小野幸三さん

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小学校の教員として働く中、様々な復興に向けた活動にも参加されている小野さん。現在の子供達の現状や今後の復興への課題などのお話を伺いました。


震災前の防災への意識

Q:先ほど日和山の石碑についてお話していただいたんですけれども、そのような小さな石碑があっても、気づかなくて今回3.11の津波について予測ができなかったってことなんですけれども、それよりも大きな、例えば慰霊碑などが建設された場合、それが今後津波について考えさせられるとか、3.11のことを次の世代に伝えていく一つの手段になるとはお考えでしょうか?
石碑ってのはある程度効果はあると思うんですがどうやら長くは続かないみたい。あのー、こう石碑があるなーって程度でその本当の意味って伝えなきゃ伝わらないですよね。伝わってなかったですね。そうゆう石碑があったってことが伝わっていなかったですね。
Q:なぜ伝わらなかったとおもいますか
そうゆうこうシステムというか、よく文化化されてないとかなんとか、群馬大学の片田先生っていう方がいるんですが、文化化されてない。津波の教訓があって例えば地元の祭りとか色んな行事の中でごく当たり前にこうそうゆう文化化されるまでのレベルでその地元に浸透したものがやっぱりないと、文化化されないとやっぱり伝わらないんだっていうそうゆう意見をいう学者もいるんですね。で、そうやってその津波がかつて襲われた、石垣島の人魚の伝説とか、色んな何箇所かやっぱり指摘があって、釜石の奇跡っていうのは片田先生が、こう色々指導したところもあるんですがやっぱりある程度こう地域に根付くようなそうゆうものを作り上げないとやっぱりダメなんだと。で閖上ってのは要するに避難訓練やるったって結局集会場に避難してお茶飲んであのーおにぎりあれして、はい終わりみたいな感じでほとんど意味はなかったという、、。でその釜石の奇跡を起こしたあの地区の地域の住民も実は防災センターってのが街中にあったんですね、で今日実はテレビでやってたのを見てきたんですがえーとー…二階建てなんですね。それで結局避難した大半の人が亡くなってしまった。高台に逃げれば、小中学生のように高台に逃げれば、だったんでしょうけどその震災の前にえー、少し前に避難訓練したときもまぁ高齢者が多いので高台に逃げるって訓練をしないでまぁ簡略化してこう、街中の二階建ての集会場に逃げるっていうそうゆう訓練をしていた直後だったので避難行動をみると結局ね、山に逃げないでその、そっちに集まってしまった。そうゆうのがあったりします。


閑上の現状

本当は戻りたい人がいっぱいいるんですが、こういう風な流れを経て時間が経つとともに、もう残念ながら戻るのを断念した人がいっぱいいる。しかも、もともとローンを抱えてる。もう、家を建てたばかりだとか、ローンがもともとあるとかっていう家もいっぱいありますよね?で、さらにこう新しく立てるっていうのは、2重ローンにはなるわけですよね。で、あと、買い上げる。名取市の方で土地を買ってくれますよと。でも、ローンがあると買えないんですね。いろんなね法的な縛りもあって、結局ね戻るのを断念する人も結構増えてきているような、今、非常に少ないですよね。


本当の意味での復興

若い人が戻らない限り待ちとしての再建というか再興はなかなか厳しいですよね。その後に若い人たちがあー閖上っていいところだってたくさん住むようになれば、とは思うんですが、それはやっぱりね、世代は次の世代かその次の世代か、あるいはさらにその次の世代か、こうやっぱもっと世代が後だと思うんです。でね、あの仙台が実は太平洋戦争で仙台空襲ってのがあって、その仙台空襲があったけれど、仙台市の中心街ってのはことごとく焼け野原になったんですね。その焼け野原の状態ってのは今回の被災した閖上の街のような状態、あるいは神戸のね、あの火事で焼けた神戸の街のような状態、そのようになった仙台市の中心街もやはりね、区画整理をして今あのような繁栄が実はあるんです。だからやっぱ世代がね、本当に復興するってのは復旧、っていう使い分けは復旧と復興は違うよ、と。復旧は元通りになる。復興はさらにその時よりも盛り上がるというかね、って言われますが、本当の復興、本当の意味での復興ってのはやっぱ次の世代、あるいはその次の世代、もっと先の世代だと思う。今じゃない。今のね、私たちの世代は、私とか長沼さんの世代はもうなんとか凌ぐ、しかない。次に繋ぐしかない。そういうところだと思います。だから自分の子供や自分の孫がいるかどうかわからないけど、自分の子孫のために今何をしておけばいいのかっていうそういう視点にもう実は立ってるわけですよね。


学校での防災教育の難しさ

まず現状からすると、実はさっきも言った通り、今ある小学校、今ある教室ってのはいろんな子が複雑に入ってるのね。それで、なにか防災教育、なにかする場合に実はうーんとこう配慮して気をつけないとできない。で例えば下手に津波の映像見せたら、穏やかではないというか、ものすごく傷つくというかフラッシュバックする子いますよね、PTSDを実は持ってる子供もいるし、その親も当然そうだろうし、いろんなこう事情がそれぞれあって、そういう中での防災教育は実は難しいんです。で、沿岸部ではないところの学校の防災教育ってのはもう既に始まっていて、いろんな事例が紹介されてますね。でもそれはね、まだ一般的なものであって、まぁ全部津波ってのも極端なものなんですけど、ただ、実は閖上小中学校だってほとんど手付かずですね、防災教育らしい防災教育は今何もしてないですね。できないですね。で、最初なんか藤が丘小学校に間借りしてこう入った年なんかも、プールも工事中ではあったんですが、プールは最初の年は全くなかったんです。水の流れをみたら、もしかするとフラッシュバックするかもしれない、だから最初の年はプールは全く、なかったんだよね。で、うちの息子は震災の時は閖上小学校の屋上とか3階とか、逃げてたんですが、最近あんまりしゃべらない、当時のことはしゃべらない、自分の胸にしまっていて、だから無理にしゃべらせられない。ですけど、最近ちょっと聞いた話はやっぱり津波見てたって言ってました、屋上から、流れるのを。ただ、その閖上でね、閖上保育所というのがあって、畑悦子先生っていう所長さん、今日お話来てもらうんですが、畑先生は子供たちに見せちゃいけないっていうんで、小学校に避難して屋上で見せないように子供たちの周りを職員で囲んで、見せるべきではないということで見せない、で教室に移ってからも通常保育という形でこう怖いものを見せないで楽しい雰囲気を作ってっていうのを意図的にこうそのようにやって、避難させたってのがあったりしてるんで、やっぱり見せてはいけないものも実はこう本当はあるわけで。


防災教育

それで実は今長沼さんと一緒にやってるのは、まぁ防災教育だろうと、で、防災教育でも、当然防災教育って学校が中心になって、やりますよね。文科省、教育委員会、県、市、やはり学校が中心だよね。幼稚園、保育士も多分それなりの防災やると思うんですが、今目指してるのは、市民団体ですね。防災教育を進める市民団体というのがあれば、当然学校ではやるでしょうけど、違った立場からいろんなことができるだろうっていうので、実は今毎週水曜日集まって勉強会をしていて、自分たちも勉強してるし、いろんなことを学びながら何が必要なのかどんなことができるのかっていうのを今実は模索してる。いろんなことがわかってきてます。その辺を今後は力入れて行こうかなと思ってます。


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鈴木芳一さん

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震災を乗り越えようと新しいことを始めた鈴木芳一さん。パソコン教室に通い、ガラス細工も始めたそうです。そんな中、震災で御家族を亡くされてからの現在の心情、震災当時の話等語ってくださいました。


当時の津波の恐怖

今度あのー、せっかく仏壇を新しくしたから位牌だけでも取りさ行きたいなと思って最後に位牌取りに行ったんですよ。その時に、丁度それが来たとき、あのー海の方、あれが津波だと思わなかったのね。あのー、とにかく土煙?煙がもやもやーってなってたのはわかるんだけど、まさかあれが津波だとは思わなくて、だから三回目の津波、んー、ああ三回目に戻ったとき、丁度私津波に巻き込まれたんですよ。うん。その時は周りの人たちらが、俺が車運転してる時に戻れーって騒いだらしんだけど聞こえるわけじゃなかったし、で、対向車に逆走してくる車が一杯あったんですよ。なーんでこいつら逆走するんだろうなーって思ったんですよその時。そして、真正面みると土煙みたいなもくもくもくーってなってたんですよ、空が。そしてそれがもう津波だと思わなかったから。で、それが丁度水。。なんちゅうんだろ、寄せてくるって言ったらなんともいえない表現だけど、寄せて来たんですよ。それ、私もすっかり飲まれて。ただ私の家はワンボックスだったから、何度か高いかったからまだ良かったんだけど、車ぐるぐる回されて、もう逃げることもなんにも出来なくなったのね。そしてそん時人間の本能なんでしょうね、そん時一瞬にして私窓開けたんだってね。そして窓開けて、で窓半分ぐらい空いて止まったんですよ、もう電気系統ショートしてたから。うん、そんときの正面のガラス、全面フロントガラスありますよね、あんな音ってすごいです。ミリミリミリと音がします。あーものすごかったです。そしてその間に私と車に、車にぶつかってきた車があるんですよ何台か。あのー、軽の車とかいろんな車がぶつかってきて。あのー窓が空いて、そこから私は上手く逃げられたんですよ。ところが自分にぶつかって来た女の子、今でも忘れられないけれど、あの顔は。あの結局その子はもう巻き込まれてもう水たっぷり浸かったんだわ、軽だから小さいでしょ。車体低いから、俺のは高いっちゃ車体が。だから助けてっちゅうんだけどあの顔。窓に顔を貼り付けて。あの顔は一生多分忘れられないなと思っています。あの女の子は。あの女の子の顔と、後おばあちゃんが柱に津波で着いて助けてーって叫んでる顔は。声も顔も。多分それはたまになら、今でも夜暗くて寝れません。怖くて。今もだから明かり付けて寝てます。夜、出るのも怖いし夜。いつのまにかそういう恐怖になってしまったんだね。だから一人でいるときが一番怖いですね、いろんなこと思い出すからね。


無我夢中で逃げた

だからあん時っちゅうのは無我夢中なんだよね。うん、実際は。だからあの無我夢中で逃げたことさえ、逃げて、車から逃げるのはほんの何秒もないですよね実際は。だからいや、多分これは経験から言うんだけど。自分はあん時はもう半分死ぬんだなって思ったから。あのー車流されて、巻き込まれて、あのードア開かないとき、あー俺はここで死ぬんだなってあの時本当にそう思いました。でやっぱり、いろんなことを走馬灯に・・・よく言うよね、テレビなんかでもね、あれ経験しました。ほんっとにいろんなことを頭ん中に出てくるんだね。それも経験しました。あーこういうこと言うんだなってよくあん時はあの、よく走馬灯のように蘇るって言うようによくテレビなんかで見ますけど、あーそういう、こういうことなんだなーって。あんときは半分あー俺はここで死ぬんだなあと思いましたからね。


生かされている

Q:そういう当時の震災のことって、ずっと覚えて・・・

うんなんでしょうね、なんで覚えてるんでしょうね。記憶の断片にね。他のことは忘れても、そのことだけは忘れられないってこれはなんなんだろうなって思ってます、だから。

Q:忘れてはいけない・・・

うん、そう思ってます自分もだから。そして自分が何のために生かされているのかなって悩んでいますよ。あの当時死んでもおかしくない状況だったのに、なんで自分だけこうやって生かされてるのかな、カミさんは何をどうしろっていってるのかなとふと考える時あります。あの時、ホントに死んでもおかしくなかったですから私は。おめは、だからみんなにおめえは長生きするなって言われるけれど、長生きしたくないなとは思ってます。

Q:生かされた命・・・

そう、だから何のために生かされてるのかがちょっと・・・苦しんでます。


閖上の海

あの、なんとも言えないです、あの朝。朝起きて、窓開けたとき、朝日のきらきらしてるっちゅうのが何とも言えないですよね。うちも古い家で二階から、私二階に住んでたから窓開けると、なんっとも言えないですよ、あの情景が。あの情景私好きだなって思ってるんですよ。あの、起きて朝キラキラして、海がさ、キラキラしてるんですよね。で、そこにある船がポンポンポンとのって煙はいてる姿が何とも言えなくてね。好きな光景だなって思ってました。夜は夜であの灯台の明かり、あのピカピカ光る、あれも何とも言えない。好きでしたからね。うん、なんとなく何かと海見てるだけでも、一人でぽつらーっと海さ行くのも好きだったからね。あのー波の音?あれが好きだったからね。


橋の向こう

Q:鈴木さん自身はそういう亡くなられた方を思い出す特定の場所とかっていうのはあるんですか?ここに行ったらあの人たちを思い出すっていう・・・

いや、それはないな。ないけれど、どうゆうわけか行きたがらないんだよね。あのー、橋から向こうに。どうゆうわけか。でも良かったのは、俺だけじゃないんだね。あのやっぱりみんなそうゆう風になってる人はまたいるんだね。だからそれは安心した。あれ、俺病気かなあって思ったもん自分で、行けなくなる、行けないっていうのは。それで、聞くと、そうなんだ私も行けない行けないって言う人いるなあって思ったから、だから安心はしました。あれー俺ってなにか病気になったのかなって思ったもんほんとに。どーも車運転しててもそっから先行こうと思っても、なーんか行きづらいんだよね。だからいつもこう橋から向こうへは行ったことないです。だから日和山からは行ったことないです。どうもあの橋越えられなくているから今。

Q:その震災の経験はトラウマになって・・・

いやーだからそれはトラウマなのか俺はちょっとわかんないけどさ、自分でさ。まずいなとは思ってるんだけど、でも、いや俺だけじゃないんだなって思ったからまぁそれなりに安心はしたのね、いやこれって病気なんじゃないかってほんとに思ったから自分で。


苦労と今

うん、俺も考えてるよ。俺も考えるもん。あのーここ(仮設)へ来た頃。死にたいなーって思ってたもん。なんでこんな苦労するなら死んだ方が楽だなあって思ったもん、実際は。

Q:その考えをなくすきっかけになったのはやっぱり・・・

うん、そのパソコン教室さ行って、そして今自分のやろうとしている仕事が俺自身がやっぱりおもしろいなって思ってるからさ。うんいや、結局苦痛じゃないっちゃ。いや、それはお金になるならない別にしてね。まぁ今は実際お金になってないけど。なんとなく今やってる事自体が今楽しいからさ。面白いなあと思ってるから。ただ、その面白いからっつって、ね、おもしろさイコールお金に結びつかないからさ今とこさ。でもー、今言ったように自殺っていうのはほんとに考えたね。で、そんなことしたら死んだほうがなんぼでも楽だなーっちゅうのは思ったことはあります。こんな苦労することなら死んだ方がいいやーっていうのはね。まぁ今は隠れているのかもしれないけど、どこかに、自分の気持ちの中にね。今は仕事の事とかで今頭が目一杯だからさ。いやー今度いつ展示会すっかなーってことで今手いっぱいです。あと俺以上どういう風に汗かいたらいいんだべなーって目一杯です。売れた商品早く作りたいなとも思ってるし。買ってもらったのにまだ作ってないから。

Q:集中したいことが出来ると気持ちも明るくなりますね。

はは。いやーでもね、みんなそれなりにやっぱりみんな苦労しているんだよみんな。うん、立ち直れんでいるんだよ、今。俺だってほんとにひどかったもん。一年・・・一年間ほんとなんにもしてなかったです。ぼーっとしていました。よくまあみんなこんなそういう風に働いたりさ行けるなあって思ってました。会社なくなったこと自体がショックだったんだからさ。会社ね、30年も同じことやってきたことしか知らないっちゃ、実際。実際世の中っちゅうのはほとんど知らなかったのとおんなじだね。会社とうちの往復だけしか知らないんだから。それ以外のことを知らなくたって別に食っていけるんだから。

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沼田 幸也、恵さん

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閖上生まれ閖上育ちの旦那様沼田幸也さん。奥様の恵さんは25年前に閖上へ。被災当日、旦那様は仕事で違う町へ行かれており閖上の状況をわからず、しかし奥様の恵さんは津波を経験。


昔の閖上

Q:昔地震来る前、昔の閖上がどのような町でしたか?
幸也さん:昔の閖上はやっぱ、まあ近所になるとやっぱ一つの家族みたいな感じになっちゃうんだよね。あっこあの、そのなんつうの半々ってあって同じあのなんていうんですかね、町内会でのこう隣組とかっつうのあって、まあそういう所はわげけてなく、えーなんかこう昔聞いてたのはここで醤油の貸し借りとかそういうのも隣近所でよくやってた、長屋みたいな感じだったっていう。私が生まれた頃はやっぱこう世代が変わってるのであのその、あのやっぱ町内会でなんかやるってなったら呼ぶ集まってはなんかかんか運動会にしてもお祭りにしても色々やってたんですけど・・
恵さん:多いね行事ごとはね。子供とお年寄りが一緒になってやる行事が多いよな。普通ね子供会は子供会だけなんだけど、お祭りは子供の見越し、大人の見越しまでとか。
幸也さん:そんな地区でやるんで、だあ先。。先月か?あの閖上の方で見越し担いでたんですけど、でそん時もあの上智大学の人達何人かが来ててあのインタビューさせてくださいって。あははは。でそん時はほら、うちらの年代結構いるが、下の子紹介してやってあげたらしてやったんすけど、あいう感じだと結局子供見越しあと大人見越しってこうやって一緒に出て行ったんですけど、実際はあの、その地区だが日和山地区とか紙町地区那珂市、あとそういう同じ地区の中でみんな子供見越しが子供会が出して、あと本見越しっておれら担ぐ見越しはもう一日中練り歩くみたいな感じで。


閖上への愛着

幸也さん:最初美田園見に行ったんですよ。海の方ね
恵さん:お父さんはやっぱ海がいいって
幸也さん:海、海がいい
恵さん:海が近いのがいい

Q:それは何でですか?
幸也さん:やっぱ海は涼しいっすもん。うん、あとなんか開放感あるっつうか。やっぱどっか閖上に戻りたいっつうのはあるんでしょうね。そっちのほうに。ただ市で計画してるようはかつ上げしたから安全だっていうのはちょっと納得いかないんですけど、だから俺らはもう閖上には戻らないと決めてこっち買ったんすけど。最初その美田園だと高波も来てなかったし、あの高くすれば床下までいかないんじゃないかっつう思いで言ったんだけど、息子に一言「ここ津波来てっぺや」って言われて。で、山しかないけど山でいいのかって「山の方がいいべや」って言われて、結局こっちに買ったんです。うん、俺はやっぱ山より海の方がよかったんですけど。
恵さん:やっぱしね、やっぱり海で育ってる人はどうしても海の近くっていうか、うーんあるのかな。やっぱね。うちも実家はほら海、海だもんね。
幸也さん:うん、海だよ。
恵さん:うん、ちょっと高いけど海の見える所にやっぱし再建してるから、やっぱしみんな、うーん海の近くで育った人は海、やっぱ怖いけどまあやっぱし海がいいのかな。ねえ、やっぱ違うもんね。うーん


近所付き合い

Q:何か言い残したとか、これだけは知ってもらいたいということはありますか?
幸也さん:あと、やっぱこう今家族になってるけど、やっぱうちらも今その状態なんだけども、やっぱ近所付き合いは大事にしたほうがいいかもしれない。
恵さん:そうだね。
幸也さん:やっぱ聞くとああ寝たっきりで例えばうちらが仕事いって子供達だけ残して、で隣近所が付き合いがあれば「ああ、誰々仕事行ってから子供達残ってんかもしれないね」ってそれで助かった人達も結構いたて聞いてるので
恵さん:うん、閖上はね。あそこはおばあちゃんだけとか迎えにいってあげたりとか
幸也さん:閖上はそういうの結構あったって。あのしんちゃんもそうだったね。友達で前NHKとかに出てた橋本真一さんとかも結構町内会長やってたから周って非難させたとか、あそこばあちゃんしかいねえからとか
恵さん:閖上結構それが多いの。年寄りが多かったから、結局それで亡くなってる人達、おばあちゃん残ってるから迎えに行かなきゃっつって亡くなってる人達も多いから。うーん、だから隣近所はね、今思うと大事にしなきゃいけないかな。
幸也さん:だってうちもやってたもんな、付き合い。あのほれ町内会の役員やるからって繋がり始まって、まだ3年4年ぐらいだもんな。うーん、隣近所はな。やっぱ、そう長屋、古きよき時代じゃないけど、そういうのがいいんだろうね。そういうのは大事にするべきだろうね。多分都会に行ってしまうとそういうのなくなっちゃいますよね、多分。逆に警戒しちゃってね、隣との付き合いもなくなってしまうし。


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中澤 芳文さん

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生まれも育ちも閖上の中澤芳文さん。3.11の震災でご家族を亡くされました。震災から月日が経った今、胸中をありのままに語ってくださいました。


「被災者」と「遺族」

あの、結局そのひどさが分かっていない、自分達は、んーなんて言うんでしょうね、被災地ですけど、被災者じゃないんですよ。

Q: 周りの人達がですか?
そうなんですよ。みんなが沿岸部じゃないんですよね。ですけど、みんな被災者なんですよ。家がちょっと傾いたとか、皿が割れたとか、皿一つ割れても被災者ですから、保険会社側から言えば、保険おりますんでね、被災者なんですよ。ですけど、私らはようは本当に被災者って言ったらおかしいですけど、うん、やっぱ遺族なんですよね。


震災の記憶

その半年くらいは、その日の2時46分、その日の2時46分、なんですよ。なるたんびに、3月11日の2時46分以降を思い出そうとする自分がいるんですよ。ですけど、その時は思い出せなかったんですよ、その後どうしたとか、どうやって娘を迎えに行ったとか、すごい思い出せなくて、ずっとその記憶を思い出すのにやっぱり半年くらいかかって、、、ただ思い出せるんですけど、すぐ、忘れようっていうもうひとつ蓋をしちゃうんですね、精神的にやっぱりあの持たなくて、そういう気持ちが落ちた時に薬を服用してもう少し落ち着かせてたんですけど、そうすると、仕事中なんですけど、やっぱり眠気が来るので、まあほとんど睡眠薬導入剤と一緒なので、仕事先に行っても行く先々でどうだったの?家族はどうだったのって聞かれるんですね。まあそれに笑い、笑えるっていうか普通に答えられるようになるまで本当に半年、まあ1年くらいかかりましたね。


被災への共感

あの支えられてるなっていう感覚が起きるのが、実はわたしはあんまりないんですよね、、。ただ支えはないんですけど、共感していただいてるのは多いです。あの、なんていうんですかね、こうやってみなさんとお話をして、うなずいていただく、理解してもらう、でこういろいろな、facebookだったりネットとかで被災地のこととか、被災地にみなさん関東から足を運んでいただいたりとかそういう情報をみると、あっ共感していただいてるな、ていうのが、思えるんですね、で、ただこう冷やかしじゃないですけど被災地見たさみたいなのはこうあったと思うんですよ。それがどんどん日を追うごとによってほんとの現状をみなさん見に来ていただいてる、てのが分かったんですね。


閖上の良さ

ほんとにねーとんでもない街ですよ。楽しすぎますもん。だから、なんていうですかね、閖上の当たり前が通じないっていうのもびっくりしましたけど。あの、ですからみなさんね、食べたことあります閖上のたこ焼き、あるじゃないですか、あれが普通だと思ってるんですから。ずっとあの、あれいくつまでだろ、高校卒業するくらいまで、あれは普通だったんですよ。で、私仙台市内の学校だったんですけど、仙台市内の学生がたこ焼き食べると、パックでぱっと出されてびっくりした、っていう記憶があるんですね。で、そのたこ焼き屋さんも、わたしも高校入る頃かなあ、もう毎日やらなくなったっていう、ですから前に食べれなくなったていう記憶があるんですね。で、年に一回神社のお祭りがあるときに食べれるくらいで。で、あとはおばあちゃん(閖上のたこ焼きを作る方)の気分だったんで。ほんとにびっくりしましたよ。たこ焼きは棒に刺さってないたこ焼きをたこ焼きと思わなくて、おかしいなーって思って。ほんとに閖上の街ん中ひとつで全部用が足りてしまう、買い物もちょっとはできますけど、一番最初にお話した通りに行くのは不便かもしれないですいろんな所に。ただ、生活するうえではなんにも困んない街だったので。ほんとね、海がそばでまあ、何年か前に海水浴場もやっともう一度できるようになった街ですから。んー私が子供の頃、小学校、中学校の頃はもう海水浴場がなかったので、うん、それでもやっぱり子供、ね、同級生とみんなで夏休みになれば閖上の海に行くんですよ。そうすると、大体同級生の一人くらいは溺れて、すんごい引き潮に会うんで、私も2、3回溺れましたけど。面白い所いっぱい、まあ、山が無いだけでほんとにいい街ですよ。ほんとに、子供の頃までは釣りをやったりとかは。あとはまあひっきりなしにいろーんな方が来て頂く街ですからね。


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相原 弘さん

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閖上で生まれ育った、相原弘さん。かつては肉屋を営んでいましたが、津波でお店が流されてしまいました。震災によって変わってしまった相原さんの暮らし、そして、閖上への想いを語ってくださいました。


交流の変化

Q:なんかこう、震災を経験したからこそ、その昔の交流が何か変わってしまったっていうのもありますか?
変わったわな。で、商店街なくなったっちゃあ、で、今再開市場でやってるの。その、そいつらその人らとの交流はねえ、全然ねえわ。
Q:その、逆に、新しく交流が始まった人とかっていますか?
この団地(仮設住宅)で。うん。ちょうどここ閖上一丁目の人が99パーセントな。だから、ほとんどみんな知り合いだっちゃ。だから、まあ助かってるっちゃあな。まるっきり知らねえではねえ。
Q:その残りの1パーセントの人っていうのは、どちらから・・・
どちら・・ってあの、福島のほう・・・。
Q:そういう方たちとは、結構交流が・・・?
は、全然、俺は、私はないね。
Q:それは、あの、交流する機会がないんですか?
そういう人は、なん、こういう、とこに来ないのね。ここは(仮設の集会所)、あの、交流の場だから。で、昨日飲み会やってさ。手ちょっと気になって。
Q:よく参加なさるんですか?
参加、ええ。参加100パーセント。参加することに意義あるもんね。
生徒:それでまたお互い団結しようっていう・・・


震災前の閖上について・相原さんの思い

Q:その、まあ、新しい環境にいらっしゃると思うんですけども、その震災前の閖上のこととかを思い出すことって多いですか?
思い出したくないな。うん。寝るの思い出すとさ、やっぱ帰る気になるわな。帰り・・・帰れないからっていうの・・・思い出したくねえわ。思い出しても、戻れるか戻れないかってのも分かんないっちゃあ今、現在。戻れんならばね、俺、もう一回やり直しましょうっていう気はあってもさ、戻れっか戻れねんのか分かんねえんだわやなあ。・・・だ、あの、道路のね、ちゃんと決まったさ、このようになりますよっていう説明があればさ、じゃあ戻りますかってのっけども、道路もなにもわけわかんねんだものさあの、戻ってもどうしようねっちゃな。ましてや・・・タイヤかわかんねえんわな。


伝えたいこと

Q:あの、これ僕たちが今日撮ったビデオを将来見る人とか、今の閖上、名取の実情を知らない人たち、名取だけじゃなくて、被災地の実情を知らない人たちに、何か伝えたいこととか、知っておいて欲しいことって・・・
うーん、こういうことは、二度と経験してもらいたくない。うん。できんならば。でも、いま日本でそっちこっちで地震が起きてっからねえ、なん、注意ってか、そういう注意だけはしてもらいたいなあ。きん・・仕事はわきまえてさ。いつ起きっか分からないんだからよお。そん直前をも見てっから。だ、やっぱあの北海道の釧路かな、あれん時もテレビ見てて、まさかと思ったよ、閖上もああなるとは思わなかったからね。だー来たから、ああ来たって、まず、まさかなあ、ほらああいう津波来るとは思わないっちゃ。だ、ああいう津波は二度と見たくないわ。まあ、経験者だから言えるんだけっども、ほんとあれはほんと、一生忘れられないね。


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遠藤 茂美さん、遠藤 利也さん

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もともと農家をやられており、震災後も農家復興を目指し奮闘している遠藤茂美さん。そして、もともと仙台空港に勤めていたが震災をきっかけに自分の地元である小塚原地区の農家復興に興味を持ち遠藤茂美さんと共に小塚原地区での農家復興を日々努力している遠藤利也さん。インタビューでは閖上独特の人付き合いやコミュニティーについてお話していただきました。


震災前の閖上

Q:では昔の閖上について教えていただいてよろしいですか?えっと人間関係といいますか、人との付き合い方だったり、そういうものを教えていただけたらなと。
遠藤茂美:どうだろう。ここはね、閖上の町とまた違って、なんていったらいいのべかな。ここえらな。閖上の町は町で漁業の町であって、ちょっと離れたここは農業っていうかたちになっているのかなって、で人付き合いは、ほら、あったかいっちゃ。やっぱ地元として、ここ閖上地区っていうのは、幼稚園から、幼稚園、小学校、中学校へずっーと同じなのね、みんながそのまんま、どっからも人が入ってこないのね、持ち上がりでずっと行くから、上下の先輩たちと後輩たちとの関係も仲がいいってことですかね。なかなか、名取はここだけだあね。閖上だけだな。だから仲間意識はすごくある町だね。


地元を盛り上げようと思った理由

Q:その地元を盛り上げていこうって思う1番、思った1番大きい理由を教えていただけませんか?
遠藤利也:1番大きい理由はやっぱりこの小塚原がというか閖上というか名取市が好きだからっていう。言うのちょっとこっぱずかしいんですけど。たぶんそれしかないかなあって。ですね。

Q:どういうところが好きでしたか?
遠藤利也:好きっていうだけでもちょっとこっぱずかしいのに。聞かれるとまた(笑)このおんちゃんたちも好きだし、この上の世代のずんちゃんばんちゃんも好きだし、同級生たちも。なんかやっぱりこの閖上っていう土地は独特みたいで、高校行くと高校の友達とか専門学校行ったら学校、大学だったら大学の友達っていうんで、やっぱりそこで新たな仲間が増えるじゃないですか。でもやっぱりなんか帰ってくるところがみんな閖上というか。もう珍しく幼稚園から、小学校から、正確に言えば、小学校から中学校ずっと9年間ずっと同じメンバーなんですよ。増えたり減ったりっていうのが、転校とかないと、あの、ない。だからもう9年間ずっと一緒なんですね。もっと幼稚園合わせれば11年間一緒みたいな土地で、ってなるとよその地区だといろんな小学校が混ざって中学校になったりするじゃないですか、あとは別れちゃったりとか、そういうのが全然ない土地で、ってなるとやっぱり繋がりも腐れ縁に近いですけど、同級生との繋がりもやっぱり大きいので。ってなるとやっぱり皆震災あってからも集まるのは閖上のみ。で震災も経って2年9か月ですか。経ちましたけどそれでもやっぱり集まって話すのはやっぱり地元の人間が多かったりだとか、よっぽど他所の行ってないと。他所に行っている人間も閖上最近どうなのって声かけてくれたり、たまに帰ってくるとやっぱり皆で集まったり。なんか繋がりがとてもあついというか太いというか。なのでそこがやぱっり好きなのかなと思いますけどね。


閖上に戻る・戻らない理由

遠藤利也:戻ってこない理由の1つでもありますよね。結局生活のなんていうか軸というか大黒柱というのが、僕たちの世代で変わっていたとしたら、わざわざ津波きたところで移転しなくてもいいんじゃない、子供たちの学校の関係もあるので今ここらへんの子達はバスで通っているのね。で通ってもその学校に例えばわかりやすいとこで言うと野球部あるんだけどサッカー部ない。サッカーやりたいからじゃあいっちゃうと。となるとやぱっりそういう新しく生活をスタートさせるっていうのも僕たちの世代だったらまあ簡単にできる。じいちゃんばあちゃんだとそこに行ったら近所も知らない人たちだけどってなることって多いじゃないですか。ってなるとやっぱ出歩かなくなったりとか。でも僕たちは子供たちがいれば、近所の人たちとコミュニケーションとれたりだとか。ってなるとやっぱり他所の行ってで学校が近くてとか、電車が近くてとかっていう所の方が僕たちとしては、考え方としては楽なんだよね。だから他所に行ってる理由もあったりとか。だからやっぱり難しい。難しいですかね。他所に行ってしまった方が楽な部分っていうのもあるので、やっぱり増えてくれるは、その増えてもとに戻ってくれればいいんですけど。


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