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閖上

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相澤幸孝さん

インタビュー一覧へ戻る 閑上育ちで、1970年代から閑上の写真を撮り始めた相澤さん。震災当時の事や写真のことについて伺いました。 閑上の写真を撮り始めた理由 Q:このような閑上の写真を撮るきっかけというか、どうしてこういうような写真を撮られてたのか、経緯を教えていただけますか? 特にまあ、自分の生まれ育った場所だしね、自分ではいいところだなと思っていたんですよ。海があって、入り江があって、貞山堀があるでしょ。でこっち側には名取川があって、まあそういう景色がやっぱり、自分でほら、地元の者としても好きだったし、それである程度、まあ私写真始めた当時ね、ここに、名取川に橋がなかったんですよね。その当時、渡し船とかだったんですよ。その頃から始めたのかな、写真。1970年代くらいまであったんですけど。それであと、閑上行商の人とかね、行商の人なんかここをずーっと自転車で歩いていったり、そういう人達もいて。なんかそういうのなんとなく絵になってたからね。まあそれで始めたっていうか動機なんてそんなもんですけどね地元の写真は。閑上はやっぱり結構水とか、空とか海とかの景色が割と、朝日とか夕日があると結構きれいじゃないですか。まあそんなところだね、そんな所が良くて写真を撮り始めたというか。それで自分が生まれ育った所だしね。 震災当日の記憶 まさか家まで持っていかれると思っていなかったんで、とりあえず逃げたんですよ。で戻れる、なんていうのかな、戻れるつもりではいたのね、最初。だから最初情報が、出る前に出ちゃったんですよ、家を。だから私は家をすぐ出たから、その時は、車、年寄りがいるもので、車に乗せて、それで出た時はね、車出た時は津波が来ると。3mの津波っていうんですよ最初。それで途中まで行って、あっ一人乗せるの忘れたって、叔母、叔母を乗せて。それで行った頃からもう6mの津波が来るってなったんですよ。3mだったらまだ床下だから大丈夫だななと。6mって言った時にね、これ一階全部すっぽり被るなあと。でも家は残るって頭でいたんだよね。それももう、逃げる途中でね、役所まで逃げたんだけど、その時でもう仙台港に10mの津波が来たとかの話になっちゃったんですよ、ニュースでは。でもその時、地震あってからどのくらいだろうなあ、あそこまでだと、家出てから15分か20分はあったかなあぐらいの話ですよまだ。それでもう10mって。ああ10mだとだめだなあ、家すっぽり被るなあって、でまあそのまま。だからみんな置いて逃げてきちゃったから、戻るつもりでいたんでもちろん。まさかね、無くなるとは思っていなかったんで。それが分かっていたらさ、みんな持って逃げたんだけど。 震災後 Q:震災が起きてから10日後ぐらいじゃないですか、撮り始めたのが。やっぱりまだその時にはみなさん落ち着いた状況にいられない中で、こう相澤さんが写真を撮ろうって決めた理由というか、決心した理由とかってありますか? いやあ写真やってたからやっぱりこれしか、やることはこれしかないよなっていう。それと、その自分の写真を探しに行ったから。毎日、毎日じゃない、ガソリンが当時入れられなかったんでね、まあちょっと間を置いてしまったんだけど。その時間を見ては行って瓦礫の中から自分の物を探す。それも写真には入っているんだけど、自分の置物がそこらへんにあって、自分のまあプリンターとかスキャナーとかは見つけたんですけど、レンジとか。そういうのはこの辺に固まってあったんで、その辺をこう重点的に堀り起こしたりして、探していたんですよ。だからあとは、そっち忙しくてカメラ持っていてもあまり撮らなかったのね、実は。まあある程度ざっとだけ撮って、あとはあんまり撮らなかったんですよ。 写真が果たす役割 Q:先ほど写真を撮るのが生きがいとおっしゃっていましたけど、写真撮っている時はやっぱり気持ち的に楽しいというか、 いや、あのね、いや結局忘れられるから。こう被写体を見てるでしょ。そういう時間が多分いいんだよね。まあ写真やっていると何考えているんだか分からないよね。テレビばっかり見ててもしょうがないしね。 インタビュー一覧へ戻る Advertisements

小野幸三さん

インタビュー一覧へ戻る 小学校の教員として働く中、様々な復興に向けた活動にも参加されている小野さん。現在の子供達の現状や今後の復興への課題などのお話を伺いました。 震災前の防災への意識 Q:先ほど日和山の石碑についてお話していただいたんですけれども、そのような小さな石碑があっても、気づかなくて今回3.11の津波について予測ができなかったってことなんですけれども、それよりも大きな、例えば慰霊碑などが建設された場合、それが今後津波について考えさせられるとか、3.11のことを次の世代に伝えていく一つの手段になるとはお考えでしょうか? 石碑ってのはある程度効果はあると思うんですがどうやら長くは続かないみたい。あのー、こう石碑があるなーって程度でその本当の意味って伝えなきゃ伝わらないですよね。伝わってなかったですね。そうゆう石碑があったってことが伝わっていなかったですね。 Q:なぜ伝わらなかったとおもいますか そうゆうこうシステムというか、よく文化化されてないとかなんとか、群馬大学の片田先生っていう方がいるんですが、文化化されてない。津波の教訓があって例えば地元の祭りとか色んな行事の中でごく当たり前にこうそうゆう文化化されるまでのレベルでその地元に浸透したものがやっぱりないと、文化化されないとやっぱり伝わらないんだっていうそうゆう意見をいう学者もいるんですね。で、そうやってその津波がかつて襲われた、石垣島の人魚の伝説とか、色んな何箇所かやっぱり指摘があって、釜石の奇跡っていうのは片田先生が、こう色々指導したところもあるんですがやっぱりある程度こう地域に根付くようなそうゆうものを作り上げないとやっぱりダメなんだと。で閖上ってのは要するに避難訓練やるったって結局集会場に避難してお茶飲んであのーおにぎりあれして、はい終わりみたいな感じでほとんど意味はなかったという、、。でその釜石の奇跡を起こしたあの地区の地域の住民も実は防災センターってのが街中にあったんですね、で今日実はテレビでやってたのを見てきたんですがえーとー…二階建てなんですね。それで結局避難した大半の人が亡くなってしまった。高台に逃げれば、小中学生のように高台に逃げれば、だったんでしょうけどその震災の前にえー、少し前に避難訓練したときもまぁ高齢者が多いので高台に逃げるって訓練をしないでまぁ簡略化してこう、街中の二階建ての集会場に逃げるっていうそうゆう訓練をしていた直後だったので避難行動をみると結局ね、山に逃げないでその、そっちに集まってしまった。そうゆうのがあったりします。 閑上の現状 本当は戻りたい人がいっぱいいるんですが、こういう風な流れを経て時間が経つとともに、もう残念ながら戻るのを断念した人がいっぱいいる。しかも、もともとローンを抱えてる。もう、家を建てたばかりだとか、ローンがもともとあるとかっていう家もいっぱいありますよね?で、さらにこう新しく立てるっていうのは、2重ローンにはなるわけですよね。で、あと、買い上げる。名取市の方で土地を買ってくれますよと。でも、ローンがあると買えないんですね。いろんなね法的な縛りもあって、結局ね戻るのを断念する人も結構増えてきているような、今、非常に少ないですよね。 本当の意味での復興 若い人が戻らない限り待ちとしての再建というか再興はなかなか厳しいですよね。その後に若い人たちがあー閖上っていいところだってたくさん住むようになれば、とは思うんですが、それはやっぱりね、世代は次の世代かその次の世代か、あるいはさらにその次の世代か、こうやっぱもっと世代が後だと思うんです。でね、あの仙台が実は太平洋戦争で仙台空襲ってのがあって、その仙台空襲があったけれど、仙台市の中心街ってのはことごとく焼け野原になったんですね。その焼け野原の状態ってのは今回の被災した閖上の街のような状態、あるいは神戸のね、あの火事で焼けた神戸の街のような状態、そのようになった仙台市の中心街もやはりね、区画整理をして今あのような繁栄が実はあるんです。だからやっぱ世代がね、本当に復興するってのは復旧、っていう使い分けは復旧と復興は違うよ、と。復旧は元通りになる。復興はさらにその時よりも盛り上がるというかね、って言われますが、本当の復興、本当の意味での復興ってのはやっぱ次の世代、あるいはその次の世代、もっと先の世代だと思う。今じゃない。今のね、私たちの世代は、私とか長沼さんの世代はもうなんとか凌ぐ、しかない。次に繋ぐしかない。そういうところだと思います。だから自分の子供や自分の孫がいるかどうかわからないけど、自分の子孫のために今何をしておけばいいのかっていうそういう視点にもう実は立ってるわけですよね。 学校での防災教育の難しさ まず現状からすると、実はさっきも言った通り、今ある小学校、今ある教室ってのはいろんな子が複雑に入ってるのね。それで、なにか防災教育、なにかする場合に実はうーんとこう配慮して気をつけないとできない。で例えば下手に津波の映像見せたら、穏やかではないというか、ものすごく傷つくというかフラッシュバックする子いますよね、PTSDを実は持ってる子供もいるし、その親も当然そうだろうし、いろんなこう事情がそれぞれあって、そういう中での防災教育は実は難しいんです。で、沿岸部ではないところの学校の防災教育ってのはもう既に始まっていて、いろんな事例が紹介されてますね。でもそれはね、まだ一般的なものであって、まぁ全部津波ってのも極端なものなんですけど、ただ、実は閖上小中学校だってほとんど手付かずですね、防災教育らしい防災教育は今何もしてないですね。できないですね。で、最初なんか藤が丘小学校に間借りしてこう入った年なんかも、プールも工事中ではあったんですが、プールは最初の年は全くなかったんです。水の流れをみたら、もしかするとフラッシュバックするかもしれない、だから最初の年はプールは全く、なかったんだよね。で、うちの息子は震災の時は閖上小学校の屋上とか3階とか、逃げてたんですが、最近あんまりしゃべらない、当時のことはしゃべらない、自分の胸にしまっていて、だから無理にしゃべらせられない。ですけど、最近ちょっと聞いた話はやっぱり津波見てたって言ってました、屋上から、流れるのを。ただ、その閖上でね、閖上保育所というのがあって、畑悦子先生っていう所長さん、今日お話来てもらうんですが、畑先生は子供たちに見せちゃいけないっていうんで、小学校に避難して屋上で見せないように子供たちの周りを職員で囲んで、見せるべきではないということで見せない、で教室に移ってからも通常保育という形でこう怖いものを見せないで楽しい雰囲気を作ってっていうのを意図的にこうそのようにやって、避難させたってのがあったりしてるんで、やっぱり見せてはいけないものも実はこう本当はあるわけで。 防災教育 それで実は今長沼さんと一緒にやってるのは、まぁ防災教育だろうと、で、防災教育でも、当然防災教育って学校が中心になって、やりますよね。文科省、教育委員会、県、市、やはり学校が中心だよね。幼稚園、保育士も多分それなりの防災やると思うんですが、今目指してるのは、市民団体ですね。防災教育を進める市民団体というのがあれば、当然学校ではやるでしょうけど、違った立場からいろんなことができるだろうっていうので、実は今毎週水曜日集まって勉強会をしていて、自分たちも勉強してるし、いろんなことを学びながら何が必要なのかどんなことができるのかっていうのを今実は模索してる。いろんなことがわかってきてます。その辺を今後は力入れて行こうかなと思ってます。 インタビュー一覧へ戻る

野口一子さん

インタビュー一覧へ戻る 宮城県仙台に住む野口一子さん。閖上に知人がいらっしゃるそうで、閖上にもまた行きたいと言います。旦那さんを震災前に亡くされ、震災当時一人で、とても恐怖を抱えていたと語ります。 震災時の恐怖 ほんとに怖かった。その揺れるのが大体あれほど大きくなくても大体ずっと続いてたんですよ。そして雪が降ってきたでしょ。で、まあ日中まだ会社がやってる時間には寄ってきたりしたけども、夕方になったら誰もいなくなったの、この辺に。それで怖くてもう家にいられなかったんです。それで、明るい時傘さして、鍵かけて。でも、鍵もみんなかかったし、トイレも壊れて、今もまだ壊れてますけど、壊れても普通に使えるんです。それで怖くて一人で家にいられなかったから傘さして町内ずっと歩いてたけど、誰もいなかった。で、小学校がずっとあるんですけど、行ったとこにね国道のとこ。で、そこがそういう時に集まるとこだったの。私そのことなんかちっとも頭になかった、もう怖くて怖くて一人でしたから。それでここ歩いてて、でも家に入るのは嫌だなあと思って。。 震災直後 そして市役所こう見たら明かりがこうこう付いてたんです。だからあぁユミにも子供にも連絡しなきゃと思って、どうせダメだと思うんだけど、ここ通じないんです電話は。それで市役所行ったの。そしたらロビーが一杯人がいて、そして公衆電話がダーッとあるからそこをみんな列になって待ってて、やるけども、どなたも通じないの。三回ぐらい回しては交代して。私もダメでしたけども。 こんな目に遭うとは そして怖いなーと思って、また外でなきゃなと思ってたら、ミゾグチさんの奥さん迎えに来てくれて、家に行こうって言われてまた。そして泊めてもらって。一人はもう心細いわ、怖くて。ほんとに・・・こんな目に逢うとは思わなかったってみんな思ってるでしょうけど。 怖い思い あのーこういう怖い思いすると、地震というものが怖いと思うようになるのね。そんなに地震なんて大きいのにあったことなかったから、そんな怖いと思ったことなかったけど、ほんとにもうちょっと揺れてもあの頃はもう・・・ドキドキドキドキしましたよ、うん。 Q:今はその怖い気持ちって少しずつ薄くなりつつあって。。 ええ、ありますね。。。雨漏りだけが怖い。 仙台の復興 Q:現状とかっていうのはニュースからわかりますか?復興してるとことか・・・ そうですね。大体わかりますね。まあまあですけどもね、うん。だけどあのー、国だってそんなにお金無いし、市だって県だってねあれですから、そう思うようにトントントンとは行かないですよね、これはね、完全にね、復興ってね・・・だから・・・まあ、これはしょうがないですよね、徐々にだね。 Q:仙台の復興はもう早かった。。。 仙台はね、やっぱりね。で、私あの、高校の同級生とかがもう仙台が津波でなんとかなんて言ってみんな心配してくれたけど、この、私達の所は海に近くないから大丈夫でしたよみんなね。 心の復興 まあ仮設は可哀想だもんね。さっき言った(テレビで放映されていた)おじさんに、ほんとに狭いとこ、台所があってここでご飯食べて、こうやって小さな部屋があるぐらいなんですよね。おじさんは多分ここに休むんでしょうね。そしてその男の子まだ高校生だっていう人が・・・お兄さんと一緒なのかな、まあ二つぐらいしかない部屋でしたね。だから・・・ほんとに狭いもんね。だからカビるでしょうね。あの、人が大勢集まったとこも温度上がるでしょ。それとおんなじだもんね、狭いところにねいれば。でもあの男の人も卒業して、中学校だったのかな、そして高校三年終わって、今年あたり就職したかもしれない、その弟さんの方。お兄さんは勤めてたんだっけね。何回もやったわ、その人たちのこと。かわいそうに。だからあまり笑顔とかなかったね、その男の人。可愛がられてたでしょうにね、まだ中学生ぐらいだったらね。そういう人一杯いるんだろうね。 Q:そういう仮設に住んでる人は、やっぱり家がないってことで、なんか心の復興っていうか、すぐに同じような生活に戻れないっていう・・・ そうかもしれないね。 Q:仙台の人たちはそことはやっぱりちょっと違くて、家があったていうところが違う点ですか。 家があったからね。 Q:そこでこう、やっぱり仙台の人の心の復興は他の人と比べて早いっていうのはありますか? そうですよね。それはそうですよ。それであのー、立派なうちがあってもそこは一ヶ月に一回、一週間に一回とか二回とか行けないとか言って、そして入るともうねずみとかなんか動物とか入ってもうどうしようもないとかああいう風になったら、どうするんだよと思ってね、それこそもう立て直せば一番いいですけど、立て直したらそんな大きな家も建てられないでしょうし。私だったらどうするだろうなって思ってました・・・気の毒だね、それはね。 Q:仙台の人はどっちかって言うと、普通の生活に戻るのは早かったですか。 うん、早かったですね。まだまだ電気もつかないのかなって思ったら、ある程度。でもその通りから向こうがもっと早かったんですよ、やっぱりそういうなんかの具合でね。でもね、みんな言ってるけど、私も思いますけど、大体三歳から五歳くらいあのショックで年を取りましたね。頭も悪くなったし。失敗ばっかしするし。大体一日に三つくらい間違いするんだから。ほんとにあの・・・大体みんな・・・おかしくなった。そして実際ほんとに年も取りますからね。 インタビュー一覧へ戻る

久米田泉さん

インタビュー一覧へ戻る 震災後は桜団地仮設の自治会の一員として2年間務められた久米田さん。仮設での出来事や、閑上への思いをお話し頂きました。 仮設における閑上のつながり Q:そうゆうみんなでできれば一緒に移動したいっていうのは、仮設でできたつながりが強いから? そうですね。はい。 Q:そのできたつながりっていうのは震災前からのものなんですか? ものもありますね。閖上特有のそういった近所付き合いっていうのが。アットホーム的に。本当にお醤油かしてとか、これ食べてとか、これ作り切れないからこれ食べてとか。そんな感じでアットホームな関係は保てたんではないかと思います。 Q:じゃあそれは仮設に入ってからも続いていった 続いてますね。まあお醤油貸してっていうのはもう昭和の時代です。私の小さい頃のことですけど、作ったものってかいただいたりとか、あと食べきれない野菜をわけてくださったりとか、そういった関係は今でもこの仮設ではありますね。 自治会役員としての活動 役員を2年間やって、去年の春、2年間やったんですよ役員。役員をやって、いろんなコミュニケーションをとって、誰が具合悪いとか、誰がどんなお薬を飲んでるとか、誰が歩行に困難なのか全部知り尽くして、名前も覚えて対応してきた分だけそれで成長したのかなと思って。 Q:その役員の久米田さんの具体的な役割は? マルチでした。マルチです。会長がいなかったので、会長の一応総務なんですけど、物資担当だったり、週の決め事、一日一日、1か月のスケジュール表とかの組み合わせとか、時間の組み合わせとか、あとは倉庫掃除とか Q:本当にマルチですね。 あとボランティアさんが来たときに、私の目では判断できないなっていうところを、何件もくるんですよ。一日5.6件くるんですよ。こうゆう者なんですけど、何かできることはありませんかとか、こうゆうことしてあげたいんですけど何時からがいいですかとか、それを会長にお伺いしていいものなのかどうなのか、私が即決で決めていいものなのかどうなのか。あとは悪質かどうか。それを判断するのに1日中集会所にいたのが2年間だったんですね。そうゆう役員の仕事でした。 2年間を振り返って Q:そうゆういろいろな経営っていうのはそうゆう災害のトラウマを考えるよけになってるっていうか もう無我夢中でした。2年間は。住宅の方も今住んでる住民の方も2年間は無我夢中だったと思います。あたりを見るっていうよりも、自分の生活をゼロからスタートしなければならないので、それにくわしたボランティア活動だったりとかそういった支援物資の配布をいただいたりとか。 子供達のトラウマ 地震のことは一切しゃべりませんでした。 Q:思い出してほしくないものなんですか? はい。っていうのは、今でも地震がなるとリュックサック背負う子いるんですよ。そうゆうこもいるので地震のことは一切しゃべらないと。今は今、その時はその時。で会話したのが一応配慮したつもりでしたね。 Q:そうですよね。やっぱりここ震災後に生まれてる子のほうが少ないですもんね。子供に震災のことを質問されたときっていうのはどうゆう風に対応されてるんですか? 質問はなかったです。なかったです。テレビ局とかはいっぱいきまして、震災後もどうゆうふうな経路で逃げたのかとか、そんなことは聞かれましたけど私のほうでは、しゃべりはしませんでしたね、子供たちには。 Q:そうゆう子たちがそのさっき例でいったリュックをしょってしまうっていうこがいるって言ってたと思うんですけど、他にもやっぱそうゆうふうに地震の影響が心の傷になってるんだなって感じることはありますか? ありましたね。住民さんのお孫さんが地震がなるとばあちゃんここまで津波くるって毎回聞くっていう話を聞きましたね。だからそれだけまだトラウマ的に。 Q:そうゆう聞かれたときの対応として心掛けてることとか、これは言ってはいけないとか もうしゃべらないのが一番ですね。 Q:聞かれても来ないよって そうですね。大丈夫よって。大丈夫よって。 閑上の慰霊碑について Q:そしたらそれこそ慰霊碑に名前を書いてほしいとかっていう感じですかね。 うんそれは、母親とか、あの亡くなられた方とか、震災で亡くなられた方。また行方不明者の方。の名前は入れてもらえれば最高かなって。うん。名まえっつってもあの相当な数になるでしょうから久米田家とか、何家とか、何家とかって、うん。そんな風な感じで、入れてもらえれば最高かなっとは思ってますけどね。そうするといつ行ってもそこに、みんなと一緒に、みんなの供養もふくめて、母親の、と、久米田家の、あのご先祖の供養になるかなーとは思いますけどね。5 Q:慰霊碑がそういう大きなものになればなるほど、注目度っていうのが上がって、外から来る人も増えるんじゃないかなって思うんですけど、そういうのはもう、歓迎ですか。 歓迎ですね。やっぱりさっきもいったように、風化してほしくないので、うん、ほんに眠ってる方は震災で眠ってる方だったり、あるいは震災前に亡くなった方で、わかる範囲でうんあの書いてあったりっていうのを見て、ああ、こんなにたくさんの方が亡くなったんだ。ああ、こんなに荒れた土地が、あるんだとか。うんそういった面では、うん。 Q:知ってほしい。 知ってほしいですね。はい。 今後の閑上の町への希望と不安 Q:あの今、あの、どのような閖上の町をつくっていうかなんていうかこう、話されてたんですけど、今は本当に海の威嚇の閖上にはなにもないっていう状態だと思うんですけれども。これから、どのような、閖上の町にしていきたいというか。将来どういう風な町になっていけばいいなと思っていますか? 前に戻ってほしいですね。うん。前の、前の通り。ええ。今は災害公営住宅がはい,建ちました。でもスーパーもない。医者もない。ってなると、高齢者が、閖上に帰る確率が高いので、うん。若い人たちはもう家を建てたり。うん。アパート借りたりして、さい、公営、あの、仮設を出てってるんで。だいたいは。予測的には高齢者が多いんで。そこが心配ですよね。 インタビュー一覧へ戻る

鈴木芳一さん

インタビュー一覧へ戻る 震災を乗り越えようと新しいことを始めた鈴木芳一さん。パソコン教室に通い、ガラス細工も始めたそうです。そんな中、震災で御家族を亡くされてからの現在の心情、震災当時の話等語ってくださいました。 当時の津波の恐怖 今度あのー、せっかく仏壇を新しくしたから位牌だけでも取りさ行きたいなと思って最後に位牌取りに行ったんですよ。その時に、丁度それが来たとき、あのー海の方、あれが津波だと思わなかったのね。あのー、とにかく土煙?煙がもやもやーってなってたのはわかるんだけど、まさかあれが津波だとは思わなくて、だから三回目の津波、んー、ああ三回目に戻ったとき、丁度私津波に巻き込まれたんですよ。うん。その時は周りの人たちらが、俺が車運転してる時に戻れーって騒いだらしんだけど聞こえるわけじゃなかったし、で、対向車に逆走してくる車が一杯あったんですよ。なーんでこいつら逆走するんだろうなーって思ったんですよその時。そして、真正面みると土煙みたいなもくもくもくーってなってたんですよ、空が。そしてそれがもう津波だと思わなかったから。で、それが丁度水。。なんちゅうんだろ、寄せてくるって言ったらなんともいえない表現だけど、寄せて来たんですよ。それ、私もすっかり飲まれて。ただ私の家はワンボックスだったから、何度か高いかったからまだ良かったんだけど、車ぐるぐる回されて、もう逃げることもなんにも出来なくなったのね。そしてそん時人間の本能なんでしょうね、そん時一瞬にして私窓開けたんだってね。そして窓開けて、で窓半分ぐらい空いて止まったんですよ、もう電気系統ショートしてたから。うん、そんときの正面のガラス、全面フロントガラスありますよね、あんな音ってすごいです。ミリミリミリと音がします。あーものすごかったです。そしてその間に私と車に、車にぶつかってきた車があるんですよ何台か。あのー、軽の車とかいろんな車がぶつかってきて。あのー窓が空いて、そこから私は上手く逃げられたんですよ。ところが自分にぶつかって来た女の子、今でも忘れられないけれど、あの顔は。あの結局その子はもう巻き込まれてもう水たっぷり浸かったんだわ、軽だから小さいでしょ。車体低いから、俺のは高いっちゃ車体が。だから助けてっちゅうんだけどあの顔。窓に顔を貼り付けて。あの顔は一生多分忘れられないなと思っています。あの女の子は。あの女の子の顔と、後おばあちゃんが柱に津波で着いて助けてーって叫んでる顔は。声も顔も。多分それはたまになら、今でも夜暗くて寝れません。怖くて。今もだから明かり付けて寝てます。夜、出るのも怖いし夜。いつのまにかそういう恐怖になってしまったんだね。だから一人でいるときが一番怖いですね、いろんなこと思い出すからね。 無我夢中で逃げた だからあん時っちゅうのは無我夢中なんだよね。うん、実際は。だからあの無我夢中で逃げたことさえ、逃げて、車から逃げるのはほんの何秒もないですよね実際は。だからいや、多分これは経験から言うんだけど。自分はあん時はもう半分死ぬんだなって思ったから。あのー車流されて、巻き込まれて、あのードア開かないとき、あー俺はここで死ぬんだなってあの時本当にそう思いました。でやっぱり、いろんなことを走馬灯に・・・よく言うよね、テレビなんかでもね、あれ経験しました。ほんっとにいろんなことを頭ん中に出てくるんだね。それも経験しました。あーこういうこと言うんだなってよくあん時はあの、よく走馬灯のように蘇るって言うようによくテレビなんかで見ますけど、あーそういう、こういうことなんだなーって。あんときは半分あー俺はここで死ぬんだなあと思いましたからね。 生かされている Q:そういう当時の震災のことって、ずっと覚えて・・・ うんなんでしょうね、なんで覚えてるんでしょうね。記憶の断片にね。他のことは忘れても、そのことだけは忘れられないってこれはなんなんだろうなって思ってます、だから。 Q:忘れてはいけない・・・ うん、そう思ってます自分もだから。そして自分が何のために生かされているのかなって悩んでいますよ。あの当時死んでもおかしくない状況だったのに、なんで自分だけこうやって生かされてるのかな、カミさんは何をどうしろっていってるのかなとふと考える時あります。あの時、ホントに死んでもおかしくなかったですから私は。おめは、だからみんなにおめえは長生きするなって言われるけれど、長生きしたくないなとは思ってます。 Q:生かされた命・・・ そう、だから何のために生かされてるのかがちょっと・・・苦しんでます。 閖上の海 あの、なんとも言えないです、あの朝。朝起きて、窓開けたとき、朝日のきらきらしてるっちゅうのが何とも言えないですよね。うちも古い家で二階から、私二階に住んでたから窓開けると、なんっとも言えないですよ、あの情景が。あの情景私好きだなって思ってるんですよ。あの、起きて朝キラキラして、海がさ、キラキラしてるんですよね。で、そこにある船がポンポンポンとのって煙はいてる姿が何とも言えなくてね。好きな光景だなって思ってました。夜は夜であの灯台の明かり、あのピカピカ光る、あれも何とも言えない。好きでしたからね。うん、なんとなく何かと海見てるだけでも、一人でぽつらーっと海さ行くのも好きだったからね。あのー波の音?あれが好きだったからね。 橋の向こう Q:鈴木さん自身はそういう亡くなられた方を思い出す特定の場所とかっていうのはあるんですか?ここに行ったらあの人たちを思い出すっていう・・・ いや、それはないな。ないけれど、どうゆうわけか行きたがらないんだよね。あのー、橋から向こうに。どうゆうわけか。でも良かったのは、俺だけじゃないんだね。あのやっぱりみんなそうゆう風になってる人はまたいるんだね。だからそれは安心した。あれ、俺病気かなあって思ったもん自分で、行けなくなる、行けないっていうのは。それで、聞くと、そうなんだ私も行けない行けないって言う人いるなあって思ったから、だから安心はしました。あれー俺ってなにか病気になったのかなって思ったもんほんとに。どーも車運転しててもそっから先行こうと思っても、なーんか行きづらいんだよね。だからいつもこう橋から向こうへは行ったことないです。だから日和山からは行ったことないです。どうもあの橋越えられなくているから今。 Q:その震災の経験はトラウマになって・・・ いやーだからそれはトラウマなのか俺はちょっとわかんないけどさ、自分でさ。まずいなとは思ってるんだけど、でも、いや俺だけじゃないんだなって思ったからまぁそれなりに安心はしたのね、いやこれって病気なんじゃないかってほんとに思ったから自分で。 苦労と今 うん、俺も考えてるよ。俺も考えるもん。あのーここ(仮設)へ来た頃。死にたいなーって思ってたもん。なんでこんな苦労するなら死んだ方が楽だなあって思ったもん、実際は。 Q:その考えをなくすきっかけになったのはやっぱり・・・ うん、そのパソコン教室さ行って、そして今自分のやろうとしている仕事が俺自身がやっぱりおもしろいなって思ってるからさ。うんいや、結局苦痛じゃないっちゃ。いや、それはお金になるならない別にしてね。まぁ今は実際お金になってないけど。なんとなく今やってる事自体が今楽しいからさ。面白いなあと思ってるから。ただ、その面白いからっつって、ね、おもしろさイコールお金に結びつかないからさ今とこさ。でもー、今言ったように自殺っていうのはほんとに考えたね。で、そんなことしたら死んだほうがなんぼでも楽だなーっちゅうのは思ったことはあります。こんな苦労することなら死んだ方がいいやーっていうのはね。まぁ今は隠れているのかもしれないけど、どこかに、自分の気持ちの中にね。今は仕事の事とかで今頭が目一杯だからさ。いやー今度いつ展示会すっかなーってことで今手いっぱいです。あと俺以上どういう風に汗かいたらいいんだべなーって目一杯です。売れた商品早く作りたいなとも思ってるし。買ってもらったのにまだ作ってないから。 Q:集中したいことが出来ると気持ちも明るくなりますね。 はは。いやーでもね、みんなそれなりにやっぱりみんな苦労しているんだよみんな。うん、立ち直れんでいるんだよ、今。俺だってほんとにひどかったもん。一年・・・一年間ほんとなんにもしてなかったです。ぼーっとしていました。よくまあみんなこんなそういう風に働いたりさ行けるなあって思ってました。会社なくなったこと自体がショックだったんだからさ。会社ね、30年も同じことやってきたことしか知らないっちゃ、実際。実際世の中っちゅうのはほとんど知らなかったのとおんなじだね。会社とうちの往復だけしか知らないんだから。それ以外のことを知らなくたって別に食っていけるんだから。 インタビュー一覧へ戻る

長沼翔さん

インタビュー一覧へ戻る 閑上育ちの長沼翔さん。震災当時の状況や、閑上への思いをお話ししてくださいました。 震災当日の記憶 Q:九死に一生ですね。 ほんとだよね。で俺膝ぐらいまで浸かってさ、焦ったよね。怖いよ追われる恐怖。親父はさ、屋根の上にいたって話じゃん。あれはでもさ、流されてどうしようって恐怖じゃん。こっちは追われる恐怖じゃん、また違うんだよね。まじで青くなるよほんとに。俺まじで死ぬと思ったもんね。弟に生き延びたらラッキーだからねって言って。とりあえず逃げるべって言って逃げて、生き延びた。死んでらんないと思ってさ、じいちゃんばあちゃんはいいから逃げろって。まさかね、一緒にいるのにさ、見捨てられないよね。 Q:そういうことって今でも思い出したりするんですか? 結構ね、鮮明に覚えてる、記憶はね。でも不思議なことにさ、匂いとか、音って分からないんだよね。 Q:映像だけ、、 そう。映像だけワーッと残ってて、その音とか、匂いとか、景色とかは覚えてるんだけどね、そういうなんていうんだろう視覚的なものは覚えてるんだけど、他は覚えてないの全然。研ぎ澄まされてるのかな、、ワッ!って。集中してるからは分からないけど。 Q:それは弟さんとかはそういうの、、 弟はどうなんだろうそいういう話あんましたことないけど。でも弟もそうだろうって、多分必死なんだろうね。で、こう安全な場所を探してるから、目は効くんだけど、他はもうどうでもよくなってるんだと思うんだよね。そういえば車とか爆発してたりとかさ、してんのに音分からないんだよ全然。 Q:結構きっと大きな音ですよね。 うん。だろうね。家とかも壊れてるんだから、音はしてるんだと思うんだけど、全然分からない。一切記憶にないの音が。怖かったのはね、側溝ってあるじゃん?そこの蓋がさ、浮くんだよボコボコボコボコって。走ってると。あれがねえ、すごく怖かった。異常に。全部がだよ、全部がこう道路の脇にあるのが全部ボコボコって浮いてきてるんだよ。ボンボン!って浮くの。 Q:走ってる途中に? そう、それがね超怖かったんだよね。 閑上の復興 Q:あとそのやっぱ復興案というのも、今ちょっとあると思うんですけども、長沼さんは将来どちらにできたら住まわれたいと思ってますか? どこに?閖上には戻りたくない。正直、うん。戻りたくないね。 Q:それはやっぱり、津波の影響とか、 うん、もあるしね、やっぱもうさ、遅すぎるよね復興が。気持ち的にさ、やっぱ冷めるよね、そうなると、遅すぎて。 閑上に対する思い Q:そのなんか昔は閖上に住まわれてたと思うんですけど、あのー、なんか閖上に対してちょっと住みたくないと思ってるけど、なんかちょっと寂しいみたいのはありますか? それはあるよ。やっぱねえ、地元だからね。地元がないんだからね、やっぱ寂しいよね。10年ぐらいしか住んでないにしてもさ、小、中って、ずーっと暮らしていたわけだからね。やっぱ小、中って一番遊ぶ時期じゃん?その時は遊んでたからね、やっぱ今行くと悲しいよね。なんにもないんだもん。あれはね、複雑な気持ちだけどね。 Q:同級生の方もやはり、閖上に住まわれてた方とかも、他の場所に、 俺の同級生は殆どね、こっちいないから。仕事で県外とか、にいる方が多いからね。やっぱりね、話聞くと誰も戻るっていう人はいないかな。 今後の希望 Q:やはりその羅夢ちゃんとかも、これから小学生になったりとか、やっぱり将来があるわけなんですけども、なんか今後の一番の希望というかそういうのは今思いつくものとしてはありますか? あっ羅夢に対してとか? Q:とか、はい、そういうのも、、 Kとりあえずね、家だよね。まあ仮設の居心地が悪いとかそういうのでもないけど、やっぱ羅夢も流石に大きくなると狭いからね、もう少し大きいところに住めればいいかなと思うけどね。やっぱりね、ここに建ててもらえればいいんだけどね。やっぱそこだよね、まずは。ここを出て行きたいとかそういう訳じゃないけどさ、すぐここを出ていきたいとかじゃないけど、ちょっと狭くは感じてはきてるかな。 Qまずは家というか、、住む場所、、 そうだね。あととにかく進めてもらいたい。まあ俺もね、すぐに家を建てるのは無理だから、まずは復興住宅に入ることが前提だからさ。だから早く進めてもらいたいとは思うけどね。 インタビュー一覧へ戻る

菊地篤志さん

インタビュー一覧へ戻る 被害にあったご家族のお話を中心にインタビューさせていただきました。現在は地元から少し離れた場所に住んでいらっしゃいます。ご職業は漁師で、菊地さんの海に対する気持ちもたくさん聞かせていただきました。 海に対する気持ち Q:震災後、海に対しての思いっていうのは変わらなかったんですか。 うーん、だ、津波、俺目の当たりにあのー、閖上のこっからずっと行ってあの誤差路、ありますよねあの、閖上を橋の手前。あの歩道橋あっとこ。あそこの家さ息子と2人で走って逃げて、助かったのね。うん、して。目の当たりに見てんのね、その津波も真正面からくっとこ。人も流れていくのも見て何人も見たし車も流れてく家も流れてく、で、本当あの、海生き地獄みたいなとこまで全部見たのね。でも、海さ、その船さの、乗るって言ったときは、乗るったときは、う、うーん、何の恐怖心もなかった。うん。だからなんていうのかな。海が悪いんでないんだよね。海は俺たちはこう、ね。生活の糧として職場であって育ててくれた海。ね。収入ほぼもたらしてくれる海なんだよね。悪いのは津波なんだよね。海は悪くねんだよね。うん、だから恐いとか、っていうのは一切なかったね。海さ出っときは。うん。 うん。いや、うーん、みんなやっぱりこう、おやも、ねえ小山君にしても古田さんにしても、恐くなかったってこう、どうでしたかっては、い、聞かれたけど、別にそんな海が悪いんじゃなく津波が悪いだけだから、うん。だ、別にこの、恐くはなかったですっては、うん。 Q:なるほど。今もこう、津波がくるんじゃないかっていう恐れとかはありますか。 いやないね。うん。来たら来た。うん。来たら来た、だね。 Q:凄い。そういう考えで。 うん。だってそんなんいつくっかわかんない、ね。わかんねえのさ神経ピリピリさせてさ、ストレス溜めながら仕事したって。うん。I want you~ なんてAKBの歌でも歌って操縦してたほうがいいね、かえって。(笑い声)フォーチュンクッキー~なんて。(笑い声)うん。だってね。千年に1度とかっていうね、そんな毎回毎回来たらね、あんなのばり来たらば日本つづ、ね、潰れてしまうっちゃ。うん。だ、少しその辺はあんまり、ね。自然だから。うん。 漁師という仕事 Q:仕事は菊地さんにとって生きがいみたいな。ものなんですか。 漁師って、全部仕事は同じなんだけど、漁師って、目に見えないもの捕りにいくっちゃね。ね。畑ならさ、大根でもキャベツでも、自分の目で、いいも悪いも判断できる。ね。あ、こいつがいいとかこれがとり頃とかなんとかってありますよね。海の場合はなんにも見えないものとってる。だ、自分の感と経験と、運と、で勝負してかなきゃいけねっていうか。ね。だからそん時のその、大量したときのその感動。うーんしてこう今、今12艘船いんだけど、やっぱりその中でのそのやっぱり水揚1番になったとか。とかっていうときにこの感動、なんていうだろうね、こう。うーん、言い表せね、この、こう、こう、っうってこう。(笑い声)いうのが、やっぱり他の仕事ではないっつーこの達成感っていうか何て言うのかなーこういうの、こう、うーん重機乗っててもダンプ乗ってても、んーそのやっぱほうゆうような、やっぱり海、陸の、そういう感覚っつーのは他の仕事では俺なんね。やっぱり海でないと。うん。 Q:こう、震災があったあとにも、やっぱりこう自分が生活をやり直していけたのはその仕事があったからだなっていうのは感じますか。 うんうん、それはあるね。うん。うん、やっぱり、でさ、あの、重機の免許とっても、最初物珍しさだから、ちっこい重機からこのおっきい重機までの、乗んのね。段々段々とさ、すとやっぱり、ああこういんだ。ああいうんだ。ああこうなんだ。こうおっきいのはこうなんだとやっぱ好奇心半分でやってからずーっといくとおおー楽しいなっていうのね。でもほいつが1か月2か月3か月となってって、そ、だいたいの重機乗り回してしまうとわ、うーん。と、この3か月くらい経ってくっと、えー何やってんだよ俺ってこう。なってくんだね仕事慣れてくっと。でまた今度大型免許取ってダンプ回して、あー砕石積んだアスファルト積んだ、いろんなの積んで、ね。どこの現場ここの現場ってーと、おおダンプってこういうのなんだ、幅で、うーんでも楽だなーとか高いとこから目線が違うなとかなんとかっていうんだけど、そのままだこう、ん、何か月か経ってくっと、何やってんだ俺ってこう、んー、なんだね、して、ん、海は、海だって赤貝いてろくが、えーと9月の1日っから翌年の6月の30日までの10か月そぐようなのね。だっと同じ仕事なんだけど、違うんだよね。うん。 震災後の仕事量 Q:その震災の前と後だったらその仕事変わったとか、何か変化とかってありましたか。 変化っていうかうーん量的なあの、水揚量。が震災でまるだいたい2年間くらいその海そのまんま、だったのね。誰も漁することもできなって、船もぜん、全船なくなったんで。だから赤貝、赤貝が、あの、とれ、とんないから増えたんだよね、いっぱい。捕れる量がはんぱでなくなって。だから、せん、ん、5月の買得になって安く前まで、だいたい5時半にこう、閖上出発してくのね。朝の5時半に出発して、出発して、だいたい6時半、ごろにあの漁業さあのゆっくり走って、みんなで10艘ず、12艘でずーっと走っていくのね。して現場さ到着してから、ほの、会長さんが今っから操業してくださいってなって。でね、あんまり捕りすぎて、市場下落すっから、40分ずつ2回しか仕事してこねえの。 うんして。少なくして希少価値を高めながら売ってきましょうっつーので。だから、早い時だと、朝、んーだいたい2時間くらいで1日の仕事終わりなのね。 でこう下世話な話だけど、ほんで、金額的には、あのーだいたい平均10万くらいとってくんだよね。 うん。うん。だから、んだそういうやっぱりこう金銭面に対しても量的なその感動ね、すっとやっぱり陸の仕事ではちょっと味わえない。うーん。 戻る、戻らない Q:仕事は菊地さんにとって生きがいみたいな。ものなんですか。 最初はね。うん、だから、うーん、当初のやつではもっと、こんな長にかないで、ふ、んと、3メーター嵩上げして、ていうような、感じだったのね。して、あの震災の時民主党だったじゃないですか。政権が。ほんときは、どこでもあのー閖上に住むっつうんだければって、換地してあげますよってなったのね。してあのー、民主党から今度自民党政権になったらば、なったとたんに今度俺のうちんとこが、規模縮小みたいな形であの、危険区域になっては。してあの換地して土地はあげないよってその、なったんで、していまだにほや。目標が立てらんねじゃないすか、ね。ああいう状態で。その、はいれば、土盛りしてその嵩上げ始まってんだっつーんでなければ、あんで、俺んちどの辺さ土地もらえんのかなとか。どのくらい、ん、土地もらったら家建てたらいいのかなとかっていう、ね、先が見えないっちゃ。なんにもなってねえから。だから、それよりもね、で50にもなってやってたってこ、いやーこんではー、と思って、なんかこう、ね。早くしにやんねえとだめだなーっつーんで。で、あーいいわと。閖上はいいわ戻んないわって。うん。でここさこう引っ越して。最初は閖上さ、引っ越して、やっぱ港も近いし、ね。から、閖上さして、閖上の人間だから閖上さ住んでっていうのはあったけど。やっぱりああいう長引いてね、市長と何考えてるかわかんないけど、ずーっと長引いてっと、やっぱり、最初はね、行きたいと思ってても、ああいう風にずーっと長くなってっと、先見えないからどうしてもね。だ、この辺にもね、閖上さもう戻んないっていうい人いっぱいいんの。閖上、まあ閖上さ住んでて、最初当初は閖上さ戻るって言ってたんだけど、あんまり長引いて先が見えないんで、いいわって。子供さん小さい人はや、学校の問題もあるし、とかいろんな問題。年寄りの人んなれば病院の問題とか。この辺だと結構近くさ行けばすぐ病院でも、ね。す、スーパーでもなんでもあっから。なんだけど、やっぱ方いう人らはもう、待ちかね、うーん、ない人はもう、うーん、全部こう、借金しても全部家建てて。うん、だ、俺の、親父の実家の人も、こど、うーん、の娘さん子供小さくて小学校に入るっていうときになって、で、閖上さ戻る、たいんだけども、学校もできない、家も建てらんない、何もできないってどうすればいいのっていうので、してあのー、もりせきの人たちって、あのーモールが、イオンモールがありますよね、まえ、ね。あそこの近くんとこさ、もう土地買って家建てたのね。だ結構同級生の人もね、だいたいこの辺さ結構いんの。もう建ててわ。うん。で閖上さね、同級生124人いてね、亡くなったのが7人くらい。津波で亡くなってんだけど。閖上さ戻るっていう人誰もいねえよ。同級生で。うん。ある先輩さっき、先輩の奥さんささっきいくんだ。こんなこと言ったらば妹の人に失礼だかもしんないけど、800人の人亡くなってんだよって。あのまじでって。 してまだ40何人も見かってないんだよって。そこんとのうちさね、嵩上げして、そこさ住めるって。んだそう思ったときにね、やっぱ、ああーんーそれもあるなー。800人の人亡くなって、命が亡くなったとこのまた40何人が見つかってないとこの、どこさいっかもわかんないとこの、ほの上さ嵩上げしました家建てましたって住めるって。な、んー先輩の奥さんはもうだめって。いかないって。して、その俺たちの年代になっとやっぱ長沼君も同じだけど、お孫さんいるような、ね。年だっちゃみんなだいたいみんなね。すとその、息子の嫁さんが、行きたくないって。うん。だ自分はいいけど、その息子の嫁さん。とか娘さんとか、が、なんでそこに行けなくちゃいけないのっていうような。のがだいたい聞くと、だいたいほういうような答えだね、みな。うん。 現地再建 うーんでそのあんまり執着してそっちゃあんまこだわる必要俺はあんまりねえんでねえかなと思う。うん。やっぱり、ね。(咳払い)命あってのね。だから。やっぱりなくなってるっつー現実だっちゃ。800人も亡くなって、あんだから。いや、ね、故郷だからそこ大切にするのはわかっけども。ね。それよりもやっぱり命あってのだから。安全性を考えて。なにも、閖上の人がその、ね。この煙草の中のここんとこさ住まいばだいたい昔っからね、だいたい顔なじみの人なんだから。ね。いいわけだから。あの、なんもこっち、な、んで、今んとこじゃなくたってこの安全性を考えて陸地のね、奥の方さそこんとこさ下、して、そこを閖上の町にしてでも、いんでないかなって、俺は思うね。うん。何が何でも閖上のあの町あそこの町って。っていうのはちょっと、うーん。俺は、くんね、国の予算とかなんとかってこういろんなのあっから、ね。ほういうことも言ってんだかなんだか俺は、俺たちはわかんないけど、でも、安全性とか、やっぱ生活してく面で、考えれば何が何でも閖上っつーんでなく、別に閖上の町をつくれば良いだけのことであって。うん。俺はほう思うね。うん。 Q:その土地に執着するんじゃなくて人に。集まれば うん。だ、人が、閖上の人が全員で移るっていう。うん。だ、集団移転じゃないけど、閖上の町をまた別なとこにつくれば、ね。すと前のように1丁目2丁目3丁目4丁目5丁目6丁目7丁目っていうのをき、し、規模縮小しながらも、やっていけば。そこんとこになれば、元の閖上だっちゃ。ね。だと思うのね。うん。何が何でも閖上のあそこの町にね。っていうのは俺ちょっと可笑しいんでねえかなと思うのね。うん。なん、執着、なんで閖上く、だって今ね、この便利な世の中で誰だって車持ってる世の中でね。ぎょ、港が近いとかなんからってね。どっからで、車で5分も歩けばどこだっていかれっちゃ今。閖上の港までこの辺、ね。東部道路の借りに、東側にして、ね、そこに町つくったって3分もあれば閖上までいくんだから港まで。うん。して利便性と、東部道路の、東でも西でもいいけど、その近くさえあれば、ちょっと行けば、スーパーでも病院でも学校でも近くさ、っんとあんのね。うん。で今んとこだって、あの更地を、ね。借りにやってほこに家建てます。学校どうすんの。病院どうすんの。スーパーどうすんのってなったら。そんなことよりも、近くんとこを、やって閖上の町をぽんとこっちのほう持ってくれば。うん、別にほんなね、悩むことでもねえんでねえかなって俺は思うのね。うん。 でましてやね、今の若い人たちなんかあの現状見てる人もいる。うん、閖上中学校と小学校さ何千人っつー人、ね。避難して、その目の当たりのほの津波っでみて。ね。人流れてく、車流れてくっていう。俺も何人も見たのね、車ん中でこう助けて助けてって流れていく。人も流れていく。あともう生き絶え絶え流れていくって。何十人も見たのね、ほういう人。そういう人も全員亡くなってるわけだ。ね。して、なん、その中で俺たった1人だけなのね、息子と2人で。1人しか助けらんねかったんだよ、1人だけ。1人だけ。だ、ほういう中で、ね、そういう現状踏まえていう中でほこんとこさまた戻るっちゅうよりも、安全性、ね、今っから生活してく人の安全性を考えたらば閖上の町をそのままぼんと持ってって。すれば。うん。すと、津波来たってここまで被害なかったから、っていうので。ああ安心なんだって、生活できっから、俺は何も現地再生、現地再生でなく、別にこうしても、俺はいいなと。うん。うん。と思うね。だからほの、現地再生もいいけどほの、こ、ね。仮設っつー、あのー、集合住宅、復興住宅建てっとこもいまだになんにもない、ない状態、更地で家もぽつぽつ建ってる状態で何にもなってない トラウマ、当時の記憶 でも、俺ね、日和山って、震災後、一回しか登ったことねえの。うん。なんか登らんなくて。してあの閖上中学校の、正面、門とこさ、あの、中学校で亡くなった人の、慰霊碑あって。キクチナナミってうちの娘の名前もあんのね。船乗ってても、あの中学校の前の通り何回も通んのね。でも、ウィンカー挙げて曲がるって、まが、まが、まが、ん、何て。曲がれないのね。うん。娘ん名前んとこさ行けねえの何だか。どうしても。だから、なんかのって、っつー時は、行ったとき。うん。はあっけど。な、なんだろ、この、ね。行けないんだよね。だ、ウィンカー挙げて曲がればね、すぐなんだけど、ほれができねえんだよね。うん。あーあるなっつうのもわかるんだけど。ごめんね本当。ほんと、うん。できねえんだよね。なんだか。ただ、ね。娘は、むす、娘がね、娘が、震災の日の夕方なんだよね、上がったのが。(咳払い)大橋の、根っこで、だいたい公民館からだから、だいたい800メートルっかくらい流さって。して夕方に、後から知ったんだけど、見つかって。虫の息でこう、ちょっと息あったみたいなんだね。して、上げらって、泥だらけで、ほのまま救急車さのしぇ、乗せ、乗って、出発する。息引き取るだったのね。娘は。っていうんだよね、見ってた人が言うのには。しておふくろは、次の日、12日の日、うちの女房が、仕事先から帰らんなくて。して、実家に泊まってわや、次の日の朝娘探しにっつって、来た時、お、俺のおふくろは中学校の、3階さいたのね。そん時は、まだ、こう、喋れる状態だったんだけど。して。うちの女房が、で、娘探しいっからって行ったときに、そのあと、携帯読んで、亡くなったんだね。だから俺は、息子と2人で、歩道橋の上から震災の日の11日の、11時半、12時ごろ、水引いたんで。そっから閖上の方しさ。で、みんなで避難して。そっから今度、車に乗せらってあの東(04:07)小学校ってとこさ、あの避難して。いったんだけど。だから、わかんねのね、現状がね。して、たまたま、俺の妹、妹、ん、で妹がばあちゃんとナナミは、公民館に避難させたからっていうから俺は安心しったのね。したら、って、や、大丈夫だべ、避難したから助かったなーと思ってたらば、後からんなって次の日なったっけ。ここも、ね。公民館はもたないから、中学校さ移動しろ。やって、ほの途中で、津波で流さったのね、俺の娘だのわ。して俺のおふくろは、先にその、ちょっと体、脳梗塞やってたもんで、あ、まともに歩けねえから、ある人が車に乗せてって中学校の門のとこまで行って、中学校の玄関の門過ぎてけん、玄関とこで津波でこう、水さぬれたのね。おふ、ていうんだよ、おふくろは。なんか、ね。うーん。亡くなってね、して二人とも亡くな、亡くなったんだけど。(咳払い)だ俺は安心してね。次の日、名取市の市役所の玄関とこで友達と、いやーどうだったのーとかって、うーん俺たち避難してたから大丈夫なんだーみたいな感じで、ほの、わかるまではね。ほの日、の何時間くらいっかだけちょっとにこにこってできたの。あと次の日っからは、後、娘、を探すことだけ。っていうの。みんな、避難所。ん。ね。避難所全部まわって、名取市。あと、名取一中だ、タテゴ小学校だ、どこかここだって、ね。(05:54)や。すと中学校。閖上中学校から、何人。バス何台でここさ避難してくんだーっつうの、だ、来る時間聞いて、してそこ乗せて。バス降ってくんの、ね。ひ、降ってくる人さ娘見ねかった、娘見ねかったって。して今度小学校からこっちさ来る、小学校の人さも今度聞くさいったりとか。して、何日目でや。9日。9日目かな。ほれも、世の中さこんな悪いことするっていうか、面白半分で情けない人もいるんだなっていうのが。ほの、娘見つかる日ね。あの、避難所で、なんにもしないでぽつんとしてしてたの。そしたら俺の携帯に、女の人から電話かかってきたのね。あの、菊地さんですよねって。はいって言ったら。あのね、七郷、仙台の、七郷中学校に、閖上中学校から避難、閖上中学校の生徒で、菊地ナナミさんっていう人避難してますよって、いたずら電話あったの。で俺なん、一週間以上もね、探して娘見っけらんない、っかった時だったのね。して遺体安置所とかも行ったりして、見てたときに、いたずらだよそいつ。して今度女房と2人で、あ居たんだっつて、で俺いくべっつって今度あのガソリンない時に、行って。したら、いやーそういう人いませんって。いたずら電話だよね。はー人これっくれ苦しんでんのさ、よーく面白半分で娘います、娘さんいますよなんていたずら電話、よーくできるなとおもって。して、その日の帰ってきて女房と2人でがっかりしていたときに、うちの親戚の子があの、名取市であのボランティアやってて。してあの、なんかね、聞いた話によると、空港の遺体安置所に、棺の番号が33番で、閖中の女の子の遺体あるんだってよって言わって。ほんで行ってみっからっていって、いって。してあの、顔見て、服装とか。確認して、して娘、あー娘だったーって。そこで見っけたんだけど。でその。人間って面白いもんで、棺の番号が、うちの母親も亡くなって、うちの母親が、棺の番号が27番だったの。して娘が33番だったのね。して、どこの避難所探してもいないと。でこれは亡くなったんだと。で遺体早く見つけなきゃいけない。して、遺体安置所さ行くのね。すと1日目にこう、並ぶっちゃね、遺体こう。遺体安置所にね。すと、自分の中さどっかで生きててほしいっていうのあるっちゃね、誰でもね。すと生きてるって勘違いしてんだよね。して、見てんだよ。おふくろの顔もなんも、娘の顔も。ずーっと開けて、あ、違う。あ、違うって。して33番も27番も見てんだよ。見てんだけど、頭ん中では、他人にしか見えねえんだよね。して、1日目にこう、50人運ばれてきた。すと、なん、繰り返しだいたい見んのね。み、見て、すと、あーここさいなかったって。んで明日運ばってくれる遺体もいっからって。すと、この最初の50人は見ないわけさわね。して、今度60人目から、次の、まだ、見るんだよね。とそいつの繰り返しなのね、ずーっと。百何十って。200、300っていうまで。してこっちのほうは、うんいなかった。あそこはいないんだから、違うとこ見っぺわって。なってくんだよね。して母親は、母親は女房が中学校で言葉かわしたっつーから、体も悪いからたぶんどっかの病院、が、どっかにあの保護されってるって、自分で解釈してんだよね。で頭ん中さわ、あーおふくろは、たぶん病院さいっから、大丈夫だと。いや娘だけなんだ探さなきゃいけねえの。してこう、顔みてんだけど、してあの、死に化粧でその、化粧して、口紅とかぬって、髪型も違ってっからわ、ぱっと見っと、似てっけど、いやーこんな髪型してねえしこんなんでないなってなんだよね。してそいつがずーっとなってって。してある時そのいたずら電話あったときに、ボランティアの親戚の子から電話きたとき、さんじゅ、33番っつったらば、1日目に見ったっちゃわね俺。って。してその27番だっちゃ今度おふくろね。しておふくろは病院さいるっつうのあっから、見てんだけど、わかんねえんだよね。して、身元確認不明では、遺体東京さ持ってっていかってわ、東京で火葬されって、お骨になってこっち帰ってきたのわね。おふくろは。で、俺の、(咳払い)次男が、友達死ん、あの、亡くなって、探しったのね。したっけほの、友達の友達も一緒に探してたんだけど、たまたまうちの息子がいなくてほのやつが遺体安置所さ行って、ほの、先に火葬なってっかもわかんねえからって、写真確認してたんだっちゃね。で写真確認してたらば、ほの友達からうちの息子さ、なんだケイちゃんのばあちゃん亡くなってたとわって。して、く、口の息子が行って、したっけ今度息子が来て。お父さん、ばあちゃん亡くなってたわーって。御骨んなってたわーってなって。あらーって。だから、あ、見えてねっつうか。ね。なってんだよね。おかしくなってんだよね頭が。で、(12:11…)娘か、ん、娘遺体、あいつして、火葬して、その後だから、1か月、40日か45日くらいっかな。ほの後くらいかな。しておふくろだってなって、して今度お骨、ね引き取って。あの、お寺さんのほうさ、ね。納骨っつか、おさ、納めてもらって、ていう風になって。だからなった人つうか、そういうなった人じゃないとわかんない、わかんないっていうか、憎しみ、ね。身内亡くなってる人でないとわかんない。たぶんなって、んん、うーん亡くなった人でないとたぶんあの、感覚っつーかああいうのたぶんわかんないと思うよねやっぱ。うん。長沼君ちの1番下のね、子供さんと同級生だったから。見てんだけど、見てんだけど他人だ。他人だって。して頭ん中さどっかで生きてるっていうのあっから、亡くなったって自分でこう、何て言うんだ。認めたくないって。だこう他人に見えてくんだねみんなね。うーんそ。うーん。ね。なんだか。うん。ほういうのはあ、あったね。 発見されたということ 諦めるわけじゃないけど、やっぱり、供養して、ね。線香着けて供養して、やることしか、できないし。それ、ね。してやんないとなーと思って。で、何て言うのかなー。うちでは2人とも見つかった。ね。して、なく、亡くなって、うちでは2人見つかったと。して、見つかんない人も、ね。最終的には40何人いるんだけっど、まだ何百人も見つかんないとき、に、あー亡くなったんだ。いいなやー。いいね。もう見っかって。って言われるのね。だけど、ああ見つかって。ああ。うん。火葬もしたし、あれだから、うちではいがったのかな。でもなんで俺、見つかったからいいねってなんで俺言われなきゃいけねんでって。なんで。な、ほんでなんで俺の娘(15:37…)亡くなんなきゃいけねかったんでって、こう。とほういうのこう、くう、ずーっと回ってんだよね。亡くなった。見つかった。ああよかったね。でも何で死ななくちゃいけねえの。なんで見つかっていいねって言わんなきゃいけえねえのってこう。うん。は、あ、うん、あったっていうかずっと思ってるね。うん。何でって。いやみ、見つかんない人にしてみれば、おや、ね。見つかって、火葬して、一周忌も終わって、とかっていうのなっけど。でま、ほの反面なんで亡くなって見っかったのさ、良かったねって。ね。心が意固地になってんだか、(笑い)ね。なんかわかんないけど。 仏壇 Q:やっぱり自分にとって凄い大切な、ものとなっているんですか。どういう、仏壇というのは菊地さんにとっては。 うーん。や、うーん。人、ん、んー。なんつうのかな。人集めてね、みんなに供養してもらう場じゃなく、やっぱり、この家の家族。ね。姿はないけど、家族、が、ここにいるっていう。やっぱり、ね。うん。だ、さい、だね、やっぱり。うん。亡くなった人やっぱりお線香つけて供養する。毎日供養する、何する。してこう、うちの家族なんだっていう。うん。だ、んのための仏壇っていうか。うんやっぱ家族だね、やっぱりね。うん。親父、おふくろ、んね、息子と娘と。いっぱい菊地家の、この家の家族っていう。うん。だね。やっぱり。 Q:家族をつなげるための凄い、役割を。 んだね。うん。 Q:どんなことをお話されていたりするんですか。仏壇の前で。 うーん。さ、震災ね、なって、娘おふくろ見っかってってなった時は。うーん。何でとかってこう、何でこうなったのーとか、もう少し上手く逃げらんなかったのかとかなんとかってこうね。無意味なことさ問いかけてみたりとか。とかあっけど。今は、今は、だね。うん。朝、仕事さ行く前に線香さつけてく時は、おはようって。だね。おはようだけかな。うん。おはよう。あとはね、こうしてくれああしてくれっつったってね、無理な質問しても、ね。困っぺから、こっちも。(笑い)うん、だ、ただ、線香つけて手合わせておはようって言って。うん。だけだね。うん。 Q:今。こう、私たちが、あの、こう、亡くなった方にできること、っていうのはどういうことだと思いますか。 亡くなった、こと、人さ、うーん。なんなんだべね。うーん。簡単でむずかしいね。(笑い)うん。やっぱり、うーん。や、うーん。くい、くい、だけ、やっぱり、最大のことはやっぱり、ね、なんでもないやっぱり供養っていう。言葉にしか、過ぎないとおもうのね。うん。やっぱり。うん。手を、手、手を合わせること、あ、っつーとかなんとかじゃなくやっぱり。うーん何て言うんだ、供養。やっぱ供養、っていうか、手、合わせるっていうか。うん。ほういう。だってね、何を望んでいいんだか、ね。うん、もう、わか、わかんないし、何をやってもらいたいか何を言ってもらいたいか。ね。どうしてもらいたいんだかっつうの。はっきり言ってわからないことだから、やっぱ漠然とっていうか、簡単っていうか、なったければやっぱり。うん。手を合わせて、手を合わせて。ね。供養してもらうっていうのが、1番なん、で、ね。うん。だ最初のころは、岸壁とか行ってても、その。いろんなとこから人来て。その、頑張ってください頑張ってくださいってこう。っんと言われんのね。だけど、言うの簡単だけど、何を、何を、な、どのように頑張ればいいのって。うん。だ、かえって頑張ってくださいって言われる言葉に対してほんと反感持つ。うん。いや、あっちはね、そういう気持ちなくて、応援してくれるっつー気持ちで頑張ってっていってんだけど。うーん全部なくした人にしてみれば、何を思ってどういうやってどのように頑張ってって言ってんのこの人って。は、うんあったね、最初のころはね。うん。鎮魂っていうか、ね。やっぱりどうしようもね、供養、供養だけしかないんだよね。うん。まあ後のこと、ね。もの、ものだければね。ものだければ買うなり借りるなりなんだりしても、補えっけど、やっぱりそれだけはね。ちょっと。うん。できない、ことだから。うん。だからやっぱり亡くなった人に対して供養してもらう。うん。だけだね。 インタビュー一覧へ戻る

赤間みなみさん

インタビュー一覧へ戻る 震災当日は家族と旅行に行っていたそうです。向かう途中で被害に会い、その後数日はホテルで過ごしたと仰っていました。 被災当日の様子 仙台でお食事、ちょっとお昼して。で朝乗って、もう早30分ぐらいで着くとこで地震なんです。高速で。すごく揺れて、バスひっくりかえっかとおもっくらい揺れるんだもよね。ほんで、運転手さん。もう大丈夫なの,バスひっくり返ってないっていったら、もうだ、あの、動かないでてください、ってね、いうもんで。だからいるうちはすごく揺れる、なんだろこの地震とびっくりしたね。そっしてるうちにバスのラジオが大津波来ます,大津波来ますって大声で騒ぐのよ。え、どこにくんのその津波。閖上にくるんでないっていったっけ、どこにいくかわかんないって運転手さんいうわけね。ここは岩手県だからば。閖上のほうに来ないんですか大丈夫ですかって言ったら、わかんないって。とにかく高速は降りてくださいって降ろされたから。下を通ってややかかったんだわね。道路も壊れてるとこもあるしね。ほんでやっとたどり着いたのが夕方の5時か6時です。その志戸平温泉に。ところが真っ暗で水もなければやっぱりあとの電気もない。なんにもないんだね。そんでもうお客さん。あ、そこはすんごいお客さんなんだよ。普段ね。あそこの志戸平温泉。おうち、ね、ホテルみたいな温泉があってね。外人さんたちもなんかしょあっていたみたいよ。ほんでとにかくバスの中に、くら、薄暗くなるまでいれれとおかれたけども。今晩、一晩このバスのなかにいるんですかっていったっけ。どうしたらいいかどうしたらいいかって。バスにはいられないよねって言ったの。トイレにも行きたくなるしね。んでおろ、とにかく、んで降りてくださいって降ろされたけど。真っ暗でろうそくの明かり一本なのね。あっちもにわがらのおっとだから。なにか、そんな明かりなんか用意していないみたいで。んで、赤間さんの部屋は8階なんですっつーんだもん。ええー、8階まで上がんなきゃいけないのってろうそくと。とにかく上がってくださいっつーの。部屋に。で8階の、んーまでろうそく1本で、の、手をつきながら登りました。4人で。んで、お食事はどこにも運ぶことでないから、下で、きて、降りてきて食べてくださいって。私は年もとってるし。足落と、なんかとっぽとして階段からたたき折ったら大変だと思って私いかないって。でおにぎりでももってくっからねって娘たち行ったところが来ないわ来ないわ。余震は強いの。んな真っ暗なところに1人してこんなに。2時間以上もいたね。なんだってあの子供たちなにやってんだと思って腹立ってきてさ。ほいでやっときて、何をやってんのやってて、いられないここに。何度も余震が来るのが恐くて。うんと揺れるっつたの。のど詰まりそうにしてね。ロビーにおろしてくださいって。下でいいから。わって、こういう、ね。ロビーもこういうところだから。でそこに、で、で、毛布2枚くらいつつ渡されて、そこに4日くらいいたんだわね。シドライラ温泉に。したっけ食べ物がなくなりましたって。4日もいらっしゃったんですか。ええ。食べ物のほうもホテルもなくなったんだあとは。何百人ものひとだから。1品なのね。カレーライスのときもあるし。お蕎麦もこんなどんぶりこんな1つではもうね、いっぱいいっぱいなのね。ほんで3日4日たつと食べ物もなくなってどうにもなりませんから、赤間さんたち、あの、花町の、中学校、1丁の、あのーあせ、あれに、避難所に行ってくださいって。て言われ、送られて、そこに2晩泊りました。すんごい皆雑魚寝でねー。人の、お、おトイレせんよとどっかで誰かの頭になんか上がったら大変だと思ってうーんと神経使うっちゃね。間いくらもなんだもんあちらの避難者いっぱいいて。それでなんとかして、早く閖上の近くに送ってくれないかってお願いしたのね。 仮設に入ったいきさつ 市役所に、そんな当たるわけないってうちの娘たちいうんだけども、出してみないことにはだめだっていうことで、市役所に出して連絡してやってみろっつったら、2、3日で当たりました。赤間さん当たりましたって通知が入ったのね。あー見ろそんだから出さないことにはだめだって、あれしたんじゃないって。すぐにさっそくそこの仮設もう最後の方だったかして、今みぎっから移っちゅるとこだったの。5月3日までなんだから。うん2、3日なんだものわ。当たるわけないって出さないでっから、今2、3日あるから出してみろっていったら。いちばん、今17の5っつーとこにいるんです。1番終わりに。うん。最後。北海道と東京とつぐって私笑うんだけどね。遠いんです。まずそのくらいの差はしょうがないと思ってね。でこう、お世話になっているんだけどもねー。なかなか。 市の対応 ほんでもこの臭みが洗っても洗っても、どっかのこういう間にみな入ったと思うのね。なんぼ傷落として、なってても。んだから、市でもね、もう津波が3月だったでしょ、で11月までにそのうちを撤去してみな壊さないいけねっつぺたよと。そういうあれが凄くあれだったんです。で今は言わないって言ってるんだよ、そういうこと。市も。あってとっぺな、んな語るの。何回も私行って聞いて来いって若い人たちはやったの。市さ。本当にそういうやつなのかなんだかって。だけど2、3回行っても、そういうおんなじ、やつなんだ答えなんで。ほんで、それこそ、リフォームをね、そんな大金かけてしても、入ってられんならいいよね、スムーズに。臭くて夏んなって土曜来てこの暑さでプンプン臭いして具合悪くして病気になるんだったらもう大変だと。それよりやっぱりね、それこそ、壊すのも3百万かかんだよね。そんなことするうち壊して、更地にしてきれいにして、どぼりでもきれいにしてね。もっては、そんな今自分の土地さ自分で入らんないんだよ、その今の状態ね。 インタビュー一覧へ戻る

佐藤幸弘さん

インタビュー一覧へ戻る 名取市出身の佐藤幸弘さん。閖上の人と関わるうちに、閖上の人の温かさを感じ、恩返しをするために閖上たこ焼きを販売しているそうです。 閖上たこ焼きの将来 Q: やっぱりこれからもこの閖上たこやきをみなさんに伝えていく、おいしく食べていただくって形で続けていきたなって感じてますか? そうですね。できる限りは続けていって、僕が仙台とかいってたこやきをやることによって、閖上っていう名前がついてるんで、閖上っていうのを知ってもらえるいいきっかけかなと思います。 Q: 仙台とかでも売られたりするんですか? そうですね。仙台行ったり千葉、福島、東京も行ったね。 Q: ほんとですか? 2回ほど行きましたね。 やっぱりそういうこともどんどん発信していけると、やっぱり知るっていうことが一番大事じゃないなっていう 閖上っていう字も読めないっすよね最初。 すごい面白い字かくなっ思って。 それでね、閖上たこやき売って、閖上っていうのを知ってもらって、少しでも被災したところに目を向けてもらえるきっかけになれば。やっていく意味あるのかなって思いますね。 将来のビジョンとしてはそうやってどんどん全国に浸透していけばいいかなって ですね。できれば全国。秘密の県民showとかに出られれば なるほど。 一気に知名度が広がりますね。 はい 防災教育 Q: これからやっぱりあの小さいお子さんとかいらしゃってて。被災した地域としてお子さんにどういうふうに3、11のことを伝えていこう。また伝えないでそこはっていう子供に対する対応は? 被災したっていうことよりは僕は防災。海は楽しいものだけど、こういう一面もあるっとか、こうなった時はこういう風にしないといけないっていうのをまあ今回いろんな形で学んだのでそれをやっぱ子供たちに伝えたいっすね。 Q: やっぱりこう地震がきたら次は津波が来るから高台に逃げろとかそういう取組というかそういう子供に防災を教える取組っていうのは名取市では行われているんですか? どうなんですかね。名取市でしているかは分からないんですけど、自分も防災について勉強しているとこなので、それをやっぱ閖上の人と触れ合うことによってやっぱなくなった、家族とかなくなったっていう人もいるじゃないですか。そういう涙を見てるのでそういう思いをする人が一人でも少なくなるように子供たちに防災っていうのを教えて、そういう被害がもう二度とないようにしてもらいたいですね。 行政に求めること Q: やっぱり行政の土地改革の問題だったりとか意見が対立するものが多いと思うんですけれども、今佐藤さんがこう行政に求めることというか、どういうことしてほしいとかってありますか? 求めることはやっぱり住民の声を聞いて、少しでもそのできるかできないかじゃなくて心のケアというか、みんなが望んでることを少しでも耳を傾けるような政のありかたであって欲しいなって思いますね。 Q: 今あの状態だと閖上の方々からしてみればあまりこう名取市のこう政策にちょっと意見を合わせることが出来ない人がおおいのかって思うんですけれども、そういうことに対してはこれから変えていかなきゃ、変われるってお考えですか? 変われるっていうか変わってほしい。やっぱり住民あっての町じゃないですか。ただね、町を作る基本って行政にあると思うんですけど、行政のやり方はやり方であっていいと思うんですけど、そこに住民の希望とか意見を少し反映できるような町になってほしい。内陸に、現地に戻る人もいるじゃないですか。そういう人たちはね。そういう人たちの自分たちの町を作るにあたって精いっぱいサポートしてもらいたいと思うし、内陸に戻る人は内陸に戻る人のサポートを一生懸命にしてもらいたいし、他にもともと内陸に住んでいる人たちもいるわけですからね。閖上だけっていうわけにはいかないと思うんですけど、そんななかで、住民あっての名取市であってほしいかなと、希望は。それはね僕だちがなにかできるもんじゃないので、議員さんとか、そういう代表の方たちが一生懸命やってくれてるので、僕たちがあまり言うことではないけど希望はそうであってほしいと思いますね。 閖上の人 Q: 先ほど閖上の人は困ったときに助けてもらえるっておっしゃってたんですけど、やはりその名取市に住まれてて閖上に住んでない、外からみても閖上の人は地域の人と比べて違うと感じますか? 僕の場合たこやき閖上のたこやきをやるにし、やっぱりお金の面でも、何かの面でもやっぱり大変な時があるじゃないですか。その時に味だったりとか、味も結局閖上の人が食べてくれないとわからない。そういう時にこう事細かにアドバイスくれる人が出てきたりとか、場所がないって言ったときに、じゃあうちの場所使ったらって言ってくれたりとか、今までずっと車を借りてやってるんですけど、車が借りれなくなるっていうときに、金かしてやっから車買えよって言ってくれるのも閖上の人だったし。困ったときにそっと手を差し伸べてくれる人が閖上の人だった。だからそういう感謝っていうかそういうのが自分にとってはプラスになっているので、そういうめんで違う形で恩返しをしたいっていうのがありますね。 コミュニティー Q: やっぱり閖上の方々は、一緒にこういう仮設で住んででコミュニティーを築かれてて、バラバラになるのがやっぱり嫌だっていう方がいらっしゃると思うんですけど、そういう気持ちを持った方との、やっぱり、その場で移転されて、一緒になればまたそこで新しいコミュニティーを築けるっていうふうに考えられますか? まあその時点で新しいコミュニティーはできると思いますけど、時間かかりますよね。それまでがやっぱり、自分もこう知らない土地に行ったときに、やっぱり最初からコミュニティーって作れないじゃないですか。 やっぱり、そうですよね。先ほど玉田さんとお話をしてたんですけど、やっぱり3年間ここに、ここのコミュニティーに住んで、やっとこうこの仮設に住んでみんなと仲良くなれたっておっしゃってたんで、移転した先でもそれが一番変わっちゃうのかなっていうふうに思うんですけれども。そこはやっぱりこう助け合いで解決できたりとか。 そうですね。僕去年の4月かな。初めてここにきて、たこ焼きを無料で配布しますっていって来たんですよ。その時にまあ、その時と、この間ここにきて、まあ1年ちょっとたって。まあみなさんの表情も違うし、コミュニケーションの強さっていうか大切さっていうのを、改めてこないだ、見て感じたので。それまでは、仮設自体が少なくなっているのは復興の1つとしていいことなのかなって思ってたんですよ。でもこないだ来て、おばちゃんとかの顔をみて、コミュニティーがあるからこそ、みんなで強く生きられるっていうのを感じたので。そのコミュニティーがね、やっぱバラバラになったり、最初から築くっていうのは難しいことだと思うので、ぜひこのままいい形で続けられたらいいんじゃないかなって思うけど。 インタビュー一覧へ戻る

遠藤伸宏さん

インタビュー一覧へ戻る 閖上生まれ閖上育ちの遠藤伸宏さん。閖上への想いや、復興の現状を熱く語ってくれました。 借り上げ住宅 Q: その以前はどちらに住まわれていたんですか? 仙台の白丸ってとこの借り上げ住宅。仮設じゃなくて借り上げ住宅。 Q: 借り上げ住宅ってすいませんよくわからないんですけれども。 用は長沼さんとかここは仮設住宅で市の土地やいろんな土地にポンポンポンって建ててもらってる。でもうちの被災した住民たちは全部まかなえきれないくらい住んでるわけ。住みきれないのよ仮設住宅に。全員が。うちの住民たち被災した人たちが。そうすると空いてるアパートとか市の住宅に入っていいよって。この震災ってあまりにも被災したから空いてるアパートに入ったら、補助金上限いくらだったら出しますよって。契約して1年とか2年とかで契約して、だから仮住まい。そこは仮設とか違うシステムかもしれないけど他では出せなくて生活費は出すけどお金は出さなくていいですよ、家賃は払わなくてもいいよってとこに我慢して2年かな、2年半ぐらい住んだのか。2年半ぐらい狭い3畳の部屋とかに。 Q: 住み心地はどうでしたか? 家に帰んない、帰りたくないからね、だって自分うちの町の人ってほとんど半分以上は多分半分以上って6割7割は持家だったのね。自分ちの家なのね。アパートとかじゃなくていくら古くたろうとちっちゃくても自分の家。だからそうゆうところにこうゆう共同生活したことなければ、俺もうちもそうゆう共同生活したことないから慣れないんだよんね。しかも全然顔見知りじゃ、うちはここ名取市だけど、俺行ったの仙台市だから空いてないから仙台市行ったわけ。そうするともちろん近所に知ってる人いなければ、そうするとうちの家族だけ。不安になるよねやっぱり。みんなバラバラだし。あの人あっちにいるこっちにいるあっちにいるとか。 Q: じゃあ近所付き合いとかは全然なかった? ない。ないまま2年半過ごしてきたからね。そこはストレスになるよね多分。逆にあとうちはそうでもないかもしれないけど言えないってのもあったらしいよ。被災して借りてるんですってって言えないって。あの人被災したんだって周りから言われるし、全然知らない人となりのアパートの人があの人被災してるからあの町から来たんだよって言われるからいやだって人もいる。支援物資とか寄付金とかももらってるんだってってそうゆう変なうわさたつと嫌がらせもあったって、中にはあった人も中には聞いたことある。だからあんまり自分のね、私はどっかから引っ越してきたんですってあんまり言いたくなかったって人もいた。うちはそこまでいわなかったけど。仮設とはまた違うんだよね借り上げ住宅っていうシステムは。 行政に求めること Q: 遠藤さんはどのようなことを市に求めて。。。 市に求めるのは住民と市の話し合いをもっとしろっていうだけで、全然しないようにイメージなのねしてないっていうかもっとこまめにするべきであって。お互い言い分あるからどんどんいいだして、だからこっちいいよこっちだめだよやっぱ中間とりましょとかそうゆういくら話し合いしてもいいのに、話し合いの場がなかったからこうなっちゃうと思うんだよね。だから住民のこっち側の意見は法律的にはもう全然クリアできないんだよね、だからうちのほうのんでください、いやいや頑張ってじゃあ半分とってくれとか、じゃあ頑張ってアピールしてきますとかそうゆう話し合いしてかないと、ある日突然これしかねえこれしかねえこれしかねえって毎回押し付けられて、それだったらあんたらあなたたち誰もすまないよねって行政の人たち結局。俺らの町だよねってもともと。俺らのこうしてくれって望んでるのになんで上からこうゆう市にしかしねえってそれおかしくないってなるよね。だってあの日復興ってたぶん俺あの日自分その町に住んでる人たちがどうゆうその町のなかのどこで住みたいかだと思うんだよね。自分は怖いから自分の町出て山のほうに引っ越したいって言えば引っ越す人たちにはこうゆう補助あっからこれで終わりですよってそれで終わりだと思うんだよ。それ単純なんだけど、それがないんだよね初期のやつが。だからこうなっちゃうんだと思うんだよね。たしかに人数多いかもしれないけど、被災した市町村の1地区にすれば多分うちの町1番多いはずね宮城県の中で。その復興の1地域の対象があまりにも多すぎるから言い分なんて100人いて100人違うかもしれないから、それはまとめるの大変かもしんないけど、でも少しずつやってけばすむわけで。やってる気配が見当たらなかったのがこうゆう結果だと思うよねまだ。 閖上 うちの閖上の人ってほんとちっちゃい町だよ多分ね。7200人ぐらいなのかなあの日まで。でも俺は特にだけど東京行ってもどっから来たの言われたら閖上から来ましたって言っちゃうんだよね。それってどこにあるのって言われっと仙台の、仙台空港の隣町なんですとかって説明しちゃうんだよね。仙台の人宮城県だったら多分宮城県で仕事しててあんたどっから来たのーとかって言われっと俺閖上ですっちゅうとだいたいみんな分かるわね、あー閖上ねーなんちゅって。だからそのぐらい自分の町、名取から来ましたて閖上の人絶対言わないからね閖上の人は。宮城県の人も東京行っても宮城県から来ましたって言わないんだよね仙台から来ましたって言うんだよね。それと一緒なんだよね。閖上はもう飛び越しちゃってるんだよね。仙台も飛び越して自分の町だけアピールしてるみたいだけど。そっからちょっと説明するのがうちの町の人の習性なのかな。だから自分の町いかに好きだったか誇りに思ってたかちゅうあらわれなのかなって思うよね。一つの本当の立派な町だったからさ昔はさ。市に合併される前は。だからそこの中でそうやって育ってきてっから俺はずっとそうやって教えらってきってからは、ましてこの漢字1個しかないからね。閖上ちゅう漢字中国の字でもないから、この字世界に1個しかない漢字だからさ。閖上としか読めない漢字だからそこにも誇りあるんだろうね多分ね。 慰霊碑 Q: 今度慰霊碑が日和山のほうに建てられる計画があるって、たぶん知ってると思うんですけれども。 見てきた。まだまだ途中途中。 Q: それはどうして見にいかれたんですか? 見に行かれたっちゅうか毎日閖上に足はこんでっから今日こうゆう状況なんだって見るからね俺は毎日ほぼ毎日のように行くから朝から晩。 Q: 慰霊碑についてはどう思われますか? 慰霊碑はうちの町に関してはあれ多分市でやるんだよねね。ちょっと遅いかなと。遅いよね多分3年半3年過ぎてるんだからもう。別にたしかに復興の事業に関係ないかもしれなけど慰霊碑なんてっていう人もいっけど別に大きさとか形の問題じゃないから本当にちっちゃくてもこの町でなくなった人たちの為の慰霊碑だからちっちゃくてもいいからやるんだったらすぐできることだったと思うのね。今他の市町村終わってるから何もかも遅いのかなってうちの町。だってうちの町いくとお寺もお墓さんも全部ないのよ見てれば分かると思うけど。でも今仮のあるのねお寺さんとかは。でもやっぱ地元に帰って手合わせたいよねお盆とかお彼岸とかそうゆう時ね 防災教育の必要性 Q:震災も過去のことだと思うんですけれども最近風化が進んでいるというふうにメディアなどを通しても感じるんですけれども、今後震災などで起きたことを伝えていくべきだとは思いますか、それとも過去のことは過去だと割り切って。 いや、日本だから災害は絶対ね水害もあるし津波もあるし火山の国だからね、噴火とかもあっからどこで何が起きるか分からないから本当だったらうちはちっちゃいうちから小学校とかからなんちゅうの防災教育みたいなのを小学校とか中学校で取り入れるべきな国だと思う最低でもね国として火山はここに火山があるよとか本当に小学校の授業とかで教えて。それも津波もこうやってこうゆうことがありましたよとか水害こうゆうとこのダムが撤回するとこうゆうことがありますよとかちっちゃいころから教えてトラウマになる前から教えてもいいよね国としてね。地域も市とか県とかじゃなくて国がやるべき。授業の国語、英語教えてるなら防災教えたほうがいいと思うね日本のほんとに。徳川家康がどうだこうだっていう前に明日起きるか分からない災害に備えて子供たちに知識を植え付けてないといざ何かあったとき何にもできない人になっちゃうよね、そういえば学校で習ってたからこうゆう時はこうゆうとこに避難したほうがいいとかって。まあそれはね、ないほうにはこしたことないんだけど。そうゆうふうに落ち着いて行動できると思うんだよねちっちゃいときから教えていれば。それを教えてる学校なんで多分どこもないないはずだから教えてくっていうか、そうやって教えていくべきだし、津波来ました、ね、でどっかで火山噴火しまいした、もう終わったことで次また違うとこでだから風化もそのことに対して風化してるかもしれないけど違うことはもう始まってるわけで別のことが逆に言うと震災前なんだよねまた新しいことゆうと次の何が起きっか分かんねえ俺らは前にいるんだよね。この起きたことに対してまだ同じいことを起きるにしたってこれもう終わっちゃっただから次俺らはここに生きてっけど、ここにあるか分かんない震災前を近づいてってるどっかの違う何かの現象に。だからやっぱもっと学校の風化させるとかしないとかどうか分かんないけどもっと国として阪神だったりこうゆう地震の多い国だったり水害多い国だから小学校なったら少しずづ教えてってもいいのかなって思う。今すぐこのへんの地域で教えろちゅうとトラウマの子供とかいっから言葉でも敏感に過敏に反応する子供たちもいっからやっぱりちょっとずらして後3年5年後ぐらいから教育に取り入れてくとか小学校だったら5年生から教えていくよとか俺はしてもいいと思うねほんとにね。だって英語よりは教えるべきだよね最初にって思う。だって日本なのに英語ペラペラしゃべるより自分の国のことの何か分かんないといけないし、大人になったら旅行とかいって海外に旅行とか行ったら海外とかでも地震起きたり噴火起きたりして巻き込まれる事故あるわけでしょ日本人が。その時対処できなくなるでしょ自分の町でその地域だけでその防災教えてたって地域にしか役に立たないんだったら国としておっきい防災の授業が週に何時間あってもいいのかな子供のころからって思う。だから国でどうにか取り入れないと、この名取市教育委員会だけの問題じゃなくて宮城県とかじゃなくて国から率先してやってもらえる国になってもらわないと多分何回やっても同じこと繰り返すんだよねと思ってこんな大きいこととかちっちゃいことのたんびに。ある程度知識、まあそこのなかでの授業全国のなかでの共通の知識あってあとは地域の特性でその市とかが教えるべきで、うちは山に囲まってからとか、うちは海に面してる学校だからとかそうやって少し違ったなかで教えていけば俺は多分ね、最低でもみんな命だけは守れると思うんだよね。だって命なくすと何も面白いことね、周りの人だってつまんないからねやっぱり。形なくなっても命さえ守れれば、そこだけは最低でも自分の命は自分で守れるような授業を、風化させないとかそうゆう関連していくとそこまでたどり着くのかなって思うね。 インタビュー一覧へ戻る

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