小野幸三さん

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小学校の教員として働く中、様々な復興に向けた活動にも参加されている小野さん。現在の子供達の現状や今後の復興への課題などのお話を伺いました。


震災前の防災への意識

Q:先ほど日和山の石碑についてお話していただいたんですけれども、そのような小さな石碑があっても、気づかなくて今回3.11の津波について予測ができなかったってことなんですけれども、それよりも大きな、例えば慰霊碑などが建設された場合、それが今後津波について考えさせられるとか、3.11のことを次の世代に伝えていく一つの手段になるとはお考えでしょうか?
石碑ってのはある程度効果はあると思うんですがどうやら長くは続かないみたい。あのー、こう石碑があるなーって程度でその本当の意味って伝えなきゃ伝わらないですよね。伝わってなかったですね。そうゆう石碑があったってことが伝わっていなかったですね。
Q:なぜ伝わらなかったとおもいますか
そうゆうこうシステムというか、よく文化化されてないとかなんとか、群馬大学の片田先生っていう方がいるんですが、文化化されてない。津波の教訓があって例えば地元の祭りとか色んな行事の中でごく当たり前にこうそうゆう文化化されるまでのレベルでその地元に浸透したものがやっぱりないと、文化化されないとやっぱり伝わらないんだっていうそうゆう意見をいう学者もいるんですね。で、そうやってその津波がかつて襲われた、石垣島の人魚の伝説とか、色んな何箇所かやっぱり指摘があって、釜石の奇跡っていうのは片田先生が、こう色々指導したところもあるんですがやっぱりある程度こう地域に根付くようなそうゆうものを作り上げないとやっぱりダメなんだと。で閖上ってのは要するに避難訓練やるったって結局集会場に避難してお茶飲んであのーおにぎりあれして、はい終わりみたいな感じでほとんど意味はなかったという、、。でその釜石の奇跡を起こしたあの地区の地域の住民も実は防災センターってのが街中にあったんですね、で今日実はテレビでやってたのを見てきたんですがえーとー…二階建てなんですね。それで結局避難した大半の人が亡くなってしまった。高台に逃げれば、小中学生のように高台に逃げれば、だったんでしょうけどその震災の前にえー、少し前に避難訓練したときもまぁ高齢者が多いので高台に逃げるって訓練をしないでまぁ簡略化してこう、街中の二階建ての集会場に逃げるっていうそうゆう訓練をしていた直後だったので避難行動をみると結局ね、山に逃げないでその、そっちに集まってしまった。そうゆうのがあったりします。


閑上の現状

本当は戻りたい人がいっぱいいるんですが、こういう風な流れを経て時間が経つとともに、もう残念ながら戻るのを断念した人がいっぱいいる。しかも、もともとローンを抱えてる。もう、家を建てたばかりだとか、ローンがもともとあるとかっていう家もいっぱいありますよね?で、さらにこう新しく立てるっていうのは、2重ローンにはなるわけですよね。で、あと、買い上げる。名取市の方で土地を買ってくれますよと。でも、ローンがあると買えないんですね。いろんなね法的な縛りもあって、結局ね戻るのを断念する人も結構増えてきているような、今、非常に少ないですよね。


本当の意味での復興

若い人が戻らない限り待ちとしての再建というか再興はなかなか厳しいですよね。その後に若い人たちがあー閖上っていいところだってたくさん住むようになれば、とは思うんですが、それはやっぱりね、世代は次の世代かその次の世代か、あるいはさらにその次の世代か、こうやっぱもっと世代が後だと思うんです。でね、あの仙台が実は太平洋戦争で仙台空襲ってのがあって、その仙台空襲があったけれど、仙台市の中心街ってのはことごとく焼け野原になったんですね。その焼け野原の状態ってのは今回の被災した閖上の街のような状態、あるいは神戸のね、あの火事で焼けた神戸の街のような状態、そのようになった仙台市の中心街もやはりね、区画整理をして今あのような繁栄が実はあるんです。だからやっぱ世代がね、本当に復興するってのは復旧、っていう使い分けは復旧と復興は違うよ、と。復旧は元通りになる。復興はさらにその時よりも盛り上がるというかね、って言われますが、本当の復興、本当の意味での復興ってのはやっぱ次の世代、あるいはその次の世代、もっと先の世代だと思う。今じゃない。今のね、私たちの世代は、私とか長沼さんの世代はもうなんとか凌ぐ、しかない。次に繋ぐしかない。そういうところだと思います。だから自分の子供や自分の孫がいるかどうかわからないけど、自分の子孫のために今何をしておけばいいのかっていうそういう視点にもう実は立ってるわけですよね。


学校での防災教育の難しさ

まず現状からすると、実はさっきも言った通り、今ある小学校、今ある教室ってのはいろんな子が複雑に入ってるのね。それで、なにか防災教育、なにかする場合に実はうーんとこう配慮して気をつけないとできない。で例えば下手に津波の映像見せたら、穏やかではないというか、ものすごく傷つくというかフラッシュバックする子いますよね、PTSDを実は持ってる子供もいるし、その親も当然そうだろうし、いろんなこう事情がそれぞれあって、そういう中での防災教育は実は難しいんです。で、沿岸部ではないところの学校の防災教育ってのはもう既に始まっていて、いろんな事例が紹介されてますね。でもそれはね、まだ一般的なものであって、まぁ全部津波ってのも極端なものなんですけど、ただ、実は閖上小中学校だってほとんど手付かずですね、防災教育らしい防災教育は今何もしてないですね。できないですね。で、最初なんか藤が丘小学校に間借りしてこう入った年なんかも、プールも工事中ではあったんですが、プールは最初の年は全くなかったんです。水の流れをみたら、もしかするとフラッシュバックするかもしれない、だから最初の年はプールは全く、なかったんだよね。で、うちの息子は震災の時は閖上小学校の屋上とか3階とか、逃げてたんですが、最近あんまりしゃべらない、当時のことはしゃべらない、自分の胸にしまっていて、だから無理にしゃべらせられない。ですけど、最近ちょっと聞いた話はやっぱり津波見てたって言ってました、屋上から、流れるのを。ただ、その閖上でね、閖上保育所というのがあって、畑悦子先生っていう所長さん、今日お話来てもらうんですが、畑先生は子供たちに見せちゃいけないっていうんで、小学校に避難して屋上で見せないように子供たちの周りを職員で囲んで、見せるべきではないということで見せない、で教室に移ってからも通常保育という形でこう怖いものを見せないで楽しい雰囲気を作ってっていうのを意図的にこうそのようにやって、避難させたってのがあったりしてるんで、やっぱり見せてはいけないものも実はこう本当はあるわけで。


防災教育

それで実は今長沼さんと一緒にやってるのは、まぁ防災教育だろうと、で、防災教育でも、当然防災教育って学校が中心になって、やりますよね。文科省、教育委員会、県、市、やはり学校が中心だよね。幼稚園、保育士も多分それなりの防災やると思うんですが、今目指してるのは、市民団体ですね。防災教育を進める市民団体というのがあれば、当然学校ではやるでしょうけど、違った立場からいろんなことができるだろうっていうので、実は今毎週水曜日集まって勉強会をしていて、自分たちも勉強してるし、いろんなことを学びながら何が必要なのかどんなことができるのかっていうのを今実は模索してる。いろんなことがわかってきてます。その辺を今後は力入れて行こうかなと思ってます。


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赤間 直哉さん

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プロパンガス屋として働く傍ら、アルバイトをし、たこ焼きを売っている赤間直哉さん。過去に消防団員でもあった彼の見る閖上とは。


震災前の閖上

Q:震災を経験されて、さまざまな思いをしたと思うんですけども、閖上という町はすごくみなさん仲が良いっていうのも聞かしていただいたんですけども、震災前は閖上っていう町はどのような・・・
うーん、結局ね、小さい町だし、昔からのある町なんで結構、みんな親戚なんです。うん、誰かと誰かが親戚で、誰かと誰かが親戚という、もうどこの子やって言ったら、こうルーツ、二三代聞くと、もうバレちゃうみたいなそういう地区だったんで、うん、あそこのあーなん、あそこのあーなんだぞやとかもう、すぐバレちゃうんで、まあ極端な話は、悪いことできない。うん。もう小さい町だから、噂も早いんですよね。あそこのあいつが自転車盗んだんだとかね、ま、お金盗んだとか、そういうのを代々言われ続けるんで、間違ったこともしちゃいけない町っていうかね、そんな感じでした。うん。で、しょ・・さっきも言ったように、子供の、幼稚園の時から中学校まで全員一緒なんです。うん。どっからも、間違って、転校ね、家が変わってここに閖上にきて、一人二人入ってくるけど、ほとんど閖上の人だけで、幼稚園から小学校、小学校から中学校って。全然変化のない町でしたね。うん。だからさっき言ったみたいに、長沼さん(愛島仮設の方)とかね、歳近いし、けっこう、なんちゅうか、上も下も知ってます。



みなし仮設について

Q:私たちの、今までお話聞いた方々は、やっぱり、仮設に行かれた方々・・・のお話、がほとんどだったので、仮設ならではの、こう、大変なこと、なんか隣同士の壁がうすかったりとか、物資の、まあ、取り合いじゃないんですけど、問題とかそういうのがあったんですけれども、みなし仮設ならではの、また別のなんか、大変だったことってありましたか?
ああ。俺は、おれは、ですけどね。あのー、今まで集団生活したじゃない。2か月という、ねえ、体育館の中でさ。そいつがアパートに行って、果たして、なんちゅうか、暮らしていけんのかなという不安はありましたね。うん。あそこにいれば、黙ってご飯食べれてね、ところが、アパート代払って、仕事もそんなにしないで、このまんま食っていけんのかなっていう不安はありました。うん。あれ、それで良いのかな(笑)。うん。


どういう町になってほしいか

Q:どういう町にしたいという、なにかこう、なんかありますか?
うーん。どうだろうね。落ち着きたいね、早くね。うん。あの、こういうふうに、こういう、全部、新しい家(うち)にならないでほしいな。全部新しくなっちゃうんですけど、うん、なに、俺、何がよかったっていうと、適当だったんです。新しい家も古い家も。全部あって。うーん、落ち着いたんですけど。こう、全部新しいと、落ち着かない。うん。
実は、ああ、名取市内にも結構昔できた団地、ってあるじゃないですか。そういうとこって40年くらい経つと、一気に、一気に寂れて、一気に子供たちも一気にいなくなる・・・なってるんですよ、要は分かりますかね、こういう町って、こう30代40代の人がガーンと土地買って、住んで、で、そういう人たちが子供産んで、一気にいなくなって、終わり・・・な町が多いんですよ。
ところが、閖上っちゅう町は、うーん、ぐっちゃぐちゃ、だったから、まあそれなりに過疎化してたんだけど、こう、若い人が戻ってきたりとか、こう、そんなの繰り返してたから、こう、一気にある年代から、40年後たっても、そのまんまみたいな、ちょっとずつは高齢化してますよ、日本全部が高齢化なんだから。ただ、新しい町って一気じゃないですか、40年後経てば、家も全部古くなってて、住んでる人も、うーん、30代が70になってて、子供たちは全員いなくなってとか、そうはならないでほしいなあ。うん。ただ、過疎化はしてたのよ。うん。子供たちは、一クラス、一クラス例えば、40人守れなかった、それぐらいは過疎化してました。正直ね。ただ、そういう町だったのにも関わらず、若い人たちが西に行きたいって言ってんのにね、あっちに行こうとしてる計画じゃないですか、そうすっと、戻る人どれだけいんのって。子育て世代がね。それが心配です。


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