中澤 芳文さん

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生まれも育ちも閖上の中澤芳文さん。3.11の震災でご家族を亡くされました。震災から月日が経った今、胸中をありのままに語ってくださいました。


「被災者」と「遺族」

あの、結局そのひどさが分かっていない、自分達は、んーなんて言うんでしょうね、被災地ですけど、被災者じゃないんですよ。

Q: 周りの人達がですか?
そうなんですよ。みんなが沿岸部じゃないんですよね。ですけど、みんな被災者なんですよ。家がちょっと傾いたとか、皿が割れたとか、皿一つ割れても被災者ですから、保険会社側から言えば、保険おりますんでね、被災者なんですよ。ですけど、私らはようは本当に被災者って言ったらおかしいですけど、うん、やっぱ遺族なんですよね。


震災の記憶

その半年くらいは、その日の2時46分、その日の2時46分、なんですよ。なるたんびに、3月11日の2時46分以降を思い出そうとする自分がいるんですよ。ですけど、その時は思い出せなかったんですよ、その後どうしたとか、どうやって娘を迎えに行ったとか、すごい思い出せなくて、ずっとその記憶を思い出すのにやっぱり半年くらいかかって、、、ただ思い出せるんですけど、すぐ、忘れようっていうもうひとつ蓋をしちゃうんですね、精神的にやっぱりあの持たなくて、そういう気持ちが落ちた時に薬を服用してもう少し落ち着かせてたんですけど、そうすると、仕事中なんですけど、やっぱり眠気が来るので、まあほとんど睡眠薬導入剤と一緒なので、仕事先に行っても行く先々でどうだったの?家族はどうだったのって聞かれるんですね。まあそれに笑い、笑えるっていうか普通に答えられるようになるまで本当に半年、まあ1年くらいかかりましたね。


被災への共感

あの支えられてるなっていう感覚が起きるのが、実はわたしはあんまりないんですよね、、。ただ支えはないんですけど、共感していただいてるのは多いです。あの、なんていうんですかね、こうやってみなさんとお話をして、うなずいていただく、理解してもらう、でこういろいろな、facebookだったりネットとかで被災地のこととか、被災地にみなさん関東から足を運んでいただいたりとかそういう情報をみると、あっ共感していただいてるな、ていうのが、思えるんですね、で、ただこう冷やかしじゃないですけど被災地見たさみたいなのはこうあったと思うんですよ。それがどんどん日を追うごとによってほんとの現状をみなさん見に来ていただいてる、てのが分かったんですね。


閖上の良さ

ほんとにねーとんでもない街ですよ。楽しすぎますもん。だから、なんていうですかね、閖上の当たり前が通じないっていうのもびっくりしましたけど。あの、ですからみなさんね、食べたことあります閖上のたこ焼き、あるじゃないですか、あれが普通だと思ってるんですから。ずっとあの、あれいくつまでだろ、高校卒業するくらいまで、あれは普通だったんですよ。で、私仙台市内の学校だったんですけど、仙台市内の学生がたこ焼き食べると、パックでぱっと出されてびっくりした、っていう記憶があるんですね。で、そのたこ焼き屋さんも、わたしも高校入る頃かなあ、もう毎日やらなくなったっていう、ですから前に食べれなくなったていう記憶があるんですね。で、年に一回神社のお祭りがあるときに食べれるくらいで。で、あとはおばあちゃん(閖上のたこ焼きを作る方)の気分だったんで。ほんとにびっくりしましたよ。たこ焼きは棒に刺さってないたこ焼きをたこ焼きと思わなくて、おかしいなーって思って。ほんとに閖上の街ん中ひとつで全部用が足りてしまう、買い物もちょっとはできますけど、一番最初にお話した通りに行くのは不便かもしれないですいろんな所に。ただ、生活するうえではなんにも困んない街だったので。ほんとね、海がそばでまあ、何年か前に海水浴場もやっともう一度できるようになった街ですから。んー私が子供の頃、小学校、中学校の頃はもう海水浴場がなかったので、うん、それでもやっぱり子供、ね、同級生とみんなで夏休みになれば閖上の海に行くんですよ。そうすると、大体同級生の一人くらいは溺れて、すんごい引き潮に会うんで、私も2、3回溺れましたけど。面白い所いっぱい、まあ、山が無いだけでほんとにいい街ですよ。ほんとに、子供の頃までは釣りをやったりとかは。あとはまあひっきりなしにいろーんな方が来て頂く街ですからね。


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荒木 保子さん

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震災を乗り越えて、現在、息子さんと仮設住宅で暮らしている荒木保子さん。複雑な胸の内を語ってくださいました。


震災を経験した今…

うん、人に迷惑かけないで、やっぱり、自分で自立して一生懸命生きていかなくてはないかと思ってます。みんなに迷惑はかけたくないから。これから、そうやって生きていかなくてダメなの、自分のことはじぶんでしないといけないし、独立しなくちゃないので。それは、息子に対しても、家族に対しても、そう思ってます。自分がちゃんとできるようになれば、みんなに迷惑かけないし、それ一番思ってますね、私のね。やっぱり、津波、こう、体験した人でないと、分かんないですね、これはね。だから、テレビ見てるとさあ、涙ボロボロ流れてくるんだよ、私。東日本大震災って言われると涙こぼれてきます。だってうちも流される、そのまんま、車も流されるそのまんま。いや、そのまんま流れたんですよ。でもかろうじて言えば、壁が抜けなかったので、ものは残ったのもありますけど。だから次の日から、あの、水引いてから、毎日子供たちに、4人して、2番目と3番目と夫婦して、行って持ってきてもらったの、いっぱいあるんですけど。で、選択して持ってきてくれました。それも、入れない区域ですけど、遠くからあるいて持ってきたよって言って、震災の時は、津波…2回しか行ってないんですよ、閖上。見るの嫌だから、行かないから、行かなかったんです。でも、避難所、仮設は不自由ですよね。なにからなにから不自由です。だ、これからみんなに、やっぱり手を借りて、生きていかなくてはないでしょうから。年取ってくるとね、だ、みんな助け合って、行かなくてはならないんだなーって思ってるんですけどね。一人で生きて…人間は一人で生きてられないからね。生きれないから。人の手借りなくてはならないんです。だ、いじわるしたくもないし、私何言われても黙ってるから。


仮設での大変さ

こういう仮設っていうのは大変だなっていうことを知ってもらいたいほんとはね。こういう災難にあって、こういう仮設に入って、不自由な生活だってことは、知ってもらいたいです。めったに入れない仮設だからね。こういうのはね。まさかこういうのに入れるとは思ってなかったからね。ミシミシ言って、ものすごいんですよ、夜寝れないんです。風吹くとものすごいんです、音が。床はべこべこべこべこって。トイレは寒い。寒くて、あの、夜、朝にはいる時は、トイレ開けとくんです、エアコンつけて。ずいぶん、二年三年だからは、こう隙間だらけになってるのかなあ。寒いは寒いです。だからやっぱり仮設に入った人でないとわからないです、これはねえ。早く復興決まってもどりたいですよね。


閖上の良さ

やっぱり閖上は良いですよ。海風は入るし、こういうあれでないから、海の方だから涼しいし、…いいとこですよ閖上は。でみんな戻るからって、友達も行ってくれるから、で、一緒に行こうねとは言ってたんですけど。ま、病院も何も建ってないんだら、行ったってしょうがないなとは考えたんですけど、今からの話だからもうどうなるか分からないんだよね。何年かかるか分からないですからね。


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荒川 裕一さん

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生まれも育ちも名取市閖上の荒川裕一さん。閖上への思い、震災を通しての経験や現在の心境を語ってくださいました。


閖上の魅力

楽しかったね、閖上っていうのは。まあ、自分んちの前バス停だったから賑やかだったんだよね、ずっと。朝から、だからそういうのでもね、今何時ですかーって聞きに来たりね。ははは。

Q: 荒川さんの所のドアって開けっ放しとかだったりするんですか?
だいたいはね、開けっ放し。余計バス通りだからね、開けっ放しで。鍵けるのは夜だけ。寝る前にかけて、そんな感じだったね。

Q:いろいろおすそわけとかもあったり・・・
うん、だね。小さい頃から魚とかはね、いろんな人からもらえてね。そういうのはあったよね。まあ、あの人しばらく見ないんだけど、どうしたんだろうねって、話になるね、表にでるとね。うん。


震災直後の様子、避難所での生活とは…

ほんでその夜だよね。閖上に行こうとしたんだけれども、もう息子から電話きて、閖上ないよって言われて、でも自分は信じられないから向かったんだよね。ほんでやっぱり行けなくて。そしてしばらく1時間くらいねどうしたらいいかわからなかったの。うん。どうしようかなって。避難所っていう(考えが)の頭になかったの。そしたら、あれって避難所ってあるよなって思って、で名取に来たんだけれども、そしたら文化会館っていうとこだけが非常灯ついてたのちょうど。そこに立ち寄ったら人いっぱいいるのね。そんで一人だしねまあ、俺よりもねやっぱり年配の人たちもいるし、その人たちも立っているし、ここにいてもダメかなあって思って、市役所に戻りに行って、ええ。でそこは電気もついてたしテレビもずーっと見ててね。幸いにそこに暖かいコーヒーがあったんだよね。自販機があって。だからそういうのでね少し助けられたんだなって思って。避難所にもうねえ3日か4日くらいしかいなかったんだよね。

Q: 寝る場所って布団ひくだけとかですか、それともなんか段ボールの上とか…?
そうそう、段ボール、毛布ね渡されたんだけれどもやっぱかけないでみんな敷くんだよね。だからそれをみんな敷いて、まああと知り合いの人からね、毛布とか布団よこされる人はそれをかけていたけれど。ほとんどはみんな敷いてたね毛布。俺行ったときはもうなかったのかなあ。毛布。確かなかった。

Q: そしたらもうじゃあ地べたに直で?
うん。俺はね、その震災の夜と次の日の夜はねずっと寝てないの。結局閖上もどうなっているかもわからないし、そしてそのころまだ母親の消息っていうのはわからなかったからだから気にはなるし、なんか寝付けなかったね、ずーっと。


閖上への熱い思い

で閖上に戻ってきたくもなったよね。一人になれば。他に行く気にはなれなかったね。閖上に行ってまたみんなと会えるんだあって思って。閖上好きだしね。

Q: 閖上の何が好きですか?
何がってねえ。まずね、海が近くにあるっていうのがいいよね。そして車があれば便利だしね、閖上は。友達とも会えるし。近所の人たちともなんもトラブルなくやっていたしね。知らないとこに行くよりはやっぱりいい閖上の方がね。


仮設での生活

まずここ来てね一番はまずほっとしたね。自分が落ち着いて寝れる場所があるって。気を遣わずにねただやっぱねこういう作りだから物音とかそういうのを気にしながらなんだろうなって思いながらだったけれども、でもほっとしたね。だって好きな時に横になれるし、風呂にも入れるし。だからそんでもねまだ閖上の多くはまだ仮設に入れない人がいっぱいいたから先に入って申し訳ないなあっていうのもあったしね。


これからの閖上

今?今ね、わからない。たぶん戻らないかも。戻ってもそんな知っている人いないんじゃないかなって。俺もともと現地再建っていうのも嫌だったからね。本当に安全な現地再建だったら戻るけれども、今のあれではね。また津波が来たら浸水しってなったら嫌だよね。 将来ねえ。だから閖上がどうなるかだよね。なにも見えないから不安だらけ。未来に関しては。

Q: 荒川さん自身はどんな町にしたいとか、閖上を思いますか?
だからね、本当だったらね、前くらいの震災前の人口に戻らなくてもせめてね、5000人くらいは戻ってまたね、わいわいやりたかったっていうのはありますね。


震災を通しての人間関係の変化

あのね、特にあれだよね、親戚関係。今までだったらね閖上にいたころっていうのはもう何かあるたびにちょくちょく行ってたけど、今全く行かなくなったしね。よっぽどなにかないかぎりね、不幸あったとか、祝い事があったとか、っていう以外は会わなくなってるね 。前は普通に合えば挨拶とかもしてたけど。親戚すらね、どこに住んでいるかわからない人もいるし。まあ遠い親戚だけどね。

Q: 連絡とかあんまり…?
だよね。本当に連絡先とかもわからないし。今って本当に血の濃い親戚だけしかわからないよね。

Q: それは震災でバラバラに
バラバラになって、ええ。


震災を通して、今後、人々に伝えていきたいこととは…

まずね、伝えたいことっていうのは本当に風化させないってことだね、このことをね。自分だってそうだったのかもわかんないってあるんだよね。いろんなこと、いろんな自然災害、事件事故もだけど。それを自分たちがどう頑張ったら本当に忘れずにいくのかなっていうのはね、もっと考えないといけないのかなって思うんだね。そして今から閖上の町がどうなるかはわからないけども、閖上の町っていうのはこういう楽しい町があったんだっていうのを、それもずっと伝えていかなきゃいけないのかなって思うよね。まあ、あと今からだと思うんだよね、いろいろわかってくるのが、もっともっと。ええ。今はまず、あれだよね、落ち着いてはきたけどやっぱりまだ何をしたらいいかっていうのがわからないよね。うん。ただ本当こういうことがあった、そしてこういう町があったっていうのは、覚えてるだけじゃなくてもっと伝えていきたいね。今はそう思うね。


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