今野 雅彦

今野雅彦は石巻コミュニティ放送のラジオ石巻FM76.4で営業部長、技術部長、レポーターとして活躍されています。阪神淡路大震災の翌年に作られた放送局で、地域情報はもちろん、現在は災害放送局として放送を行っている。災害に強い街にしたいという思いで作られた放送局。いずれ震災は起きると覚悟していたが、地震と津波の大きさは誰もの予想外であった。その時に放送や対応、仕事への責任感、そしてこれからラジオ石巻の復興への役割についてお話していただきました。

ラジオ石巻FM6.4

震災直後のラジオ放送、仕事の責任感、みんなに石巻へ来てほしい

まあ情報源を全部その停電で立たれていたんですが、唯一そのパソコンが、ノートパソコンのバッテリーが、無線のケータイメールなんかを受信するためのネットワークが、だけが生きてたんですよ。で、リスナーからあの、今自分の身の回りはこういう状況だというようなメールがたくさん集まってきたんで、それを原文のまま読み続けるというような放送をしていました。まあ具体的に言いますと自分はいま屋根の上にあがっている状態で、早く助けに来てくれないかとかですね、もう目の前で人がどんどんどんどん流されて言ってるというような状態ですね。で、それが地区ごとにこう、読み上げ続けていきますとラジオではまあ、見えないメディアですから、ただそれをつなぐことによって情報を、見えてくるんですね。まあそういうことで、市民に対しては、こう、被害の状況を伝えることに徹して他わけですね。あの、必ずこういう日が来るっていうことは社員各自は想定はしていたんですよね。で、ただ今回の東日本大震災っていうのは想定の領域をもうかなり上回っていましたので、えー、底までこうなるとは思ってなかったんですね。まあ本当にそのそういう、今後はですね、私たちはそういう教訓を生かして、やっていこうという、最大被災地のラジオ局ですので、まあこれが私たちの取り組みや反省というものが、ほかの地域で今後どういう風に役立っていくのかという部分も、私たちも今後はお手伝いしていこうというようなことに、あのー、なるのかなと、ええ。

やっぱり、根性とか、粘り強さとか、あきらめないとか、まあ今被災地っていうのはこういう劣悪な環境の中でみんな頑張ってやっているので、まあそういった常に恵まれて、やっているんだって思うことはですね、やはり原点に立ち返る意味でも、まあこの、石巻の不自由な状況を確かめに来ていただくことはなにかの参考になるんじゃないかと思います。

復興に向けて、感謝を伝えるラジオ、これからのボランティア

まあ地元の中の人たちに対しては、ええ、1日でも早い復興に役立てる情報っていうのを、ええ、精査して、今本当にみなさん大変なこと、住まいだったり、お仕事だったり、えー、病気のことだったりお金のことだったり、様々な悩みを抱えている方が多いものですから、そういった人たちの悩みが解消されていくような情報をですね、発信していくことはコミュニティとして一番大事なことなのかなって、それと、外のほうにはですね、やはりその被災地の復興の現状というものを時間経過とともにどういう風にその変っていっていくのかという部分にやはりその関心を持っていただきながら観光というジャンルにもですね、石巻を逆に元気にしていただかなければ奈rないというアピールもしていかなければならないのかなあと。まあ電波は届かないんですけど、全国からいろんな主事を受けやすいので、あの、来ないでくださいでは無く、もう本当に来てくださいというような役割はやっていかなければならないかなと思ってます。あの、石巻市民の大半の人たちは困っていましたから、あの、そういう助けをしてあげたいという人とですね、助けてもらった人が歩んだ約1年と3カ月ということで、そこで新たな絆が強まったっていう話は、今うちの放送のゲストの人にはやっぱり感謝を伝えるためにまたラジオに出て来てもらったりっていう放送をずっと続けてきてましたからね。また今度ボランティアの方がその、手を差し伸べる方法につきましてもガレキとかヘドロだしとかもおわりましたので、また被災地での支援の仕方っていうのも変わっておりますので、まあそういったときとともに人の気持ちも、みなさんの動きというのも変わっていっているということがわかりますよね。この仕事をしていて。

阿部 由貴子

阿部由貴子さんは100周年を迎えようとしている割烹滝川の若女将として勤めている。震災を機に女将として母親から継いだ阿部さんは2児の母でもあります。震災当時はママ友やいろんな方から支えられた阿部さんは子供たちの事や信頼できる仲間についてお話していただきました。

割烹 滝川~石巻の旬の味

でもうちの子達。割と強いっていう訳ではないんですけど。あのう、仕事の状況を分かってるのか、特に上の子は3年生、4年生。まあ2、3、4ですね。だった、2年生で被災して3年生がうちにあって、今が4年生なんですけど。あんまり泣き事言わなくて。むしろ手伝ってくれた事が多くて。
あの、ちょっとスタッフ足りなかった時とか、手伝いに来てって言って。ああのう、お小遣いあげるからって言って手伝ってもらったり。うん。でそれを、そのお姉ちゃんを見ててか下の子も、まあ初めは本当に離れなかったりしたんですけど今回運動会も見に行けなかったけど、何で見に来れなかったの、とかそういう事は全然なくって。だからそういう点では子供達に助けられて。あたしだけが、なんか可愛そうなんじゃないかとか。なんか、辛い想いしてんじゃないかとか思ってるんですけど、子供達の方が以外とその状況を楽しんでくれてるっていうか。その分あのう、休みの日にはガッツリ遊んだり。あとなるべく朝はお話をしたり。とにかく会話をするようにしてるので。あとこう、抱きしめたりとかしてるので。ううん、以外と思ったよりは彼らの方が落ち着いてる(笑)そこはすごい助け、うん。で、こう、今でも娘とかに滝川なくなって不安じゃない、とか。だったまたやればいいじゃん、みたいな。どこでもできるじゃん、みたいな(笑)感じなので。ううん。ですね。うん。

あのベンチャークラブって言って、あのう国際ソロプチミストっていう会があるんですけど、その親会なんですが、その方々が作ったまあ、ような、20歳30歳、40代の女性が、あっ働く女性のボランティア団体だったのですね。で石巻は13名いるんですけどやっぱり色んな職業の方が集まって。でもやっぱりそのメンバーの中でもやっぱりあのう、メンバー達では色々情報交換したり、物々交換したりとか、やっぱりそういうのはありましたね。でも13人中、そうですね全員被災してましたので。みんなそれぞれ家の事が大変だったので、その後はいっ、2回ぐらい集まったんですけどやっぱり全員は揃えなくて。やっぱり被災してひどい人は仙台に引っ越しちゃってるのが何人かいましたので、うん。

でもねベンチャーのメンバーも本当に明るい人達だったので。その震災で困った事をみんななんだろう、こう言ってはすごい変なんだけど、笑いに変えていくっていうか(笑)うんうん、そういう事もすごくあったから、その気分の、その話してるうちにどんどんどんどん落ち込むよりはむしろ、うわああそういう事もあったよねって感じでこう、気持ちがどっちかっていうとこう晴れやかになるっていう感じのメンバーだったので。そういう点ではもう話はしてて。こうおっ、あっ、なぁ、すごい言い方変かもしれない、楽しかったですね。

阿部 司

阿部司さんは割烹滝川の代表取締役と料理人としてご活躍されており、石巻元気復興委員会にも所属しています。地元の食材を使った日本料理を提供してきました。また、創業からつづく釜飯とうなぎ料理が自慢。「いまだから出来る事」に集中し、より良いお店づくりをしている。「戦時中に建て替えをした先代の思いを考えると、震災の被害に負けずに建物を残していきたいと思っています。来年の丑の日には本店でうなぎを焼きたい」先代への思いや石巻への思い、震災で気づかされた事についてお話していただきました。

割烹 滝川~石巻の旬の味

自分の指名、役目を震災後改めて確認できた

改めて食の力っていうか、みんな涙ぐんで喜ぶんですよね。やっぱりその、美味しいのは美味しいし、あったかいものは美味しい、あったかいものはあったかいままそのまま食べるのがおいしいんだとかですね。なんかそういう、はい、あの、(0:21・・)とか仮設にいる方が買いに来てくれたり、色んな機会あって寄ってくれたときにね、本当にね、そういった中で、ああ、おれの指名っていうのはそうなんだなって、食を通してみんなに元気になってもらう、あとは法要ですか、仏前にその、特に石巻っていうのはその、8000円も1万円もかけたご霊前っていうのがですね、法要の(0:53・・・)を作るんですけど、それをこう、あげて、仏さんにあげて、こうく酔おうするんですけど、震災後何もそういう店もなくて、コンビニから弁当買ってきて、その、それじゃあ情けなくて、仏さんに申し訳ないっていう家族の方の話をいただいたりして、そういった要望にも応えたいと思って、本当に、お米借りれなくて、魚屋さんやる前にも自宅で作って、もう材料もないんで本当になんかちょっとした野菜の煮物とか、適当に寄せ集めて作ったのを何とか友人だったりとかのご霊前に届けたりしたんです。そういった流れでやっぱり自分はあの、なんとかしたい、してあげたい、家族のその色々応えたいし、やっぱり地元の(1:52~1:53・・・・)魚に色々手を加えたり、手料理にしてお渡しするとかですね。やっぱりその、自分の使命というか役割みたいのを本当にその、明確になったと思いますね、うん本当に。(2:07~2:08・・・)ところ絵の変化ですかね、やっぱり震災前震災後で、やっぱりその、そういった思いで人生またやっていこうというか、はい。

震災で気づかされた事。人との繋がりや絆を実感した時、ああいう雰囲気はどうやってまた作れるのか。

そういった自分の、財産て言うかなんですか、気付かせてもらったんですよね、人だったり、ああいう古い店だったり、自分のそのやる割だったり、まあその、石巻はそういったものは、あって素晴らしかったんだなっていうのを全部こう、教えてもらったっていうかそういった意味では凄く、これ以上ない場所を教えてもらったっていうか。自分でもそれは本当に忘れないでいてそういうのは続けてこれからも生きていこうかなってそういう感じですかね。ダメだったんだな、元に戻したいな、ここもなくなったそこもなくなった、ダメなことばっかりじゃなくてやっぱりそういう風にやっていこうと思います。
(1:16)
お金も意味がなくなった。結局は店もなければ流通も。お金あったってしょうがないって震災の後は思ったりして、そうすると近所の方とかも今までは話したことない人もちょっと打ちで作った梅干し食べてとかそういうやりとりがあったり。みんなでも一緒なんですねみんな一緒の思いをして、みんな食べれないし、凄かったし、暗かったし。なんかあの時、みんあ一体感あってよかったですけどね、凄く。ものは無かったけどそういう、楽しいっていうか充実して、外で焚火して子供たちと交流を作って。
(2:21)
今後どうしていきたいかって言ったら、そっちのほうが、そういった人とのね、繋がり(2:28・・・・)また打ちに来てもらえるんだったらまた会えるなとか、とっても良いなとか思ったり、それはありますよね。

菅原 聖

菅原聖さんはオカダプラニングの代表であります。

自分自身は、まあ、流れてるからね。その、津波にのまれてる人間だから。まあ、死んだつもりでって言ってもまあ言えば済むんだけど。まあ、生かされた部分もあるから。でもやっぱりこういうエンターテイナー的な仕事をしてるからやっぱ俺はは人を喜ばせないとっと。まあその後はそういう被災地でなんかやってあげなきゃ、っていうかまあ自分被災-人だけど、被災地の、被災した人間が被災地に行ってやるっていうとこに意味があるなっていうのはあったのね。

だから阪神の時も、阪神大震災ってあったんだけれど、あん時ってのも、あの辺で歌謡ショーうち本当はやるはずだったんですよ。で、それ、まっちょっと、もうちょっともう南側なんだけど、ただ一カ所はあのう、会場が物資の置き場になってて使えなくてそこだけ中止になったんだけど。そん時も俺、震災1ヶ月後くらいにそのやっぱり歌謡ショーをやるからその、打ち合わせかなんかに行ったんだけど、結構すごかったから。もうそん時でも、だから逆にこういう時だからこそやんなきゃないっていうような、歌謡ショーはそういうやっぱりこういう時に、こういうこそやっぱり人を喜ばさなきゃっていう部分はあったから。そん時も商売にならなかったけどね。ひどい目にあったけどね。結構赤字越えて、まあやったからいいだろうみたいな。だからそこで止めても赤字、損ねっ、ね、続けても赤字。っては、どうせだったらやった方が良いじゃんっていう。だから今回もそんな感じだったんだけど。

ううんなんだろうな。まっ、ええ、ポジティブになってね。結局その、なんだろう。もう失くしたものないし、こう遠慮が無くなったっていうか。だからなんとなくこうねっ、歌謡ショーとかやる時もこう、タレントさんにもこう、何日かかん日か、みたいな。ったらあのう、まっ原発で避難している人達のその南、その、南相馬の方の波江っていう町があるんだけども、親戚関係がいて、こうみんなで避難してる街があるんでそこでちょっとできないかって言われた時にも、もうタレントにもうガツガツ行って、遠慮がなくなったっていうか。今だったらこう、ね、いやぁお金ないんだけど、ってこう行くのも、うち帰ると、もうないんだけど来て!って感じの。なんかこう、あんまりこう、ん、何にもなくなってるから、結構こうなんか言いやすくなってるし。

目標、いやあ。なにもないね。継続するっていうのが目標なんだね。要は、ある程度歴史があるんで、その、それをとりあえずまあ俺が生きてるだけは続けていきたいだけであって。まっ続ける事が一番、ねっ、あのう、会社ってのは大切なもんだから。まっ別に発展する必要は全くないけど。続けていければいいなっと思う。

うん、そうだから。よくその、うちの業界ってのは結局東京とかそっちにいた方が全然楽な訳じゃない、仕事もしやすいし。んだけど、だから結局で言うともう仙台の人からも、仙台に来たらって言うんだけど。仙台の方がやっぱ動きやすいし。いやあ俺石巻にいるっていうんだ、要はその、酒飲みに行く友達もこっちにいるし。で、今後の石巻どうなるか見てみたいし。だからやっぱり、ねっ。石巻にはやっぱりいなきゃないだろうなっていう、いたいなっていう。この土地ってね、仕事が、仕事上がすごくこう、良いとしても、うん。だから仕事がメインじゃなくなっちゃってるから、もう。楽しく生きようっていう世界になってるから。

菅原 秀子

菅原秀子はオカダプラニングの従業員、そして代表の菅原聖の奥さんでもあります。

常にっていうかやっぱり色んな人に震災を機にじゃないけど色んな人から支えられて­るっていう部分と、支えられてるって言っても結局自分の考え一つなので、あのー、やっ­ぱり信じられるものは自分だし、自分だけで決断しないといけないし、やっぱり頼るとこ­ろは頼りますけど、でもやっぱり自分で歩かないといけないですよね、結局は。なので、­やっぱり、うーんどうだろう。自分、最後に信じるのはあ自分しかいないだろうな。うん­。うん。なんかもう、助けてもらう分、結局判断するのは自分じゃないですか。でそれで­正しいって思えて行動するのがやっぱり後悔しないっていうことだと思うんで、なんか震­災を機にあれやっとけばよかったとか、そういうことはやめようって思った。うん。やっ­ぱアレしとけばよかったって、震災の直後は特に。あれやっとけばよかったとか、色んな­ものはあるんですけど、やっぱり、徐々になんというかやっぱり生活していく中に、まあ­、人の付き合い、全国の人たちと色んな付き合いがある中で、大変だったわねとかなんか­言われますけど、結局仕事上の付き合いがあってそういうことなので、なんだろう、ちょ­っと難しい、よく言えないんですけど、あの、なんだろう、後は人に迷惑をかけないとい­うこと。後悔しないようにすること、ぐらいかな―。うん。

まあ、仕事は何でも、仕事じゃなくても全部そうだと思うんですけど、人とのつなが­りがあって初めて全部が潤うって感じだと思うんで、気持ち的にも仕事的にも、やっぱり­底が枯れちゃうと、やっぱり何においても、ダメなんじゃないかな、ては思います。うん­うん。まあそこがすべて、その根本があって初めて繋がっていくとは思うんですけど。
(ボランティアの方とか来て、勇気づけられたりとか?)
そうだね。うん。なんか、そうだね。内へ内へ縮こまっちゃうとね気持ちがね。そう­いう新鮮な空気があると、やっぱり気持ち的に変化ってあるのかな、違うよね、やっぱり­、あ、がんばろうって。うん。思うけどね。うん。

千葉 尚之

千葉尚之さんはヤマトミ通販サイトで代表を務めております。

 

もっと人が居ればなっていうか。うん。もっとね、なんかね、今沢山ボランティアの­方も随分ね知り合ったんですけど、あの、若い方もずいぶん来てもらって、でこんな風に­ね、沢山若い人たちがこう、来てもらってこう、もうちょっと活気が出ればなと。で、あ­の、そうやって観光をあの、する施設なりなんなりが整ったら、そのそうやってね、人が­たくさん来てもらえるような街になればなって思うんです。それでその大市場がねその国­際的な年になればあのー、その、ねえ、色々と海外から沢山の人が来るでしょうし、で、­その市場色々ともっと整備して、そこに付随他商業施設なりなんなりを付け加えたらまた­そこに人が集まってくれるんじゃないかなとかね。今ね、本当色んな構想があって、うん­。ただ、やっぱ折角水産関係でやってるんで、ね。そういう部分で人が来るような形にな­ればなーとは思うんですけどね。

後今、あのー、私の会社も今参加してる「がんばっぺ石­巻」っていうサイトがあるんですけども、そこは被災企業の方たちが集まって、あのー、­なんだ、なんて言うか、がんばろうとしてるサイトなんですけどその、あの、なんだ、一­口一万円で、支援していただいた方にはその復旧後3000円くらいの商品を後でその、­お送りしますっていうもともとはあの、そういうサイトだったんですけど、それでね、あ­の、海外からもずいぶん注目されて、でそのサイトは英語版ていうのも今出来たんですね­。なんで、今今後私のお付き合いのあるボランティアグループが、外国人の多い、カナダ­人が主催してるグループで、で、私英語全然しゃべれないんですけど、うん、そうですね­、そういう人たちにもたとえば、あのヤマトミって部分でね、なんか知ってもらう部分で­はたとえば、その英語のページの部分っていうのはしたほうがいいのかなって思ったりし­て、まあ商品が海外まで行くには時間がかかると思うんですが、でもね、とっかかりとし­て、うん。

 

今興味を持っていただいてる部分が大きいと思うんですね。だから、それがあの、う­れしいし、あのそれがたとえば今日みたいにこうやってきて、こうやってお話しできるの­もうれしいし、こういう方の、だからボランティアの時もそうでしょうし、あの、ね、あ­の、毎日ガレキ撤去だなんだいって疲れ果ててる時に、でもボランティア何で週末メイン­で土日休み、休み、ああやっと休み加奈なんて思ったらボランティアさん来るから一緒に­しなきゃいけないとかいうんじゃやる、よしやるかって小さなことだしね、折角来てもら­ってるんだからってことでやって、そうして一緒にやるとまたね、疲れ果ててるんだけど­またね、全然知らない人達が来てくれてがんばってくださいなんて言われるともう、ああ­そっかなんて言って、まあそうすると逆にモチベーションが上がって、そういう部分も大­きかったですね今回。なのでそういう部分でやって今回4月からこうやって会社出来たん­ですけど、こうやって、自社の仕事も少しずつ、少しずつっていうか人が足りないせいで­凄い忙しいんですけど、な部分でもやってながらも、未だにね、こうやって興味持ってい­ただける人が居るっていうのはね、うん本当にね、うれしいんですけどもね。だから、そ­うやって、うん、また何年か後でも良いんですけど、またね、なんか遊びにきてもらえた­らねなんて、あ、こんなに良くなったとか、ここがまだこうなのかとか、わかんないです­けどね。非常にそうやって来てもらって感じてもらえれば、良いのかなと思って。うん。­それまで何も注目も、て言うか全然注目度のなかった街が、今こうやって注目されてるっ­ていうことが珍しいことなんで。多分ね、人がそうやってまた、たとえばボランティアで­昔来たとか言う人たちもまた見に来てみようとか、ということでいいと思うんですね。な­んか。

阿部 信也

阿部信也さんは丸平かつおぶしの代表であり、石巻元気復興委員会にも所属しています。


阿部さんにとって会社を続けるための「かすかな希望」とは。

実際水産会社はこっち加工関連の水産なんかは200社位あって、そのほとんどがまあ壊滅してるとそれで、みなさん当然施設も設備も、うーん、あと原料も5万トンくらい被害を受けてるわけ、全体で。金額にすると350から400位になるのかね。400億くらいなのか。その中で原料もない、設備もない中で、もう解雇せざる終えなかった。ただ打ちはたまたまこの建物が残った、んで上野3階部分は水が来ていないていう、うーん、ところだったんで、やっぱりかすかな希望って言うか可能性があれば、それはできるかもしれないと、まだ。でも内部も被害状況もわかんないわけだから、まだ。出来るかもしれないと、で、従業員もやると言っている。うーん。もう、だったら、やってみようかと。そんな責任感とか、まあ、うーん。その当時はあんまりそういう所よりも、とりあえずさっき言った従業員解雇せずにやるといった、ずーっと前にそう決めた、だからそういう風に忙殺されてたって言うのが現状だった。


他企業との話し合い、コラボ商品、情報交換などについて。

(話し合いとかってされたりしますか?)
ん、ほかの会社と?
それはえっとやってまして、復興センターとかで、最初はみんなで集まって業種は違うんだけど、こうやって銀行は貸し渋るねとか、どうなのとか、そっちはどうなのとかこんな制度があるんだけど使えないかとかそういう情報を共有する場として始まったんだよね。そこでそのだんだん水産商品も出来るようになって、じゃあちょっとセットにして売ってみる、じゃあって。一緒に大阪のシーフード展持って上がったんですけど、そこに、一緒にそこに行って、展示して売ってみようかとか。でそれがじゃあこんどはお店が出来るっていうんでじゃあちょっとやってみるかってだんだんなってきて。

だけどこう200社もいっぺんにやられたもんだからそういう動きで、一緒に売ろうか一緒にものを作ってみようと、うちも(1:17・・・・)といっしょにふりかけを作って2社で作ってひとつって名前で、味噌鰹節と合わせてごまもいれて、そういう動きとかもやってるし、そういうのがどんどん発展すればいいなと思って。

最初はやっぱり2,3人の(1:44・・・・)で共有しました。そういうのも、あの、がんばっぺ石巻っていうホームページにのってるから。一同みんな集まって、今、現在の情報、たとえば、こういう本部も、まあ社団法人化してるんで、こういう販促をして、大手の企業さんが販促として使いたいとか、支援する、とか支援するために使いたいんだとかって言う情報が入ってくる。それにもっと対応して、ものももっと売れると思う。そういうメリットがありますよね。一緒にやるって言うことには。

石巻のコミュニティーについて。

これは絶対必要さ。間違いなく、この町内でも避難所に、この町内の方々集まって、まあ俺は2カ月だけど、(0:17・・・・)あと、やっぱり反対した人もいるし、でもやっぱりばらばらじゃあなかったから、みんな助け合って最初、みんな水、飲む水もないんで、4時間ぐらい並んで、水をもらって、あとトイレの水も水が詰まっちゃうから、近くの小学校のプールからバケツひっくり返して、そのまままずトイレを清掃するとか、そういうはなしも、あとは、うーん、そうね。そういうのをやって、みんなでやっぱ一緒に、一緒で中央公民館みたいなフロアで、知り合いがやっぱいるわけですよ。そうするとね、あんまりうちはこうプライバシーとか言って(1:07・・・)もしなかったし、で、また、そうね、そういうコミュニティがたとえば阪神淡路のときにも、みたいに、復興、公営住宅を造っても、ばらばらになっちゃうわけです。公営住宅っていうと公平にしなくちゃなんないから、抽選で入る人を決めるとか。この地区の人だけ住まわしてくださいっていう、これはダメなんですね。いまはこここういった地区に建てる、ここに戻ってきた人は、まあアンケート取ったら7割くらいの人がこっちで出来るならそういう所に住んでもいいて言う人もいるし。そのほうがさ、だって、年寄り、70、80にもなって、ローンで家なんてまた建てられないでしょ。家は建てられないんだったら公営住宅でいいわって、家賃払うからって言ったって隣近所わかんないとかって、それで阪神淡路の時は孤独死とかさ、孤立死とか増えてくるわけさ。ここで誰がね、なんだあの人最近みてないなってなったら、ちょっと聞いてみるかってなるしね。

佐々木 孝寿

佐々木孝寿さんはヤマサコウショウの代表と、元気復興委員会の一員としてご活躍されています。


震災前と震災後、変わった事

3.11以降は震災前より以上ですね、地域の、えー、活動て言うのにですね、積極的に、えー、協力していこうということで、震災前までは、どちらかというとですね、単独で行動することが多かったんですが、震災後はですね、同じ、同僚の皆さんと歩調を合わせてですね、協力できることはしていく、それから、石巻の、そのー、異業種の人たちなんかもお付き合いも積極的にするようにしています。

(震災前と震災後でいろいろ変わりましたか?)
あ、変わりました。私が一番変わりました。

(はあ、どういう感じで。)
ですから、先ほど言ったように、独立独歩であの、進むっていうだけじゃなくて、お仲間の人たちに、それから石巻で働いている、仕事をしている会社さんの人たちとかね、コミュニケーションをよくとって当社の事をよく知ってもらうのも大事。無効、先方様のこともよく知る、で、出来ることは手を取り合いながら、一緒にやろうよという風に。

石巻の良いところ、お客様から励ましの声

石巻の一番いい例、石巻の一番いいところはね、まずなんていうのかね、食べ物がうまいですね。魚は最高に上手いです。魚は美味しい。それから、お米も良いお米がいっぱい取れます。お水もいいです。野菜も美味しい、お肉も良い、食べ物が良い、良い食材がいっぱいあります。高くないです。東京と比べたら全然安いです。そういうね、石巻は食べ物の、食材の宝庫ですよ。景色も海を、太平洋を前にして非常にね、素晴らしいロケーションがあります。そういった良い点をね、今はみんな放射能とかで怖がってますけど、それが済めば、また石巻に来てもらえれば必ず満足してもらえるから。あります。それだけ美味しいですから。

(元に戻るには結構な時間がかかると思うんですけど。)
懸ります。しょうがないですね。あー、3年じゃ厳しいかな5年、もしくは10年かもわからないですね。

(必ず元には戻せると。)
はい、もとにっていうか、もっと仲良しになってよくなると思います。そうですね。地元、私はここで生まれて、ここで育ったから、責任ていうよりもここが好きなんです。責任じゃないです。好きなんです。それでいいんです。お客さんも待っていてくれてるんです。いっぱい励まされましたよ。頑張れ、待ってるから、いっぱい励まされました。そのお客さんたちが待ってくださっているから、頑張ろうっていう気持になれるんです。
(やはりそれは人が、)
人です。そうです。人です。

佐藤 洋一

佐藤洋一さんは石巻商工会議所に勤めています。

若い人達の為の石巻とは

まずは若い方が安心して子育てできる街、作り、で、若い方が、安心して、あのー、なんて言うんですかね、さらに若い方が働く場所があって、で、石巻に住んで子育てできる環境。だから仕事が先なのか、安心が先なのか色々どっちが先なのかあるんですけど、要するに石巻に住んで、もともと住みやすい場所なんです、もともと。あの、海があって山があって自然があって、食べ物がおいしいんですよ。あの、一年中通して雪がそんなに降らないんですよ。大雪降らないんです。比較的気候が安定してましてですね、住むにはいい街なんです。ただ今回の震災で凄いマイナスイメージ、凄い被害ありましたよね。だからそこらへんで凄く思うんですけども、住むには良い街なんだけども、やはり若い方たちとかがここに落ち着くためにはやはり働く場所があって、あー、家が建てられる、家が建って、持ち家が持ててですね、そういう人間の再建のきもちを満たすものはというと、安心安全、住みやすい街作り、を作るのが一番。あの、働く場が一番かもしれません。働く場がなければ子育てできないですもん。それでみんなね、働く場所が無くて仙台に、東京のほうに行くんですよ。若者は。

(止めようとは思わないんですか。)
いや、もう止めるすべもないっていうか、結局、あの、費用はあるんだけどもある程度ひとは充足してますというか、震災前はね、だから若い優秀な方々は高校を出て、東京の大学行って、東京の大学で就職見つけて、あの、東京のほうに住んじゃうとかね。で、意外と石巻のほうでは若年層高校生大学生のほうを採用する企業って少ないんです。意外と。

(それはなんでなんですかね。)
何ででしょうね。そんなあんまりないですよね。大卒募集とか。あの、高校卒で十分だったみたいなのかな。で、大卒募集してる会社とかもありますよ、銀行さんとかね。それは全部毎年一人か二人、そういう枠。底にもあります、市役所の職員とか、本当に数少ないんです。

人間に悪い人はいない、松島の避難所での話

結局人間っていうのはもともと悪い人っていうのはいないと思うんですよ。
うん。私人間が好きなんですけども、本当に悪い奴っていないとおもうんです。ただ付き合う相手によって、こう悪くなったり、こう色んなパターンがあると思うんですね。まずその石巻で、生き残った十五万のしみんがまず共通点っていうのは全員被災者なんですよ。全員被災を受けたんです。津波の被害を受けたの。家族無くなったかと思います、友達無くなったかともいます。周りにいっぱいいます。そういう一瞬にして同じ被災を受けた市民なんです。同じ市民同士ってお互いに支え合おうとか助け合おうとかってなるんです人間って。ね、同じ境遇になっちゃうとね。自分だけ良ければいいんじゃないんですよ。やっぱりみんなと同じ気持ちになっちゃう。同時になるんですよ一瞬で。それってなかなかないんですよ人間社会では。こういう震災を受けたときしかないんです。あとはみんな勝手なんです。どっちかっていうと、普段の生活から。何不自由なく自分のことだけ考えて。あの、人との交流も必要ない方いっぱいいます。でも、今回石巻で全員一緒に被害を受けて、同じ立場があって、そうするとあの、お互いを支え合うっていう気持ちになるんですね、人間って。助けようとか助けられたいとかっていう気持ちになるし。で特に年上の方も多いですから、若い方は何とかしようとかそういう気持ちに戻るみたいですよ。みんなで頑張ろうとか。ですから、まあ震災がよかったなんていうわけにもいかないですけども、何かとこう人間社会が孤立している、自分だけ良ければ良い、ような時代に向かっているわけですよね。人との交流っていうのがなかなか希薄になってきている時期ですから。こういう震災をみんなで受けて、ものを共有して、一緒の体験をして、一人じゃ生きられない、みんなに助けられて、みんなで助け合いながらいこうっていう雰囲気が自然に出たんです。ともに頑張ろうって。ともに頑張ろうですよ。

一番はですね。地元の人たちがとにかくですね、2,3日間、もの食べず、みんなで支え合いながら、こう助け合いながら生きたという瞬間がありましたので、その時に人間性がやっぱり出たんでしょうね。良い話があったんですよ。東松島の、避難所に、50人くらいあの、逃げたの。で、食べ物もない、ほとんど食べ物ないですからね。水もないっていう状態の中で、ペットボトル2本しかなかったのかな。たまたま会ったんですね、ペットボトル2本。50人の方が、このペットボトル2本をみんなで分け合ったそうです。少しずつ飲んで、次の人に渡したっていう美談があるんです。そして、あの、びっくりしたのは、飲んだふりして飲まなかった人たちもいたみたいで、で、おばあさんとか子供たちに、こう自分が口付けたふりして飲まないで、どうぞって。ペットボトルうんと200、2リットルかな。50人まわしても、まだ一本余ってたっていう話なんです。恐ろしい話なんですよ。って、その避難所にいた人が、いや、私はこの避難所に来て良かったってみんな言ってんだよ。それだけ人のことを思いやれる。はじめて会った、人たちがペットボトル1本を50人で分け合えるような、メンバーがたまたまいたと、言う話を聞いて凄いなって、これってすご良い話だなって。