花坂明恵さん

花坂さんは吉田さんや工藤さんとおなじくNPO法人六郷七郷コミネットで勤務されています。福島県郡山市の生まれで、2歳からずっと仙台に在住。

1.仙台という地元への思いと将来

Q. やっぱりこう、仙台のところに長い間住んでらっしゃってのその3.11だったってことで、やっぱりここの地元にかんしての地元はつよかったりだとかしますか?

A. そうですね、長く仙台に住んでいて、私もやっぱり歴史が好きで仙台が過ぎく好きなんですけど、すごい面白い歴史をもっているし、先祖代々、私の家はずっと仙台なんですね。100年とかたぶん200年とかそういう単位で私の家はいるので、もちろんずっと住んでいたいなって思いはあるんですけど、なかなかやっぱりずっといることは、就職的な意味でも、やっぱりもうちょっと外に出ていきたいなって言うのもあるので。

Q. 外っていうのはこの県からの外ってことですか

A. はい、そうですね。将来的には出て行ってしまうかもしれない。戻ってくることがあるかどうかはわからないですね。

2.同世代の震災復興への意識・関心

Q. 周りの方で、たとえば同じ年代の方で、積極的に活動してらっしゃる方とかいらっしゃいますか?知ってる友人とか

A. インターネット上での友達とかたまに最近はないですけど、本当にヒサイチがまだ泥だらけの状態だったときにしょっちゅうこっちのほうには来てたっていうのは見てたんですけど、ほんとに自分のこう身近な友達とかはもう一切興味がない(笑)震災のその被災地に興味がないので、やっぱりいっしょによくご飯食べにいったりとかお茶したりとかまあ休みがあって、3人くらいの人に会ったんですけど、まあそれ以上かな、前の職場にも言ってみたので、けど誰も聞いてこないですね。私の仕事に関心が無いですね。

Q. それっていうのは時間がたってしまったからそうなっちゃったのか、もともと県外の人だから、とか、・・・

A. 周りの人はみんな仙台の人で、だけどみんな親戚とか被害受けてないんですよね。自分たちがやっぱり山の方にいるから全然見てない、現状をみてない。いろいろあったってことはわかってるけど、むしろあえて触れないってことはあると思いますね。

Q. あえて触れないってことは、今更そういうことを話すって言うことに対しての・・・

A. そうですね、結局なんだかんだって言ったところで自分は動かないし、動けないっていうのがあると思います。時間もだいぶ経ってるので。やっぱりなんか、私の周りは、ですけど、みんな仕事がなかなか見つからないとか、自分の将来に不安を持っているひとが多くて、そうやってひとのことまで考えてる余裕がないっていうのが大きいです。まあやろうと思えばたまにお休みくらいはでてきてなにかはっていうことはあるのかもしれないですけど、そういったことをするほどの情熱はない、ですね

3.危険区域へ戻ること=悲しいことの繰り返し

Q. なんか、お年寄りの方にお話しを聞くときとか、その3.11前のその生活に戻りたいとかなんかそれ以上はもとめないから元の生活に戻りたいってお話する方が多いんですね。今言ったのもまあそんな感じですかね。3.11前の仙台市のように、それ以上は求めないから、復興していってほしいっていう

A. そうですね。でもまあ、あの危険区域の方にはやっぱりひとはもうはいらないほうがいいんじゃないかなってふうには思いますね。みんな荒浜の人たちはもどりたいってふうには言ってるんですけど、被災を受けた人たちの台でおわりにするべきじゃないかなって思います。はい。また同じことを繰り返すのは、やっぱり悲しいことの繰り返しになってしまうんじゃないかなっていう。いまのそのもどりたいってひとの気持をむしするようなかたちになってしまうんですけども。

松本 俊彦

松本俊彦さんは(株)松弘堂 印刷会社の代表取締役、石巻元気復興委員会の会長としてご活躍されています。会社は倒され、事務所と工場は浸水。その後、同じく会社が被災してしまった経営者、次期経営者の方々を集めて元気復興委員会を作りあげた。以前はライバルだったとしても、今は一緒に力を合わせて頑張る時なのです。石巻の復興への思いや復興委員会で誕生したコラボレーション商品についてお話していただきました。

大変な事もあるけど今が楽しい、復興委員会について

さっき石巻は大変な状況だっていう話しましたけど、それとは反面で石巻にはすんごい事が起きてる事もいっぱいあって。まっ、当然、国がこう、石巻に対していろんな、あの、なんて言うんでしょう。国のお金を投入するわけじゃないですか。例えば新しい町を作るっていう事に対して何十億、何百億もお金を投入したり、専門家をいれてきたり、っていう事を石巻は今あるし。日本中の大きなトップクラスの企業が、その企業の価値をどうしようかって。この東日本大震災を通して自分のこの会社の企業価値をどう高めていくかっていう事で、日本中の大手企業が今集結してるんで。で、なにができるか一生懸命さがしている訳ですよ。そんな事が石巻で起きてるし。もう単純な事から言えば、芸能人がわんさと来るわけじゃないですか。
震災前に全く想像しなかった事が、今ここで起きてんです。それってすごい素晴らしい事だし、前は絶対あり得ないことだったんで。たまたま不幸も事がいっぱいあるけど、良い事を探しだす事がどんどん起きてるんで。自分はやっぱそういう事を使って、一緒にその中に飛び込んでいって、非常にこう、自分の人生としてすごい良いんじゃないかなぁ。だからここを離れるつもりもないし、ここにいる事が楽しいですよね。
ボランティアさんも全国から来て。お手伝いいただいて、お手伝いしていたかと思うとここに住みたいって言い出したりとか。そういう若い人達もいますし。だから面白いっすよね。休んでる暇ないですよ。休んでる暇ないって言ったらおかしいですけど。楽しい事もいっぱいあるから、楽しみ続ければいいですよね。

この我々のメンバーもなんかそんな感じだと思いますよ。私と同じように全部、会社がなくなって。まっ全社じゃないですけど。設備を失ったり。まっ中には社員を失ったりっていう方々もいっぱいいますし。でも、根本的にはある程度若めの経営者の人たち、ぜんぶ経営者なんですけど。もしくは時期経営者の方々なんですけど。こういった方々も、やっぱり私と同じようにこう、なだれて、どうしようかって思ってたと思うんですよ。で自分が、この指止まれ、と。同じような人たち、この指止まれ、と。でみんなで力合わせてやろうよ、と。一社でやろうと思うなよ、と。一社でなんかできる訳ないんだ、と。この機会にみんなで力合わせてやろうよ、という事を言ったらみんな、うーん 何になるかわかんないけど一人で悩んでるよりいいな、と。で集まり始めて。でそこに、こんな事できるんじゃないの、あんな事できるんじゃないの、って。大阪行こうよ、大阪行って自分の商品PRしてこようよ、と。いや、大阪行っても通用しないっすよ、って行ってみなきゃわかんないだろ、と。で行けばやっぱ、美味しい、とか言われる訳ですね。是非商品を取引したいと、いう話になってくる訳ですよ。今そういう事をどんどんやって外に向かってどんどん我々はやっていこうよ。震災前は全くやってなかった事だけど、今やれば、目立つ。目立つし、みんな聞いてくれる。だから今がチャンスなんで今一生懸命そんな事をみんなでやりましょうよ、と。

商品を広める、コラボ商品の開発、わかめ専用ドレッシング

今この商品をとにかくどんどん世の中に出していくっていうのが一つ。でそれは詰め合わせセットでもそうですし、そうじゃなくて企業で、例えばどこどこのなんて言う商品を記念品で使いたいとか、そういうニーズがいっぱいあるんでそういうのをどんどんPRしていく事と。後はみんなで力を合わせて色んな商品を開発していこうと、いう事を今一生懸命やっています。
この機会にどんどんどんどん外に自分の会社の商品が出て行って。で最初は、例えばそれが支援というきっかけかもしんないですけど、やっぱり最後は美味しいから買うっていうところまで持っていかなきゃないので。それをみんなと協力しながら自分の会社の商品だけじゃなくて、隣の人の会社の商品も。例えばお宅はこういう技術があるんだから、こういう事をやれば良い商品ができるよね、とか。ウチのこういう技術を使ってお宅のと合わせればこういう物ができるよね、とか。そういうのを今一生懸命みんなで、飲みながら、楽しくみんなでやっています。それをどんどんやっていきたい。
(これからも)
うん、商品を良くする事と、広めていく事と、2つとにかく一生懸命やろうと。

ひとつ出来た商品があって。ワカメの、塩蔵ワカメを売っている会社があって、ワカメですね。ワカメを売っている会社があって、それをこう、展示会にみんなで行った時にワカメを試食してもらうのにタレが必要になる訳ですよ。でそれを、タレ必要だったんですが山形屋さんっていうつゆを、まあ醤油味噌を、つゆを作っている会社がありますね。それから東北で結構いろんなそば屋さんにおろしている丸平鰹節っていうダシ屋さんがいた訳ですね。でそれを、んじゃ2社で、この二つの商品をこう上手くくっつけて美味しいタレだきんじゃねぇの、ってこう遊びながらやってたんですよ。でそしたらエライ美味しいつゆが出来て。おっこれ良い、って、これ商品かしようっていう話になって山形屋さんと丸平さんとコラボしたワカメ、ワカメ専用ドレッシングという名前で、ワカメ用のドレッシングを今回作って、今ワカメと一緒に殆ど売っているとう。だから3社コラボですよね、要は。でそれがワカメだけじゃなくて肉にも合ったり。牛タンつくねそこで売ってんすけど、牛タンつくねにも合うし色んな物に合うので。今すごいウケてます。そういった物をどんどんどんどん作っていけば、楽しいですよね。

中村 精一郎

中村精一郎は中村サイクルセンターの自転車屋さんを奥様と運営されています。震災当時はお店の中に津波とヘドロが押し込み、とても営業できる状況ではありませんでした。1年経った2013年春にはお店を再開する場所を借りることができ、ホームサイトでおすすめのサイクルルートなどを紹介しています。復興まちづくり協議会に参加している中村さんが石巻の復興への思いを語っていただきました。

「復興、元の状態になるっつうのは、ううん。ちょっと考えないかもしれないですね。もう既にあのう、人口が減ってるし、職場も変わってる人もいますので。まあ石巻から離れて別の職場を求めて行ってる人もいるので。ただやっぱ新たなあの、雇用っていうか。凝視をもってかないとダメなのかもしれないですね、それはね。

ただね、去年、去年はですねやっぱあの、うぢのお客さんもそうなんですが。自転車の格好、ヘルメットかぶってジャージを来て、こう歩ぐって、自転車踏んでいくっていう気持ちにはね多分なれなかったんですね。気分的に。精神的にあの、全国のボランティアさんが日曜日朝とか、あの炎天下の中で汗を流して泥掃除をしてたりとか。そういう中をね、自分だけがサイクリングして歩くっていうそういう気持ちにはなれなかったんです。まっ、今年からようやくね、段々こう、整備されてきたんで気持ちの整理も大体ついてきたんで、少しは踏める環境にはなってきたんじゃないかなと思いますが。精神的にもそうだと思う、やっぱ。

(他になんかあの、自転車以外とかでありますかなんか、改めて考えられたような事は)

ううん。まっ、私の場合はまあ人にあの、助けられたっていうのが一番じゃないっすか、仏さんに助けられたなっていうのは。うん。

まあだから、自分だけがあのう、なんていうんだ。こっから逃げ出しても、やっぱあのう、..全体が。自分のお家ないとかっていう、将来的に、経済もそうなんですが、そういう気持ちも安定してこないと我々の商売にもついてこないと思うんですねやっぱ。自分1人だけ先走ってもダメだなっていう気持ちはあります(笑)はい。全体が、もっとねこう、元の生活に戻るまで。ちょっと時間はかかるかもしれないけどもそこまで私も頑張りたいと思います。」

「以前はまあ割とううん。まあでも少子高齢化が増えてましたからね。その辺は商売は厳しかったですよねやっぱ。うん。だっ、それでこの震災だから。うん。ちょっとマーケットが小さくなるのは大変だな。そこで、どうしたらいままで以上に頑張れるかっていうのが。自分の主案にも関わってくるし。年齢も年齢だし。ちょっと考えますね

それはね、道路が復旧してからでないとなかなか難しいんじゃないかな、気がしますね。いっあのでも、震災以前にもあの、レンタルサイクルなんて駅前の方で貸し出しなんかあったんですよね。ただやっぱり石巻は生活には車が必需品なので。多分車だと思いますね。あの、自転車を見直されたっていうのはあの、震災直後ですよね。歩って用足しをしていたのが自転車に変わって。で自転車あのう、車使えないからただ単に移動手段として自転車使ってたんですが。ま、車が手に入ってくるともう自転車がいらなくなってしまってると。そういうふうに変わってきたので。

ううんそうですね。あとは 、あのその下駄代わりに使れた自転車じゃなくて、あの、趣味で使ってる自転車、主にはサイクリング車とかスポーツ車といわれる部分。それをやっぱ残していかなければ私たちは生き残れないなぁというのは、考えは持ってますけどね.だからそこを伸ばす方法を今から考えないとダメだと思いますね。」

今野 雅彦

今野雅彦は石巻コミュニティ放送のラジオ石巻FM76.4で営業部長、技術部長、レポーターとして活躍されています。阪神淡路大震災の翌年に作られた放送局で、地域情報はもちろん、現在は災害放送局として放送を行っている。災害に強い街にしたいという思いで作られた放送局。いずれ震災は起きると覚悟していたが、地震と津波の大きさは誰もの予想外であった。その時に放送や対応、仕事への責任感、そしてこれからラジオ石巻の復興への役割についてお話していただきました。

ラジオ石巻FM6.4

震災直後のラジオ放送、仕事の責任感、みんなに石巻へ来てほしい

まあ情報源を全部その停電で立たれていたんですが、唯一そのパソコンが、ノートパソコンのバッテリーが、無線のケータイメールなんかを受信するためのネットワークが、だけが生きてたんですよ。で、リスナーからあの、今自分の身の回りはこういう状況だというようなメールがたくさん集まってきたんで、それを原文のまま読み続けるというような放送をしていました。まあ具体的に言いますと自分はいま屋根の上にあがっている状態で、早く助けに来てくれないかとかですね、もう目の前で人がどんどんどんどん流されて言ってるというような状態ですね。で、それが地区ごとにこう、読み上げ続けていきますとラジオではまあ、見えないメディアですから、ただそれをつなぐことによって情報を、見えてくるんですね。まあそういうことで、市民に対しては、こう、被害の状況を伝えることに徹して他わけですね。あの、必ずこういう日が来るっていうことは社員各自は想定はしていたんですよね。で、ただ今回の東日本大震災っていうのは想定の領域をもうかなり上回っていましたので、えー、底までこうなるとは思ってなかったんですね。まあ本当にそのそういう、今後はですね、私たちはそういう教訓を生かして、やっていこうという、最大被災地のラジオ局ですので、まあこれが私たちの取り組みや反省というものが、ほかの地域で今後どういう風に役立っていくのかという部分も、私たちも今後はお手伝いしていこうというようなことに、あのー、なるのかなと、ええ。

やっぱり、根性とか、粘り強さとか、あきらめないとか、まあ今被災地っていうのはこういう劣悪な環境の中でみんな頑張ってやっているので、まあそういった常に恵まれて、やっているんだって思うことはですね、やはり原点に立ち返る意味でも、まあこの、石巻の不自由な状況を確かめに来ていただくことはなにかの参考になるんじゃないかと思います。

復興に向けて、感謝を伝えるラジオ、これからのボランティア

まあ地元の中の人たちに対しては、ええ、1日でも早い復興に役立てる情報っていうのを、ええ、精査して、今本当にみなさん大変なこと、住まいだったり、お仕事だったり、えー、病気のことだったりお金のことだったり、様々な悩みを抱えている方が多いものですから、そういった人たちの悩みが解消されていくような情報をですね、発信していくことはコミュニティとして一番大事なことなのかなって、それと、外のほうにはですね、やはりその被災地の復興の現状というものを時間経過とともにどういう風にその変っていっていくのかという部分にやはりその関心を持っていただきながら観光というジャンルにもですね、石巻を逆に元気にしていただかなければ奈rないというアピールもしていかなければならないのかなあと。まあ電波は届かないんですけど、全国からいろんな主事を受けやすいので、あの、来ないでくださいでは無く、もう本当に来てくださいというような役割はやっていかなければならないかなと思ってます。あの、石巻市民の大半の人たちは困っていましたから、あの、そういう助けをしてあげたいという人とですね、助けてもらった人が歩んだ約1年と3カ月ということで、そこで新たな絆が強まったっていう話は、今うちの放送のゲストの人にはやっぱり感謝を伝えるためにまたラジオに出て来てもらったりっていう放送をずっと続けてきてましたからね。また今度ボランティアの方がその、手を差し伸べる方法につきましてもガレキとかヘドロだしとかもおわりましたので、また被災地での支援の仕方っていうのも変わっておりますので、まあそういったときとともに人の気持ちも、みなさんの動きというのも変わっていっているということがわかりますよね。この仕事をしていて。

阿部 信也

阿部信也さんは丸平かつおぶしの代表であり、石巻元気復興委員会にも所属しています。


阿部さんにとって会社を続けるための「かすかな希望」とは。

実際水産会社はこっち加工関連の水産なんかは200社位あって、そのほとんどがまあ壊滅してるとそれで、みなさん当然施設も設備も、うーん、あと原料も5万トンくらい被害を受けてるわけ、全体で。金額にすると350から400位になるのかね。400億くらいなのか。その中で原料もない、設備もない中で、もう解雇せざる終えなかった。ただ打ちはたまたまこの建物が残った、んで上野3階部分は水が来ていないていう、うーん、ところだったんで、やっぱりかすかな希望って言うか可能性があれば、それはできるかもしれないと、まだ。でも内部も被害状況もわかんないわけだから、まだ。出来るかもしれないと、で、従業員もやると言っている。うーん。もう、だったら、やってみようかと。そんな責任感とか、まあ、うーん。その当時はあんまりそういう所よりも、とりあえずさっき言った従業員解雇せずにやるといった、ずーっと前にそう決めた、だからそういう風に忙殺されてたって言うのが現状だった。


他企業との話し合い、コラボ商品、情報交換などについて。

(話し合いとかってされたりしますか?)
ん、ほかの会社と?
それはえっとやってまして、復興センターとかで、最初はみんなで集まって業種は違うんだけど、こうやって銀行は貸し渋るねとか、どうなのとか、そっちはどうなのとかこんな制度があるんだけど使えないかとかそういう情報を共有する場として始まったんだよね。そこでそのだんだん水産商品も出来るようになって、じゃあちょっとセットにして売ってみる、じゃあって。一緒に大阪のシーフード展持って上がったんですけど、そこに、一緒にそこに行って、展示して売ってみようかとか。でそれがじゃあこんどはお店が出来るっていうんでじゃあちょっとやってみるかってだんだんなってきて。

だけどこう200社もいっぺんにやられたもんだからそういう動きで、一緒に売ろうか一緒にものを作ってみようと、うちも(1:17・・・・)といっしょにふりかけを作って2社で作ってひとつって名前で、味噌鰹節と合わせてごまもいれて、そういう動きとかもやってるし、そういうのがどんどん発展すればいいなと思って。

最初はやっぱり2,3人の(1:44・・・・)で共有しました。そういうのも、あの、がんばっぺ石巻っていうホームページにのってるから。一同みんな集まって、今、現在の情報、たとえば、こういう本部も、まあ社団法人化してるんで、こういう販促をして、大手の企業さんが販促として使いたいとか、支援する、とか支援するために使いたいんだとかって言う情報が入ってくる。それにもっと対応して、ものももっと売れると思う。そういうメリットがありますよね。一緒にやるって言うことには。

石巻のコミュニティーについて。

これは絶対必要さ。間違いなく、この町内でも避難所に、この町内の方々集まって、まあ俺は2カ月だけど、(0:17・・・・)あと、やっぱり反対した人もいるし、でもやっぱりばらばらじゃあなかったから、みんな助け合って最初、みんな水、飲む水もないんで、4時間ぐらい並んで、水をもらって、あとトイレの水も水が詰まっちゃうから、近くの小学校のプールからバケツひっくり返して、そのまままずトイレを清掃するとか、そういうはなしも、あとは、うーん、そうね。そういうのをやって、みんなでやっぱ一緒に、一緒で中央公民館みたいなフロアで、知り合いがやっぱいるわけですよ。そうするとね、あんまりうちはこうプライバシーとか言って(1:07・・・)もしなかったし、で、また、そうね、そういうコミュニティがたとえば阪神淡路のときにも、みたいに、復興、公営住宅を造っても、ばらばらになっちゃうわけです。公営住宅っていうと公平にしなくちゃなんないから、抽選で入る人を決めるとか。この地区の人だけ住まわしてくださいっていう、これはダメなんですね。いまはこここういった地区に建てる、ここに戻ってきた人は、まあアンケート取ったら7割くらいの人がこっちで出来るならそういう所に住んでもいいて言う人もいるし。そのほうがさ、だって、年寄り、70、80にもなって、ローンで家なんてまた建てられないでしょ。家は建てられないんだったら公営住宅でいいわって、家賃払うからって言ったって隣近所わかんないとかって、それで阪神淡路の時は孤独死とかさ、孤立死とか増えてくるわけさ。ここで誰がね、なんだあの人最近みてないなってなったら、ちょっと聞いてみるかってなるしね。

伊藤 秀伸

伊藤秀伸さんはギフトショップの運営をされています。


震災前の石巻には戻さないで、新しい石巻が見たい。

震災前に戻すとかって言う考えはそこはもう思ってないですね。震災前に戻しても結局この石巻っていうのは、震災前に戻したからといって景気が良いわけじゃないんですよ。なんで、震災前に戻しても景気が悪いんじゃどうしよう加奈なんてなってしまうだけなんで、もう震災前は震災前ってもう考えを捨てて、であらたに出発していくような気もちでやらないと、震災前震災前って言う風にいつまでも引っ張っているようじゃ、もう伸びることはないですよね。

(石巻全体の復興って言うのは前の石巻に戻るんではなくって、もう、)

もう新しくしたほうが私は良いと思います。やっぱりこの辺子供歩いているような、お母さんが歩いているような、なんかそういう感じの、感じが良いかなって、安心して暮らせるような町がね、良いかなっていうね。でもなんか、私が幼い頃は結構子供たちでバーっと遊んでたんですよ。車もそんなに走ってなかったし、道路も舗装されてなかったんです。砂利のとこも多かったんです。車とかもそうですね。なので、まあ走り回って遊んでたんですけど。今そういうのは全然見れないんですよ、そういう光景をね。だからそういう子供たちがその辺で遊んでられるような街が良いなって、うん。あー、まずは石巻をよく見てもらって、ここおかしいんじゃないの、こここうしたらいいんじゃないのとかっていうところがいっぱい見えてくるんじゃないかねって思うんですよ。よその人の目から見れば、ここに住んでる人は、もうここに何があって当たり前ってなってるんで、特にちょっと年配の人たちとかは。うん。で、よそから来た人に何でこの道路こうなってるんだろう、ここが一通なの、大きい道路にひとつにしたらもっとべんりじゃないのとか。このテーブルあっちじゃなくてこっちにやったほうが良いんじゃないのとか。そういうのよその人から見れば、よく見えると思うんだけどね。だからよそから見てほしいですけどね。うん。今回被災でこんな風にぐちゃぐちゃになりましただけじゃなくてね。うん。石巻市っていうのはまずこういう形で、合併して大きくなっちゃったんですよ。石巻市って。なんで、今回全然被災にあってない地域もあるんで、そっちはそっちでみてもらったほうがいいところもあるんで、広く見てもらったほうが、うん、いいかなと、うん。


仮設住宅でコミュニティーがばらばらに、石巻で頑張ろうと思う瞬間。

むずかしいよね、それ、仮設に行った時にも、色んな風に仮設って出来てたんだけど、そんで、たとえばこの地区の人たちが入るってなった時に、てんでバラバラにこう入った地域と、私たちはこう、底お仮説に入るのを待ってますっていう地域と、やっぱりこう、まとまって入ってるところは昔からの知り合いでね、隣近所もうまくいくかもしれないけど、ポツリポツリと入ってきてしまうと、どうしても、うん、考え方は違くなってきてしまうんで、で、石巻っていうところは、その、海のほうの人と、ちょっと中に入ったほうの人とt、後町の中の人とちょっとその人たちもろもろ考え方が違うんで、その考え方の違う人たちが同じところに入っちゃうと、やっぱりちょっとしたことでそうじゃないとかああじゃないとか。うん。こちは喧嘩口調で言ってなくてもね、相手はなんだこの人ってびっくりする時もあるから、んで上手くいかないっていうのはありますね。うん。震災後、だけども合わない時、だけども合わない時は、この店こうきれいに片づけてきれいにして、辞めてどっかで働いたら、良いかもって、うん。でも、やっぱり片づけてる時にお客さんがきたり、友達が来て、ねえ、励ましの言葉をいただくと、やっぱりここでやってないとこの人たちに迷惑をかけちゃうよなって、うん。せっかくね、ずっとやってきてて、いなくなってっていうのは申し訳ないよねっていうのがあってやっぱりここで頑張らないといけないよねっていう、うん。

井上 大輔

井上大輔は井上海産物店の運営をされています。

そうですね、まあ。早く石巻が元気になって欲しいっていうのが一番だと思います。あのう、なかなかやはりスピードというか。スピードが遅れてるというか。もちろん瓦礫の処理もまだまだですし、ええもちろんあと町の中もですね。あとまあもちろんまだ堤防も建っていないような状況で。まあやっと始まったような状況で。また何年もかかりますし。あと、まあ、石巻だと魚町っていうあの、えー、そうですね。そう加工するような場所があるんですけども、まあそういうところかさ上げも、ええ、何年もかかると。まだ2、3年かかるというような状況で。あともちろん町中のほうもですね、あのうやはりまあ、震災の爪痕が大きすぎてなかなかあのう、まっ商店とかも戻ってこれないし。あともちろん個人、あのまあ、家も全然あの。もちろんやはり堤防も建てないので、やはり建てたくないという想いもあると思うんですけどもなかなか人も戻ってこないということで、ちょっと時間はかかるんだと思うんですけども、まあなんとかそうですね、少しずつでもまあ、石巻が元の形に戻っていけたらと思います。はい。

人口が減ったことも雇用問題などの影響で?

そうですね、まあ人口の流出はえー、やはり。まあそうですね、まあいろいろ。まあやはり家がなくなったっていうのが一番大きいと思うんですけれども。それで、かといって石巻で他に住めるところがあるかというとなかなかまたあの、住宅とかも建ってないので。あと土地とかもあまり、まあないんだと思うんですけれども。もちろんあの、被災した場所ももう新地で、もういくらでも土地はあるんですけれども、やはりそこにはね、建てたくないということでやはり内陸のほうへとか、まあ山のほうにですとか。あのう、高い所に建てたいっていうまあ気持ちがあるんだと思うんですけども。なかなか、ええ、土地が少ないというのもありますし。で、そうですね。そういうのもあるんで、どうしても他のところに。あのう、また生活もなかなかするのも大変だというのもありまして。他のところにどうしても行ってしまうかたちだと思うんですけれども。まあでもいつかはまあ戻ってきていただければ、ええ、ちょっと時間はかかりますが、まあ少しずつおそらくまあ、堤防も建ってきて。えー、住宅とかも商店とかもいろいろできてくると思うんで、まあなんとか戻って来ていただければと思います、はい。

その問題に対してどうしたらいいかとかありますか。

はい、まずはやっぱり安全ということが一つかなと思いますし。えー、またそうですね。やっぱり石巻も前以上に元気にというかあのう、そうですね。前よりさらに、あの、盛り上がっていけるような町にしなければやはり戻って来てはくれないと思いますんで。うんそうですね。まあいろいろまあ、話し合いとかは進んでるんですけど、はい。まだなかなか決まらないっていうのも現実もありまして、はい。まあなんとか盛り上げていければとは思います、はい。

そうですね、今回やっぱりあの、いろいろやっぱ「絆」とかね、ということで。あのかなり繋がり、人の繋がり、あのまあ、あったので。まあ、いろんな人に助けてもらいながら。もうちょっと自分達だけではここまであの、なんでしょう、普通の商売が出来るまでに、まあなんとか回復できなかったと思うんですけど、なんとか。あの、いろんな人に助けてもらって。もうもちろんあと、そうですね。まあ国の方からそういう支援金が出たりとか。まあそういうのもありますし。あと、まあお客様からいろいろ助けてもらったりですとか。うんそうですね。やっぱり災害後はあの物資が非常に無くて。あの、食べる物もなくて。あと着るものもないといったような状況で。やっぱり津波で全て流されてしまったんで。何も無い状況で、でスーパーもあんまり、まあ。ここ近所にもないですし、まあやってたとしても限定で、何個、何個かっていうぐらいだったもんで。まあお客様からあの、服とか送っていただいたりですとか。あと食べ物もそうですね、はい。送ってもらったりですとか。ええ、本当に、本当になんとか。うん、そうですね。色々助けてもらって。商売のほうでも色々まあ、仕入れ先のほうも結構やられてしまったんですけども。まあ、なんとか、奇跡的に助かったところが結構ありまして、でまあそちらのほうからもいろいろ融通聞かせてもらって商品色々買わせていただいて、なんとか、ええ、営業する事ができました、はい。

5年まではとにかくかかるかなと。5年。やはりまあ最初は私もあの5年とか10年とか言われて、信じられなかったんですけど、もう10年間まで、なんでしょう、この状況で、この被災した状況でやってくっていうのがまあ信じられなかったんですけど、まあやっぱ現実見ると本当に全然、なんでしょう。まだ未だに解体とかやってますし。うーん、やはりすごい時間かかるんだなというのは最近になって実感してはきてますね。はい。

本当にヘドロかきの毎日で。まっ10トンぐらいですかね、うちの商品、あのう廃棄という形で。一日で10トン運んだんでもう本当にもうすごい肉体労働だったんですけども。なんとかやって。でやっぱりなんかああいう肉体労働っていうのは、不思議なもんで。なんか、あのう、充実感も欠片もなくて。もう、なんでしょうねもう。なんか怒りに任せてやってるような感じでしたねもうホントに津波に対する怒りというか、震災に対する怒りでもなんとかやり遂げたって感じがしたけど。まあ、なんのなんでしょうその。うん、なんかこう、なんか充実感っていうかまあ、何にもなくて。やり遂げたっいうのも何にもなくて、もう虚しさだけが残るみたいな、感じだったんですけど。で多分やっぱり地元の方達も、なかなかそういう感じだったと思うんで。やはりヘドロかきとかも、あんまりしなかったっていうのはありまして。でそういう時やっぱりボランティアの方々が、夏場すんごい暑い中に来ていただいて。本当に町きれいにしてもらったんで、それが本当にありがたくて。やはりやっぱりショックとか、もあって、なかなか地元の人達動けなかったんで。まあそういう時にすごい町きれいにしてくれたおかげで、なんとかその後やっぱり地元の方達も、あのう何か活動しようっていう気になってきてくれたと思うんで。それは本当にもうボランティアの方々には本当にありがたいと、本当に思いました、はい。

平塚 隆一郎

平塚隆一郎は山徳平塚水産の代表であり、石巻元気復興委員会にも所属している。

あのう震災前から、私に関して言うとですね、震災前からやっぱり、このままの状態ではこの業界も立ち行かなくなるのは目に見えるっていうなってのは思ってたんで、まあそれがより。かと言って震災、震災が来てこう機械とかが無くなるのはよりそれが深まったっていう事だけであって。

そういう「元に戻す」ではなくて、違ったもっとこう、儲かる構造っていうか。そう、そういったものに変えていかなくちゃいけないだろうという事で。あの、単に3月10日の段階まで戻す、っていう事はちょっと考えずに、違った形、違った売り先とかそう言ったものを考えながら。後はあのう、色々と同じ用な機械が入ってたりとか震災前はね。で価格で競争して、いやこっちが安いとか、っていうような形だったので、それをこう絶世して、できるだけ。あと、もう、儲かる構造というか。価格競争じゃなくて、あのう石巻のブランド価値を高めてみたいな感じでええ、構造の業界の形を変えていかなくちゃいけないだろうというような事を考えて今。そっちょの分科会っというかあれですけど、ワーキンググループの方か毎、毎週一回集まって、色々検討は続けているんですけど。

今はまあ見ての通り周りも更地になってそういうのはまあ、あるとしても重機でやるからいいよみたいな感じですからあれなんですけど。やっぱりあの、こうやって来てもらって、あるいはこうやってその取材してもらって今現状石巻の、こうなってて、まあなんにも無くなってるみたいな状態なので(笑)あの相当時間もかかるし。ええ、そういった事を。まっさっきも言いましたけど、その見に来てもらっただけでもいい訳ですよ、あの、バスツアーで被災ツアーみたいな感じでもいいので。あの、見に来てもらって、あの、都会でわかんない人達に、いやまだまだあの 長く掛かるこりゃぁ、っていうのを伝えてもらうっていうのが一番良いかなとは思いますけどね。ね、その。あんまりこう気合い入れてガッていくと、あの 長く持たないので。こう細く長くでもいいので、こう、多分ね、あの最低年、最低5年ぐらい掛かるってここ。あの、長く言えばまあ10年は、10年ぐらいはある程度まっ、あの。阪神大震災なんかの例でいっても、まあ10年ぐらいは楽勝で掛かるので。その、皆さんも学生じゃなくなるかもしれないですけども既に、あの、あの気に止めていただいて時々思い返してどうなったかなっていう関心を持ってもらうっていうのが一番大切なのかなっていう風に思いますね。

あのまあ一応ね結構そのメディアの方とか取材には来てもらっていて。うん、で今、今となっては出来るだけ出るようにしている。あのう、結局その、震災直後だと頼まなくても来て取材してきますけど。まっ実際にはね、震災直後メディアもなにも、自分たちが見れないから、どんな内容なのか全然わかんないんですけど、テレビも無いから。ラジオは聞けましたけど、テレ、テレビが無いので。いっ、今は、今は立場としては来てもらったらあのう、やっぱりあのう、どんどんこう忘れさられてってしまうとか、もう1年も経ったんだから復旧してんでしょ、みたいな感じに成りかねないので。できるだけそうでもない、もっと長くかかるんだっていう事をお知らせしたいので。あのう、メ、メディアの取材があったら必ずまっ、出たりとか協力は惜しまない(微笑)形でやってますけど。

結局まああのう、こっち側の現状を見ないで結構、多分そうなんじゃないか、仮説の元に来てるので。まあ話を聞けば あっそういうあの趣旨であの取材したいんだねっていうのは分かるので。その、できるだけその、乗ってあげたいっとは思うんだけど、現実と違う事を折り曲げて(笑)グルっと。あの、嘘は言えないので。できるだけまあ趣旨は分かったけどちょっと難しいんじゃないって。まあ、協力できる範囲ではしますけどみたいな感じなんですけど。た、多分まあ、だい、だいたい、だいたいそうなんだけどそう、そういう、最初からあの、こういうシナリオみたいなのがあって来るんでね、だいたい。それが検討違いだと困っちゃうんですよ。

まっ、遺体の安置所のところに、えっとですね、なんか、家族がね、こう縋りついて。こう、ずっと永遠と泣き崩れてるわけですよ。そういうのって、俺がお坊さんとか牧師さんとかがいればさ、あの、もう、次の段取りっていうか。こ、これがね、周りで見ててこうやって。もうそろそろいいだろって言う事もできないし。で、まあ、なんだ、ドウ、同窓っていうか、棺に入れてこう仮の埋葬、埋葬するんだけど。それが、そこでもずっとこう、ね、泣きつ、泣き続けてる家族がいて。救われないんだ、な、なんか普通にこう、お坊さんとか牧師さんとか誰でもいいんだけど、な、なんか、次は読経をしてくれるとか、そういうのがないと。これってこう、無宗教だとこういう状態になるのかなという(笑)いうので、あの、ホントに見てて辛いし本人たちも救われないし。ほ、本人っていうか亡くなった人はどうなん、(笑)それはわか、わからんけど、周りのカ、家族もどうにもならないし。いや、いやっこれってさとか言ってうちの、ホントにその宗教っつうのがさ、人間にとってい、あの、残された人にとって必要なんだなっていうふうに すごく思ったんで。
あの、あんまり日本人ってなんとか、なんとか、欧米の人と違って私はキリスト教徒ですとかイスラム教徒ですとかっていうふうにしないで、あの、生活の中に染み込んだ、習俗化した宗教だからあれですけど。そういうのもやっぱり、必要なんだなっていうふうな、すごくその、あの。人間にとって必要な物なんだなっていうふうには思いましたね。

山本 寿則

山本寿則さんは山本歯科医院で歯科医として働いています。

理想ねー。やっぱりちょっとあまりにもね、あのう。私、小学校中学校 門脇小学校 門脇中学校で、南浜町とか大街道どか、いわゆるごっそりなくなってしまった地域出身者なんで。あのう。復興が全く新しいものを作っていくのか、それとも前の状態に戻すのかっていう言葉に定義からも大分違ってくると思うんだけども、この先ね。ただやっぱり一番は人口を、は確保、ってか人口はね。あのう、増やしていける町に、増えていく町にしていきたいって思うのがやっぱり石巻に住んでる人間、離れなかった人間がみんな思ってる事だと思うし。ん、あのう住んでいく離れていかなっていうかね、そういうような形を目指して、ん。た町にしてい、いきたいなと、うん、思いますね。うん。

(そういうような町を作る為には、次のステップは… とういうのはどんなものですか)

んー、やっぱりなんだろうね自分だけで考えないでもうちょっとねっ、あのう集まって。んん、あのう話、まあよく言われてくるところだけれどもやっぱりどうしても聞こえてくんのは、あのあんまり行政には頼ってたりは何も進まないがら自分達で動かなきゃダメだろうと、いう風なのはあのう。やっぱり最初は何かあったらば行政に頼みに行って、あの回されて回されて、なんだ自分達でやった方が早がったやっていう話はよく聞くんで。でもね、自分ひとりでやるよりかやっぱりいろんな知恵持ち寄って少しね。まっ勉強会つったらおかしいけれどもね、うん、そういうようなのやりながらあのう、ある程度まとまって。うん、動いていった方が。多分それぞれみんな考えてる事って違うと思うし、うん。批判ばっかりじゃなくてね出し合ってなんかワイワイと楽しく、ん、あのうテーマ、テーマってかね、うん。あのう作って、まだその段階じゃないかなとは、ん。地域地域年代によってもこうあって欲しい、こうあって欲しいってのは全員違うと思うから、ん。そこをなんか少しちょっと少人数だけでもまとめるような勉強会みたいなのがね、沢山出来て、話し合えるような場とか作っていけばいいんじゃないかなとか、うん思ってます。まだ明確にこういう形でっていうは、ちょっと難しいんじゃないかなとは、うん、思ってますね、うん。

(その自分達の経験を他の地域に発信していきたいってのは、山本さんの思いでの。それを例えばどいう形で発信していきたいってのは)

なかなかやっぱり仕事しながらそういう形取るってのは難しいけれども。まあ、なんだろう。ネット上に書き込む、ぐらいがまず自分が今出来てる事。あとそれと、今度あのう、6月に去年もでき、去年やりたかったんだけれどもtやっぱり6月の段階ではできなく、年に一回あのう、ひとつ学会では発表毎年しようかっていう風に。まあ殆どは歯科の症例のほうだけども。今年は歯医者としてあのう、震災で経験した事として、あのう、そういうような震災が起きた時に、まっ雇用をどうしたらいいかっていうような問題とか、ウチら治療すんのに建物ダメで、他の所をあてにした時に収入どう、収入とかまあ患者さんとかのあのう、ね、やり取り。どうしたらいいのか、どういう風な形を取ったかっていうような情報をまあ、学会で発表してこようかなとか、ね、少しでも歯医者の、他の地域の歯医者の人達に、まっ院内でね、防災でなんなりあった時のプログラムって言ったらおかしいけども。あのう、院内マニュアルっていうのかな?うん、そういうのをなんか起きた時のマニュアルを作るのに役立ててもらえたらいいなと思って、うん。来月再来、来月か。学会の方で一応発表してくると。それぐらいはし、うん、今 今年やっと出来るかなと、うん、は思って動いてます、ん。

まあ、年代関係なく先ほど言ったようにやっぱりちょっとでもね、あのうみんなが住んでる地域地域のあのなんか起こった際のかつ、う、動きの仕方、うん。あのう、地震起きた時でもいいし台風来た時でもいいし、自分が住んでる土地で起きる自然災害に、を想定して。あのう、いわゆるその際のマニュアル、をその場所その場所で戻って作ってもらいたいなとか、あのそういう事を考えてあのう、もらえたら一番多分、あのう被災地にとっては嬉しいと思ってます、うん。で、まあ、学生っていう風に言ったけどもそれは多分そんなに被災と関係ないんじゃないかな。あっ被災地、あのうてっ、地震とか天災とかはあのう、から、学生20代どう思って欲しいとかいうのは、うん。今回の天災があったから若者にはどうして欲しいって一律に来ますからね。うん、天災はね、その場所に、うん。今回の天災からそういう風に年代に分けてどうの、まあね、若いのに体力あんだからおばあちゃんきちんと助けなさいよって言ったってね。やっぱ助けに行って失敗したケースも亡くなったケースも沢山訳だし。年代関係なくなんかあったらば自分で策定、あのう自分ででもそこの職場ででも学校ででも作った防災、あのう震災起こった際の後によくマニュアルを作ってそれに沿ってあのう、動いて、なんかあったならば、もらいたいと、うん、いう風に思いますかね、うん。