アーカイブ

福島(2013秋)

This category contains 6 posts

赤間みなみさん

インタビュー一覧へ戻る 震災当日は家族と旅行に行っていたそうです。向かう途中で被害に会い、その後数日はホテルで過ごしたと仰っていました。 被災当日の様子 仙台でお食事、ちょっとお昼して。で朝乗って、もう早30分ぐらいで着くとこで地震なんです。高速で。すごく揺れて、バスひっくりかえっかとおもっくらい揺れるんだもよね。ほんで、運転手さん。もう大丈夫なの,バスひっくり返ってないっていったら、もうだ、あの、動かないでてください、ってね、いうもんで。だからいるうちはすごく揺れる、なんだろこの地震とびっくりしたね。そっしてるうちにバスのラジオが大津波来ます,大津波来ますって大声で騒ぐのよ。え、どこにくんのその津波。閖上にくるんでないっていったっけ、どこにいくかわかんないって運転手さんいうわけね。ここは岩手県だからば。閖上のほうに来ないんですか大丈夫ですかって言ったら、わかんないって。とにかく高速は降りてくださいって降ろされたから。下を通ってややかかったんだわね。道路も壊れてるとこもあるしね。ほんでやっとたどり着いたのが夕方の5時か6時です。その志戸平温泉に。ところが真っ暗で水もなければやっぱりあとの電気もない。なんにもないんだね。そんでもうお客さん。あ、そこはすんごいお客さんなんだよ。普段ね。あそこの志戸平温泉。おうち、ね、ホテルみたいな温泉があってね。外人さんたちもなんかしょあっていたみたいよ。ほんでとにかくバスの中に、くら、薄暗くなるまでいれれとおかれたけども。今晩、一晩このバスのなかにいるんですかっていったっけ。どうしたらいいかどうしたらいいかって。バスにはいられないよねって言ったの。トイレにも行きたくなるしね。んでおろ、とにかく、んで降りてくださいって降ろされたけど。真っ暗でろうそくの明かり一本なのね。あっちもにわがらのおっとだから。なにか、そんな明かりなんか用意していないみたいで。んで、赤間さんの部屋は8階なんですっつーんだもん。ええー、8階まで上がんなきゃいけないのってろうそくと。とにかく上がってくださいっつーの。部屋に。で8階の、んーまでろうそく1本で、の、手をつきながら登りました。4人で。んで、お食事はどこにも運ぶことでないから、下で、きて、降りてきて食べてくださいって。私は年もとってるし。足落と、なんかとっぽとして階段からたたき折ったら大変だと思って私いかないって。でおにぎりでももってくっからねって娘たち行ったところが来ないわ来ないわ。余震は強いの。んな真っ暗なところに1人してこんなに。2時間以上もいたね。なんだってあの子供たちなにやってんだと思って腹立ってきてさ。ほいでやっときて、何をやってんのやってて、いられないここに。何度も余震が来るのが恐くて。うんと揺れるっつたの。のど詰まりそうにしてね。ロビーにおろしてくださいって。下でいいから。わって、こういう、ね。ロビーもこういうところだから。でそこに、で、で、毛布2枚くらいつつ渡されて、そこに4日くらいいたんだわね。シドライラ温泉に。したっけ食べ物がなくなりましたって。4日もいらっしゃったんですか。ええ。食べ物のほうもホテルもなくなったんだあとは。何百人ものひとだから。1品なのね。カレーライスのときもあるし。お蕎麦もこんなどんぶりこんな1つではもうね、いっぱいいっぱいなのね。ほんで3日4日たつと食べ物もなくなってどうにもなりませんから、赤間さんたち、あの、花町の、中学校、1丁の、あのーあせ、あれに、避難所に行ってくださいって。て言われ、送られて、そこに2晩泊りました。すんごい皆雑魚寝でねー。人の、お、おトイレせんよとどっかで誰かの頭になんか上がったら大変だと思ってうーんと神経使うっちゃね。間いくらもなんだもんあちらの避難者いっぱいいて。それでなんとかして、早く閖上の近くに送ってくれないかってお願いしたのね。 仮設に入ったいきさつ 市役所に、そんな当たるわけないってうちの娘たちいうんだけども、出してみないことにはだめだっていうことで、市役所に出して連絡してやってみろっつったら、2、3日で当たりました。赤間さん当たりましたって通知が入ったのね。あー見ろそんだから出さないことにはだめだって、あれしたんじゃないって。すぐにさっそくそこの仮設もう最後の方だったかして、今みぎっから移っちゅるとこだったの。5月3日までなんだから。うん2、3日なんだものわ。当たるわけないって出さないでっから、今2、3日あるから出してみろっていったら。いちばん、今17の5っつーとこにいるんです。1番終わりに。うん。最後。北海道と東京とつぐって私笑うんだけどね。遠いんです。まずそのくらいの差はしょうがないと思ってね。でこう、お世話になっているんだけどもねー。なかなか。 市の対応 ほんでもこの臭みが洗っても洗っても、どっかのこういう間にみな入ったと思うのね。なんぼ傷落として、なってても。んだから、市でもね、もう津波が3月だったでしょ、で11月までにそのうちを撤去してみな壊さないいけねっつぺたよと。そういうあれが凄くあれだったんです。で今は言わないって言ってるんだよ、そういうこと。市も。あってとっぺな、んな語るの。何回も私行って聞いて来いって若い人たちはやったの。市さ。本当にそういうやつなのかなんだかって。だけど2、3回行っても、そういうおんなじ、やつなんだ答えなんで。ほんで、それこそ、リフォームをね、そんな大金かけてしても、入ってられんならいいよね、スムーズに。臭くて夏んなって土曜来てこの暑さでプンプン臭いして具合悪くして病気になるんだったらもう大変だと。それよりやっぱりね、それこそ、壊すのも3百万かかんだよね。そんなことするうち壊して、更地にしてきれいにして、どぼりでもきれいにしてね。もっては、そんな今自分の土地さ自分で入らんないんだよ、その今の状態ね。 インタビュー一覧へ戻る Advertisements

増子 理香さん

インタビューページへ戻る 増子理香さん つながらろう!放射能から避難したママネット@東京 繋がりや情報共有の大切さ http://www.youtube.com/watch?v=wUoiLn2LV6o 「2011年の..実質的にいうと6月に作って…でお母さんたちの繋がり、とにかく情報がなくて…で、私は自主避難者なんですね…強制避難の人と自主避難っていうのはコミュニテぃーの中で大きく分かれているんですけど…自主避難した人たちは避難先も自分で選ばなきゃいけないし、で、その…支援とかも本当に薄かったのでとにかく繋がりがなかったので…すごく孤独だったし不安だったんですよあの時..2011年…でとにかく「繋がりたい!!」って思って…それで1人で繋がって!って言っても仕方がないし…器を作ったらどうかなと思って作って…それで偶然立ち上げるきっかけになった時に、あの郡山って福島県郡山市っていう大きな市があるんですけれどもー…そこから避難したお母さんと偶然巡り合うことがあって、人の紹介で…で、その方とすごく意気投合して、「じゃ、その会を開こう」って言ってー…会場を探して定期的にその会を開いて」 自主避難者 http://www.youtube.com/watch?v=oV1ROxRDYVQ 「最初は私達避難したお母さんたちで、やっぱ避難できるってことはー..ごく一握りの人たちなわけですよ…福島の中で6万人の方が避難してるって言われてるんですけど、でも福島全体…福島の人口からみると強制避難じゃなくて自主避難で見ると…その人たちは恵まれてる人、タイミングも多少お金とか人脈に恵まれた本当にラッキーだったっていうしかないんだけども。」 避難するかしないかは人それぞれの価値観により選択される http://www.youtube.com/watch?v=-Ma8eHWl3Yk 「関西の人からすると「関東なんて住む所じゃないよーじゃないんだからもう避難してきてよかったわねー」って東京の人が福島の人を迎えるかのように関西では関東の避難者も東北の避難者も全部同じ。沖縄になんか関西から避難してる人もいるもん。「関西なんて、本島なんて住むところじゃない、住めないよー、沖縄にいらっしゃいなさいよー」「本島は汚染されているわ!」みたいな、こっちオスプレーだけどーみたいな。うん、だから世界から見ると「日本になんか住んでないほうがいいわ」みたいな、これは大なり小なり違うんだけどもやっぱり汚染っていうのはね、、すごく避難を選択するっていうのは個人の判断になってくるとは思うんですけどねー」 親子供、学校、安全宣言、情報共有 http://www.youtube.com/watch?v=a6aY8BZAKGA 「日本の被ばく許容量ってあるじゃなですか、それが年間1ミリシーベルトだったんですよ。それ以上被ばくしてはならないって国が定めてて…それを11ミリシーベルトって超えてても避難区域ではないのね…で、ここ通いなさいっていうし授業中はマスクしちゃいけませんとか言うの、とか「学校の水道のお水は安全だから」ってうちの子はペットボトルの水を水稲に入れて学校の給食のときとかに持ってかせていたのだけども学校の先生に「学校の水道は安全だから水稲はだめ」って娘さんだけダメって言われて…で、子供はいろいろな情報の中…、私が結局はこういう風に避難したような母親なのでそれなりのそういう情報を与えている家庭にいたから、学校のお水も飲まなかったし水稲のお水も飲めなかったし、学校では一滴もお水は飲まないでおうち帰ってきたりとかしてたのね。そんなの可笑しいでしょ?小学校1年生、6歳ですよ6歳。そういうのが普通…だから親が抱えているような乳幼児だったら親が守るような事が出来るのだけれどもー小学校とかましては高校生だったら部活あったりこういう問題で…親が子供を守りたいと思うような気持ちがあっても思い通りになんなかったりーそういうのですね」 素直に話せない空気 http://www.youtube.com/watch?v=PIcF4d9_vaM 「おっしゃる通りで、親しい人ほど話せない状況であったりするので、私が一番話せない…放射能について話せないのは夫。 夫に相談ができないのが、不安を話せば「そんなこと…」ってなるし、「大丈夫だよ」って帰ってきてほしいから、で、「そんな困難があるってことだったらそこにいる意味ないじゃん」とか言われたりとか 「甲状腺がんが福島の子に見つかったみたいだよ」って言ったら「お前たちは東京にいるからがんにならないわけないじゃん、東京の郊外とかどうのこうの」だとかさーそりゃそうだよって思うけど… どんどんこう話しをすり替えられたりとかなっちゃうから口論になるんですよねー。 だから話せないようになったんですよー。くだらない話しですけど、この間知り合いの娘さんが高校受験をするっていって 「公立受験するはずだったのが私立の大学に付属の高校から推薦を取れてすんなり入れたんだー」っていう話しをちょうど電話できたから 「何々さんの子供さんが推薦とれてうちの子もそうで来たらいいよねーー」って言ったら「それまでいるのかよ、何年先までいるのかよ」みたいな話しとかにスラっとすり替わって、 やっぱり当事者だからそうなっちゃうんですけどもー本当に喋り…喋れなくなりましたねー。実際向うに残ってる分家の親族とか子供の繋がりとか切れちゃいましたね…うん…たまに帰ったりするときとかにーカフェに行ったりとかするのだけどーなんかこう「避難どう?」っていうのはなくーで、言葉に詰まるから私が「最近どう?」とか聞くじゃないですか、そこにいる人達にー…「んー変わらない」とか言われて「この前もプールやったよー運動会やったよー」ってだからなんかこう、あえて不安じゃないわ的なオーラを出して…話す」 震災から3年経って… http://www.youtube.com/watch?v=DevI2-O0gQs 「私今一応福島のお母さんたちのネットワークの、別に一応代表なんですけどー別に世話人をしているわけではなく…やっているんですけどー…福島から避難してる子供達のお母さんとか2011年から考えると大分..本当変化していって課題とかも不安点とかもやっぱりすごく変化していってるんですよね。で、最初のころはさっき話したんですけども2011年に自主避難している人たちは会えるだけで「私も避難者」「私も避難者」っていうだけで嬉しくて交流会あちこち..特に東京とか支援者が多く開いて…そこに行っては知り合って、巡り合いの喜びがある時期だったんですけどー2012年のやっぱ後半ころからだんだんやっぱり変わってきて、そのそこでもう楽しく交流するっていうよりかは、どうやって生活していくかとか戻らないだとか、得に自主避難者は勝手に避難しているわけだから勝手に帰るわけですよ。」 家族関係、お父さんの心理、震災離婚 http://www.youtube.com/watch?v=xj_FwfNv18E 「後は、ケースとしては残ってるお父さんが病んじゃったりで家に火を付けて自殺したお父さんもいます。本当に家が全焼しちゃって結局なくなっちゃんですね..「帰ってこないならば離婚するー」っていう夫と離婚しちゃった人もいたりー…とかどっちが寂しいか考えてごらんよって言いたいんですけど…かえって来ないよりは離婚を選択をする。とかたまに長期でたまに休みがとれたから福島にかえって福島の家を開けたらそこに離婚届けがあったりとかーあって、旦那さんの荷物全部なくなっちゃってたりとかでーとか結構“震災離婚”って聞くと思うんですけどもー本当に多いんですよ震災離婚が…本当に色んな家庭があるからー母子非難を支えてくれる旦那さんもいればーうちみたいに微妙な立場の旦那さんもいるしー..もう毎週毎週会いに来て支えてくれる人も、旦那さんも、もう本当色々なんだけどーとにかく、旦那さんたちもどっちかっていうとアンチの人がそれでお母さんと子供が選択を迫らなきゃいけない時期に、特に今3年たって、4年目になると結構節目じゃないですか3年って「もう3年」という言葉があるようにーようにどうするのって迫られていかなきゃいけない時期でもあるのかなーってなりますね。」 言える環境、避難者の感情、子供 http://www.youtube.com/watch?v=taShE37s0do 「皆が隠さずに言えるとね、色んな意味でもまた変わってくるとは思うんですけどもー…なかなか難しいかなーとは思う。だから支援者として何が出来るかってよく聞いてくださるんですけどー…ね、なんかね寄り添って忘れないでもらいたいですねー。なんかこう色んな事を相談したりとかする色んな所にで、例えば今までもあったかと思いますが、色んなことの相談とか愚痴だとかあった時に話す人って完結したいわけじゃなかったりするわけじゃないですかー…なんか…肯定…呼び止めてもらいたいときが多いから、だからそういうのが一番の支援かなって思いますよね、だからその手前にあるのは聞いてくれることなので、一番の支援じゃないですかねー。はい。今この人がどう生きていくことを支えるかっていう事に変わっていってますよね、で、私もよく色んな支援者とかに、「去年まではいわての方に毎日毎週毎月とか行ってたのだけども、もうやめちゃったとかって」言って。「なんで?」とかって聞くと仮設とか色々回ってたんだけどー…俺が言っても私達が行ってても変わらない。だから変化を求めていく人は変わらない事に疲れてくしー..でも変化…結果を求めるんじゃなくて、その個人のパーソナルをサポートしてあげることができる、あとはこの人がどうそれで力を得ていくかじゃないですか。だから結局判断するのはその人じゃないですか、いくら結婚しなさいっていったって判断するのは自分じゃない?海外で仕事があるからってそこに行くかはどうかはどんなに条件が良くても自分の判断。判断するまともの精神力とかまともな感性だとかまともな道徳的な考え、間隔がやっぱり被災地の人たち仮設に住んでる人達は保てないんですよね、だからそれはそれを支えてあげるのが一番、一番、いちばーん!!根本な支援かなと思うんですよねー、物をあげる支援は固定先の支援、段階があるんだと思うんですけどもー…私がどう強く生きていけることを支えて、守ってくれてるかって考えれるようなサポート。、その考えられる余裕を作ってくれるサポート。が一番かな。」 イジメ、子供、学校、 http://www.youtube.com/watch?v=9xETORgCz9c&feature=youtu.be 「一番初歩的な問題はイジメでした。新聞で見たことあるかもしれないけども、2011年辺りは避難してきた、得に原発から避難してきた“福島”ってついた名前の子供に石を投げたりとか入館拒否があったりとか、ホテルでの宿泊拒否もあった。本当に…ちょっとプチ避難みたいな事したでしょ?3.11のときって。そうすると関西とかで、何…受付のカード書いて福島って書いたときに「ちゃんと検査してきてますか?」とか「当館ではちょっと検査してないスクリーニングっていうんですけども、大分被ばくの検査してない方々にはちょっと宿泊できません」とか言ったりとか、関東では多分なかったと思うけど、いっぱい受け入れたと思うけど関西だとかだと新聞に結構出てたりとかして。ほとんどの子が避難して繋がってるお母さんたちの子供、ほとんどが小学生ぐらいからそういうイジメにあって、高校生ぐらいになるともうそれが気にならなくなって個人でちゃんと分かって、発言するけどー…小学校だと多分言葉を放った家庭でそういう、なんていうか、放射能のアンチ的な部分も危険性を伝えてるのはいい家庭なんだとは思うけどーそこ、それから先の教育が出来てなくって、ついつい親から聞いた放射能が危ないだとか危険だとかっていう言葉で接しちゃったとは思うんですよ、決して悪気は子供だからないとは思うし。だからそういうイジメは結構あるから我が子がいじめられたってのはありますね。それが言わない理由かなー..うんー…だからすごく考えるより複雑で親がどうこうとかよりも子供達本人の問題としてそれはもう幼稚園年中年長から理解は出来てるしそういう情報で溢れていたからね、当時は特に。まー親次第よ、親。親がどういう情報を流すかどうかだけどー、うん。」 インタビューページへ戻る

清野和也さん

インタビューページへ戻る 清野さんは山形県出身、大学生の時に福島に住みはじめました。現在は「NPO法人チーム福島」という団体の中にある「福島ひまわり里親プロジェクト」の事務局を担当されています。 福島の地域説明、風評被害について、影響 面積が全国で第3位。これだけ広いんですよっていうのを頭入れてほしいんですね。 これだけ広いから地域によって被害が全然違う。 大きく浜通と仲通と会津地方って分かれてます。浜通りは今日行かれたところが。いわき市ってのも浜通りで原発被害が一番大きかったのが浜通りっていう地域なんですけど。会津地方ってのが八重の桜の舞台になってるところで、ここはすごく放射線量が低い本当に東京とかと変わらないくらい低くて。なのでよく、福島の被害、放射能被害で風評被害って言葉使うと思うんですけど、ここは本当に風評被害って呼ばれている地域です。 今みなさんがいるのが仲通りって言って、ここは福島市とか郡山市とか新幹線とかで通ると思うんですけど。ここは風評被害の地域と実害被害の地域。というのは本当に放射能によって作物が採れなくなっている地域が地域によってバラバラな地域ですね。ですのでこのあたりも決して放射能が低い地域ではない。今日来る時に放射能測定器とかそこらへんにあったと思うんですけど、他の地域と比べればちょっと高くなってしまうって事でやっぱり子供たちもそういう事の中で生きてしまっているっていう。最後浜通りっていう地域が今日見て頂いたいわき市だったり、あとフラガールっていうのが映画でも、ああいうのの舞台になったのは浜通りっていう地域で。もともとは観光がメインだったので、どうしても震災の影響が観光に行ってしまったので。この地域は実害って言われてる地域です。でこういう風に広いんだなって事を分かってもらうと、福島って一色単に風評被害って言っても、ここも風評被害っていう考え方でもなく、逆に、福島ってひどいんでしょって考え方にもならないかなって思います。北海道みたいなもんなんで、北海道って言い過ぎなんですけど。北海道の端っこで起こった事は関係ないくらいじゃないですか。 3.11後の変化:人口の減少 で、福島、震災があって何が変わったかと言うと、まず人口がぐっと減ってます。これは現在って言っても昨年のデータなんですけど。6万1千人が確実に減っている。これは亡くなったとかだけではなくて、結局県外に避難されたりとか、例えばこの避難地域っていう人たちは福島その地域に住めないので、県外に住まれているっていう人も合わせての数字です。 観光への影響 あとこれデータないんですけど、震災があって何が一番落ち込んだかっていうと、もちろん農業分野とか漁業、ってのが一番なんですけど、次に落ち込んでるのか観光の分野なんですね。やっぱり風評被害ってところ、特に先ほど見た会津ってところは観光がメインなので、あそこは本当に風評被害で、全然東京と変わらないのに、でもキャンプ場の人たちが全然人が来ないって。前までは学校さんたちが子供たちを連れて来ていたのに、今は親の反対で来ない、って状況があって。観光ってのががくって落ちてます。でその観光の中でも教育旅行、みなさんで言うと例えば小学校中学校の頃修学旅行って行かれますよね?あれって福島で言えば会津地方だったり浜通りってのが修学旅行で来るかたってのが多かったんですね。歴史を学ぼうっていうので。なんですけどこれが9割減、なので全然人が来なくなってしまっているって中でどうにかしてこの観光だったり、そいういった面で僕らができること。しかも続けて、継続的にやらないと修学旅行って3年後のを今決める、で決まったら3年間はずっと同じ所になるらしいんですね。なのでその時その時一瞬だけやっても、継続して出来るプロジェクトはないか、っていう所で本題に入るんですけど。 福島ひまわり里親プロジェクト 福島ひまわり里親プロジェクトっていうプロジェクトをさせていただいております。 これはですねNPO法人チーム福島っていう、福島県内の若手経営者、大体20代から一番上でも40代前半の方、計10名でさせて頂いているプロジェクトです。で、どんなプロジェクトかというと、全国の方々に知的障害者の方にパック詰めして頂いたひまわりの種っていうのを販売して、それを全国の学校だたりご家庭で育ててもらう。で咲かせた種を福島に送って頂いて、今度はその種を福島県内で咲かせる。そうする事で自分たちのひまわりの子供が福島で咲いているという事で、観光誘致と、あとは障碍者の方の雇用と、これを通して例えば学校さんですと復興に興味を持つということで風化と教育対策っておいうことでやらせて頂いているプロジェクトです。2011年に始まって何年目、3年目になるんですけれど、全国で10万員以上の方がこのプロジェクトに関わって下さっていて、 福島県内2012年が9千カ所で、今年が1万6千カ所で復興のシンボルとしてひまわりを咲かせて頂いています。 まあ流れとしては今の通りなんですけれども、ひまわりの種を購入して、全国でそだてて、って。最初の年は育てる種がないので2011年は完全に全国たで。全国で育ててくださいってやって、大体ひまわりの種が5トンくらいと、あと一緒に『頑張ってね』っていう応援のメッセージが全国から届いたんですね。それがこのプロジェクトに届きました。 で2012年には福島県内の観光地だったりあとは行政だったり学校だったりっていう所に届けてもらって、ひまわりをさかせる事で観光の名所というか、ひまわりの迷路を作ったりとかで、ひとつの観光地ということで作らせて頂きました。そして2013年は入ってないんですけど、2013年も同様に2012年に送っていただいた種を1万6千カ所で咲かせたという事になっております。 福島ひまわり里親プロジェクト:目的 目的、 ちょっと話したんですけど、最初この雇用対策っていう話をさせて頂きました。 で、二本松市ってところが福島のとなりにあるんですけど、そこの障害者施設が震災によってお仕事全然なくなっちゃったんですね。っていうのはその人たちがやっていたのがおまんじゅうの箱入れのお仕事。と、野菜作りだったんですけど、野菜作りはやっぱり放射能で二本松は作っちゃダメだったので、それでダメになったのと、まんじゅうの箱入れっていうのが、結局震災があって観光がダメになっちゃって、観光がダメになっちゃうとおまんじゅうも売れなくなっちゃうんです。でお土産の箱売りっていうのをやっていたんで、ちょっと障害者さんに出す余裕っていうのがなくなってしまって、障害者さんの仕事がなくなってしまったんです。このかた達は作業所に来るのは良いんだけど、仕事が全然なくなっちゃってるっていう状況で、家の代表とかは、だっから違う地域に移動して仕事されたらどうかっていう事も提案したんですけど、結局霜害を持ってるかたっていうのは、そこに通うのでも2年も3年とかかけてやっと自分でその土地で暮らして行けるようにるっていう状況で、いきなり新しい土地でまたゼロから始めるってなるとまたたくさんの労力だったり時間がかかってしまうっていうのがあるんdねすね。なのでっこで出来る事はなにかないかなっていうところでこのひまわりの種のパック詰め。種は海外産なんですね。なのでその種を買って、その種をスプーンで救って袋に入れて販売しているんですけどそういう作業だったり、ちょっと見づらいんですけどこういう種と一緒にひまわりのラベルをつけて送ってて、こいうラベルの書き方とか。あとは全国で届いた種の仕分け作業とか。そういうのをお仕事としてさせて頂いてます。で、種は1パック500円で販売してるんですけど、そのお金がこういう作業代っていう事で、使わせて頂いております。(だいたい何名くらいいらっしゃるんですか?) ここが今40名くらいでしたかね。その40名の中でプロジェクト担当っていう方もいて、今は震災とかでいろんなプロジェクトも増えてきたので担当でお豆腐を作ったりもされているので、そういう事をされている人もいて。で今は野菜とかも普通に作れるようになったので農業担当って事もされてます。 清野さん自身のプロジェクトによるご自身の変化 先ほどお話頂いた子供たちの将来の夢への影響や価値観の変化の影響がありますが、清野さんご自身で価値観の変化などはありましたか?僕自身がですね、僕自身がか。でもやっぱり、自分の為って視点がなくなったというか。僕がこのプロジェクトに関わって変わったのは、未来の事のためだったりとか、そういう視点って持ったことなかったんですね。そんな、知らんわーって思ってたんですけど、でもこういうプロジェクトでそういう子達と関わったりとかいろんな事想像するわけですよね、このプロジェクトって何の為にやってるのかなって。何のためにってなった時に、やっぱ自分の為だけじゃやってけないなって。これ震災があったからって事にも直結してくんですけど、やっぱこうやって全国の方が福島の事を我がごとのように思ってやってくださってる姿って多分僕が一番ダイレクトに見れてるんで、自分もそうなりたいなだったり、自分がやる事で未来がもっと良くなるといいなって視点に変わりましたね。僕らがどうこうしてるんじゃないので、僕らは種を電話とかネットで注文受けたのを送るだけって、言ってしまえば。もちろんその中で色んな企画とかしますけど、でも僕らは全国で咲かせてくれないことにはなにも進まないプロジェクトで、福島で咲かせてくれなければ。やってくださってる方がすごいです。 今後のどうしていくか、理念について プロジェクトにも共通してるんですけど、うちの理念っていうのがfor you for Japanっていうんですね。つまり目の前の事に、人の為に何かするってのが結局日本の為に繋がってるっていう考え方で。それって僕らでいうと福島の為ってなるんですけど。で僕らって今、世界中から見て福島っていうのは同情の町。ちょっとかわいそうな町って思われてる部分が結構多いと思うんですね。だkら海外とかでもイベントが結構あると思うんですけどそれって結構同情心から来てるんですよ。それを今度は尊敬の目に変えて行きたい。あ、福島ってすごいな、こんな人たちいるんだ。じゃあ福島に学びに行こうって。さっきも話したんですけど、そういう事をプロジェクトを通して発信していきたいなってのもあります。僕個人としてもそういう時に何ができるかなって時に福島の人たちのルーツだったりこの土地っていうのがどういう人たちがいるのかっていうのを知ってそれをまた伝えて行くっていくのも指名なのかなっておもってるので。そういう風に、同情の町から尊敬の町って。これはプロジェクト全体でも共有してるんですけど。それが一番ですかね。 インタビューページへ戻る

九頭見淑子さん

インタビューページへ戻る 九頭見さんは、福島県いわき市、湯本にある操業100年の和菓子屋 「久つみ」を経営しています。実際九頭見さんのお店で3.11の震災後の生活への影響や、現在の状況、震災後の様々な心境などのお話をお聞きしました。 3.11の震災後の変化(街の変化、商売の変化) 売上的にはね、三分の一だね。例え…簡単に言ったら100万…一か月100万売れてたとしたら30万…もう本当に観光客がいない町になっちゃったからね。もう今は旅館25軒位あるんだけどね、ちゃんとした営業でお客さん…観光客だけでやってる旅館1軒しかいない。後の24軒のうち泊めて仕事してる…あの…観光地・観光客以外の作業員の人みんないるのでどこの旅館も、その他はね、三分の一くらいのお部屋をね、一般の観光の人に状況なので…もう本当にヒドイもんだよ。だからバスをね、まず見ないから、バス通んないから…いつも、今まではね、今日もう土曜日でしょ…土曜日だから道せまい所をやっとおっきい観光バスが曲がるのが大変そうなのをしょっちゅうみてたりね…駐車場には5台6台とバスが停まってたけど…今いないからバスが。まずこない! バスが来ても「ハワイアンズ」には東京からね、直接無料バスみたいなバスが通っていて…後観光バスも「ハワイアンズ」は作業員の人がいないのでそういう意味では一人勝ちだね…「今は観光客がのびてきている」ってハワイアンズ言うんだけども…その伸びてるひとつの理由は国とか東京都とかそういう所で補助金を出していて補助金を出して、1人例えば5,000円なら5,000円を補助します…いわきとかに泊まった場合。けどこっち(いわき市)泊まる所ないでしょ?だからみんなハワイアンズにバスで行っちゃうわけよ。だから「ハワイアンズ」はそれで潤っているで…今、結構、お客さんはいるよ。 震災以降の変化について、心境 それなりに努力はしても努力は努力として、でも何もやらないよりはね、人を呼ぶように、子供はここで学際をやったりね…よく学校とかで文化祭をやるけれども町で小学校中学校高校とかみんなきてね、演劇…演劇はやらなかったな、歌と吹奏学とか後は剣道は剣道の人が盾とかやったりだとか、いろいろレスリングだとか、子供たちが集まると親も来るし、おじいちゃんおばあちゃんも来るし結構いっぱい一日だけでも人が集まって賑やかだった日があったのね。で、それ毎日やって欲しいなあーっとか思っちゃったりとかね、でもそんなことできるはずもないんだけどもね。本当に、夜ここで立ってここの道路350メートルもあるんだけど、向うまで見えるわけよ、人が通っていないから、寂しいよね。もうだって駅から降りてくる人なんか前から見たら全然減っているし、駅の自動券売機なんか連休っていったって売上金が例えば目標が50万とか100万とかだとしても全然やっぱり売れないって駅でも嘆いている。 今の状況、悲しみ、人々の思い 今ちっちゃかった子供が大きくなったときにきけん児が産まれたら、なければいいけど、あったらね、もう私たちの都合で呼んでなっちゃったら目回ってられないので、安心する所があるので、今いってもらっているんだけど、そういう人も旅館も若い人達はすぐに出てちゃったからね、子供たちに影響があるっていうからね、まして女のこのいる家族なんかお嫁に行くにも「福島の家があるの」って言うと絶対なんかなるって思われるらしく結構遠くにいっちゃったし。ここの角でお土産屋さんやってる所もやめちゃって、長野の方に行ってね、お店もだんだんだんだん減っていく一方でこれから….ゆったり館に行くには通らないか….一番の旅館のメイン通りの童謡館の近くあるんだけど、なーんにもなくなっちゃった壊してそのあとに出来ないから、もう戦後の終戦後の第二次世界大戦の焼け野原にぽつらぽつら家があるみたいな感じになっちゃってて、恥ずかしいというな投げ悲しいというか、でも後継者がいなければ家を建てる人もいないでしょー、だからなーって思うんだけども。本当の出来る事ならあの日の前で戻りたいって気持ちはあるけどもそれは出来ないことだから、これからの事を考えるって事だけで…自分達はもう家もあるしお店もなんとかね、自分達が食べて行く分はねなんとか、3分の1でもね、やらないよりは少しは利益が出るのでやってるって感じですね。 福島のイメージ、原発への思い 原発の事故がなければね、確かに300人以上いわき市も津波で亡くなっているので、沿岸沿いね、今もまだ復興していないのだけども、それと地震だけだったらね大丈夫だったとは思うけども、自分達の努力ではもう…フォローしきれない原発でね…この頃そんなに歩かなくなったけども…1年目、2年目は今ころの時間皆作業から帰ってきた人が本当にぞろぞろ、ぞろぞろものすごくいっぱい居たから。もう町がまるで観光地の色ではなくなっていた。 メディア/報道について でも一番最初のもう何が何だか報道もめちゃめちゃ、何が起きているのか、何ベクレル…何…そういう単位の話しもねどっちが大きくてどっちが少ないのかも分からないその原発に対しての知識って…だいたい皆もっていなかったので、何が起きてるんだろう…って思ったけど…本当にバスでねその送り迎えして作業員の人が朝の3時ころ行くんだよね、各旅館回っていくバスなんか見るとなんか本当戦地に向かう兵隊さんみたいな感じで、それが行ってきてまた帰ってきてってのを繰り返しで…異様だったね..そういう時の様子から今は落ち着いて見えるけれども原発そのものはみんな知ってるように汚染水でもう…うそばっかり言ってるしね、次から次からあっちこちから漏れてまた何十万ベクレルが出たとか言ってるけど新聞にのるのは本当に3行か4行ぐらいで。すごい大変な事が起きてるのにあんまり報道それなくなってきているし、実際はもうまもなく3月でね3年になるのに「何か変った事ありますか?」って聞かれても特にないですねえ…お客さんも戻ってきてるわけじゃないしね、逆にだんだんだんだんこれをいつまでもこんなことを5年たっても40年、10年たっても40年って40年40年ってのがせばまらずにもう私らの世代が、せいぜい平均寿命だとしてもあと20年ちょっとだからさ、その時代にはこのままいっちゃうのかなーっていう思いもいっぱいあってね。 今後への不安、考えについて そういう不安ね、そういうのは考えれば考えるほど不安が多くなるので、考えないようにしようとは思うのだけど、でも現実に毎月放射能検査はちゃんと来てね、わりと少なくなってきたんだよ、わりとね、測ってもらってるんだよ、そういうのはみんなやっているとは思う。後、食品の検査ね、それも保健所でやってもらって、「大丈夫です」をもらってやっているのだけども…それだってさ一日一日そんな、例えば菓子あけました、ここには放射能はこうですだのが一番上にあったら食べたくなくなっちゃうでしょー…だからそれは聞かれた時だけ言うことにしているのだけども、でも現実は…まあーお菓子はそれほどでもないけども、あの米とかねなんかやっぱり自分のところで作って子供にあげようと思っている人もいるけれども、子供は「もう結構です」って断られるしね、魚も得にそうだし、私なんかも親戚とかに毎年いまぐらいになったらサンマとか送ったりとかしてたけど、あの事故以来向うから「もう、結構ですから」とか断られたし、逆に果物とかも送ってきた人たちもパターっと送ってこないし…もうなんか…きん…親戚付き合いもそういういみでなくなっちゃうよね。じゃ、何を送ろうかと思うと全国共通の洗剤とかさ、ビールだとかさ、携わりないもの送ると…「お母さんのそういうお心遣いがよくわかります」みたいなお礼状がきたりしたりね…. インタビューページへ戻る

深田和秀さん

インタビューページへ戻る 深田さんは、現在特にどの団体にも属さず、個人で放射能量の計量を行ってらっしゃいます。 深田さんの「敗因」 要するに廃炉後の世界をどうするしたら良いのだろうかっていうことで、廃炉アクションっていう、イベントを、考えて、えー、そういうことを、ちょうど、その日に合わせて、要するに3月の26日に、いわき市で、もう場所も借りて、そいで、いろんなことを、お話しする、コメンテーターの方も呼んで、シンポジウムも予定して、そういうとこまできてたんです。でもうあと開催する、ところが11日に、事故が起きて、みなさんご存知のように、もういっぺんに。もとより、その、そういうことに、アンテナをたてて用意をしてたお母さんの人たちは、すぐさま、福島から離れたんです。もう何も後ろ見ないで、とにかく離れた。ところが私は、まず1つは、親父が、要するにその、介護施設に入ってましたので、移動できなかった。で、私は、あの…あぶくま高地を、福島市は、約70kmから80km圏、です。超えて、福島に影響を及ぼすとは、実は考えていなかたんです。で、それが私の、まあ言って見れば、敗因なんですよ。まあだから背負った、まあだから失敗の、重みなんですね。だから一緒に、当然何日かの停電と、断水がありました。 周囲の問題についての認識格差 それはいや、感じますというか、認識格差っていう言葉が適当かどうか分かりませんけど、もとより人間の体はここに寄って感受性は違いますから、例えばなんで花粉症にあなたがなって私がならないの、とか、ていうのはなかなか、まあ科学的な説明もちゃんとできるはずなんだけど、なかなか難しい問題ですよね。だからあんたなんで、そのことわかんないのって、放射能の怖さ分かんないのと、突き詰めても、なかなか、相手の方は、理解できないんです。理解できないっていうか、どういうことなのかっていうのを、あのー、実は、分からないんですね。で、えー、逆に、私のように、ある程度そういうことを頭のなかで分かっていても、実際は高をくくってしまうような場面ってのはあるわけですよ。さっきも言いましたように、阿武隈山地を超えてくるなんて言うようなことは、要するに80kmも、放射性物質が、プルームが、通って、そこで微量な物が落とされて、なんか影響あるのって、要するにイメージが、されてなかったわけですよ。ね、そのために、本来は警告をしてみなさんに、少なくとも、危ないよ、ということを言わなきゃならないような、立場にあった者が、何も言えないで、一緒に、水汲みにならんでたって、そういうなんかものすごいブラックジョークみたいな話になっちゃうんですよね。ですから、そういう認識の違いっていうのはあることを前提に、やっぱり、あの、全体的な、相対的な、放射策をやってかなきゃなんない。 除染の限界 まあいわゆる植木とかがあって、そういうところにもう放射性物資がついているんですね。でちょうどそれが、境の生け垣になってるわけですよ。ね。ところがあたしたちが、隣のお家にいってそれいっぱいついてるから、すいません丸裸にしてくださいって言えますか?ないしはこの隣に、大きな木があって、それが常緑樹で、ずっと蓄えてるんです。それが自分ちの、子供の部屋ってだいたい二階につくります。子供部屋にちょうど、上手く、放射性物質からでる放射線の影響を受けるようなシステムになってるんです。で、それを気づいても、じゃあすいませんそれを枝打ちしてください、それをきってくださいと、言えますか?言えないですよね。そうすると、当然限界があるわけですよ。だから、除染に限界があるってのはもうハナからきまってることなんですよ。だからどう、それを避けるためにどうしたらいいのかと。いうふうになれば、やっぱり安全対策、ってか社会的な除染みたいなものも用意しとかなきゃだめなんです。つまり、希望者には子供だけでも先にどっか一時、避難させる。何年なるかわかりません。それは行政がどれだけしっかりやるかにかかってきます。ないしは疎開させる。それで、もう最悪の場合は、除染をしてる間だけ、どっか、移動して。あと、この中閉め切って、畑かけるんですよ。そんなことしますかお母さん。自分がお母さんなって、今やってることってのは、部屋の中を、閉じて、部屋を閉じて、じゃあ綺麗にするからね、ちょっと待っててねってこう畑かけてるのと一緒ですよ。普通、自分がお母さんになられたら、ちょっとあんたら出てよっていって、掃除、しませんか。僕はちょっと、普通はそうするもんだと思いますけど、違いますかね、うん。今の、やってるときは、逆なんです。ちょっと逃げないでよ逃げないでよ、と、うん。ちょっと綺麗にするから逃げないでよって中に閉じ込めてるんですよ。違いますかね。 福島市内での反原発運動について 全体的にはあの、この、福島市での、運動ってのは、非常に、下火です。うん。ええ。これは、もう、残念なことですけど。なかなか人も、まあ後でのぞいてみればわかると思うんですけど、なかなか人も集まっていません。ええ。そうですね、うん。あの中途半端な、いわゆる、その言って見ればその、国が指定された、その認定された、汚染地域ではないんですよね、でもうここは、まあ、除染が終わったとされる、田村市とかああいうとこよりも、まだ高いんです。平均なあれで言うとね。で、濃淡がかなりあって、ご存知のように渡りであるとか、大极であるとかっていうとこは、まだ、高い線量のとこもあります。私のとこも、先月くらいに、やっと除染が終わったんですけど、実は、住宅除染だけってのは、自分ちの敷地内でしかやってない。だから前も、道路であるとか、道路の中の脇のそこが、その、何も手つかずになって、つまってるというような状況は改善されてないんです。自分ちだけは。 政府の 要するに、被害を受けた人は被害を淡々と言うしかないんですよ。ところが被害を隠そうとしている人も実際いる訳ですよ。で、その人らはあの、いかにも優しいことを言っていかにも解決できるようなことをおっしゃる訳ですけど。それを、いやちょっとちがうんじゃないですか、と言うことを皆さんの感覚で暴いて行くの方がま、面白いんじゃないかと思います。皆さんたぶん被害者だけを回ってると思うんですね。ところが、被害者はやっぱりなかなか狭いんです、視野が。自分が受けた波乱の中でしか見てない。それが相対的にその老い隠そうとしているとこの位置関係とかがみきれてないケースが多いんです。ところが、行政であるとか頭のいい人たちいわゆる原子力村とかいろいろ言われてる推進してる者は、結構澄観で見てるんですね。で、次ぎにどうゆう政策をすれば風評被害ははっと盛り上がって、どこにどういうお金を入れれば少し緩和するであろうとかどこがこの運動のキーポイントであるとかどこをちょっと撫でてあげれば人々がこっち側によるとか。そういうことを良く研究しているんです。我々よりも。だからこうずっと成功してきて押さえ込まれている訳でしょ。本来なら暴動が起こっていますよ、人殺しが起こっていますよ。それをうまく押さえている人たちのやっぱり技術とか本音とか何を目指しているかを探った方が面白いんじゃないかと。そこではまあ、余談です。だから被害者の仲の話を集めるのは以外と容易だけど、深みがあまり無くなっちゃうんで、やっぱり少し、それと対応できるような、それを老い隠そうとしている勢力がいてそうなってるという関係性を見ながらやらないと、ちょっと面白み欠けるんじゃないかなという気はしますね。 東京電力について で、あのー私は福島ですから、福島住んでる者っていうのはいわゆる自主避難区域の人たちというのは、もう何も顧みられないと。要するに、えー12万というお金をま、あの、一部の地域で支払った訳です。でこれは内実では4万円だけが精神的な慰謝料で他は生活の援助みたいな形で東電が払った。それで終わりですよっていう形になっていうわけですよ。でそれも皆さん受け取り方もまちまちですよ。ウワァー12万も貰った嬉しいなという人もいれば、えー12万ではどうにもならないと。これで東京電力許すわけにはいかない、という人もいるだろうし。それらを考えてくると、そう、まだこれから紛失する問題も甲状腺の問題であるとかいろんなことでいってくれば、福島はまだ終わっていなくてこれから、ま、変な意味、架橋に入ってくるのではないかと。実際的に現実的な路線のもう今後見つけざるを得なくなる、提示しなくちゃならなくなる、全部避難って全寸期間って言ってた者も一部避難もしょうがねーや、って言うとこまで煮詰ってきてるんです。でこれは、なぜ煮詰ってきてるかというと皆さんご存知のようにオリンピック前になんとかもう解決しちゃいたいなということなんです。だからこれからが逆に言うと正念場なんです、あらゆる意味で。要するに、向こうがはめる型にはまってそのまま捨て置かれるのか、それとも別な解決方法を見つめて色々向かいあれするのか。だからそういう、ことを頭に置いておいていてビデオとか作ってやっぱり問題のあれをはかっていただけたらと思います。 避けられない原発事故の風化 いやあの、これは風化するのは当然ですよね。どんなことでも風化は必ず進むんであって、だからあの、風化してもしなくてもやっぱりやらなきゃなんないこととのは生活レベルであるんですよ。生活レベルで皆さんが要するに、その問題と直面しなくなったらもう風化の始まりなんですよ。例えば、食う食べ物にあまり留意しなくなった、マスクもしなくなった。ね、あまり放射線がいくつだかも興味示さなくなった。これは個人で止められるもんではありません。いくら呼びかけてもそのものは風化するんです。だから、風化していいとは言いませんけど風化は避けられませんよ。ところが、いつも崖っぷちにいるってことを皆さん忘れちゃうんですよね。 活動を続けるモチベーションとは? 真基本的にはあの、なかなか何も言わないで館箱の中に入る、要するに葬儀箱に入る、足をこう入れてるけど、なんか、一言言わないとなかなか死に絶えて行かないような世代なもんですから、そういう意味では。だから、なんらかその、昔取った杵柄的な社会運動に関わる、ま東京なんかでもやってらっしゃる中で、同じような世代の方が男女とも思いますよ。でむしろ40代とかね、そういう方が少ないというような、要するに、自分らが全協働世代の息子さんらに対しては、DNAを渡していないんです私に言わせると。ちゃんと伝えていないんです、渡していないと言うか。自分らがやったことの正当性をちゃんと理論立てて自分の生き様を説明しきれていないんです。実は。そういう問題もあるんです。じゃ私はあいにくというか、そういう子供もいないしあれもいなかったんで、あの、そういうことはなかったんですけど。だから、逆に言えば悪魔の全協働世代と言われてるがお前らがぼかしたんだみたいな論議を子供達から指摘されるんですね。そういうことって無いですか。うん。ま、皆さんはまだそれのお子さんになる訳です。だからちょっと違うあれなんですけど、ま、おじいちゃんの見方を冷静に見れる人とお父さんの、皆さんのお父さんの世代はあまり冷静じゃなくて生活の1面で付き合わなきゃならなかったから、なんでそんなことやってたのと。それで、いまなにやってるの?ということになる。じゃなんか思想的にはるかというとあまり良い参考になるようなことなにも無いねと言うような。そういう目で見られる場合もあるんですね。多分僕はそういうの嫌なもんで、ま自分がやってきたそういう学生時代とかそれがなかかったことをま逆の意味で言えば引きずっていると。それが言ってみればモチベーションになってるの。 インタビューページへ戻る

佐藤 英介さん

インタビューページへ戻る 佐藤さんは社会福祉法人楽寿荘の統括事務長です。震災直後、屋内退避地域との境界地域で物資のない中、高齢者施設の運営を継続しました。施設建物直前まで津波が押し寄せた時には、入所者を避難させました。 福島県と宮城県岩手県との違いについて 放射能の被害と津波の被害について 「まーね考えてみたら放射能の問題さえなければ…だから宮城県とか岩手県の方の災害も大変だと思うけど…一点ねそれだけの問題に対して福島県は放射能のかかってるんでね。2重にこう、避難を被害を受けた人と放射能だけの人と2通り分かれているんですね、福島県の人はね。放射能だけで逃げた人と津波の人とそれから津波と両方やられた人。で津波と両方やられた人は逃げた人と同じ、その帰れない地区は同じ扱いになるとは思うんだけども、でもやっぱり皆温度差があるから大変だと思いますね」 放射能、援助、除染 「これ広げてみてください。 ちょうど37キロなんですここ。で30キロ圏までは色々恩恵があるんですけどもその隣は全く、全くないんです、わたしらの所。直線で37キロなんです。今でもその窓際に出すと0.6−0.7マイクロシーベルトくらいあるかな。でそこの桜の木の下の根っこあたりはしたにおろすと1.3マイクロシーベルトくらい。今でも。で、除染をする予定ではあるらしいんですけど、建物関係は全部除染しちゃったんで、自分らで。高圧除染で、もう最初の頃に。その頃はね、屋上の雨水の先の落ちくずね、あのあたりで10.0越えるくらいの濃度はあったんですよね。ですからこの辺の松林はたぶんあると思うんですよ。逃げるところがないんで、多分放射性物質が付着して。松の葉っぱでもなんでも落ちちゃうでしょ?その辺が残ってるんでね、まだね、だから37キロ、こういう感じでとんだみたいですね。」 コミュニティー、避難所、仮設 「で現実にいわき市の行政区域からみた時はみなさん全部一緒になって、こうグループグループになって各町にね。ですから同じ仮設になって、ここは(一つの仮設は)大隈町、ここは、、、町、そしてここはいわき市の津波で家なくなった人たちって、同じグループの中でこうやって分かれてるんですね。ようはみんなバラバラに入ってるでしょ?だからそれぞれの付き合いが出てもそれぞれも直接、点と点の繋がりしかないから。」 施設職員 「これどこの施設も困ったんだけども、職員いなくなっちゃって。残って一生懸命やっている人と、どうしよっかって事になったんですよね。かたっぽペナルティーでかたっぽご褒美やんなきゃなんないのかって。そういう風にこう人を区別しちゃうと来づらくなるんじゃないかとか、そのあと職員同士で感情的におかしくなるんじゃないかっていう。なった施設が結構あったんですよ。わたしんとこ結果的に何もなかったんですけど。最終的に500万使ったんですけど、ようするに2週間毎日いた人には25万あげましょうと。で、今度ペナルティーの方はどうしようかって考えた時に、給料を下げるとかいろんな事やった施設もあると思うんですけれども、給料を下げたままだと一生ついてくと相当なマイナスになるじゃないですか。なんで、一回でいいだろうと。じゃあ賞与をカットしようと。で賞与をカットするのもいっぺんにカットすると大変だから、2回に分けてカットしようと。できるだけ負担がかからないように。だって本来はみんないなきゃなんないのに、家族の関係でみんな逃げたっていう人が多いんですよね。家族がいるからお前も一緒に来いっていう事で一緒に行ったんだけども家族を置いて戻ってきたっていう、そういうケースが多かったんですね。まあ、そういう事で一応ペナルティーとご褒美あげたけれどもそういうトラブルは私の施設ではなんもなかったですね。いさかいも何にも。他の施設では結構あったみたいです。でいずらくなって辞めた人もいるって。」 政治、風化、福島県と他の都道府県 「だったら当たり前だって。忘れられたって当たりまえじゃないのって。私もそう思うんだよね。本当にそうだったらそういう意思表示をしなきゃなんないからね。東京だってもう放射能そんなに響かないでしょ? 私は日常茶飯事だから。原発だって誰も信用してないですから。わたしらは。あのいちいち発表しててもみんなうそだろうって。後から後から。 まえから話聞いてたのが後から出てくるから。ひどいはなし。」 原発事故後のいわき市 「40年、60年くらいかかるなんて言われてるから。いま ものすごいですよ、いわき市。他県ナンバーがものすごくて。それから飲み屋もゴチャゴチャしてるし。朝になるとワーって双葉郡に行って、夕方になるとワーって戻ってくる。これが何十年も続いてるって言うんで、みんあうーんなんて思ってるけど。でそういう人と避難して来てる人とみんなごちゃ混ぜになってるんで。ここがね。そんなの東京の人分かんないでしょそんな。多分、私はここ、こういう恩恵がなくなったときあなたら注目して見てた方が良いと思うよ。なくなった時避難してた人たちがどういう動きするかって事だと思います。 インタビューページへ戻る

金井直子さん

インタビューページへ戻る 金井さんは楢葉町からいわき市に避難された主婦で、「完全賠償原告団事務局」で原発被害を裁判を通して訴えている方です。 被災者間のギャップ 例えば、義援金、支援金、仮設住宅。いろんな減免措置を頂いて、ハード面はね、ある程度生活する上では賄えてますよ。 だけど、そのなかでもさっき言ったように、家族みんなで失業しちゃったとかね。本当にもう過酷に困窮している人もいるわけです。でもね、みなさんにお話したように、少なくとも、うちの、私だけが失業して、あとの家族が、まあ失業せずに済んだので生活が成り立っているから、こういう時間もとれるし、私もじゃあ原告団の事務局長としての活動に力を入れようっていうこともできるけど、中にはそうしたくてもできない人もたくさんいるし、やっぱり人前でお話するとか、裁判所で何かをするとか、いろんな活動をみんなさんがこう伝えていくってことは、みんながみんなできないと思うんです。 安全神話 その放射能っていう意識がなかったんだよね。あまりにも当たり前すぎちゃってて。危険っていう意味が最初よくわかんなかったんだよね。だから、それこそ、ほら安全神話ってよく言われるけれど、絶対に原発事故は起きないって、そういう風にもう刷り込まれていたから。原発は安全なものだから、絶対事故は起こさないって。絶対トラブルは起きないって。でも何年か前にトラブル隠しがあって、一回問題になっているんだけど、でもほら、やっぱりその、何年も前のことなんか、みんな忘れちゃっているから。 原告団事務局の事務局長になったきっかけ1 (質問)金井さんがこのように、こんなこととか運動を始められたきっかけとかは、だいたいいつ頃だったんですか。 きっかけはですね、さっきのプロフィールにもちょっとかいたんですけど、一応、まあ避難をして家を借りて、まあまあ生活は成り立っていました。ところにこれ(賠償請求書)が、23年、平成23年のだから、2011年の9月にきたわけですよ。 これを見た時に、さっきも言ったように、何が何だかわからなくて。これは、はたして出すべきなのか、どうするんだろう、みんなはどうするんだろうって。すごく疑問が湧いちゃったのね。こんなの、こんなのっていうか、送られてきてさ、自分じゃ判断できないじゃない、って。で、そのときに、今一緒に戦ってくれている、福島原発被害弁護団に、後々に発足するんですけど、全国の、日本弁護士連盟だったか、なんかその日弁連といわれる弁護士の方々の中の、それも有志の先生たち、弁護士っていってもいろんな方がいるからね。その有志の方々が立ち上がってくれたわけですよ。で、これがまず送られてきた。で、世間でいわゆる、難解、不可解な請求書が送られてきたよ、と。で、それを受けて、まず弁護士たちが、あるときにね、この新聞の見開きにね、新聞広告を出してくれたんだよね。原発事故被害者の皆様へ、って。東京電力から賠償請求用紙が送られていると思いますが、それに関する無料のね、法律相談を行います。ご希望の方は、どうぞおいでくださいみたいな、そういう趣旨の新聞広告を出してくれたの。 原告団事務局の事務局長になったきっかけ2 とにかく、これ考えてもしょうがないから、弁護士に相談しようって。で、それが、無料法律相談会に行った時に、初めてお会いした先生が、後々今のこの福島原発被害弁護団の代表になった、いわき市の広田先生っていう先生なんですけど。そういうことがきっかけで、何回か先生とご相談を重ねて、そのうち、今のちのち一生懸命活動を重ねてやっている、今活動家の、元教員が多いんですよね、組合の活動とかやっていた方が多いから。学校の先生ね、高校の教員とか、県議会議員の方とかいるんだけど。そういう人たちと、やっぱりだんだんつながるようになってきて。で、このままじゃいけないってということで、避難者は避難者原告団、いわきはいわき市民訴訟ってことで。やっぱりその、出会いがあって、広田先生からの助言があったりして、いわきで支援してくださっているいろんな方からの、やっぱり情報だよね。だから、私もただこれが来て、ずっと自分で家の中に閉じこもっていたら、そういう人たちと、皆さん方ともそうなんだけど、めぐり合わないじゃないですか。 向き合わなければいけない恐怖 目に見えないことが一つと、あと、今現在進行形で、あの収束していないんですよ。全然。トラブルも毎日のように起こっているしね。で、増え続ける汚染水の行き場もないし、いまだから、中間貯蔵施設の問題が浮上していますけれども、それをどこに建設するかっていうこともまだ決定していないんですよ。で、ボーリング調査っていって、地質調査を双葉郡の楢葉町と、あと第一原発がある大熊町と双葉町。この三つの町に、調査はしたんですよね。いずれ、これはまだ確定ではないんですけれども、いずれこの三町に間違いなく中間貯蔵施設ができます。ほかにもっていき場がないんだから。これを県外に、っていったてね、福島の核のゴミをどこの県が、どこの都道府県が引き受けるんですか。じゃあ海外だったらいいんですかって、そうじゃないでしょ。やっぱり、もう自分のところで起きてしまったものは、もう自分のところで引き受けるしかないって、私は思っています。ただ、感情的には、その土地で代々ね、生まれて育って、その土地を守ってきた人たちは、自分たちの土地がそんな風になるのはいやだっていう感情はありますよ。それは聞きます。だけど、じゃあ別なところにどこに持っていくのって、行き場がないから、やっぱり、なってしまった以上は自分たちで引き受けるのかなっていうのが、まあ実情だとは思います。 福島原発被害弁護団 弱い人っていうか、困っている人を助けたい。とにかく、弁護士ってそういう仕事なんだけど。特にね、お金をとるためのじゃなくて、その困っている、何とか救済をのぞんでいるんだけど、っていうひとたちを、とにかく救いたいっていう、人権派の先生なんだよね。今活動している、福島原発被害弁護団に加入されている先生方っていうのは、全国のいろんな弁護士事務所なり個人事務所で、それぞれが弁護士活動をしていた人たちなの。そのなかでも、自分はこの福島の原発事故の被害の救済のために力を貸したいと。そういう有志の先生たちが、じぶんから進んで弁護団に加わっているんだよね。そういう動きってなかなか報道されないけれども。だから、福島県内でも、こういう話をしても、実際そこまで言って初めて、ああそうだったのかって言う人もいるし。 インタビューページへ戻る

千葉 由美さん

インタビューページへ戻る 千葉さんは「いわき市の初期被爆を追求するママの会」「いわき母笑みネットワーク」と、2つの団体の代表をやってらっしゃるお母さんです。いわき市のカフェでお話を聞き、お母さんならではの視点から福島の現状、お母さんたちの現状を教えてくださりました。 人間関係の変化 本当にあの事故直後にコミュニティーが崩壊したのね、それはお友達に限らず家族関係もです。親戚とか。意見の違いとか言わなければそれまでだけれども、やっぱりどこかでバレるんだよね。例えば、保養に行く行かない、後は牛乳を飲む飲ませない、給食を食べる食べさせないとか、やっぱりどうしてもカミングアウトしなきゃいけない場面とかがあるんですよ。で、そうなったときに「どうして?」とかって聞かれたときとかに「いや、こうでこうで」って自分の知識をやんわり伝えたとしますよね。 そうすると相手はやっぱり自分の知らない事を例えば私が知っていたそこで何かちょっとしたコンプレックスを感じてしまったりとか、自分が出来ていないことを否定された様な気持ちになってしまうとか、色々な心理的なものっていうのはあるんです。 あとは経済的な問題として。お水を買うとか野菜を県外から取り寄せるみたいな事っていうのは、やっぱり経済的な所にも響くみたいでしょ?それは「出来る人は良いわよね」って言ってしまうパターンと「いや、本当に色んな所を切り詰めて優先順位をそこに置いているだけです。」というようなこともあったりだとかするし。後は、お友達のコミュニティーに限ってはそういうことが多いです。ま、家族の問題はまた別ですね。 放射能に対する認識格差について もう開く一方。やっぱり追求する人はどんどん追求し続けてる、放棄してしまった人はそこで止まっちゃっているので、どんどん開いているんですよ。で、やっぱり私達みたいに何かしようと思っていたりとかで声をあげてたりとかっていう存在とかっていうのはすごく特別な存在みたいに思われてしまっている、残念ながら。そうではないんですけども、やっぱりそういう目線っていうのが益々強くなっていくのでそれがどんどん広がっていくと思います。 原発事故直後の危機感 (最初は)かなりね、危機感はありました。でもね、夏休み、2011年の夏休みをさかえに私は保養に一ヶ月間子供を連れて行ってたんですけれども、戻ってきたら「あれ?」みたいな。なんか“復興モード”に入っちゃったんですよね、全体的に。やっぱここで生きていくためには復興しようよ、みたいな感じで。いや、復興も大事なんだけれども子供を守るっていう事を言うとね、「復興の邪魔」みたいな「もう言うなよ、それ」みたいな空気がすごい出来ちゃって私達は量柱が立つと思っているんですね。子供を守りながらも復興も出来るって思っているんですけれども、やはり経済復興の立場に立っている人は「ここは大丈夫だよ、安心安全」と言わないと経済効果が上がらないというか人も集まらないし物も売れないでしょ。だからそれを言うためには“大丈夫”って言わなきゃいけない。私達は大丈夫じゃないから子供を守りたいんだよっていうと、ちょっと対極しちゃうんですよ。 不安やストレスを共有することの大切さ だから、やっぱりでもそれは当たってる所もあって、本当にそういうこともあるのでやっぱりお母さんが、こういうことがあってもネガティブだけじゃなくってね、前向きに出来ることやっていこうよという風に言えた方が子供に対してもね、精神的負担も随分軽く出来ると思ったので、まずは思いを吐き出すっていう場があればまったく違うんですよ。やっぱりね週に1回のペースで私の家に集まって、なんかご飯持ち寄って子供たちが帰ってくるまでいろんな事をひたすら話す、みたいな。そんな風にしているとやっぱりその日はみんなの「お台にでるときみんな鼻歌がでる」ってそれぐらい話す自分の心を開いて誰かとコミュニケーションをとるってすごい効果的なんですよ。 放射能に対する認識を広げるために いわきで市民測定室っていう存在があるんですね。市民が立ち上げた食品の測定と、あと内部被爆の測定と、あと甲状腺の検診もしているんですけれども。そこに来る人たちって言うのは、やっぱり認識を持った人たちがほとんどでね。でも、認識のある人だけがそこに来ても意味が無いっていうかむしろ逆なんですよね。だからやっぱりその、情報格差をこう、狭めて行くための努力っていうのは本当に必要だと思っているので。広報活動に力を入れたいんですけれども、やっぱりその講演会とか、そういう所でいくら広報してもまた同じ人にしか届かないから。なるべく誰でも集まっている場所でたまたま出会った情報みたいな感じで広めて行けるための、なんかそういう糸口を考えています。 例えば食のお料理教室とか、暮らしの中の身近な所でしょうね。あとはやっぱりね、県民健康調査で甲状腺の検診とかがスタートして、手元にデータが届くでしょう?それをどういう風に受け止めるのかなって思うんですよ。A1とかA2とかBとかってこう段階があるんですけれども、何も知らない状態でそれをこう、受け取った時にね、どういう風にとらえるのかな。でそれを、誰にそれをこう、話すんだろうとか。だからまぁ、そういうのが一つのきっかけとなってね、「あの人なんか言ってたな」って言って声をかけてもらえればラッキーだなても思うし、あといつでも答える準備をしておくことが。本当にラフに。 インタビューページへ戻る

カテゴリー(地域別)

Access Counter

  • 98,773 hits
Advertisements