう目で見られる場合もあるんですね。多分僕はそういうの嫌なもんで、ま自分がやってきたそういう学生時代とかそれがなかかったことをま逆の意味で言えば引きずっていると。それが言ってみればモチベーションになってるの。

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金井直子さん

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金井さんは楢葉町からいわき市に避難された主婦で、「完全賠償原告団事務局」で原発被害を裁判を通して訴えている方です。

被災者間のギャップ

例えば、義援金、支援金、仮設住宅。いろんな減免措置を頂いて、ハード面はね、ある程度生活する上では賄えてますよ。
だけど、そのなかでもさっき言ったように、家族みんなで失業しちゃったとかね。本当にもう過酷に困窮している人もいるわけです。でもね、みなさんにお話したように、少なくとも、うちの、私だけが失業して、あとの家族が、まあ失業せずに済んだので生活が成り立っているから、こういう時間もとれるし、私もじゃあ原告団の事務局長としての活動に力を入れようっていうこともできるけど、中にはそうしたくてもできない人もたくさんいるし、やっぱり人前でお話するとか、裁判所で何かをするとか、いろんな活動をみんなさんがこう伝えていくってことは、みんながみんなできないと思うんです。

安全神話

その放射能っていう意識がなかったんだよね。あまりにも当たり前すぎちゃってて。危険っていう意味が最初よくわかんなかったんだよね。だから、それこそ、ほら安全神話ってよく言われるけれど、絶対に原発事故は起きないって、そういう風にもう刷り込まれていたから。原発は安全なものだから、絶対事故は起こさないって。絶対トラブルは起きないって。でも何年か前にトラブル隠しがあって、一回問題になっているんだけど、でもほら、やっぱりその、何年も前のことなんか、みんな忘れちゃっているから。

原告団事務局の事務局長になったきっかけ1

(質問)金井さんがこのように、こんなこととか運動を始められたきっかけとかは、だいたいいつ頃だったんですか。
きっかけはですね、さっきのプロフィールにもちょっとかいたんですけど、一応、まあ避難をして家を借りて、まあまあ生活は成り立っていました。ところにこれ(賠償請求書)が、23年、平成23年のだから、2011年の9月にきたわけですよ。
これを見た時に、さっきも言ったように、何が何だかわからなくて。これは、はたして出すべきなのか、どうするんだろう、みんなはどうするんだろうって。すごく疑問が湧いちゃったのね。こんなの、こんなのっていうか、送られてきてさ、自分じゃ判断できないじゃない、って。で、そのときに、今一緒に戦ってくれている、福島原発被害弁護団に、後々に発足するんですけど、全国の、日本弁護士連盟だったか、なんかその日弁連といわれる弁護士の方々の中の、それも有志の先生たち、弁護士っていってもいろんな方がいるからね。その有志の方々が立ち上がってくれたわけですよ。で、これがまず送られてきた。で、世間でいわゆる、難解、不可解な請求書が送られてきたよ、と。で、それを受けて、まず弁護士たちが、あるときにね、この新聞の見開きにね、新聞広告を出してくれたんだよね。原発事故被害者の皆様へ、って。東京電力から賠償請求用紙が送られていると思いますが、それに関する無料のね、法律相談を行います。ご希望の方は、どうぞおいでくださいみたいな、そういう趣旨の新聞広告を出してくれたの。

原告団事務局の事務局長になったきっかけ2

とにかく、これ考えてもしょうがないから、弁護士に相談しようって。で、それが、無料法律相談会に行った時に、初めてお会いした先生が、後々今のこの福島原発被害弁護団の代表になった、いわき市の広田先生っていう先生なんですけど。そういうことがきっかけで、何回か先生とご相談を重ねて、そのうち、今のちのち一生懸命活動を重ねてやっている、今活動家の、元教員が多いんですよね、組合の活動とかやっていた方が多いから。学校の先生ね、高校の教員とか、県議会議員の方とかいるんだけど。そういう人たちと、やっぱりだんだんつながるようになってきて。で、このままじゃいけないってということで、避難者は避難者原告団、いわきはいわき市民訴訟ってことで。やっぱりその、出会いがあって、広田先生からの助言があったりして、いわきで支援してくださっているいろんな方からの、やっぱり情報だよね。だから、私もただこれが来て、ずっと自分で家の中に閉じこもっていたら、そういう人たちと、皆さん方ともそうなんだけど、めぐり合わないじゃないですか。

向き合わなければいけない恐怖

目に見えないことが一つと、あと、今現在進行形で、あの収束していないんですよ。全然。トラブルも毎日のように起こっているしね。で、増え続ける汚染水の行き場もないし、いまだから、中間貯蔵施設の問題が浮上していますけれども、それをどこに建設するかっていうこともまだ決定していないんですよ。で、ボーリング調査っていって、地質調査を双葉郡の楢葉町と、あと第一原発がある大熊町と双葉町。この三つの町に、調査はしたんですよね。いずれ、これはまだ確定ではないんですけれども、いずれこの三町に間違いなく中間貯蔵施設ができます。ほかにもっていき場がないんだから。これを県外に、っていったてね、福島の核のゴミをどこの県が、どこの都道府県が引き受けるんですか。じゃあ海外だったらいいんですかって、そうじゃないでしょ。やっぱり、もう自分のところで起きてしまったものは、もう自分のところで引き受けるしかないって、私は思っています。ただ、感情的には、その土地で代々ね、生まれて育って、その土地を守ってきた人たちは、自分たちの土地がそんな風になるのはいやだっていう感情はありますよ。それは聞きます。だけど、じゃあ別なところにどこに持っていくのって、行き場がないから、やっぱり、なってしまった以上は自分たちで引き受けるのかなっていうのが、まあ実情だとは思います。

福島原発被害弁護団

弱い人っていうか、困っている人を助けたい。とにかく、弁護士ってそういう仕事なんだけど。特にね、お金をとるためのじゃなくて、その困っている、何とか救済をのぞんでいるんだけど、っていうひとたちを、とにかく救いたいっていう、人権派の先生なんだよね。今活動している、福島原発被害弁護団に加入されている先生方っていうのは、全国のいろんな弁護士事務所なり個人事務所で、それぞれが弁護士活動をしていた人たちなの。そのなかでも、自分はこの福島の原発事故の被害の救済のために力を貸したいと。そういう有志の先生たちが、じぶんから進んで弁護団に加わっているんだよね。そういう動きってなかなか報道されないけれども。だから、福島県内でも、こういう話をしても、実際そこまで言って初めて、ああそうだったのかって言う人もいるし。

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