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石巻

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佐藤幸弘さん

インタビュー一覧へ戻る 名取市出身の佐藤幸弘さん。閖上の人と関わるうちに、閖上の人の温かさを感じ、恩返しをするために閖上たこ焼きを販売しているそうです。 閖上たこ焼きの将来 Q: やっぱりこれからもこの閖上たこやきをみなさんに伝えていく、おいしく食べていただくって形で続けていきたなって感じてますか? そうですね。できる限りは続けていって、僕が仙台とかいってたこやきをやることによって、閖上っていう名前がついてるんで、閖上っていうのを知ってもらえるいいきっかけかなと思います。 Q: 仙台とかでも売られたりするんですか? そうですね。仙台行ったり千葉、福島、東京も行ったね。 Q: ほんとですか? 2回ほど行きましたね。 やっぱりそういうこともどんどん発信していけると、やっぱり知るっていうことが一番大事じゃないなっていう 閖上っていう字も読めないっすよね最初。 すごい面白い字かくなっ思って。 それでね、閖上たこやき売って、閖上っていうのを知ってもらって、少しでも被災したところに目を向けてもらえるきっかけになれば。やっていく意味あるのかなって思いますね。 将来のビジョンとしてはそうやってどんどん全国に浸透していけばいいかなって ですね。できれば全国。秘密の県民showとかに出られれば なるほど。 一気に知名度が広がりますね。 はい 防災教育 Q: これからやっぱりあの小さいお子さんとかいらしゃってて。被災した地域としてお子さんにどういうふうに3、11のことを伝えていこう。また伝えないでそこはっていう子供に対する対応は? 被災したっていうことよりは僕は防災。海は楽しいものだけど、こういう一面もあるっとか、こうなった時はこういう風にしないといけないっていうのをまあ今回いろんな形で学んだのでそれをやっぱ子供たちに伝えたいっすね。 Q: やっぱりこう地震がきたら次は津波が来るから高台に逃げろとかそういう取組というかそういう子供に防災を教える取組っていうのは名取市では行われているんですか? どうなんですかね。名取市でしているかは分からないんですけど、自分も防災について勉強しているとこなので、それをやっぱ閖上の人と触れ合うことによってやっぱなくなった、家族とかなくなったっていう人もいるじゃないですか。そういう涙を見てるのでそういう思いをする人が一人でも少なくなるように子供たちに防災っていうのを教えて、そういう被害がもう二度とないようにしてもらいたいですね。 行政に求めること Q: やっぱり行政の土地改革の問題だったりとか意見が対立するものが多いと思うんですけれども、今佐藤さんがこう行政に求めることというか、どういうことしてほしいとかってありますか? 求めることはやっぱり住民の声を聞いて、少しでもそのできるかできないかじゃなくて心のケアというか、みんなが望んでることを少しでも耳を傾けるような政のありかたであって欲しいなって思いますね。 Q: 今あの状態だと閖上の方々からしてみればあまりこう名取市のこう政策にちょっと意見を合わせることが出来ない人がおおいのかって思うんですけれども、そういうことに対してはこれから変えていかなきゃ、変われるってお考えですか? 変われるっていうか変わってほしい。やっぱり住民あっての町じゃないですか。ただね、町を作る基本って行政にあると思うんですけど、行政のやり方はやり方であっていいと思うんですけど、そこに住民の希望とか意見を少し反映できるような町になってほしい。内陸に、現地に戻る人もいるじゃないですか。そういう人たちはね。そういう人たちの自分たちの町を作るにあたって精いっぱいサポートしてもらいたいと思うし、内陸に戻る人は内陸に戻る人のサポートを一生懸命にしてもらいたいし、他にもともと内陸に住んでいる人たちもいるわけですからね。閖上だけっていうわけにはいかないと思うんですけど、そんななかで、住民あっての名取市であってほしいかなと、希望は。それはね僕だちがなにかできるもんじゃないので、議員さんとか、そういう代表の方たちが一生懸命やってくれてるので、僕たちがあまり言うことではないけど希望はそうであってほしいと思いますね。 閖上の人 Q: 先ほど閖上の人は困ったときに助けてもらえるっておっしゃってたんですけど、やはりその名取市に住まれてて閖上に住んでない、外からみても閖上の人は地域の人と比べて違うと感じますか? 僕の場合たこやき閖上のたこやきをやるにし、やっぱりお金の面でも、何かの面でもやっぱり大変な時があるじゃないですか。その時に味だったりとか、味も結局閖上の人が食べてくれないとわからない。そういう時にこう事細かにアドバイスくれる人が出てきたりとか、場所がないって言ったときに、じゃあうちの場所使ったらって言ってくれたりとか、今までずっと車を借りてやってるんですけど、車が借りれなくなるっていうときに、金かしてやっから車買えよって言ってくれるのも閖上の人だったし。困ったときにそっと手を差し伸べてくれる人が閖上の人だった。だからそういう感謝っていうかそういうのが自分にとってはプラスになっているので、そういうめんで違う形で恩返しをしたいっていうのがありますね。 コミュニティー Q: やっぱり閖上の方々は、一緒にこういう仮設で住んででコミュニティーを築かれてて、バラバラになるのがやっぱり嫌だっていう方がいらっしゃると思うんですけど、そういう気持ちを持った方との、やっぱり、その場で移転されて、一緒になればまたそこで新しいコミュニティーを築けるっていうふうに考えられますか? まあその時点で新しいコミュニティーはできると思いますけど、時間かかりますよね。それまでがやっぱり、自分もこう知らない土地に行ったときに、やっぱり最初からコミュニティーって作れないじゃないですか。 やっぱり、そうですよね。先ほど玉田さんとお話をしてたんですけど、やっぱり3年間ここに、ここのコミュニティーに住んで、やっとこうこの仮設に住んでみんなと仲良くなれたっておっしゃってたんで、移転した先でもそれが一番変わっちゃうのかなっていうふうに思うんですけれども。そこはやっぱりこう助け合いで解決できたりとか。 そうですね。僕去年の4月かな。初めてここにきて、たこ焼きを無料で配布しますっていって来たんですよ。その時にまあ、その時と、この間ここにきて、まあ1年ちょっとたって。まあみなさんの表情も違うし、コミュニケーションの強さっていうか大切さっていうのを、改めてこないだ、見て感じたので。それまでは、仮設自体が少なくなっているのは復興の1つとしていいことなのかなって思ってたんですよ。でもこないだ来て、おばちゃんとかの顔をみて、コミュニティーがあるからこそ、みんなで強く生きられるっていうのを感じたので。そのコミュニティーがね、やっぱバラバラになったり、最初から築くっていうのは難しいことだと思うので、ぜひこのままいい形で続けられたらいいんじゃないかなって思うけど。 インタビュー一覧へ戻る

石川ふき子さん

インタビュー一覧へ戻る 震災があった年の6月に、妹さんと愛島仮設に移ったそうです。 移転、将来の住まい Q:いつからこの仮設に移動されたんですか。 えっとね、6月。3年前の6月だから何年だろ。20、23年。23年か。の6月、始め。うん。だから1年更新の契約。1年契約なの。ここに入ってるの。だからなんかあれば、もうなんか出てってくださいって言われたら、はいそうですかって出ていかなきゃなんないのね。何か問題起こせばね。うん、だから6月になったらまた新しく、また、契約。更新、更新かな。なんていうのかな、そういう、そういうのをしなくてはなんないのね。だからそろそろ来るなーと思って。みんな最初は言ったときは1年契約だと思うのね、ここね。うん。 Q:これからってどういうところに住みたいとか決まって・・・ いや、ありますねー皆さんやっぱし。西、あの、ん、高速道路。西川。西川ってとこの気候は好きなんだけど、まあ正直帰りたくないね。私は津波は見てないんだけど、やぱっし映像で流れる、てるのを見る、てポンていうのをしたらあれだけども、あの、津波のときはもう私、もうすぐにね、上に行ったから。映像で見てね、あれが恐くてね。うん。(10:47・・・)やっぱし、住むとこないから。うん、公営住宅?そういうとこに入るより他にないですよね。 もし代替地。お金も、うんぬんで代替地もらったとしても閖上なんですよね。うん。閖上からちょっと離れたとこ。そったらもう同じことだなあと思って。うん。閖上に、戻るほか、ないなあって。ちょっと若い人たちの子供さんもいるしね。なんか将来的にさ、子供たちの将来もあるし。若い人たちは家、土地、求めてね。うん。出てってる人もいるし。準備してる人もいると思うのね。うん。私は私で60過ぎると、この、市の、やってることに従うほかないです。行くとこないですもん。うん。自分で食べなさいって言われても資金ないしね。子供たちも独立してまあお母さんに迷惑をかけないようにとね。うん。 仮設でのくらし Q: 仮設の、この生活っていうのはどうですか。どのように感じてますか。 ねー。ちょっと贅沢言う、うーん。苦痛に感じるときがある。で私、狭いって言ったらばあれだけど、まあ私は、贅沢させられてきたと同じなのね。嫁に来て新しい家に住まわせてもらって。失礼だけど貸家ってとこには、あの、そういうとこに入ったことないから。もう、来たときはね、狭いし、二部屋分も、二部屋分しかなくて、もう圧迫感が凄かったの。うん。そういう贅沢っていえば贅沢、ね。新しい家に住まわせてもらって。貸家なんて入ったことないから。だ、戸惑うとこもあるのね。やっぱしこういう思いには聞こえんだけど、生活音って聞こえるわけじゃない。水道の流れた音とかね。そういうの経験したことないから。やっぱし凄い圧迫感はあって。そーだなー。夜眠れないでしょ。眠れないから家で(13:13・・・)家の娘って帰ってくるの遅いのね。んーなんかあの。朝方の1時半とか2時半に帰ってくるから。私寝ないで待ってる、待ってる時もあるんだけど、やっぱし体が具合悪くなる。寝てないし。だから導入剤っての。あれ飲んで眠りはしてるんだけど。あれ飲んでも一晩でも眠れないときあるの。そうすっとおかしくなってくるんだろうね。だから夕方でも、車でどっかいこうって。私が運転できないから。お父さん、車でどっかにいこーって。誰、誰が運転するんだーと。俺運転するんだぞーって。うん。ほんとにほら、本当に、申し訳ないんだけど、もう、ここに居たくないときあんのね。うん。あの部屋もう、一人でいると思うと。うん。贅沢な悩みね。これね。住むとこないひともいるんだから。んな、贅沢な悩みだなーと思うんだけど、やっぱし、ね、一軒家。貸家でもいいから一軒家には住みたいなと思う。でも2階っとかは私嫌いだから。しんどい。年とってるから二階に上がんなきゃいけないでしょ。一軒家。うん、一軒家に住みたいなー。それを今希望してるんだけど、抽選になれば。抽選だから。抽選外れればどこにいくかもわかんないし。ここ2年くらいでできれば。あと何年ぐらいかかるか。ちょっとね。一応28年とか29年にできるっていうけどもね。うん。一戸建てのほうができるの早いんですって。だけど、そこに入りましょってすぐはいれないでしょ。 心の支え Q:そういう生活をされてる中で、なにかこう、支えとな、石川さんにとって何か支えとなるものってありますか。 うん、うん。特にね、あの、第2水曜日と、第4水曜かな。手芸の先生が来てね、教えてくれる。お裁縫教えてくれるの。お裁縫教えてくれるの。今そこに、ああいうのね。(15:24・・)うん。そういうの教えてもらって。縫ってるのね。今は、これ3月だけど、今5月バージョンで、男の子も作ってんの。うん。糸とか針とか持ったことないんですよ。うん。針とかね糸とかなんかとおしたことない。雑巾ぐらいは縫ったことあるけど、それお裁縫なんてしたことなかったの。ここ来てから、いろいろ、ね。うん。 Q:その手芸を始めたいって、そういうイベントに参加したいって思ったきっかけはなにかありますか。 うーんやっぱしね、やろうっていう人から誘われて、やってます。できるから、私らも初めて、ね。針とかぬったこともないのにできてるんだから、できるから大丈夫だよって声かけられて、やるようになったのね。うん。本当にね、恥ずかしい話、糸の種類、針の種類、全然わかんなかったの。この歳になるまで。うん。あっと、やっぱし糸があるっていうのはわかってたけど、針にね、あのー、絹針とかいろんなの、全然わかんなかった。初めて分かった。ほほ。(笑い声)恥ずかしい話。わかります?全然そういうのわかんなくて私。うん。ね。針も種類あったんだーと思って。この歳になるまで。ほほ。(笑い声)これやってる感じで、あ、絹糸はこれだなーとおも、木綿とか。あと、穴糸っていうのもわかんないね。そういうのやってみないと。うん。 Q:そこで初めて知り合った方とかいらっしゃいますか。 閖上はね、顔見知りはいたんだけど、名前が分からなかったの。こんにちは、おはようございますって挨拶するぐらいで、なんも話したことはないんだけどここに来て、お友達になってね名前分かって、同じ2町目の人なんだ~って、うん。ここにきてからやっぱりみんなと話してね、名前分かって、話するようになって、あと夕方6時くらいかな、散歩。みんなで歩いて。 インタビュー一覧へ戻る

羽賀 慧さん

宮城県柴田町出身、お住まいの20歳。取材当時、東北学院大学の2年生。佐々木さんや神さんと同じく、東北学院大学のサークル・災害ボランティアステーションのメンバー。現在その活動の一環で、私たちのビデオインタビュープロジェクト同様の「メッセンジャープロジェクト」のメンバーとして2013年の夏に主に活動されていたという。 1.メッセンジャープロジェクトを通して: 被災地⇒「復興地」 Q.実際に自分たちが、たとえば事前で調べて分かった情報とか、テレビでうつされている情報じゃない、本当に生の声を聴けたことってありますか。 A. 一番衝撃的だったのが、あの、気仙沼唐桑町の、唐桑旧小学校仮設っていうところがあるんですけど、そこの会長さんに言われたことで、その被災地っていう言葉を使わないでほしいってことを言われたんですよ。それにはほんとにハッとして。まずメディアでも、被災地の今っていう番組があるんですよ。もうこの時点で被災地っていう枠でくくってるじゃないですか。でも実際、現地の人にしてみれば、瓦礫は片付いたし、生活のインフラは安定してきたし、別に被災はしたけど、現在進行形で被災地ってわけじゃない。過去が被災地であっただけど、今は「復興地」みたいな言い方をしなきゃいけないのに、メディアとかはその被災地って言葉をまだ押し付けているってことですかねえ。なんでやっぱりこういうことが聞けるので、現地にはいかなきゃいけないって風には思いますね。 2.ボランティアとは「両立」: 自分のためのボランティア、人のためのボランティア Q. 羽賀君が思うボランティアってなんだと思いますか? A. そうですね。俺が思っているのは、自分のためのボランティアと人のためのボランティアっていうのを両立する、と思いますね。人の為だけにやるって言うのは、ちょっとおれは間違ってると思うんですよ。人の為、100パーセントひとのためっていうのは無いと思うんですよ、ボランティアから自分がまなぶことを否定してると思うんで、まあ半分くらいは人のため、あとは半分くらいは自分の為、自分がまなぶためって風に考えて、俺はそういう風に考えてボランティアしてますね。 3.将来への目標、計画:近場で復興に携わる Q. 羽賀君自身が今後自分の将来においてなにか建ててる目標とか計画とかっていうのは何かありますか? A. そうですね、今の時点で、また変わるかもしれないんですけど、今の時点では、結構具体的になってくるんですけど、自分はその宮城県職員として、宮城県の為に働けたらいいなっていう。で、それで行政職だとそういういろんな企画とか、ボランティア関係の企画とかっていうのもできますし、宮城県全体の仕事もできるので、なんかそういう人のためになるような仕事ができたらいいなっていう。で、それを通じて近場で復興、復興だけじゃないですけど、近場で復興を自分で考えていきたいし、少しでも力になっていきたいと思っています。

花坂明恵さん

花坂さんは吉田さんや工藤さんとおなじくNPO法人六郷七郷コミネットで勤務されています。福島県郡山市の生まれで、2歳からずっと仙台に在住。 1.仙台という地元への思いと将来 https://www.youtube.com/watch?v=0oyul0j_ZfM Q. やっぱりこう、仙台のところに長い間住んでらっしゃってのその3.11だったってことで、やっぱりここの地元にかんしての地元はつよかったりだとかしますか? A. そうですね、長く仙台に住んでいて、私もやっぱり歴史が好きで仙台が過ぎく好きなんですけど、すごい面白い歴史をもっているし、先祖代々、私の家はずっと仙台なんですね。100年とかたぶん200年とかそういう単位で私の家はいるので、もちろんずっと住んでいたいなって思いはあるんですけど、なかなかやっぱりずっといることは、就職的な意味でも、やっぱりもうちょっと外に出ていきたいなって言うのもあるので。 Q. 外っていうのはこの県からの外ってことですか A. はい、そうですね。将来的には出て行ってしまうかもしれない。戻ってくることがあるかどうかはわからないですね。 2.同世代の震災復興への意識・関心 https://www.youtube.com/watch?v=TSHmnTv19M0 Q. 周りの方で、たとえば同じ年代の方で、積極的に活動してらっしゃる方とかいらっしゃいますか?知ってる友人とか A. インターネット上での友達とかたまに最近はないですけど、本当にヒサイチがまだ泥だらけの状態だったときにしょっちゅうこっちのほうには来てたっていうのは見てたんですけど、ほんとに自分のこう身近な友達とかはもう一切興味がない(笑)震災のその被災地に興味がないので、やっぱりいっしょによくご飯食べにいったりとかお茶したりとかまあ休みがあって、3人くらいの人に会ったんですけど、まあそれ以上かな、前の職場にも言ってみたので、けど誰も聞いてこないですね。私の仕事に関心が無いですね。 Q. それっていうのは時間がたってしまったからそうなっちゃったのか、もともと県外の人だから、とか、・・・ A. 周りの人はみんな仙台の人で、だけどみんな親戚とか被害受けてないんですよね。自分たちがやっぱり山の方にいるから全然見てない、現状をみてない。いろいろあったってことはわかってるけど、むしろあえて触れないってことはあると思いますね。 Q. あえて触れないってことは、今更そういうことを話すって言うことに対しての・・・ A. そうですね、結局なんだかんだって言ったところで自分は動かないし、動けないっていうのがあると思います。時間もだいぶ経ってるので。やっぱりなんか、私の周りは、ですけど、みんな仕事がなかなか見つからないとか、自分の将来に不安を持っているひとが多くて、そうやってひとのことまで考えてる余裕がないっていうのが大きいです。まあやろうと思えばたまにお休みくらいはでてきてなにかはっていうことはあるのかもしれないですけど、そういったことをするほどの情熱はない、ですね 3.危険区域へ戻ること=悲しいことの繰り返し https://www.youtube.com/watch?v=MCx_yUq9V1k Q. なんか、お年寄りの方にお話しを聞くときとか、その3.11前のその生活に戻りたいとかなんかそれ以上はもとめないから元の生活に戻りたいってお話する方が多いんですね。今言ったのもまあそんな感じですかね。3.11前の仙台市のように、それ以上は求めないから、復興していってほしいっていう A. そうですね。でもまあ、あの危険区域の方にはやっぱりひとはもうはいらないほうがいいんじゃないかなってふうには思いますね。みんな荒浜の人たちはもどりたいってふうには言ってるんですけど、被災を受けた人たちの台でおわりにするべきじゃないかなって思います。はい。また同じことを繰り返すのは、やっぱり悲しいことの繰り返しになってしまうんじゃないかなっていう。いまのそのもどりたいってひとの気持をむしするようなかたちになってしまうんですけども。

吉田圭俊さん

取材当時26歳、仙台市泉区出身の吉田さんは現在NPO法人六郷七郷コミネットで勤務。震災をきっかけに復興関係の仕事につくことを決めたそうです。 1.将来への展望の変化、就活をやめるきっかけ Q. 東京に行かれてたってことで、就職先とかって最初は東京の方で考えてた・・・ A. 最初は東京の方で考えてたんですけど、まあ震災のえいきょうもまあ少なからずあるにはあるんですけどね!まあ結果的には就職活動やーめた、と(笑)震災を機に全く就活はしてないですね。 Q. じゃあその震災、その3.11の前に掲げてたじぶんの将来設計図じゃないですけど目標と、やっぱりその日が起きてからって何か大きく変わった部分ってありますか? A. そうですね、まず仙台からは当初出る予定にしてたんですね。震災をきっかけにですね、まだ離れられんなと。いうきもちはどっかにあったのかなって。今の仕事に就く前に、半年だけ別の仕事をしていたものですから、まあむしろその卒業したあとにその気持ちは強くなったっていうほうが正しいんですけど。 Q. 一応じゃあきっかけとしてはその、3.11が心境的に影響したっていうのは A. 少なからずあるなと。 Q. どういう気持ちがあってこちらに残ろうと思ったんですか? A. まず一つは家族ですよね。両親、父親が単身赴任で東京にいますけど、母親はずっと仙台ですし、兄たちがいたんですけど当時震災直後くらいはちょうど仕事で実家を離れてましたんで、まあ母一人っていうのはあって、まあはなれにくいかなっていう、心配っていうのがあって。それから、純粋にその自分の生まれ育った町っていうのが震災でかなり大きな打撃を受けて、でも自分はそのふっこうにかんして何もできないのかな、何か貢献できることはないのかな、あるんじゃないかなって言う気持ちはあったかな。ほんとにそれは卒業した後ですね。どちらかというと前まではあまりそういうことは考えてなくて、むしろ大学を卒業することに必死で(笑)っていう状況ではありましたね。 Q. そういう思いもあって今のお仕事に就かれているっていうのがあるんですか? A. そうですね、まあ結果的には。まあなにかしらそのずっと、なんていうんですかね、その震災直後は泥かきながらとか、何かしらかかわりはあったんですけど、その後大学が始まったあとは卒業研究の方で忙しくなってしまってなにもそういったことに関われずに、大学卒業して。で、それから仙台にしばらく働いてて、まあある日その被災した沿岸部まで車で行った、出かけたんですよね。あれが、震災から1年3か月?ごろに沿岸部に行ったら、基礎だけの。前は家がいっぱいあったんだろうなっていう後だけ残って、でもそこにそのまあ人の暮らしはもちろんもうないんですね。そういう惨状をみて、あーまだまだ復興・・・仙台駅前なんかね、1年3か月たったらもう綺麗になってましたけど、まだまだ沿岸部はそうじゃないんだなと思って。自分何やってるんだろうなっていうふうな思いになったですね。でそれで、たまたま縁あって去年の10月からなんですけど、平成24年10月からいまの仕事についたんですけども、まあこういった仕事を挑戦してみないかとお誘いを受けて。まあその知人からの紹介というか、知人がこういう仕事あるよって紹介してくれて、でとりあえず応募だけしてみればって言われて、わかりましたーじゃーやってみるーって。そして前までやってた仕事辞めて、で今の仕事に就いたっていう経緯ですね。震災っていうよりも、震災から復興してたような気がしてたのに、1年3か月たってなお全然そうじゃなかったっていう事実を知ってしまったことがどちらかというと僕にとって大きな今の仕事に就いたきっかけなんですね。むしろ。最初から、大学卒業した四月から震災の復興に関わる仕事をするんだ!っていう気持ちで卒業したわけではなく、どちらかというと卒業したあとに被災地をみて、なんかしなきゃっていう。ていうのがあります。 2.不謹慎⇒ポジティブに。震災直後の「若者的発想」 なんか特別、話すのがはばかられる、ていうのはない。まあ逆にその被災された方、実際今仮設にお住いの方とお話してるときに、じゃああの日はどうだったの何だったのみたいな話はね、どん!とはいきなり聞けないですけど、ただあの日内陸にいた連中でそのまあ大学の同期の中での話だと、当初はわらいがなかったのでわらいを生み出すためになんか面白いことやろうとかいっつも考えてましたんで、震災から1か月後にそれこそTwitterとか使ってみんなで男たちはみんなで水もろくに使えなかったので、ひげそらずにひげを伸ばして誰が一番カールおじさんになれるかとか(笑)そういう選手権をやったりとか、あとその関東地方でその、あの年の花見って自粛ムードだったんですけども、そんなんじゃ経済まわんなくなんじゃんっつって、まあ不謹慎っちゃ不謹慎なんですよ、一か月後にそんなことやるなんて。じゃあ仙台でも花見スポットで有名なつつじヶ丘っていう公園があるんですけど、そこでじゃあ2泊3日で花見やろうぜ!とか言って(笑)ずっと公園泊まり込んで花見やってたりとか、あえてそういうバカなことをしようっていうか、その若者的発想ですよね。ひとつね。だからまあそういうことをしたねっていう笑い話くらいはしますけど、ただ、ほんとにそのことについて友達同士で話すっていうことに関しては、まあ今さらってか、まあ笑い話には出ないですよね。なんかちょっと話すのがこう、今更?っていうような感じはあんまりしないかなと。まあでも僕がこういう仕事やってるって言うのは周りのみんな知ってるので、まあ自然とね、そういう話になったりもしますし、うん。 3.10年後の自分、復興にかかわることについて 震災当初って、泥かきとか、肉体労働ですね、そういうわかりやすい支援がいっぱいあって、そういうボランティアがいっぱい求められてたっていう背景があるので、じゃあこの3日間だけボランティアしよう!っていうのはやりやすかった。でも、いまってそれないんですよね。いまってどちらかというと継続的に支援をしてっていうようなボランティアで、あと専門性の求められるボランティアとか。そういうのが増えてきてしまって、実際じゃあ若い人にできるボランティアってなんだろう、あるいは時間のあるひとにできるボランティアってなんだろう。若い人って皆さん忙しいんで、なかなかその継続的にとか、あるいは平日の昼間っからって難しいと思うんですね。だからそういう人たちがどういう支援ができるかなあって僕もその辺すごい、こう、考えちゃいます。まあひとつ、やりかたとしてはチャリティーイベントを企画して寄付をっていうのはありかなと思いますし、僕個人的に勝手に、外側の支援なんて言い方してるんですけど、その、このチャリティーイベントの収益金は被災地の復興のために使いますよっていうような、まあそういったそういうような機関に、あの、現金として送られますっていう名目で、まあイベントを起こしたりとか、あとはその実際被災地に観光というか、まあその被災地見学とかを通して現地にお金を落としてもらうようなそういうツアーを組んだりとか。まあそういうツアーに参加してもらうことで、その、被災地の現状を知ってもらったり、あるいは飲食あるいはモノを買うということでお金を落としていってもらう。それはその、被災地域の活性化につながるので、まあそういったところで・・・まあほんとにお金お金お金!みたいな(笑)話で嫌なところなんですけど、実際に行っていただいてお金を落としていただくか、そのイベントなんかをやって、まあその、間接的に現金という形でまあ復興のために活動していただいたりですとか。あとはそうですね、ほんとにその若い人にできる事ってなんだろうっていうのは、実際関東関西の若い人たちにとってももっと難しいと思うんですけど、こっから支援ってなにすればいいんだろうっていうか。地元に住んでても、やっぱり大学生が支援をしたい、けど何が出来るのかっていうのがわからなくて、何もできないって言うのは聞きます実際。支援の入り方が分からない。

増子 理香さん

インタビューページへ戻る 増子理香さん つながらろう!放射能から避難したママネット@東京 繋がりや情報共有の大切さ http://www.youtube.com/watch?v=wUoiLn2LV6o 「2011年の..実質的にいうと6月に作って…でお母さんたちの繋がり、とにかく情報がなくて…で、私は自主避難者なんですね…強制避難の人と自主避難っていうのはコミュニテぃーの中で大きく分かれているんですけど…自主避難した人たちは避難先も自分で選ばなきゃいけないし、で、その…支援とかも本当に薄かったのでとにかく繋がりがなかったので…すごく孤独だったし不安だったんですよあの時..2011年…でとにかく「繋がりたい!!」って思って…それで1人で繋がって!って言っても仕方がないし…器を作ったらどうかなと思って作って…それで偶然立ち上げるきっかけになった時に、あの郡山って福島県郡山市っていう大きな市があるんですけれどもー…そこから避難したお母さんと偶然巡り合うことがあって、人の紹介で…で、その方とすごく意気投合して、「じゃ、その会を開こう」って言ってー…会場を探して定期的にその会を開いて」 自主避難者 http://www.youtube.com/watch?v=oV1ROxRDYVQ 「最初は私達避難したお母さんたちで、やっぱ避難できるってことはー..ごく一握りの人たちなわけですよ…福島の中で6万人の方が避難してるって言われてるんですけど、でも福島全体…福島の人口からみると強制避難じゃなくて自主避難で見ると…その人たちは恵まれてる人、タイミングも多少お金とか人脈に恵まれた本当にラッキーだったっていうしかないんだけども。」 避難するかしないかは人それぞれの価値観により選択される http://www.youtube.com/watch?v=-Ma8eHWl3Yk 「関西の人からすると「関東なんて住む所じゃないよーじゃないんだからもう避難してきてよかったわねー」って東京の人が福島の人を迎えるかのように関西では関東の避難者も東北の避難者も全部同じ。沖縄になんか関西から避難してる人もいるもん。「関西なんて、本島なんて住むところじゃない、住めないよー、沖縄にいらっしゃいなさいよー」「本島は汚染されているわ!」みたいな、こっちオスプレーだけどーみたいな。うん、だから世界から見ると「日本になんか住んでないほうがいいわ」みたいな、これは大なり小なり違うんだけどもやっぱり汚染っていうのはね、、すごく避難を選択するっていうのは個人の判断になってくるとは思うんですけどねー」 親子供、学校、安全宣言、情報共有 http://www.youtube.com/watch?v=a6aY8BZAKGA 「日本の被ばく許容量ってあるじゃなですか、それが年間1ミリシーベルトだったんですよ。それ以上被ばくしてはならないって国が定めてて…それを11ミリシーベルトって超えてても避難区域ではないのね…で、ここ通いなさいっていうし授業中はマスクしちゃいけませんとか言うの、とか「学校の水道のお水は安全だから」ってうちの子はペットボトルの水を水稲に入れて学校の給食のときとかに持ってかせていたのだけども学校の先生に「学校の水道は安全だから水稲はだめ」って娘さんだけダメって言われて…で、子供はいろいろな情報の中…、私が結局はこういう風に避難したような母親なのでそれなりのそういう情報を与えている家庭にいたから、学校のお水も飲まなかったし水稲のお水も飲めなかったし、学校では一滴もお水は飲まないでおうち帰ってきたりとかしてたのね。そんなの可笑しいでしょ?小学校1年生、6歳ですよ6歳。そういうのが普通…だから親が抱えているような乳幼児だったら親が守るような事が出来るのだけれどもー小学校とかましては高校生だったら部活あったりこういう問題で…親が子供を守りたいと思うような気持ちがあっても思い通りになんなかったりーそういうのですね」 素直に話せない空気 http://www.youtube.com/watch?v=PIcF4d9_vaM 「おっしゃる通りで、親しい人ほど話せない状況であったりするので、私が一番話せない…放射能について話せないのは夫。 夫に相談ができないのが、不安を話せば「そんなこと…」ってなるし、「大丈夫だよ」って帰ってきてほしいから、で、「そんな困難があるってことだったらそこにいる意味ないじゃん」とか言われたりとか 「甲状腺がんが福島の子に見つかったみたいだよ」って言ったら「お前たちは東京にいるからがんにならないわけないじゃん、東京の郊外とかどうのこうの」だとかさーそりゃそうだよって思うけど… どんどんこう話しをすり替えられたりとかなっちゃうから口論になるんですよねー。 だから話せないようになったんですよー。くだらない話しですけど、この間知り合いの娘さんが高校受験をするっていって 「公立受験するはずだったのが私立の大学に付属の高校から推薦を取れてすんなり入れたんだー」っていう話しをちょうど電話できたから 「何々さんの子供さんが推薦とれてうちの子もそうで来たらいいよねーー」って言ったら「それまでいるのかよ、何年先までいるのかよ」みたいな話しとかにスラっとすり替わって、 やっぱり当事者だからそうなっちゃうんですけどもー本当に喋り…喋れなくなりましたねー。実際向うに残ってる分家の親族とか子供の繋がりとか切れちゃいましたね…うん…たまに帰ったりするときとかにーカフェに行ったりとかするのだけどーなんかこう「避難どう?」っていうのはなくーで、言葉に詰まるから私が「最近どう?」とか聞くじゃないですか、そこにいる人達にー…「んー変わらない」とか言われて「この前もプールやったよー運動会やったよー」ってだからなんかこう、あえて不安じゃないわ的なオーラを出して…話す」 震災から3年経って… http://www.youtube.com/watch?v=DevI2-O0gQs 「私今一応福島のお母さんたちのネットワークの、別に一応代表なんですけどー別に世話人をしているわけではなく…やっているんですけどー…福島から避難してる子供達のお母さんとか2011年から考えると大分..本当変化していって課題とかも不安点とかもやっぱりすごく変化していってるんですよね。で、最初のころはさっき話したんですけども2011年に自主避難している人たちは会えるだけで「私も避難者」「私も避難者」っていうだけで嬉しくて交流会あちこち..特に東京とか支援者が多く開いて…そこに行っては知り合って、巡り合いの喜びがある時期だったんですけどー2012年のやっぱ後半ころからだんだんやっぱり変わってきて、そのそこでもう楽しく交流するっていうよりかは、どうやって生活していくかとか戻らないだとか、得に自主避難者は勝手に避難しているわけだから勝手に帰るわけですよ。」 家族関係、お父さんの心理、震災離婚 http://www.youtube.com/watch?v=xj_FwfNv18E 「後は、ケースとしては残ってるお父さんが病んじゃったりで家に火を付けて自殺したお父さんもいます。本当に家が全焼しちゃって結局なくなっちゃんですね..「帰ってこないならば離婚するー」っていう夫と離婚しちゃった人もいたりー…とかどっちが寂しいか考えてごらんよって言いたいんですけど…かえって来ないよりは離婚を選択をする。とかたまに長期でたまに休みがとれたから福島にかえって福島の家を開けたらそこに離婚届けがあったりとかーあって、旦那さんの荷物全部なくなっちゃってたりとかでーとか結構“震災離婚”って聞くと思うんですけどもー本当に多いんですよ震災離婚が…本当に色んな家庭があるからー母子非難を支えてくれる旦那さんもいればーうちみたいに微妙な立場の旦那さんもいるしー..もう毎週毎週会いに来て支えてくれる人も、旦那さんも、もう本当色々なんだけどーとにかく、旦那さんたちもどっちかっていうとアンチの人がそれでお母さんと子供が選択を迫らなきゃいけない時期に、特に今3年たって、4年目になると結構節目じゃないですか3年って「もう3年」という言葉があるようにーようにどうするのって迫られていかなきゃいけない時期でもあるのかなーってなりますね。」 言える環境、避難者の感情、子供 http://www.youtube.com/watch?v=taShE37s0do 「皆が隠さずに言えるとね、色んな意味でもまた変わってくるとは思うんですけどもー…なかなか難しいかなーとは思う。だから支援者として何が出来るかってよく聞いてくださるんですけどー…ね、なんかね寄り添って忘れないでもらいたいですねー。なんかこう色んな事を相談したりとかする色んな所にで、例えば今までもあったかと思いますが、色んなことの相談とか愚痴だとかあった時に話す人って完結したいわけじゃなかったりするわけじゃないですかー…なんか…肯定…呼び止めてもらいたいときが多いから、だからそういうのが一番の支援かなって思いますよね、だからその手前にあるのは聞いてくれることなので、一番の支援じゃないですかねー。はい。今この人がどう生きていくことを支えるかっていう事に変わっていってますよね、で、私もよく色んな支援者とかに、「去年まではいわての方に毎日毎週毎月とか行ってたのだけども、もうやめちゃったとかって」言って。「なんで?」とかって聞くと仮設とか色々回ってたんだけどー…俺が言っても私達が行ってても変わらない。だから変化を求めていく人は変わらない事に疲れてくしー..でも変化…結果を求めるんじゃなくて、その個人のパーソナルをサポートしてあげることができる、あとはこの人がどうそれで力を得ていくかじゃないですか。だから結局判断するのはその人じゃないですか、いくら結婚しなさいっていったって判断するのは自分じゃない?海外で仕事があるからってそこに行くかはどうかはどんなに条件が良くても自分の判断。判断するまともの精神力とかまともな感性だとかまともな道徳的な考え、間隔がやっぱり被災地の人たち仮設に住んでる人達は保てないんですよね、だからそれはそれを支えてあげるのが一番、一番、いちばーん!!根本な支援かなと思うんですよねー、物をあげる支援は固定先の支援、段階があるんだと思うんですけどもー…私がどう強く生きていけることを支えて、守ってくれてるかって考えれるようなサポート。、その考えられる余裕を作ってくれるサポート。が一番かな。」 イジメ、子供、学校、 http://www.youtube.com/watch?v=9xETORgCz9c&feature=youtu.be 「一番初歩的な問題はイジメでした。新聞で見たことあるかもしれないけども、2011年辺りは避難してきた、得に原発から避難してきた“福島”ってついた名前の子供に石を投げたりとか入館拒否があったりとか、ホテルでの宿泊拒否もあった。本当に…ちょっとプチ避難みたいな事したでしょ?3.11のときって。そうすると関西とかで、何…受付のカード書いて福島って書いたときに「ちゃんと検査してきてますか?」とか「当館ではちょっと検査してないスクリーニングっていうんですけども、大分被ばくの検査してない方々にはちょっと宿泊できません」とか言ったりとか、関東では多分なかったと思うけど、いっぱい受け入れたと思うけど関西だとかだと新聞に結構出てたりとかして。ほとんどの子が避難して繋がってるお母さんたちの子供、ほとんどが小学生ぐらいからそういうイジメにあって、高校生ぐらいになるともうそれが気にならなくなって個人でちゃんと分かって、発言するけどー…小学校だと多分言葉を放った家庭でそういう、なんていうか、放射能のアンチ的な部分も危険性を伝えてるのはいい家庭なんだとは思うけどーそこ、それから先の教育が出来てなくって、ついつい親から聞いた放射能が危ないだとか危険だとかっていう言葉で接しちゃったとは思うんですよ、決して悪気は子供だからないとは思うし。だからそういうイジメは結構あるから我が子がいじめられたってのはありますね。それが言わない理由かなー..うんー…だからすごく考えるより複雑で親がどうこうとかよりも子供達本人の問題としてそれはもう幼稚園年中年長から理解は出来てるしそういう情報で溢れていたからね、当時は特に。まー親次第よ、親。親がどういう情報を流すかどうかだけどー、うん。」 インタビューページへ戻る

松本 俊彦

松本俊彦さんは(株)松弘堂 印刷会社の代表取締役、石巻元気復興委員会の会長としてご活躍されています。会社は倒され、事務所と工場は浸水。その後、同じく会社が被災してしまった経営者、次期経営者の方々を集めて元気復興委員会を作りあげた。以前はライバルだったとしても、今は一緒に力を合わせて頑張る時なのです。石巻の復興への思いや復興委員会で誕生したコラボレーション商品についてお話していただきました。 大変な事もあるけど今が楽しい、復興委員会について さっき石巻は大変な状況だっていう話しましたけど、それとは反面で石巻にはすんごい事が起きてる事もいっぱいあって。まっ、当然、国がこう、石巻に対していろんな、あの、なんて言うんでしょう。国のお金を投入するわけじゃないですか。例えば新しい町を作るっていう事に対して何十億、何百億もお金を投入したり、専門家をいれてきたり、っていう事を石巻は今あるし。日本中の大きなトップクラスの企業が、その企業の価値をどうしようかって。この東日本大震災を通して自分のこの会社の企業価値をどう高めていくかっていう事で、日本中の大手企業が今集結してるんで。で、なにができるか一生懸命さがしている訳ですよ。そんな事が石巻で起きてるし。もう単純な事から言えば、芸能人がわんさと来るわけじゃないですか。 震災前に全く想像しなかった事が、今ここで起きてんです。それってすごい素晴らしい事だし、前は絶対あり得ないことだったんで。たまたま不幸も事がいっぱいあるけど、良い事を探しだす事がどんどん起きてるんで。自分はやっぱそういう事を使って、一緒にその中に飛び込んでいって、非常にこう、自分の人生としてすごい良いんじゃないかなぁ。だからここを離れるつもりもないし、ここにいる事が楽しいですよね。 ボランティアさんも全国から来て。お手伝いいただいて、お手伝いしていたかと思うとここに住みたいって言い出したりとか。そういう若い人達もいますし。だから面白いっすよね。休んでる暇ないですよ。休んでる暇ないって言ったらおかしいですけど。楽しい事もいっぱいあるから、楽しみ続ければいいですよね。 この我々のメンバーもなんかそんな感じだと思いますよ。私と同じように全部、会社がなくなって。まっ全社じゃないですけど。設備を失ったり。まっ中には社員を失ったりっていう方々もいっぱいいますし。でも、根本的にはある程度若めの経営者の人たち、ぜんぶ経営者なんですけど。もしくは時期経営者の方々なんですけど。こういった方々も、やっぱり私と同じようにこう、なだれて、どうしようかって思ってたと思うんですよ。で自分が、この指止まれ、と。同じような人たち、この指止まれ、と。でみんなで力合わせてやろうよ、と。一社でやろうと思うなよ、と。一社でなんかできる訳ないんだ、と。この機会にみんなで力合わせてやろうよ、という事を言ったらみんな、うーん 何になるかわかんないけど一人で悩んでるよりいいな、と。で集まり始めて。でそこに、こんな事できるんじゃないの、あんな事できるんじゃないの、って。大阪行こうよ、大阪行って自分の商品PRしてこようよ、と。いや、大阪行っても通用しないっすよ、って行ってみなきゃわかんないだろ、と。で行けばやっぱ、美味しい、とか言われる訳ですね。是非商品を取引したいと、いう話になってくる訳ですよ。今そういう事をどんどんやって外に向かってどんどん我々はやっていこうよ。震災前は全くやってなかった事だけど、今やれば、目立つ。目立つし、みんな聞いてくれる。だから今がチャンスなんで今一生懸命そんな事をみんなでやりましょうよ、と。 商品を広める、コラボ商品の開発、わかめ専用ドレッシング 今この商品をとにかくどんどん世の中に出していくっていうのが一つ。でそれは詰め合わせセットでもそうですし、そうじゃなくて企業で、例えばどこどこのなんて言う商品を記念品で使いたいとか、そういうニーズがいっぱいあるんでそういうのをどんどんPRしていく事と。後はみんなで力を合わせて色んな商品を開発していこうと、いう事を今一生懸命やっています。 この機会にどんどんどんどん外に自分の会社の商品が出て行って。で最初は、例えばそれが支援というきっかけかもしんないですけど、やっぱり最後は美味しいから買うっていうところまで持っていかなきゃないので。それをみんなと協力しながら自分の会社の商品だけじゃなくて、隣の人の会社の商品も。例えばお宅はこういう技術があるんだから、こういう事をやれば良い商品ができるよね、とか。ウチのこういう技術を使ってお宅のと合わせればこういう物ができるよね、とか。そういうのを今一生懸命みんなで、飲みながら、楽しくみんなでやっています。それをどんどんやっていきたい。 (これからも) うん、商品を良くする事と、広めていく事と、2つとにかく一生懸命やろうと。 ひとつ出来た商品があって。ワカメの、塩蔵ワカメを売っている会社があって、ワカメですね。ワカメを売っている会社があって、それをこう、展示会にみんなで行った時にワカメを試食してもらうのにタレが必要になる訳ですよ。でそれを、タレ必要だったんですが山形屋さんっていうつゆを、まあ醤油味噌を、つゆを作っている会社がありますね。それから東北で結構いろんなそば屋さんにおろしている丸平鰹節っていうダシ屋さんがいた訳ですね。でそれを、んじゃ2社で、この二つの商品をこう上手くくっつけて美味しいタレだきんじゃねぇの、ってこう遊びながらやってたんですよ。でそしたらエライ美味しいつゆが出来て。おっこれ良い、って、これ商品かしようっていう話になって山形屋さんと丸平さんとコラボしたワカメ、ワカメ専用ドレッシングという名前で、ワカメ用のドレッシングを今回作って、今ワカメと一緒に殆ど売っているとう。だから3社コラボですよね、要は。でそれがワカメだけじゃなくて肉にも合ったり。牛タンつくねそこで売ってんすけど、牛タンつくねにも合うし色んな物に合うので。今すごいウケてます。そういった物をどんどんどんどん作っていけば、楽しいですよね。

谷川 海明

谷川海明さんは法音寺の住職さんであり、石巻青年会議所会員で『石巻復興支援会』の代表もされています。 住職さんとして責任感を感じた時、一番嬉しかった事 (使命感とか責任感とか、自分ではなんかこれをやんないといけないんだろうな、とか、助けてあげないといけないんだろうなっていう気持ちはやはりありましたか。) そうですね、その、おしょうにんさんって。お坊さんなんだけどおしょうにんさんって言われて、おっさんとか、こっちの言葉で言うと。おっさんどうにかしてくれ。お袖を本当に引かれる、今でもちょっとね、頭に残ってるんだけども。 その、ちっちゃい子から大人まで。職業 俺はその、みんながみんなそういう目で見るから。子供からもそう見られるし、お母さんからもそう見られて。まあ、割とタフな方っていうか何でもできる方で。最初は過呼吸になってるおばあさんをどうにかしてくれって言われて。袋かぶしとけばいいだよって。あんた見たことあんのかって、見た事あるから、あるんだよったらすごい、あれをしてくれこれをしてくれって。 後はまあ、それをまあ必要なのは私だけじゃなくてね、できる人がやっぱりそのケアとか包帯巻いたりとかそういう事ができる人がついてやってたんだけども。段々経つにつれて今度は支援物資、物が無いと。物を持って来る力があったんですよ。知り合いも多くて東京の友達だったり、いろんな関係者の人が。そういうのも、ここにいるだけじゃできないんだけども、携帯が少し、メールだけ入るってなったら支援の要請をしたり。後はその、宮城県、被災外の人たちがここに自衛隊の要請をしてくれたりとか。そういうのは、なんつうんだ、外の交渉役をやって、それですごい支援物資がここに来たわけですよ、早い段階で。そうすると、まっ物もらえればね、みんなそっちになびくっていうか。この人に付いていけばまあ、あぁ食ってけんだなって風に。そういう信頼を、今でも。それは自分の力じゃないっていうか、他の支援してくれる方の力で。そういったの、でも良いこう、流れができたってとこがありましたね。 結構、一番嬉しかった事のは、ここに避難してた幼稚園児が、おばあちゃんになんかあったらお寺に行きなさいって、なんかすごい、よく言われてた、仕付けされてたっていうか。何かあったらお寺に行きなさいって言われてたんだよって俺に言って、ああ そういう風に言われる存在なんだと思って。まあ単純にそん時も嬉しいなと思って。まあまあ、本当にね、何かパニックになった、例えばおばあさんが地震で家に挟まれたりしたら。もうその子はただ泣いてんじゃなくてお寺にもう逃げて、なんとかあなただけは助かりなさいっていうか。もう自分の事はいいからここに来ればなんとかしてくれるっていうか。あっお寺って良いとこだなぁって、それを聞いて。でそれ、そういう存在だっていう事を常に、心に思っておけば良いお寺になるんじゃないかなと。 復興支援会代表、子供達の進学支援活動。学校を諦めないでほしい。 震災後に支援の方のオファーがすごく多くて。ここまあ、避難所だったから、何かありますかっていう支援がたくさんあって。そん中で自分がボランティア団体を作って、今活動してるんですけど。石巻復興支援会っていう、一応代表をやってるんですけども。それで本当に必要な支援っていうのを自でやっていうこうと。自分で示していこう。 今自分たちで独自のやってるのが進学支援っていうか。うちの住職が高校の先生だったってのもあったり。やっぱりあと自分は大学とかに行って外に出て学んだ事は多くあったのでこういう震災の時に、どうしても進学ってこう言いづらくなったり。勉強はある程度集中しないとできないと思うから。その、仮設住宅だと勉強部屋なんて、自分の部屋なんてないから。そうすると、どっかでやんなきゃなくて。俺は高校の時とかは図書館でやってたのね。とういうような記憶があるんだけども。図書館も避難所だったり、あんまりちゃんと営業してなかったから。じゃあ場所だけでも確保して。で受験生、対象がもう、本当の対象はもう浪人生っていうか。3月11日なんてまだ受験も終わってないと思うから。それで受けれなかったって人もいて。その期間、家族から親戚から、大変でしょ。その人は、受かるまで。でも勉強するのが、ね、浪人生の仕事みたいなもんだから。お金も掛かるけど。そういうので少しでもこう、集中してできる場所。あとはまあ一応講師の方を監視役でつけて。でそれも気つかうと。本当は教える、ちゃんとした塾にしたいんだけども、無料でやろうと思ってるから。そうすると要は、普通の塾の人たちが困るじゃん。お金を取って授業をやってる人たちの邪魔をしないように。だから本当に教えるっていうか本当に自主性を、本当に勉強したいっていう学生を。自分達の自主性を意識してっていうか。講義を聞くとかじゃなくて分かんないとこがあったら教えてくださいっていうぐらいにして。 今年も7月から始めようと思って。週末だけなんだけど、土日で。なかなか勉強を教えてくれる講師の人も見つからないで困ってるんですけども。自分の姉とか、姉の友達とか去年教えに来てくれてて。あ、でも昨年度はとりあえずみんな合格。高校に10人と大学に5人ぐらい合格して。 後はまあ本当の事を言うと、その、学生の人に諦めてほしくないっていうかなんか。震災だったからいいや、みたいな。甘えないで、妥協してほしくなくてね。こういう時でも普通に東京の人ってか、ね、全国的にちゃんと受験もあるし。大学ってのはスタートするし、高校の動くから。そういう時に、逆にチャンスだと思って今やれば。 俺は本当はまあ、良いとこ行って優秀になってもらって、こっちに戻って来てほしいという思いなんだけど。まあ、自由に、別に帰ってこなくてもいいし。でもまあ、少しは良く、被災地を良くしてくれという思い。だって自分がね、学生の時だったら、震災があって、やだよ、学校行くのも大変だし、部活もできないし。でもそういう風な経験をした子供は逆に強いと思う。

中村 精一郎

中村精一郎は中村サイクルセンターの自転車屋さんを奥様と運営されています。震災当時はお店の中に津波とヘドロが押し込み、とても営業できる状況ではありませんでした。1年経った2013年春にはお店を再開する場所を借りることができ、ホームサイトでおすすめのサイクルルートなどを紹介しています。復興まちづくり協議会に参加している中村さんが石巻の復興への思いを語っていただきました。 「復興、元の状態になるっつうのは、ううん。ちょっと考えないかもしれないですね。もう既にあのう、人口が減ってるし、職場も変わってる人もいますので。まあ石巻から離れて別の職場を求めて行ってる人もいるので。ただやっぱ新たなあの、雇用っていうか。凝視をもってかないとダメなのかもしれないですね、それはね。 ただね、去年、去年はですねやっぱあの、うぢのお客さんもそうなんですが。自転車の格好、ヘルメットかぶってジャージを来て、こう歩ぐって、自転車踏んでいくっていう気持ちにはね多分なれなかったんですね。気分的に。精神的にあの、全国のボランティアさんが日曜日朝とか、あの炎天下の中で汗を流して泥掃除をしてたりとか。そういう中をね、自分だけがサイクリングして歩くっていうそういう気持ちにはなれなかったんです。まっ、今年からようやくね、段々こう、整備されてきたんで気持ちの整理も大体ついてきたんで、少しは踏める環境にはなってきたんじゃないかなと思いますが。精神的にもそうだと思う、やっぱ。 (他になんかあの、自転車以外とかでありますかなんか、改めて考えられたような事は) ううん。まっ、私の場合はまあ人にあの、助けられたっていうのが一番じゃないっすか、仏さんに助けられたなっていうのは。うん。 まあだから、自分だけがあのう、なんていうんだ。こっから逃げ出しても、やっぱあのう、..全体が。自分のお家ないとかっていう、将来的に、経済もそうなんですが、そういう気持ちも安定してこないと我々の商売にもついてこないと思うんですねやっぱ。自分1人だけ先走ってもダメだなっていう気持ちはあります(笑)はい。全体が、もっとねこう、元の生活に戻るまで。ちょっと時間はかかるかもしれないけどもそこまで私も頑張りたいと思います。」 「以前はまあ割とううん。まあでも少子高齢化が増えてましたからね。その辺は商売は厳しかったですよねやっぱ。うん。だっ、それでこの震災だから。うん。ちょっとマーケットが小さくなるのは大変だな。そこで、どうしたらいままで以上に頑張れるかっていうのが。自分の主案にも関わってくるし。年齢も年齢だし。ちょっと考えますね それはね、道路が復旧してからでないとなかなか難しいんじゃないかな、気がしますね。いっあのでも、震災以前にもあの、レンタルサイクルなんて駅前の方で貸し出しなんかあったんですよね。ただやっぱり石巻は生活には車が必需品なので。多分車だと思いますね。あの、自転車を見直されたっていうのはあの、震災直後ですよね。歩って用足しをしていたのが自転車に変わって。で自転車あのう、車使えないからただ単に移動手段として自転車使ってたんですが。ま、車が手に入ってくるともう自転車がいらなくなってしまってると。そういうふうに変わってきたので。 ううんそうですね。あとは 、あのその下駄代わりに使れた自転車じゃなくて、あの、趣味で使ってる自転車、主にはサイクリング車とかスポーツ車といわれる部分。それをやっぱ残していかなければ私たちは生き残れないなぁというのは、考えは持ってますけどね.だからそこを伸ばす方法を今から考えないとダメだと思いますね。」

今野 雅彦

今野雅彦は石巻コミュニティ放送のラジオ石巻FM76.4で営業部長、技術部長、レポーターとして活躍されています。阪神淡路大震災の翌年に作られた放送局で、地域情報はもちろん、現在は災害放送局として放送を行っている。災害に強い街にしたいという思いで作られた放送局。いずれ震災は起きると覚悟していたが、地震と津波の大きさは誰もの予想外であった。その時に放送や対応、仕事への責任感、そしてこれからラジオ石巻の復興への役割についてお話していただきました。 ラジオ石巻FM6.4 震災直後のラジオ放送、仕事の責任感、みんなに石巻へ来てほしい まあ情報源を全部その停電で立たれていたんですが、唯一そのパソコンが、ノートパソコンのバッテリーが、無線のケータイメールなんかを受信するためのネットワークが、だけが生きてたんですよ。で、リスナーからあの、今自分の身の回りはこういう状況だというようなメールがたくさん集まってきたんで、それを原文のまま読み続けるというような放送をしていました。まあ具体的に言いますと自分はいま屋根の上にあがっている状態で、早く助けに来てくれないかとかですね、もう目の前で人がどんどんどんどん流されて言ってるというような状態ですね。で、それが地区ごとにこう、読み上げ続けていきますとラジオではまあ、見えないメディアですから、ただそれをつなぐことによって情報を、見えてくるんですね。まあそういうことで、市民に対しては、こう、被害の状況を伝えることに徹して他わけですね。あの、必ずこういう日が来るっていうことは社員各自は想定はしていたんですよね。で、ただ今回の東日本大震災っていうのは想定の領域をもうかなり上回っていましたので、えー、底までこうなるとは思ってなかったんですね。まあ本当にそのそういう、今後はですね、私たちはそういう教訓を生かして、やっていこうという、最大被災地のラジオ局ですので、まあこれが私たちの取り組みや反省というものが、ほかの地域で今後どういう風に役立っていくのかという部分も、私たちも今後はお手伝いしていこうというようなことに、あのー、なるのかなと、ええ。 やっぱり、根性とか、粘り強さとか、あきらめないとか、まあ今被災地っていうのはこういう劣悪な環境の中でみんな頑張ってやっているので、まあそういった常に恵まれて、やっているんだって思うことはですね、やはり原点に立ち返る意味でも、まあこの、石巻の不自由な状況を確かめに来ていただくことはなにかの参考になるんじゃないかと思います。 復興に向けて、感謝を伝えるラジオ、これからのボランティア まあ地元の中の人たちに対しては、ええ、1日でも早い復興に役立てる情報っていうのを、ええ、精査して、今本当にみなさん大変なこと、住まいだったり、お仕事だったり、えー、病気のことだったりお金のことだったり、様々な悩みを抱えている方が多いものですから、そういった人たちの悩みが解消されていくような情報をですね、発信していくことはコミュニティとして一番大事なことなのかなって、それと、外のほうにはですね、やはりその被災地の復興の現状というものを時間経過とともにどういう風にその変っていっていくのかという部分にやはりその関心を持っていただきながら観光というジャンルにもですね、石巻を逆に元気にしていただかなければ奈rないというアピールもしていかなければならないのかなあと。まあ電波は届かないんですけど、全国からいろんな主事を受けやすいので、あの、来ないでくださいでは無く、もう本当に来てくださいというような役割はやっていかなければならないかなと思ってます。あの、石巻市民の大半の人たちは困っていましたから、あの、そういう助けをしてあげたいという人とですね、助けてもらった人が歩んだ約1年と3カ月ということで、そこで新たな絆が強まったっていう話は、今うちの放送のゲストの人にはやっぱり感謝を伝えるためにまたラジオに出て来てもらったりっていう放送をずっと続けてきてましたからね。また今度ボランティアの方がその、手を差し伸べる方法につきましてもガレキとかヘドロだしとかもおわりましたので、また被災地での支援の仕方っていうのも変わっておりますので、まあそういったときとともに人の気持ちも、みなさんの動きというのも変わっていっているということがわかりますよね。この仕事をしていて。

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