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人との繋がり

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石川ふき子さん

インタビュー一覧へ戻る 震災があった年の6月に、妹さんと愛島仮設に移ったそうです。 移転、将来の住まい Q:いつからこの仮設に移動されたんですか。 えっとね、6月。3年前の6月だから何年だろ。20、23年。23年か。の6月、始め。うん。だから1年更新の契約。1年契約なの。ここに入ってるの。だからなんかあれば、もうなんか出てってくださいって言われたら、はいそうですかって出ていかなきゃなんないのね。何か問題起こせばね。うん、だから6月になったらまた新しく、また、契約。更新、更新かな。なんていうのかな、そういう、そういうのをしなくてはなんないのね。だからそろそろ来るなーと思って。みんな最初は言ったときは1年契約だと思うのね、ここね。うん。 Q:これからってどういうところに住みたいとか決まって・・・ いや、ありますねー皆さんやっぱし。西、あの、ん、高速道路。西川。西川ってとこの気候は好きなんだけど、まあ正直帰りたくないね。私は津波は見てないんだけど、やぱっし映像で流れる、てるのを見る、てポンていうのをしたらあれだけども、あの、津波のときはもう私、もうすぐにね、上に行ったから。映像で見てね、あれが恐くてね。うん。(10:47・・・)やっぱし、住むとこないから。うん、公営住宅?そういうとこに入るより他にないですよね。 もし代替地。お金も、うんぬんで代替地もらったとしても閖上なんですよね。うん。閖上からちょっと離れたとこ。そったらもう同じことだなあと思って。うん。閖上に、戻るほか、ないなあって。ちょっと若い人たちの子供さんもいるしね。なんか将来的にさ、子供たちの将来もあるし。若い人たちは家、土地、求めてね。うん。出てってる人もいるし。準備してる人もいると思うのね。うん。私は私で60過ぎると、この、市の、やってることに従うほかないです。行くとこないですもん。うん。自分で食べなさいって言われても資金ないしね。子供たちも独立してまあお母さんに迷惑をかけないようにとね。うん。 仮設でのくらし Q: 仮設の、この生活っていうのはどうですか。どのように感じてますか。 ねー。ちょっと贅沢言う、うーん。苦痛に感じるときがある。で私、狭いって言ったらばあれだけど、まあ私は、贅沢させられてきたと同じなのね。嫁に来て新しい家に住まわせてもらって。失礼だけど貸家ってとこには、あの、そういうとこに入ったことないから。もう、来たときはね、狭いし、二部屋分も、二部屋分しかなくて、もう圧迫感が凄かったの。うん。そういう贅沢っていえば贅沢、ね。新しい家に住まわせてもらって。貸家なんて入ったことないから。だ、戸惑うとこもあるのね。やっぱしこういう思いには聞こえんだけど、生活音って聞こえるわけじゃない。水道の流れた音とかね。そういうの経験したことないから。やっぱし凄い圧迫感はあって。そーだなー。夜眠れないでしょ。眠れないから家で(13:13・・・)家の娘って帰ってくるの遅いのね。んーなんかあの。朝方の1時半とか2時半に帰ってくるから。私寝ないで待ってる、待ってる時もあるんだけど、やっぱし体が具合悪くなる。寝てないし。だから導入剤っての。あれ飲んで眠りはしてるんだけど。あれ飲んでも一晩でも眠れないときあるの。そうすっとおかしくなってくるんだろうね。だから夕方でも、車でどっかいこうって。私が運転できないから。お父さん、車でどっかにいこーって。誰、誰が運転するんだーと。俺運転するんだぞーって。うん。ほんとにほら、本当に、申し訳ないんだけど、もう、ここに居たくないときあんのね。うん。あの部屋もう、一人でいると思うと。うん。贅沢な悩みね。これね。住むとこないひともいるんだから。んな、贅沢な悩みだなーと思うんだけど、やっぱし、ね、一軒家。貸家でもいいから一軒家には住みたいなと思う。でも2階っとかは私嫌いだから。しんどい。年とってるから二階に上がんなきゃいけないでしょ。一軒家。うん、一軒家に住みたいなー。それを今希望してるんだけど、抽選になれば。抽選だから。抽選外れればどこにいくかもわかんないし。ここ2年くらいでできれば。あと何年ぐらいかかるか。ちょっとね。一応28年とか29年にできるっていうけどもね。うん。一戸建てのほうができるの早いんですって。だけど、そこに入りましょってすぐはいれないでしょ。 心の支え Q:そういう生活をされてる中で、なにかこう、支えとな、石川さんにとって何か支えとなるものってありますか。 うん、うん。特にね、あの、第2水曜日と、第4水曜かな。手芸の先生が来てね、教えてくれる。お裁縫教えてくれるの。お裁縫教えてくれるの。今そこに、ああいうのね。(15:24・・)うん。そういうの教えてもらって。縫ってるのね。今は、これ3月だけど、今5月バージョンで、男の子も作ってんの。うん。糸とか針とか持ったことないんですよ。うん。針とかね糸とかなんかとおしたことない。雑巾ぐらいは縫ったことあるけど、それお裁縫なんてしたことなかったの。ここ来てから、いろいろ、ね。うん。 Q:その手芸を始めたいって、そういうイベントに参加したいって思ったきっかけはなにかありますか。 うーんやっぱしね、やろうっていう人から誘われて、やってます。できるから、私らも初めて、ね。針とかぬったこともないのにできてるんだから、できるから大丈夫だよって声かけられて、やるようになったのね。うん。本当にね、恥ずかしい話、糸の種類、針の種類、全然わかんなかったの。この歳になるまで。うん。あっと、やっぱし糸があるっていうのはわかってたけど、針にね、あのー、絹針とかいろんなの、全然わかんなかった。初めて分かった。ほほ。(笑い声)恥ずかしい話。わかります?全然そういうのわかんなくて私。うん。ね。針も種類あったんだーと思って。この歳になるまで。ほほ。(笑い声)これやってる感じで、あ、絹糸はこれだなーとおも、木綿とか。あと、穴糸っていうのもわかんないね。そういうのやってみないと。うん。 Q:そこで初めて知り合った方とかいらっしゃいますか。 閖上はね、顔見知りはいたんだけど、名前が分からなかったの。こんにちは、おはようございますって挨拶するぐらいで、なんも話したことはないんだけどここに来て、お友達になってね名前分かって、同じ2町目の人なんだ~って、うん。ここにきてからやっぱりみんなと話してね、名前分かって、話するようになって、あと夕方6時くらいかな、散歩。みんなで歩いて。 インタビュー一覧へ戻る Advertisements

阿部 由貴子

阿部由貴子さんは100周年を迎えようとしている割烹滝川の若女将として勤めている。震災を機に女将として母親から継いだ阿部さんは2児の母でもあります。震災当時はママ友やいろんな方から支えられた阿部さんは子供たちの事や信頼できる仲間についてお話していただきました。 割烹 滝川~石巻の旬の味 でもうちの子達。割と強いっていう訳ではないんですけど。あのう、仕事の状況を分かってるのか、特に上の子は3年生、4年生。まあ2、3、4ですね。だった、2年生で被災して3年生がうちにあって、今が4年生なんですけど。あんまり泣き事言わなくて。むしろ手伝ってくれた事が多くて。 あの、ちょっとスタッフ足りなかった時とか、手伝いに来てって言って。ああのう、お小遣いあげるからって言って手伝ってもらったり。うん。でそれを、そのお姉ちゃんを見ててか下の子も、まあ初めは本当に離れなかったりしたんですけど今回運動会も見に行けなかったけど、何で見に来れなかったの、とかそういう事は全然なくって。だからそういう点では子供達に助けられて。あたしだけが、なんか可愛そうなんじゃないかとか。なんか、辛い想いしてんじゃないかとか思ってるんですけど、子供達の方が以外とその状況を楽しんでくれてるっていうか。その分あのう、休みの日にはガッツリ遊んだり。あとなるべく朝はお話をしたり。とにかく会話をするようにしてるので。あとこう、抱きしめたりとかしてるので。ううん、以外と思ったよりは彼らの方が落ち着いてる(笑)そこはすごい助け、うん。で、こう、今でも娘とかに滝川なくなって不安じゃない、とか。だったまたやればいいじゃん、みたいな。どこでもできるじゃん、みたいな(笑)感じなので。ううん。ですね。うん。 あのベンチャークラブって言って、あのう国際ソロプチミストっていう会があるんですけど、その親会なんですが、その方々が作ったまあ、ような、20歳30歳、40代の女性が、あっ働く女性のボランティア団体だったのですね。で石巻は13名いるんですけどやっぱり色んな職業の方が集まって。でもやっぱりそのメンバーの中でもやっぱりあのう、メンバー達では色々情報交換したり、物々交換したりとか、やっぱりそういうのはありましたね。でも13人中、そうですね全員被災してましたので。みんなそれぞれ家の事が大変だったので、その後はいっ、2回ぐらい集まったんですけどやっぱり全員は揃えなくて。やっぱり被災してひどい人は仙台に引っ越しちゃってるのが何人かいましたので、うん。 でもねベンチャーのメンバーも本当に明るい人達だったので。その震災で困った事をみんななんだろう、こう言ってはすごい変なんだけど、笑いに変えていくっていうか(笑)うんうん、そういう事もすごくあったから、その気分の、その話してるうちにどんどんどんどん落ち込むよりはむしろ、うわああそういう事もあったよねって感じでこう、気持ちがどっちかっていうとこう晴れやかになるっていう感じのメンバーだったので。そういう点ではもう話はしてて。こうおっ、あっ、なぁ、すごい言い方変かもしれない、楽しかったですね。

阿部 司

阿部司さんは割烹滝川の代表取締役と料理人としてご活躍されており、石巻元気復興委員会にも所属しています。地元の食材を使った日本料理を提供してきました。また、創業からつづく釜飯とうなぎ料理が自慢。「いまだから出来る事」に集中し、より良いお店づくりをしている。「戦時中に建て替えをした先代の思いを考えると、震災の被害に負けずに建物を残していきたいと思っています。来年の丑の日には本店でうなぎを焼きたい」先代への思いや石巻への思い、震災で気づかされた事についてお話していただきました。 割烹 滝川~石巻の旬の味 自分の指名、役目を震災後改めて確認できた 改めて食の力っていうか、みんな涙ぐんで喜ぶんですよね。やっぱりその、美味しいのは美味しいし、あったかいものは美味しい、あったかいものはあったかいままそのまま食べるのがおいしいんだとかですね。なんかそういう、はい、あの、(0:21・・)とか仮設にいる方が買いに来てくれたり、色んな機会あって寄ってくれたときにね、本当にね、そういった中で、ああ、おれの指名っていうのはそうなんだなって、食を通してみんなに元気になってもらう、あとは法要ですか、仏前にその、特に石巻っていうのはその、8000円も1万円もかけたご霊前っていうのがですね、法要の(0:53・・・)を作るんですけど、それをこう、あげて、仏さんにあげて、こうく酔おうするんですけど、震災後何もそういう店もなくて、コンビニから弁当買ってきて、その、それじゃあ情けなくて、仏さんに申し訳ないっていう家族の方の話をいただいたりして、そういった要望にも応えたいと思って、本当に、お米借りれなくて、魚屋さんやる前にも自宅で作って、もう材料もないんで本当になんかちょっとした野菜の煮物とか、適当に寄せ集めて作ったのを何とか友人だったりとかのご霊前に届けたりしたんです。そういった流れでやっぱり自分はあの、なんとかしたい、してあげたい、家族のその色々応えたいし、やっぱり地元の(1:52~1:53・・・・)魚に色々手を加えたり、手料理にしてお渡しするとかですね。やっぱりその、自分の使命というか役割みたいのを本当にその、明確になったと思いますね、うん本当に。(2:07~2:08・・・)ところ絵の変化ですかね、やっぱり震災前震災後で、やっぱりその、そういった思いで人生またやっていこうというか、はい。 震災で気づかされた事。人との繋がりや絆を実感した時、ああいう雰囲気はどうやってまた作れるのか。 そういった自分の、財産て言うかなんですか、気付かせてもらったんですよね、人だったり、ああいう古い店だったり、自分のそのやる割だったり、まあその、石巻はそういったものは、あって素晴らしかったんだなっていうのを全部こう、教えてもらったっていうかそういった意味では凄く、これ以上ない場所を教えてもらったっていうか。自分でもそれは本当に忘れないでいてそういうのは続けてこれからも生きていこうかなってそういう感じですかね。ダメだったんだな、元に戻したいな、ここもなくなったそこもなくなった、ダメなことばっかりじゃなくてやっぱりそういう風にやっていこうと思います。 (1:16) お金も意味がなくなった。結局は店もなければ流通も。お金あったってしょうがないって震災の後は思ったりして、そうすると近所の方とかも今までは話したことない人もちょっと打ちで作った梅干し食べてとかそういうやりとりがあったり。みんなでも一緒なんですねみんな一緒の思いをして、みんな食べれないし、凄かったし、暗かったし。なんかあの時、みんあ一体感あってよかったですけどね、凄く。ものは無かったけどそういう、楽しいっていうか充実して、外で焚火して子供たちと交流を作って。 (2:21) 今後どうしていきたいかって言ったら、そっちのほうが、そういった人とのね、繋がり(2:28・・・・)また打ちに来てもらえるんだったらまた会えるなとか、とっても良いなとか思ったり、それはありますよね。

菅原 秀子

菅原秀子はオカダプラニングの従業員、そして代表の菅原聖の奥さんでもあります。 常にっていうかやっぱり色んな人に震災を機にじゃないけど色んな人から支えられて­るっていう部分と、支えられてるって言っても結局自分の考え一つなので、あのー、やっ­ぱり信じられるものは自分だし、自分だけで決断しないといけないし、やっぱり頼るとこ­ろは頼りますけど、でもやっぱり自分で歩かないといけないですよね、結局は。なので、­やっぱり、うーんどうだろう。自分、最後に信じるのはあ自分しかいないだろうな。うん­。うん。なんかもう、助けてもらう分、結局判断するのは自分じゃないですか。でそれで­正しいって思えて行動するのがやっぱり後悔しないっていうことだと思うんで、なんか震­災を機にあれやっとけばよかったとか、そういうことはやめようって思った。うん。やっ­ぱアレしとけばよかったって、震災の直後は特に。あれやっとけばよかったとか、色んな­ものはあるんですけど、やっぱり、徐々になんというかやっぱり生活していく中に、まあ­、人の付き合い、全国の人たちと色んな付き合いがある中で、大変だったわねとかなんか­言われますけど、結局仕事上の付き合いがあってそういうことなので、なんだろう、ちょ­っと難しい、よく言えないんですけど、あの、なんだろう、後は人に迷惑をかけないとい­うこと。後悔しないようにすること、ぐらいかな―。うん。 まあ、仕事は何でも、仕事じゃなくても全部そうだと思うんですけど、人とのつなが­りがあって初めて全部が潤うって感じだと思うんで、気持ち的にも仕事的にも、やっぱり­底が枯れちゃうと、やっぱり何においても、ダメなんじゃないかな、ては思います。うん­うん。まあそこがすべて、その根本があって初めて繋がっていくとは思うんですけど。 (ボランティアの方とか来て、勇気づけられたりとか?) そうだね。うん。なんか、そうだね。内へ内へ縮こまっちゃうとね気持ちがね。そう­いう新鮮な空気があると、やっぱり気持ち的に変化ってあるのかな、違うよね、やっぱり­、あ、がんばろうって。うん。思うけどね。うん。

阿部 信也

阿部信也さんは丸平かつおぶしの代表であり、石巻元気復興委員会にも所属しています。 阿部さんにとって会社を続けるための「かすかな希望」とは。 実際水産会社はこっち加工関連の水産なんかは200社位あって、そのほとんどがまあ壊滅してるとそれで、みなさん当然施設も設備も、うーん、あと原料も5万トンくらい被害を受けてるわけ、全体で。金額にすると350から400位になるのかね。400億くらいなのか。その中で原料もない、設備もない中で、もう解雇せざる終えなかった。ただ打ちはたまたまこの建物が残った、んで上野3階部分は水が来ていないていう、うーん、ところだったんで、やっぱりかすかな希望って言うか可能性があれば、それはできるかもしれないと、まだ。でも内部も被害状況もわかんないわけだから、まだ。出来るかもしれないと、で、従業員もやると言っている。うーん。もう、だったら、やってみようかと。そんな責任感とか、まあ、うーん。その当時はあんまりそういう所よりも、とりあえずさっき言った従業員解雇せずにやるといった、ずーっと前にそう決めた、だからそういう風に忙殺されてたって言うのが現状だった。 他企業との話し合い、コラボ商品、情報交換などについて。 (話し合いとかってされたりしますか?) ん、ほかの会社と? それはえっとやってまして、復興センターとかで、最初はみんなで集まって業種は違うんだけど、こうやって銀行は貸し渋るねとか、どうなのとか、そっちはどうなのとかこんな制度があるんだけど使えないかとかそういう情報を共有する場として始まったんだよね。そこでそのだんだん水産商品も出来るようになって、じゃあちょっとセットにして売ってみる、じゃあって。一緒に大阪のシーフード展持って上がったんですけど、そこに、一緒にそこに行って、展示して売ってみようかとか。でそれがじゃあこんどはお店が出来るっていうんでじゃあちょっとやってみるかってだんだんなってきて。 だけどこう200社もいっぺんにやられたもんだからそういう動きで、一緒に売ろうか一緒にものを作ってみようと、うちも(1:17・・・・)といっしょにふりかけを作って2社で作ってひとつって名前で、味噌鰹節と合わせてごまもいれて、そういう動きとかもやってるし、そういうのがどんどん発展すればいいなと思って。 最初はやっぱり2,3人の(1:44・・・・)で共有しました。そういうのも、あの、がんばっぺ石巻っていうホームページにのってるから。一同みんな集まって、今、現在の情報、たとえば、こういう本部も、まあ社団法人化してるんで、こういう販促をして、大手の企業さんが販促として使いたいとか、支援する、とか支援するために使いたいんだとかって言う情報が入ってくる。それにもっと対応して、ものももっと売れると思う。そういうメリットがありますよね。一緒にやるって言うことには。 石巻のコミュニティーについて。 これは絶対必要さ。間違いなく、この町内でも避難所に、この町内の方々集まって、まあ俺は2カ月だけど、(0:17・・・・)あと、やっぱり反対した人もいるし、でもやっぱりばらばらじゃあなかったから、みんな助け合って最初、みんな水、飲む水もないんで、4時間ぐらい並んで、水をもらって、あとトイレの水も水が詰まっちゃうから、近くの小学校のプールからバケツひっくり返して、そのまままずトイレを清掃するとか、そういうはなしも、あとは、うーん、そうね。そういうのをやって、みんなでやっぱ一緒に、一緒で中央公民館みたいなフロアで、知り合いがやっぱいるわけですよ。そうするとね、あんまりうちはこうプライバシーとか言って(1:07・・・)もしなかったし、で、また、そうね、そういうコミュニティがたとえば阪神淡路のときにも、みたいに、復興、公営住宅を造っても、ばらばらになっちゃうわけです。公営住宅っていうと公平にしなくちゃなんないから、抽選で入る人を決めるとか。この地区の人だけ住まわしてくださいっていう、これはダメなんですね。いまはこここういった地区に建てる、ここに戻ってきた人は、まあアンケート取ったら7割くらいの人がこっちで出来るならそういう所に住んでもいいて言う人もいるし。そのほうがさ、だって、年寄り、70、80にもなって、ローンで家なんてまた建てられないでしょ。家は建てられないんだったら公営住宅でいいわって、家賃払うからって言ったって隣近所わかんないとかって、それで阪神淡路の時は孤独死とかさ、孤立死とか増えてくるわけさ。ここで誰がね、なんだあの人最近みてないなってなったら、ちょっと聞いてみるかってなるしね。

伊藤 秀伸

伊藤秀伸さんはギフトショップの運営をされています。 震災前の石巻には戻さないで、新しい石巻が見たい。 震災前に戻すとかって言う考えはそこはもう思ってないですね。震災前に戻しても結局この石巻っていうのは、震災前に戻したからといって景気が良いわけじゃないんですよ。なんで、震災前に戻しても景気が悪いんじゃどうしよう加奈なんてなってしまうだけなんで、もう震災前は震災前ってもう考えを捨てて、であらたに出発していくような気もちでやらないと、震災前震災前って言う風にいつまでも引っ張っているようじゃ、もう伸びることはないですよね。 (石巻全体の復興って言うのは前の石巻に戻るんではなくって、もう、) もう新しくしたほうが私は良いと思います。やっぱりこの辺子供歩いているような、お母さんが歩いているような、なんかそういう感じの、感じが良いかなって、安心して暮らせるような町がね、良いかなっていうね。でもなんか、私が幼い頃は結構子供たちでバーっと遊んでたんですよ。車もそんなに走ってなかったし、道路も舗装されてなかったんです。砂利のとこも多かったんです。車とかもそうですね。なので、まあ走り回って遊んでたんですけど。今そういうのは全然見れないんですよ、そういう光景をね。だからそういう子供たちがその辺で遊んでられるような街が良いなって、うん。あー、まずは石巻をよく見てもらって、ここおかしいんじゃないの、こここうしたらいいんじゃないのとかっていうところがいっぱい見えてくるんじゃないかねって思うんですよ。よその人の目から見れば、ここに住んでる人は、もうここに何があって当たり前ってなってるんで、特にちょっと年配の人たちとかは。うん。で、よそから来た人に何でこの道路こうなってるんだろう、ここが一通なの、大きい道路にひとつにしたらもっとべんりじゃないのとか。このテーブルあっちじゃなくてこっちにやったほうが良いんじゃないのとか。そういうのよその人から見れば、よく見えると思うんだけどね。だからよそから見てほしいですけどね。うん。今回被災でこんな風にぐちゃぐちゃになりましただけじゃなくてね。うん。石巻市っていうのはまずこういう形で、合併して大きくなっちゃったんですよ。石巻市って。なんで、今回全然被災にあってない地域もあるんで、そっちはそっちでみてもらったほうがいいところもあるんで、広く見てもらったほうが、うん、いいかなと、うん。 仮設住宅でコミュニティーがばらばらに、石巻で頑張ろうと思う瞬間。 むずかしいよね、それ、仮設に行った時にも、色んな風に仮設って出来てたんだけど、そんで、たとえばこの地区の人たちが入るってなった時に、てんでバラバラにこう入った地域と、私たちはこう、底お仮説に入るのを待ってますっていう地域と、やっぱりこう、まとまって入ってるところは昔からの知り合いでね、隣近所もうまくいくかもしれないけど、ポツリポツリと入ってきてしまうと、どうしても、うん、考え方は違くなってきてしまうんで、で、石巻っていうところは、その、海のほうの人と、ちょっと中に入ったほうの人とt、後町の中の人とちょっとその人たちもろもろ考え方が違うんで、その考え方の違う人たちが同じところに入っちゃうと、やっぱりちょっとしたことでそうじゃないとかああじゃないとか。うん。こちは喧嘩口調で言ってなくてもね、相手はなんだこの人ってびっくりする時もあるから、んで上手くいかないっていうのはありますね。うん。震災後、だけども合わない時、だけども合わない時は、この店こうきれいに片づけてきれいにして、辞めてどっかで働いたら、良いかもって、うん。でも、やっぱり片づけてる時にお客さんがきたり、友達が来て、ねえ、励ましの言葉をいただくと、やっぱりここでやってないとこの人たちに迷惑をかけちゃうよなって、うん。せっかくね、ずっとやってきてて、いなくなってっていうのは申し訳ないよねっていうのがあってやっぱりここで頑張らないといけないよねっていう、うん。

井上 大輔

井上大輔は井上海産物店の運営をされています。 そうですね、まあ。早く石巻が元気になって欲しいっていうのが一番だと思います。あのう、なかなかやはりスピードというか。スピードが遅れてるというか。もちろん瓦礫の処理もまだまだですし、ええもちろんあと町の中もですね。あとまあもちろんまだ堤防も建っていないような状況で。まあやっと始まったような状況で。また何年もかかりますし。あと、まあ、石巻だと魚町っていうあの、えー、そうですね。そう加工するような場所があるんですけども、まあそういうところかさ上げも、ええ、何年もかかると。まだ2、3年かかるというような状況で。あともちろん町中のほうもですね、あのうやはりまあ、震災の爪痕が大きすぎてなかなかあのう、まっ商店とかも戻ってこれないし。あともちろん個人、あのまあ、家も全然あの。もちろんやはり堤防も建てないので、やはり建てたくないという想いもあると思うんですけどもなかなか人も戻ってこないということで、ちょっと時間はかかるんだと思うんですけども、まあなんとかそうですね、少しずつでもまあ、石巻が元の形に戻っていけたらと思います。はい。 人口が減ったことも雇用問題などの影響で? そうですね、まあ人口の流出はえー、やはり。まあそうですね、まあいろいろ。まあやはり家がなくなったっていうのが一番大きいと思うんですけれども。それで、かといって石巻で他に住めるところがあるかというとなかなかまたあの、住宅とかも建ってないので。あと土地とかもあまり、まあないんだと思うんですけれども。もちろんあの、被災した場所ももう新地で、もういくらでも土地はあるんですけれども、やはりそこにはね、建てたくないということでやはり内陸のほうへとか、まあ山のほうにですとか。あのう、高い所に建てたいっていうまあ気持ちがあるんだと思うんですけども。なかなか、ええ、土地が少ないというのもありますし。で、そうですね。そういうのもあるんで、どうしても他のところに。あのう、また生活もなかなかするのも大変だというのもありまして。他のところにどうしても行ってしまうかたちだと思うんですけれども。まあでもいつかはまあ戻ってきていただければ、ええ、ちょっと時間はかかりますが、まあ少しずつおそらくまあ、堤防も建ってきて。えー、住宅とかも商店とかもいろいろできてくると思うんで、まあなんとか戻って来ていただければと思います、はい。 その問題に対してどうしたらいいかとかありますか。 はい、まずはやっぱり安全ということが一つかなと思いますし。えー、またそうですね。やっぱり石巻も前以上に元気にというかあのう、そうですね。前よりさらに、あの、盛り上がっていけるような町にしなければやはり戻って来てはくれないと思いますんで。うんそうですね。まあいろいろまあ、話し合いとかは進んでるんですけど、はい。まだなかなか決まらないっていうのも現実もありまして、はい。まあなんとか盛り上げていければとは思います、はい。   そうですね、今回やっぱりあの、いろいろやっぱ「絆」とかね、ということで。あのかなり繋がり、人の繋がり、あのまあ、あったので。まあ、いろんな人に助けてもらいながら。もうちょっと自分達だけではここまであの、なんでしょう、普通の商売が出来るまでに、まあなんとか回復できなかったと思うんですけど、なんとか。あの、いろんな人に助けてもらって。もうもちろんあと、そうですね。まあ国の方からそういう支援金が出たりとか。まあそういうのもありますし。あと、まあお客様からいろいろ助けてもらったりですとか。うんそうですね。やっぱり災害後はあの物資が非常に無くて。あの、食べる物もなくて。あと着るものもないといったような状況で。やっぱり津波で全て流されてしまったんで。何も無い状況で、でスーパーもあんまり、まあ。ここ近所にもないですし、まあやってたとしても限定で、何個、何個かっていうぐらいだったもんで。まあお客様からあの、服とか送っていただいたりですとか。あと食べ物もそうですね、はい。送ってもらったりですとか。ええ、本当に、本当になんとか。うん、そうですね。色々助けてもらって。商売のほうでも色々まあ、仕入れ先のほうも結構やられてしまったんですけども。まあ、なんとか、奇跡的に助かったところが結構ありまして、でまあそちらのほうからもいろいろ融通聞かせてもらって商品色々買わせていただいて、なんとか、ええ、営業する事ができました、はい。 5年まではとにかくかかるかなと。5年。やはりまあ最初は私もあの5年とか10年とか言われて、信じられなかったんですけど、もう10年間まで、なんでしょう、この状況で、この被災した状況でやってくっていうのがまあ信じられなかったんですけど、まあやっぱ現実見ると本当に全然、なんでしょう。まだ未だに解体とかやってますし。うーん、やはりすごい時間かかるんだなというのは最近になって実感してはきてますね。はい。 本当にヘドロかきの毎日で。まっ10トンぐらいですかね、うちの商品、あのう廃棄という形で。一日で10トン運んだんでもう本当にもうすごい肉体労働だったんですけども。なんとかやって。でやっぱりなんかああいう肉体労働っていうのは、不思議なもんで。なんか、あのう、充実感も欠片もなくて。もう、なんでしょうねもう。なんか怒りに任せてやってるような感じでしたねもうホントに津波に対する怒りというか、震災に対する怒りでもなんとかやり遂げたって感じがしたけど。まあ、なんのなんでしょうその。うん、なんかこう、なんか充実感っていうかまあ、何にもなくて。やり遂げたっいうのも何にもなくて、もう虚しさだけが残るみたいな、感じだったんですけど。で多分やっぱり地元の方達も、なかなかそういう感じだったと思うんで。やはりヘドロかきとかも、あんまりしなかったっていうのはありまして。でそういう時やっぱりボランティアの方々が、夏場すんごい暑い中に来ていただいて。本当に町きれいにしてもらったんで、それが本当にありがたくて。やはりやっぱりショックとか、もあって、なかなか地元の人達動けなかったんで。まあそういう時にすごい町きれいにしてくれたおかげで、なんとかその後やっぱり地元の方達も、あのう何か活動しようっていう気になってきてくれたと思うんで。それは本当にもうボランティアの方々には本当にありがたいと、本当に思いました、はい。

荒川 元一

ガス販売をはじめとした荒川七衛商店は昭和6年に創業、現在で荒川元一さんは三代目となります。会社は津波にのまれてしまい、荒川さん自身も波に巻き込まれてしまいました。その後、石巻被災企業復興支援がんばっぺ石巻に加わり、石巻の現状を世界へ発信するマガジン「Rolling Press(ローリングプレス)」を創刊。国内と海外へ発信していきたい強い思い、復興への思い、そして震災で気づかされた人との繋がりについて話してくれました。 がんばっぺ石巻 荒川さんプロフィール Rolling Press ローリングプレス Facebook Rolling Press ローリングプレス ブログ 地震が起きて、ええ、その後自分も事業所の中を確認して、でまあ大津波警報だとラジオ聞かせて、大津波警報が来てるってんで、事業所からその撤去させた後になんで私が一人残ったかと、やはりあの、人の命は尊いものだってのをやっぱり身にしみて学んでいた事だったので。まあ最後は自分の命が亡くなっててもやっぱり守らなきゃいけない。仮に、た、例えばあの、従業員が亡くなってしまって私が逃げて助かってたらやっぱりあの、社会が周りがどう批判しようと自分が一番いや、嫌だろうなと。だからそれで残って確認しようと思ったのが結局自分はまあ助かりましたけど、危ない思いをした訳ですよ。でもそれは今になって見ると、やっぱりそういう運命でその後に、の活動てか生き方に私があの、生かして生きてかないといけないんだろうなと思ったんです。 でそん時は今まで日本の国としてはそういう災害が、自然災害があった場合に個々の事業所に支援をするっていうスキーマは何もありません。ただ今回は甚大な災害なんで何か国にね、あの訴えて、何か考える、考えたいと思いますっていう話を受けて私たちもそれ是非、その、雇用をこれからあの、喪失守るためにもそういうかた、何か支援をいただきたいっていうような事を陳情したんですね。でその一ヶ月後に4月の半ばぐらいに声がまた掛かって。で、実際にはどうだったのって聞いたら、いやあ現状では新しいスキーマない。ただその、あるとしたらその、国からのあの、緊急的な融資で、近隣が安いものだったら借りるできるよっていうスキーマしかないと。でその、えーそのやったのは古藤野っていう方と松本さんっていうのがあのう、声かけて、いやそうじゃなくて自分たちでやっぱ立たなきゃダメだから、と言っても個々じゃ無理だから集まろうってことで、確か、5月だったと思うんですけども。そこで、元気、石巻元気、被災企業元気復興委員会っていうのを作ろうって事で。 私、青年会議所ってのは40までで、私は37で初めて3年間しか所属してなかったんだけど。あのまぁ社会に奉仕して、仲間をつくっ、大事にして明るい未来を作りましょうみたいな信条を、3信条ってのをあげてて活動してるんですけど。まぁボランティア的な団体ですよね。でそういうのでまぁ、なんとか町おこしをしようとか社会を良くしようっていう志を持つようにこう集められ。持って集まるんじゃなくて持つようにこう勉強してから入らないみたいな誘われて。僕も最初は断ってたけど、たまたまあの、私のあのう同級生があのうその代表になるからってんで強く引っ張られて、じゃ3年間だけだけどやってみっかっていうような感じでね。そん中でその松本さんなり、ええ今朝会った山形くんなり知り合って。ええまぁいろんな、腹を割って話せる、いろんな事を。まぁ政治の事とか、あの宗教の事とか仕事の事とか業界の事とか。もう業界違くてもこういう、こうなんだ、とんでもねぇなぁとか困ったもんだなぁとかっていう、実はこうなんだよみたいな話を腹割ってさぁ、あのう話せる仲間が何人かいて。まぁそういうのしてから声が掛かってあの、陳情に行くよってのがあの声掛かったんで。多分その団体とかそういう仲間がいなかったら私も孤立してて途方に暮れてていたと思うんです。

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